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遮光カーテンの向こう側 4話
インターホンの音は、もはや物理的な振動を超え、
唯兎の精神を削り取る鋭利な刃へと変貌していた。
彼は耳を塞ぎながら、意識の底へと沈んでいった。
外界との接触を拒絶するほどに強固な防壁を築いた彼の中に、
唯一許された聖域――それは「過去」という名の記憶の墓場であった。
カーテンの向こう側で鳴り響く現在の喧騒は次第に遠ざかり、
彼の意識は数年前の、まだ色彩が鮮やかだった頃へと逆行する。
<【ここから、白柳 唯兎の過去】
かつての白柳唯兎は、今とは正反対の存在であった。
彼は周囲の期待に応えることに長け、
友人の輪の中心で笑うことを厭わない少年だった。
特に雪野燈との関係は、
彼にとっての安らぎの拠り所であり、
幼い頃から積み重ねてきた信頼の結晶であった。
しかし、その平穏な日常に亀裂が入ったのは、
高校入学を控えたある時期のことである。
「唯兎くんってさ、何でもいいよね」
きっかけは些細な言葉の端から始まった。
クラスの人間たちが彼を「都合の良い存在」として利用し始めたのだ。
彼は拒絶することができず、
断りきれない性格ゆえに、周囲の要求に応え続けてしまった。
最初は軽い冗談や頼み事だったものが、
次第に執拗な要求へと変質していく。
「唯兎はいい奴だから、これくらい許してくれるよ」
「あんなことまで言われたら、もう何もできないよ……」
彼が他人の機嫌を伺い、
自己を削り取って周囲の期待を満たすたびに、
彼の内面は摩耗していった。
しかし、最も残酷なのは物理的な暴力ではなかった。
それは、精神をじわじわと侵食する「疎外」という名の毒であった。
ある日の放課後、彼は教室で一人取り残された。
彼が他人のために自分を犠牲にしていることを知る者がいたのではない。
むしろ、彼の献身を当然の権利として消費し尽くした者たちが、
いらなくなった道具を捨てるかのように彼を切り捨てたのである。
「あいつ、最近変だよね」
背後から聞こえる嘲笑。
かつて親密に接していたはずの人間たちが、
一斉に彼を異端児として扱い始めた。
彼は助けを求めた。
しかし、その叫びは誰にも届かなかった。
なぜなら、周囲の人々は「唯兎なら耐えてくれる」と信じていたからだ。彼の優しさが、皮肉にも彼を孤立へと追い込む檻の鍵となったのである。
決定的な瞬間は、ある雨の日の教室で訪れた。
彼は自分の机に書かれた無数の罵詈雑言と、
自分を貶すための偽りの噂を見つけた。
そこには、かつて共に笑った友人たちの筆跡があったかもしれない。
あるいは、彼を監視し、
追い詰めるために用意された「罠」であったのかもしれない。
その瞬間、唯兎の中で何かが音を立てて崩壊した。
人は信じられるものだと思っていた。
しかし、現実は人を消費するだけの装置に過ぎないことを彼は知った。
信頼という名の絆は、
彼を縛り付ける鎖へと変貌し、彼の精神を徹底的に破壊したのだ。
「……もういいんだ」
あの日、彼は決意した。
他人の期待に応えることをやめる。
誰かと繋がろうとする意志を放棄する。
自分を守るためには、世界から姿を消すしかないと。
<【現在】
記憶の断片は、現在の暗い部屋へと引き戻される。
唯兎は荒い呼吸と共に目を開けた。
天井の一点は依然として無機質で、
カーテンの向こう側にはまだ「救済」という名の暴力が待ち構えている。
彼は自分の手を見つめた。
かつて誰かのために動かし、今はただ震えるだけのこの手。
彼にとって、外の世界はもはや人間が集う場所ではない。
自分を消費し、
傷つけ、そして最後には捨て去る「毒の海」なのだ。
カーテン一枚の向こう側で、燈が泣き、直弥が怒り、翠が揺れている。
彼らはまだ知らない。
唯兎がなぜここにいるのか。
彼らが必死に手を伸ばしているその先にあるのは、
かつての優しさが絶望へと反転した果ての地であることを。
彼は再び布団の中に身を潜めた。
外の世界では時間が残酷に進み、
彼の不在を埋めるためのドラマが加速していく。
しかし唯兎は、その劇場の観客にも出演者にもならず、
ただ舞台裏の暗がりで消え入り続けることを選んだ。
断絶は深まり、孤独は結晶化していく。
カーテンの一枚一枚が、
彼と世界との間に絶対的な境界線を刻み続けていた。