「さあさあ、オールしまっか! 疲れも悩みも、うちの舞で吹き飛ばしたるえ!」
八百万の神々が集う湯屋『油屋』。
そこには、かつて天岩戸の前で八百万を熱狂させた芸能の女神――天宇受売命(あめのうずめのみこと)がいた。
名を奪われ、看板娘「ミコト」として、朱色の髪をなびかせ華やかに舞い踊る日々。
親友のリンや後輩の千尋に囲まれ、賑やかに過ごす彼女の前に、ある夜、圧倒的な神気を纏った巨大な影が現れる。
それは、神々を導く先駆の男神――猿田彦(さるたひこ)。
無口で無骨、けれどあまりにも優しい眼差しを向ける彼に、ミコトは人生最大(神生最大)の「一目惚れ」をしてしまう。
「……あかん、心臓止まるわ! なんだよあの男前、反則やろ!」
お座敷でのカリスマっぷりはどこへやら、彼の前では初心な乙女に逆戻り。
耳元で囁かれる真の名、サバの味噌煮を巡る献立バトル、そして――神界の自宅で開いてしまった「夜の扉」。
これは、賑やかすぎる女神と、独占欲の強い男神が、
「神隠し」の終わりに見つけた、永遠の愛の物語。
「……圧かけても知らへんからね! 彦さん、ちゃんと言葉で言うてよ!」
「……一日一回だと言っただろう。……全く、賑やかな妻だ」
八割のタメ口と、二割の敬愛。
今日も神界には、ミコトの照れ隠しの怒鳴り声と、旦那様の満足げな溜息が響き渡る。
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目次
【瑞穂の国・神事帳(しんじちょう)】
【|天宇受売命《あめのうずめのみこと》/ 通称:ミコト】
立場: 油屋の「お座敷盛り上げ特化型」看板娘 → 神界の奥様。
外見: 朱色の長い髪(提灯に映える)、橙色の瞳。踊り出すとしなやかで神々しい。
性格: 超・陽気でカリスマ。身内にはサバサバした姉御肌だが、惚れた男の前では「えぇえ!」とパニックを起こす初心な乙女。
特技: 宴会のコール&レスポンス、畳を叩きながらの献立ツッコミ、サバの味噌煮。
口癖: 「さあさあ、オールしまっか!」「なんだよ!」「知らへんからね!」
【|猿田彦《さるたひこ》】
立場: 八百万の神々を導く先駆の男神 → ミコトの旦那様。
外見: 圧倒的な体躯、岩のような胸板、鋭くも深い黄金色の瞳。
性格: 寡黙、無骨、超・不器用。独占欲が強く、ミコトを愛でるのが日課。
弱点: ミコトの作る「サバの味噌煮」。彼女の「なんだよ!」という怒鳴り声(実は心地よい)。
決め台詞: 「……愛している。一日一回だ」「……サバの味噌煮はどうした」「……グッジョブ(無言の親指)」。
【リン(同期・親友)】
立場: 油屋の湯女。ミコトの最大の理解者であり、ツッコミ役。
性格: 男勝りで面倒見が良い。ミコトの惚気(愚痴)の聞き役で、いつも白目を剥いている。
関係性: ミコトが神界へ行く際は、鼻をすすりながら「せいせいするよ!」と送り出すツンデレ。
【荻野 千尋/ 通称:千】
立場: 油屋の新入り。ミコトが可愛がっている後輩。
性格: 純粋で一生懸命。ミコトの美容への執念や、猿田彦へのパニックを見て「恋の力ってすごい……」と純粋に驚く。
役割: ミコトが現実世界の流行り(パスタや寿司など)を知るための情報源。
【釜爺(相談役)& ススワタリ(ファン)】
立場: 油屋のボイラー室の主たち。
釜爺: ミコトと茶を飲み、猿田彦との仲をニヤニヤしながら見守る。
ススワタリ: ミコトに金平糖を三回じらされるのがもはや「様式美」。ミコトのダンスのバックダンサー。
【第1話:神隠しの記憶】
「おーい、ミコト! 手を動かしな、客が来るよ!」
鋭い声に弾かれたように、私は手元の雑巾を動かした。
「わかってるって、リン! うちは看板娘やで? 準備運動も芸のうちや」
油屋の長い回廊。赤い欄干に手をかけ、私は眼下に広がる海を眺める。
かつて、私はどこにいたんだっけ。
天岩戸の前で、八百万の神々を熱狂させたあの夜。朱色の髪を振り乱して舞い踊り、世界に光を取り戻したあの高貴な記憶。
……けれど、今の私は「ミコト」。
湯婆婆に名前を奪われ、この油屋で働く、ただの「お座敷盛り上げ特化型」の湯女だ。
「……ま、ええわ。どこにいようと、うちが踊ればそこが祭や!」
私はパンッと自分の頬を叩き、気合を入れる。
朱色の髪を高く結い上げ、鏡に向かって不敵に笑う。橙色の瞳に、油屋の提灯の光が宿る。
「さあさあ、皆の衆! 今夜もオールしまっか!」
私の掛け声と共に、油屋の夜が動き出す。
巨大な神々が船から降り立ち、八百万の気配が建物全体を震わせる。
私は階段を駆け下り、宴会場へと飛び込んだ。
「いらっしゃいませーっ! 疲れも悩みも、うちの舞で洗い流したるえ!」
太鼓のリズムに合わせて、私はしなやかに、そして激しくステップを踏む。
神々が歓声を上げ、ススワタリたちがリズムを取る。
この場所は嫌いじゃない。働くことは、生きることだ。
けれど、心のどこかが、ずっと何かに飢えていた。
「(……うちを、本当の場所に導いてくれる神様なんて、おらへんのかなぁ)」
ふと、舞の合間に夜空を見上げた。
神隠しの迷路に迷い込んで、どれくらいの月日が流れただろう。
この時の私は、まだ知らない。
今夜、あの赤い橋を渡ってやってくる「巨大な影」が、私の運命を、そして私の「終着点」を、力強く引き寄せることになるなんて。
「……あれ? リン、あのお客さん……えらいデカない?」
宴の喧騒の向こう。
暖簾をくぐって現れた、岩のような体躯の男神に目が釘付けになった。
私の、本当の恋が。
ここから、音を立てて動き出そうとしていた。
🔚
第2話:衝撃の出会い
「……おい、ミコト! 踊りが止まってるよ! 客に失礼だろう!」
背後からリンの怒鳴り声が飛んできたけれど、今の私には蚊の鳴くような羽音にしか聞こえなかった。
私の橙色の瞳は、宴会場の入り口に立つ「そのお方」に釘付けになっていた。
「……なんや、あの人。……いや、あのお方」
暖簾をくぐって現れたのは、油屋の天井を突き破りそうなほど巨大な体躯の男神だった。
岩のように逞しい胸板。旅の埃を纏った無骨な装束。そして、何よりも目を引くのは、すべてを見透かしそうなほど鋭く、けれど深い黄金色の瞳。
他の神々とは明らかに違う。
圧倒的な「本物の神気」が、宴会場の喧騒を凪のように静めていく。
「……い、いらっしゃい……ませぇ……」
いつもなら「さあさあ、オールしまっか!」と威勢よく飛び出すはずの私の声が、情けないほど震えた。
喉の奥がカラカラに乾き、心臓が油屋のボイラー室みたいにドクドクと熱を帯びる。
「……ふむ。賑やかな宿だな」
地響きのような、重低音。
その声が鼓膜を震わせた瞬間、私の頭の中は真っ白になった。
「あかん。……これ、あかんやつや」
「何があかんだよ!」
痺れを切らしたリンが、私の脇腹を強烈に小突いた。
「ほら、お出迎えだ! 看板娘だろう! あのデカい旦那を、一番良いお座敷へご案内しな!」
「ひぇっ、……う、うちが!? 無理無理無理、死んでまう! あ、神様やから死なへんけど、心臓が爆発してまうわ!」
「何言ってんだよ、さっさと行きな!」
リンに背中をド突き回され、私は千鳥足でそのお方の前へと進み出た。
見上げれば見上げるほど、その存在感に圧倒される。
近くに寄ると、微かに雨上がりの土のような、生命力に満ちた香りがした。
「……あ、あの……。……お、お一人様、……ですか?」
蚊の鳴くような声。
看板娘失格。プロ失格。
でも、彼がゆっくりと視線を私に落とした瞬間、私の世界から音が消えた。
黄金色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「……ああ。……一番良い湯を頼む」
「……は、はいぃっ!!」
私は裏返った声で叫び、そのまま脱兎のごとくボイラー室の方へ駆け出した。
背後でリンが「そっちはお風呂じゃないよ!」と叫んでいるのが聞こえたけれど、もう止まれない。
「……な、なんだよ、あの男前……。……反則やろ、あんな声……」
ボイラー室の隅に蹲り、私は真っ赤になった顔を両手で覆った。
ススワタリたちが「キィ?」と不思議そうに寄ってくる。
「……みんな、見てた? ……うち、もしかしたら、えらいもん見つけてしもたかもしれへん……」
恋の導火線に火がついた。
ターゲットは、あの巨大な「導きの神」。
ミコトの平穏な湯女生活が、今、ガラガラと音を立てて崩れ去った瞬間だった。
🔚
第3話:ボイラー室の尋問
「釜爺! 出して! 今すぐ出して、あの人の情報!!」
バターン! と勢いよくボイラー室の扉を蹴破り、私は叫んだ。
煤にまみれたススワタリたちが驚いて、金平糖を放り出しながら四方八方へ逃げ惑う。
「……なんじゃ、ミコトか。やかましいわい。見ての通り、今は薬湯の準備で手が離せん」
六本の腕を忙しなく動かしながら、釜爺が器用に薬草を刻んでいる。
私はその作業台に身を乗り出し、真っ赤な顔のまま詰め寄った。
「薬草なんか後でええ! さっきのお客さん……あの、山みたいにデカいお方! 誰なん!? 名前は! どこから来たん!?」
「……ああ、あの御方か」
釜爺の手が、ぴたりと止まった。サングラスの奥の目が、少しだけ真面目な光を帯びる。
「ありゃあ、|猿田彦《サルタヒコ》様じゃ。八百万の神々が道に迷わぬよう先頭に立つ、『導きの神』よ。……滅多にこんな俗世の湯屋には来られんお方だがな」
「さるた、ひこ……様……」
その名を口にしただけで、耳の奥が熱くなる。
導きの神。……うちを、この神隠しの迷宮から連れ出してくれる、本物の神様。
「……何じゃ、おめぇさん。まさか、あの御方に『当てられた』のか?」
「あ、当てられたやなんて! 違うわ! ……ただ、ちょっと、タイプやっただけや……っ」
「図星か。……やめておけ。ありゃあ格が違いすぎる。油屋の一湯女が手を出して良いお方じゃねぇよ」
釜爺の言葉が、胸にチクリと刺さる。
わかってる。湯婆婆に名前を奪われた身で、高貴な男神に恋なんて。
……でも、あの黄金色の瞳に射抜かれた瞬間、私の「神としての魂」が震えたのは嘘じゃない。
「……そんなん、知らへんからね! 格がどうとか、関係ないわ!」
私は照れ隠しに、足元に集まってきたススワタリたちに向き直った。
小さな袋から、色とりどりの金平糖を取り出す。
「さあさあ、みんなー! お仕事頑張ったええ子には、これがあるよぉ。金平糖、欲しいかー!」
「キィキィ!」と、ススワタリたちが一斉に跳ね上がる。
「……なーんて、やっぱりあげなぁい!」
サッと袋を隠すと、ススワタリたちは「えーっ!」とばかりにズコッと転がった。
「あはは! 嘘嘘、次はほんまにあげる。……欲しい人ー!」
「キィーッ!」
「……やっぱり、まだあげなぁい!」
「……おいミコト、ススワタリをいじめて八つ当たりするな」
釜爺が呆れたようにため息をついた
「いじめてへん! これは『焦らしの美学』や! ……あかん、焦らされてるのは、うちの方や……」
三回目のお預けをした後、結局バラバラと金平糖をまいてやりながら、私は深くため息をついた。
ボイラー室の窓から見える、夜の海。
そのどこかに、今、あの人がお湯に浸かっている。
「……よし。……もう一回、ちゃんとお座敷で舞うてくるわ」
私は立ち上がり、朱色の髪を強く結び直した。
「看板娘」の意地。……せめて、あの人の記憶に一瞬でも残るような、最高の舞を見せてやる。
「なんだよ、もう……。心臓、うるさいねん……」
私は自分の胸を叩き、再び喧騒の渦へと飛び出していった。
🔚
第4話:一対多の舞
油屋の宴会場は、熱気に包まれていた。
八百万の神々が酒を酌み交わし、笑い声が天井を震わせる。その中心に、私は立っていた。
「さあさあ、皆の衆! 今夜は特別やで! うちの舞、よう見とき!」
朱色の髪を扇子で跳ね上げ、私は畳を蹴った。
太鼓と笛の音が加速する。私は「ミコト」として、この油屋で一番の輝きを放つ瞬間を選んだ。
(……見ててや、猿田彦さん)
心の奥で、こっそりその名を呼ぶ。
上座に鎮座する猿田彦様は、杯を片手に、微動だにせず私を見つめていた。その黄金色の瞳が、私の動きを、指先の一つ一つを、逃さず追っているのがわかる。
「はっ!」
私は激しく、そしてしなやかに舞った。
かつて天岩戸の前で八百万を熱狂させた、あの記憶が全身を駆け巡る。
一対多。大勢の神々を相手に、私は場を支配し、空気を塗り替えていく。
「……おおおっ!」
神々から歓喜の怒号が上がる。私はわざと、彼の目の前でくるりと回り、長い髪の先が彼の頬を掠めるほど近くで足を止めた。
橙色の瞳と、黄金色の瞳が、火花を散らすようにぶつかり合う。
「……ふっ。賑やかな娘だと思っていたが。……見事な舞だ」
地響きのような、重厚な低音。
彼は口角をわずかに上げ、満足げに鼻を鳴らした。
(……笑った。……笑わはった……!!)
一瞬、足元がふわつく。
プロ失格。でも、そんなのどうでもいい。
「一対多」で場を盛り上げていたはずの私が、その瞬間だけは「一対一」の女として、彼に射抜かれていた。
「……あ、……おおきに」
私は精一杯の看板娘スマイルを作ろうとしたが、顔は自身の朱色の髪より真っ赤になっていた。
「……なんだよ、もう。……うちの勝ちやな」
私は逃げるように背を向け、次のステップへと飛び込んだ。
背中に感じる、彼の熱い視線。
それは、これまで受けてきたどの神様の視線よりも重く、優しく、私の魂を焦がしていた。
「……ミコト! 鼻の下伸びてるよ!」
脇を通り過ぎるリンに耳元で囁かれ、私は「うるさいわ!」と畳を叩きながら、さらに激しく舞い続けた。
今夜の舞は、一生忘れられないものになる。
そう確信した、熱い、熱い夜だった。
🔚
第5話:また会える約束
宴の喧騒が遠のき、油屋に深い夜が訪れる。
神々がそれぞれの客室へ引き上げ、あるいは千鳥足で帰路につく中、私は片付けの手を止めて、赤い欄干に身を乗り出していた。
「……帰らはるんかな」
胸の鼓動がまだ鎮まらない。渾身の舞を見せた後、彼――猿田彦様は、満足げに杯を干すと、悠然とお座敷を後にした。
追いかけたい。でも、看板娘が客を追いかけるなんて、湯婆婆に見つかったら何を言われるか。
「……あかん。……やっぱり、一目だけでも」
私は雑巾を放り出し、裸足のまま回廊を駆けた。
朱色の髪が夜風になびく。八百万の気配が渦巻く油屋の中で、彼の放つ圧倒的な神気だけが、私にとっての道標だった。
玄関先。大きな暖簾をくぐり、赤い橋に足を踏み出そうとする後ろ姿を見つけた。
「……あのっ、猿田彦様!」
思わず叫んでいた。
彼は足を止め、ゆっくりと振り返る。月明かりに照らされたその風貌は、昼間よりもずっと神秘的で、近寄りがたいほどの威厳に満ちていた。
「……賑やかな娘。……まだ起きていたのか」
「あ、……はい。……あの、お見送りを、と思いまして……っ」
嘘だ。ただ、もう一度その黄金色の瞳に見つめられたかっただけだ。
私は必死に、いつもの看板娘の余裕を取り戻そうと、顔を上げた。
「……うちの舞、どないでした? ……お口に合いましたか?」
「……フッ。お前は食べ物か」
不意に、彼が低く笑った。
その瞬間、私の心臓が跳ね上がる。
彼は一歩、私の方へ歩み寄った。天井を突くような巨躯が目の前に迫り、私はその影にすっぽりと包み込まれる。
「……見事だった。……久々に、魂が震える舞を見た」
大きな、岩のような掌が、私の頭にぽんと置かれた。
乱暴ではなく、まるで壊れ物を扱うような、あまりにも優しい手つき。
「……ひ、……ひぇっ」
「……お前の瞳は、油屋の提灯よりずっと明るいな」
「……っっっ!!」
顔から火が出る。熱い。耳まで沸騰しそうだ。
言葉を失い、金魚のように口を動かすだけの私を見て、彼は満足げに目を細めた。
「……また来る。……次は、もっと近くで見せてくれ」
「……ま、また……?」
「……ああ。……約束だ、ミコト」
私の偽名を、その低い声でなぞるように呼ばれ、私は崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
彼はそのまま、一度も振り返ることなく、赤い橋を渡って闇の中へと消えていった。
「…………また来る、って。……約束、って言うた……」
私は自分の頭を両手で押さえ、その場にへなへなと座り込んだ。
彼の手の熱が、まだ髪に残っている。
「……なんだよ、もう。……反則やろ、そんなん……っ!」
夜風が火照った頬を撫でる。
数秒前までそこにいた彼の気配が、私の胸の奥に消えない火を灯していた。
「……リン。……千。……うち、やっぱりあのお方の嫁に行くしかないかもしれへん……」
遠くでススワタリが「キィ?」と鳴いた。
ミコトの、長く、そして甘い「恋煩い」が、本当の意味で幕を開けた夜だった。
🔚
第6話:看板娘の恋煩い
「……おはよ、リン。……おはよ、千……」
油屋の朝。湯女たちの雑魚寝部屋で、私は這い出すように体を起こした。
いつもなら「さあ、今日も稼ぐでぇ!」と真っ先に跳ね起きるはずの私が、幽霊のようにふらふらと鏡の前へ向かう。
「ちょっと、ミコト! あんたその顔、どうしたんだい。真っ赤を通り越して、茹で上がってるよ!」
着替えをしていたリンが、私の顔を覗き込んで仰天した。
隣で髪を結っていた千も、目を丸くして駆け寄ってくる。
「ミコトさん、大丈夫ですか!? お、お水持ってきましょうか?」
「……ええよ、千。……水なんかじゃ、この熱は冷めへんわ。……見て、ここ。……ここに、あのお方の手が……っ」
私は、昨夜猿田彦様に触れられた頭のてっぺんを、両手で大事そうに押さえた。
思い出しただけで、耳の奥から「ボフッ」と煙が出そうなほど熱くなる。
「……『また来る』って。……『お前の瞳は提灯より明るい』って。……あかん、うち、もう一生洗わへんわ、この頭!」
「汚いこと言ってんじゃないよ! 看板娘が不潔でどうするんだい!」
リンの鋭いツッコミが飛んできたが、今の私には春のそよ風だ。
私は鏡を凝視し、自分の顔を左右から確認し始めた。
「……あかん、リン! この角度、ちょっと肌荒れてへん? 昨日のイモリの黒焼き、食べすぎたんかなぁ!」
「あんたねぇ、それ以上どこを磨く気だよ。朱色の髪も肌も、神様たちが見惚れるくらいピカピカじゃないか」
「足りへん! 全然足りへんわ! あの黄金色の瞳に見つめられても恥ずかしくないように、もっと、もっと……!」
私は必死に椿油を取り出し、髪を梳かし始めた。一回、二回、三回……。
千が隣で「ミコトさん、十分綺麗ですよ……?」と引き気味にフォローしてくれるが、私の耳には届かない。
「……千、よう見とき。これが『運命』っちゅうやつや。……うち、今日から本気出すわ。……あ、お米の研ぎ汁取っといて! 洗顔に使うから!」
「……ダメだこりゃ。重症だよ」
リンが天を仰いで溜息をつく。
「見てな、千。そのうち髪を輝かせすぎて、油屋の提灯がいらなくなるよ、あいつ」
その日、油屋の回廊を掃除する私の鼻歌は、いつにも増して絶好調だった。
すれ違う神々に「お姉さん、今日は一段と艶やかだね」と声をかけられるたびに、「当たり前やん、恋してるんやから!」と心の中でドヤ顔を決める。
「……待っててや、彦さん。……次会う時は、腰抜かすくらいええ女になって見せたるからね!」
鏡の前での自分磨きは、結局その日一日中、仕事の合間を縫って続けられた。
恋の力は、看板娘の美意識を「異常」なまでの高みへと押し上げていたのだ
🔚
第7話:耳元の残響
「ひゃんっ!?」
油屋の廊下で、私は情けない声を上げて飛び上がった。
ただの風だ。窓から吹き込んだ夜風が、私の耳元をふわりと撫でただけなのに、背筋に電流が走ったような衝撃に襲われた。
「ちょっと、ミコト! あんたさっきから何やってんだい。掃除が進まないじゃないか」
雑巾を片手に、リンが呆れ果てた顔で私を見下ろしている。
私は真っ赤になった耳を押さえ、その場にうずくまった。
「あ、あかんねんリン……。……耳が、耳が熱いねん……っ」
「耳? 蚊にでも刺されたのかい?」
「違うわ! 運命の矢が刺さったんや! ……あの人の声、あの吐息……ここから離れへんねん!」
あの日以来、私の耳は完全に「猿田彦様専用」になってしまった。
誰かに話しかけられるたびに、あるいは自分の髪が耳に触れるたびに、あの低い重低音が脳裏に蘇って、心臓が油屋の釜みたいに沸騰しそうになる。
「……千、よう見とき。これが『重症』っちゅうやつだよ」
リンが隣で掃除をしていた千に、さも気の毒そうに語りかける。
千は「ミコトさん、本当にお風呂に入らなくて大丈夫ですか? ずっと顔が赤いですけど……」と、純粋に心配そうな目で私を見つめていた。
「……大丈夫やない。全然大丈夫やないわ、千。……うち、看板娘失格や。……客引きの最中も、ついあのお方の影を探してまうし……」
「それは元からあんたの得意技だろ。……ほら、シャキッとしな! 湯婆婆が来たら、その赤い耳ごと引きちぎられるよ!」
リンに尻を叩かれ、私は這い上がるように立ち上がった。
「わかってるって! ……仕事は仕事、恋は恋や!」
私は気合を入れ直し、宴会場へと向かった。
しかし、その夜の接客は散々なものだった。
「お姉さん、お酒おかわり!」
「はい、天宇受売命(あめのうずめのみこと)……あ、ちゃう! 酒やね、酒! すぐ持ってきまっさ!」
自分の本名を口走りそうになって、慌てて口を押さえる。
神様たちを転がすはずの「盛り上げ特化型」の余裕はどこへやら。
ふとした瞬間に彼の声を幻聴しては、バッと入り口を振り返り、「……なんや、ただの春日様やった……」と肩を落とす。
「……なんだよ、もう。……うち、こんなに弱かったっけ?」
私は自分の胸を叩き、深呼吸をした。
プロとして、これではいけない。次にあのお方が来た時に、「なんや、この看板娘、キレがなくなっとるな」なんて思われたら末代までの恥だ。
「……よし。……もう一度、耳元を冷やして出直してくる!」
私が氷水を持ってボイラー室へ駆け込もうとした、その時だった。
「……おーい、ミコト! 湯婆婆がお呼びだよ! 『導きの旦那』が二度目のお越しだってさ!」
リンの声が、回廊に響き渡った。
「…………っ!!」
私の耳が、これまでで一番大きく、熱く跳ね上がった。
恋の第二ラウンド。
猿田彦様との、二度目の再会が、すぐそこまで迫っていた。
🔚
第8話:二度目の導き
「……来た。ほんまに来はった……」
油屋の玄関。巨大な暖簾が大きく揺れ、あの山のような体躯が滑り込んできたのを見た瞬間、私の心臓は口から飛び出しそうになった。
「ミコト! 何突っ立ってるんだい、早くお迎えしな!」
番台に座る湯婆婆が、その巨大な頭を揺らして私を睨みつける。彼女の鋭い目は、この「上客」と私の間に漂う妙な空気を、とうに見透かしているようだった。
「……は、はいぃっ!」
私は自身の朱色の髪を強く握りしめ、一歩踏み出した。
数日間の自分磨き、研ぎ汁洗顔、椿油ブラッシング。……全部、この瞬間のためにやってきたんや。
「……いらっしゃいませ。……お待ちしておりました、猿田彦様」
精一杯の看板娘スマイル。でも、声はまだ少し震えている。
彼は立ち止まり、黄金色の瞳でじっと私を見下ろした。その視線が、私の髪、肌、そして真っ赤になった耳をゆっくりとなぞっていく。
「……ふむ。……一段と眩しいな、お前は」
「……っっっ!!」
地響きのような低音。
その一言で、私の数日間の努力は報われ、同時に脳内はショートした。
「……おおきに、……彦さん、……やなくて、猿田彦様!」
「……彦、か。悪くない響きだ」
彼はわずかに口角を上げると、促されるままに特別室へと歩き出した。
その後ろ姿を追いかけようとした私の肩を、湯婆婆の太い指がガシッと掴む。
「いいかい、ミコト。あの御方は導きの神……八百万の先駆者だよ。粗相があったら、あんたを石炭にしてボイラーに放り込むからね!」
「……わ、わかってますって! うちを誰やと思てんの!」
私は湯婆婆の手を振り切り、深呼吸をした。
緊張で足が震えるけれど、それ以上に、彼がまたここに来てくれたという歓喜が勝っていた。
お座敷には、最高級の酒と料理が並べられた。
私は彼の隣に座り、震える手で徳利を傾ける。
「……お口に、合いますか?」
「……ああ。……だが、酒よりも見たいものがある」
彼は酒杯を置き、私を真っ直ぐに見つめた。
「……お前の舞だ。……あれ以来、私の目は他のものを見ようとしなくてな」
「……っ、……な、なんだよ、もう……っ!」
私は照れ隠しに立ち上がり、畳をパシッと叩いた。
「……そこまで言われたら、うち、引くに引けへんやんか! 最高の舞、見せたげるわ!」
太鼓のリズムが鳴り響く。
私は彼一人のために、そして彼を見つめる自分の魂のために、再び舞い始めた。
湯婆婆の監視も、リンの呆れ顔も、すべてが遠のいていく。
この広いお座敷で、私の世界には、黄金色の瞳で見守ってくれる彼一人しかいなかった。
🔚
第9話:黄金色の吐息
舞い終えた後の余韻が、お座敷の空気を熱く湿らせていた。
私は荒い息を整えながら、畳に手をついて頭を下げる。朱色の髪が肩から滑り落ち、火照った頬を撫でた。
「……はぁ、……はぁ。どない、でした……?」
返事の代わりに、畳を沈ませる重い足音が近づいてくる。
見上げれば、いつの間にか立ち上がった猿田彦様が、私の目の前で膝をついていた。天井を突くような巨躯が、私を包み込むような影を作る。
「……見事だ。お前の舞には、偽りの名など似合わぬな」
「え……?」
不意に、大きな掌が私の頬を包み込んだ。
岩のように硬く、けれど驚くほど熱い。私は金縛りに遭ったように、その黄金色の瞳に見つめられたまま動けなくなる。
「……ミコト。お前は、自分が何者か忘れたのか?」
「う、うちは……油屋の看板娘、ミコト……」
「違うな」
彼は低く、地響きのような声で否定した。そのまま顔を寄せ、熱い吐息が私の耳元をかすめる。
「……私の名は、猿田彦。……そして、お前の真の名は――」
心臓が跳ね上がる。
湯婆婆に奪われ、自分でも霧の向こうへ追いやってしまった、高貴な、神としての私の名前。
それを、彼が――八百万の神々を導く男神が、唇を震わせて紡ごうとしている。
「……|天宇受売命《あめのうずめのみこと》」
「っっっ!!!!」
全身に電流が走った。
耳元で囁かれたその響きは、甘く、重く、そしてあまりにも官能的で。
数日間、風が吹くだけで跳ね上がっていた私の「耳」が、今度は彼の声だけで、溶けてしまいそうなほど熱を帯びる。
「……な、……なんで、その名を……」
「忘れるな。お前を導くのは、あの老婆ではない。……私だ」
彼は満足げに、私の頬を親指でひと撫でした。
その所作一つに、逃れられないほどの独占欲が滲んでいる。
「……ひ、ひぇぇ……っ、……なんだよ、もう……っ!」
私は真っ赤になって彼を突き放そうとしたが、力が入らない。
名前を呼ばれただけなのに、魂の奥底まで彼に握られてしまったような、甘美な敗北感。
「……明日も、明後日も、私は来る。……お前が、その名を誇らしく名乗れるようになるまでな」
彼はそう言い残すと、悠然と立ち上がり、部屋を出ていった。
残された私は、畳をバシバシと叩きながら、声にならない叫びを上げるしかなかった。
「……あかん。……あかんわ、これ……。……名前呼ばれただけで、うち……お嫁に行く覚悟できてしもたやんか……!」
お座敷の外では、聞き耳を立てていたリンが「……あの旦那、やり手だねぇ」と呆れ顔で呟いていた。
ミコトの「恋煩い」は、もはや後戻りできない深淵へと、真っ逆さまに落ちていったのである。
🔚
第10話:導き手の猛追
「……また来た。今日も、時間通りや」
油屋の玄関。時計の針が重なるのと同時に、あの山のような体躯が暖簾をくぐった。
一昨日も、昨日も、そして今日も。
『導きの神』様は、その名の通り迷いのない足取りで、私の目の前まで歩いてくる。
「……ミコト。今日は、一段と朱が鮮やかだな」
黄金色の瞳に見つめられ、地響きのような低音で褒められる。
「……っ、……お、おおきに。……彦さん……やなくて、旦那様」
私は真っ赤な顔で頭を下げ、彼を特別室へと案内した。
背中に刺さる、他の湯女たちの羨望と驚きが混じった視線。そして、番台で「……あの御方、いつまで通い詰める気だい」と苦い顔をする湯婆婆の独り言。
彼をお座敷へ届けた後、私は逃げるようにボイラー室の近くの縁側へ駆け込んだ。そこには、休憩中のリンと千が待っていた。
「……聞いたよ。あの旦那、三日連続だってねぇ。あんた、一体どんな魔法をかけたんだい?」
リンが面白そうに、イモリの黒焼きを齧りながらニヤニヤしている。
千も隣で「ミコトさん、本当に凄いです……。あんなに強そうな神様が、ミコトさんに会いに来るなんて」と、目をキラキラさせていた。
「魔法なんかかけてへん! ……ただ、耳元で……名前を、本名を呼ばれただけや……っ!」
私は自分の耳を押さえ、その場に蹲った。
思い出しただけで、心臓が油屋の屋根を突き破りそうなほど跳ね上がる。
「……なぁ、リン、千。……うち、どうしたらええ? ……あの人、本気や。……本気でうちを、どっかへ連れて行こうとしてる気がするんよ」
「いいじゃないか。あんな上等な旦那、油屋を探したって他にいないよ。……あんたも、本当は行きたいんだろ?」
リンの言葉に、私は言葉を詰まらせた。
行きたい。あの人の隣で、偽名ではなく「天宇受売命」として、一生踊っていたい。
……でも、怖い。看板娘の私が、あんなに立派な男神に釣り合うのか。
「……ミコトさん、大丈夫ですよ」
千が、私の手をそっと握った。
「あの方は、ミコトさんが踊っている時、世界で一番幸せそうな顔をしてます。……だから、もっと自信を持ってください!」
「……千……っ」
「ほら、泣いてる暇があったら、次の作戦を練りな! ……あんた、あのお方に何か『逆アタック』でも仕掛けたらどうだい?」
「ぎ、逆アタック!? ……例えば、何よ!」
「……そうさねぇ。……胃袋でも掴んでみたらどうだい?」
リンの何気ない一言が、私の胸にストンと落ちた。
そうだ。お座敷の料理じゃなくて、うちが作ったものを、あの人に食べてもらいたい。
「……よし。……決めた。……うち、明日の彦さんに、特別なもの作ったげる!」
「特別なものって?」
「……サバの味噌煮や!!」
「……はぁ!? 渋すぎだろ!」
リンのツッコミが飛んできたが、私の心は決まっていた。
日本最古の踊り子が、最強の男神を落とすための究極の武器。
「……なんだよ、もう。……待っててや、彦さん。……うちの味で、あんたを完全に虜にしたるからね!」
私は拳を握りしめ、再び戦場(お座敷)へと戻っていった。
恋の第二章――『胃袋争奪戦』が、今まさに幕を開けようとしていた。
🔚
第11話:サバの味噌煮の逆襲
「釜爺! 悪いけど、ここのコンロ一つ貸して!」
私は調理場に駆け込み、大きなサバの切り身をまな板に叩きつけた。ボイラー室の熱気と料理の匂いが混ざり合う中、釜爺が六本の腕を止めて目を丸くする。
「なんじゃミコト、今度は料理か? お座敷の料理なら上のお偉い板前が作るだろうに」
「……あかんねん、それでは。……うちが作ったもんやなきゃ、意味がないんよ!」
私は朱色の髪をきつく結び直し、慣れない手つきで味噌を研ぐ。隣ではススワタリたちが「キィキィ!」と、まるでチアリーダーのように煤まみれの体で跳ねて応援してくれていた。
「さあさあ、みんな! 邪魔せんといてや。これは……彦さんのための、特別製なんやから!」
隠し味は、少しの生姜と、溢れんばかりの私の「恋煩い」。
じっくりと煮込まれたサバから、甘辛い、どこか懐かしい香りが立ち上る。
「……できた。……完璧や。……これなら、あの人も……」
私は重いお盆を抱え、緊張で膝を震わせながら特別室の戸を叩いた。
中では、猿田彦様がいつものように堂々とした体躯で、黄金色の瞳を静かに伏せて座っていた。
「……失礼いたします。……あの、猿田彦様。……今日は、お座敷の料理やなくて……うちが作ったもん、食べてほしくて」
「……お前が?」
彼は少し意外そうに目を細め、差し出された皿を見つめた。
そこには、テリの付いた一切れのサバの味噌煮。高級な神界の料理とは程遠い、あまりにも素朴な一皿。
私は固唾を飲んで見守る。もし「口に合わぬ」と言われたら、私はその場で油屋の海に身を投げる覚悟だった。
彼は箸を取り、ゆっくりと一口、口に運んだ。
咀嚼する音が、私の心臓の音より大きく聞こえる。
「…………」
「……ど、……どない、ですか?」
沈黙が続く。彼は箸を置き、ゆっくりと私に向き直った。
その瞬間、彼は無言のまま、大きな親指を私に向けて力強く突き出した。
「……!!」
「……見事だ。……これまで食べたどの供物よりも、私の魂を温める味がする」
「……っ、……ひぇっ、……あ、おおきに……っ!」
「……ミコト。……お前はやはり、私の元に来るべきだ。……この味を、一生私の隣で……」
「……なんだよ、もう……っ! 味がどうとか言う前に、そんな殺し文句言うなんて……反則やろ!!」
私は真っ赤になって畳をバシバシと叩いた。
彼はそんな私の騒々しさを、愛おしそうにふっと笑って受け止める。
お座敷の外では、聞き耳を立てていたリンが「……サバの味噌煮一欠片で落とされるなんて、あの旦那も大概だねぇ」と呆れ顔で呟き、千は「ミコトさん、やりましたね!」と小さくガッツポーズをしていた。
胃袋争奪戦、完全勝利。
だが、その勝利の代償は、私自身の心がこれ以上ないほど彼に囚われてしまうことだった。
🔚
第12話:赤い橋の上の導き
「……美味かったぞ、ミコト」
お座敷の片付けを終えた私を、彼は油屋の外、赤い橋の上で待っていた。
夜霧が立ち込める中、街灯の光に照らされた彼の背中は、いつにも増して大きく、そしてどこか孤独を孕んでいるように見えた。
「……あ、おおきに。彦さんにそう言うてもらえるなら、一生サバ炊き続けてもええわ」
私は冗談めかして笑ったが、彼は振り返らず、じっと海を見つめたままだった。
「……お前は、いつまでここにいるつもりだ。この、偽りの名のまま、湯を運び続けるのか」
「え……?」
心臓がちくりと痛む。
油屋の生活は、忙しくて、騒がしくて、温かい。リンも千も、釜爺もいる。
でも、心のどこかでは知っていた。私は「ミコト」としてここにい続けてはいけない。
「……うちは、……天宇受売命や。……でも、名前を奪われたうちは、どこへも行けへんのや……っ」
「……ならば、私が導こう」
彼はゆっくりと私に向き直った。黄金色の瞳が、月明かりよりも強く私を射抜く。
彼は大きな、岩のような掌を私に差し出した。
「……ミコト。いや、天宇受売命。……お前を、本来あるべき場所へ連れて行く。……私と共に、神界へ帰らぬか」
「……っっっ!!」
頭の中が真っ白になる。
プロポーズ。いや、それは神としての「契約」であり、一人の男としての「求婚」だった。
私は差し出されたその手を見つめ、震える指先を重ねようとして――ふと、油屋の灯りを見上げた。
「……でも、リンや千、みんなを置いて……」
「……お前が一番輝くのは、湯屋の廊下ではない。……私の隣で、神々の真の宴のために舞うことだ。……それこそが、お前の『終着点』ではないのか」
彼の低い声が、私の魂の奥底まで響き渡る。
「……なんだよ、もう。……そんなん言われたら、断れるわけないやんか……っ」
私は涙を堪え、彼の大きな掌に自分の手を重ねた。
その瞬間、彼の手から熱い力が流れ込み、湯婆婆に奪われていた自分の本名が、全身の血を巡るように蘇っていく。
「……行くわ。……あんたと一緒なら、どこへでも。……彦さん、うちを……導いてよ」
「……ああ。……二度と、その手を離さぬ」
彼は満足げに、私の手を強く握りしめた。
赤い橋の上、神隠しの迷宮から抜け出すための、最後の「導き」が始まった。
🔚
第13話:湯婆婆の執着、導き手の威圧
「冗談じゃないよ! あんたみたいな稼ぎ頭を、どこの馬の骨とも知れない神様にホイホイ渡せるもんかい!」
油屋の最上階。湯婆婆の怒鳴り声が、豪華なシャンデリアをガタガタと揺らした。
彼女の巨大な顔が私の鼻先まで迫り、鋭い爪が机を叩く。
「ミコト! あんたはアタシと契約したんだ。一生ここで踊って、客を呼び込み、アタシを儲けさせる。それが決まりだよ!」
「……決まりやなんて、勝手なこと言わんといて! うちは、……うちはもう、ミコトやない!」
私は震える脚を踏みしめ、懐に隠していた自分の「真の名」を心の中で反芻した。
でも、湯婆婆の魔力は凄まじい。彼女に睨まれるだけで、喉の奥がヒリついて、名前を口に出すことすら躊躇われる。
「フン、誰が連れ出そうっていうんだい。あんな図体ばかりデカい男神、アタシの魔法で……」
ドォォォォォン!!
その瞬間、油屋全体が地震のような轟音と共に大きく揺れた。
窓ガラスがビリビリと震え、湯婆婆の背後にある金塊の山が崩れ落ちる。
「……何の騒ぎだい!?」
湯婆婆が慌てて窓を開けると、そこには赤い橋の向こう側、油屋を見下ろすように立つ猿田彦様の姿があった。
いつもの穏やかな「お座敷」の顔ではない。八百万を導く先駆者としての、荒ぶる神の気が油屋を包み込んでいる。
「……湯婆婆。その娘を、解放しろ。……私の導きを邪魔する者は、たとえ誰であろうと容赦はせん」
地響きのような、重厚な低音。
その圧倒的な「圧」に、あの強欲な湯婆婆ですら一瞬、言葉を失って後退りした。
「……さ、猿田彦様……っ。あ、あんた、そこまでして……」
私は窓辺へ駆け寄り、夜風に吹かれながら彼を見下ろした。
彼は私に気づくと、黄金色の瞳をわずかに和らげ、いつものように力強く「グッジョブ(親指)」を突き出した。
「……彦さん……っ!」
「……ミコト。いや、天宇受売命。……来い。お前の契約書(なまえ)は、私が既に書き換えた」
「……はぁ!? いつそんなことしたんよ!」
私は自分の胸元から、透き通るような光を放つ新しい契約書……いや、神界への招待状が溢れ出すのを見た。
湯婆婆の魔法を、彼の「導きの力」が上書きしてしまったのだ。
「……なんだよ、もう。……勝手に決めんといて……。……でも、……おおきに!!」
私は湯婆婆に最後のアッカンベーを食らわせると、窓からそのまま彼の待つ赤い橋へと飛び降りた。
背後で「アタシの看板娘がぁー!!」という湯婆婆の悲鳴が聞こえたが、もう関係ない。
私の体は、ふわりと大きな、岩のような腕の中に受け止められた。
「……遅いぞ、ミコト。……サバの味噌煮が冷めてしまう」
「……こんな時に食べ物の心配!? ……なんだよ、もう! ……大好きやわ、ほんま!!」
私は彼の首にしがみつき、油屋の灯りを背に、ついに自由の空へと舞い上がった。
第14話:神界の門、新生活の始まり
「……ひ、……えぇえええーっ!!」
猿田彦様の巨大な腕に抱かれ、雲を切って辿り着いた先。
私の目の前に広がっていたのは、油屋の最上階がかすんで見えるほど豪華絢爛な、白木造りの巨大な神邸だった。
「な、……なんなん、ここ! 彦さん、あんたこんなエグいとこに住んでたん!?」
「……私の屋敷だ。今日からは、お前の家でもある」
彼は平然と言い放ち、私をふわりと縁側に下ろした。
足元には、塵一つ落ちていない磨き上げられた廊下。見上げれば、神界の清浄な空気が満ち、庭には見たこともない黄金の果実が実っている。
「……掃除……。ここ、雑巾がけ何人必要なんよ……。リンもおらんし、千もおらんのに……」
私は看板娘……いや、元・湯女としての職業病で、反射的に腰のあたりをさすった。
すると、猿田彦様は私の背後に立ち、その大きな掌を私の肩に置いた。
「……掃除など、下のもんに任せればよい。……お前の仕事は、ここで笑い、舞い、……そして私の隣にいることだ」
「……っ、……またそんな、殺し文句言うて……っ!」
私は真っ赤になって彼を小突いた。
「……なんだよ、もう。……うち、そんな高貴な奥様になれる自信ないわ。……とりあえず、台所どこ!? サバの味噌煮作らんと、落ち着かへんわ!」
「……フッ。お前らしいな。……あちらだ」
彼に案内された台所も、これまた広大で清潔そのものだった。
私はようやく、自分の居場所を見つけたような気がして、エプロン(神界仕様の高級品)をきゅっと結び直した。
「……よし。……彦さん、よう見ときや。……うちがここを、世界一賑やかな家に変えたるからね!」
「……ああ。期待している」
彼は満足げに、いつものように力強く「グッジョブ(親指)」を突き出した。
油屋の喧騒とは違う、穏やかで、けれど熱い新生活。
だが、夜の帳が下りるにつれ、私の心臓は再び油屋のボイラー室のように暴れ始めた。
「……あ、あの、彦さん。……寝るとこ、……どこ? ……まさか、一緒……?」
「……当然だろう。夫婦なのだから」
「……ひ、……えぇえええええーっ!!」
神界の静寂を切り裂く、私の絶叫。
ミコトの「新婚生活」は、穏やかなスタートとは程遠い、パニックの連続になりそうだった。
第15話:不器用な夜の導き
「……ひ、……えぇえええええーっ!!」
神界の静寂を切り裂く私の絶叫が、高い天井に反響して戻ってくる。目の前に広がるのは、最高級の絹で仕立てられた、雪のように白い寝具。そしてその横には、当然のように羽織を脱ぎ捨てた猿田彦様が座っていた。
「……何を騒いでいる。寝る場所など、一つしかないだろう」
「一つしかないとか、そういう問題やないわ! 油屋では雑魚寝やったし、リンも千もおったのに……。こんな、彦さんと二人きりなんて……っ」
私は部屋の隅まで後ずさりし、必死に畳の目を数え始めた。一、二、三……。あかん、数が多すぎて余計に目が回る。
「……ミコト。こっちへ来い」
地響きのような低音。逆らえるはずもない「導き」の声に、私は磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、おずおずと彼の隣へ膝をついた。
「……あ、あの、猿田彦様。……うち、まだ心の準備が……」
「……様はやめろと言っただろう」
不意に、大きな、熱い掌が私の頬を包み込んだ。
「……っ、……あ、彦、さん……」
「……そうだ。……お前はもう、油屋の湯女ではない。……私の妻だ」
黄金色の瞳が、月明かりよりも深く、熱く私を射抜く。
彼はそのまま、私をふわりと押し倒すように、絹の海へと誘った。
「……ひ、ひぇっ。……なんだよ、もう……っ! 急にそんな……男の顔せんといて……!」
「……男なのだから、当然だろう。……嫌か?」
耳元で囁かれる、吐息の混じった低音。
数日間、風が吹くだけで跳ね上がっていた私の「耳」が、今度は彼の声だけで、完全に機能停止を起こしそうになる。
「……嫌な、わけ……ないやんか……。……ただ、……恥ずかしいだけや……っ」
私は真っ赤になって彼の胸板に顔を埋めた。
岩のように硬く、けれどトクトクと力強い鼓動を刻むその胸。
彼は満足げに、私の朱色の髪を指に絡め、愛おしそうに何度も口づけを落とした。
「……案ずるな。……私が、お前を導いてやる。……夜の深淵までな」
「……なんだよ、もう。……導きの神様、本気出しすぎやねん……っ!」
私は彼の首筋にそっと手を回し、目を閉じた。
油屋の喧騒はもう聞こえない。ただ、彼の熱い体温と、神界の清浄な香り。
ミコトとしての最後の夜が、天宇受売命としての「本当の始まり」へと溶けていく。
翌朝、腰が抜けて起き上がれない私に、彼が満足げに「グッジョブ(親指)」を突き出すのは、また数時間後の話である。
第16話:腰痛と愛の言葉
「……あ、あかん。……腰が、腰が折れてるわ……っ」
神界の清らかな朝日が差し込む寝所。私はシーツの海から這い出そうとして、情けない声を上げて畳に沈んだ。昨夜の「導きの神」の本気を思い出し、顔が自身の朱色の髪より真っ赤になる。
「……起きたか、ミコト」
背後から、地響きのような低音が降ってきた。振り返れば、そこには既に身支度を整え、岩のような体躯を堂々とさせた猿田彦様が立っていた。その黄金色の瞳は、いつになく満足げに細められている。
「……何を満足げな顔してんの! なんだよ、もう! あんた、やりすぎやわ! うち、これじゃ舞うどころか、台所にも立てへんよ!」
私はバシバシと景気よく畳を叩き、彼を睨みつけた。しかし、彼は動じるどころか、私の隣にどっしりと腰を下ろすと、大きな掌で私の頭を優しく撫でた。
「……案ずるな。……お前の舞は、昨夜十分に堪能した。……今日は、一日休んでいろ」
「……っっっ!! 堪能したとか、さらっと言わんといて! 恥ずか死ぬわ!!」
私は両手で顔を覆い、指の間から彼を覗き見る。
「……なぁ、彦さん。……うち、ほんまにここでやっていけるんかな。……看板娘やった時みたいに、みんなを盛り上げるとか、できへんし……」
「……盛り上げる必要はない。……ただ、私を導いてくれればよい」
「……うちが、あんたを? 導きの神様を?」
「……ああ。……お前の『なんだよ』という声が聞こえる方へ、私は進む」
「…………。……反則や。……そんなん、一生『なんだよ』って言うてまうやんか……っ」
私は彼の広い胸に顔を埋めた。
すると、彼は私の耳元に唇を寄せ、熱い吐息と共に囁いた。
「……愛している。……今日の一回目だ」
「……ひ、ひぇっ!! ……出し惜しみせんといて、もう一回言うて! おかわり!」
「……断る。……一日一回だと言っただろう」
「ケチ! 彦さんのケチ! ……じゃあ、今日のサバの味噌煮、作ってやんない!!」
「…………っ!? ……それは、困る」
猿田彦様が、かつてないほど激しく動揺し、眉間にシワを寄せた。
神界の均衡を保つ男神が、煮魚の不在という危機に直面し、力強く「グッジョブ(親指)」を突き出しながら「……善処する。だから、作ってくれ」と懇願する姿に、私はついに吹き出してしまった。
「あはは! ……しゃあないなぁ。……腰が治ったら、世界一美味いサバ、炊いたるわ!」
新婚生活、初の献立バトルは、私の「胃袋支配」の完全勝利で幕を閉じた。
神隠しの終着点は、案外、騒がしくて美味しい場所だった。
第17話:女神会の洗礼とノロケ
「……あかん、場違いや。ここ、油屋の宴会場とちゃうわ」
神界の清らかな庭園。色とりどりの花が咲き乱れる東屋で、私は借りてきた猫のように正座していた。周りを見渡せば、真珠のような肌に穏やかな笑みを浮かべた女神たちが、羽衣を揺らしながら優雅にお茶を啜っている。
「あら、あなたが猿田彦様の奥様? ……ミコト様とおっしゃるのね」
一人の女神が、鈴を転がすような声で話しかけてきた。
「は、はい……。……よろしゅうおあがり……やなくて、初めまして、ミコトですえ」
油屋の接客癖が出てしまい、私は慌てて口を押さえた。あかん、ここは「さあさあ、オールしまっか!」なんて言える雰囲気やない。
「猿田彦様といえば、八百万を導く厳格な御方。……家庭でも、さぞかし凛とされているのでしょう?」
「……凛と?」
私の脳裏に、サバの味噌煮が作れないと聞いて「それは困る」と絶望し、親指を立てて「グッジョブ」と迫る旦那様の姿が浮かぶ。
「……いや、それが。……うちの彦さん、言葉足らずで困るんですえ。何聞いても『……』か『グッジョブ』の二択やし!」
「……ぐ、ぐっじょぶ?」
女神たちが目を丸くする。私は我慢できなくなり、いつもの調子で畳(ではないが、高級な敷物)をバシバシと叩き始めた。
「聞いてくださいよ! こっちは必死で献立考えてんのに、あの人ときたら『お前が作ったものなら何でもいい』なんて、丸投げなんですよ! なんだよ、もう! 結局、サバの味噌煮で釣れるような不器用な男神なんですわ!」
「……まあ! 猿田彦様が、手料理で……」
「しかもですよ! 寝る前になると急に男の顔して『一日一回だ』とか言うて、耳元で愛を囁いてくるんですわ。……迷惑やわぁ、ほんまに! おかげでこっちは毎日寝不足ですよ!」
私は顔を真っ赤にしながら、九割九分のノロケを「十割の愚痴」としてぶちまけた。
女神たちは最初こそ圧倒されていたが、次第にクスクスと笑い声を上げ始めた。
「ふふ、ミコト様。……それは愚痴ではなく、愛されている自慢ですわね」
「猿田彦様がそんなに賑やかに過ごされているなんて。……あなた、本当に素敵な『導き』をされているのね」
「……え、……うちが、彦さんを導いてる?」
言われてみれば、あの無口な旦那様を振り回しているのは、いつも私の方かもしれない。
その時、庭園の入り口に、山のような巨大な影が現れた。
「……ミコト。迎えに来たぞ。……サバの味噌煮の匂いがしたが、今日は作らぬのか」
「あ! 彦さん! 待って、今すぐ帰る! 捨てられた子犬みたいな目ぇせんといて!」
私は女神たちに「また今度、続き話しまっさ!」と言い残し、全力で旦那様の方へ駆けていった。
女神たちは、幸せそうに連れ立って帰る二人の背中を見送りながら、静かにため息をついたのだった。
第18話:子犬と旦那とお仕置きと
「……彦さん、今日のサバ、脂乗ってて最高やで! ほら、身の厚いとこ入れたげるから」
夕食の席。私は機嫌よく箸を動かしていた。女神会で散々愚痴(という名の惚気)をぶちまけてスッキリした私は、いつも以上に饒舌だった。
しかし、向かいに座る猿田彦様は、サバを口に運びながらも、その黄金色の瞳でじっと私を見つめている。
「……? なんだよ、もう。うちの顔に味噌でも付いてる?」
「……ミコト。今日、女神たちに私のことを何と言った」
「ひぇっ!?」
心臓が跳ね上がる。まさか、あの「捨てられた子犬」発言が耳に入ったのか。
「……『捨てられた子犬のような目をする』……。八百万を導く私に向かって、ずいぶんな言いようだな」
「あ、あ、あれは比喩や! 表現の自由やんか! 彦さんがあんまりにも寂しそうな顔して迎えに来るから……っ」
私は必死に弁解しながら、後ずさりして畳をバシバシ叩いた。
すると、猿田彦様はゆっくりと腰を浮かせ、巨大な影となって私に近づいてきた。
「……ならば、その『子犬』が、お前をどう導くか、教えてやろう」
「……ひ、ひぇっ。待って、彦さん! 晩ご飯の途中やで! 行儀悪いわ!」
逃げようとした手首を、岩のような掌にガシッと捕まえられる。そのまま引き寄せられ、私は彼の広い胸の中に閉じ込められた。
「……ミコト。お前は、外では随分と威勢がいいようだが。……私の腕の中では、いつもこうして震えているな」
耳元で響く、熱い吐息と重低音。
数日間、風が吹くだけで跳ね上がっていた私の「耳」が、今度は彼の声だけで、完全に真っ赤に染まっていく。
「……なんだよ、もう……っ! そんなん、あんたが反則的に格好ええのが悪いんやんか……!」
「……ほう。……ならば、もっと『反則』を犯してやろう」
彼は大きな手で私の顎をくいっと持ち上げると、逃げ場をなくすように唇を重ねた。
サバの味噌煮の匂いなんて一瞬で消え去り、頭の中は彼の香りと熱でいっぱいになる。
「……ん、……んぅ……っ」
「……子犬に見えるか? ……それとも、お前を喰らう獣か」
「……っ、……どっちでもええわ、バカ……っ! ……なんだよ、もう……大好きや……っ!!」
結局、その夜のサバの味噌煮は、すっかり冷めてしまうまで放置されることになった。
翌朝、腰をさすりながら「……あんた、やりすぎや……」と畳を叩く私に、彼が満足げに「グッジョブ(親指)」を突き出すのは、もはや我が家の伝統芸能になりつつあった。
第19話:男神たちの茶飲み話
神界の静かな一角。樹齢数千年の大樹の下で、猿田彦は茶飲み仲間の男神たちと卓を囲んでいた。
一人は知恵の神、もう一人は武の神。八百万の重鎮たちが揃う中、猿田彦はいつになく熱心に茶を啜っている。
「……で、猿田彦。油屋から掠め取ってきた……いや、連れてきたあの娘とは、うまくやっているのかい?」
仲間の神がニヤニヤしながら問いかける。猿田彦は茶杯を置き、ゆっくりと黄金色の瞳を伏せた。
「……賑やかすぎて、困る。……昨日も、献立が決まらぬと畳をバシバシ叩いておった」
「ほう、それは大変だね」
「……パスタか寿司か天ぷらか、と詰め寄られ……最後には『なんだよ!』と怒鳴られた。……全く、耳に響く」
猿田彦は「四割の愚痴」を並べるが、その口元は微かに緩んでいる。
「……だが、あやつの淹れる茶は温度が絶妙でな。……サバの味噌煮を作らぬと脅された時は焦ったが、結局は身の厚いところを私の皿に分けてくれる。……殊勝な妻だ」
「(……あ、これ、残りの六割は全部ノロケだな)」
友人神たちは顔を見合わせた。
「……それに、寝起きの顔がまた……。……朱色の髪を乱して、私の首に腕を回して寝るのだ。……あれほど無防備に私を頼る神は、他におらん」
「……猿田彦。それは『苦労話』ではなく『自慢話』というのだよ」
友人神が天を仰いで溜息をつく。
「……そうか。……お前たちには、あの『なんだよ!』という声の心地よさはわからんか。……あれこそが、私を正しい家路へ導く音なのだ」
真顔でとんでもない惚気を言い放つ「導きの神」。
そこへ、女神会を終えて「彦さーん! 帰りまっせー!」と遠くから叫ぶミコトの姿が見えた。
「……噂をすれば。……では、失礼する。……妻が、サバを焦がすと騒ぎ出す前に帰らねばならん」
猿田彦は立ち上がり、どこか誇らしげな背中で、駆けてくる朱色の影へと歩み寄る。
友人神たちは、嫁さんに導かれて嬉しそうに帰っていく最強の男神を見送りながら、静かに茶を飲み干した。
「……あんなに幸せそうな猿田彦、数千年来で初めて見たよ」
第20話:筒抜けの惚気と赤面
「……彦さん。ちょっと、そこに座りなはれ」
神界の自宅。夕食のサバを焼き終えた私は、仁王立ちで帰宅したばかりの猿田彦様を迎え撃った。
「……何だ。そんなに怒った顔をして。……サバが焦げたのか?」
彼は平然とした顔で、大きな体を折り曲げて畳に座る。その無防備な様子が、余計に私の導火線に火をつけた。
「サバは完璧や! 問題は、あんたの口や! ……今日、男神たちの茶飲み会で、うちのこと何て言うたん!?」
「……。……事実を述べたまでだ。……畳を叩く姿が賑やかだと」
「それだけやないやろ! 『寝起きの顔がどう』とか、『首に腕を回して寝る』とか……っ、女神会の友達から全部チクられたんやからね!!」
私は顔を真っ赤にして、バシバシと景気よく畳を叩いた。
「なんだよ、もう! うち、明日からどんな顔して神界を歩けばええんよ! 『あ、あの子が猿田彦様の首にしがみついて寝る子ね』とか言われるやんか!」
「……事実だろう。……恥じることはない。……私は、お前のその無防備な姿が一番……」
「あーっ! ストップ! それ以上言うな!」
私は両手で耳を塞ぎ、今度は彼に対抗して、精一杯の「無言の圧」をかけようと目を細めた。
……が、数秒も持たなかった。
「……っ、……む、無理……。……そんな目で見つめられたら、圧かけるどころか、溶けてまうわ……っ!」
「……フッ。……お前が私に圧をかけるなど、百年早い。……いや、千年か」
彼は満足げに口角を上げると、真っ赤になってうずくまる私の後頭部を、大きな掌で優しく撫でた。
「……ミコト。……外で何を言われようと、私の腕の中にいるのがお前であることに変わりはない。……サバが冷める前に、食べよう」
「……なんだよ、もう。……あんた、ほんまにズルいわ……っ」
結局、私は毒気を抜かれ、二人で並んでサバを突っつくことになった。
でも、一口食べるたびに昼間のノロケを思い出して、顔の熱は一晩中冷めることがなかった。
翌朝、やっぱり彼の首に無意識に腕を回して寝ていた自分に気づき、私は再び枕に顔を埋めて「なんだよぉ!」と叫ぶ羽目になるのでした。
第21話:看板娘の里帰り決意
「……ふぅ。今日もええ天気やなぁ、彦さん」
神界の邸宅の縁側。私は出しっぱなしにしていた洗濯物を畳みながら、遠くに見える雲海を眺めていた。ここに来てから、どれくらいの月日が流れただろう。
毎日三食、旦那様にサバの味噌煮を作り、夜になれば「一日一回」の甘い言葉(と、それ以上の熱い時間)に溺れる。看板娘だった頃には想像もできなかった、穏やかで満たされた日々。
「……ミコト。手が止まっているぞ。……何を考えている」
背後から、地響きのような低音が降ってきた。振り返れば、仕事の合間の休憩なのか、猿田彦様が大きな体を折り曲げて私の隣に腰を下ろした。
「……あ、いや。……ちょっとな。……油屋のみんな、どないしてるかなぁって。……リン、相変わらず口悪くしてへんかな。千、またドジ踏んで湯婆婆に怒鳴られてへんかな……」
私は手元の洗濯物をぎゅっと握りしめた。
「……ススワタリたちも。……うちがおらんと、金平糖のじらし相手がおらんで退屈してへんかなぁ」
「…………」
猿田彦様は無言のまま、私の横顔を黄金色の瞳で見つめていた。その「無言の圧」に、私は慌てて笑ってみせる。
「あ、いや! 別にここが嫌やとか、そういうんやないで! うち、彦さんの隣におるのが一番幸せやし! ただ、……ちょっとだけ、里帰りしたくなっただけや」
「……。……行けばよい」
「え……?」
「……お前の『故郷』だろう。……私がいない間、退屈させるのも不本意だ。……明日、仕事の前に油屋の近くまで送ってやろう」
「……彦さん……っ!」
私は思わず、彼の太い腕に抱きついた。
「……なんだよ、もう! あんた、ほんまに物分かり良すぎやわ! ……大好き!!」
「……。……ただし、日暮れには迎えに行く。……夕飯抜きは、私が困るからな」
「……あはは! 結局、サバの味噌煮が目当てなんやから!」
私は彼の頬に、お返しの「ツンッ」を見舞った。
彼はわずかに目を細め、満足げに「グッジョブ(親指)」を突き出す。
翌朝、私は神界の高級な金平糖をお土産にたっぷり抱え、久しぶりにあの賑やかな「神隠しの場所」へと向かうことに決めた。
元・看板娘の、華麗なる(?)凱旋である。
第22話:油屋凱旋と女子会再結成
「ただいまー! みんな、元気にしとった!?」
油屋の玄関。赤い橋を渡り、懐かしい磯の香りと石鹸の匂いが混ざり合う暖簾をくぐった瞬間、私は精一杯の声を張り上げた。
「……げっ。この喧ましい声、ミコトじゃないか!」
番台から身を乗り出したリンが、信じられないものを見るような目で私を凝視する。隣で掃除をしていた千も、パッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「ミコトさん! お帰りなさい!」
「千! 久しぶりやなぁ。ちょっと、あんたまた痩せたんちゃう? ちゃんと食べてる?」
私は千の両手を握ってブンブンと振り回した。神界の立派な着物をさらりと着こなしているけれど、中身はちっとも変わっていない自分に、自分でも苦笑いしてしまう。
「あんたねぇ、その格好……すっかり『神様のおかみさん』じゃないか。お肌も髪もピカピカでさ。……当てられちまうよ」
リンが呆れ顔で、でもどこか嬉しそうに私の頭から足先までを眺める。
「当たり前やん! うち、彦さんに毎日大事にされてるんやからね! ……ほら、これ神界のええ酒と金平糖。みんなで分け」
私は持ってきたお土産を広げた。すると、どこからともなく「キィキィ!」と黒い塊たちが集まってくる。ススワタリたちだ。
「さあさあ、お仕事頑張ったええ子には、これがあるよぉ。金平糖、欲しいかー!」
「キィーッ!」(猛烈なジャンプ)
「……なーんて、やっぱりあげなぁい!」
「……あんた、神界に行ってもそれやってんのかい」
リンの冷ややかなツッコミ。私はケラケラと笑いながら、三回お預けを食らわせてから、夜空の星みたいな金平糖をバラバラとまいてやった。
その後、私たちは手すりに寄りかかって、昔のように話し始めた。
「……で、どうなんだい。あの『導きの旦那』とは。……やっぱり、言葉足らずなのかい?」
「聞いてよリン! あの人、サバの味噌煮作らへんって言うたら、すぐ『それは困る』とか言うて。……結局うちが甘やかしてまうんよ、なんだよもう!」
「……はいはい、ごちそうさま。あんた、惚気を聞かせに帰ってきたのかい?」
「違うわ! これは切実な悩み……やなくて、報告や!」
千がクスクスと笑う。
「でも、ミコトさん。本当に幸せそう。……あの時、勇気を出して一緒に神界へ行って、本当に良かったですね」
「……せやね。……うち、あの人の隣におる時が、一番『自分』でいられる気がするんよ」
夕暮れ時。油屋に灯りがともり始める頃、赤い橋の向こうに圧倒的な神気が漂ってきた。
「……ミコト。迎えに来たぞ」
地響きのような低い声。見れば、猿田彦様が仕事を終えて、約束通り私を迎えに来ていた。
「あ! 彦さん! 待って、今帰るから! ……みんな、またね! 次はもっと惚気……やなくて、お土産持ってくるから!」
「もう来なくていいよ、胸焼けするからさ!」
リンの怒鳴り声に見送られながら、私は愛する旦那様の方へと駆け出した。
第23話:旦那様の嫉妬と独占欲
「……ただいま、彦さん! 楽しかったわぁ、リンも千も相変わらずでさ」
神界の自宅に戻るなり、私は帯を解きながら今日一日の出来事をまくしたてた。
「リンったら、うちが持っていった酒を一口飲んで『強すぎるよ!』ってむせてんの。あはは! 案外、お酒弱いんやなぁ」
私は機嫌よく笑いながら、台所へ向かおうとした。……が、背後から音もなく近づいてきた巨大な影に、行く手を阻まれる。
「……ミコト。油屋で、私のことを何と話してきた」
地響きのような、重厚な低音。
振り返れば、猿田彦様が腕組みをしたまま、黄金色の瞳を少しだけ鋭くして私を見下ろしていた。
「……へ? ……あ、いや。……別に、大したことは……っ」
「……隠しても無駄だ。……お前のことだ、『言葉が足りぬ』だの『サバの味噌煮に弱い』だの、散々吹聴してきたのではないか?」
「……ギ、ギクゥッ!!」
心臓が跳ね上がる。まさにその通り、なんなら「寝起きの顔がどう」という昨夜のノロケ(愚痴)までセットで話してきたところだ。
「……な、なんだよ、もう! ……別に悪口やないわ! 惚気……やなくて、現状報告やんか!」
「……。……ならば、その『現状』を、今から上書きしてやろうか」
不意に、大きな掌が私の腰を引き寄せ、逃げ場をなくす。
「……っ、……ひぇっ。……彦さん、またその、男の顔になってる……っ!」
「……嫉妬だ。……お前が外で、私の知らぬ誰かと楽しげに私の話をすることが……どうにも、面白くない」
耳元で囁かれる、熱い吐息。
油屋の看板娘として大勢の客を相手にしてきた私でも、この人の「独占欲」には一瞬で骨抜きにされてしまう。
「……なんだよ、もう。……あんた、そんなにうちのことが好きなん?」
「……。……愚問だな。……一日一回の言葉は、もう尽きた。……あとは身体で理解しろ」
「……えぇええーっ!! ……ちょ、待って、まだサバ焼いてへんのに……っ!」
結局、その夜の夕飯も、深夜に二人で「冷めたサバ」をつつくことになった。
でも、一口食べるたびに、彼がわざと私の首筋に残した「独占の痕」が熱を持って疼いて、私は再び「なんだよぉ……」と顔を赤くするのだった。
第24話:サバの味噌煮の誓い
「……あいたたた。彦さん、ほんまに加減っちゅうもんを知らんのやから……」
翌朝。神界の柔らかな光が差し込む中、私は腰をさすりながら這うようにして台所へ向かった。鏡を見れば、首筋に隠しきれない「独占の痕」。それを見て、また「えぇえ!」と顔を赤くしつつ、私は気合を入れ直した。
「……よし。……今日は、昨日のお返しさせてもらうで」
私は朝から立派なサバを取り出し、まな板の上でこれ見よがしに包丁を研ぎ始めた。
そこへ、身支度を終えた猿田彦様が、いつものように堂々とした足取りでやってくる。
「……ミコト。いい匂いだな。……今日の飯はサバか」
「……。……あかん、まだ作らへんよ」
私は包丁を置き、腕組みをして旦那様を正面から見据えた。
「……彦さん。よう聞き。……昨夜あんなに無茶したんやから、今日はうちの言うこと、一つ聞いてもらうで」
「……何だ。……また新しい舞の衣装か?」
「ちゃうわ! ……言葉や! 『愛している』、もう一回ちゃんと言うて!」
「…………」
猿田彦様の動きが止まる。黄金色の瞳がわずかに泳ぎ、彼はふいと顔を背けた。
「……断る。……一日一回だ。……朝に一度言っただろう」
「……ケチ! 昨夜あんなに身体で言うてたくせに、言葉になったらこれや! ……ええよ、別に。……でもな、彦さん……」
私は不敵な笑みを浮かべ、サバの切り身を指差した。
「言わなきゃ、今日のサバの味噌煮、作ってやんない!!」
「…………っっ!?」
地響きのような動揺。
神界の均衡を保つ導きの神、猿田彦。その彼が、煮魚の不在という未曾有の危機に、かつてないほど険しい表情で固まった。
「……それは、困る」
「困るやろ? 脂の乗ったサバ、用意してあんねんで? 味噌のええ匂い、もうしてきてるやろ?」
私は追い打ちをかけるように、わざと味噌の蓋を開けて香りを漂わせた。
「…………。…………愛している。……二回目だ」
観念したように、彼は視線を逸らしながら、絞り出すような低音で告げた。
その声に、私の心臓は一瞬で「グッジョブ(親指)」を突き出す勢いで跳ね上がる。
「よっしゃ、正解! やればできるやんか。……なんだよ、もう。そんなショボくれた顔せんといて。……特別に、今日は身の厚いとこ二枚入れたるからね!」
私は鼻歌まじりに火をつけた。
背後で、猿田彦様が(……この妻には、一生勝てる気がせぬ)と、幸せな降参を噛み締めて溜息をつく。
胃袋を人質に取られた男神と、それを転がす女神。
神界の朝は、今日も今日とて賑やかに更けていくのだった。
第25話:寝顔のツンツン攻防戦
サバの味噌煮を心ゆくまで堪能した後の、穏やかな昼下がり。
神界の柔らかな木漏れ日が、邸宅の広い縁側に差し込んでいた。
「……ふぅ。彦さん、ほんまによう食べるなぁ」
私は食後の片付けを終え、縁側で胡坐をかいたまま、いつの間にか寝息を立て始めた猿田彦様の隣に腰を下ろした。
岩のような体躯。彫刻のように整った鼻筋。目を閉じると、いつも他の神々を平伏させているあの鋭い眼光は消え、驚くほど無防備な顔になる。
「……寝てはる。あの厳つい顔が、寝てるとこんなに静かやなんてなぁ」
独り言を呟きながら、私は身を乗り出して彼の顔を覗き込んだ。
油屋の看板娘として大勢の客をあしらってきたはずなのに、この寝顔を見ているだけで、心臓の音がうるさくなってくる。
「……ツン」
我慢できなくなって、人差し指で彼の頬を突っついた。
「……お、動かへん。……ツンツンッ」
次は高い鼻の先、そして少しだけ開いた唇の端。
「あはは! ススワタリに金平糖じらしてた時より楽しいわ、これ」
三回、四回。調子に乗ってツンツンを繰り返す。
「……あかん、寝顔も男前すぎて、うちの心臓が持たへんわ。……なんだよ、もう。寝てても格好ええとか、反則やろ……っ」
五回目の指を伸ばした、その時。
大きな、熱い掌が、私の手首をガシッと掴んだ。
「ひゃんっ!?」
「……いつまで突っつくつもりだ、ミコト」
ゆっくりと黄金色の瞳が開く。そこには、眠気よりも楽しげな色が混ざっていた。
「お、起きて……はったんですか!?」
「お前の気配を忘れるはずがなかろう。……そんなに私の顔が珍しいか?」
「べ、別に珍しくないわ! ただ、あんたが地蔵みたいに動かへんから……っ」
私は必死に「無言の圧」をかけようと目を細めて彼を睨み返したが、猿田彦様は動じるどころか、私の手首を引いて自分の胸板へと引き寄せた。
「……圧をかけても知らぬと言ったのは、お前だろう。……ほら、もっと近くで突っつけばよい」
「……っ、……ひ、ひぇぇ……。なんだよ、もう……っ!」
私は真っ赤になって彼の胸に顔を埋めた。
「……彦さん、ほんまにズルいわ。……うち、一生あんたの隣から離れられへんやんか……」
「……ああ。……一生、私の隣で、気の済むまで突っついていろ」
彼は満足げに、いつものように力強く「グッジョブ(親指)」を突き出すと、再び私を抱き寄せたまま、穏やかな二度寝へと誘うのだった。
第26話:仕返しは甘い吐息で
「……彦さん、起きてはったんなら言いなはれ! うち、恥ずかしすぎて、さっきのツンツン返してほしいわ!」
私は彼の広い胸に顔を埋めたまま、バタバタと足を動かして抗議した。
「……断る。一度受け取ったものは、私のものだ」
猿田彦様は、捕まえた私の手首を離そうとしない。それどころか、空いた方の手で私の顎をくいっと持ち上げ、強制的に視線を合わせさせた。
「……ミコト。お前は私を散々突っついたな。……ならば、今度は私の番だ」
「……へ? 彦さんが……ツンツンするん?」
想像してみる。あの岩のような指先で、私が突っつかれる姿。……痛そうや。
「……あかん、彦さんの指は凶器や! うち、穴空いてまうわ!」
「……指だとは言っていない」
黄金色の瞳が怪しく光る。
彼はそのまま、私の耳元に顔を寄せた。熱い吐息が耳たぶをかすめ、背筋にゾクゾクとした電流が走る。
「……っ、……ひ、ひぇっ」
「……ツン」
囁きと共に、彼の唇が私の耳の後ろに優しく触れた。
「な、……なんだよ、もう! そこ、弱いねんって!」
「……ほう。……ならば、ここはどうか」
次は首筋、そして鎖骨のあたり。
指先ではなく、熱を持った唇と吐息の「ツンツン」が、私の肌をなぞっていく。
「……っ、……あ、彦、さん……っ、……あかん、これ、お仕置きやない……っ」
「……お仕置きだ。……お前が私の眠りを妨げた、罪な」
彼は満足げに、私の首筋に小さな「独占の痕」をまた一つ増やした。
「……彦さん……っ、……なんだよ、もう……っ!」
私は真っ赤になって彼の首に腕を回した。
昨夜の疲れが残っているはずなのに、彼の「導き」に抗うことなんて、私には最初から不可能だったのだ。
「……サバの味噌煮……。……今夜は、もっと美味しく炊いたるから……っ」
「……ああ。楽しみにしている」
彼は満足げに、いつものように力強く「グッジョブ(親指)」を突き出すと、そのまま私を抱きかかえて寝室へと連れ戻すのだった。
昼下がりの縁側に残されたのは、二人が飲んでいたお茶の湯気と、ミコトの甘い絶叫だけだった。
第27話:神界の踊り子、再始動
「……彦さん。うち、決めたわ」
甘いお仕置き(?)の余韻が残る夕暮れ時。私は乱れた朱色の髪を結び直し、縁側から茜色に染まる神界の空を見上げた。
隣で満足げに茶を啜っていた猿田彦様が、黄金色の瞳をわずかに動かす。
「……何をだ。サバの味噌煮の隠し味か?」
「ちゃうわ! 真面目な話や! ……うち、ここで、もう一回ちゃんと踊るわ」
私は立ち上がり、庭に向かって一歩踏み出した。
油屋の看板娘として、客を呼ぶために踊っていた「ミコト」ではない。
名前を奪われ、狭い湯屋で必死に生きていた頃の自分でもない。
「……うちの名前は、天宇受売命。……あんたに見つけてもらった、この名前や」
私は懐から、油屋を出る時に彼が書き換えてくれた「真の名」が宿るお札を取り出した。
「あんたの隣でお世話焼いてるのも幸せやけど……。やっぱりうちは、踊って、笑って、みんなを明るくするのが役割なんやって、女神会のみんなと話してて気付いたんよ」
猿田彦様は無言のまま、私の背中を見つめていた。その「無言の圧」は、今は心地よい期待のように私の背中を押してくれる。
「……彦さん。あんた、道案内の神様やろ? ……なら、うちの舞の『道』も、あんたに導いてほしいんや」
私は彼に向き直り、最高の看板娘スマイル……いや、一人の女としての笑顔を見せた。
「……世界一の踊り子になって、あんたを一生、退屈させへんからね!」
「…………」
猿田彦様はゆっくりと立ち上がると、私の目の前でどっしりと腰を据えた。
「……フッ。……お前が踊らねば、神界の夜は明けんからな。……いいだろう。……私の前で、その魂を燃やしてみせろ」
彼は力強く、いつものように「グッジョブ(親指)」を突き出した。
「よっしゃ! ……なんだよ、もう。……彦さん、格好よすぎて、踊る前に惚れ直してまうやんか!」
私は照れ隠しに畳をバシッと叩き、そのまま庭へと飛び出した。
夕闇の中、朱色の髪が炎のように揺れる。
それは、かつて天岩戸をこじ開けた伝説の舞よりも、ずっと熱く、愛に満ちた「再始動」のステップだった。
第28話:天宇受売命の真骨頂
神界の最高位が集う大宴会。そこには油屋の喧騒とは比較にならないほどの、厳かで清浄な空気が流れていた。
私は舞台の袖で、朱色の髪を黄金の簪(かんざし)できつくまとめ、深く息を吐き出した。
「……ミコト。準備はいいか」
背後から、聞き慣れた重低音が響く。振り返れば、正装に身を包んだ猿田彦様が、いつも以上に鋭い眼光で私を見守っていた。
「……彦さん。うち、油屋におった時より緊張してるわ。……なんだよ、もう。心臓がうるさくて、お囃子が聞こえへん」
「……案ずるな。……お前の舞が、神界の夜を明かす。……私が、一番近くで見ている」
彼は大きな掌で私の肩を一度だけ強く叩き、そのまま上座へと歩いていった。
その背中を見送り、私はステージへと飛び出した。
「――お待たせいたしました! 八百万の皆々様! ……今宵の宴、天宇受売命が盛り上げさせてもらいまっせ!」
扇子を翻した瞬間、会場の空気が一変した。
油屋で磨いた「お座敷盛り上げ特化型」のスキルと、彼に愛されることで手に入れた「女神としての自信」。その二つが混ざり合い、かつてないほど激しく、そして美しく、私は畳を蹴った。
「はっ!」「せいっ!」
朱色の髪が炎のように舞い、橙色の瞳が提灯の光を吸い込んで輝く。
神々が息を飲み、やがて地鳴りのような歓声が上がった。一対多。数千の神々を、私は指先一つで、腰の動き一つで、完全に虜にしていった。
「……あの女神、誰だ!?」「天宇受売命……あの油屋の看板娘だったという……!」
「……横にいるあの男前な旦那は!?」「……私だ」
猿田彦様が、酒杯を片手に短く答える。その黄金色の瞳には、誰にも渡したくないという強烈な独占欲と、自慢の妻を見つめる深い慈しみが同居していた。
「……うちの舞、どないですか! 彦さん!」
舞の最高潮、私はわざと彼の目の前でくるりと回り、不敵な笑みを浮かべた。
彼は無言のまま、堂々と「グッジョブ(親指)」を突き出す。
宴が終わる頃には、私は神界中の注目の的になっていた。
でも、そんなのどうでもいい。
舞台を降りた瞬間、私は駆け寄ってきた彼の広い胸に、汗ばんだ体のまま飛び込んだ。
「……彦さん。……うち、ちゃんと踊れてた?」
「……ああ。……眩しすぎて、他の神に中身を見られたのが不愉快なほどだ」
「……なんだよ、もう。……うちのこと、閉じ込めたいん?」
「……。……検討しよう」
真顔でとんでもないことを言う旦那様に、私は真っ赤になって「なんだよぉ!」と叫んだ。
女神としての再始動は、特大の「惚気(のろけ)」と共に、伝説の一ページを刻んだのだった。
第29話:嫉妬の炎とサバの味噌煮
神界での復活公演は大成功。それ以来、我が家の玄関先には、他の男神たちから「素晴らしい舞でした」という文句と共に、山のような供物が届けられるようになった。高級な酒、珍しい果実、眩いばかりの反物……。
「……ひぇっ、これ、全部うち宛て? なんだよ、もう。神界の人ら、気前良すぎひん?」
私が呑気に果実を剥こうとした、その時。背後から立ち昇る、火山の噴火前のような凄まじい「無言の圧」に、背筋が凍りついた。
「……ミコト。それらの供物を、食べるつもりか」
振り返れば、猿田彦様が腕組みをしたまま、黄金色の瞳をかつてないほど鋭く光らせて立っていた。その周囲の空気が、嫉妬の熱でビリビリと震えている。
「……え、いや、もったいないし。……ちょっと味見くらい……」
「……ならん。……お前の口に入れてよいのは、私が許したものだけだ」
「……はぁ!? 何言うてんの彦さん! あんた、独占欲強すぎやろ! 導きの神様が、供物の嫉妬に道迷ってどないすんのよ!」
私はバシバシと畳を叩いて抗議した。すると、彼は大きな体で私を隅へと追い込み、壁に手をついて逃げ場をなくした。いわゆる「壁ドン」というやつだ。
「……私のサバの味噌煮以外、食べるな。……お前の胃袋も、心も、舞も、……全て私のものだ」
耳元で響く、熱い吐息と重低音。
「一日一回」の制限なんて、彼自身がとうに忘れている。
「……っ、……な、なんだよ、もう……。……うちのこと、そんなに縛り付けたいん?」
「……。……そうだ。……お前の朱色の髪が、他の神の視線にさらされるだけで、私は気が狂いそうになる」
「……彦さん……」
無骨で不器用な旦那様が、これほどまでに真っ直ぐに、情けないほどの独占欲を見せてくる。
私は呆れつつも、愛しさが込み上げて、彼の広い胸に自分から顔を埋めた。
「……わかったわ。……供物は全部、近所の神様たちに配っとく。……その代わり、今日の晩ご飯は……彦さんの大好きなサバ、山盛り炊いたるから。……それで機嫌直して?」
「……。……二枚、……いや、三枚だ」
「あはは! 結局それやんか! ……なんだよ、もう。……食いしん坊の嫉妬神様、大好きやで!」
私は彼の頬に、お返しの「ツンッ」を見舞った。
彼は満足げに、いつものように力強く「グッジョブ(親指)」を突き出すと、そのまま私を抱きかかえて台所……ではなく、寝室へと「導いて」いくのだった。
「……ちょっと、ご飯まだやってば! ……ひ、ひぇぇ……なんだよぉ……っ!」
神界の夜は、今夜もまた、情熱的な「お仕置き」で更けていく。
いよいよ明日は、最終回。
神隠しの終着点、二人の出す「答え」とは。
第30話(最終話):永遠の舞と、変わらぬ飯
神界の邸宅に、今日も心地よいサバを焼く匂いが漂う。
油屋を飛び出し、芸能の女神・天宇受売命(あめのうずめのみこと)としての名を取り戻してから、どれほどの月日が流れただろう。
「……彦さん! お茶淹れたで。早く座りなはれ!」
私の呼び声に、縁側でどっしりと構えていた巨大な影が動く。猿田彦様は相変わらずの無骨な足取りで畳を鳴らし、私の目の前に座った。
「……ミコト。今日のお茶は、一段と香りがいいな」
「当たり前やん! うち、あんたの好みの温度、指先一つでわかるようになったんやから。……なんだよ、もう。感心するなら、ちゃんと言葉で言いなはれ」
「……。……グッジョブ」
彼は無言のまま、岩のような親指を力強く突き出した。
私は思わず吹き出し、彼の大きな掌に自分の手を重ねた。油屋で初めて触れられたあの夜の熱は、今も少しも冷めることなく、私の指先を焦がしている。
「……なぁ、彦さん。……うちを、あの油屋で見つけてくれて、おおきに」
ふと漏れた本音に、彼は黄金色の瞳をわずかに細めた。
「……見つけたのではない。……お前の舞が、私を呼んだのだ。……導きの神が、初めて導かれたのが、お前の元だった」
「……っ、……反則。……またそんな、かっこええこと言うて……っ!」
私は真っ赤になって、バシバシと景気よく畳を叩いた。
「……なんだよ、もう! うち、一生あんたに振り回されっぱなしやんか!」
「……不満か?」
「……不満なわけ、ないやろ! ……うち、世界で一番、あんたの隣が気に入ってんねん」
私は彼の広い胸に飛び込んだ。
彼は満足げに私を抱き寄せ、その朱色の髪に深く顔を埋めた。
神隠しの終着点。
そこは、静かな楽園ではなかった。
毎日献立に悩み、畳を叩いて怒鳴り合い、夜になれば甘い吐息を漏らし、朝には腰をさすりながら「なんだよ!」と叫ぶ。
そんな、騒がしくて、泥臭くて、どうしようもなく愛に満ちた日常。
「……彦さん。明日も、明後日も。……うち、あんたのためにサバ焼いて、あんたのために踊るわ」
「……ああ。……私も、一生お前を離さぬ。……導きは、永遠だ」
二人の笑い声が、神界の空へと溶けていく。
朱色の踊り子と、無口な導きの神。
彼らの物語は、今日も美味しいご飯の匂いと共に、続いていくのだった。
「……あ、彦さん! 今、耳元で『愛してる』って言うた!? ノルマ一回分、消化やで!」
「……。……二回目は、夜まで待て」
「……ひ、ひぇぇ……なんだよぉ!!」
(完結)