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目次
第1話:演算外の来訪者
「……おい、梅宮、誰だ、あいつ」
桜遥は、風鈴高校の屋上で、怪訝そうに視線を投げた。
「獅子頭連」との激闘を終えて数日。傷が癒え始めた|多聞衆《クラス》の面々が屋上に集まっていたが、そこには見慣れない背中があった。
屋上の縁に腰掛け、夕日に照らされているのは、ハンサムショートの髪をなびかせた人物だ。
風鈴の学ランを肩に羽織っているが、その下は白いシャツにネクタイ。そして——。
「……男? いや、スカート履いてますし」
楡井秋彦が戸惑った声を出す。その声に反応し、その人物はゆっくりと振り返った。
薄ピンク色の瞳が、無機質に桜たちを射抜く。整いすぎた中性的な顔立ちに、桜は思わず息を呑んだ。
「おっ、来たか! 紹介するよ、うちの『軍師』で『お医者さん』。|茉莉 蒼《まつり あお》だ」
梅宮一が、野菜に水をやる手を止めてパッと顔を輝かせた。
だが、紹介された蒼は、挨拶を交わすどころか、鋭い視線で桜を上から下まで眺め始めた。
「(……全治、あと二日ってところか)」
「……あぁ!? 何ジロジロ見てんだよ!」
苛立つ桜を無視し、蒼は淡々と、しかし確信に満ちた声で言い放つ。
「……桜遥。あんた、喧嘩の筋はいいけど、着地の時に膝を使いすぎ。……非効率だよ。そんな戦い方、そのうち自壊する」
「テメェ……初対面でいきなり何様のつもりだ!」
桜が詰め寄ろうとしたその時、ずっと黙っていた杉下京太郎が、地鳴りのような声で呟いた。
「…………女、だったのか」
「「「お前も知らなかったのかよ!!」」」
桜と楡井のツッコミが響く中、蒼は呆れたように肩をすくめた。
「……杉下。あんたとは一昨年の冬からの付き合いだけど、まさか私の身体構造すらスキャンできてなかったなんてね。……観察眼不足。後で再教育ね」
「……悪い。強かったから、男だと思ってた」
あの杉下が、気まずそうに視線を逸らす。その光景に、多聞衆の面々は戦慄した。梅宮以外にこれほど杉下を黙らせる人間が、この学校にいたのか。
「……軽く自己紹介。梅宮からこの学年の各教科、及び体調管理を担当するよう指示されてる、茉莉 蒼。……以上。これ以上言っても時間の無駄だから、質問は受け付けない」
蒼はそう言い捨てると、手元のタブレットに視線を戻した。その徹底した合理性と冷徹なまでの美しさに、場が静まり返る。
「へぇ……勉強も教えてくれるんだ? 楽しみだなぁ。……よろしくね、蒼先生」
不敵に口角を上げたのは、蘇枋隼飛だった。
蒼はその瞬間、持っていたタブレットを一瞬だけ強く握りしめ、すぐに顔を背けた。
「……っ。蘇枋、あんたは……別途、特別メニュー。……あと私を先生って呼ぶな。演算の処理速度が落ちる」
「おや、どうしてかな?」
「……うるさい。非効率な会話はそこまで」
蒼は救急箱を傍らに引き寄せ、鋭い声で命じた。
「……全員、そこに並びなさい。あんたたちのボロボロな体を、今から一秒でも早く『効率的』な状態に戻してあげる」
こうして、風鈴高校に史上最も美しく、最も冷徹な「軍師兼医者」が君臨した。
それが、蒼の止まっていた時間が、再び動き出す合図だった。
🔚
第2話:神医者のスキャンと仮死の眠り
「……桜、あんたから。そこに座りなさい」
蒼の声は、一切の反論を許さない響きを持っていた。
桜は毒づきながらも、梅宮の「蒼の言うことは聞いとけよ」という苦笑いに押され、渋々コンクリートの床に腰を下ろした。
「触んなよ、これくらいほっときゃ治る――」
「黙って。非効率」
蒼が桜の細い手首を掴み、指先を滑らせる。
その瞬間、桜はゾクりとした。蒼の薄ピンク色の瞳が、自分の体の中を直接覗き込んでいるような、奇妙な感覚に襲われたからだ。
「……|橈骨《とうこつ》に微細なひび、大胸筋の過伸展。呼吸音に雑じりあり……獅子頭連の抗争、相当無理したね」
「……っ!? なんで、触っただけで……」
「あんたの体、悲鳴を上げてるよ。筋肉の炎症指数が正常値の三倍。……ほら、ここ、痛むでしょ」
蒼が桜の脇腹を軽く押さえた瞬間、桜は「っ……!」と息を呑んだ。自分でも気づいていなかった、鋭い痛みの核心。
「……私の指先は、あんたたちの体の『不協和音』を拾う。……骨、筋肉、血管。隠しても無駄。……次、楡井。あんたは内出血が酷い。杉下、あんたは拳を使いすぎ。……全員、私のトリアージに従って」
蒼の手際は圧倒的だった。
救急箱から取り出される特製の湿布や漢方薬。彼女の指先が触れるたびに、疼いていた傷口が不思議と静まっていく。多聞衆の面々は、その「神医者」と呼ぶにふさわしい技量に、言葉を失い圧倒されていた。
「……へぇ。触れるだけで全部わかっちゃうんだ。……じゃあ、僕の健康状態も、わかってるのかな?」
最後に順番を待っていた蘇枋が、楽しげに手首を差し出す。
蒼はその指先が蘇枋の肌に触れた瞬間、一瞬だけ指を跳ねさせた。
「(……脈拍、正常。血圧、安定。……なのに、なぜ私の演算にノイズが……!?)」
「おや、どうしたのかな? 僕、どこか悪い?」
「……異常なし。蘇枋、あんたは、……自分で何とかしなさい」
蒼は突き放すように蘇枋の手を離すと、全員の処置を終えたことを確認し、深く息を吐いた。
その瞬間、彼女の顔から急激に血の気が引いていく。
「……処置終了。……二時間後に、起こして……」
「え? おい、茉莉!?」
桜の呼びかけも虚しく、蒼は糸が切れた人形のように、その場にバタリと倒れ込んだ。
慌てて駆け寄る楡井たちが目にしたのは、死んだように深く、動かなくなった蒼の寝顔だった。
「……あはは、驚かせてごめんね。蒼、スキャン能力を使いすぎると、脳がオーバーヒートして『仮死状態』みたいに眠っちゃうんだよ」
梅宮が慣れた様子で自分の上着を蒼にかけ、優しく笑う。
最強の軍師で、無敵の医者。
けれど、その実力と引き換えに、彼女は誰よりも脆い一面を抱えていた。
処置を受けた桜は、自分の傷を癒やしてくれた少女の、無防備すぎる寝顔を複雑な気持ちで見つめるしかなかった。
🔚
第3話:茉莉塾、開講
「……いい、一回しか言わない。この公式を演算回路に叩き込め。できない奴は、効率の悪いゴミとして屋上から投棄する」
風鈴高校、放課後の空き教室。
黒板の前に立つ蒼の声が冷たく響いた。教壇に置かれたタブレットには、多聞衆全員の小テストの結果が赤裸々に映し出されている。
「……っ、茉莉! 喧嘩に関係ねぇだろ、こんなの!」
桜が机を叩いて立ち上がるが、蒼は眉一つ動かさない。
「関係ある。あんたの戦い方は反射神経に頼りすぎ。……脳の処理能力を上げれば、相手の死角が今の1.2倍は鮮明に見えるようになる。……座れ、桜。赤点の分際で口を動かすのは時間の無駄」
「……あ、赤点って言うな!」
顔を真っ赤にして座る桜の隣で、楡井は必死にペンを動かし、杉下は梅宮に「蒼の教えを乞え」と言われた忠誠心だけで、慣れない数式と格闘している。
これが、風鈴高校で最も恐れられる「茉莉塾」だ。
「……蘇枋。あんた、さっきからペンが止まってるけど。演算終了?」
蒼の視線が、余裕の笑みを浮かべて窓の外を眺めていた蘇枋に向けられた。
「おや、バレたかな。……僕、暗算で終わっちゃったんだけど。……ねぇ蒼、正解してたら、何かご褒美くれる?」
蘇枋がひらひらと回答用紙を振る。蒼は無言でそれを奪い取ると、一瞬だけ目を通した。
「(……全問正解。それも、最も効率的な解法。……やっぱり、こいつの脳は読み切れない)」
蒼は僅かに唇を噛むと、蘇枋に背を向けて短く告げた。
「……へぇ。やるじゃん」
その瞬間、教室の空気が凍りついた。
桜たちが驚愕の表情で蒼を見る。
「……おい、今……茉莉が『やるじゃん』って……」
「風鈴の生徒にとって、茉莉さんの『やるじゃん』は一生の誉れだって聞いてたけど……本物だ……!」
楡井が感動で震える中、蒼は耳を微かに赤くして、バシッと手で黒板を叩いた。
「……騒ぐな! 次の問題。制限時間は三秒。演算開始!」
厳しすぎる指導の裏にある、稀に見せる「肯定」。
効率を愛し、無駄を嫌う彼女が、ほんの一瞬だけ見せる「慈愛モード」の片鱗に、不良たちは毒気を抜かれていく。
授業を終え、疲れ果てた生徒たちが去る中、蘇枋だけが居残って蒼に近づいた。
「……ねぇ、さっきの『やるじゃん』。……本心かな?」
「……うるさい。あんたの脳は『非効率』にできてる。……私の演算を狂わせるために」
蒼はそう吐き捨てて荷物をまとめたが、その指先は微かに震えていた。
サヴァン症候群の彼女が、どうしても「計算」できない存在。
窓の外では、夕焼けが二人を赤く染めていた。
🔚
第4話:重力を嗤う茉莉花
「……桜。あんた、パトロール中なのに心拍数が上がりすぎ。無駄な緊張は筋肉を硬直させる。非効率」
「うるせぇ! 茉莉、なんでテメェまでついてきてんだよ!」
放課後の商店街。パトロールに勤しむ桜たちの隣には、風鈴の制服を着崩した蒼の姿があった。
彼女は進学校の特待生だが、放課後はこうしてボウフウリンの「脳」として街を歩く。
「……街の安全はデータの蓄積から。不審な動向、地形の死角。全部スキャンし直す必要があるから」
蒼が淡々と答えたその時だった。
路地裏から「ひったくりだ!」という叫び声が上がる。
「っ、あっちか!」
桜が即座に駆け出そうとしたが、逃走犯はすでに高いフェンスを乗り越え、複雑に入り組んだ廃ビルの屋上へと逃げ込んでいた。
「チッ……あんなところ、追いつけねぇ……!」
「……桜、あんたは下を。……上は、私がやる」
蒼が呟いた瞬間だった。
彼女は助走もなしに、垂直な壁を蹴り上げた。
「なっ……!?」
桜の目には、彼女が重力を無視しているように見えた。
壁を蹴り、エアコンの室外機を足場にし、わずかな窓枠の突起を利用して、蒼の体は吸い込まれるように上空へと昇っていく。その動きはしなやかで、まるで獲物を追う猫のようだった。
「……演算終了。三秒で叩き伏せる」
屋上の縁に手をかけた蒼は、そのままアクロバティックな一回転を決め、逃走犯の脳天に正確な踵落としを見舞った。
ぐしゃり、と犯人が崩れ落ちる。
「……確保。桜、回収して。時間の無駄だから」
下から見上げる蒼の姿に、桜は呆然としていた。
ただのガリ勉でも、ただの医者でもない。その身のこなし、重力を利用した戦い方……。
「(……あいつ、どこでそんな動き覚えたんだ……?)」
桜の脳裏に、ボウフウリンの伝説として語り継がれる男——焚石の影がよぎった。
「……茉莉、お前……その動き」
「……言ったでしょ。効率を突き詰めれば、重力なんてただの計算式の一つ。……あぁ、演算使いすぎた。……心拍、乱れてる……」
蒼はそう言って、少しだけ遠い目をした。
かつて5歳の頃、自分を「重力の外」へと導いてくれた、あの人の背中を思い出すように。
「……やるじゃん。今の着地、少しは様になってたよ、桜」
「……褒めてんのかよ」
桜は毒づいたが、蒼が見せた一瞬の「寂寥感」が、胸にざらりと残った。
その夜、蒼は夢を見た。雪の降る神社で、誰かの温かい背中を必死に追いかける、幼い自分自身の夢を。
🔚
第5話:神医者の慈愛と苦い飴
「……柊さん。あんた、さっきから胃の付近の筋肉が痙攣してる。……不摂生、あるいは精神的過負荷。非効率の極み」
ボウフウリンの四天王の一人、柊登馬は、蒼に突然袖を掴まれて面食らっていた。
「……茉莉か。いや、これはいつものことだ。気にするな」
「気にする。……私の管轄内で、患者が放置されるのは演算の美学に反する」
蒼は無表情のまま、救急箱から茶色の小瓶を取り出した。
「……これ、私が調合した漢方。飲みなさい。……一分で痛みの波が引く」
「あ、ああ……恩に着る」
柊がそれを口にした瞬間、その顔が激しく歪んだ。
「……っ! に、苦い! 砂利を煮詰めたような味が……!」
「良薬は口に苦い。……それとも、もっと苦い注射がいい? 演算してあげる」
「……いや、これでいい。……っ、だが、確かに楽になった。……サンキューな茉莉」
柊が少しだけ安堵の表情を見せると、蒼はフイッと顔を背けた。
「……別に。……あんたが倒れたら、多聞衆の統率が乱れて、私の仕事が増えるから」
その「ツン」とした態度を、横で見ていた桜は鼻で笑った。
「……素直じゃねぇな、お前」
「うるさい、桜。……あんたも、さっきの子供を助けた時に擦った肘、消毒してあげる。……来なさい」
蒼の「慈愛モード」は、弱者や負傷者にだけ無意識に発動する。
商店街を歩けば、「あお先生!」と近所の小学生たちが駆け寄ってくる。蒼は「服が伸びる」「非効率」と文句を言いながらも、その子たちの頭を優しく撫で、栄養バランスの悪いお菓子を食べていないかスキャンして回る。
「……蒼は、本当に優しいね。……特に、自分を頼ってくる相手には」
蘇枋がいつの間にか隣に並び、蒼の覗き込んでいる子供の頭を一緒に眺めていた。
「……優しくない。……ただの、資源管理。……この街の|未来《子供》が損なわれるのは、損失だから」
「ふふ、そういうことにしておこうか。……でも、僕も少しだけ胃が痛いんだけど。……僕にも、さっきの漢方くれる?」
蘇枋が冗談めかして腹を押さえると、蒼は一瞬だけ蘇枋の腹部に手を触れ、すぐに弾かれたように離した。
「……蘇枋、あんたは嘘。……心拍数も体温も、私の演算をかき乱すためだけに動いてる。……不治の病。……処置不能」
「おや、手厳しい。……でも、顔が赤いよ? 先生」
「……っ、うるさい! 全員、演算停止!」
蒼は真っ赤な顔で救急箱を抱え、逃げるように走り去った。
その背中を見送りながら、梅宮は屋上から穏やかに笑っていた。
(……蒼、お疲れ様。……お前が笑える場所、ちゃんとここにあるからな)
蒼が手に入れた、かつての修行時代にはなかった「平和」。
けれど、その平和を切り裂く影が、少しずつ彼女の背後に迫っていた。
🔚
第6話:特待生の休日、演算外のノイズ
風鈴高校から電車で三十分。県内屈指の進学校、私立秀英高校。
そこに、風鈴での「軍師」の影を一切消し、完璧な「特待生」として机に向かう蒼がいた。
「……茉莉さん、この前の模試、また全国一桁だったんだって?」
「……別に。効率的に解いただけ」
クラスメイトからの羨望と敬遠の混じった視線を、蒼はいつもの無機質な顔で受け流す。ここでは彼女はただの「天才」であり、誰も彼女が放課後に不良たちの傷を縫い、屋根の上を跳ね回っているなどとは夢にも思わない。
(……非効率。……早く終わらせて、ポトスの新作メニューの成分解析でもしたい)
そんなことを考えていた土曜の午後。校門を出た蒼の目に、あり得ない色彩が飛び込んできた。
「……やあ、お疲れ様。特待生様」
街路樹に背を預け、ひらひらと手を振るのは蘇枋隼飛だった。私服姿の彼は、進学校の厳格な空気の中で、毒々しいほどに異質で、目を引いた。
「……蘇枋!? なんであんたがここに……演算外、想定外」
「おや、抜き打ちテストは苦手かな? ……せっかくの休日だ、僕と『非効率』な時間を過ごしてみない?」
そうして半ば強引に連れ出されたのは、賑やかなショッピングモールだった。蒼は、色とりどりの商品や人混みに、早くもキャパオーバーの兆しを見せる。
「……蘇枋、ここ、情報量が多すぎる。……視覚データの処理が追いつかない」
「大丈夫、僕だけ見てればいいよ」
蘇枋は事も無げに言うと、蒼の手首をそっと掴んだ。
その瞬間、蒼の脳内で警告音が鳴り響く。
「(……心拍数、急上昇。血圧、変動。……蘇枋の体温、摂氏36.5度。……私の指先から、思考が溶ける……!)」
「……っ、離して! 蘇枋、あんたの存在自体が、私のスキャン機能をバグらせる……!」
「ふふ、バグってる蒼も可愛いよ。……ほら、これ。君の瞳の色に似てると思って」
蘇枋が差し出したのは、薄ピンク色の小さなジャスミンの刺繍が入ったハンカチだった。
「……|茉莉花《ジャスミン》。……私の名前」
「平和、癒やし、……そして『私はあなたについていく』。……君にぴったりの花言葉だね」
蘇枋が耳元で囁く。蒼は顔を林檎のように赤く染め、ハンカチをひったくるように奪い取った。
「……っ、花言葉なんて非論理的。……でも、……このハンカチの吸水率は良さそう。……もらっておいてあげる」
「あはは、素直じゃないなぁ」
二人の影が、夕暮れの街に伸びる。
蒼は、蘇枋から贈られたハンカチをポケットの中で強く握りしめた。
演算では導き出せない、胸の奥の疼き。
けれど、その帰り道。蒼は街角に貼られた写真の前で、足を止めた。
そこに記された名前を見た瞬間、彼女の瞳から光が消え、深い闇が降りる。
「……師匠」
呟きは、雑踏の中にかき消された。
平和な休日を切り裂く、過去の足音がすぐそこまで来ていた。
🔚
第7話:逆鱗、あるいは静かなる修羅
「……ははっ、見ろよ。風鈴の軍師様が、進学校の鞄持って歩いてら。滑稽だな」
放課後、風鈴への帰り道。蒼は他校の不良数人に囲まれていた。彼らは蒼が「風鈴の脳」と呼ばれていることを知り、その鼻を明かそうと待ち伏せていたのだ。
「……どいて。あんたたちの筋肉量とIQを演算したけど、私と関わるのは時間の無駄。効率が悪すぎる」
蒼は無表情で通り過ぎようとするが、一人の男が彼女の鞄を蹴り飛ばした。中から、蘇枋にもらったばかりの茉莉花のハンカチと、古い喘息の吸入器がこぼれ落ちる。
「おっ、なんだこれ? 喘息持ちかよ。……へぇ、そんな欠陥品でよく風鈴に居られるな。師匠に捨てられたのも、その弱っちい体のせいじゃねぇの?」
その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
蒼の瞳から、それまでの冷徹な理性が消え、深い闇が底からせり上がってくる。
「(……心拍数、臨界点突破。リミッター、解除)」
「……今、なんて言った?」
「あぁ? 欠陥品だって――」
言い終わる前に、蒼の体がブレた。
重力を無視したような低空の踏み込み。医学的に最も効率よく「骨を砕く」角度で、蒼の|掌底《しょうてい》が男の顎を跳ね上げた。
「がっ……!?」
「……一撃。|下顎骨《かがくこつ》骨折。……次」
蒼の動きは、もはや人間のそれではなかった。壁を蹴り、空中で体を捻りながら、敵の関節、急所、神経の集まる場所だけを的確に、そして容赦なく破壊していく。
「ヒッ、化け物……!」
「……化け物でいい。……私の過去を、師匠との時間を、その汚い口で汚した罰。……全身複雑骨折で、死ぬまで後悔しなさい」
そこには、桜たちが知る「優しい先生」の姿はなかった。5歳から地獄の修行で叩き込まれた、焚石直伝の「殺しの技術」。
最後の男の首を絞め上げ、地面に叩きつけようとしたその時、背後から強い力が蒼を抱きしめた。
「……もういいよ、蒼。……演算が、壊れてる」
蘇枋の声だった。彼の腕の中で、蒼の激しい呼吸が、次第に苦しげな喘鳴(ぜんめい)へと変わっていく。
「……は、……ぁ、……離して、蘇枋……。あいつら、殺……」
「ダメだよ。君の綺麗な手は、僕たちの傷を治すためにあるんだから」
蘇枋は蒼の手から血が滲んでいるのを見つけ、優しく、けれど拒絶を許さない力で彼女を包み込んだ。
蒼は、自分の肺がヒューヒューと悲鳴を上げているのを感じながら、蘇枋の胸の中で意識を失った。
その夜、蒼は寝言で何度も「師匠」と呼び、涙を流していた。
5歳の頃から自分を守り、鍛え、そして消えたあの男。
焚石。
その名前が、まもなく風鈴高校に嵐を呼ぶことになる。
🔚
第9話:【回想】神様のいない神社で
ある年の今、冷静沈着な軍師として知られる蒼の脳裏には、決して消えない「原風景」がある。
それは、雪が降り積もる神社の境内。当時5歳だった蒼は、自分の体に起きている異変に耐えかねて蹲っていた。
幼い彼女の感覚は、周囲の音や情報を過剰に拾い上げ、そのストレスが喉を締め上げる。
親戚たちは「可哀想に」「長くは生きられない」と効率の悪い同情を投げかけるだけ。そんな絶望の中に、その男は現れた。
「――おい、ガキ。そんなに苦しいなら、意識を集中させろ」
見上げた先にいたのは、獣のような鋭い瞳をした男。焚石だった。
「……集中……?」
「お前の意識は、散漫になりすぎている。……俺だけを見ろ。俺の声を聞け。……動くな。俺が『動け』と言うまで、余計な思考を止めろ」
焚石が蒼の小さな肩に手を置き、低く、力強い声で話しかける。
不思議なことに、焚石の隣にいる間だけ、蒼の周りのノイズは一瞬で凪いだ。
「(……音が、消えた。……頭の中が、静かになる)」
それから中2の冬まで、約9年間にわたる厳しい訓練が始まった。
焚石は蒼を甘やかさなかった。重力を無視して壁を駆ける技術、解剖学に基づいた打撃。そして何より、「自分の意志を焚石に預ける」という絶対的な信頼。
周囲の親戚たちは不思議がった。
「焚石さんと一緒にいる時だけ、蒼ちゃんの具合が良くなるなんて。不思議ね」
けれど、蒼だけは知っていた。
自分にとって焚石は、何よりも確実な「拠り所」なのだ。
「……いいか、蒼。お前の名前は『茉莉』だ。……花言葉は知ってるか?」
訓練の合間、神社でお参りをする焚石が不意に尋ねた。
「……知らない。非効率。覚える必要ある?」
「『私はあなたについていく』……だ。……お前らしいな」
焚石が乱暴に蒼の頭を撫でる。その手の温かさこそが、蒼の人生のすべてだった。
「……うん。……私、ずっと師匠についていくよ」
そう答えた蒼の無邪気な願いを、神様は聞いていたのだろうか。
その翌週、中2の三学期。焚石は一通の手紙を残して、蒼の前から姿を消した。
『――お前は強い。もう、俺はいらない』
その日から、蒼の時間は止まった。
焚石という「師」を失った彼女は、再び混乱に侵食され、一時は廃人のように塞ぎ込んだ。
そんな彼女を、無理やり現実に引き戻したのは、あの真っ直ぐすぎる男――梅宮一との出会いだった。
🔚
第10話:【回想】明日を奪う最後の一週間
中2の三学期、その一週間は異様なほどに「普通」だった。
焚石は、一週間前から自分が去ることを決めていた。けれど蒼には、その演算結果を一切悟らせなかった。
「……師匠、今日のメニューは?」
「いつもの倍だ。……ついてこれなきゃ置いていくぞ」
焚石はいつも以上に厳しく、蒼に技術を叩き込んだ。重力移動の角度、関節を破壊する際の指先の角度。それはまるで、自分が去った後も蒼が独りで「死なない」ための、最後の手向けだった。
蒼の両親や親戚には、焚石は密かに会っていた。
「蒼の喘息は、もう大丈夫だ。……本人が『自分は強い』と信じている限り、発作は出ない。……あいつを、頼む」
そんな準備が進んでいるとも知らず、蒼は神社の境内で、最後の一日を過ごしていた。
「……終わったか。お参りしていくぞ、蒼」
焚石に促され、二人は並んで手を合わせた。
焚石の願いは一つ。
(二度と喘息が出ず、明日から俺なしで生きていけますように)
それは師匠としての、最後の「マインドコントロール」。
蒼の願いも一つ。
(また明日も、師匠の隣にいられますように)
それは茉莉の花言葉そのもの――「あなたと一緒にいたい」という、無邪気な祈り。
「……師匠、また明日。明日は何時から?」
「……さあな。明日になればわかるさ」
焚石は、蒼のハンサムショートの髪を一度だけ、ひどく乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
翌朝。
蒼がいつもの場所に駆けつけると、そこには誰もいなかった。
道場にも、神社にも。
ただ一通、古びたベンチの上に置かれた手紙だけが、冷たい冬の風に揺れていた。
『――お前は強い。もう、俺はいらない』
「……嘘。演算、ミスしてる……」
蒼の指先が震える。心拍数が跳ね上がり、パニックが脳を支配しようとする。
けれど、不思議なことに、喘息の発作は出なかった。
焚石がかけた最後の暗示――「お前は強い」という言葉が、彼女の肺を、無理やり正常に動かしていた。
「……っ、クソが……ッ! 勝手に終わらせるな……! 私は、まだ……『動け』って言われてない……!!」
蒼は雪の上に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
一週間も前から準備されていた「さよなら」を、自分だけが知らなかった。
明日を信じていたのは、自分だけだった。
この日、蒼の心は氷に閉ざされた。
誰も信じない。効率だけを信じる。
そう決めて「軍師」としての仮面を被った彼女の前に、一人の男がボロボロの体で現れるのは、それから数日後のことだった。
🔚
第11話:梅宮一という、温かなノイズ
焚石が消えてから、数日が過ぎた。
蒼は、まるで魂が抜けたような顔で街を彷徨っていた。喘息の発作は出ない。けれど、自分の意志で呼吸をしている感覚もない。ただ、焚石が遺した「お前は強い」という呪いのような暗示だけで、かろうじて肉体を維持している状態だった。
「(……非効率。師匠のいない世界で生きるなんて、演算が成立しない……)」
どんよりとした曇り空の下、路地裏を通りかかった時だった。
激しい打撃音と、複数の男たちの罵声。
その中心に、ボロボロになりながらも、信じられないほど穏やかに笑っている男がいた。
「……ははっ、いい拳だ。でも、まだこの|街《家》には入れさせないよ」
梅宮一だった。
彼はたった一人で、街を荒らそうとする他校の集団を食い止めていた。その体は、素人の目から見ても限界に近い。
蒼の瞳が、無意識に「スキャン」を開始する。
「(……内臓損傷の疑い、右肋骨二本の亀裂、左肩の脱臼。……心拍数、アドレナリン過剰。なのに、なぜこの男の|精神《バイタル》は、こんなに安定している……?)」
蒼の演算回路が、初めて見る「矛盾」に火を噴く。
焚石のような冷徹な強さではない。この男から感じるのは、太陽のような、ひどくお節介で、非効率な「熱」だった。
「……おい、あんた。死ぬよ」
蒼は思わず、物陰から姿を現した。
梅宮は、血を拭いながら蒼に気づくと、パッと顔を輝かせた。
「おっ、お疲れ様! 君、この街の子? 危ないから、あっちに行ってなよ」
「……あんたの方が危ない。演算結果を言うね。あと三分、その姿勢で心臓に負荷をかけたら、あんたの余命はゼロになる。……非効率の極み。今すそこをどいて」
「……ははっ、厳しいなぁ。でも、俺がどいたら、後ろにあるパン屋のじいちゃんが泣くんだよ。……だから、どかない」
梅宮はそう言うと、最後の力を振り絞って敵をなぎ倒し、その場に膝をついた。
静かになった路地裏。蒼は駆け寄り、反射的に梅宮の手首を掴む。
「(……脈拍、微弱。なのに……温かい。……師匠の隣にいた時とは、別の意味で、息がしやすい……?)」
「……君、お医者さん? 助かったよ。……お疲れ様」
梅宮が、泥だらけの手で蒼の頭をポンと叩いた。
焚石の乱暴な撫で方とは違う、慈しみに満ちた、壊れ物を扱うような手。
その瞬間、蒼の瞳から、我慢していた涙が溢れ出した。
「……バカじゃないの。……死にかけのくせに。……お疲れ様、なんて……」
「……君、名前は?」
「……蒼。……茉莉、蒼」
「そうか、蒼。……俺は梅宮。今日から、ここがお前の居場所だ。……いつでも、遊びに来いよ」
この出会いが、蒼の「演算」を根底から変えた。
孤独な修行者から、街を守る軍師へ。
「焚石」という過去を抱えたまま、彼女は「梅宮」という新しい光を信じて、再び歩き出すことを決めたのだ。
🔚
第12話:黒髪の狂信者と、冬の邂逅
梅宮と出会い、彼が守る「街」の形を知り始めた中3の春。蒼は風鈴高校の近くにある古い神社で、一人の少年と出会った。
長い黒髪、周囲を威圧する鋭い眼光。杉下だ。
彼は梅宮の背中を追って風鈴にやってきた、いわば梅宮の「一番の狂信者」だった。
「……おい。そこで何をしてる」
杉下の低い声が、静かな境内に響く。蒼は梅宮から頼まれた「屋上の菜園に使う肥料の配合データ」をまとめていた手を止めた。
「……データの集計。あんたこそ、そんなところで殺気を振り撒いて、野鳥の生態系を乱すのは非効率だよ」
「……あぁ?」
杉下が詰め寄る。蒼の薄ピンク色の瞳が、無意識に目の前の大男を「スキャン」した。
「(……凄まじい筋密度。骨格の頑強さは、この世代ではトップクラス。……でも、重心が左に偏ってる。梅宮さんを追いかけすぎて、自分の体の限界を演算できてない)」
「……あんた、杉下でしょ。梅宮さんから聞いてる。……あんたのその左足の踏み込み、今のままだと梅宮さんに追いつく前に膝が壊れるよ」
「……お前に、俺の何がわかる」
杉下が拳を握りしめたその時、背後から「やめなよ、二人とも!」と明るい声が響いた。
梅宮一だ。
「梅宮さん……!」
杉下の表情が一瞬で「忠犬」のそれへと変わる。蒼はそれを見て、内心で「……なるほど。演算するまでもない、重度の梅宮依存症」と結論づけた。
「杉下、紹介するよ。蒼は俺の恩人なんだ。……これからはみんなで、この街を、風鈴を守っていくんだから」
梅宮が二人の肩をポンと叩く。杉下は不服そうに蒼を睨んだが、梅宮が「恩人」と呼んだことで、その殺気を無理やり飲み込んだ。
「……梅宮さんがそう言うなら、従う」
「……へぇ。やるじゃん。……その忠誠心だけは、効率的でいいと思うよ」
蒼が少しだけ口角を上げると、杉下はフイッと顔を背けた。
この時から、二人の奇妙な共闘関係が始まった。
進学校に通いながら「脳」として戦略を練る蒼と、梅宮の「盾」として最前線で拳を振るう杉下。
性別すら意識させない蒼の圧倒的な有能さと、梅宮への真っ直ぐな献身に、杉下は次第に「……茉莉は、男か女か知らんが、信頼に値する『同志』だ」と、独自の演算(勘違い)を完結させていく。
「(……杉下。あんたは私の『弟』みたいなもの。……あんたが梅宮さんを守れるように、私が最高のメニューを組んであげるから)」
蒼の「慈愛モード」が、不器用な弟分――杉下にも向けられ始めた、今へと続く大切な記憶の1ページ。
🔚
第13話:残響する「指示」、狂い出す演算
現在。
ボウフウリンの「脳」として、蒼はいつものように風鈴高校の屋上で桜たちの組手を観察していた。
「……桜、今の右ストレートは0.2秒遅い。楡井、逃げる時の歩幅が不規則。……非効率極まりない」
手元のタブレットにデータを打ち込みながら、冷静に指摘を飛ばす。だが、その指先は時折、自分でも気づかないほど微かに震えていた。
街に流れる「焚石」の噂。それが、蒼の脳内に眠っていた古い記憶の回路を、強制的に再起動させていたのだ。
その日のパトロール中、事態は急変する。
商店街の外れで、他校の不良集団が暴れているとの通報が入った。現場に駆けつけたのは、桜、蘇枋、そして蒼の三人だ。
「……数、12。平均体格、ボウフウリンの標準以下。……桜、蘇枋。あんたたちが3分以内に無力化する確率は98%。……作戦開始」
蒼の指示通り、桜と蘇枋が鮮やかに敵を散らしていく。蒼もまた、背後から襲いかかってきた大男を、最小限の力でいなそうとした。
しかし、その瞬間。
脳の奥底で、ノイズの混じった「あの声」が響いた。
『――動くな、蒼』
「……っ!?」
それは、5歳の頃から中2まで、彼女の心身を支配し続けた焚石の命令だった。
今の現実に、焚石がいるはずはない。これは、あまりにも深く刻まれた過去の残響。
だが、蒼の体は「演算」よりも先に、10年間の「習慣」に従ってしまった。
回避運動の途中で、蒼の筋肉が石のように硬直する。
「あ……が……っ」
「茉莉!? 何してんだ、避けろ!!」
桜の叫び声。敵の鉄パイプが蒼の側頭部を狙って振り下ろされる。
0.5秒のフリーズ。軍師として、医者として、あってはならない致命的な隙。
ガィィン!!
鈍い衝撃音と共に、蒼の目の前に「銀色の壁」が割り込んだ。
「……おっと。危ないね、蒼。……演算、間違えちゃったかな?」
蘇枋が片手でパイプを弾き飛ばし、もう片方の腕で蒼の体を抱き寄せた。
蘇枋の腕の中で、蒼は激しく呼吸を乱している。
「(……心拍数、160。血圧、急上昇。……スキャン不能。……なんで。なんで、今、あの人の声が……)」
「……蒼。震えてるよ」
蘇枋の瞳が、いつになく鋭く、蒼の奥底を覗き込む。
蒼は震える唇で「……何でもない。非効率な、エラーよ」と毒づこうとしたが、言葉にならなかった。
かつての師匠、焚石。
彼が残した「指示」という名の鎖は、数年経った今でも、蒼の魂を縛り続けていた。
その様子を遠くの屋上から見つめる、鋭い視線があることにも気づかずに――。
🔚
第14話:主従の鎖、演算外の吐息
パトロールの帰り道。夕闇に包まれた商店街は、いつになく静かだった。
桜は「先に帰る」とぶっきらぼうに立ち去り、残されたのは蘇枋と、未だ指先の震えが止まらない蒼の二人だけ。
「……蒼。少し歩こうか」
「……拒否する。時間の無駄。早く帰って、今日のミスを演算し直さないと……」
「ダメだよ。今の君じゃ、1足す1も間違えそうだ」
蘇枋は拒絶を許さない力強さで蒼の手首を掴むと、街外れの静かな公園へと連れ出した。噴水の水音だけが響く中、蘇枋は蒼をベンチに座らせ、自らはその前に立った。
「……さっきのフリーズ。何があった?」
「……何でもない。ただの、一時的なシステムエラー」
「嘘だね。君の瞳は、目の前の敵じゃなくて、もっと遠い……『過去』を見ていた」
蘇枋の鋭い独眼が、蒼の薄ピンク色の瞳を射抜く。逃げ場を失った蒼は、膝の上で拳を強く握りしめた。
「……声が、聞こえたんだ。……あいつの。……『動くな』って」
「あいつ……焚石、だね?」
その名前が出た瞬間、蒼の肩がビクリと跳ねる。
「……9年間、あいつの言葉は絶対だった。あいつが『動け』と言えば世界を壊し、『動くな』と言えば心臓さえ止めてきた。……私の脳には、まだあいつの|OS《命令》が残ってるんだよ。……非効率で、無様な……出来損ないのプログラムが」
自嘲気味に笑う蒼の顔は、今にも泣き出しそうだった。
軍師として完璧を装いながら、内側では過去の亡霊に怯える少女。
蘇枋は静かに蒼の隣に座ると、彼女の耳元に顔を寄せた。
「……ねぇ、蒼。一つ教えてよ」
「……何を」
「今の君の『主人』は、誰だい?」
蘇枋の吐息が耳を掠める。蒼の演算回路が、一瞬でオーバーヒートを起こした。
「……っ、主人は、私自身……! 自分の意志で、風鈴に……」
「なら、今の君を動かしているのは、その『過去の声』じゃなくて、……僕のこの『熱』じゃないかな?」
蘇枋が蒼の頬にそっと手を添える。
スキャン能力を持つ蒼の手が、蘇枋の肌に触れる。伝わってくるのは、演算では導き出せない、蘇枋の力強く、熱い鼓動。
「……っ。蘇枋、……あんたの脈拍、うるさすぎ。……私のスキャンが、……バグる」
「バグらせたままにしておきなよ。……焚石の指示が聞こえたら、僕がもっと大きな声で上書きしてあげる。……いい? 君を動かしていいのは、君自身と……少しだけ、僕であってほしいな」
蘇枋が微笑み、蒼の額に自分の額をコツンと当てた。
「演算」でも「指示」でもない、確かな人間の体温。
蒼は、肺の奥に溜まっていた重い空気を、ゆっくりと吐き出した。
だが、その温かな時間を切り裂くように、街のスピーカーから不穏なノイズが響き渡る。
それは、かつて修行時代に焚石が蒼を呼ぶ時に使っていた、口笛の旋律によく似ていた。
「(……来る。……演算するまでもない。あいつが、近くにいる)」
🔚
第15話:再会、あるいは動き出す過去
その夜の街に、不穏な空気が漂っていた。
蘇枋と別れ、一人夜道を歩いていた蒼は、ある角を曲がった瞬間に立ち止まる。全身に緊張が走り、警戒心が最高潮に達する。
街灯の下、古いベンチに腰かけ、じっとこちらを見つめている男がいた。
数年前、自分を置き去りにした、あの背中。焚石。
「……よお。少し見ない間に、随分と強くなったみたいだな、蒼」
低い声が響く。焚石がゆっくりと立ち上がる。
その姿を見た瞬間、蒼の脳裏に過去の記憶がフラッシュバックする。
「……焚石……」
震える声でその名を呼ぶ。
焚石は、蒼に近づくと、その表情を読み取るように見つめた。
「あの梅宮のところにいると聞いた。……あの連中といるのが、お前が選んだ『道』か?」
「……っ」
焚石の放つ有無を言わせぬ存在感。
蒼の脳内で、梅宮や蘇枋たちの言葉が、焚石の声とせめぎ合う。
彼女の指先は、迷いを隠せずにいた。
「……俺がお前に教えた『強さ』を、忘れはしていないだろうな?」
焚石の言葉が、蒼の心に突き刺さる。
この様子を、物陰から見つめている者がいた。
駆けつけた蘇枋の手には、蒼に返すはずだった「茉莉花」のハンカチが握りしめられ、力なく震えていた。
🔚
第16話:言葉の鎖、暗闇のささやき
夜の街灯の下、焚石はゆっくりと蒼との距離を詰めていく。一歩、また一歩。その足音は蒼の脳内で、かつての過酷な修行のリズムとして正確に再生された。
「……何の、用。演算するまでもなく、あんたとはもう……終わったはず」
蒼の声は震えていた。必死に拒絶の言葉を探すが、焚石が目の前に立った瞬間、肺の空気が薄くなるような感覚に陥る。
「終わった? ……違うな、蒼。お前の脳が、お前の筋肉が、今この瞬間も俺の次の『指示』を待っているのが、俺には視えるぞ」
焚石は蒼の耳元に顔を寄せ、低い声でささやき始めた。
「思い出せ。あの神社、あの夕暮れ。お前は俺の手を握って、一生離れないと願っただろう。……進学校? 風鈴? 梅宮? ……笑わせるな。そんなおままごとの場所に、お前の『居場所』なんてない」
「……っ、違う……今は、みんなが……」
「みんな? ……お前を『軍師』だの『医者』だのと持ち上げ、便利使いしている連中のことか? ……俺だけだ、蒼。お前のその『欠陥品』の体と脳を、誰よりも理解し、愛してやれるのは」
焚石の言葉が、蒼の防御膜を次々と突き破っていく。
「お前の喘息を抑えてやれるのは俺だけだ」「俺がいないとお前は息も満足にできない……」
それは、蒼が最も恐れていた「自分が一人では生きていけない欠陥品だ」という古い記憶への回帰だった。
蒼の瞳からハイライトが消え、視線が虚空を彷徨い始める。
「……そうだ。お前は、俺という|主人《あるじ》がいなければ、ただの壊れた人形でしかない。……いいか、蒼。今のボウフウリンでの生活は、ただの演算ミスだ。……お前の帰る場所は、俺の隣だ」
焚石の指先が、蒼のハンサムショートの髪をゆっくりと撫でる。
その瞬間、蒼の体はかつての「待機姿勢」に無意識に移行した。
「……あ、……ぁ……」
「……いい子だ。指示を待て」
その光景を、物陰で息を殺して見ていた蘇枋は、怒りで爪が掌に食い込むのを感じていた。
言葉だけで、蒼の心をここまで粉々に砕き、自分たちのいた「今」を否定してみせる男。
(……最悪だね。君は、彼女の『平和』を奪うことしか考えていないんだ)
蘇枋の目に、冷徹な殺気が宿る。
だが、事態はさらに最悪な方向へと加速する。
焚石は蒼を連れ去る代わりに、彼女にある「指示」を投げかけた。
「……蒼。俺の言うことが正しいか、証明してやる。……明日、お前が最も信頼している『あの男』のところへ行け」
🔚
第17話:引き裂かれた忠誠、慟哭の拳
翌日の放課後。風鈴高校の屋上は、いつになく重苦しい沈黙に包まれていた。
焚石は、まるで自分の庭であるかのように堂々と屋上の中央に立ち、その後ろには、虚ろな瞳をした蒼が控えていた。
「……茉莉? おい、どうしちまったんだよ!」
駆けつけた桜が叫ぶが、蒼の耳には届かない。彼女の脳内では、焚石の『待て』という指示が無限にリフレインし、思考を停止させていた。
「梅宮。お前がこいつに与えた『平和』なんてものは、この程度だ。……蒼、やれ」
焚石の低い声が響く。
「……そいつを思いっきり殴れ。これは指示だ」
「……っ、あ……」
蒼の肩が激しく跳ねる。心では「やめて」と叫んでいるのに、5歳から叩き込まれた習性が、彼女の体を強制的に戦闘マシーンへと変えていく。
「(……嫌だ。梅宮さんを、殴りたくない……! でも、体が……演算が、勝手に……!)」
蒼の薄ピンク色の瞳から大粒の涙が溢れ出した。しかし、彼女の足は重力を無視した鋭い踏み込みを見せ、医学的に最も効率よく「壊す」ための拳が、梅宮の顔面へと放たれた。
ドォォン!!
「がっ……!」
梅宮は避けなかった。蒼の渾身の一撃を、真正面から受け止める。
衝撃で梅宮の唇から血が飛び散り、蒼の拳が激しく震える。
「……クソが、……クソが!! なんで、動くのよ……私の体……ッ! 非効率……最悪だよ……!!」
泣き叫びながら、蒼は何度も拳を振るった。
殴るたびに、彼女の心は削られていく。けれど、焚石の「指示」という名の鎖は、彼女を止めることを許さない。
「……いいぞ、蒼。もっと来い」
梅宮は優しく笑い、鼻血を拭うことさえせず、ただ彼女の「悲鳴のような拳」を受け止める。
「お前が俺を殴るたびに、その|鎖《指示》が千切れるなら、いくらでも相手になってやる。……お前は、欠陥品なんかじゃない。俺の大切な、家族だ」
「……あ、あぁぁぁ!!」
蒼の慟哭が屋上に響き渡る。
その凄惨な光景を、蘇枋は拳を血が滲むほど握りしめて見つめていた。
「……へぇ。まだ動くか、梅宮。……だが、これで蒼は理解したはずだ。自分は俺の道具としてしか、その力を振るえないということをな」
焚石が満足げに口角を上げたその時、蘇枋が静かに、けれど逃げ場のない殺気を放って一歩前に出た。
「……君、本当に最悪だね。……僕の大切な|軍師《お姫様》に、なんてことさせるんだ」
🔚
第18話:所有権の否定、ボウフウリンの咆哮
「……満足か、焚石。蒼が泣きながら俺を殴る姿を見て」
梅宮は顔を上げ、口端の血を拭いながら静かに言った。その瞳には怒りではなく、深い悲しみと決意が宿っている。
蒼は拳を握ったまま、その場に崩れ落ち、嗚咽を漏らしていた。脳内では「指示」への従順と、梅宮への罪悪感が激しく火花を散らしている。
「満足? ……まさか。これは単なる『確認』だ」
焚石は倒れ伏す蒼を見下ろし、冷酷に言い放つ。
「あんなに強く、美しく育てたのは俺だ。……忘れたか? 蒼。お前は自ら、俺に人生を預けることに同意した。名前の通り、従順に、一生俺の後ろを歩くと神に誓ったんだ」
焚石は視線を桜たちへと移し、鼻で笑った。
「ボウフウリン? 馴れ合いのごっこ遊びに飽きたら、彼女はいつでも俺の元に戻る。……いや、俺がそう『指示』すれば、彼女は自分の意志さえ捨てて俺を選ぶ。……そうだろ、蒼?」
その瞬間、屋上の空気が爆発するように震えた。
「――ふざけんじゃねぇぞ、テメェ!!」
先陣を切ったのは桜だった。その瞳は怒りで金色に燃え、足元のアスファルトを蹴り砕く。
「茉莉はモノじゃねぇ! あんたがどう育てたかなんて知らねぇが、今のあいつは風鈴の……俺たちの仲間だ! その汚ぇ口で勝手に茉莉を決めるな!」
「……へぇ。戻せるんだ? ……やってみればいい。その前に僕が、君のその傲慢な喉元を、二度と声が出ないように掻き切ってあげるから」
蘇枋が歩み出る。普段の柔らかな笑みは完全に消え、眼帯の下に隠された殺意が、冷たい刃のように焚石に向けられた。
「……茉莉さんの『やるじゃん』が、どれだけ重いか。……それを知らない貴方に、彼女を語る資格はない」
楡井は震える足でノートを握り締め、杉下は言葉もなく、ただ梅宮を、そして蒼を傷つけた焚石を、文字通り「叩き潰す」ための殺気を膨らませていた。
「……あ、……ぁ……」
蒼の視界に、自分を囲む「盾」が見える。
焚石という巨大な壁を前にしても、一歩も引かずに自分を「仲間」だと叫んでくれる奴ら。
「……無駄だ。蒼、立て。……『動け』。俺の元へ」
焚石が短く「指示」を投げかける。
蒼の右足が、条件反射で一歩、焚石の方へ踏み出そうとした。
「……っ、クソ、が……!」
蒼は自分の右足を、左手で力一杯掴んで止める。
つま先が地面をカッカッと叩く。それは、かつての「待機姿勢」の拍子ではなく、自分自身への激しい怒りのリズムだった。
「……私の……演算に……あんたは……もう、いない……!」
🔚
第19話:脳内クラッキング、上書きされる演算
「……あ、が……っ……あぁぁぁ!!」
蒼は頭を抱え、アスファルトに額を擦りつけるようにして悶絶した。
焚石の「動け」という絶対的な指示と、心から湧き上がる「ここにいたい」という拒絶。二つの相反する命令が、彼女の脳内で凄まじいスパークを起こしていた。
「(……鎮静しろ、私。……これはただの電気信号、扁桃体に刻まれた古い条件付けに過ぎない。……今の私の|医学的知見《知識》なら、この回路を|強制終了《シャットダウン》できるはずだ……!)」
蒼の薄ピンク色の瞳が、激しく明滅する。
彼女は自分の脳内を「スキャン」していた。サヴァン症候群の記憶力をフル回転させ、5歳から叩き込まれた焚石の「指示」のパターンを、論理の刃で切り裂いていく。
「……ほう。自分の脳をハッキングして、俺の指示を上書きしようというのか。……非効率だな、蒼。そんなことをすれば、お前の|精神《システム》自体が焼き切れるぞ」
焚石が冷酷に告げる。その言葉通り、蒼の鼻からは一筋の血が流れ、耳鳴りが視界を白く染めていく。
「……っ、うるさい……! 5歳の時の、旧型プログラムなんて……今の私には、不要……『非効率』すぎる……ッ!」
蒼は自分の腕に爪を立て、痛みの刺激を「外部入力」として脳に送り込んだ。強制的な現実への回帰。
「……私の、今の演算結果は……! 風鈴のみんなと……|こいつ《蘇芳》と、ここにいることなんだよ……!!」
一瞬、焚石の呪縛がひび割れる。
だが、9年間の歳月は重い。焚石が「……戻れ」と一言呟くだけで、再び闇が蒼の思考を侵食する。
「茉莉!」「茉莉さん!」「蒼!」
仲間たちの叫び声が遠のいていく。
脳がオーバーヒートを起こし、演算回路が「Error」の赤文字で埋め尽くされた。
「(……ダメだ。……自力じゃ、足りない。……誰か……)」
意識が深い闇に沈みかけたその時。
蒼の手を、強く、熱い何かが掴んだ。
「……蒼。演算を止めて。……僕の心臓の音だけ、数えてごらん」
蘇枋の声。そして、彼の力強い心拍が、蒼の指先から脳へと直接流れ込んできた。
焚石の精密な「論理的支配」を、蘇枋の「情熱的なノイズ」が破壊していく。
「……蘇、……枋……」
🔚
第20話:一割の反逆、届いた指先
「……あ、……が、……っ」
蒼の視界は、白濁したノイズに支配されていた。
焚石の「命令」という名のウイルスが、彼女の神経系を一つずつハッキングし、自由を奪っていく。全身の9割が、もはや自分のものではないように冷たく、動かない。
「無駄だ、蒼。お前の脳は俺が作った。俺の言葉なしには、指一本動かすことさえ『非効率』だと、お前の細胞が理解しているはずだ」
焚石の冷徹な断定。
だが、その暗闇の底で、蒼の「一割」の意志が、猛烈な熱を発していた。
(……うるさい。……私の細胞が、今……何を望んでいるか……あんたに、演算させて……たまるか……ッ!)
医学的知見を総動員し、蒼は脳内の僅かな「空白領域」に全神経を集中させた。
焚石の指示が届かない、自分だけの聖域。
耳鳴りが激しさを増し、鼻から流れる鮮血がアスファルトに音を立てて落ちる。脳が焼き切れる寸前の、文字通り命懸けのクラッキング。
「……す、……お……」
その時、石のように固まっていた蒼の右腕が、ガタガタと震えながら、重力に逆らうように持ち上がった。
「……ほう。一割の領域だけで、俺の支配を弾き出したか。だが、その腕で何ができる」
焚石が蔑むように笑う。
だが、蒼の狙いは焚石への攻撃ではなかった。
彼女の右腕は、すぐ隣で自分を必死に繋ぎ止めようとしている、あの男――蘇枋隼飛へと伸ばされた。
「……っ……ぁ!」
震える指先が、空を切り、そして蘇枋の学ランの裾を、白くなるほど強く掴み取った。
「……演算……終了。……私の……答えは、……|こっち《蘇芳》だよ……!」
その瞬間、蒼の脳内に焚石の知らない「熱」が逆流した。蘇枋の体温、心拍、そして彼が放つ圧倒的な存在感。
その「一割」の接触が、完璧だったはずのマインドコントロールに、決定的な亀裂を入れた。
「……っ、蒼!」
蘇枋は、蒼が命懸けで伸ばしたその手を、逃がさないように両手で強く包み込んだ。
冷え切っていた蒼の指先に、蘇枋の熱が灯る。
「……よく頑張ったね、蒼。……一割で十分だよ。あとの九割は、僕が……いや、僕たちが、全部取り戻してあげる」
蘇枋の瞳に、焚石を完全に「排除」するための、静かで凄まじい殺意が宿った。
🔚
第21話:ボウフウリンの盾、砕ける呪縛
蒼が震える手で蘇枋の裾を掴んだその瞬間、焚石が冷酷に言い放つ。
「無駄だ。一割の抵抗で何が変わる。お前の脳は、一生俺の『指示』を待つようにできているんだ。誰に触れようと、その事実は演算違いじゃない」
焚石が再び「戻れ」と唇を動かそうとした、その時だった。
「――一人で勝手に完結してんじゃねぇぞ、茉莉!!」
叫びと共に、反対側の手首を桜が荒々しく、けれど折れそうなものを守るように強く掴み取った。
「なっ……桜!?」
「茉莉さん、僕らもいます! あんたを一人で過去に帰したりしない!」
楡井が涙を流しながら、蒼の震える拳に自分の両手を重ねる。
「……行かせねぇ。……あんたがいなきゃ、梅宮さんの飯が不味くなる」
杉下が、岩のような大きな手で蒼の肩を抱え、焚石の威圧感から彼女を遮断するように立ち塞がった。
「あ……、あぁ……っ」
蒼の視界に、爆発的な情報量が流れ込む。
焚石の冷たい「指示」をかき消すような、熱くて、不器用で、非効率な、生身の体温。
一割しか動かなかった腕に、仲間たちの熱が次々と伝わり、凍りついていた九割の神経が悲鳴を上げて再起動を始める。
「……お疲れ様、蒼。もう、指示を待つ必要なんてないんだぞ」
梅宮が、包み込むような大きな手で蒼の頭を撫でた。その瞬間、脳内でキリキリと鳴っていたノイズが、嘘のように消え去った。
「……へぇ。やるじゃん。……みんな」
蒼は、自分を繋ぎ止める何十もの「手」の重みを感じながら、ゆっくりと顔を上げた。
薄ピンク色の瞳に、かつての「従順」な光はない。
「……残念だったね、師匠。私の演算は、もう……あんた一人の声じゃ足りないんだよ。……この『非効率な熱量』をすべて処理するのに、忙しすぎて……あんたの|指示《データ》なんて、入れる|隙間《メモリー》がない」
バキリ、と脳内で鎖が砕ける音がした。
仲間たちの手に支えられ、蒼は自分の足で、しっかりと地面を踏みしめた。
それは、茉莉花が「平和」のために咲き誇る、自立の瞬間だった。
🔚
第22話:自立の演算、さよならの師匠
風鈴の仲間たちに引き戻され、現実の熱量の中に立ち上がった蒼。
彼女は自分を支える無数の手を一度、優しく、けれど確かな意志で離した。
今の自分なら、支えがなくても倒れない。
蒼は真っ直ぐに、かつて「神」のように崇めていた男――焚石を見据えた。その瞳に、もはや迷いも、演算のエラーも、マインドコントロールの影もない。
「……ほう。全員の体温で、俺の刻んだ回路を焼き切ったか。……だが蒼、一人で歩けばまたいつか、呼吸の仕方を忘れるぞ」
焚石の言葉に、蒼は不敵に、けれど晴れやかな笑みを浮かべた。
「……確かに、あんたは私を作った。私の世界のすべてだったよ。……でも、もういい。指示はいらない」
蒼は、かつて師匠の言葉を待つために、地面を無意識に叩いていた右足のつま先を、力強く一歩、前へと踏み出した。
「……私はもう、自分の足で歩く。自分の頭で、自分の居場所を考えるよ。……焚石」
初めて名前を呼び捨てにされた焚石の眉が、わずかに動く。
「師匠」という役割を自ら剥ぎ取り、対等な一人の人間として向き合った瞬間。
「今の私の演算結果は……あんたの隣じゃない。……この、騒がしくて非効率な奴らの隣にあるんだ。……残念だったね、あんたの最高傑作は、あんたの手を離れて『平和』を選んだよ」
「…………」
焚石はしばし沈黙し、やがて低く、くつくつと笑い出した。
「……ハハッ! 言うようになったな。……いいだろう。お前のその『非効率な未来』、せいぜい演算違いをしないように守り抜くんだな」
焚石は一度も振り返らず、風のようにその場を去っていった。
それが、10年以上に及んだ「主従」の、本当の終焉だった。
「……はぁ。……終わった。……演算……終了」
緊張の糸が切れた蒼の体が、ふらりと傾く。それを横から支えたのは、やはり蘇枋だった。
「……お疲れ様、蒼。……最高の演算結果だったね」
「……うるさい、蘇枋。……ちょっと、心拍数が高すぎて……スキャンが追いつかない……」
蒼は蘇枋の胸に顔を埋め、今度は「指示」ではなく、自分自身の「安心」のために、深く息を吸い込んだ。
🔚
第23話:肩越しの演算、耳元の告白
焚石との決別から数日。風鈴高校は放課後の穏やかな静寂に包まれていた。
部室の片隅で、蒼は一人、蘇枋の肩に指先を添えていた。
「……蘇芳、あんた肩凝りすぎだよ。血行が悪くなってる。……少し解してあげる」
「おや、蒼の特別マッサージかな? 嬉しいな」
蘇枋がいつものように余裕たっぷりに目を細め、椅子に深く腰掛ける。蒼は彼の体調を気遣いながら、丁寧に指を動かした。
(……今なら、顔を見られない。……今、言わなきゃ。……これも、私に必要な『平和』のための決断だ)
蒼は意を決し、揉んでいた指を止めると、蘇枋の背後からそっと語りかけた。
「……蘇枋。……あんた、私のペースを狂わせるから、苦手だった。……でも、」
一瞬の沈黙。蒼はぎゅっと目を閉じ、消え入りそうな、けれど確かな声で紡いだ。
「……あんたの隣にいる時が、一番『平和』だって気づいたんだ。……好きだよ、隼飛」
名前で呼ばれた瞬間、いつも蒼をからかって楽しんでいた蘇枋の動きが完全に止まった。
数秒の静寂の後、彼が小さく笑う。
「……参ったな。……君をからかうつもりだったのに、僕の方が、動揺しちゃったよ」
蘇枋がゆっくりと振り返る。その顔は、蒼の顔と同じくらい、微かに赤く染まっていた。
彼は蒼の手をそっと取ると、優しく握った。
「……蒼。君の言葉、嬉しいよ」
「……っ、ずるい」
蒼は真っ赤な顔で呟きながらも、蘇枋の手を握り返した。
かつて他の誰かに委ねていた自分の人生を、今は自分の意志で、目の前の彼と共に歩みたいと願う。
「……気持ち、伝わった。……私の『平和』、見つけたから」
窓の外では、夕日が二人を優しく照らしていた。
🔚
第24話:アップデートされた日常、甘い特別稽古
ある日の午後。風鈴高校には、いつもの騒がしくも温かい日常が戻っていた。
しかし、ボウフウリンの「軍師」である蒼にとって、一つだけ演算外の事態が起きていた。
「……はい、そこ。重心が左に0.5ミリ流れたよ、蒼。やり直し」
「……っ、ちょっと待って。厳しすぎない、隼飛!?」
放課後の道場。蒼は滝のような汗を流しながら、蘇枋と対峙していた。
焚石がいなくなり、少しは甘やかしてもらえるかと思いきや、蘇枋が提示した「特別稽古」の強度は、以前の1.5倍に跳ね上がっていたのだ。
「だって、君は『自分の足で歩く』って決めたんだろう? だったら、僕の隣に立つのにふさわしい強さでいてもらわないと。……それとも、前の|師匠《彼》の方が優しかったかな?」
蘇枋が意地悪く目を細め、蒼の顎をクイッと持ち上げる。至近距離で目が合う。かつての蒼ならこれだけでフリーズしていたが、今の彼女は顔を真っ赤にしながらも、鋭い視線を返した。
「……っ、望むところだよ! あんたのその余裕、いつか演算通りに叩き潰してやるから」
「ふふ、いい顔だ。……じゃあ、あと10セット。終わったら、ご褒美にポトスの新作の紅茶を淹れてあげるよ。……僕の隣で、ゆっくり休んでいいからね」
厳しさの影に見え隠れする、独占欲と対等な愛。
蒼は「……クソが、やっぱりあんたは大嫌い」と毒づきながら、かつてないほど「平和」な充足感を感じていた。
一方、屋上の菜園では、梅宮がそんな二人を眺めて穏やかに笑っていた。
「……蒼の顔、良くなったな。……おーい、桜! 杉下! お前らもサボってないで、茉莉塾の課題終わらせろよ!」
「分かってんだよ、梅宮さん! 茉莉の出す問題、難しすぎんだよ!」
「…………やる」
桜の叫び声と、杉下の静かな意気込み。
蒼が作り直した「風鈴の生存率を上げるための特別メニュー」は、今日も着実に、仲間たちの強さをアップデートしていた。
だが、そんな蒼の元に、実家から一通のメッセージが届く。
『兄貴たちが、蒼の彼氏を査定するってうるさいんだけど』
蒼の表情が、戦闘中よりも青ざめた。
「(……非効率。……実家の『猛獣たち』を演算に入れるのを忘れてた……!)」
🔚
第25話:軍師の素顔、茉莉家の狂騒曲
「……は? 8人……兄妹?」
放課後の喫茶ポトスに、桜遥の絶叫が響き渡った。
あまりの衝撃に、楡井は飲んでいたメロンソーダを吹き出し、杉下はハンバーグを口に運ぶ手のまま固まっている。
「……そう。言ってなかった? 上に4人、下に3人。私はちょうど真ん中の4女。……あんな騒がしい環境で生きてきたから、一人が好きで焚石の修行について行ったんだよ。……あ、楡井、汚い。拭きなよ」
蒼は面倒そうに、ハンサムショートの髪をかき上げた。
風鈴高校の「脳」として君臨し、常に冷静沈着な彼女が、実は大家族の真ん中っこという、賑やかさの極致のような環境で育っていた事実に、一同は脳の演算が追いつかない。
「……道理で。蒼が時々見せるあの『慈愛モード』や、年下の扱いが手慣れてる理由が分かったよ。……大家族の真ん中っこ。……ふふ、ますます僕の好みだ」
蘇枋が楽しげに頬杖をつく。蒼は顔を赤くして「……うるさい。あんたの好みなんて聞いてない」と毒づいたが、スマホに届く通知音は止まらない。
「……あぁもう、非効率。……兄たちが、この前の獅子頭連の抗争のデータをどこからか嗅ぎつけたみたい。『蒼の隣でニヤついてる眼帯の男は誰だ、査定する』って。……蘇枋、あんた死ぬよ」
「おや、お義兄様たちに挨拶ができるなんて光栄だね」
「……笑い事じゃないんだけど。上4人は全員、焚石直伝の荒事もこなす猛獣。生存率15%って言ったでしょ」
蒼が頭を抱えていると、ポトスのドアがカランと鳴った。
「よお。蒼、ちょっと邪魔するぞ」
「……げっ、焚石!?」
そこには、どこから情報を得たのか、平然とした顔で店に入ってくる焚石の姿があった。彼は蒼の横に座ると、蘇枋をじろじろと眺める。
「……こいつか。蒼の演算を狂わせてるっていう『クソ野郎』は」
「……焚石! あんた、なんで私の家のグループラインに居るのよ! まじでうざいんだけど! 私の兄ちゃんたちはもっと静かなの!」
「ははっ。お前の兄貴たちに『面白い男がいる』って教えたのは俺だ。……蘇枋と言ったか。覚悟しとけ。明日、茉莉家の全員がお前を待ってるぞ」
桜たちが「お前、本当に大丈夫か……?」と蘇枋を心配する中、蒼は「……クソが、非効率すぎる」とテーブルに突っ伏した。
クールな軍師の裏側にあった、圧倒的に人間臭いルーツ。
ボウフウリン史上、最も「危険」な家庭訪問が、幕を開けようとしていた。
🔚
第26話:茉莉家の聖域、侵入者への洗礼
「……だから言ったでしょ。非効率だって」
蒼の実家、茉莉家の玄関前。蒼の溜息を合図に扉が開いた瞬間、桜、楡井、杉下、そして蘇枋の四人は、肺を直接押し潰されるような物理的な殺気の壁に直面した。
「(……っ、なんだこの密度。多聞衆の抗争より、よっぽど空気が重ぇ……!)」
桜が冷や汗を流して身構える。奥の居間から現れたのは、蒼によく似た鋭い目つきの男たちが4人。そして、背後でナイフを研ぐような不穏な音を立てる妹弟たちが3人。
「……あ? 蒼をたぶらかしてる眼帯の野郎ってのは、どいつだ」
「……兄ちゃん、言葉に殺意が漏れてる。非効率だからやめて」
蒼が制止するが、4人の兄たちの視線は、蘇枋を「妹に群がる有害な羽虫」として既にロックオンしていた。楡井は「ひ、ひえぇぇ……演算不能な殺意です……!」とガタガタ震えている。
その時、ボウフウリンの面々が恐怖で一歩も動けずにいた後ろから、ひょいと焚石が顔を出した。
「よお。蒼、ちょっと邪魔するぞ」
その瞬間、空気が一変した。
ついさっきまで猛獣のような殺気を放っていた兄妹たちが、スッと道を開け、「……チッ、師匠か」「上がれよ」と、極めて自然に焚石を家の中へ通したのだ。
「「「なんでだよ!!」」」
桜たちの絶叫が響く。
「……言ったでしょ。焚石はうちの兄妹にとって『蒼を喘息から守り、最強に育て上げた功労者』兼『勝てないから放っておく対象』なの」
蒼は呆れたようにため息をつき、一歩も動けない蘇枋の背中を、慈愛モード混じりに小突いた。
「……生存率15%の挑戦者さん。……立ち止まるのも非効率。……ほら、入るなら早くして。……あんたが殺される前に、私がなんとか『演算』で間に入ってあげるから」
蘇枋は、自分を射殺さんばかりに睨みつける4人の兄たちを前に、一筋の冷や汗を流しながらも、不敵に口角を上げた。
「……なるほど。この殺気こそが、君のご家族なりの『歓迎』なんだね。……ふふ、面白いじゃないか」
「……笑ってる場合じゃないんだけど。……隼飛、あんたが死んだら、私の後味が悪いからね」
蒼の心配をよそに、蘇枋は茉莉家の「魔窟」へと足を踏み入れた。
それは、最強の軍師・蒼が最も隠したかった「賑やかで危険な日常」の始まりだった。
🔚
第27話:軍師の演算、完全崩壊
「……兄ちゃん、もういいでしょ。その話は『非効率』だし、誰も興味ないから!」
蒼の制止も虚しく、茉莉家のリビングは爆笑の渦に包まれていた。
焚石が持ってきた手土産の高級酒と菓子によって、あれほど尖っていた兄妹たちの毒気はすっかり抜けていた。それどころか、彼らは桜や蘇枋を囲んで「蒼の|取扱説明書《黒歴史》」を広げ始めている。
「いいか蘇枋。こいつ、5歳の頃は焚石の後ろばっかりついて歩いて、姿が見えなくなるとすぐ『演算』忘れて泣きべそかいてたんだぞ」
長男が笑い飛ばすと、蒼は顔を真っ赤にして叫んだ。
「……兄さん、黙って! それは脳の発達段階における一時的なバグで……っ!」
「あと、このハンサムショートな。中1の時、修行の邪魔だって言って自分でザクザク切り始めたんだ。親が泣いて止めても『空気抵抗の削減』とか言って聞かなくてさ」
次男の暴露に、桜が「ぷっ、空気抵抗……! 茉莉、お前マジかよ!」と腹を抱えて笑う。
「……っ、クソが……死にたい、非効率すぎる……」
蒼は机に突っ伏して震えているが、蘇枋は楽しげに目を細め、身を乗り出した。
「へぇ、もっと聞きたいな。……蒼が初めて僕の話をご家族にした時、どんな顔をしてました?」
その問いに、末っ子の妹がニヤリと笑う。
「あー、その時はね。顔を真っ赤にして『演算が狂うクソ野郎がいる』って、一晩中つま先を地面にカッカッ叩いてたよ。あんなに動揺してる蒼姉ちゃん、初めて見た!」
「その話はダメええええ!!」
蒼の絶叫がリビングに響き渡る。
軍師としてボウフウリンを手のひらで転がしてきた誇りが、実家のリビングで音を立てて崩れていく。
「……あはは。蒼、君は本当に愛されて育ったんだね」
蘇枋が優しく、蒼の耳元で囁く。その声に、蒼はさらに顔を赤くし、蘇枋の脇腹を小突いた。
「……うるさい。……あんたに私のルーツを知られるなんて、演算ミスにも程がある。……でも、」
蒼はチラリと、笑い合う兄妹たちと、彼らと自然に馴染んでいる仲間たち、そして満足げにお茶を飲む焚石を見た。
かつての「従順」という名の孤独。それが今、これほどまでに賑やかで「平和」なノイズに塗り替えられている。
「……別に、最悪じゃない。……想定外だけど」
蒼は小さく呟き、蘇枋から贈られたジャスミンのハンカチをギュッと握りしめた。
🔚
最終話:演算外の平和(ハッピーエンド)
焚石との決別、そして家族への紹介を経て、蒼の日常は確かな「平和」へと着地していた。
その年の春。
風鈴高校の屋上には、いつものように穏やかな風が吹いている。蒼は梅宮の野菜作りを手伝いながら、怪我をして戻ってきた桜や楡井のケアをしていた。
「……桜。あんた、また無茶したでしょ。右の腓腹筋が悲鳴を上げてる。非効率だよ」
「っせーな! 助けた奴が重かったんだよ!」
毒づく桜の手当てをしながら、蒼はふと自分の手元を見つめた。
かつては「敵を壊すため」だけに使われていた自分のスキャン能力と指先が、今は「誰かを癒やすため」に、そして「未来を繋ぐため」に使われている。
「……茉莉、お前、最近……なんか、柔らかくなったな」
「……別に。私はいつも通り、最適解を選んでるだけ」
口ではそう言いながらも、蒼の薄ピンク色の瞳には、かつての冷徹な鋭さはなく、春の陽だまりのような温かさが宿っていた。
「蒼。君の名前、本当はもっと素敵な意味があるんだね」
不意に横から、蘇枋が茉莉の花を一輪差し出した。
「平和、精神的な癒やし、柔和……。今の君にぴったりだ。僕たちを癒やしてくれる、優しい軍師様」
蒼は差し出された花を手に取り、その香りを深く吸い込んだ。
かつては呼吸することさえ苦しかった自分が、今はこんなにも穏やかに、自分の意志で息をしている。
「……ふん。……別に、悪くない。……演算通りだよ」
蒼はふわりと微笑んだ。
それは、かつての「従順な人形」ではなく、街を、仲間を、そして自分自身を愛する、一人の少女の笑顔だった。
後日、蒼は一人で、あの神社へと足を運んだ。そこには、ふらりと現れた焚石がいた。
「……来たか。今日の演算はどうだ」
「最悪。……あんたに会いに行く時間を捻出するのに、どれだけスケジュールを効率化したと思ってるの、焚石」
もう「師匠」とは呼ばない。対等な一人の人間として、蒼は焚石の隣に座った。
焚石は蒼の横顔を見て、少しだけ満足そうに目を細めた。
「……喘息は?」
「出ないよ。……私はもう、自分の足で歩いてる。……心配しなくていいよ」
「……そうか。やるじゃんよ、蒼」
焚石の言葉に、蒼は晴れやかに笑った。
過去を切り捨てるのではなく、抱えたまま前へ進む。
風鈴高校の「脳」として、そして一人の女の子として。
蒼は、自分を待っている蘇枋や桜たちの元へと駆け出した。
演算では決して導き出せない、眩しいほどに美しい|未来《明日》に向かって。
(完)
第8話:遠い目、あるいは焚石の残響
「……あ、おい茉莉! またペンが止まってるぞ。非効率なんじゃねーのかよ」
風鈴高校の屋上。桜の声に、蒼はハッとして手元の参考書に目を落とした。
「茉莉塾」の最中だというのに、彼女が「演算」を忘れて虚空を見つめる回数は、ここ数日で明らかに増えていた。
「……別に。日射角度による視覚情報のノイズを解析してただけ。……桜、あんたはここの因数分解、三回連続で間違えてる。……脳の再起動が必要?」
「んだとテメェ! 普通にぼーっとしてただろ!」
いつもの言い合い。けれど、傍らで見ていた蘇枋の目は笑っていなかった。
蒼の視線の先――それは、この街の境界線の向こう、あるいは、数年前の「過去」を見ているように見えたからだ。
その日のパトロール中、街の空気がざわついていた。
「……聞いたか? 多聞衆のナワバリの端で、獅子頭連の残党がまとめてノされたらしいぞ」
「あぁ。犯人は一人。風みたいに現れて、一瞬で全員の関節を外して消えたって……」
その噂を耳にした瞬間、蒼の足が止まった。
指先が微かに震え、呼吸の音がわずかに鋭くなる。
「(……関節の外し方。……無駄のない足跡。……演算するまでもない。あいつらが見たのは、私の知っている『風』だ)」
「……蒼? 顔色が悪いよ」
蘇枋が心配そうに覗き込むが、蒼はそれを撥ねのけるように歩き出した。
「……何でもない。ただの、非効率な噂話。……先に帰る」
「蒼!」
呼び止める蘇枋の声を背に、蒼は一人、あの神社へと向かった。
中2の冬、焚石と最後にお参りした場所。
「……動くな、と言われた。あの日から、私はずっとここで、あなたの『動け』を待ってる。……バカみたい。非効率の極み」
蒼は神社の階段に座り込み、膝を抱えた。
自分の名前、茉莉花(ジャスミン)。
その花言葉の通り、自分はまだ「あなたについていく」という呪縛の中にいる。
その時、背後の森から、カサリと乾いた葉の音がした。
蒼の全細胞が、かつての「恐怖」と「歓喜」を同時に思い出す。
「……演算……不能。……心拍数、計測限界突破」
振り返った蒼の瞳に映ったのは、夕闇に溶けそうな、けれどあまりにも鮮明な「師匠」の影だった。
🔚