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海にいく
2026/03/04
海に行くことを提案したのは、ゆいかちゃんの方だった。今日は本当は学校があるけれど、私は彼女の提案に賛同した。
ゆいかちゃんは|私《あたし》の友達だ。膝くらいまである黒髪が特徴的で、舌足らずな口調がかわいい子。中学生になったばかりの頃、移動教室で迷っていたゆいかちゃんに話しかけて、それから5年たった今でも一緒なのだ。仲良くなると、彼女はなにかと私の後をついてまわるようになって、私はそれが愛おしいと感じる。
ゆいかちゃんはバイクも自転車も持っていないし、乗れない。私も同じ感じ。だからバスで行くことにした。バス停に向かいながら携帯で海への行き方を調べると、すぐに答えが出てきて、私はゆいかちゃんの手をひきながら説明した。
海には、20分くらいでついた。平日の昼の海に、人の姿はなかった。バスを降りると塩の匂いがして、ゆいかちゃんはこの匂いが少し嫌いらしい。けれど海は好きなんだと言う。海のどこが好きなの? と訊くと、ゆいかちゃんはいつものニコニコとした笑顔を浮かべた。「昔、おとおさんと行ったの。」ゆいかちゃんは母子家庭だ。
砂浜に足を踏み入れると、フワフワとした感覚になった。制靴越しに砂の不安定さと暑さが伝わってくる。ゆいかちゃんが私と地面に交互に視線をやりながら「なんか、怖いねー。」と言った。彼女の手を握ってやると、不安そうな表情がわかりやすくやわらいだ。
私は水に近付いて行った。ゆいかちゃんが跳ねるようにしてついてくる。そんな歩き方じゃ、靴の中に砂が入って気持ち悪いんじゃない? 私は気になったけれど口にはしなかった。
制靴と靴下をぬいで水に入ると、一瞬の生暖かさを感じた。でもすぐに冷たくなった。砂が足の指の間をすり抜けるのと、私の足に向かってくる波が、なんだかくすぐったい。私はスカートを手でまとめながらゆっくりと深い方に歩いて行った。ゆっくり。ゆっくり。後ろからゆいかちゃんの声が聞こえた。「まってー。」次いで、じゃばじゃばという水音。振り返ると、彼女の髪の毛が海水に浸っているのが視界に入って、もったいないと思った。
私は振り返ったまま、ゆいかちゃんに微笑みかけた。おいでよと言った。ゆいかちゃんは聞こえているのかいないのか、海の中を歩くだけでせいいっぱい、と言う様子で、足元をじっと見ながらこちらにやってきた。スカートをまとめていた手をほどき、隣に並んだゆいかちゃんの手に伸ばす。握りしめると、ゆいかちゃんはわずかに目を見開いてから、私を見上げてはにかんだ。
私たちはさらに歩いた。水が腰にまで届くほどの深さになった。ゆいかちゃんの髪の毛が海面に浮かび、私の体に時々触れる。
ゆいかちゃんはなにも言わなかった。なにしてるの、なんて言うと思っていたんだけど。ただ、私がゆいかちゃんの方を見て目を細めるだけで、彼女は満足するようだった。だから私もなにも言わなかった。
海は冷たい。海は綺麗。
水が胸の辺りまでやってくるところで、ゆいかちゃんはようやく口を開いた。息苦しそうな、幸せそうな表情で、言葉を放った。私も、圧迫されているような気分の中で、静かに答えた。
ゆいかちゃんはそれからずっと、私の右腕にぴたりとくっついていた。震えているように感じた。あるいはそれは私の方なのかも知れなかった。
海は静か。
ゆいかちゃんが私の後ろを歩くことは、もうなかった。
これほんと好き