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記憶_かえりみち、なかなおり
※この小説はいよわ様の動画「かえりみち」楽曲「なかなおり」をモチーフとした二次創作です。
一部、動画「かえりみち」楽曲「なかなおり」からの文章、歌詞の引用があります。
夏の暮れのことだった。
私は草を踏みつけて、ぼうっと立っていた。日はまだ高く、気温もちょうど良かった。私はただ、地面の揺れる葉やら、まるで自分が今着ている服のような色をした蟻を眺めていた。
「マリア。」
私を呼ぶ声がした。少し視線を横にずらすと、母が心配そうな顔をして私を見ていた。あの発言をまだ信じているのだろう。
「お水買ってきたよ。」
私を覗き込む母の手の中には、陽の光を集めてきらきらと輝くミネラルウォーターがある。普段は割高だと一蹴する自販機で買ってきたようだ。
「体調、大丈夫?どこがつらい?」
瞳の奥は純粋だ。あの頃、まだ幼かった私は母に嘘をついたこと、心配させてしまったことに罪悪感を抱いたから、真相を話すことにしたのだつた。
「ううん。どこもつらくないよ。」
「え?」
母の長い睫毛が震えたのをよく覚えている。母はとても綺麗な人だ。テレビに出ていたって違和感がないくらいで、どこぞの女優のように美しい人。
「ママが親せきの人にずっと話しかけられてたから。わたしのせいにすれば逃げられるかなって思ったの。」
「わたし」が親せきの人、と呼ぶように、私は親族のことをよく知らなかった。母は彼らに疎まれているようで、私たちが彼らと会ったことは数えるほどしかない。
母から聞いた話だが、私を産む際に一悶着あったらしい。祖父方もそうだが、特に祖母方の家系は、大昔に巨大な土地を持つ地元の名士とか良家とか呼ばれるものだったらしい。その血を継ぐ母がシングルマザーになって遠くに引っ越すなんて、彼らは考えもしなかったのだろう。
結局、母が家を出て行ってから、ずっと疎遠だった。私たちに残されたのは、気まずい時間の空白だけなのである。
なので、特に彼らと話したいだとか、そういうこともないし、私が「良家」の恩恵に預かることは一度もなかった。普通の、少女だった。
「……そっか。」
母はそれだけ言って、俯いた。先ほどの私のように、することがないから俯いている、というわけではなかった。
「……余計なことした?」
「いや、たいしたもんだよ。」
母は穏やかな声に見合った手の動きで、私を撫でた。くすぐったかったから、私はちょっと目を伏せて母を見上げた。猫になった気分だった。
「こちらこそ気遣わせちゃってごめん。」
「もう、おうち帰れる?」
「うん。行こっか。」
私は一歩踏み出す母の後ろについて行った。たぶんしばらくは来ないであろう、施設内を見渡しながらだった。
煙突から、白い煙がもくもくと立ち上って、雲と混ざり合っていた。工場ではない。私と母は、とある人と別れの儀式をするためにこの場所に来たのだった。
『杏崎家葬儀会場』は私を見送る。
ここからはもう、ただのかえりみちだ。
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車内でも火葬場にいた時のように、やはり幼い子供にはやることがなかったから、私は理由を聞くことにした。
「ママ、ずっと泣いてなかった。かなしいの、ガマンしてたの?」
私も泣かなかった。いまいち実感がわかなかったからだ。どこか生々しかった煙を見たって、その元になったものに思いを馳せたって、変わらなかった。祖母には会ったことはないのだから、『実は私が生まれる前に死んでいました』と言われても特に驚かなかったと思う。
旅行先で買った写真立てに飾られている、祖母の写真。澄ました顔で写っている、黒いワンピースの女性。いかにもなお嬢様、箱入り娘といった様子で、上品な雰囲気が漂っていた。腕に抱かれているのは母らしかった。
マリアの方が、おばあちゃんに似てるね。母はそう言って、よく私の瞳を指差した。杏崎の家特有の瞳孔。
「うーん…….どうかな。今日は、みんながお別れを言いにいく日だったけどさ。」
少し口篭ってから、母が続けた。
「あの人が亡くなるちょっと前にね。ちょっとだけまともに話せる時間があったの。」
母は祖母とまともに話せていなかったのだ。
「ちゃんと名前も呼んでもらえて、思い出話とかもできて。私の中でのお別れは、そこですっかり済んじゃってたんだと思う。」
「わたし」の疑問に答えるように、母が続けた。健全な状態の母子が、名前すら呼ばないなんてことはない。
私が覚えている限りだと、祖母は病死だった。同時に認知症だとかアルツハイマー症候群とか、記憶を失うものも罹患していたはずだ。長年過ごした娘も覚えていられないほどの、重篤な。まあ、あの頃の「わたし」がそこまで知っているわけがないのだが。
「それも、持ってこれたからね。」
ハンドルを握っているので指は指されなかったが、私の手中にある『箱』のことだと見当がついた。
『なかなおり』と走り書きで記された、茶色く古びたテープ。
「カセットテープ?」
「歌が、好きな人だったんだよ。お屋敷の分は全部ダメになってたんだけど、それはあの人が自分で持ってたの。」
「ママ。これ、聞いてみたい。」
唐突に、私は祖母のことを知りたくなった。母がどんな少女時代を過ごしたのか。祖母はどんな声で、どんな歌を歌うのか。
「……おうち帰ったら、一緒に聞いてみよっか。」
「うん。」
「ところで、小さな女優さん。」
微笑みかけた母の、ターコイズの瞳。
「名演のギャラはアイスでいいかしら?」
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「ごめん、一本だけ吸わせて。」
少しずつ舐めていたアイスをついに口の中に丸ごと納めたわたしの口内が、少し煙たくなった。指に挟まれたタバコからは、まだあの独特な匂いはしないのに。
「えーっ。アイスいっこ追加ね。」
「了解……。」
娘のじっとりとした視線には耐えられなかったらしい。母は眼鏡の奥を細めながら火をつけた。
「ママ。」
白く染まった空気が母の横顔を歪ませた。出所も細い筒だからか、煙突を連想させた。
「……おばあちゃんは、煙になったの?」
「……まあ大体そんな感じだよ。」
霞の向こうの母の顔が、神妙なものに変わった。口に紙巻きタバコを近づけるのをやめ、立ち上る煙を眺めていた。
「命を終えたからだはね。ああやって、煙と灰と、少しの骨に変えるの。こっち側の悲しみとか、やるせなさとか、そういうものも全部まとめて、小さくして持っていくための儀式なんだよ。」
私も、ぼうっとそれを眺めた。
「お線香の煙は魂の帰り道になる、なんて話もあるんだよ。」
タバコから魂が還っていく。この前の保健の授業でタバコは体に悪いらしいということを学んだばかりだったから、私は昇っていくものに母自身の魂が入っているような気がして、珍妙な気分になった。だからこう言わざるを得なかったのだ。
「……ママ。ぜったい長生きしてね。」
一瞬きょとんとした母が、すぐにくすくすと笑い出す。
「わたしタバコの煙だいっきらいだから。」
恥ずかしかったのだ。もう甘ったれるだけの時期は過ぎていたから。はいはい、と母がニヤニヤし始めた。渡された硬貨を顔も見ずに奪い取って、私は急ぎ足でコンビニに駆け込んだ。
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選ばれたのはソフトクリームだった。
ちろちろと舌を出して少しずつ味わった。煙の苦さを掻き消すような濃厚な甘さだ。
「わたしもうおばあちゃんに会えないんだ。あんまり覚えてないけど。」
どこか羨ましそうな母を退屈させないよう、片手間に喋り出した。
「最後に会ったの、赤ちゃんのときだもんね。」
「生きてるうちに、もっと会えたらよかった。」
「……生きていても、会えなくなることはあるよ。」
「……そうなの?」
「わたし」が経験したことのないことだ。母の呂律が回らなくなる。酒を飲んだときとは、別種のものだった。
「相手が自分にすっかり興味をなくしちゃったり、すっかり忘れちゃったりしたら、もう、かつてのその人とは、二度と会えないの。」
話自体は抽象的だけれど、きっと具体を何度も経験してきたのだろう。幼い「わたし」でもなんとなく理解した。いろいろな痛みがあったのだろう。母は太陽を見つめる。
「どれだけ、頑張っても……」
私によく似た瞳が、ひどく痛そうだ。
「……ママ、つらかったね。」
だから静かに、母に手を添えた。かつて母がそうしてくれたように。母もその手に、幾らか体重を預けてくれていたと思う。
「……ねえマリア。」
そのとき初めて、母の瞳孔が湿っているところを見たのだ。
「いつだって、あなたを愛する人がいるということを、どうか、忘れないでいてね。」
私も、生涯忘れることはないだろう。
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<な、か、な、お、り、の日には。>
<最後に1人になって。>
<偽りのない詩を編んで。>
<鍵に触れ。>
<歌を歌って。>
<小さくして。>
<小さくして。>
<持っていく……>
穏やかな声だった。祖母らしき女性が、たまにピアノを弾いていた。画質は思ったよりも良かったから、これが撮られたのは案外最近だったようだ。かなり上質そうな部屋で、「お屋敷」であることが伺えた。
祖母の顔はピアノに隠されていて見えない。いつしか演奏が終わって、祖母は鍵盤から手を離した。余韻を味わうように、名残惜しそうに、だった。
……かと思えば、突然倒れた。まるで、誰かに袖だか頬だかを掴まれたかのように、ぱたりと。
「ママ、おばあちゃんたおれちゃ」
母はまた、泣いていた。記録の向こうにいる母を、懐かしんで、愛おしむ目をしていた。だからそんな言葉なんてどうでもよくなって、再び記録に顔を戻した。ようやく、それが終わっていたことを知った。
「ママ。すごく、すごく、懐かしい曲だね。」
「……おばあちゃんはね。こんなふうに、よく私に音楽を聴かせてくれたんだよ。」
ぽつりぽつりと、母は思い出話を始めた。その度に、表情に乏しかったあの記録が、鮮明に、たしかな彩りと香りを持って蘇った。あんずの香りが、ふわりとした。
祖母は「杏崎リコ」という名前だったこと、庭に植えられていたというあんずが大好きだったこと、幼い頃は「あんずちゃん」と呼ばれていたこと、「ピアノを弾いてほしい」とよく母がせがんでいたこと、眠れない夜はずっとそばにいてくれたこと、それから、それから……。
想うだけなら、自由だろう。
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「このプロジェクトへ参加した場合、元の暮らしには戻れません。この世界の理に抗うには、自らがその理の中に縁を残すわけにはいかないのです。」
壊れている。思い出の品が、壊れている。こんなことならポケットに忍ばせなければよかった。そのほかは全部売り払って、捨てて、断ち切ってきたのに。
これが最後だ。最後だった。私の心の臓にしまいきれるだけになるまで、小さくして、小さくして、ここまでどうにか持ってきた。
「わかりますね?」
「……はい。」
「私たちは滅亡を覆すため、透明な犠牲にならねばなりません。」
「はい。理解しています。」
目の前の女性──上栫、というネームプレートをつけている──はにこやかに同意をとる。これは必要なことだから仕方ないからね、あなたの自身の選択によってだからね。そう、突きつけるように。だから私も絞り出した。もうかえりみちは叩き潰された。目の前で。
「多くのつながりを断ち、あなたは心理的に不安定な状態となるでしょう。あなたが受け入れてくれるなら、私たちは共同体として、あなたの友となり、母となり、拠り所となることを約束します。」
爛々と、恋する乙女のように目を輝かせて、プロポーズみたいなことまで言ってのけた。禁忌の研究をすることで、救われると信じてやまない。私は、そんな顔に幼さを見出した。
「共に、この星を救いましょう。」
----承認。改竄処理を開始します。