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かいじん。
題名:かいじん。
ジャンル:青春
彼とは高校のころに出会ってから、特に親しい付き合いであった。しかし普通な奴かと言われれば僕は首を横に振りたい。彼の大好物はよく油の乗ったカンパチの刺身なのだが、その食べ方というのがかなり奇妙なのだ。
彼は刺身に醤油をかけない。別にそれは好き嫌いの範疇で収まる話なのだが、不思議なことに彼は絶対に歯を使って噛んだりすることはしなかった。《《常に丸呑みだ》》。およそ二口かかるような大きさの刺身でも、彼は絶対に歯を使わない。背中の湿ってくるような気味悪さを覚えながらも、僕はいつも横目ながらにその様子を見ていた。指摘するほどの事でもない、と当時の私は思っていたのかもしれない。
しかし、今一度考えてみれば、それとそれに付随するいくつかのエピソードは幾分おかしいように思えた。
彼は海が好きだった。それも病的なほどに。普通の人間なら海の綺麗さが好きだとか景色が好きだとか、そういう普遍的な理由が多いのだが、彼は違った。彼は《《海の構造そのものが好き》》なのだ。海の中で魚が泳いでいて、海底に砂がある。その状況が彼にとってたまらないらしい。だからなのか、二人で海へ行く時があると、決まって彼はペットボトルで海水を採っていた。
一人暮らし中の彼の家でアサリ鍋を御馳走してもらう機会があった。僕は彼を変わった奴という認識でいたのだが、彼の作る料理に興味が持ったので嫌な高揚を覚えながらも一度食べてみることにした。不思議な奴だけど料理はもしかしたら。何かを望んでいたのかもしれない。
僕が彼の部屋に入るなり、潮風の匂いが鼻につんと来た。彼は台所からアサリ鍋を持ってきて丸机に置いた。そのアサリ鍋は、見た目は特に問題は無かったのだが、アサリの身を口に入れて噛んでみるなり、がりっと音がして僕はそれを吐き出した。吐き出した後も僕の口の中の不快感は収まらず、舌で不快感の正体を探ってみると大量の小さい粒が口の中に残っていることに気づいた。
小さい粒の正体は**砂**だった。まさか砂抜きをしていないのか。普通、アサリは砂抜きをしないとまともに食べることはできない。僕は口を抑えながら彼をちらっと見た。彼はこのアサリにどういう反応をするのかと、ちょっとした悪戯心である。しかし、僕の予想に反して、彼は構わず意気揚々にアサリ鍋を殻ごと頬張っていた。ごくっと飲み込み、彼は又、おたまでアサリ鍋をよそう。
その時、僕の中で彼への認識が揺れ動いた気がした。
僕は彼を刺激しないように言った。
「なあ、このアサリ、大丈夫なのか?」
彼は箸を置いて、舌で口の周りを舐めとった。
「うん、どうした?」
「めちゃくちゃアサリに砂が入ってるんだよ。ちゃんと砂抜いた?」
僕の話す間に水の入ったグラスを一気に飲み干した彼は可笑しそうに答える。
「**砂、飲まないの?**」
「は?」
その時、僕の中で彼の認識が怪物へと移り変わった。全身の神経が逆立ち、彼から一歩でも離れたいと強く願った。これほどまでのおぞましさを僕は人生で覚えたこともなく不気味を遥かに超えて、もしや世界中のおぞましさが集まったものが彼だと思った。
僕は全身が麻痺した感覚に陥りかけたが、彼は「あ、そっか」と手を叩き、言った。
「お前、砂飲めないんだな!」
「当たり前だろ」とは思っても、僕は口には出せなかった。
「悪い、帰る」
僕はおもむろに立ち上がって玄関に向かう。ドアノブを開こうとする僕を、彼は引き留めようとしたみたいだが__。
「おい、せめて水だけでも飲んでけって! 近くの海で採ってきた新鮮な水なんだぜ!」
彼は意地悪く勧めてきたものの、僕を止める理由には一切ならなかった。焦ってドアを開こうとする。その時だった。彼は声のトーンを一段階低くして、まるで告白をするかのように喋り出した。
僕は思わず足を止める。隙間から差し込んだ日の光が玄関の上に乗っていた水槽をきらびやかに照らしていた。
「そこの水槽見てくれよ。一か月前まではそこに三匹のメダカが暮らしていたんだ。じゃあ、今はどこにいるんだろうなぁ。分かるか?」
僕は何も答えなかった。背後にいる怪物を刺激させたくなかったからだ。それでも僕は横目で水槽を見た。やはり、どこか気になる気持ちが僕の中で見え隠れしていたのかもしれない。
水槽の水はよく透き通っていた。底に石が敷き詰められており水草もよく躍っている。しかし、彼のいう通り、不自然にメダカだけがいなかった。
しばらく沈黙が続くと、彼は子供を喜ばすピエロのような甲高い声で言った。
「正解は、《《俺の海》》! 三匹のメダカたちはな、《《俺の海》》にいるんだ!」
ここまでくると、僕は恐怖というより興味が勝っていた。彼は丸机のそばであぐらをかいたまま動かないので、このまま彼の言い分を聞いてみてもいいのかもしれないと思った。
興味津々な僕は、一番の疑問を彼にぶつけた。
「その《《俺の海》》っての、一体どこなんだよ?」
「あー、そういえば話してなかったな」と彼は丸机に頬杖をつく。
「まずな、俺が海を心の底から好きだということは流石のお前も知ってるだろ? 海はな、この世の何よりも美しいんだ。始めに水があって、途中に魚があって、最後に砂で終わる。こんなに美しいものが他にあるか? これは例えなんだが、人間ってのは自分の好きな物を近くに置いておきたい習性があるだろ。それこそ推し活が最たる例だ。それじゃあ、《《俺が一番近くに置いておきたいもの》》は何か分かるよな?」
僕は表情を変えず「海か」と呟いた。彼は僕の返答にニヤリと笑い返した。
「そうそう、だからな、俺は胃に海を造ることにしたんだよ! 今は平気だけどさ、前は大変だったんだぜ。今まで海水なんて飲んだことなかったしな。でもな、悪いことだけじゃないんだよ。おかげで胃が変な方向に進化しちゃったんだぜ!」
喜ばしそうに体を揺らす彼。ちゃぷんちゃぷんと波同士が交わる音がし、辺りに潮風が漂った。僕はこの頃になると彼への認識を改めていたと思う。これほど海を愛するがために体を張る彼を、もはや人間や怪物を優に超えた|**海人**《かいじん》だと思った。
「もういいよ、じゃあな」
僕は半ば呆れた様子でドアノブを開けた。地面に片足を差し出そうとする直前、思い出して振り返る。
「そういえば明日、海人の誕生日だよな?」
思わず口に出してしまった海人というあだ名に、彼は少し戸惑った。
「確かに誕生日だけどさぁ、なんだよ、海人って?」
「あぁ、あだ名だよ、あだ名。それでさ、なんか欲しいのとかある?」
彼は少し悩んだ後に言った。
「アカエイの赤ちゃん」
「まさか、食べるの?」
僕は悪戯っぽく言ってみた。
「いや、住まわせるんだよ。俺の海に」
「はいはい、なるほどね」
僕はドアノブを開くと、身を乗り出しながら心地よく歩いた。心地よい潮風の匂いが僕の髪を靡かせる。ようやく自宅に到着してドアノブに手を掛けた。
この際、僕は一瞬だけだが、彼の海を想像した。始めに水、ペットボトルの海水。途中に魚、丸呑みした刺身。最後に砂、アサリに付いた砂。これらが僕の頭の中で際限なく駆け巡って、ようやくたどり着いた結果が僕の口から呟かれた。
「あいつの胃、どうなってんの?」
**明日は海の日、|あいつ《海人》の誕生日だ。**