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目次
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https://shindanmaker.com/1243049
「この一文から始まる物語」というお題メーカーを利用しました。
「逆境から這い上がる物語を人々は好む」
逆境から這い上がる物語を人々は好む。
故に、私のような人生は何の面白みもないだろう。
私の人生は極くありふれたものだ。例えば道端に捨てられた煙草の吸い殻のような。白い不織布マスクのような。量産式で使い捨ての人間。私が人ではなく何らかの製品であれば、きっと100均に売られていただろう。
「綾田さんさぁ、またここミスしてるよ」
「すいません、以後気をつけます」
「ほんとにさ、こういう小さいミスが積み重なって重大な欠陥を招くこともあるから。あなた大卒でしょ?日本語くらいできて当たり前だよね?」
今日も今日とて、額の禿げ始めた中年の上司に叱られる。頭を下げる。椅子がきしむ。上司が溜め息を吐く。やたらと粘ついた喋り方で彼は私をなじる。
冴えない人間というのは、何かがものすごく劣っているわけではない代わりに、些細なこともうまくできないのだ。
オフィスの隅で何やら群れている若い女性社員たちが、こちらを遠巻きに眺めてくすりと笑った気がした。同じように巻いた茶髪と、制服の胸元の大きな白いリボンが揺れた。
ここで私がデスクのひとつでも叩いてみたら、何か変わるのだろうか。捨て台詞を吐き、椅子を蹴っ飛ばして、今すぐここから出て行く。
そんなできもしない自分の勇姿を頭に浮かべて少しだけ自身を慰めた。微かに甘い気持ちがしたが、すぐに虚しくなる。
「お疲れ様でーす、お先でーす」
「お疲れ様でーす」
「お疲れ様です」
最近流行ってでもいるのか、妙に語尾を伸ばす喋り方で、残っていた女性社員二人が出ていった。寒寒としたオフィスには、パソコン数十台と給茶機、私、ずっと室内に住み着いている蝿とり蜘蛛が残された。
今日も今日とて叱られ、今日も今日とて残業である。最早虚しさを通り越して乾いた笑いが漏れる。疲れている。帰りたい。
この惨めな逆境から這い上がれるものなら這い上がりたいのだが、それは当然なのだが、這い上がれるだけの力がない。そもそも人々が望む「逆境から這い上がる人間」というのは、絶対に私のようなタイプではない。こんなぱっとしない人物ではない。
いつの間にか室内の温度は随分下がっていた。私は肌荒れした頬をぱんぱんと叩き、残業に取りかかった。
2
「クソみたいに不味い飯が世界の全てだった」
クソみたいに不味い飯が世界の全てだった。
穴の空いた一張羅には泥がはね、飼っていた
ちびの犬もいつか死んだ。
姉が最初にいなくなり、次に妹がいなくなった。
身売りという言葉の意味を長らく俺が知らなかったのは、この化け物のせいだ。
化け物。愛しい俺の化け物。そいつは俺が成長すると共にその輪郭をはっきりと表していった。
黒く黒く澱むそいつは、排水溝に溜まった汚い水と似ていた。化け物はいつも俺のことを守った。
腹を壊す食い物を俺が食わないよう仕向けた。誰かが腹立ち紛れに投げた石をはね返した。
嵐の日には自分の澱みの中に俺を隠して、家ごと吹き飛ばされた隣人を嗤っていた。囁きのような嗤いだった。隙間風のような、掠れた声のような、喘鳴のような。
俺はそいつと共にずっと生きてきた。この塵溜めの中で生きてきた。
あの壁を見つけたのも、そいつが俺に教えたからだった。
灰色の壁。無学な塵溜めの人間が知る限りの暴言が書き殴られた壁。俺たちが暖かい服を着て、腹一杯飯を食う人生を拒む壁。
これを壊せばいいと化け物は囁いた。だから俺は、
随分と不吉な夢を見ていたようだ。
スラムのような場所で十五までを過ごす夢だった。
見えるようで見えない、見えないようで見える黒い何かに誘われるまま、高い高い壁の前にたどり着き、外の世界に立った途端夢が覚めた。やれやれ、妙な夢を見たものだ。これから商談が入っているというのに。
「…社長、お時間です」
静かに入ってきた秘書が私にそう告げた。
「ああ、今行くよ」
私は答え、椅子から腰を上げた。
部屋を出て行く社長を秘書は見送った。スーツに包まれた脚からどろりと溶け、黒い何かに変わる。何かが呟く。隙間風のような、喘鳴のような、掠れた声で。
「…잊어버려」
秘書の正体は誰も知らない。