【BL】キミの望みを叶えるには【DWバース】
編集者:青鶫
【ダメ探偵×天才助手……?】完璧な助手スキルを持つ僕(朝倉水城)は、待ち望んでいた運命の探偵(山縣正臣)と出会った。だが山縣は一言で評するとダメ探偵……いいや、ダメ人間としか言いようがなかった。なんでこの僕が、生活能力も推理能力もやる気も皆無の山縣なんかと組まなきゃならないのだと思ってしまう。けれど探偵機構の判定は絶対だから、僕の運命の探偵は、世界でただ一人、山縣だけだ。切ないが、今日も僕は頑張っていこう。そしてある日、僕は失っていた過去の記憶と向き合う事となる。※独自解釈・設定を含むDWバースです。DWバースは、端的に言うと探偵は助手がいないとダメというようなバース(世界観)のお話です。
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目次
第一話 探偵と助手の運命
初めまして、初投稿です。よろしくお願いします。
別のサイトでも投稿しています(別PN)
BL作品です。苦手な方は回避をお願いします!
僕が学んだかぎり、この国で探偵と助手がそれぞれ国家資格になって、早六十年が経過している。留学中に海外で聞いた知識でも、日本という国の探偵は優秀だとされていた。僕は、僕だけの探偵とめぐりあう事を期待していたし、それが叶う日を夢見ながら、一流の助手になるべく、欧州の助手育成機関で十七歳から二十二歳までの間過ごし、そして二十三歳になる直前に帰国した。
日本の国家資格である探偵福祉士、それがいわゆる助手が助手として活動する上で必要な国家資格である。探偵の全ての面倒を見て、ケアをしていく技能を保証するものだ。
一方の探偵は、臨床推理士という国家資格によって、探偵である事が保証されている。
高校や大学において探偵学を学んだ者か、生まれながらにして探偵才能児と診断を受けた者のみが受験できる難関とされるこの国家資格の所有者は、国内でもそう多いとは言えない。
探偵才能児というのは、『視た瞬間にトリックや犯人が直観的に分かる』という能力を持っている。ただし生活能力といわれるような、一般社会への適正は著しく低い場合があり、そのため助手による福祉的な支援が必要となる場面が多い。それだけではなく助手は、推理に必要な情報を提供するなどの補佐をするから、探偵専門の支援職という扱いを受ける。
この探偵と助手であるが、お互いが誰でもよいというわけではない。
世界には、DWバースと呼ばれる、特定の探偵と助手の関係を保証する概念が存在しており、一般的に人間は、犯人を含む一般人・探偵・助手に分類可能だ。
ただし探偵と助手が生まれてくる確率は、犯罪者の数よりも非常に少ない。
探偵と助手という第二のくくりの中で、探偵の能力と助手の能力の中から、世界探偵機構という公的機関が俗に『運命』と称される関係性判定を行い、探偵と助手のペアは決定される。
どのような機序で判定しているのかは極秘なので一般には公開されていないが、一度決定された運命の相手は、以後決して変わる事はない。お互いがお互いを必要とする運命なので、変更は不可能だ。どんなに性格的に合わないと感じても、決定は絶対で、助手から見て運命の探偵は一人きりなのである。
「……」
僕は幼少時から、自分だけの運命の探偵に出会ったら、少しでもいいからその助けになりたいと感じ、自己研鑽に励んできた。
朝倉財閥の次男に生まれた僕に助手の才能があると判明した時、両親祖父母、兄と妹も、とても喜んでくれたし、今も僕を応援してくれている。
探偵才能児と同様、助手能力の保持者は、幼少時に判明する。質問紙と計測玩具を用いて判定される。
僕の助手としての才能ランクはSだった。
探偵ランキングとは異なり、助手レベルは、生まれた時から変わらない。S・A・B・C・D・Eの六評価が存在している。日本において、助手レベルSの人間は、僕を含めて十名のみだ。
定期的に実力確認試験があるのだが、発表される試験結果の一番上、一位の欄には、多くの場合、僕の朝倉水城という名前が書いてある。例外は、僕が試験を何らかの都合で欠席した場合だけだ。
助手の中の、エリート中のエリート。
僕はそんな風に呼ばれて生きてきた。
旧公家華族の流れを組む、歴史ある朝倉家は、戦前には財閥を形成していて、非常に豊かであり、そんな家庭環境も、僕が助手としての勉強に打ち込む上では、とても後押しになったと言える。だが僕が頑張ってきた動機は、ただの一つだ。
いつか、自分の運命の探偵に出会った時、助けになる助手になりたかった、本当にそれだけだ。
「……」
さて、無事に僕は、僕だけの探偵と引き合わせられた。
運命の相手と引きあわせられる事になった前日の夜は、緊張して眠れなかったほどだ。期待で胸がはちきれそうだったし、早く探偵の活躍をこの目で見たかった。
運命の探偵と出会うまでは、助手は本当の意味では、人生に満足感を得られないとされる。僕は不思議とそれまでに、人生に何かが欠けているような心地になった記憶はなかったが、一般的にはそうだと聞いていた。だから、今まで以上に人生が豊かになるのだろうと期待していた。
今となっては懐かしい記憶だ。
ご覧くださり、ありがとうございます!
第二話 ダメ探偵
実はこのお話は気に入りすぎてゲームも作りました。
もしどこかで見かけたらよろしくお願いします!
僕は自分だけの探偵、運命の相手を一瞥し、深く溜息をついた。
「山縣……っ、あれほど、あれほど僕は、食べ終わったらせめてお皿は、キッチンへと運ぶように言ったよね?」
散乱しているゴミを見て、僕は泣きたくなった。
体が震えてくる。
リビングの黒い横長のソファに、よれよれの白いシャツと緩んだ黒いネクタイ姿で寝っ転がっている山縣正臣は、僕と同じ二十三歳。
僕の運命の相手――即ち、探偵である。
常々思う。よく国家資格をもらえたな、と。
「うるせぇな。今、ガチャに忙しいんだよ」
山縣はスマートフォンを片手に、アプリのゲームをしている。
僕はこの三日ほど、実家の法事で帰省していたのだが、事務所の上階にある居住スペースに戻ってきて、眩暈がしそうになった。
黒いローテーブルの上には、肉まんのゴミがのった皿が放置され、ペットボトルのキャップや空になったペットボトルが散乱し、食べかけのピザと箱があって、そのチーズなど干からびている。
床には雑誌や発泡酒の空き缶が投げ捨ててあって、僕から見るとその部屋は、最早人間の過ごす場所には思えなかった。
――探偵に生活能力がないことは、とても多い。
そのため一流の助手は、掃除や料理をはじめとした家事技能も学ぶ。そして探偵がきちんと社会に適応できるように、少しずつやり方を教えたりする。
僕だって、家庭料理から一流のフレンチまで料理ができるし、洗濯や掃除も極めている。
だが、だからといって、最低限の暮らしぶりを、探偵に求める事は間違っていないし、世間一般の探偵だって、ここまで破綻した生活は送っていない。
溜息をついてから、僕は虚ろな眼差しで、ゴミ袋を手にし、その場の掃除を始めた。
端的に言って、山縣はダメ人間だ。
かつ、ダメ探偵だ。
助手ランクとは異なり、探偵ランキングは毎年四月に更新されるのだが、前回の判定はランクEであり、それはほぼ一般人という評価だった。
また、ランキングを集計するポイントはその年に事件を解決した数や、事件の難易度により与えられるのだが、現在そのポイントは2である。一度だけ、迷い犬の発見をした結果得たポイントだが、それだって山縣にとってはいつもは失敗してばかりの依頼だった。
どうしてエリート中のエリートの僕の相手が、山縣のようなダメ探偵なんだろうか?
僕はやりきれない。
これまで頑張ってきたのに、山縣が相手では、部屋の掃除にしか僕の技能はいかせない。泣きたくなるというのはこの事だ。
僕が実家の支援を受けて事務所と居住スペースを、マンションを一棟借りて用意したら、山縣はアルバイトもやめて、最低限の収入さえ得なくなってしまった。
それまで……僕と一緒に暮らす前は、アパートの家賃と水道光熱費やスマホ代は、コンビニのアルバイトをして稼いでいたらしいのだが、今ではそれすらない。
完全に僕に寄生している無職だ。
探偵の仕事もしないのだから、無職というしかない。
山縣を一瞥すれば、シャワーは浴びていた様子で、黒い髪は艶やかだ。目の色も同色の黒で、髭も幸いそっていた様子だから、そこは安心した。部屋は汚いが、せめてもの救いは、山縣がシャワー好きという部分だろう。
少々釣り目だが、形のいい大きな目をしている山縣は、鼻筋も通っていて、薄い唇も形が良い。顔面だけは、男前だし、食生活は破綻しているが、それなりに背丈があり、筋トレも好きらしく細マッチョだ。
僕は山縣よりは背が低いが、世間一般と比較すれば決して低くはない。平均よりは少し大きい。だが筋力はあまりない。髪と目の色は生まれつき茶色で、これは朝倉家に多い色彩だ。耳につけているピアスは、いつ買ったのか覚えていないが、なんとなくこれがないと落ち着かない。
「朝倉、腹減った」
「……何が食べたいの?」
幸い掃除が一段落していたので、僕は尋ねた。するとスマホをテーブルの上に置いてから、ソファに座りなおした山縣が、まじまじと僕を見る。
「肉じゃが」
「今から……?」
現在は午後三時を少しまわったところで、三日前には材料もあったが、肉じゃがを作るには時間がかかる。
「僕、急いで帰ってきたから、疲れてるんだけど」
「食べたい」
「……分かったよ」
僕としては宅配サービスを利用したかったが、おずおずと立ち上がる。何故なのか、山縣は僕に家庭料理を作らせる事が非常に多い。その後僕は、黒いエプロンを身に着けて、肉じゃがを作る事にした。
アイランドキッチンの向こうへ行き、僕は黒いギャルソンエプロンを腰もとに身に着ける。僕の実家の地方では、肉は豚肉を用いるのだが、牛肉も決して嫌いではない。いつもこの部分は、冷蔵庫の食材と相談している。その結果、本日は豚肉に決まった。
じゃがいもとたまねぎ、およびニンジンは、いつも常備するようにしている。それぞれ皮をむいて包丁で適切なサイズに切っていき、まずじゃがいもは水にさらした。味がしみ込むに越したことはないが、煮崩れを阻止するためだ。その後白滝の処理をした。
油を少しひいた鍋で、僕は特にじゃがいもの加減に気を配りながら、食材を軽く炒める。
そして鉄板といえる、砂糖・みりん・醤油、それからだし汁を、事前に混ぜておいたので、ゆっくりと鍋に加えた。火加減と煮込む時間に気を配りつつ、それから豚肉を入れて、淡々とアクを取り除く。いよいよ白滝を入れてから、味を確かめ、火を止め蓋をした。冷ます事で味が馴染むのを待つ。
腹が減ったという割には、それなりに時間を要するこの工程を、大人しく山縣はリビングから時折こちららを見ながら、大人しく待っていた。
僕は皿に盛りつけ、最後に彩りを考えて、絹さやをのせる。
こうして完成した肉じゃがを見れば、じゃがいもには調味料の色がしみ込んでいて、具材は全て柔らかそうに見えた。僕の作るこの家庭的な肉じゃがは、僕自身はとても味が気に入っているが、何故山縣が好むのかはあまりよく分からない。
なお山縣には好き嫌いはみえず、僕の用意したものならばなんでも食すのだが、肉じゃがとハンバーグは中でもリクエストが多い。ただ他にも、僕は見ていて、山縣が好む料理をいくつもすでに覚えた。
「出来たよ」
「ん」
僕の声に、山縣が頷いた。僕は完成した肉じゃがと、土鍋を用いて炊いたばかりの白米、他には切り干し大根を簡単に用意して、リビングへと運んだ。食事は、黒いローテーブルの上でとる事が多い。
山縣は、僕がそろえた皿や箸、グラス類に文句をいう事も無かったので、現在は僕とそろいの品を用いている。あまり物品には、こだわりがないのかもしれない。
少し早いが、僕も急いで戻ってきたため、昼を抜いていたから、一緒に食事とした。
「いただきます」
「いただきます」
僕達の声が重なった。その後手を合わせ、箸を手に、僕はまず、豚肉を口へと運ぶ。じゅわりとしみ込んでいた煮づゆが、口腔に香りとともに広がる。我ながら上出来だ。
「美味しい?」
「おう。朝倉の肉じゃがは、最強だよ。美味い」
僕はその言葉に満足した。山縣はいつも、料理や掃除、洗濯をはじめとした僕の家事能力については、惜しみなく褒めてくれる。
……そんな時は、嬉しくもあり悲しくもある。
僕でなく、ハウスキーパーの方を雇おうかと、何度か考えた事すらある。
だが、探偵福祉士として、これは助手である僕の仕事だと思いなおした。
こうして食後僕は、山縣がシャワーを浴びに行ったので、お皿を食器洗い機に入れてから、洗濯機をまわし、絨毯には掃除機をかけた。一棟まるまる我が家なので、生活音を気にしなくてよいのが救いだ。
一階が駐車場、二階が探偵事務所、三階が事件資料庫、吹き抜けにして螺旋階段で繋いでいる四階から六階までが居住スペース、七階が書庫だ。八階は屋上で、一応ヘリコプターが発着できる。僕の生家の持ち家の一つだった。都心に近いこのマンションは、交通の便もよく、近隣のショッピングモールにも近い。
一仕事終えてから、僕は珈琲を淹れて、ソファに座りなおした。
正面のチェストの上には、僕が買ってきた花がいけられている。
僕は花が好きだ。
そしてタブレットを起動し、『事件・犯罪マッチングアプリ』を開く。そこには、様々な依頼が並んでいる。警察機関からの依頼も多いし、一般市民からの迷子犬捜索の依頼も数多い。依頼にも難易度別のランキングが存在している。
僕は何気なくテレビをつけた。探偵は人気職なので、たびたびメディアに登場する。
今も丁度、難易度の高い殺人事件を解決したとして、不動のAランク探偵である御堂皐月とその助手の高良日向が、報道陣に囲まれている光景が流れ出した。僕は、ぼんやりとその映像を眺めていた。
第三話 山縣との生活
なお、Sランクに到達した事のある探偵は、過去に五人ほどしかいないそうで、犯罪者に狙われる可能性があるからと、氏名は公表されていない。まぁ探偵の場合はランキングが下降するので、今はSランクではない可能性もある。
逆にEランクの探偵は、珍しいとすらいえる。
探偵ランキング最下位、ポイント最低者として、山縣は非常に有名だ。
そんな方向性で名を売らなくてもいいと僕は思う。
だが山縣本人には、向上心ややる気というものが欠落している。
それでも山縣だけが、僕の運命の探偵であるから、僕はそばにいるしかない。
それが、世界探偵機構の取り決めた規則だ。
たまに他の探偵と助手に会うと、僕は憐れみを含んだ目で見られる事が多い。
「はぁ……」
これでまだ、山縣が性格的にいい人であったならば、僕も我慢できる。だがそろそろ限界だ。山縣はゲームで遊んでばかりで、たまに僕を見ると、我がままをいうのみだ。
「朝倉ー!」
山縣が浴室から僕の名前を呼んだ。
「バスタオルが無ぇんだけどー! 下着も出しといてくれ」
それくらい自分で用意しろよと思いつつ、僕はひきつった笑みでそれらが入っているクローゼットへと向かった。
僕は笑顔だが、キレそうである。
だというのに、言われたままに僕は準備をしてしまう。
なんとなく、山縣の世話をしてしまう。
これが、運命の絆という事なのだろうか?
そんな探偵と助手の絆、僕はいらなかったと心底思う。
洗面所兼脱衣所にある洗濯機の上に言われたものを置いてから、僕は横長のソファへと戻った。そして再びマッチングアプリを眺める。
「山縣に出来そうなものは……そうだなぁ、猫探しかな。他にないなぁ」
ぶつぶつと呟いていると、山縣が戻ってきて、僕の隣に座った。僕は半眼でそちらを見ながら、少し横に移動して距離をあける。すると指の長い骨ばった手で、不意に山縣が僕の頭の上をポンポンと二度叩いた。
「鬱陶しいな、やめろよ!」
「ん」
山縣はなにかと僕の頭を撫でる。
「俺はお前がいないとダメなんだよ。帰ってきてよかった」
「それはそうだろうね。僕がいなかったら、家もなくなるからね」
「そういう意味じゃねぇよ。とにかく、いないとダメなんだよ」
山縣は僕をまじまじと見ると、真面目くさった顔でそう述べた。
僕は運命を感じられないが、どうやら山縣は、僕を運命の助手だと考えているようだ。
そこだけは、僕も悪い気はしない。
他者に求められるというのは、誰だってそこそこ嬉しいと感じるんじゃないだろうか。
「じゃ、この依頼……猫探し。僕はそこに行きたいから、いないとダメならついてきてくれるよね?」
「猫? GPS、ついてねぇの? 首輪とかに」
「依頼文には、書いてないけど? 明日とにかく、事情を聴きに行こう」
「……怠ぃな」
「山縣! 今月もまたゼロポイントになっちゃうだろ? お願いだから……!」
「別にポイントなんかなくても俺は気にならん」
「僕が気になるんだよ!」
僕は常日頃穏やかな物腰だといわれるのだ、山縣が相手だと思わず声を上げてしまう。山縣は僕を苛立たせる才能の方が、探偵としての才能より明らかに優れている。
「分かったよ。だから笑顔でキレんなって……」
「怒りもするさ」
「機嫌直せよ」
「……はぁ。僕、そろそろ寝るね」
「おやすみ」
こうしてこの日は、それぞれ就寝した。
翌朝、僕は六時に起きて、朝食の用意にとりかかった。
本日のメニューとして考えている品は、厚焼き玉子、ほうれん草の胡麻和え、油揚げとねぎの味噌汁、焼き鮭、そして白米だ。僕の実家にはシェフがいるから、料理を作るのも久しぶりだ。だからというわけではないが、山縣の好物ばかりを無意識に作る事に決めた僕は、我ながら山縣に甘いなぁと感じてしまう。
白米は炊飯器でたく場合と、土鍋でたく場合がある。朝は、炊飯器で予約をする事が僕は多い。ただ山縣は、土鍋の方が好きらしいと分かっていたので、今朝は土鍋だ。焼き鮭はフライパンにクッキングシートをしいて焼き上げてから、飾りと香りづけのために、大葉の上にのせる。油揚げとねぎの味噌汁の匂いがキッチンに漂う頃、僕は厚焼き玉子の準備をした。僕も山縣も、少し甘めの玉子が好きだ。食の好みの一致は、共に暮らす上では重要だと思う。ざるでこした卵液を、専用のフライパンで整形していき、僕は熱がとれてから、均等に切った。輝くような黄色は、それだけで食欲をそそる。ほうれん草の胡麻和えに関しては、昨夜の内に朝を見越して作り置きしておいた品だ。不在時以外は、僕は多くの場合、週末にいくつかの品を作り置きしている。
それらを僕はテーブルに並べていった。うん、我ながら上出来だ。
次の仕事は、山縣を叩き起こす事だ。山縣はどんなに轟音がする目覚まし時計をかけても、アラームをかけても、僕が起こさないと起きない。聴覚に困難があるのか疑うほどだが、日常会話はできるのだから、単純に寝穢いだけだろう。
一応ノックをしてから、山縣の部屋の扉を開ける。
山縣の部屋には、巨大なセミダブルのベッドしかない。だからこの部屋のみ、山縣がいても綺麗だ。余計なものを置かなければ、山縣も汚さないのである。
「山縣、朝だよ。起きて」
「……」
「山縣!」
端正な顔立ちの寝顔を見る。瞼はピクリとも動かない。山縣は、思いのほか長い睫毛を揺らす事もせず、ただ寝息はたてずに眠っている。
「山縣!」
「……」
「朝だって言ってるだろ!」
「……うるせぇな」
「!」
僕の腕を取ると、山縣がベッドに引きづりこんだ。護身術を極めているらしく、抱きこまれた僕は必死に押し返そうとしたが、全然体が動かなくなってしまった。
「山縣!」
思わず僕は、目を閉じたままの山縣を睨んだ。週に一度は、僕はベッドに引きずり込まれている。
「起きろ!」
「あ? ああ……なんだよ、朝倉?」
やっと起きた山縣が、僕を放して、僕の両側に腕をつき、体を浮かせた。押し倒される形で、僕は山縣を見上げた。山縣は僕を睨むように見て怪訝そうにしている。その顔を見据えてから、僕は素早く腕から抜け出して床に降りる。
「だから朝だって言ってるよね? ご飯が出来てるよ!」
「おう……おはよ」
「おはよう! さっさと着替えて! 今日は猫探しだからね!」
僕は強い口調でそう告げてから、リビングへと戻った。
着替えてから、山縣が顔を出す。
欠伸をしている姿を、僕は半眼で見守る。
だがすぐに、山縣はローテーブルの上を見て目を丸くし、それから嬉しそうな顔をした。
「美味そう」
「見た目もいいけど、味もいいと思うよ」
「思う……か。俺が代わりに断言する。美味いよ、朝倉の料理は」
「な、なんだよ。改まって……いいから、食べて。仕事があるんだからね!」
僕はそう告げ手を合わせた。
山縣も席に着くと、箸を手にして食べ始める。
美味しそうに食べてくれる穏やかな瞳の山縣を見ていると、結局は嬉しいし、仕方がないなぁという心地にさせられる。ただそれは、決して悪い気分ではなかった。
第四話 探偵才能児
「すみませんねぇ、今朝ひょっこり戻ってきたんですよ」
依頼先に行き、依頼主の腕に抱かれている猫を見て、僕は肩を落とした。ただ、猫が戻ってきたのはよいことなので、自然と僕の両頬は持ち上がる。
「よかったですね。では、僕達はこれで」
そう告げてから、僕は山縣を見た。
「ほら、行くよ」
「――ああ」
一拍の間を置いてから、興味がなさそうに山縣が頷いた。
僕が歩き出して、車の運転席をあけると、山縣は助手席に乗り込んだ。山縣の一張羅は黒いスーツだ。本日、シャツに皺がついていないのは、僕がアイロンをかけたからであるし、ネクタイがピシっと締められているのは、僕が結んだからだ。山縣は一人だと、いつもよれよれの状態である。
車を発進させて、僕は溜息を胸中で押し殺す。
せっかく見つけた依頼がダメだった現在、次のあてもない。
「山縣もさ、ちょっとは依頼を探してくれないかな?」
「なんで?」
「なんでって……ポイントは2のまんま、探偵ランクは最下位……ちょっとはどうにかしようと思わないの? 逆になんで思わないの?」
「事件を解決したっていい事なんか何もねぇよ。俺はそれよりも、平穏な生活を望む」
「じゃあなんで探偵になったの?」
「なりたくてなったわけじゃねぇから」
「へ?」
探偵のプロフィールは、最重要極秘機密であるから、助手にも開示されない。
よって、本人から聞く以外、知るすべはない。僕はてっきり、山縣は探偵学科をなんとなく卒業した平々凡々な探偵だと思っていた。
探偵学科には、探偵才能児でなくとも、ほぼ一般人といえるような、探偵知能指数が少し高いだけの人間も進学可能だ。
逆に言うとその指数が高ければ入学できるので、EランクやDランクの探偵は、とりあえず大学卒業資格を得るためという理由で進学する事も多い。
なお、その後は探偵を副業として、他の仕事をしているパターンばかりだ。
だからコンビニのアルバイトで生計を立てていた過去がある山縣は、てっきりそのタイプだと、僕は考えていた。
「山縣って、まさかとは思うけど、探偵才能児だったの?」
「……」
窓の外を眺めている山縣は、何も言わない。
だが驚いた僕は、思わず車を停車させた。
「えっ、そうなの?」
「だったらなんだよ?」
探偵才能児は、日本には約三百人しかいないとされている。
世界でも珍しい存在だ。
そして国内の探偵才能児のランクは、基本的にB以上だと聞いている。
ごくまれに、怪我や病気により探偵業が出来ない時は、一時的に下位のランクになる場合もあるが、それは例外だ。だが、山縣の探偵ランクは最下位のEだ。
「もしそうなら……」
探偵としての才能や能力を伸ばすために補佐するのは、助手の仕事の一つだ。
山縣がこのように低ランクなのは、僕の力不足といえる。
困惑しながら僕は山縣を見た。
すると山縣がチラリと僕へと視線を流した。
「俺は危ない仕事をする気はない。今のままでいい。生きていければそれでいいんだよ」
「で、でも……ねぇ、探偵才能児としての探偵知能指数はいくつだったの?」
探偵知能指数はほぼ一般人であっても持っている事はあるが、こと探偵才能児にかぎってはずば抜けている。それが探偵才能児の、探偵才能児たるゆえんだ。
「どうでもいいだろ。お前には関係ない」
「関係なくないだろ? 僕は山縣の助手なんだよ? 正確に把握しておきたい。ねぇ、いつ探偵才能児だと判明したの? それくらいは教えてくれない?」
今年の四月に顔を合わせて、一緒に暮らすようになって、もう二ヶ月だ。
現在は六月、梅雨の季節で、車窓からは公園に咲き誇る紫陽花が見える。
だがこの二ヶ月というもの、山縣は僕に何一つプライベートについては教えてくれなかった。唯一、四月の半ばに『コンビニのバイトをやめてきた』といった話だけが、僕の持つ山縣の職歴に関する知識だ。
「三歳だ」
「えっ、そ、それって、最初の検査で、って事?」
「まぁな」
「すごい……な、なのに、なんで今はこんな風になっちゃったの?」
「こんな風? どういう意味だ?」
「依頼や事件に、全然興味がないじゃないか。一般的に、三歳で検査を受けるとすれば、何か事件を解決して、小学校入学前の一斉検査より前段階で測定された場合だろ? 探偵才能児は、直感で推理できるほかに、事件に興味を持たずにはいられない特性があるはずだよ? なのに、なんで山縣は、今、なんの事件にも興味が無くなっちゃったの?」
僕が切実な声を上げると、山縣が呆れたような顔で、大きく吐息した。
呆れているのは僕の方だ。
「事件、特に刑事事件っていうのは、危険がつきものだろ。俺が行けば、朝倉も行く。要するに、俺はともかく朝倉にも危険が迫る。分かってんのか?」
山縣がつらつらと述べた。
「そりゃあ僕は助手だからね。山縣が危険な事件に臨むなら、僕も行くよ」
「嫌なんだよ。朝倉が危険な目に遭うのが」
「はぁ? 僕の事を想ってるって言いたいの? だったら逆だ。事件を解決してくれ。僕は活躍しろとまではいわないけど、山縣がきちんと探偵をしている姿が見たいし、今のハウスキーパー状態の自分ほど悲しいものはないよ」
僕が断言すると、山縣が腕を組んだ。
「そんなに俺に事件を解決してほしいのか?」
「当然だろ! 助手は、探偵が推理して事件を解決した時に、充足感を感じるんだからね。だから探偵のそばにいてしまうんだよ。なのにそれもないのに、山縣の横にいるなんてさ、一方的に運命とされはしたけど、意義が分からない」
「……朝倉。お前は、何もなければ、俺のそばにはいてくれないって事か?」
「いる必要がないからね」
「つまり俺が探偵でなければ、お前にとって、俺は無価値という事か?」
「えっ……い、いや、そこまでは言ってないけどさ……」
山縣は無表情だったが、僕は困惑して口ごもった。
だが、山縣が探偵でなければ、そして僕が助手でなければ、僕達は一緒にいる必要はなし、そもそも出会う事も無かっただろう。
「……とりあえず、帰ろうか」
「今日はお前のハンバーグが食べたい」
「はいはい。途中でスーパーによるよ」
こうして僕は、再び車を発進させた。
行き先は、近所のショッピングモールだ。
二人で車から降りて、ショッピングカートにかごをのせる。山縣と一緒にくると、結構余計な品を買わせられるのだが、僕はついつい許してしまう。本日も、僕がハンバーグの材料のほか、冷蔵庫に補充しておきたい必要なものを購入する横で、山縣はポテトチップスやチョコレートといった菓子類をカゴに放り込んできた。
溜息をつきながら有料のレジ袋にそれらを入れて一息ついていると、山縣がひょいとそれを持ち上げた。
「ありがとう」
山縣はこういった、運ぶような気遣いはちょくちょくしてくれる。こういう部分が、きっと根は優しいのだろうと思わせるから、非常にずるいと僕は思う。
その後帰宅し、僕はハンバーグ作りにとりかかった。本日は、目玉焼きを上にのせる予定だ。ひき肉を処理してから、空気を抜きつつ成型する。ソースの用意を終えた後、僕はフライパンを見た。そうして真ん中をくぼませたハンバーグを焼いて、酒でフランぺする。こうして蒸し焼きにしてから、一息ついた。醤油やお酢、野菜や果物でつくったソースをかけて、生クリームで彩ってから、僕はその上に目玉焼きをのせた。付け合わせは、揚げたポテトと甘く煮たニンジン、いんげん、そして別の皿にはレタスとチーズとコーンのサラダを用意した。僕はパンで食べるよりも、ライスの方がハンバーグの時は好きだ。
僕が料理をする間、リビングのソファに座った山縣は、ずっとスマホを見ていた。どうせまた、ゲームだろう。
「山縣、できたよ」
「今いいところだから、ちょっと待ってくれ」
「冷めるけど?」
「お前のハンバーグは冷めても美味いだろ」
その一言に、不機嫌になりかけた僕の気分は、一瞬で浮上した。
山縣は、僕を苛立たせる才能もあるけれど、僕をふとした時に喜ばせるという、天賦の才もあるようだ。だから、憎めない。それに、無価値だなんて、思わない。
その後、二人で食事をした。
この日作ったハンバーグも、我ながら上出来だった。
第五話 抜け落ちた記憶
翌日の午後、僕は小雨が降る中、黒い傘をさして歩道を進んで行った。そして目的地であるビルの二階、天草クリニックへと向かう。エレベーターを降りてクリニックの扉を開け、僕はよい匂いのする加湿器を一瞥した。観葉植物の緑が落ち着く。
ここの医師の天草先生は、国内でも数少ない探偵機構認定医だ。主に探偵才能児の判定や、探偵と助手へのカウンセリング、探偵喪失感や助手不在時不安症、事件被害者の診察などを行う探偵関連スペクトラム科の専門医である。僕は日本に帰ってきてから、ずっとこちらへ通っている。留学前にも半年ほど、このクリニックに入院していた。ビルの三階から七階までは入院病棟だ。
受付をしてから、待合室の白いソファに座り、僕はタブレットを見ていた。
犯罪・事件マッチングアプリをタップしながら、何かいい事件がないかと探していた。
事件を探すのは、まるで事件の発生を祈っているようで、僕はあまりいい気がしない。けれど、僕は山縣のために、日々依頼を探している。
山縣は、現在周囲にもダメ探偵の烙印を押されている。
僕はそれを払拭したい。
実際にダメ探偵ではあるが、少しでも僕の力で前向きにさせたい。
それも、探偵才能児だったというのならば、僕次第で山縣は、もっと探偵として活躍できるはずだ。探偵才能児は、特別なのだから。
「朝倉さん、どうぞ」
その時、第一診察室が開いて、黒縁眼鏡の医師が、僕に声をかけた。顔を上げて、僕は天草先生を見る。年齢は三十代半ばで、いつも白衣姿だ。
慌てて診察室へと向かい、僕は扉が閉まるのと同時に、促されて椅子へと座った。
「最近はどう?」
天草先生が、微笑しながら僕に聞いた。僕は苦笑を返す。
「全然ダメです。変わりありません」
ちなみにこれは、山縣の事ではない。
――実は僕は、十六歳から十八歳直前までの、即ち高校二年生から三年生の後半までの記憶が欠落している。留学する直前に、ある日このクリニックの病室で我を取り戻した。僕は高校二年の十六歳のある日の記憶……前期末テストの結果を見ていた後から、病室で目を覚ますまでの間の記憶が、すっぽりと抜けている。記憶喪失だ。
「そう。焦る事はないよ。ゆっくり向き合っていこう」
天草先生は頷くと、電子カルテに記入を始めた。
僕は頷きつつも、やるせない気持ちになる。
僕が記憶喪失になった理由は――世界探偵機構指定極秘事件Sに分類される、特殊な事件のせいらしい。その分類の事件は、実際の関係者……たとえば仮に被害者であっても、資料を閲覧する事は禁止されている。
だから僕は、己がどんな事件でどんな目に遭って、なぜ記憶を喪失するに至ったのかを、知らない。
世界には、犯罪が溢れている。
だが、Sランクの事件は、決して多くはない。
記憶にある僕の自分の生い立ちは、物心がついてからは、ほぼ助手としての勉強していた事ばかりだ。裕福な実家に生まれ、幼少時からピアノと語学を習っていた僕は、小学校の入学前の全国一斉検査で、助手としての適性が明らかになった。
そこで両親の勧めもあり、小学校から、助手育成を専門としている名門校へと進学した。そして中等部からはより専門的な助手教育を受け、難関の進学試験に合格し、高等部へと進学した。
学業成績も助手としての技能も、僕は首席だった。
運動も得意な方だった。
二期制で、単位制の梓馬学園においても、僕は一目おかれる存在だった。逆にそのせいで、気心がしれた友人はできなかったのだが、かといって仲間外れにされていたというような事もない。
ただ助手を育成する学園だったから、運命の相手がより優秀である者は、自慢げにしていた事を覚えている。
運命の探偵は、早い者ならば中等部の内には判明する。
僕はその中にあって、探偵が見つからず、そういう意味では劣等感があったようにも思う。
だからこそ、いつか自分だけの探偵が見つかった時には、存分に己の力を発揮し、役に立ちたいと思っていた。
助手同士は、ある種のライバルだ。
それは探偵同士も同じだろう。
しかし僕は、事件に巻き込まれて記憶を失ったらしい。そして極秘事件であるため、周囲の助手教育を受けていた級友には、緘口令がしかれていたようで、僕がそれとなく尋ねても、決して口を開かない。
僕の扱いは休学になっていたが、復学する気にはなれなかったし、周囲の勧めで留学する事にした。
なお家族も事件については、決して僕には教えてくれなかった。
だが留学先で僕は、新たな友人を得たし、記憶がない事から来る不安も次第に消失し、改めて自分だけの探偵のために、頑張ろうと決意できた。
『運命の探偵と引きあわせたいから、帰国してほしい』
そんな知らせが届いた二十二歳の冬には、僕は歓喜した。
だが、春になって引き合わせられた相手は、繰り返すが山縣である。
今年、僕と山縣は、ともに二十三歳になるが、果たしてどちらかが誕生日を迎える前に、一つでも事件を解決できるのか、僕は疑問だ。
「じゃあ、また来月に」
天草先生の言葉で我に返り、僕は頷いた。
帰宅すると、エントランスに黒い革靴があった。来客だろうかと首を傾げながら、僕はその場合に備えて、静かにリビングへと向かった。するとまだ午後だが灯りがついていた。今日は雨だから、薄暗い。
「だから、頼んでるだろう。力を貸してほしいんだ」
「検討しておく。朝倉が帰ってきたみたいだから、そろそろ口を閉じろ」
その声に、僕は邪魔をしてしまったようだと判断しつつも、リビングの扉を開けた。
するとそこには、背広の上に緑色の外套を羽織っている青年が一人立っていた。
切れ長の目をしていて、黒い短髪をしている。僕を見ると、その青年は満面の笑みを浮かべた。三十代半ばくらいに見える。
「お。こんにちは」
「こ、こんにちは」
僕が会釈をすると、ソファに寝そべっていた山縣が、キッチンの方へと視線を向ける。
「朝倉、珈琲が飲みてぇ」
「あ、俺も飲みたいな」
「青波はとっとと帰れ」
それを聞いて、僕は対面する席に座っている青年の前に、何も飲み物がないことに気が付いた。慌てて僕はキッチンへと向かい、珈琲を三つ用意して、リビングへと戻る。すると起き上がった山縣が、僕の座る場所を開けていた。
「お気遣いなく。でも、ありがとう。ごちそうになる」
「いえ……ええと……」
「――こいつは、青波悠斗。よろしくする必要はない」
山縣の声に、僕は座りなおす。
「はじめまして。山縣の助手で、朝倉水城といいます」
「――はじめまして、か。そうだな。確かにそうなるんだろうな」
「え?」
「いいや、なんでもない。俺は青波。よろしくな。俺としては、よろしくしてほしい」
笑顔の青波さんは、楽しそうな目をして僕を見た。
「朝倉くんからも、山縣に言ってくれないか? 事件を解決してほしい、って」
「事件、ですか? え? どういった?」
驚いて僕が目を丸くすると、外套の胸ポケットから、青波さんが黒い手帳を取り出した。僕は思わず息を飲む。
「警察からの依頼だ。俺は特別指定事件担当の実績で、これでも警視正だ。若いだろ? 史上最年少だ。まだ三十代半ばなんだけどなぁ。ま、職務内容としては、探偵に依頼をもっていって、犯人を教えてもらって、証拠固めをするって係だ」
「それってAランク以上の事件担当の部署じゃ……?」
「その通り。探偵が真相を暴く、警察が証拠を固める。この流れにのっとり、俺は証拠を固める捜査会議のトップをしている事が多い。ただ、探偵に依頼する時は、所轄と同じように、自分の足を使ってる」
明るい声で述べてから、青波警視正が改めて山縣を見た。
「と、いうわけで、山縣にも依頼にきたわけだ。いやぁ、居場所探しにこれほど手間取るとは思わなかったよ、俺は」
「考えてはおくが、マイナスの方向だ。とっとと帰ってくれ」
冷ややかな山縣の声に、僕は二人を交互に見る。
「あの、どんな依頼なんですか?」
僕が尋ねると、困ったように青波警視正が笑った。
「連続放火事件なんだ。手がかりが何もない。山縣なら、犯人を見つけてくれると思って、ここに来たんだよ」
「山縣なら……?」
「そ。山縣は、こういう手がかりがない事件も得意だからさ」
「え? そ、そうなんですか?」
「俺が知るかぎりは、そうだよ」
笑顔の青波警視正の言葉に、僕は目を丸くする。
「青波、余計なことを言うな」
「俺、おしゃべりだから、山縣が引き受けてくれないと言うんなら、もっとペラペラと喋るぞ?」
「――分かった。もう一回資料を出せ」
「そうこないとな」
僕が見ている前で、青波警視正が、鞄からいくつかの写真や分厚いファイル、捜査資料が入っているらしいタブレット端末を取り出した。
僕は、山縣に捜査依頼をする警察官が存在する事にも驚いたが、山縣が事件を過去に解決した実績がある事にも驚いたし、犯人を見つけられるそうだという話にも唖然とした。
山縣が、本当に……?
山縣は捜査資料の分厚いファイルをパラパラとめくった。読んでいるようには見えない。仮に読めていたとすれば、速読だ。
続いてそれをテーブルに放り投げてから、山縣はタブレットを手にした。助手には閲覧権限があるので、僕はファイルに手を伸ばす。
その正面で、青波警視正はカップを持ち上げた。チラリとそちらを見て目が合うと、優しい顔で笑われた。明るく快活な印象を受けながら、僕はファイルを見る。
連続放火事件の概要が書かれていた。一軒目のあとで、連続して二軒目と三軒目、そして最新の事件で七軒目らしい。共通点は、各家の子供が、全員同じ小学校に通っている事と書かれている。
テーブルの上には、各被害者宅の全員の写真が並べられている。
「このガキだ」
山縣はタブレットを置くと同時に、最初の被害者宅の三男である小学生の写真を、指先でコツコツと叩いた。
「ありがとう」
両頬を持ち上げた青波警視正は、それから資料をしまい始めた。
何故、とも、理由は、とも、根拠は、とも、尋ねない。
本来優れた探偵才能児とは、そういう扱いを受ける存在だ。見れば犯人が分かるし、事件の全容も即座に把握できる。そこに間違いはない。
よって証拠固めや警察の仕事となるのだが……優れたと評されるような探偵才能児は少数であるから、多くの場合は、理由を問われる。
しかし青波警視正がそうする事はなく、当然のように鞄に全てをしまい、彼は立ち上がった。
「助かったよ。じゃあな、二人とも。珈琲、ごちそうさま」
朗らかにそういうと、青波警視正は帰っていった。
僕はポカンとしていた。
「朝倉」
「な、なに? え? 山縣……君って、本当に探偵才能児だったとして、え? レベルは?」
探偵才能児には、レベルがある。探偵ランキングにも探偵ポイントにも左右されない、生まれながらの資質だ。助手レベルと似たくくりである。
「どうでもいいだろ。それより腹が減った。今日の夕飯はなんだ?」
「すき焼きの予定だけど……」
「おお、いいな。早く食べたい、作ってくれ」
「うん? 待って、状況を説明して。青波警視正とは元々知り合いだったの?」
「ちょっとな」
「ちょっとって何? 詳しく話して」
「やだね。それより腹が減ったって言ってんだろ」
「……山縣。ねぇ、お願いだから教えてよ。僕は君の助手なんだよ?」
「俺の中では、話す事よりも、すき焼きの方が優先順位が明確に高い。早くしろ」
結局山縣は僕には教えてくれなかった。
第六話 夢と蟹
しかし梅雨時とは、嫌な季節だ。いいや、梅雨でなくとも、僕は雨が降ると、時折同じ夢を見る。連続性はないのだけれど、僕は同じ夜の街に立っている。誰かが先を歩いているのだけれど、その顔ははっきりしない。
はっきりしているのは、僕の足元に、黒い仔猫の姿があるという部分だ。繰り返し、この夢を見る。僕は夢の中で、この仔を助けたい、と、強く想っている。なのに僕は知っている。その猫は、亡くなってしまう事を。それを、先を歩く誰かが、酷く悲しんだはずだという事を。その日は、小雨が降っている。そして、僕は大抵の場合、そこで飛び起きる。この夢には続きがあるはずで、何故亡くなるのかも夢で見ている気がするのだけれど、目を覚ますと曖昧になってしまい、僕はその部分を思い出す事ができない。
「また……見ちゃったなぁ」
夢なんて漠然としたものであるし、日中残差の影響だって色濃いだろうから、特別この夢に意味はないのかもしれない。けれど飛び起きた場合、僕はいつもびっしりと汗をかいている。
手を伸ばしてスマホを手繰り寄せれば、時刻はまだ午前四時だった。起床するには少し早いけれど、眠れそうにもなかったので、僕は軽くシャワーを浴びる事にした。
温水が、僕の茶色い髪を濡らしていく。頭からシャワーのお湯をかぶっていると、汗とともに怯えや疲労も溶けだしていく気がした。入浴後は髪を乾かし、僕は少し早いが朝食の準備に取り掛かる事に決める。
「今日は洋食にしようかなぁ」
洋食とはいっても、日本風にアレンジされた、家庭料理の一つだ。
山縣は何故なのか、僕に家庭料理を求める事が多い。山縣の生育環境や家族構成すら僕は聞かせられていないから、漠然と、幼少時にあまり食べなかったなどの理由で、恋しいのだろうかと考えている。
冷蔵庫を開けて、僕は赤いパプリカを取り出し、まずはサラダの用意をした。
他にはズッキーニを焼き、ふわふわのスクランブルエッグを作る用意する。
山縣が起床する頃に、最適な状態になるように、僕は心掛けている。
「あとは、少し作り置きをしようかな」
そう呟いてから、僕は鶏ささみとキュウリの梅和えなどを作り始めた。そうしていると時間はあっという間に過ぎていき、山縣を起こす時刻が訪れた。そろそろまた、犯罪・事件マッチングアプリで、次の依頼を探さなければと思案しつつ、僕は毎日の通り、山縣の部屋へと向かい、ドアの前で一度天井を見上げた。
僕は事件が起きてほしいわけではないし、山縣がいつか言っていた通り、身の危険を感じたいわけでもない。それでも――……。
「山縣の活躍が、僕は見たいなぁ」
思わず独り言ちてから、僕はドアをそっと開けた。
青波警視正が来てから、二週間が経過した。
七月に入り、梅雨明けした。
テレビの報道では、梅雨明けをお天気キャスターがにこやかに告げているほか、ここのところ、連日、連続放火事件のニュースがトップを飾っている。
小学生の犯行ということもあり、実名は公表されていないが、映し出された家屋や状況から、僕にはすぐに先日の事件だと分かった。
しかしメディアが山縣を囲む事はない。
探偵の氏名は、探偵自身が、公開・非公開を選ぶ事ができる。山縣は、氏名を公表しなかった。
別段有名人になってほしいというわけではないから、僕はその選択は別にいいと思っている。
ただ、ちょっとだけ残念ではある。山縣の才能の片鱗を、初めて目にしたからだ。
「……」
僕はテレビを消した。
そして立ち上がり、キッチンへと向かう。昼食の用意をするためだ。
山縣は二度寝すると述べて、朝食後に部屋へ行ったっきり出てこない。
本日のメニューは、パエリアを予定している。
「山縣は、称賛を浴びるとか、目立ちたいとか、そういう欲求はないのかな」
ぽつりと呟いてから、僕は料理をした。
それが落ち着いたので、紅茶を淹れてリビングへと戻る。するとポストに何かが投函された音がしたから、僕はエントランスの方を見た。立ち上がって見に行くと、白い封筒が入っていた。
宛名は山縣宛で、裏返すと赤紫のシーリングスタンプがあった。これは世界探偵機構の日本支部のものだ。
目を見開いた僕は、慌てて山縣の部屋へと向かう。
「山縣!」
「うるせぇな、なんだよ?」
二度寝すると話していた山縣だが、寝台に寝転んでスマホを弄っていた。
きっとまた、ゲームだろう。
山縣のスマホ代の九割は、ゲームへの課金代金だと、支払いをしている僕は知っている。実際にお金を出してくれているのは、僕の実家だが……。
一応僕も、僕の名義の会社をいくつか貰っているので、そこの収入といえばそうなのだが、名前ばかりだ。
「探偵機構から手紙が着てる。すぐに開封して」
「……そんなのどうでもいいだろ」
「よくないよ。中身が気になる。僕があけてもいい?」
「好きにしろ」
一応山縣から同意をもらったので、僕はその場で、手紙の端を切った。
自室に戻ってペーパーナイフを手にする心的余裕がない。
緊張しながら中身を見て、僕は思わず破顔した。
「やった……やったよ、山縣! 探偵ランキングが、一気にBになったよ! ポイントもすごい。ポイントの特典で、カニが届くって!」
「カニ? そんなもん、この前お前の実家からも届いただろ」
「でも、山縣の働きで食材が届くなんて始めてだ。僕、嬉しくて泣きそうだよ」
「……」
僕が喜ぶ前で、山縣が半眼になった。
しかし嬉しさが極まって、僕は満面の笑みを浮かべた。
本気で感涙しそうである。
そうしていると、封筒の中に、他にもなにか入っている事に気が付いた。
それを手に取ってみる。
『ミステリーツアーのお知らせ。探偵スキルの向上を目的とした、陸の孤島の洋館で行われる推理合戦への招待状です。七月二十日、フェリーで出航します。チケットを同封しましたので、ご確認ください』
と、書かれていた。そして、船のチケットが二枚入っていた。
「山縣、これ、こ、これ!」
「あ?」
「選ばれたBランク以上の探偵と助手だけが参加できるって噂の、ミステリーツアーのチケット!」
「怠ぃ。行かん」
「えっ」
それを聞いて、僕は目を見開き、泣きそうになった。
多くの探偵と助手は、一度でいいから行ってみたいと感じるだろう、夢のイベントだ。探偵機構が開催するミステリーツアーは、人々の憧れの的であるし、僕だって行ってみたい。
「……」
しょんぼりしてしまったら、目が潤んできた。
「お、おい? そんなに行きてぇのか?」
「……うん。でも、山縣が嫌なら断るよ。探偵が参加しなきゃ、助手には権利がないからね……」
思わず小声で述べてから、僕は俯いた。涙ぐんでいる姿を見られたくなかったというのが大きい。
「っ、あーもう。分かったよ、行けばいいんだろ?」
「!」
すると急に、山縣が折れた。驚いて僕は顔を上げる。
普段僕が何を言ってもこんな対応はない。
山縣はやりたくないからといって、事件を解決しないように、家事もなにもかもしないのだから。
「でも行くだけだからな。推理なんかしない。ちょっとたまには旅行もいいかな、って思っただけで、別にお前のためでもないからな」
「あ、ありがとう! 参加するって返事をするね」
嬉しさのあまり、僕の声は上ずった。
「……はぁ。本当、仕方ねぇな。ってか、腹減ったな。飯は?」
「準備はできてるよ」
僕は今度は、満面の笑みを浮かべた。
すると片目だけを細くした山縣が、小さく頷いた。
本日の朝食は、西京焼きと用意しておいた作り置きから数品だったのだが、山縣はいつもよりは呆れたような顔をしつつ完食し、その間もちらちらと僕を見ていた。僕が行きたがっていた事に気づいていたのだろうと悟り、なんだか気恥ずかしくて、僕は知らんぷりをしたものである。
第七話 フェリー
快晴の空の下、ゆっくりとフェリーが出航した。
三階にある客室に荷物を置いた僕達は、夕食まで時間があるからと、デッキに行ってみる事にした。僕のたっての希望であり、山縣は気怠そうにしている。フェリーでの旅路は、まる一日かかるとの事だった。
潮風が僕の髪を攫っていく。白い海鳥が空を飛んでいる。
次第に陸地から離れていき、一面海しか見えなくなった。
青い水面には時折白い波が立っている。
デッキには、僕達の他にも大勢の探偵と助手の姿があった。皆、考える事は同じなのかもしれない。せっかくの船旅であるから、海の風景をみたいのは分かる。
その場がざわついたのは、僕が海をまじまじと見ていた時だった。
なにごとだろうかと振り返ると、丁度二人の青年が歩いてきた。
僕もまた驚いて目を丸くする。ざわめきの理由はすぐにわかった。
ゆったりと左側を歩いているのは、Aランク探偵として有名な御堂皐月だ。本物だ。顔の造形だけならば山縣も勝てるかもしれないが、その部分以外比較しようがない、完璧な探偵である。先日もテレビでモニター越しに見たばかりだ。
その隣には、御堂さんの助手の高良日向の姿がある。こちらは、実は僕の高等部までの同級生でもあったから、顔見知りではある。あまり親しかったわけではないが、それなりに話をした回数は多い。隣の席だった事もあるし、お互い高ランクの助手だったため、小学校からずっと同じクラスだった。
助手としての技能の成績は僕の方がよかったのだったりする。
けれど、バディを組む探偵によって、助手は能力を生かせる事もあれば、生かせない事もある。
それが全てだから、学校の評価がいくらよかったとしても、それは探偵と出会った時からほとんど無関係になる。今では、僕よりも日向の方が、ずっと立場は上であるし、皆に尊敬されている助手であるのは間違いない。
歩いてくる二人を思わず見据えていると、日向が僕に気づいたようで、目を丸くした。
息を飲んでから、日向が御堂さんの腕の服を引っ張った。
すると何事か話しながら、二人がこちらへと進路を変え、歩いてきた。
元同級生だから、挨拶してくれるという事なのだろうかと考えつつ、僕は隣を見る。
山縣は海を見たまま、ぼんやりとしている。
一度は気のせいかとも思ったが、人気者二名はまっすぐにこちらへとやってきた。
いつもテレビで見ている二人の姿に、僕は憧れもあって、体を強張らせつつ、緊張から無理やり笑顔を浮かべる。僕は作り笑いがそれなりに得意だ。
「久しぶりだね、山縣」
立ち止まった御堂さんから放たれた言葉に、驚いて僕は目を見開いた。
すると漸く気づいたようで、山縣が片眉を顰めて、静かに振り返った。
黒いネクタイが揺れている。シャツは幸い、僕がアイロンをかけたのでピシっとしている。それはジャケットも同じだ。周囲がこちらに注目しているのがよく分かったので、僕は外見だけでも整えてきてよかったと、ホッとしてしまった。
「話しかけるな」
しかし山縣はいつも通りの、厚顔不遜な態度だった。
焦って僕は、山縣の腕を引く。
「山縣、相手は御堂さんだよ?」
「あ?」
「みんな見てるから、もうちょっとさ……」
ひそひそと僕が言うと、胡散臭そうに僕を見てから、山縣がチラリと御堂さんを一瞥し、そちらに向き直った。
「――何か用か?」
「うん、僕も山縣と話したかったし、僕の助手もそちらの助手と話したいと言っていてね」
御堂さんがそう述べてからこげ茶色の瞳を、隣にいた日向に向ける。
金色の髪を揺らした日向は、じっと僕を見ると、一歩前へと出た。
「いつ日本に帰ってきたの?」
「え、あっ……春に」
「そう。もう大丈夫なの?」
「大丈夫って? なにが?」
僕が首を傾げると、日向は何か言いたそうな顔をしてから、頭を振った。
「なんでもないよ」
それから日向は、山縣を見た。山縣は何も言わない。
すると御堂さんが、吐息に笑みをのせた。
「山縣は、ちょっと丸くなったね」
「へ? どこがですか? それに、知り合いなんですか?」
僕は驚愕して、思わず口走った。
すると山縣は呆れたように僕を見た。
そんな僕達の前で、微笑しながら御堂さんが頷く。
「僕と山縣は、山階探偵学園で保育園から大学までずっと一緒だったからね。同じクラスだった」
「えっ? 同じクラス? 普通能力に応じたクラス編成ですよね? ん? 御堂さんはS組のはずで……まさか、山縣も? え?」
虚を突かれて僕は、おろおろしてしまった。
山縣は双眸を細くしている。
「しかし山縣がこういうイベントに顔を出すのも珍しいな。君はあまりこういうゲームは好きではないだろう?」
「朝倉が思いのほかミーハーでな。お前と日向の事もキラキラした目でいつも見てるぞ。主にテレビで」
事実ではあったが、僕は羞恥を覚えて、思わず山縣を軽く睨む。
「や、山縣!」
「事実だろ」
しかし山縣は呆れたような顔のままだ。
すると御堂さんが喉で笑った。
「なるほど、助手に頼まれたら断れないね、それは」
穏やかに御堂さんが言う。御堂さんは物腰が本当に柔らかで、とても優しそうだ。
「夜の推理ゲーム、山縣達と勝負できるのを楽しみにしているよ」
御堂さんはそう口にすると、日向を促して歩き始めた。
僕達四人は同じ歳ということだが、御堂さんが大人っぽく感じるのは、落ち着いているからだろうか。
二人の背中をじっと僕が見ていると、不意に隣で、ぼそっと山縣が言った。
「朝倉は、ああいう奴の助手になりたかったのか?」
「え?」
それを聞いて、僕は山縣に向き直った。
山縣はいつもと変わらない表情で僕を見ている。
僕は軽く首を振った。
「そうじゃないよ。山縣に、ああいう風に活躍してほしいと思う事はあっても、他の誰かの助手になりたいと思うわけじゃないからね」
――フェリーが到着した陸の孤島は、金島という。島には左右対称の街が展開していて、小高い場所に、洋館がある。主人は双子の青年なのだという。金という字も中央に線をひく事で、対称となるから名づけられたらしい。
ただここはミステリーツアーのために用意された島であるから、あくまでもそういう設定だ。探偵機構日本支部が借り上げている場所である。
行き先不明という内容ではなく、俗にミステリーと称されるような、トリック――ハウダニットやフーダニットといった謎解きをするのが、このツアーの趣旨であり、探偵技能の向上を目的としているという説明が、フェリー内での夕食の席でも行われていた。本物の事件が起きる事はないが、遺体や被害者に扮したエキストラはいるとの事で、それは犯人役も同じだそうだった。館自体や島全体にも仕掛けがあるのだという。
洋館の二階にある客室に、僕と山縣は入った。それぞれベッドに荷物を置く。
夕食は、本日は十七時からなので、それまであと一時間ほど、僕達は部屋で休む事になる。僕はチラリと山縣を見た。寝そべっている山縣だが、『ああいうやつの助手になりたかったのか』だなんて、先ほどは愁傷な事を言っていた。
山縣でも、そんな事を考えるのかと、驚いたというのが本音だ。
気にさせてしまったなら悪かったなと思いつつ、僕は端正な山縣の横顔を見る。
そしてふと思った。
「ねぇ、山縣」
「あ?」
「逆にさ、山縣はどんな助手がよかったの?」
「どういう意味だ?」
「朝はゆっくり眠らせてくれる人とか……なんていうか、理想の助手?」
「俺はお前がいればそれでいい。お前以外の助手なんていらん」
断言されたものだから、僕は自然と嬉しくなった。
山縣は山縣なりに、僕をきちんと助手だと感じ、認めてくれているのだろう。
その後夕食までの間、僕達は雑談をして過ごし、指定された時刻に食堂へと向かった。不思議と、山縣と一緒にいると、無言でも気まずくはないのだが、会話が弾む事が多い。
食堂には、白いテーブルクロスのかかった、長いテーブルがあって、銀の覆いがついた皿が並んでいる。肉料理でも入っているのだろうか。ナイフやフォークの数から、そんな事を考える。
席はすべて指定されていて、探偵と助手は隣り合わせだ。僕は山縣の右側に名札が置いてある。
偶然にも、正面の席は御堂さんと日向だった。
間近で二人の推理とサポートを見られるのかと思うと、心が躍る。
山縣は推理をしないと宣言していたから、悲しい事に期待はできない。
逆に僕自身は、なにか自力でもヒントを見つけ出せるか――山縣に有益な情報を渡す事ができるかを試したいという想いもあった。探偵技能だけでなく、ここでは助手としての技能もまた、磨く事ができるはずだからである。
チラリと御堂さんを見れば、目が合い、微笑みかけてくれた。
それだけでテンションが上がる。
すると日向と山縣が呆れたように僕達を見ていることに気づいて、僕は慌てて顔を背けた。山縣にも言われたが、僕はやはり、ミーハーなのだろうか。
「ご着席ください」
現れた双子の青年の横にいた、支配人だという青年がよく通る声で言った。
その通りにすると、僕達の背後には給仕の人々が並んでいく。
「まずは料理をお楽しみください」
そんな声が響いてきて、銀の覆いが、隣から手を伸ばした給仕の人々の手により取り去られた。皿があらわになる。
僕は最初、何が起きているのかわからなかった。白い皿には赤い血が溜まっていて、その上には人間の頭部がのっている。血の気の失せた顔で瞼を閉じている、男性の首がある。血は、首の切断面から皿に流れ出しているように見える。瞼の色も唇の色も、紫色に変色していて、顔の肌の色は青戸茶色と紫が入り混じって見えた。
「……」
――僕は、この光景を知っている。
「くだらねぇトリックだな。トリックと言ってもいいのか、これ」
山縣の声がする。
けれどそれが、とても遠く聞こえた。
ぐらりと僕の視界が二重にブレる。
「朝倉!」
気づくと僕は、椅子から転げ落ちていて、山縣に抱き起されていた。
呼吸が苦しくて、涙が浮かんでくる。過呼吸を起こしたらしいと漠然と考えた時、遠のきそうになった意識に、過去に見た陰惨な事件の風景がよぎった。
あの時僕は、確かに切断された頭部に囲まれていた。
そして、僕もまた、そのうちの一つになるはずだった。
僕は今、どうしてここにいるのだろう。
「朝倉!!」
続けて名前を呼ばれた時、そういえばあの時も、山縣の声を聞いたのではなかったかと考えた。
――あの時?
僕達は今年の春に出会ったはずだ。
では、あの時とは、一体いつだ?
そう考えたのを最後に、僕の意識は完全に暗転した。
第八話 思い出す
「ん……」
「朝倉!」
僕が瞼を開けると、そこには僕を覗き込んでいる山縣の顔があった。
僕はゆっくりと瞬きをしながら、思わず苦笑した。
「さっきの首、どうなったの?」
僕は尋ねた。この島では基本的に事件など起こらないのだから、冷静に考えれば、あれは推理合戦の序幕だったはずだ。腕時計を一瞥すれば、既に食堂に降りてから、三時間は経過していた。僕はその間、ずっと意識を喪失していたのだろうか。そして山縣は、そばにいてくれたのだろうか。きっとそうだろう。そんな気がする。直感的に、そう分かる。
「あれは偽物だ。テーブルクロスの下に潜っていた人間が、皿の穴から首だけを出して、特殊メイクと血糊で死んだふりをしていただけだ。生首なんかじゃない」
必死な声で、切実そうな表情で、山縣が僕を覗き込んみながら答えた。
納得しながら、僕は床下が見えなかった白いテーブルクロスの事や、血の匂いがしなかった事などを想起した。果たして気絶しなかったとして、僕はそれらに気づけたのだろうか。分からないが、今、僕にもわかる事が一つある。山縣が、僕に優しいというその点だ。
――嘗てからは、考えられない。
「そんな事より朝倉、お前、具合は? 大丈夫か?」
過去、山縣は僕を心配したりしなかった。
いいや、優しさの片鱗は随所に見え隠れしていたけれど、このように直接的に、不安そうな表情をしたり、率直に声をかけてくれた事は、無かった。
そう……過去、には。
「山縣……」
「なんだ? すぐにこの館に待機してる医者を――」
「ううん。大丈夫。あのさ、僕……」
一度僕は、緩慢に瞬きをした。
「なんだ?」
するとさらに不安そうに変わった山縣の声が、静かな室内に響いた。
僕は、言わなければと決意する。山縣を、心配させたままではいたくない。
今も、そしてこれからも、いいや、過去の件においても。
それが変わらない、僕の気持ちだ。
「あのね、山縣。僕は、思い出したんだ」
「なにを?」
「――僕と山縣は、今年の春に出会ったんじゃない。もうずっと前に、出会ってた」
僕は、欠落していた二年間の記憶を、現在正確に思い出していた。
理由は、偽物ではあったが生首を目視したからなのだろう。
僕にとって、僕ですらこれまでは自覚が――いいや、記憶がなかったのだけれど、先ほどの食堂での光景は、僕に衝撃を与え、同時に過去を思い出させる引き金となった。ただ、不思議とそこに恐怖はない。代わりに、充足感が満ちていく。悲惨な記憶以上に、今僕は、山縣がここにいる事が、どうしようもなく嬉しい。
僕の言葉に、山縣は目を瞠ってから、じっと僕を見る。
「朝倉、お前……記憶が戻ったのか?」
「うん。そうだった、僕は……」
第九話 過去・高校時代
――高等部も二年になると、運命の探偵が決まりペアを組む助手が増え始める。僕の周囲でも、最近であれば、日向が御堂さんという探偵と引き合わせられた。最近、といっても、それはもう昨年の事で、高等部の二年生になっても、一人なのは、僕だけだというのが実情だ。
試験結果を見る。僕は今回も、学年首席だった。けれど紙や実技の成績が良好だからといって、運命の探偵と出会えるわけではない。
「……」
そもそも、本当にそんな相手は存在するのだろうか?
最近の僕は、懐疑的だ。助手としての教育しか受けてこなかったから、将来への不安もあり、誰とも出会えなかった時に備えて、最近の僕は勉強に打ち込んでいる。本日同時に返却された全国模試の結果を見る。僕は、そちらでは二位だった。上位三百名は名前が開示される模試だったのだが、一位の欄に踊るのは、今回も山縣正臣という名前である。
僕は山縣の顔を知っている。いいや、有名な高校生探偵、しかも日本にたった五人しかいないSランク探偵の顔を、一度もメディアで見た事のない人間の方が少ないだろう。
五人の内の二人、山縣忠臣と階田透子というSランク探偵二名の一人息子であり、有名な探偵才能児だ。山階探偵学園に通っているらしい。だが事件への捜査協力依頼が後を絶たないため、あまり通学はしていないそうだ。これは、日向から聞いた。日向の運命の探偵が、同じクラスなのだという。
「山縣の助手、どんな人なんだろうね。なってみたいよ、俺も」
日向がそんな事を言って笑っていた事がある。僕としては、既に御堂さんが見つかっているだけで、日向が羨ましかった。そしてそれを日向はよく分かっているようだった。
「まぁ、御堂はとても優れた探偵だけどね。俺にふさわしいよ。どこかの誰かと違って、やっぱり僕には実力があるから、御堂と引き合わせてもらえたのかな。運命ってよく見てるよねぇ」
最近の日向は、僕にあからさまな嫌味を言う。僕は聞き流していた。元々日向は僕をライバル視していたのだが、僕に探偵が見つからないものだから、最近気をよくしているらしい。
「……」
僕は改めて成績表を見た。
僕は別に、山縣の助手になりたいというような思いはない。華々しい活躍をする高校生探偵は偉大だが、僕は僕の手助けを必要としてくれるたった一人とめぐり合いたい。
「朝倉。理事長先生がお呼びだ。すぐに来てくれ」
その時、扉から声がかかり、僕が顔を上げると担任の先生が手招きをしていた。
なんだろうかと考えながらも成績表を鞄にしまい、僕は立ち上がった。
階段を上がって廊下を歩いていき、職員室の隣にある、理事長室へと向かう。
そしてノックをすると、声がかかった。
「失礼します」
「やぁ、朝倉くん。急に呼び出してすまないね。座ってくれ」
「いえ……」
促されて、僕はソファに座った。すると正面の席に理事長先生が座した。
「実は君の運命の探偵の件なのだが」
「はい」
「――実はとっくに判明していたんだ」
「え?」
「ただし探偵側の要望で、これまで引き合わせる事をしなかった」
「要望、ですか?」
僕が首を傾げると、理事長先生が大きく頷いた。
「完璧なんだが、少し性格には癖のある探偵でね。そう――彼は、完璧すぎるんだ。一人で何でもこなす事が出来る。それゆえに、自分には助手など不要だと言い張っていてね。しかし規則は規則だ、絶対だ。引き合わせないわけにもいかない。そこで事件が落ち着いているこのタイミングで、君達には、正式に探偵と助手として、一緒に暮らしてもらう事になった」
探偵と助手は、基本的に一緒に暮らすので、その部分には僕に不安はなかった。
ただ、完璧、というのがよく分からない。
「朝倉くんと先方のご家族には、すでに了解を得ている。荷物も運んでくれるそうだ。これが、家のカギだ」
理事長先生がテーブルの上に、銀色のカギを置いた。それを受け取り、僕は小さく頷いた。
指定された場所に行くと、三階建ての一軒家があった。四角いフォルムと灰色の壁を見てから、僕はエントランスへと向かう。鍵を回してから、僕はそっと扉を手で押した。カードキーよりもセキュリティ性が高い最新の鍵だと分かる。
玄関には背の高い観葉植物と、傘立て、その隣に収納スペースがあった。僕は靴を脱いで、中に入る。傍らにあったスリッパを見て、一足手にした。
人の気配はしない。
山縣正臣は、これから来るのだろうか?
そう考えながら、歩いていくと、右手に浴室と洗面所、トイレがあり、正面はリビングに続いていた。象牙色のソファを一瞥してから、僕は広がっているアイランドキッチンを見る。料理をはじめとした家事は、多くの場合助手の仕事であるから、これから僕はここで色々なものを作るのだろう。山縣は果たして、気に入ってくれるだろうか?
リビングの奥にはピアノがある。
逆側の壁には、二階へと続く階段があった。生活感がまるでないその家で、僕はまず珈琲を淹れた。そしてゆっくりとソファに座った。
エントランスのドアが開く音がしたのはその時で、何気なくそちらを見ていると、俯きがちに山縣が入ってきた。顔を上げた山縣は、立ち止まると顎を少し持ち上げて、忌々しそうな顔で僕を見た。
「お前が俺の助手か?」
「あ、うん……朝倉水城と言います」
「出て行ってくれ。俺には助手なんて不要だ」
冷ややかな声音だった。端正な顔で睨まれると、迫力がある。一方の僕は、息を詰めてから、必死で笑顔を浮かべた。
「何か僕にもできる事があると思うし、その……これから、よろしく」
「できる事? 何か一つでも、お前に俺よりできる事があるのか?」
「え……? ええと……――夕食は食べた? 何か作ろうか?」
「お前は料理が出来るのか? とてもそういう手をしているようには見えないが」
「一応、一通りの料理は覚えているよ」
「一応、か。俺の嫌いな言葉だ。やるのならば完璧をせめて志せ」
「っ」
「俺は風呂に入る。その間に出ていけ」
ブレザーのネクタイを緩めながら二階に登っていく山縣を眺め、僕は俯いた。出て行けと言われても、全寮制だった学園には、もう僕の部屋はないし、実家に帰るとなると、既に飛行機がない。溜息をつきつつ、少しずつ慣れていこうと考えて、僕は夕食を作る事にした。
冷蔵庫から材料を取り出し、この日僕は、肉じゃがを作った。
すると浴室から戻ってきた山縣が、片目を眇めて、僕を睨みつけた。
「まだいたのか」
「っあ、あの……夕食の用意をしたから、よかったら」
「これは?」
「肉じゃがだけど……」
「朝倉財閥では思いのほか庶民的な食生活を送っているらしいな」
「え? なんで僕の実家を知ってるの?」
「迂闊な口だな。推測しただけだ。俺は口が迂闊な助手など、それこそお断りだ。仕事に支障しか生まれない」
「……っ」
「まぁ料理に罪はない。わけろ」
その声に、僕はおずおずと頷いて、肉じゃがを皿に盛りつけて、リビングのテーブルの上へと運んだ。他には白米とみそ汁、きんぴらごぼうとほうれんそうのお浸しを用意した。それらを見ると、山縣が嫌そうな顔をした。
「家庭料理なんて食べたことはないが、いかにも不味そうだな」
「……そ、その……味は悪くないと思うよ?」
「思う? 思うという言葉も俺は嫌いだ。断定しろ」
「僕は美味しいと思ってる!」
「そうか」
無表情のままで手を合わせ、山縣が箸を手にした。そして一口食べると、箸を置いた。
「食べる気が起きない」
「不味かった……?」
僕がおろおろしながら問いかけると、シラっとした顔をして、山縣が立ち上がった。そして無言で、キッチンへと向かう。
――一時間後。
僕が冷めた肉じゃがを見ていると、山縣が皿を持って戻ってきた。僕は目を見開く。そこには輝くような子羊のステーキが盛り付けられた皿があって、テーブルの上にはフレンチが並んでいく。
「料理が出来るというのならば、せめてこのくらいは作れ」
「……ごめん」
クオリティが違うのは、明らかだった。確かにこれでは、僕の肉じゃがなど無価値だろう。俯きつつ、僕は作り笑いを頑張った。その後一人でナイフとフォークを手にし、山縣が食べ始める。終始俯いていた僕は、皿洗いを申し出ようと思っていた。そんな山縣が箸を手にしたのは、最後の頃だった。
「食材には罪はないからな」
山縣はそう述べると、冷めきっている肉じゃがを、また数口食べた。
「あ、あの! 僕は皿を洗うよ」
「できるのか?」
「うん」
「――そうか。じゃ、頼んだ」
こうして食後、僕はお皿を水で流し、食器洗い機へと入れた。するとやってきた山縣が僕に対して怪訝そうな顔をした。
「おい」
「うん?」
「俺は流し台に水を飛ばして汚しているようにしか見えないが、どこをどうきり取れば、皿洗いが出来るということになるんだ?」
「っ」
「もういい俺がやる。本当に役立たずだな」
冷淡な声音でそういうと、山縣は僕の体を軽く突き飛ばした。
よろけてから、僕は渋々とリビングへ戻り、ソファに座った。そして見守っていると、山縣がお皿をピカピカにした上で食器洗い機へと収納し、その時には流し台もHIのヒーターの周囲も完全に綺麗になっていた。
「明日には出ていけ。お前はただ邪魔なだけだ」
山縣はそういうと、二階へと戻っていった。僕はそれまでずっと上辺には笑顔を浮かべていたけれど、一人になった時、思わず唇を噛んだ。上手くやっていける気がしない。
「ううん、まだ初日だしね。これから少しずつ、歩み寄っていけるよね」
一人そう呟き、僕は自分を鼓舞してから入浴した。
第十話 クロックムッシュ
具体描写はありませんが、連想させる表現があります。(R描写)
「い……――おい! 起きろ!」
厳しい怒声がして、僕は揺り起こされた。僕は朝が弱いから、思わずぼんやりとした。
「この煩いアラームをさっさと止めろ!」
「ん……」
「止めるからな!」
激高しているのは、山縣だった。僕はそれを見て、飛び起きた。自分が昨日から、ここに住んでいるのだと、漸く思い出した。
「三十分も鳴りっぱなしで、よく起きないな? お前の聴覚はどうなっているんだ?」
「ご、ごめん……おはよう、山縣」
「……」
「朝食は食べた?」
「まだだ。だが、だからなんだ?」
「僕、作ろうか?」
「できもしない料理をするというよりも先に、さっさと顔を洗って着替えろ。これから捜査協力を依頼されているから、出るぞ。助手を連れてこなければ協力させないと言われてな。別にこちらだって好きで協力しているわけではないが、事件には興味がある」
謎を解決したいというのは、探偵才能児が持つ根源的な欲求だ。
それを思い出しつつも、僕は大きく頷いた。僕にとっては、初の事件だ。
僕は慌てて身支度をし、リビングへと顔を出した。するとそこには、カフェで出てきそうなクロックムッシュが置いてあった。
「これ……」
「食べたくなければ、別にいい。だが、捜査中は、食べられない可能性が高いことを付け加えておく」
「い、いただきます!」
この時食べたクロックムッシュは、信じられないくらい美味だった。
またこの日知ったのだが、山縣は非常に規則正しい生活をしていて、どんなに遅く眠ろうとも、朝の四時には起きて、護身術の自主稽古や筋トレをしている。朝が非常に早い。山縣の辞書には、寝坊という単語は掲載されていない様子だ。
山縣は、本当に何でもできた。一人で完結している。
それでも僕は、山縣の助手だから、出来る事を探していきたい。
そう願っていた。
この日向かった、僕にとっての最初の事件の現場には、他に二名のSランク探偵の姿があった。片方は、Sランク探偵兼助手でもある。Sランク探偵の名前は、春日居孝嗣、その助手兼同じくSランク探偵なのが、十六夜紫苑だった。二人とも、二十四歳だと聞いた。僕から見ると大人だった。国内に五人いるSランク探偵の内、山縣を含めて三人がここにいる。残りの二名は、山縣の両親だ。
連続猟奇殺人事件の捜査だった。
到着してすぐに、山縣は嘆息してから、立っていた青波悠斗という警視を見た。
「犯人は、そこにいるだろ」
僕は驚いた。資料すら見ていないのに、山縣がまっすぐに、一人の警察関係者を見据えたからだ。突然視線が集中したその鑑識の人物は、顔を歪めてから、真っ青になった。なにも言わずに、青波警視が捕らえる。
「事件は終わりだ。帰るぞ」
「……うん」
出る幕なんて、どこにもなかった。
――とにかく、山縣は完璧だった。
「お前にとって、洗濯というのは、洗濯機に服と洗剤を放り込むだけなのか?」
僕は口ごもる。掃除をすれば、呆れられた。
「朝倉。お前と俺では清潔の概念が違うらしいな。俺は埃一つでも気になるし、分別されていないペットボトルなど論外だ」
言いながら、いずれも山縣は、僕の前で完璧にやり直した。だから僕は、言葉を失ってばかりだった。本当に僕には、出来ることが何もない。自分が不要だと、見せつけられる毎日だ。
「ね、ねぇ山縣……? せめて家事だけでも僕にやらせて?」
「できない人間になにをやらせろというんだ?」
「頑張るから」
「勝手にしろ」
その内に、山縣は僕を捜査に伴わなくなった。気づくと山縣は家にいなくて、僕が目を覚ますと家が無人である事は、珍しくなくなった。
この日も――僕はシチューを作り、テーブルの前に座っていた。
既に午後の十時だが、山縣が帰ってくる気配はない。
「今日は、どこの捜査に行ったのかな……」
助手であるのに、僕はそれすらも教えてもらえなかった。
――この日帰ってきた山縣の肩を見て、僕は濡れている事に気が付いた。
本日は、雨だ。
「おかえり、山縣。どんな捜査だったの?」
僕は体が冷えているだろうと考えて、珈琲を淹れた。ソファに座った山縣にそれを差し出すと、顔を背けられた。その視線を追いかけて、僕はチェストの上を見る。そこには、僕が買ってきた青い花が飾ってある。僕は花が好きだ。山縣が僕に対して文句を言わないのは、僕が花を飾る事と、僕の淹れる珈琲や紅茶に関してだけだ。
「別に。俺がどこに行こうと、勝手だろう」
「教えてくれてもいいだろ? 僕は助手なんだよ?」
「――今日は、捜査じゃなかった。話す事は何もねぇよ」
「へ? あ、ああ、ごめん。プライベートって事か……」
山縣にも遊ぶ友達がいるんだなぁと漠然と思い、僕は少しだけ驚いた。それから改めて、山縣の肩を見る。この濡れ方は、考えてみると、相合傘をしていた時にはこうなりそうだ。
「もしかして、デート?」
「っ、なんで?」
すると珍しく山縣が、驚いたような声を出した。僕へと視線を向けて、怪訝そうな顔をしている。
「うん? そうかなって思っただけ」
僕は気をよくして、笑顔になった。すると山縣が、虚を突かれたような顔をしてから、腕を組んだ。
「変なところは鋭いんだな。もっとそれを別の場面でいかせないのか?」
「う……」
「で? 俺がデートをしてきたというんなら、なんだというんだ?」
「え? いや、別に……。山縣のカノジョがどんな人かは気になるけど」
「別に恋人じゃねぇよ。それに今日の相手は、男だった」
「――え?」
山縣の言葉に驚いてから、僕は意味を理解し、一気に赤面した。僕はずっと助手としての自己研鑽……今となってはかなり不足していたようだが、とりあえず励んできたから、恋愛をした事がない。とはいえ多くの場合、男子は女子を好きになるものだと思っていた。
「ああ――そうだ。お前にも取柄が一つあるな」
「へ?」
「顔だけはいい」
「それって……?」
「恋人にならしてやってもいいぞ」
呆気に取られて、僕は目を見開いたまま、硬直した。
僕が呆然としていると、カップを置き、山縣が立ち上がった。そして僕の腕を引っ張る。僕はそのままソファの上に押し倒された。後頭部をクッションにぶつけた僕は、狼狽えながら、のしかかってきた山縣を見上げる。
「や、山縣……っ、冗談は……」
「俺は冗談は好きじゃない」
そう言って山縣が、唇の端を持ち上げた。その黒い瞳が獰猛で、獲物を捕る前の猫のように見える。ゾクリとした。僕は体を震わせてから、慌てて山縣の体を押し返す。
「やだ、止めて……」
山縣が僕の首元の服を開け、肌に吸い付いた。ツキンとその箇所が疼いたとき、いよいよ僕は恐怖から涙ぐんだ。
「やだ、っ……お願い、やめて……」
思いのほか僕の声は小さくなり、そして震えていた。
するとハッとしたように山縣が息を飲み、涙ぐんでいる僕を見下ろした。
暫くの間、山縣はそのまま僕を見ていた。
そして嘆息すると、顔を背ける。
「――萎えた」
そう言って、山縣がソファから降りた。その後、僕は部屋に戻って考えた。探偵の性欲解消も、助手の務めなのだろうか? だとすれば、僕はまた失敗したということだ。
「……」
僕はタブレット端末を手に取り、男同士の仕方を検索した。この日から、僕の新しい勉強が始まった。知識を蓄えていく。練習は出来ないけれど、知識をとにかく詰め込んだ。そして必死に勉強してから、ある日リビングにいた山縣に声をかけた。
「や、山縣……あ、あの……」
「あ?」
「……そ、その。勉強してきたんだ」
「何を?」
「男同士の方法!」
僕は我ながら真っ赤になって、そう告げた。すると息を飲んだ山縣が、呆気にとられたような顔をした。そして――僕から視線を逸らすと、吐き捨てるように言った。
「探偵のためなら体も差し出すって? 見損なった」
グサリと、僕の心が抉られた。俯き、僕は思わず震えた。
「でも……他に出来ること、ないから……」
「……っ」
僕が涙ぐみながら述べると、しばしの間山縣が沈黙した。
それからポンポンと僕の頭の上を叩いた。
「俺は冗談は嫌いだが、たまには冗談も言う。笑って流してくれ。泣かれるほど滑ったつもりはなかった」
第十一話 縮まる距離
翌日は、登校日だった。助手をしている場合、高等部への通学は絶対ではないのだが、月に一度のスクリーニングと、テスト期間は、登校が義務づけられている。もっともこれも、事件が入ればそちらが優先されるのだが。今は夏休みだが、スクリーニングは変わらずに行われる。
久しぶりに学校へと行き、僕は椅子を引いた。
すると隣の席の日向が咳払いをした。
「それはそうと、山縣ってどうなの? 噂の天才高校生探偵は、やっぱりすごい?」
「えっ……う、うん。山縣は、なんていうか隙もないし、完璧だよ」
これは事実だ。最近では、僕にも少しずつ料理や洗濯を任せてくれるようになってきたが、基本的に山縣は、全部自分でやっているし、僕を足手まといだと口にする。実際、完璧な山縣を前にすると、その言葉は正しい。これは僕の自己評価が低いというわけではなく、客観的な事実だ。
「御堂が、山縣の事ばっかり気にしてるからさ」
「え?」
確か日向の運命の探偵だったなと思い出しながら、僕は首を傾げた。
「同じクラスみたいなんだけど、山縣は事件に引っ張りだこだから全然学校に来ないみたいだね。御堂はAランクになったばかりなんだけど、やっぱり宿命のライバルは、山縣だって思ってるみたい」
「宿命のライバル……」
「一度、朝倉にも会いたいって話してたんだけど、暇な日、ない? 助手として、セッティングしておこうかとは思う」
日向が若干不機嫌そうに言った。僕はスマホのスケジュールを確認する。
「水曜か土曜の午後なら」
「じゃあ水曜は? あと、俺も山縣に会ってみたいから、君の家でいい?」
「い、いいけど……山縣がいるかは分からない」
「分からない? 助手なのに?」
「……そ、その……うん。ごめん」
怪訝そうな顔をしてから、日向が頷いた。
その日僕が帰宅すると、ピアノの音が響いてきた。立ち止まって顔を上げてから、あまりにも巧みな音色に呆然としつつ、僕は気配を殺してリビングへと向かった。すると僅かに開いていた扉の向こうで、真面目な顔をして山縣が鍵盤を叩いていた。あまりもの迫力に、僕は気圧される。僕だって幼少時からピアノを習っていたけれど、比べ物にならない技巧だというのがすぐにわかる。山縣が弾き終わるまでの間、僕は立ち尽くしていた。
すると演奏を終えてから、流すように山縣が、鋭い目を僕に向けた。
「なんで入ってこないんだ?」
「その……邪魔をしたくなくて」
「……へぇ」
山縣は興味がなさそうな顔でうなずくと、立ち上がった。僕はようやく一息ついて、リビングへと入った。この日の夜は、山縣が作った中華料理で、いずれも美味だった。シェフの料理だと聞いても、誰も疑わないだろう。
僕は食後、リビングのテーブルに、ルーズリーフとタブレット端末を置いた。そして数学の予習に取り掛かる。後期の頭にも、テストがあるからだ。
「うーん……」
僕は問題を見つめ、唸った。数式はあっているはずなのだが、答えが間違っている。シャープペンを片手に僕が悩んでいると、皿洗いを終えた様子の山縣がやってきた。そして首元のネクタイに触れながら、ルーズリーフを覗き込んだ。
「簡単すぎるだろう」
「……」
一応これは、本来は高三で習う問題だ。僕達はまだ、高校二年生である。目を伏せて、僕は思わず笑ってしまった。僕だって全国二位だが、目の前にいるのは、完璧の権化である、全国一位の山縣だ。
「ここが間違ってる」
山縣が呆れたような声を出した。驚いて僕が目を開けると、僕のペンケースからボールペンを取り出した山縣が、さらさらと達筆な字で間違っている個所に注釈を入れた。
「あとこっちも間違いだな」
「あ、本当だ」
「それと、こちらもだ」
「! あ、ありがとう!」
「ここは――」
そのまま無表情で、山縣が、僕に数学を教えてくれた。その横顔が、無駄に格好よく見える。僕はドキリとしてから、次第に集中し、無事に予習を終えた。
――水曜日が訪れた。本日も、朝目が覚めると山縣はいなかった。僕は俯きつつ来客の準備をし、待ち合わせの時刻になったインターフォンを見た。そこには日向と――一人の青年が立っていた。山縣のブレザーと同じ服を着ているから、彼が日向の運命の探偵の、御堂さんなのだろう。
「ようこそ」
僕は微笑し、エントランスで出迎えた。すると日向が頷き、御堂さんが会釈した。
「御堂です。よろしく」
「よろしくお願いします」
「会えて光栄だよ。それにしても山縣の助手が、こんなに美人だとはね」
「美人って、男に言う言葉じゃないのでは?」
冗談めかして放たれた言葉に、僕は吹き出した。
すると日向と御堂さんが顔を見合わせた。
その後僕は、二人をリビングまで誘い、珈琲の入るカップをそこに置いた。自分は対面する席に座す。そして改めて二人を見た時、御堂さんが目を細めて笑った。
それから僕達は、暫くの間雑談に興じた。最初は、二人が僕に、山縣について聞いていたのだけれど、その内に僕がほとんど何も知らなかった結果、学園での山縣の話になった。ほとんど登校しないが、非常にモテているそうだ。
その時、エントランスの扉が開く音がして、少しするとリビングのドアが開いた。
見ればネクタイを緩めながら、山縣が入ってきたところだった。
「おい、靴が――……御堂? なんでお前がここに?」
山縣が御堂さんを見ると、眉を顰めた。
「君の助手を見に来たんだよ。すごい美人で驚いた」
「ま、こいつの取柄は顔だけだからな」
そんなやりとりをしている二人に、いたたまれない気持ちになりながら、僕は山縣の分の珈琲を淹れるために立ち上がった。そしてそれをもってリビングへと戻り、僕は山縣の隣に座る。
「ところで、探偵機構主催の親睦会を兼ねたキャンプ、行くか?」
御堂さんの声に、僕は思わず山縣を見た。招かれるだけでも光栄な、有名なキャンプだ。正直僕は行ってみたい。
「そんな面倒なのに、誰が行くか」
「え、行かないの?」
「は? なんだよ朝倉? お前行きたいのか? くっだらねぇな」
「……そうだね。山縣は忙しいしね……」
僕は苦笑してから俯いた。
するとその時日向が、グイと身を乗り出して、山縣を見た。
「山縣さん」
「ん?」
「朝倉って、助手としてはどうなの?」
日向がニコニコしている。僕は胃が痛くなってきた。するとチラリと僕を見た山縣は、その後日向に向き直った。
「お前よりは、使えると思うぞ」
「なっ」
日向が目を剝く。それから日向は不機嫌そうに唇を尖らせてから、激怒するような眼をして立ち上がった。
「帰ります」
「おい日向……。ああ、まぁ、またね。山縣、朝倉くん」
こうして二人は帰っていった。呆然とその場で見送っていると、僕の隣で山縣が嘆息した。
「おい」
「なに?」
僕が顔を向けると、山縣が僕をじっと見据えていた。
「――いいや、なんでもない」
山縣はそういうと立ち上がり、自分の部屋へと戻っていった。
第十二話 止まらない涙
冗談でですが無理やり風に見える匂わせ描写があります。
翌日も、その翌日も、山縣は僕を置いていった。僕は次第に、それに慣れつつある。
「はぁ……」
溜息が出てしまう。山縣が僕を連れて行くのは、助手が絶対参加と探偵機構から指示があった場合だけだ。そして最近では、それもめったにない。
もうすぐ、夏休みも終わりだ。
八月に入り、外は蒸し暑い。劈くようなセミの鳴き声を聞きながら、窓を開けて僕は換気をした。その時、インターフォンの音がした。めったに来客なんてないし、鍵を持っている山縣は鳴らした事がないから、不思議に思ってモニターを見に行くと、そこには、笑顔の御堂さんの姿があった。驚いてエントランスに向かうと、御堂さんが僕に対して微笑した。日向の姿はない。
「こんにちは、朝倉くん」
「こ、こんにちは……?」
「遊びに来たんだけど、迷惑だったかな?」
「いえ……あ、どうぞ」
驚きつつも、僕は御堂さんをリビングへと促した。するとテーブルの上に、御堂さんがケーキの箱を置いた。
「よかったら、食べてくれ」
「ありがとうございます。すぐに珈琲を淹れますね」
「気を遣わないでくれていいんだけどね」
気さくな口調で、御堂さんがいう。僕は笑顔を返して、珈琲を二つ用意した。
そしてカップの片方を、御堂さんの前に置く。
「美味しい」
御堂さんの言葉に、僕の胸が温かくなった。山縣からは、決して出こない言葉だ。僕は、いつか山縣に、美味しいと言ってもらえたら、幸せだろうなと考える。
「――だけど、捜査に置いて行かれているというのは、本当なんだね。今日は山縣は、事件の捜査で呼ばれていたから、スクリーニングに来なかった」
「っ……はい」
隠してもしょうがないので、僕は苦笑しながら素直に頷いた。
すると真面目な顔をした御堂さんが、少し悲しげに僕に言った。
「辛いよな。俺はいつでも話なら聞けるからね」
御堂さんは、とても優しい。
僕が小さく頷くと、御堂さんも頷いた。
この日を境に、特に用もないのだが、御堂さんはちょくちょく遊びに来るようになった。正直僕も、置いて行かれて、一人で暇だったので、話をする内に、楽しくなってきた。御堂さんは、素直に僕を褒めてくれるし、冗談も好きらしい。山縣とは百八十度違う性格をしている。
……山縣と、違う。
僕はそればかり考えている。山縣に会いたいし、山縣と話したいし、山縣は今どうしているのかと、御堂さんと話をしている最中も、山縣の事ばかり考えていた。
大体御堂さんは、山縣が帰ってくる前に、家に帰る。
だから現在までに二人が顔を合わせた事はない。山縣は最近深夜に帰ってくる。僕は起きて待っている。するとたまに、戯れに山縣が僕を抱きしめるようになった。山縣の腕の中にいる時は、山縣の存在をじっくりと感じられるから、その内に僕は幸せだと感じるようになってきた。最近の僕は、変だ。どうしてこんなに山縣の事が頭から離れず、その体温が恋しくなるのだろう。よく分からない。
今日も、御堂さんが遊びに来ている。
僕はそれなのに、ぼんやりとしていた。
「――ねぇ、朝倉くん」
名を呼ばれて、僕は我に返った。顔を上げ、すると御堂さんが不意に僕の唇に唇で触れた。何が起きたのか、最初分からなかった。僕が硬直していると、ニコリと笑ってから、御堂さんが僕の事を、ソファの上に押し倒した。
「なっ」
「山縣とはできるのに、俺とは出来ない?」
「!」
僕が目を見開くと、ポツポツと御堂さんが僕のシャツのボタンを外し始めた。僕は抵抗しようと右手を持ち上げる。するとすぐに押さえられ、ソファの上に縫い付けられた。
「や、嫌だ、止めて。それに山縣はこんなことしない!」
「やだね」
「嫌だ! 止め、離して! 離せ!」
僕は声を上げる。御堂さんの体温も手の感触も、違和感しかなくて、気持ちが悪い。僕は震えながら涙ぐんだ。力ではとてもかなわない。
リビングの扉が音を立てて開け放たれたのは、その時だった。
涙が滲む目でそちらを見ると、虚を突かれたような顔をしている山縣の姿がある。
目が合うと、山縣は何か言おうとするように唇を震わせてから、冷たい顔に変わった。
「浮気ならよそでやれ」
言い放たれた言葉に、僕は硬直した。
「ああ、そもそも付き合ってなかったな。失言だ」
それから吐き捨てるように山縣が笑った。僕の体が冷たくなり、震えだした。気づくと僕は声こそ抑えたものの、ボロボロと泣いていた。御堂さんは怖いし、山縣は誤解をしているし、僕を助けてくれるものは、何もない。もう嫌だ。
「山縣。その言い方はないんじゃないのか?」
御堂さんが呆れたような声を出して、僕の上から退いた。慌てて起き上がり、僕は両腕で自分の体を抱きしめる。がくがくと震えが止まらない。
「それと俺には本命がいるから、本気じゃなかったよ。言い訳しておくとね」
「出ていけ」
山縣が冷淡な声でそう告げると、そのまま御堂さんが帰っていった。
僕はその間も、ずっと泣いていた。涙が止まらない。
すると山縣が僕へと歩み寄ってきた。そして手を伸ばし、僕の頭をポンポンと叩くように二度撫でた。その感触に、ついに僕の涙腺は倒壊した。山縣の温度と、優しい手つきに、急に安心して、僕は目を閉じる。すると涙が筋を作った。
「泣くな」
「っ」
「……なんで御堂がここにいるのかは知らないが、大方……あいつは俺をライバル視しているから、俺と朝倉の仲を誤解して、寝とるつもりだったんだろうな。あのな、朝倉。お前な、隙を見せるな。俺の助手になるというのは、今後もこういうことがあるということだ。俺はやっかまれてもいるし、恨まれてもいる」
「っ、っく」
「泣くな」
そういうと、山縣が僕を抱き寄せ、後頭部に手を回した。そして僕の髪を撫でてくれた。僕が泣き止むまでの間、山縣はずっと僕を抱きしめていた。
第十三話 毛布と一言
数日後。
山縣は今日も既に、外に出ている。事件の捜査に向かったのだろう。
入浴後、僕は髪を乾かしてから、リビングへと戻った。
明日は、夏休み明けテストだ。僕はノートを開いた。
しかしまだ朝が早いからか眠気がやってきて、僕はそのままテーブルに両手を預けて微睡んだ。
「ん……」
ふと、なにか温かい感触がしたから、僕は瞼を開けた。見れば僕の肩に毛布を掛けようとしている山縣の顔が、至近距離にあった。まっすぐに目が合うと、山縣が僅かに頬を染めて、顔をそむけた。僕はその反応の意味がよく分からなかった。
「風邪をひくだろ。こんなところで寝てんじゃねぇよ」
ぶっきらぼうにそういうと、山縣が立ち上がって、二階へと消えた。
僕は毛布を片手で握りながら、山縣は照れていたのかもしれないと気が付く。
山縣は、なんだかんだで、とても優しい。見えにくい優しさだし、不器用な優しさだけれど、僕はそんなところも、とても好きだ。
けれど――あんまりにも置いて行かれてばかりだから、時々苦しくなる。
本日も、俯きながら、僕は肉じゃがを作っていた。初日よりは、上達したと思っている。その時、山縣が帰ってきた。僕は鍋から顔を上げて振り返る。
「おかえり」
「おう」
「すぐに珈琲を淹れるね」
「ああ」
ソファに座ってネクタイを緩めている山縣に、僕は珈琲を淹れて差し出した。
受け取って山縣が飲み始める。
「腹が減った」
「あ……肉じゃがを作っておいたんだけど」
「――へぇ」
「すぐに用意するね」
僕はキッチンへと戻り、テーブルに食事を並べた。すると山縣がやってきて、椅子に座った。対面する席に僕も座り、「いただきます」と手を合わせる。こうして夕食が始まった。すると山縣が、僕をちらりと見た。
「おい」
「ん?」
「その……この前、お前キャンプに行きたそうだったけど、行きたいのか?」
「っ……うん。でも、山縣は忙しいんでしょう? 無理に行かなくていいよ」
僕が微苦笑すると、肉じゃがを食べながら、山縣が呆れたような眼をしていた。
「はぁ。しかし美味いな」
「――え?」
「ほっとする味だな」
「!」
僕はその声に、耳を疑った。山縣の口から、「美味しい」という言葉が出たのは初めてだった。驚愕した僕は、それから胸に寒気が満ち溢れたことに気づいた。気づいた理由は、それが涙となって、目から零れ落ちたからだ。嬉し泣きだ。
「朝倉?」
「っ、あ、ごめん」
「なんで泣いてるんだ?」
僕は慌てて涙をぬぐう。山縣が僕を怪訝そうに見ている。僕は必死で笑おうとしたのだけれど、嬉しくて涙が止まらない。すると珍しく山縣が、おろおろするような顔をした。
「そんなにキャンプに行きたいのか?」
「そ、そういうわけじゃ――」
誤解されたことすら、嬉しさに変わる。山縣が、僕を気遣ってくれているのが嬉しい。
「仕方ねぇな。行ってやるよ」
「!」
こうして僕達は、探偵機構主催のキャンプへと行く事になった。
第十四話 キャンプ
探偵機構主催のキャンプの日が訪れた。九月の上旬の事で、僕達は新幹線と鈍行を乗り継いで、目的地のキャンプ場へと向かった。招かれていたのは、Sランクと一部のAランク探偵、及びそれぞれの助手だ。
「あー、久しぶりじゃん。朝倉くんだよね?」
キャンプ場の入り口で、僕は声をかけられた。顔を上げると、そこにはSランク探偵兼助手の十六夜紫苑さんが立っていた。その隣には、春日居孝嗣さんの姿もある。春日居さんの、探偵ながらに助手もしているのが十六夜さんだ。
十六夜さんは僕に声をかけてへらりと笑うと、楽しそうな眼をして歩み寄ってきた。
「お久しぶりです」
たった一度だけ、捜査で会った事がある。
「会いたかったんだよねぇ、俺。ほら、Sランクの探偵って特殊じゃん? 色々悩みもあるし、俺達なら分かり合える気がしてさ」
「あ……その、色々教えて頂けたら嬉しいです」
僕が微笑を返すと、明るい笑顔で十六夜さんが頷いた。
その隣にいる精悍な顔立ちをした春日居さんも、両頬を持ち上げて僕達を見ている。僕はそれから自分の隣を見た。山縣は、どこか不機嫌そうに二人を見ている。何故だろう? そう考えていると、御堂さんと日向の姿が視界に入った。なんとなく嫌な気持ちになっていると、気づいた二人がこちらへと歩み寄ってきた。
「この前は、ごめんね。朝倉くん」
「っ、いえ……」
「冗談が行き過ぎた。日向にも怒られたんだよ」
そういうと御堂さんは、日向を見て苦笑した。日向は不機嫌そうな顔で頷いた後、僕を睨んだ。僕を睨まれても困る。
その後僕達は、キャンプをするコテージへと移動した。
夜は、BBQだった。素材そのままの味の串焼きを食べつつ、僕は山縣の様子を窺う。特に味に対して、不満を述べる様子はなかった。
探偵と助手は、二人一部屋だったので、僕はダブルベッドの壁際に横になった。
ベッドは一つしかなく、隣には山縣が寝転んでいる。
「っ」
少しした時、壁際を向いていた僕を、後ろから山縣が抱きしめた。
「な、なに?」
「お前、距離取りすぎだろ」
「え、え?」
「意識しすぎだ」
「だ、だって……」
そのままその夜は、僕は山縣に抱きしめられて眠った。正直、ドキドキしすぎて、あまりよく眠れなかった。
翌日のプログラムは、登山だった。僕は山縣と一緒に歩きながら、前を歩く御堂さんと日向の背中を見る。親しそうに話している姿を目にし、学校での日向はいつも嫌味だから、全然違うなぁと考えていた。御堂さんを見る目が熱っぽくて、頬が紅潮している。御堂さんもまた、優しい笑顔を日向に向けている。
僕はチラリと山縣の横顔を見た。僕は作り笑いをしていることも多いが、山縣は相変わらずめったに笑わない。僕達の間に、談笑は存在しない。今もお互い、黙々と登山道を歩いている。
「なんだ?」
すると山縣が僕の視線に気づいた。僕は慌てて笑顔を浮かべて首を振った。
そうして進んでいくと――日向が足を取られて、僕の方に倒れてきた。慌てて僕は受け止めたのだが、その時運悪く木が倒れてきた。日向が転んだ時に、足が木を支えていた縄にかかったらしい。僕は日向を抱きしめるようにしてかばい、ギュッと目を閉じ、衝撃を覚悟した。
しかし覚悟していた衝撃は訪れなかった。恐る恐る目を開けると、僕達を抱き寄せた山縣が、落下していく木を睨んでいた。
「大丈夫?」
僕は腕から日向を開放する。山縣はそれよりも一歩早く横に退いた。
「う、うん。ありがとう」
日向は真っ蒼な顔をしている。御堂さんが走り寄ってきて、日向を抱きしめた。
僕もまだ鼓動が煩い。
すると山縣が、僕の肩を強く掴んだ。
「お前は馬鹿なのか? 人をかばって、自分が怪我をしたら意味がないだろ。自分を優先しろ」
怒っている山縣の冷たい目を見て、僕は何度も頷いた。
「ご、ごめん」
「まぁまぁ! 山縣、人助けは立派じゃん? 俺は心優しい朝倉くんは、褒められるべきことをしたと思うけどねぇ」
その時、僕の後ろから、十六夜さんがそう声をかけてくれた。
「ああ。十六夜のいう通りだ。俺もそう思う」
春日居さんもそう声を放つ。すると険しい顔をしてから、山縣が顔を背けた。
僕は、山縣が本当は、僕の心配をしてくれたのだと分かっているから、小さく口元を綻ばせた。苦笑が浮かんでくる。
このようにして、登山の時は流れていった。
下山し、キャンプ場へと戻ると、日向に袖をひかれた。
「一緒にお土産買いに行こうよ」
「え? う、うん」
僕はその誘いに頷いた。二人で学校のみんなに買っていくのもいいと思ったからだ。
こうして二人で、お土産が売っているキャンプ場のラウンジへと向かった。
僕はクッキーの箱を見る。
「ありがとうね」
その時、ボソっと日向がいった。驚いてそちらを見ると、プイっと顔を背けられた。思わず僕は小さく吹き出して頷いた。
こうしてお土産を買い、二人で外へと出た。そして道を歩いていた時だった。
「おー。美人が二人もいる」
「男だけど、これは可愛いな」
僕と日向は、そろって立ち止まった。見れば数人の青年が、僕達を取り囲んでいた。ニヤニヤと笑っている。
「俺達、ヤれる子探してたんだよねぇ。相手してよ」
「なっ」
僕は驚いて目を見開いた。すると日向が唇を強く噛んでから、相手を睨みつけた。
「誰があんたらみたいな雑魚の相手をするっていうの? 鏡を見て出直してよ」
「ひ、日向!」
煽った日向に、僕は狼狽える。慌てて日向の前に腕を出して、庇おうとした。
――その時だった。
「全くだ。俺らの連れに手を出そうっていうのか?」
低い声が響いた。いつもとは口調が違っている、怒気を含んだ御堂さんの声に、僕は振り返る。するとその隣にいた山縣が、後ろから僕を抱きしめた。
「Sランク探偵の山縣!?」
「Aランク探偵の御堂!?」
そこで男達は、狼狽えたような声を出し、散り散りに逃げていった。
「ど、どうしてここに?」
腕の中で首だけで振り返り僕が尋ねると、片目だけを細めた山縣が、呆れたような顔をした。
「お前らの帰りが遅いからって、御堂が気にして、迎えに来たんだよ」
「――心配して様子を見に行こうって言ったのは、山縣も同じじゃないかな?」
二人の声に、気が抜けて、僕は大きく吐息した。
このようにして、キャンプは終了した。帰り際に、十六夜さんと僕は、Sランク探偵の助手同士だから連絡を取ろうと話し合って、連絡先を交換した。
そうして僕達は、僕達の家へと帰宅した。
珈琲を淹れ、僕は山縣の隣に座る。ソファの背に山縣は腕を回している。
「楽しかったね」
僕が笑顔を浮かべると、山縣が半眼になった。
「どこがだ? 散々だっただろ」
そういうと、山縣が伸ばしていた手で、僕の肩を抱き寄せた。そしてそのまま、僕の髪を撫で始めた。
「お前の髪、触り心地は悪くないな」
その言葉に、僕は思わず照れてしまった。山縣に好きになってもらえるのならば、髪の毛一本も愛おしい。
「なぁ、朝倉」
「なに?」
「結局なんであの時泣いたんだ? それだけは、俺にも推理できなかった」
僕は肉じゃがを褒められた夜の事を思い出し、両頬を持ち上げる。
「秘密だよ」
「言え」
「秘密」
「おい」
そのまま山縣が僕の頭をかき混ぜるように撫でた。その擽ったい感触に、僕はずっとニコニコしていた。
第十五話 難事件
僕は本日、ハンバーグを作った。山縣の作るハンバーグの方が断然美味しいのだけれど、僕も努力をしている。山縣は完璧だけれど、目玉焼きやチーズを載せるという発想がなかったらしく、僕が作ったハンバーグを見て、当初困惑していた。だが不味いとは言わずに無言で完食したので、気に入ったのだろうと僕は考えている。
「ん?」
その時スマホから通知音がした。見れば、十六夜さんからメッセージアプリで連絡が来ていた。キャンプが終わってから、僕達はほぼ毎日やりとりをしている。十六夜さんは、僕に実戦的な助手の心得であったり、事件現場での動き方や補佐方法などを教えてくれる。それだけではなく、日常的な雑談も、機微に飛んでいて、本当に面白くて優しい。
『今度、俺と春日居の家に来ない?』
本日はそんなお誘いをもらった。楽しそうだなと思い、僕は山縣に聞いてみる事にした。その日、山縣は、早めに帰宅した。そしてハンバーグを食べ始めた。僕は付け合わせのサラダを食べながら、反応を窺う。不味いとは、やはり言われなくて、それだけでもとても満足してしまった。
「なに見てるんだよ?」
「あ、その……十六夜さんが、家に来ないかって誘ってくれたんだ」
「十六夜が? なんで?」
すると山縣が不機嫌そうに眉を顰めた。そうしつつも、フォークとナイフは動かしている。
「助手の心得とか、色々教えてもらってるんだ」
「俺は朝倉には、何も期待していない。不要だろ」
「っ……で、でも! 僕は山縣の助手だから、出来ることは頑張りたいし、勉強できることは学びたいんだ。十六夜さんは、とっても優しく教えてくれるし」
「――どうせ俺は、優しくねぇよ」
「へ?」
「なんでもない」
山縣はそういうと、不機嫌そうなままで、ハンバーグを完食した。
僕はその後、お皿を洗いながら、これも任せてもらえるようになって良かったなと思いつつ、天井を見上げた。山縣に期待してもらえないのが、とても辛いけれど、当初よりは、家事だって任せてもらえるようになってきた。それだけでも大進歩だろう。
翌日僕は、そんな悩みを、メッセージアプリで十六夜さんに聞いてもらった。
『Sランク探偵って癖があるから、本当に大変だよねぇ』
そう言って慰められると、なんだか気が楽になる。
『Sランク探偵は、速読技能や映像記憶能力もあるし、一緒にいると疲れない? 色々大変だと思うけど、無理しないようにね』
十六夜さんは、本当に優しい。僕は完全に懐いてしまった。
「朝倉」
山縣がリビングにいた僕に声をかけたのは、僕の誕生日の三日前の事だった。
「なに?」
「探偵機構に、助手を連れてくるように言われた事件がある。来い」
「う、うん!」
久しぶりの事件に、僕は目を瞠った。事件の発生を喜ぶべきではないのだが、僕は助手として、きちんと山縣の隣にいたいから、どうしても気持ちが盛り上がってしまう。
「行くぞ」
僕達は外に出た。すると青波警視が、車で迎えに来てくれていた。
なんでも青波警視は、主に山縣専門の警察官なのだという。
警察には、依頼する探偵への担当者がいることが多いそうだ。本来は、その相手とやり取りをするのは助手なのだと聞いたことがあるが、僕は青波警視の連絡先すら知らないし、青波警視から聞かれたこともない。疎外感がないといえば嘘になる。
「で? 事件の内容は?」
山縣が尋ねると、運転しながら青波警視が語り始めた。
――連続失踪事件なのだという。既に、三十人以上が行方不明だそうだ。必ず現場に、髑髏が描かれたシールが落ちているため、連続事件だと判断しているらしい。
「……」
すると山縣が、難しい顔をして沈黙した。
僕は驚いた。大抵の場合山縣は、こういった情報を聞いた次の瞬間には、犯人を導出している事が多いからだ。戸惑っている様子を、僕は初めて目にした。
「恐らくは、複数犯だ。被害者は生きていない」
「珍しく曖昧だな」
青波警視がそういうと、山縣が苦い顔をした。
「ああ。これは難事件かもしれん」
「Sランク探偵がそういうのなら、そうなんだろうな」
二人のやり取りを聞きながら、僕はちっとも役に立たない己を振り返り、ぼんやりとしてしまった。力になりたいと確かに思うのに、何もできない。落ち込みそうになる。
「あ、あの、山縣? 複数犯って何人?」
「――分からん。黙ってろ、朝倉。気が散る。足手まといだ」
きっぱりとそう言われ、僕は口を閉じる事にした。
その後現場へ向かったが、僕は立っていることしかできなかった。
結局犯人はわからないまま帰宅し、山縣はお風呂に行った。
第十六話 誕生日と猫
今日は僕の誕生日だ。テレビの星占いを見ていたら、こちらも一位で気分がいい。別段占いを信じるわけではないけれど、ちょっとだけ前向きになれる。僕が微笑していると、リビングのソファで一緒にテレビを見ていた山縣が、チラリとこちらを見た。
「機嫌がよさそうだな」
「え? ああ……うん、ちょっとね」
「ちょっと? 具体的に言えといつも言ってるだろ」
「ん……今日、誕生日なんだよ。十七歳になったんだ」
「――ああ。そうらしいな」
「え?」
「助手のプロフィールくらい、俺は記憶している」
さらりと助手と言われ、僕は嬉しくなった。その言葉が、最高の誕生日プレゼントに思えた。だから満面の笑みを浮かべて、顔をデレデレにしていると、山縣が僕を見て怪訝そうな顔をした。慌てて表情を引き締める。しかし嬉しすぎて、僕はまたすぐに笑ってしまった。
「ねぇ、山縣は、誕生日はいつなの?」
「もう終わった。七月の終わりだ」
「えっ、言ってくれればよかったのに」
「誕生日なんて俺は気にした事がねぇよ」
「……来年は、お祝いするから」
「いらん」
山縣はそうきっぱりと述べてから、僕をじっと見て――そのまま押し倒した。僕はソファの上で、山縣を見上げる。すると山縣が僕の後頭部に手を回し、頭を持ち上げた。
「! 痛っ」
直後ポケットから取り出したピアッサーで、いきなり山縣が、僕の右耳を貫いた。
「えっ、うあ!」
続いて左耳だ。
僕が震えていると、山縣がニヤリと笑った。
「安心しろ。このピアッサーは特注品だから、膿んだりはしない。それに、好きなピアスを最初から付けられるんだよ」
「な、なんで……? なんで、いきなりピアス?」
「さぁな。ところで――俺のこと、好きか?」
「っ」
「言えよ。好きだって」
「……好きだよ」
「へぇ」
言わせられた状態だが、僕は実際に好きだから、本当に困ってしまった。
――翌日は、秋雨が降っていた。夜まで僕達は、特に依頼が入るわけでも何があるわけでもなかったから、ダラダラとリビングで過ごしていた。特に目立って会話をするわけでもないのだけれど、山縣と同じ空間にいると、不思議と落ち着く。
「ん」
その時、山縣のスマホが音を立てた。通話に応答した山縣の顔が、険しく変わる。
通話を終了してから、舌打ちし、山縣が僕を見た。
「この前の事件の続きだ。お前も来るようにという指示だ。邪魔はするな」
「う、うん!」
こうして急な呼び出しで、僕達は外へと出て、青波警視の車に乗り込んだ。そして概要を聞くと、失踪事件の被害者の……生首が発見されたという知らせだった。僕はグロテスクな話に怖くなって、両腕で体を抱きしめる。山縣は慣れた様子で、被害者の首だけの写真を見ている。それから山縣は、後部座席にともに座っていた僕を、呆れたように一瞥した。
「何を怯えてるんだ? こんなもの、ただの肉の塊だ」
「っ、で、でも……こんなご遺体を見るのは……」
「死ねばそれはもうただの肉の塊だ。いちいち衝撃を受けてどうする?」
「……」
果たしてそうなのだろうか。僕は殺害される前には、きっとこの被害者だって、恐怖しただろうと思い、胸が痛くなった。同時に、首から流れ出たらしき血痕が、現場のアスファルトを濡らしているのを見て、気分が悪くなった。
「山縣。何かわかったか?」
その時、運転しながら青波警視が声をかけてきた。すると山縣が忌々しそうな目をした。
「分からん」
「ほう。珍しいな、山縣がそういうのは。寧ろ俺は、はじめて聞いたよ」
「相手は少なくとも、一般人ではない。普通の犯罪者とは考えられない」
山縣の声が険しくなる。
僕はその横顔を見ていた。
それから僕らは、現場へと出かけた。そこで本物の生首を見て、僕はギュッと目を伏せる。怖い。けれど、山縣の助手になるというのは、こういった事件とも向き合うということだ。だから僕は双眸を開けて、しっかりと向き合うことに決めた。
帰り際、僕と山縣は、途中で降りて、青波警視と別れた。青波警視は、そろそろ警視正に昇進しそうだと言って笑いながら帰っていった。
雨が止んだばかりの歩道は濡れていて、ところどころに水たまりがある。
僕は山縣の一歩後ろを歩いている。
「ニャア」
すると鳴き声がした。僕と山縣は、ほぼ同時に立ち止まる。見ればゴミ捨て場のところに段ボールの箱があって、そこに黒い仔猫が一匹はいっていた。
「ニャア」
やせ細っていて、手足が細い。
「行くぞ」
「や、山縣。この仔、このままにしておいたら、すぐに死んじゃうよ……」
「だから?」
「連れて帰っちゃダメかな?」
「あのな。猫を飼ったら、誰が面倒を見るんだ? 俺は捜査で泊りがけで家を空けることもあるし、抜けた毛はどうする? トイレの処理は? 餌は?」
「僕が頑張るから」
「何もできないお前が? お前に命あるものの世話なんかできんのか?」
「頑張る!」
「……好きにしろ」
こうして僕は、仔猫を抱きかかえた。黒い毛が、雨で湿っていた。
家に仔猫を置いてから、僕は取り急ぎコンビニに出かけて、必要なものを購入した。そして家へと戻ると、山縣が箱にトイレを用意していた。僕は目を丸くする。
「猫砂、買ってきたか?」
「う、うん!」
僕はトイレの砂の袋を取り出した。ため息交じりに、受け取った山縣が、それを段ボールに入れた。
山縣は、小さな猫を面倒くさそうに見ている。
以後――猫は、山縣にばかり懐いた。そして山縣は、面倒くさそうな顔をしつつ、猫を膝にのせていた。まんざらでもなさそうで、僕は笑うのをたびたび堪えた。控えめに言って山縣は猫を溺愛していた。
こうして僕と山縣の家には、新たな住人が加わった。
ただ僕は、少し寂しい。どんどん山縣を好きになっていて、一緒にいるとずっと山縣の事ばかり見てしまい、胸の動悸と疼きに苦労しているため、可愛がられている猫にまで、嫉妬してしまいそうになったのである。
第十七話 惨劇
直接描写はありませんが残酷な描写が含まれています。
苦手な方は飛ばしてください。
十六夜さんが車で迎えに来てくれたのは、十月の頭の事だった。
今は学校のテストも終わったし、毎日僕は暇だ。
相変わらず山縣は、僕の事を置いていく。
「悲しいよな。俺も分かる、春日居もたまに単独行動するからさ」
苦笑しながら運転する十六夜さんに対し、僕は頷いた。
助手同士で話すのだからと、僕は山縣には特にいうでもなく、十六夜さんの車に乗っている。
きっと山縣は、僕が日中何処に行ったかなんて、興味がないだろう。
十六夜さんと春日居さんは、少し離れた場所にある別荘地に、洋館を移築して住んでいるそうだった。髑髏館というらしい。ちょっと怖い名前だ。
二時間ほどかけて、雑談しながら到着したその洋館は、黒と白で出来ていた。
ギンガムチェックの床のエントランスを通り抜けて、僕は応接間に案内された――のだろうと、最初は思った。
だが、床に大きく髑髏が刻まれたその部屋で、僕は思わず目を見開いた。嫌な臭いがする。血の匂いだ。
僕の方へと、血だまりが筋になって流れてくる。
正面のキャットタワーには、生首が飾られている。
僕は何度か瞬きをした。
現実を認識することを、全身が拒絶していた。
しかし理解した瞬間には、総毛だって、慌てて振り返えろうとした。
「っ」
後ろから口を押さえられて、腕を取られたのはその時だった。
僕は布で何かをかがされ、そのまま意識を失った。
「ん……」
鈍い頭痛がする。
ぼんやりと目を開けた僕は、なぜ自分が椅子に座って拘束されているのか、最初理解できなかった。口枷が嵌められていて、両手は頭上で鎖に固定されている。足首にも足枷が嵌まっていて、胴体は椅子に縛り付けられていた。完全に身動きが出来ない。
「おはよう、朝倉くん」
僕の正面には、いつもと変わらない笑顔の十六夜さんがいる。
その隣の一人掛けのソファには、膝を組んで座っている春日居さんの姿があった。
……どうして?
……何が起きている?
僕は混乱しながら、二人をそれぞれ見た。すると十六夜さんが哄笑を始めた。
「犯人、分かったでしょう? いい加減」
「!」
「山縣にも解決できない連続殺人事件――それはそうだよねぇ。Sランク探偵の春日居とSランク探偵兼助手の僕が犯人だからねぇ。頭脳×2と1じゃさ、いくら山縣でも無理っしょ。あー、笑える」
お腹を抱えて、楽しそうに十六夜さんが笑っている。
隣では春日居さんも吹き出している。僕は戦慄した。
春日居さんの横には、電源の入っていない、電動ノコギリがある。
「果たして、山縣には解決できるかなぁ? んー、無理だろうねぇ。だからもうちょっと、ヒントを上げようと思ってるんだ。挑戦状は、既に送ったしね」
楽しそうにそういうと、歩み寄ってきた十六夜さんが、僕の顎を持ち上げた。そして屈んで僕の目をまじまじと見ながら、歪んだ笑みを浮かべる。
「どうやって殺そうかなぁ。君の生首を見たら、どんな反応をしてくれるんだろ。どう思う? 春日居」
「――それじゃ足りないだろう。もっともっと山縣をボロボロにしてやらないとな。それには、助手を嬲るのが一番だ。なにせ、運命の絆があるからな。探偵にとって一番こたえるのは、助手をいたぶられる事だ。違うか?」
春日居さんはそういうと、手にしていた本を傍らのテーブルに置き、そこに黒ぶちの伊達眼鏡を置いてから立ち上がった。そして十六夜さんの隣に立つ。
「山縣を傷つけつくしたい。ああ、山縣には絶対に負けない。勝ちつくそう」
「そうだね、春日居。楽しもうか」
僕は唖然としながら、二人を見ていた。
――山縣を、傷つける? 僕は、それが怖い。僕が何かされるよりも、山縣の無事を祈ってしまう。けれど、僕には何もできない。できなかった。僕は、無力だ。
「人間としての尊厳を、消してあげようかなぁ? どう思う? 春日居」
「ああ、痛めつけてやろう」
二人が僕を見て嘲笑している。
バシン、と。
その時音がして、僕の背中に痛みと熱が走った。
鞭で叩かれ、僕は体を震わせる。二度、三度と僕は叩かれた。
「――、――!」
その内に、痛みから僕は意識が曖昧になっていった。ただ正面に、その姿を撮影していカメラがあるのだけは、漠然と理解していた。
――その後、我に返ったというのが、正しいのかは分からないが、気づくと僕は虚ろな瞳を揺らしていた。力の入らない体で、僕は椅子に座らせられている。胴体を拘束され、後ろ手に縛られているが、きっとそうされていなくても、僕は動くことがもうできない。
思考が曖昧で、意識も曖昧で、自分が夢を見ているのか、現実を見ているのかも、よくわからない。僕は、どのくらいの間ここにいるのだろう。時間の感覚なんてとうになかったし、体の感覚すら乖離している気がした。
床を踏むかかとの音がし、僕が顔を上げると、春日居さんが立っていた。
電動ノコギリの音がする。
ゆるゆると視線を向ければ、スイッチが入っていた。十六夜さんの姿はない。
代わりに僕は、部屋中に飾られている生首を視界に捉えた。
「さて、仕上げだな。朝倉くんの首をプレゼントしたら、山縣はどんな反応をするのか。実に楽しみだ。君をいたぶった動画は、既に送付済みだよ」
春日居さんが何か言っていたが、僕の耳には入らない。喋っているのは分かるけれど、聴覚がもう言葉を拾わない。僕はただ、ぼんやりと、生首達を眺めていた。
その内に、一瞬だけ意識が戻り、凍り付いた。
「あ」
その一角に、猫の生首があったからだ。
それは、僕と山縣の愛猫だった。
「ああああああ!」
僕は泣きながら絶叫した。
電動ノコギリが振り上げられる。
僕も、死ぬのか。
きっと僕の首を見たら、山縣は肉の塊だというのだろう。
でも、猫の首を見たら、山縣は泣いてしまう気がした。
あんなにも、可愛がっていたのだから。
「半分くらい、顔の皮膚をはがすのもいいな。綺麗なその顔、焼くのもいいか」
刃が近づいてくる。
――轟音がして、扉が破壊されたのは、その時のことだった。
直後銃声がした。
僕の目の前で、春日居さんの体が傾く。
「朝倉!」
直後、僕は抱きしめられていた。僕の体に腕を回し、山縣が拘束を解いてくれる。僕は山縣の腕の中に倒れこみ、震えている山縣を見た。山縣がこんな風に、怯えたような顔で、泣きそうになって震えているなんて、そんなのはありえないから、やはりこれは、夢なのだろう。
そのまま僕は、意識を手放した。
第十八話 喪失恐怖(山縣)
「十六夜は逃亡して見つかってない」
青波警視の言葉を、山縣は椅子に座り無表情で聞いていた。それから緩慢に、ガラス張りの壁を見る。マジックミラーで、その向こうには病室が見える。寝台と計器があり、点滴に繋がれているのは、眠っている朝倉だ。
ここは天草クリニックの入院施設の一つで、特別室だ。そこから山縣が動かないため、青波警視はここへと足を運んだといえる。
「春日居は、無期懲役扱いで、完全拘束してる」
「……」
「以後、Sランク探偵の氏名や個人情報は完全に非公開になる。全探偵と助手、メディアにも通達済みだ。二度と被害者になりえないように、というのと、内二名が犯罪者になったからな」
淡々と青波警視が説明するも、山縣は聞いているのか不明だ。
――朝倉が、目を覚まさない。
既に身体的な怪我は全て癒えている。しかし、意識が戻らない。天草医師の診断として、強い心的衝撃により、精神に負荷がかかったせいで、目を覚まさないのだろうとされている。その朝倉をじっと見据えて、山縣は暗い瞳をしている。
「……」
朝倉が狙われたのは、自分のせいだ。
「っ」
口を押え、山縣が嗚咽をこらえる。だがすぐに無理になって、山縣は泣き始めた。
青波警視が憐れむようにして、静かにそれを見守っている。
唇を手で押さえ、山縣は震えながら泣いている。
後悔が押し寄せてきて、止まらない。
――朝倉が拉致され、当時は判明していなかった犯人から挑戦状が届いた時、山縣は死ぬほど動揺した。当初、人生で初めての感覚で、それが動揺という名前だとは気づかなかったほどだ。気づいた時には、心配で心臓が破裂しそうになった。
助手などいらないと思っていた。不要だと考えていた。
けれど今は、朝倉を失う事が、どうしようもなく怖い。
――気づいたら、とっくに大切になっていた。
例えば、眠っている体に思わず毛布を掛けた時も胸が疼いたし、そもそも最初に押し倒して泣かれた時はゾクリとして行為をやめるのにかなりの自制心を要したし、自分のために男同士の勉強をしたなんて麗しい顔で照れながら言われた時は可愛くてたまらないと思ったし、その後もどんどん自分を見る目が艶っぽくなり、色っぽくなっていく姿からは目が離せなくなったし、時に柔らかな髪を撫でる時は、幸せだと思っていた。どうして、それに気づかなかったのだろう。
何故己は、自分の気持ちに気づかず、朝倉に伝えなかったのだろうか、と。
泣きながら山縣は苦しくなった。好きだと、愛していると、一度も伝えていない。それはそうだ、自分の気持ちに気づいていなかったのだから。
本当は、自分のために作ってくれた肉じゃがやハンバーグは、とても美味しかった。単純に家庭料理に馴染みがなかったから、当初は困惑もしたが、ほっとする味だと次第に気づいて、そうしたら、愛おしくなった。
――まだ自分は、朝倉がキャンプの前に、何故泣いていたのか推理できないままだ。理由を、まだ聞いていない。
朝倉の誕生日なんて、プレゼントを買ってはみたものの、渡す言葉が思いつかなくて、結局あのピアスがプレゼントである事を、伝えられなかった。照れくさかったのだ。考えてみれば、あの頃にはもう、朝倉が大切で、大好きで、だから少しでも喜んでほしいという想いがあった。そうでなければ、プレゼントなんて買わない。
ひとしきり山縣は泣いた。見守っていた青波警視は、山縣が泣き止んだ頃、静かに立ち上がった。
「早く意識が戻ることを、俺も祈ってる」
「……ああ」
こうして青波警視は帰っていった。
――それから、三ヶ月が経過した。
冬。
その日は、雪が舞っていた。その日、山縣は朝倉の目が覚めたという知らせを受けて、息を切らして走ってきた。すると病室にいた天草医師が、無表情で、ベッドの上で上半身を起こしている朝倉と山縣を交互に見た。
山縣の記憶の中の朝倉は、いつも困ったように笑っていた。あるいは、満面の笑みだった。時には苦笑や悲しそうな顔、怯えた顔もあったが、いつも柔らかな印象を受けた。
「朝倉……?」
山縣が、震える声をかける。目の前にいる朝倉の茶色の瞳が、まるで人形のようで、何も映し出していないように見えた。あんな事件があった、それも己のせいで。だから、だから朝倉に嫌われた可能性を、何度も山縣は検討していた。朝倉は顔を上げる。しかしその瞳は、山縣を捉えない。
「山縣くん。朝倉くんは、意識が戻ったけれど、心的外傷で今、精神が摩耗している状態なんだ。こちらの声も認識していないし、自発的には食べることも、何もしない」
「っ」
「昔の言葉でわかりやすく言うのであれば、廃人の状態だよ」
「……」
山縣は何度か瞬きをした。
「でも、意識が戻っただけでも、これまでよりは――」
「うん、そうだね。一歩前進したとしてもいいと思うよ。僕は生涯目を覚まさない可能性も考えていたからね」
「……」
「ただ、ここから自我を取り戻すまでには、かなりの時間を要するよ。覚悟しておいて」
天草はそう述べると、部屋を出ていった。二人で残された部屋で、山縣はじっと朝倉を見る。そして泣きながら笑顔を浮かべた。生きていて、よかった。
だがそれは――苦しい日々の始まりでもあった。
次の春になる頃には、山縣の目は虚ろに変わっていた。
今日も反応のない朝倉の病室に行き、山縣は無理に笑顔を浮かべる。過去には、作り笑いをした経験なんてない。
「おはよう、朝倉」
微笑みながらそう声をかけて、山縣は持参した花束を、花瓶にいける。古いものは処理をする。見舞いに来るたびに、山縣は朝倉が部屋に飾っていた花を思い出して、購入している。そう、朝倉が花を好きだと、知っていた。なのに、過去には気に留めなかった。
「今日は、屋上庭園に出てみるか?」
山縣はそう言って微笑し、朝倉を車いすに乗せた。
天草クリニックの屋上にある庭園には、春の花が咲き誇っている。そこで山縣は、車いすを止め、何度も朝倉に話かけた。反応が返ってくる事はない。
「なぁ、朝倉……もう二度と、お前を危険な目には遭わせない。俺が守る。だから、頼むから、自分を取り戻してくれ」
その場でつらつらと、山縣は切実な声を放った。
しかし、反応はない。
それからも代り映えのしない日々が流れていき、夏が来た。山縣は捜査協力依頼を何度か青波警視から受けたが、すべて断った。もう、事件になど関わる気力が起きない。見かねた両親が、代理で捜査をしてくれた。朝倉の家族は、山縣に対し、気に病む必要はないと声をかけてくれたが、山縣にとっては、逆にそれが辛かった。
こうして七月末が訪れた。
ぼんやりとテレビを見ていた山縣は、十八歳の誕生日を迎えたその日、占いが最下位だったのを見て、思わず噴き出した。それから、笑ったままで泣いた。
「誕生日、祝ってくれるんじゃなかったのかよ」
もうこの家に、朝倉はいない。猫も、いない。山縣は、一人きりだ。
喪失の恐怖は、次第に孤独感へと変わりつつあった。
朝倉が生きていてくれるだけでいいのは間違いなく本心だ。けれど、現状が辛くて、山縣は一人何度も泣いた。しかし慰めてる者は、誰もいなかった。
そんなある日だった。
この日もいつものように山縣が花束をもって見舞いに行くと、天草に呼び止められた。
「あのね、山縣くん。僕は提案したい事があるんだ。一つの賭けではあるんだけど」
それを聞いて、山縣は立ち止まる。
「過去、こういった症例への対応として、一番効果を上げている手法なんだけど」
「どんな?」
「特殊催眠療法というんだけど――要するに、自我を失う原因となった、辛い記憶自体を封印して、無かった事にするという手法なんだ。いわゆる、記憶喪失を、人為的に誘発する手法だよ」
「記憶喪失……」
「これには、起点と終点がいる。そして朝倉くんの場合、事件で最後に目にした相手は救出した山縣くんだよね? だから、起点も君にして、山縣くんとの出会いから、最後に山縣くんを見た瞬間までの記憶を封印したならば、あるいは自我が戻るかもしれない」
山縣が目を丸くする。
「ただしそれを行えば、朝倉くんの中から、山縣くんの記憶は消える。もっとも、封印しているだけだから、精神的に受け入れられるようになったら、少しずつ記憶は自然と戻るけどね」
「俺の事を忘れれば、朝倉は元に戻るのか……?」
「その可能性があるという話だよ。必ず成功するわけではない。ただ、朝倉くんのご両親は、山縣くんの同意が得られるならば、この治療をしてほしいとご希望されているよ」
「……っ」
「君としては、どう?」
山縣は俯き、息をつめた。それから決意をした顔で、上を向く。
「俺の事を忘れたとしても、朝倉が元に戻るなら、それがいい」
「――そう」
こうして、朝倉の記憶は、封印される事となった。
処置には、しばらくの時を要し、既に季節は秋だ。この日、山縣は、マジックミラー越しに、朝倉の病室を見ていた。
『あれ?』
その時、朝倉が声を出した。山縣が目を見開く。
『僕、教室で成績表を見てたのに……ここは?』
『天草クリニックだよ。僕は担当医の天草。君は、とある事件に巻き込まれて、記憶を失っているんだよ。ただその事件は、極秘の事件だから、詳細は君本人にも伝えられないんだけどね』
困惑したような顔をしている朝倉を見て、山縣は思わず泣きそうになった。口元には笑みを浮かべている。記憶はないようだが、朝倉に表情が戻り、その瞳に光が戻ったことが、どうしようもなく嬉しかった。
――その後、療養を経て、朝倉は留学する事になった。
朝倉が乗るという飛行機を、山縣は見に行った。
「俺は、朝倉がいないと、ダメなんだなぁ」
そう呟いて苦笑する。間違いなく、朝倉は運命の相手だった。それが探偵と助手の絆なのかは分からない。
「いいや、多分違うな」
一人呟き、山縣が苦笑する。自分側は、少なくとも、愛している。これは、恋だ。
だが、だからこそ探偵と助手としても運命の関係でよかったと感じる。
どこにいても、お互いがお互いだけを求める関係である以上、きっとまた、再会できるだろうと分かるからだ。
留学中は、顔をあわせる事は出来ない。
連絡先も知らない。
けれどいつか、再会したいと、山縣は願いながら、飛行機が消えていった空をずっと見上げていた。
「再会したら、もう絶対に危険な目には遭わせない」
決意するように、山縣が呟く。そのためには、どうすればいいか?
明瞭だった。事件に関わらなければいい。
そもそも――自分が朝倉に接触しなければ、朝倉が巻き込まれる事はないのだろうが、それは無理だと、もうよく山縣は理解していた。留学というだけでも、実際には息苦しくなる。朝倉の顔を見ていないと、そばにいられないと、辛さが押し寄せてきて、気が狂いそうになるからだ。胸が苦しくなって、とても痛い。離れていると、朝倉がいなくなってしまうような感覚がして、息が出来なくなってくる。
その足で、山縣は天草クリニックへと向かった。
真っ青な顔をしている山縣を見て、嘆息しながら天草が、点滴の用意をする。
そして、助手不在時に探偵が患う特殊な不安症の薬の錠剤を渡した。
そこへ来ていた青波警視が、それを見て複雑そうな顔をする。青波警視と天草医師は、高校時代の同級生だ。
山縣は、幾度も不安症に耐えながら、時折青波警視から、朝倉の留学先での様子を聞いたり、写真を見せてもらったりした。警察機関と探偵機構は、双方朝倉を保護しているという。元気そうな朝倉の姿を見て、山縣は元気でいてくれるならばそれでいいと思いながらも、不安症で苦しくなっては震えた。
「助手がいないと探偵は、生きていけないからな」
――助手を喪失し、あるいは探偵を喪失し、なんにんもが狂っていったのを、仕事柄見てきた青波が呟く。山縣にとっての不幸中の幸いは、他の人々とは異なり、それこそ朝倉がまだ、生きている事だろう。
そのような過去を経て――探偵機構は、山縣と朝倉を引き合わせた。二度目であるが、朝倉はそれを知らない。この頃山縣は、現在個人的に追いかけている事件の関連で、コンビニで働いていた。バイトとして入ったが、実際には調査だ。
しかし、朝倉と再会して、それはやめた。何故ならば、常についていたかったからだ。
守るために。
眠っている朝倉の唇に、山縣は何度か、触れるだけのキスをした。
大切すぎて、手を出す事が出来ない。
「事件にさえ、関わらなければ……もう、危険はねぇからな。俺が、必ず守る」
本当は、掃除も料理も朝起こすのも何もかも、山縣は、してやりたいと感じていた。けれどいつか、家事だけでもやらせてほしいと朝倉が述べていたことを思い出し、敢えて何もしない事にした。そして個人的に追いかけている事件に関連するのだろうアプリのゲームをしながら、毎日朝倉の顔が見られる生活が戻ってきた事に、内心で歓喜していた。
幸せが、戻ってきた。
もう決して、手放さない。そう、決意していた。
第十九話 戻った絆
ここから現在軸に戻ります。
……僕は、忘れていたんだ。大切な、思い出を。
「山縣」
思わず僕は、自然と両頬が持ち上がるのを感じていた。驚愕したように、山縣が僕を見ている。過去の記憶の中の山縣と、今の山縣が、僕の中で交差する。僕は思わず、山縣に抱き着いた。すると山縣が、ぎこちなく僕を抱きしめ返してきた。
「全部思い出したよ」
「……っ、そうか」
「なんで今は料理しないの?」
「――お前の料理が好きだからだよ」
「なんで今はお掃除しないの?」
「お前が家事やりたがってたからだよ」
「なんで朝起きないの?」
「毎朝お前に毎朝会いたいからだ」
「なんで今は事件を解決しないの?」
「――お前を守りたいからだ」
その言葉を聞いて、僕は山縣の胸板に額を押し付けた。
僕達の間には、確かに探偵と助手の運命の絆が、そしてそれを超えて、僕だけが忘れていた愛が、繋がっていた。ねじれていた僕らの間の絆が、この時しっかりと元に戻った。いいや、以前より、お互いが素直になれている。もうどこにも歪みはない。
「山縣。僕はもう大丈夫だよ。強くなった。そう思ってる。だから、これからは昔みたいに、推理して、事件を解決してよ。僕は、山縣が推理しているところを、もっと見たい」
それから僕は、自分の耳に今もあるピアスに触れた。
山縣がくれたのだと、もう僕は、しっかりと思い出している。
「朝倉……」
山縣が、僕の頬に触れた。僕達は見つめあい、そのままどちらからともなく唇を重ねた。
――翌日。
昨日は腕枕をされて眠った僕は、朝になって山縣に揺り起こされた。寝穢いなんてただの嘘だったのだと思い知らされながら、僕はキスをされて起こされた。
本日も、ミステリーツアーは続いている。
「本当に続けるのか?」
心配そうな山縣の手を取り、僕は頷いた。
今日は島を散策し、手掛かりを入手するらしい。僕達は手を繋いで、島を回った。
すると、日向と御堂さんと遭遇した。
「昨日、大丈夫だったの?」
日向に言われたので、僕は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。もう平気だよ。それと――思い出したんだ、全部。久しぶりだね、日向」
「っ、記憶、戻ったの?」
「うん」
僕の言葉に虚を突かれたような顔をしてから、珍しく日向が笑顔になった。
「そう。じゃあこれからは、助手としても本気でライバルだと思わせてもらうね」
そう言って日向が楽しそうな顔をした。
並んで立っていた御堂さんも笑っている。
僕はその時、二人の手に、おそろいの指輪が輝いていることに気づいた。そしていつか御堂さんが言っていた、本命が、日向だったのだとやっと理解した。
二人と別れてから、僕はそれまで無言で立っていた山縣を見た。
「ねぇ、山縣」
「あ?」
「指輪、買ってよ」
「――考えておく」
そうは言いつつ、山縣が嬉しそうに笑ったのを、僕は見逃さなかった。
このようにして、ミステリーツアーの時間は流れていった。
今回のミステリーツアーにおいても、探偵ポイントは更新される。
「お前の頼みだからな」
最終日、僕は結果を見て目を丸くした。一位は山縣、二位が御堂さんだった。御堂さんと日向は、呆れたように山縣を見ていた。僕は山縣に笑顔を向ける。これが、山縣が推理を再開した日の記憶だ。その後僕らは、フェリーに乗って帰還した。
以後、山縣はきちんと事件に向き合うようになった。
僕を置いていくこともしない。それは僕を常にそばにおいて守りたいという趣旨のようだったし、事件も凶悪なものは引き受けないのだが、僕にとっては十分すぎる。なにより、事件を解決している時の山縣は、本当に生き生きとしている。それは探偵才能児由来の本質だ。探偵とは、事件があると謎を解きたくなる生き物らしい。
そんなこんなで、七月末が訪れた。
僕はこの日、ケーキを作っていた。すると僕を後ろから、山縣が抱きしめた。
「これは?」
「今年こそ、祝わせてよ。昔、約束したよね?」
誕生日のケーキを見据えてから、山縣が僕の後ろで、嬉しそうに吐息した。
山縣が後ろから、僕の左手を覆うように握った。その時冷たい感触がして、僕は驚いて目を見開く。
「あ」
見ると指輪が嵌まっていた。山縣の手にもおそろいの指輪が嵌まっている。
「ありがとう……」
「おう」
その日は、山縣のリクエストで、肉じゃがを作った。一番最初に出会った日は、食べる気が起きないと言っていたくせに、今では大好物らしい。なお、誕生日のプレゼントは、僕はネクタイピンをプレゼントした。
翌週、僕は天草クリニックを受診した。金島から戻ってきてすぐにも一度診察を受けたのだが、本日は定期受診の日である。
「――という感じで、山縣が頑張ってるんです」
「そうなんだ。でも僕としては、山縣くんの活躍ぶりではなくて、朝倉くんの具合が気になるんだけどね?」
呆れたような顔をされて、僕は赤面した。気づくと僕の口からは、山縣の話題しか出なくなってしまっていた。それは、僕が記憶を取り戻した事を告げた後の、家族からも指摘された。先日妹と通話をしていたら、「お兄様、山縣さんの話題ばっかりね」とクスクスと笑われた。僕は、スマホ越しに苦笑したものである。
第二十話 叶えたい望み
その後。
山縣は、いくつもの事件を解決していった。それは、僕が犯罪事件マッチングアプリで見つけてきた依頼もあれば、青波警視正からの依頼もあった。本日も、青波さんが来ている。
「いやぁ、すごねぇ。さすがだな、山縣。あと、朝倉くんの助手力。山縣がやる気を出すには、やっぱり朝倉くんは必要不可欠ってことだな。探偵は助手がいないと生きられないもんな」
その言葉を聞きながら、僕はコーヒーを淹れていた。なんだか照れくさい。
青波さんが手渡したタブレット端末を見て、山縣は険しい顔をしている。
「青波」
「やっぱりこの依頼は引き受けられないか?」
「――いいや、俺が個人的に追いかけていた。絶対に許すつもりがなかったからな。三つ路地を先に行ったところコンビニで、毎日唐揚げ弁当を買う、イフェナンスっていうアプリゲームを開発している会社の代表取締役社長の家にいけ。そこに、十六夜がいる」
「!」
青波さんが驚愕したように目を丸くしてから、無言で立ち上がった。そして僕が珈琲を振る舞う前に、足早に帰っていった。
十六夜という名前に、僕はカップを置いてから、息を飲む。
すると立ち上がった山縣が、僕を抱きすくめた。
「安心しろ、危険はない。俺がついてる」
「……山縣……」
「春日居は、結局、今後も推理をするという条件で、無期懲役にはなっているが、使役囚と同じで、身体拘束をされている。危険はねぇよ」
「ねぇ」
「ん?」
「僕は……もう、大丈夫だよ?」
苦笑して僕が言うと、僕の体を反転させて、山縣が僕の額にキスをした。
「俺が、大丈夫じゃねぇんだよ」
――それから少しして、僕の誕生日が訪れた。
この日山縣は、ソファに座って僕を見ると、優しい笑顔を浮かべていた。
「やっと俺も、素直に祝えるようになった」
「え?」
「俺も大人になったんだよ」
そう言って僕の肩を抱き寄せると、山縣が掠め取るように僕の唇を奪った。
思わず赤面した僕は、それからキッチンの方を見る。そこには、山縣が用意してくれた料理やケーキが並んでいる。一見しただけでも、やはりクオリティが著しく違う。僕の用意したケーキとは異なり、山縣が作ったものは、どう見ても、専門のお店でパティシエさんが作ってくれたようなできであり、輝いて見えた。
料理は、ここ最近は、僕達はほぼ日替わりで作っている。山縣は、僕の手料理を食べたいと言ってくれるので、僕も気合を入れるのだが、半分は山縣がやるようになった。
「朝倉に、食べさせたいんだよ」
そういわれると、僕は言葉が出てこなくなる。気を抜くと、他の家事も、全て山縣がやっている。まるで過去に戻ったかのようだ。ピシっとアイロンがかけられたシャツ、チリ一つない部屋、的確に分別されたゴミ、なにもかも、やっぱり山縣は、完璧だ。
「僕にもやらせてね?」
「おう。頼りにしてる」
「うん」
「ただ、今のお前は、俺の助手の仕事があるだろ? 昔とはもう違う。俺は、お前がいねぇと推理もできないし、お前がいるから頑張れるんだよ」
山縣の言葉に、僕の胸は満ちる。今では、捜査資料の整理や、青波さんとのやりとりも、僕は任せられている。ただ朝は、僕は起こされる側に戻った。早く起きた山縣は、朝食を用意してから、僕にキスをし、僕を揺り起こす。
「ん」
柔らかな感触に浸りながら、僕は目を覚ます毎日だ。僕の髪を撫でる山縣の瞳は、いつも優しい。そして夜は、多くの場合、僕は山縣に腕枕をされ、撫でられながら微睡んでいる。まだ一度も、僕達は、ここで暮らすようになってからは体を重ねていない。山縣は、僕に体を求めない。ただ優しく僕を抱きしめて、腕枕をし、僕の頭を撫でるだけだ。
山縣はとにかく僕を可愛がり、僕を甘やかしている。
僕は思わず赤面する事が多い。
「愛してる」
今日も山縣が、僕に愛を囁いた。僕の記憶が戻ってから、山縣は僕に好意を繰り返し伝えてくれる。僕は嬉しくていつも泣きそうになる。
「僕も、山縣が好きだよ」
どうして、こんなにも好きなのに、その気持ちを僕は忘れていたのだろう。それが不思議だ。ただ、考えてみると僕は、再会してからも、山縣がどうしようもないダメ人間だと思っていたのに、どこかで惹かれていたのだから、二度、恋をしたのかもしれない。
「朝倉、ずっとそばにいてくれ」
「うん」
しかし――素直になった山縣の、愛の言葉と笑顔は、本当に破壊力が高い。僕は抱きしめられながら、愛に浸るのだけれど、胸がいちいちキュンとする。端正な顔をしている完璧な山縣による僕への溺愛は、とどまるところを知らない。この日も抱きしめられながら、僕は終始赤面していた。相思相愛というのは、とても幸せだなと僕は思う。
――探偵ランキングと探偵ポイントは、四月に更新されるのだが、速報として、十月にも一度、その時の状況が発表される。
僕はドキドキしながら、結果の通知が届いたので、探偵機構の連絡用アプリを開いた。
そこには――探偵ランキング一位、探偵ポイント一位、暫定Sランク、山縣正臣と記載されていた。目を丸くし、僕は隣にいた山縣の服を引っ張った。
「山縣、やったよ! おめでとう!」
僕が画面を見せると、最初興味がなさそうにしていた山縣だが、大喜びで満面の笑みの僕を見ると、薄く笑った。それから誇らしげに言った。
「朝倉の望みは、俺は何でも叶えたいからな」
そういうと、山縣が僕の肩を抱いた。僕は、幸せでたまらなかった。
別に山縣が、Sランクの探偵じゃなくても、そう――ダメなままでも、僕はきっとそばにいた。けれど、今の生き生きしている、自分を取り戻した山縣の方が、僕は好きだ。
その後も僕達は、ペット探しから、殺人事件までをも引き受けつつ、毎日ともに、探偵と助手として、仕事に臨んだ。僕達は、その後、メディアにも取り上げられるようになった。なんだか、照れくさい。そんな日々は幸せで、僕は山縣と、今後もずっとそばにいたいいと思った。DWバースという、抗えない世界がもたらした関係性からの開始だったけれど、助手という立ち位置を超えて、僕は、山縣正臣という人間を愛している。もう、ダメだなんて思わない。僕に惜しみない愛を注いでくれる彼は、確かに僕だけの探偵であり、愛を見つけてくれたのだから。
【完】