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新訳白雪姫
「……子供が欲しい」
ほとんど無意識の内にこぼれた言葉に、私はハッと身を固くする。
刺繍をする手から針が滑り落ち、軽い音を立てた。
一国の王妃ともあろう者が、なんと浅ましく率直な言葉を口にしてしまったものだろう。
思わずきょろきょろと辺りを見回したが、誰一人として見えないことにほっと胸を撫で下ろした。
装飾に技の光る窓。その窓に手をかけて開け放った。
窓の外を眺めると、ナラの木が葉を散らしている。
もう残りの葉も少ない。
私の名と同じ、ナラの木。
『シェーヌ様』
そう言ってお菓子をくれた人のことを思い出した。
もう祖国に置いてきたはずのもの。
なんと不誠実な妻だろうか、と嘆息する。
私はもう人の、しかも一国の王の正妃で、あの人は同盟国の一国民だというのに。
私はそう思いながら、床に落ちた針を拾い上げた。
靴がカツンと音を立てる。
──せめて、陛下が私にかまって下さったなら……
そんな子供っぽいことを考えてしまう、自らの愚かさにほとほと呆れる。
私と、陛下──現国王の結婚は、ありふれた国同士の政略結婚だった。
と言っても、元から仲の良い同盟国同士。
此方の国の方々から陰湿な嫌がらせがあるわけでもない、ただただ普通の、良好な縁組だったはずなのだ。
けれどもそれは、結婚の義の夜に崩れた。
『……陛、下?』
『……疲れた。寝る。其方も休むが良い』
陛下は私に、指一本たりとも触れなかった。
翌朝にあったのは、真っ白なシーツと崩れのない寝台。
私達の間には、“何も無し”だった。
そんな関係が早一年。
陛下はもう寝室に現れることもなくなり、独寝の夜が続いた。
けれど、そんなある日。
祖国から便りが届いたのだ。
封筒に入ったお母様からの手紙、妹、おばば様……
そして、あの人。
私にお菓子を差し出しくれ、共にお目付け役に悪戯を仕掛けた人。
『お変わりありませんか? シェーヌ様のことですから、慣れぬ生活に当たり散らしてなどいませんか?』
平民の出とは思えぬほど、美しい筆跡に込められた暖かな思いは、孤独な私に涙を催させるには充分だった。
文に貼り付けられた押し花。
遠い昔に、私があの人に摘んでみせた花だった。
なんて懐かしいのだろう、とみた時には笑いが溢れたものだ。
けれど、その続きの言葉を読んでその笑いは凍りついた。
『私も、結婚することとなりました。相手は近衛騎士団の出世頭の方です。あなた様もよく知っておられる方でしょう。この花は彼がくれたものです──』
もう、あの頃の私たちはいないのだと、悟った。
彼女の中で、あれは遠い思い出になっているのだと、知った。
一輪の花は、彼女の中で、夫を表す、幸せな花になったのだ。
子供時代を表す、拙い思いの花ではないのだと。
彼女が遊び相手を務めていた、幼い王女の心はとうに、どこかへ置いていかれたのだ。
なんて、愚かだろう。
私だけが、大人になりきれていなかったのだ。
大きい子供だったのだ。
そう思うと同時に、心に決めた。
彼女は、私の過去。
私は、国のために子を産むのだ──と。
……けれども、私と陛下の間には“何も無し”が横たわったままだ。
公妾もいないようなので、女性というものに食指が動かないのかもしれない。
だけど、私は子が欲しい。
そして証明するのだ。
私は子供ではない。
一人の母、国の母。
一人の“大人”なのだから。
「──痛ッ」
感情の昂りとともに、手に力が籠ったのだろう。
強く握られた針が、布を突き抜けて左手に刺さった。
突かれたところから、ぷっくりと紅い血が伝う。
深く刺さったのだろう。
血は、つうと指を辿って床へぽたりと落ちた。
真っ白な床に落ちた、真っ赤な一滴。
ああ、なんて──
──美しい。
願わくばこんな子が欲しい。
真っ白で透き通るような肌に、真っ赤な唇の、幼子が欲しい。
髪色は、たとえば黒檀のような。
そうだ。
真っ白な肌に、真っ赤な唇と頬、真っ黒な髪の子が良い。
全て、その色において一番濃く、一番美しい色でできた子供。
そんな完璧な存在が生まれたとなれば、誰もが私を国母として認めるだろう。
美しい王子、王女を産んだ、愛すべき国の妻、母だと。
そこまで思って、私ははたと思い至った。
どのように陛下を誘おうか。
艶かしい格好をする? 否、駄目だ。
もっと確実な、何か……
その時、そばのテーブルを見て、頭に光るものがあった。
「酒……」
陛下はいつも寝酒を楽しんでいた。
一杯だけ。
その一杯に、混ぜ物をしたら?
催淫剤のような、媚薬のような。
その状態で惑わせば、どんな男だって堕ちるに決まっている。
「っふふ」
小さな笑いが耳に届いた。
その軽やかな声が私のものだと、理解するまで数秒の時間を要した。
まるで、良い計画を思いついた少女のような笑い声。
私は刺繍道具を手にしたまま、微かな笑い声を立て続けていた。
誰もいないことに、ここまで安堵したことはこれまでなかっただろう。
視界に入った窓の外には、はらりと雪が舞い落ちていた。
---
「お母様……」
小さく聞こえた女子の声に、私はゆっくりと体を起こす。
天蓋から垂れ下がったビロードをそっと退けて声の主を招き入れた。
「なんでしょう。白雪」
そう静かに名を呼ぶと、白雪はぱあっと顔を輝かせて此方へ駆け寄ってきた。
ふわりと、スカートを揺らしながらやってくる彼女を、埃が舞いますよ、と軽く嗜める。
「お母様、今日は調子が良いのですね!」
寝台の上に手を乗せてパタパタと足を鳴らす少女は、いかにも子供と言った様子だ。
雪の如き白肌。
血の如き頬と唇。
黒檀の如き髪。
思い描いた色彩と全く同じに生まれた少女の姿に、私は僅かに唇を曲げた。
結果から言えば、私のあの計画は成功した。
たった一度。
されど一度。
その一度きりが成功したのは、本当に奇跡だろう。
そのおかげで、私は美しい王女の母、正真正銘の国の母として玉座の隣に座っている。
王からは徹底的に避けられるようになったが、些細なことだ。
私には“この子”さえいればそれで良い。
そう思っていたけれど──
「っ……ゴホッ、ケホ……ぅ」
「お、お母様!?」
胸から詰まるような違和感が迫り上がって、咳をやっとのことで吐き出す。
私は、少し前から病に臥せっていた。
長くはないだろう。
医師の反応から見て決まっている。
そんな私の姿を慮るように、白雪が私の手を握って覗き込んだ。
ああ、いやだ。
その鏡のような瞳を見るたびに、私は恐怖を感じるのだ。
まあるく大きな、青い瞳。
まるで、私のような。
こんな姿を見ていると、お前はいつまでも子供なのだと後ろ指を刺されているような気分になってくる。
確かにそうだった。
私は、いつまでも子供のままだ。
孤独が寂しいと過去に縋り、過去に見放されたと判れば未来へと縋る。
何かに寄りかかっていなくては、生きてゆけないのだ。
一本立派に立っているナラの木には、到底なり得ない。
けれど、この小さな手を振り払って仕舞えば、私は唯一の証明である“国の母”を失う。
そのためには、私はいつまでも、この子の良き母親でいなければ。
「さあ、白雪。母に其方の一日を教えておくれ?」
横になりながらそう優しく問いかけてみれば、あなたは花のように破顔するのだ。
その花を見るたびに、私は棘で刺されていく。
私の足元の白い床は、もう真っ赤に染まっていることだろう。
白も黒もないほどに、赤く。
汚れてしまったものだ、と思う。
けれど、それを掃除してくれる人はもういないから。
白雪の囀りのような声を聞きながら目をやった窓の外は、冷たい空気が流れていた。
さあ、また、冬が来る。
---
ふと、目が覚めた。
ビロードの隙間から、外の様子を覗き見る。
彫刻の施された美しい柱、窓枠。
その窓の外は暗い。
雪が降っているのか、いないのか。それすらもわからないほどに黒い。
私は水差しの水を飲もうと、サイドテーブルに手を伸ばした。
「あっ」
伸ばした手が震え、そばのグラスに当たる。
予想外の強い衝撃に耐えられなかった其れは、テーブルから押し出されると紅い豪奢な絨毯の上に欠片を散らせた。
咄嗟に手を引っ込める。
コップは絨毯に僅かな染みを作った。
ガラスに光が乱反射し、まるで新雪のように光っていた。
「ッゴホ──かはっ……っ、ぅあ」
胸から中身が逆流するような感覚を覚えて手を口元に当てる。
空気ではない感触を手に感じ、ふっと意識が遠のいた気がした。
小さく小さく体を丸める。
「……だれ、か……」
そう言って伸ばした手は布団から這い出ることなく、力尽きた。
もう世界が遠い。
覚悟していたことだ。
わかっていたことだろう。
其れでも──
(寂しい)
その言葉は空気となって、溶けて消えた。
その空気に続くものはもう、その唇からは吐かれなかった。
眠り姫です。
いやあ、眠り姫が白雪姫書くって、どんな冗談ですかね。
たった数行しか出てこない、美しい白雪姫を産んだ王妃様を勝手に捏造しました。
だってさ!
国王再婚早くない!?
愛なかったんじゃない!?
継母とは恋愛結婚だった、とかだと良くない!?
ってノリから生まれました。
……え、Xの喜劇? ……ええと書いてる途中なんです、はい。うん。
頑張ってます、よ。
では、ここまで読んでくれたあなたに、心からの祝福を!