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【第1話:神隠しの記憶】
「おーい、ミコト! 手を動かしな、客が来るよ!」
鋭い声に弾かれたように、私は手元の雑巾を動かした。
「わかってるって、リン! うちは看板娘やで? 準備運動も芸のうちや」
油屋の長い回廊。赤い欄干に手をかけ、私は眼下に広がる海を眺める。
かつて、私はどこにいたんだっけ。
天岩戸の前で、八百万の神々を熱狂させたあの夜。朱色の髪を振り乱して舞い踊り、世界に光を取り戻したあの高貴な記憶。
……けれど、今の私は「ミコト」。
湯婆婆に名前を奪われ、この油屋で働く、ただの「お座敷盛り上げ特化型」の湯女だ。
「……ま、ええわ。どこにいようと、うちが踊ればそこが祭や!」
私はパンッと自分の頬を叩き、気合を入れる。
朱色の髪を高く結い上げ、鏡に向かって不敵に笑う。橙色の瞳に、油屋の提灯の光が宿る。
「さあさあ、皆の衆! 今夜もオールしまっか!」
私の掛け声と共に、油屋の夜が動き出す。
巨大な神々が船から降り立ち、八百万の気配が建物全体を震わせる。
私は階段を駆け下り、宴会場へと飛び込んだ。
「いらっしゃいませーっ! 疲れも悩みも、うちの舞で洗い流したるえ!」
太鼓のリズムに合わせて、私はしなやかに、そして激しくステップを踏む。
神々が歓声を上げ、ススワタリたちがリズムを取る。
この場所は嫌いじゃない。働くことは、生きることだ。
けれど、心のどこかが、ずっと何かに飢えていた。
「(……うちを、本当の場所に導いてくれる神様なんて、おらへんのかなぁ)」
ふと、舞の合間に夜空を見上げた。
神隠しの迷路に迷い込んで、どれくらいの月日が流れただろう。
この時の私は、まだ知らない。
今夜、あの赤い橋を渡ってやってくる「巨大な影」が、私の運命を、そして私の「終着点」を、力強く引き寄せることになるなんて。
「……あれ? リン、あのお客さん……えらいデカない?」
宴の喧騒の向こう。
暖簾をくぐって現れた、岩のような体躯の男神に目が釘付けになった。
私の、本当の恋が。
ここから、音を立てて動き出そうとしていた。
🔚