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目次
第1話:トオルと、朝食
第5特殊消防隊の隊員宿舎に、朝の光が差し込む。
二段ベッドの下段。トオル岸理は、背中に感じる「重み」と「異様な熱」で目を覚ました。
「……おい。紫月。起きろ。朝だぞ」
返事はない。トオルのTシャツを指先でぎゅっと掴んだまま、シヅキは死んだように眠っている。能力の使いすぎによる異常代謝のせいか、彼女の寝息は驚くほど深く、時折その体温がさらに一段階上がるのを感じる。
「紫月、時間だ。……おい」
トオルは慣れた手つきで、自分にしがみつく紫月の腕をそっと外そうとした。だが、彼女は無意識にそれを拒み、トオルの胸元に顔を埋めてくる。
「……トオル。うるさい」
「うるさいじゃない。今日は第8との合同演習があるんだぞ」
「……やだ。行かない。寝る」
紫月は薄目を開ける。紫色の瞳はまだ焦点が合っておらず、トオルという「生存の拠り所」を認識するまで数秒かかった。ようやく彼だと理解すると、彼女は自分からトオルの首に腕を回し、完全に体重を預けた。
「……トオル。起こして」
「今起こしてるだろうが。ほら、座れ」
トオルは半ば強引に彼女を抱き起こし、ベッドの縁に座らせる。紫月は魂が抜けたような顔で、トオルに言われるがまま腕を通され、制服を着せられていく。第5の隊員が見れば「無口な鉄の女」のあまりの無防備さに腰を抜かすだろうが、これがトオルにとっての「日常」だった。
---
食堂へ移動する道中も、紫月はトオルの後ろを「てくてく」と歩く。彼の制服の裾を片時も離さず、まるで親鳥を追う雛のようだ。
「おはよ、紫月ちゃん! 今日も眠そうだね」
通りかかった同僚が声をかけるが、紫月は表情一つ変えない。
「……おはよう。……うるさい。……眠い」
きっかり三語。それ以上は話さない。話す必要を感じない。
だが、食堂の席に着き、トオルがトレイを置いた瞬間、彼女の「鉄の面」にわずかな亀裂が入る。
「……トオル。これ」
「分かってるよ。貸せ」
紫月は音速の箸さばきで、自分の皿に乗ったネギとナス、そしてキノコをトオルの皿へ移した。代わりに、トオルの皿にあった厚切りのベーコンを、当然の権利のように自分の米の上へと拉致する。
「お前な、少しは野菜も食わないとバーンズ大隊長に怒られるぞ」
「……|紅丸《お兄》が、肉食えって。|バーンズ《叔父ちゃん》ちゃんも、強い体、必要って」
「……都合のいい時だけ最強の二人を引き合いに出すな」
トオルは溜息をつきながら、押し付けられた野菜を口に運ぶ。
紫月は満足そうに肉を頬張り、少しずつ、その白い頬に赤みが差していく。食事が、彼女の「燃料」となり、脳を起動させていく。
「……トオル」
「なんだよ」
「……今日。ずっと、後ろにいる」
「はいはい。迷子になるなよ」
そのやり取りを、遠くからプリンセス火華が扇子を広げて眺めていた。
「全く、あの二人は……。トオル、あんた甘やかしすぎよ。シヅキも! シャキッとなさい!」
「……お姉様。……トオルが、いいって」
「言ってねえよ!」
トオルのツッコミが響く中、紫月はトオルの腕に頭を擦り付けた。
彼女にとっての世界は、この「トオルという盾」の内側だけで完結している。
たとえこの後、残酷な「焔ビト」との戦いが待っていたとしても。
🔚
第2話:無口と、三語
「第5特殊消防隊、および第8特殊消防隊。これより合同演習を開始する!」
訓練場に響き渡る号令。第5の大隊長・プリンセス火華が傲然と椅子に座り、その傍らには、無表情で佇むシヅキの姿があった。
「……第8。……騒がしい。……帰りたい」
シヅキの声は、隣に立つトオルにしか聞こえないほど小さい。彼女の視線の先には、緊張感のない笑顔を浮かべる森羅日下部や、騎士ごっこに興じるアーサー・ボイルの姿がある。
「我慢しろ。お姉様の前だぞ、シャキッとしてろ」
トオルの囁きに、シヅキはわずかに眉を寄せ、彼の影に隠れるように一歩下がった。
「おい、そこの不気味な女! さっきから俺の背後をジロジロ見やがって、何の真似だ!」
アーサーが剣の柄を握りながらシヅキを指差す。シヅキの『反響定位』が無意識に彼の筋肉の動きや呼吸をトレースしていたことに、野生的な勘で気づいたらしい。
シヅキはトオルの後ろから、冷徹な紫の瞳でアーサーを射抜いた。
「……騎士。……馬鹿。……黙れ」
「なっ……!?」
絶句するアーサーを無視し、シヅキはトオルの裾を掴んだまま火華の前へと進み出る。
「シヅキ。あんた、第8の新人どもに第5の格の違いを見せてやりなさい」
「……了解。……お姉様」
---
演習の内容は、高速で射出される標的を、指定されたポイントで正確に破壊するというものだ。
第8のシンラが足から火を吹き、派手な音を立てて標的を粉砕していく。
「次は第5の平隊員、紫月!」
シヅキは一歩前へ出た。彼女は構えない。印も結ばない。ただ、標的を見つめる。
その瞬間、空気が変わった。
『|焦眉の紫眼《バイオレット・バースト》』
シュン、という小さな音と共に、標的の「中心核」だけが内側から弾け飛んだ。炎の塊ではなく、極限まで圧縮された熱の針が貫いたような破壊の跡。
標的が地面に落ちる前に、さらに三つ。シヅキが瞬きをするたびに、紫色の火花が空中で爆ぜる。
「……終わり。……トオル。……次」
シヅキは結果を確認することもなく、トオルの元へ戻った。
「相変わらずえげつねえ精密さだな……」
トオルが差し出したスポーツ飲料を、シヅキは黙って受け取る。
「今の……発火現象を視線で固定したのか? 手も使わずに?」
驚きを隠せないシンラが歩み寄ってくる。シヅキは彼を一瞥すると、すぐにトオルの背中に隠れた。
「……悪魔。……足。……臭そう」
「おい! 足が臭いのはひでぇよ……じゃなくて、悪魔って言うな!」
騒ぎ出すシンラを他所に、シヅキの呼吸はすでに乱れ始めていた。
精密発火は脳への負荷が異常に高い。こめかみを流れる汗を、トオルがタオルで拭う。
「……トオル。……脳。……熱い」
「頑張ったな。もう少しで終わるから、後で甘いもん食わせてやる」
トオルの言葉に、シヅキは「こくり」と小さく頷く。
鉄の女としての冷徹な眼差しは消え、そこにはただ、依存する相手の体温を求める、一人の少女の瞳があった。
だが、訓練場の隅でシヅキを観察する視線があったことを、この時の二人はまだ知ら
🔚
第3話:お姉様と、教育
合同演習が終わり、第5特殊消防隊の執務室。
「パキィィィン!」と、扇子を閉じる乾いた音が部屋に響き渡った。
「シヅキ! あんた、さっきの昼食もネギを残したわね!?」
プリンセス火華の怒声が、豪華なソファに座るシヅキに突き刺さる。シヅキはトオルの背後に完璧に身を隠し、彼の肩越しにじっと火華を見つめた。
「……ネギ。……毒。……いらない」
「毒なわけないでしょうが! この砂利が! 好き嫌いしてたら立派な消防官になれないわよ!」
火華が指を鳴らす。空中に桜を模した炎が舞い、威嚇するようにシヅキの周囲を囲んだ。普通の隊員なら腰を抜かす場面だが、シヅキは表情一つ変えず、トオルのシャツを「ぎゅっ」と握りしめた。
「……若(紅丸)が。……肉だけでいいって。……言った」
「……はあ!?」
火華の眉間がピクリと跳ねる。シヅキはさらに追い打ちをかけるように、淡々と、しかし決定的な名前を口にした。
「……叔父ちゃんも。……タンパク質、大事。……野菜、あとでいいって」
「浅草の破壊王と第1の大隊長の名前を出せば、私が黙るとでも思ってるの!?」
火華の背後に、どろりとした黒いオーラが立ち昇る。
トオルは冷や汗を流しながら、必死に間に割って入った。
「大隊長、落ち着いてください! こいつ、昨日も第7から届いた人型焼を主食にしてたんで、栄養バランスが崩れてるだけで……」
「トオル! あんたが甘やかすからこの子は付け上がるのよ! ほら、シヅキ! 今すぐこのナスを口に入れなさい!」
火華が差し出したのは、食堂からわざわざ持ってきた「ナスの煮浸し」。シヅキにとって、それは焔ビトよりも恐ろしい「敵」だった。
「……処罰。……トオル。……やって」
「俺に振るな! ……ほら、紫月。一口だけ食べないと、火華大隊長に本気で怒るぞ」
トオルが困り果ててナスの小鉢を差し出すと、シヅキは目に見えて震え始めた。
彼女の瞳に、うっすらと紫色の火花が散る。『焦眉の紫眼』が、あろうことか「ナス」に向けて精密照準を開始した。
「……分子レベルで。……消滅。……させる」
「食べ物を消すために能力を使うんじゃない!!」
トオルがシヅキの両目を手で覆い隠し、暴走を阻止する。
視界を奪われたシヅキは、そのままトオルの胸に顔を埋め、抗議の意を込めて彼の鳩尾を軽く蹴り上げた。
「……ぐふっ……!? なんで俺を蹴るんだよ……」
「……トオル。……ナス、味方した。……敵」
シヅキはそう言い残すと、トオルの背中にヒョイと飛び乗り、そのまま「死んだように」寝る体制に入った。
「……あ、こら! 寝逃げすんな! 重いって!」
「全く……。トオル、後でその子を私の部屋に連れてきなさい。……特別講習よ」
火華は呆れたように溜息をつき、扇子で顔を隠した。だが、その瞳には、自分の「義妹」であるシヅキへの隠しきれない愛情が滲んでいた。
背負われたまま、シヅキはトオルの首筋に鼻を押し付け、彼にしか聞こえない声で呟く。
「……トオル。……ナス、食べたフリ。……あとで、肉、ちょうだい」
「……お前、本当に……」
トオルは呆れ果てながらも、背中に感じる彼女の心音と、少しだけ軽くなった(1kg痩せた)体重を愛おしく感じてしまうのだった。
🔚
第4話:依存と、不在
「いいか、紫月。第1に呼ばれて、報告会議に行ってくる。……たったの三時間だ。いいな?」
第5特殊消防隊の玄関先で、トオルは言い聞かせるように、自分のシャツを掴んで離さないシヅキの目を見つめた。シヅキの瞳は、今にも紫色の涙が零れ落ちそうなほど潤んでいる。
「……トオル。……行かないで。……死ぬ」
「死なない! 火華大隊長もいるし、訓練場で自主練でもしてろ」
トオルは心を鬼にして、シヅキの細い指を一本ずつ剥がした。彼女はそのまま、玄関の冷たい床に膝をつき、遠ざかるトオルの背中を絶望の目で見送った。
--- 一時間後 ---
第5の廊下を通りかかった隊員が、奇妙な光景を目にする。
「……シヅキちゃん? 何してるの、そこで」
壁際に、シヅキが「てくてく」と歩くこともなく、ただ一点を見つめてうずくまっていた。彼女の周囲には、負のオーラが物理的に渦巻いている。
「……トオル。……心音。……聞こえない。……酸素。……薄い」
「いや、酸素はあるから! ほら、大隊長が呼んでるよ!」
隊員が手を貸そうとした瞬間、シヅキの瞳に『焦眉の紫眼』が微かに灯った。
「……触るな。……トオル。……以外。……不潔」
その声は冷徹そのものだが、彼女の体はガタガタと震えている。
さらに一時間後。プリンセス火華が痺れを切らして廊下に現れた。
「ちょっと! いつまでそこで泥団子みたいに丸まってるのよ、この砂利……って、あら?」
火華が見たのは、白目を剥きかけ、口の端から微かに泡を吹きながら、廊下で横たわるシヅキの姿だった。
「シ、シヅキ!? あんた、しっかりしなさい!」
「……お姉、様。……世界が。……歪む。……トオル、成分。……足りない」
シヅキにとって、トオルは単なる幼馴染ではない。過酷な能力使用で焼け付く脳を鎮める「冷却剤」であり、自分を世界に繋ぎ止める「唯一の楔」なのだ。彼がいない空間では、彼女の精神は自重に耐えきれず崩壊を始める。
「全く……! トオルもトオルよ、こんなに依存させて! ほら、これを抱いてなさい!」
火華が投げ渡したのは、トオルが予備で置いていた「第5の隊員ジャケット」だった。
シヅキはそれをひったくるように抱きしめると、顔を埋めて深く息を吸い込んだ。
「……トオル。……匂い。……生きてる」
それから三十分。
玄関にトオルの足音が響いた瞬間、廊下で「死体」のようだったシヅキが弾かれたように起き上がった。
「トオル!!」
三語以内のルールなどどこへやら、彼女は弾丸のような速度でトオルに突進し、その腰にしがみついた。
「うおっ!? ……なんだよ、紫月。泡吹いて倒れてたって聞いたぞ」
「……トオル。……遅い。……処刑。……あとで、抱っこ」
シヅキはトオルの胸に顔を擦り付け、彼の心音を確認してようやく人心地ついた。
トオルは溜息をつきながらも、彼女の背中を「よしよし」と叩く。
「はいはい、悪かったよ。……ほら、第1のお土産だ。バーンズ大隊長から、お前にって高級羊羹を預かってきたぞ」
「……羊羹。……いらない。……トオル、いれば、いい」
そう言いながらも、シヅキはトオルのポケットを勝手に漁り、羊羹を確保する。
彼女の「生存のすべて」が戻ってきた瞬間だった。
🔚
第5話:焦眉と、鎮魂
第5特殊消防隊に出動要請が下った。
現場は、古びた倉庫街。そこには、人智を超えた憎悪を撒き散らす「焔ビト」が立ち尽くしていた。
「……五月蝿い。……不快。……消えろ」
シヅキはトオルの後ろで、耳を塞ぐようにして呟く。
今回の個体は、言葉を解していた。焔ビトは、自らの体を焼く炎に悶えながら、周囲の消防官たちを罵倒する。
「熱い……苦しい……お前らも、同じ目に遭わせてやる……! 偽善者の消防官どもがぁ!!」
その言葉が、シヅキの「地雷」を踏み抜いた。
彼女にとって、人体発火は「負の感情」の集積。意識を持ったまま醜態を晒す焔ビトは、生理的な嫌悪の対象でしかない。
「……トオル。……離れて」
「紫月? おい、待て……!」
トオルの制止を振り切り、シヅキが一歩前へ出る。
彼女の瞳が、鮮やかな紫色に発火した。
『|焦眉の紫眼《バイオレット・バースト》』
瞬間、焔ビトの周囲の空気が歪んだ。
シヅキは指一本動かさない。ただ、対象の「急所」を見つめる。
視界に入った酸素を瞬時にプラズマ化し、焔ビトの関節、喉、そして核を、音もなく精密に射抜いていく。
「ギ、アアア……ッ!? 目が……目が熱い……!!」
「……喋るな。……醜い。……灰になれ」
シヅキの瞳に、微かに猛禽の紋様が浮かび上がる。
彼女は「鎮魂」を祈らない。そこにあるのは、害虫を駆除するかのような冷徹な殺意。
焔ビトが苦悶の声を上げる間もなく、その核は分子レベルで焼き尽くされ、一筋の灰となって崩れ落ちた。
「……鎮魂。……完了」
シヅキが呟いた直後、彼女の体が糸の切れた人形のように崩れた。
異常な代謝と脳の酷使。1回の本気を出せば、彼女のエネルギーは底をつく。
「紫月!!」
地面に激突する寸前、トオルが滑り込み、彼女を腕の中に収めた。
シヅキの顔は土気色で、制服のウエストが目に見えて緩くなっている。また1kg、命を削って炎を放った証拠だ。
「……ト、オル……。……暗い。……寒い」
「ああ、分かってる。よくやった。……寝てろ」
トオルは自分の上着を脱ぎ、シヅキを包み込むように抱きしめた。
シヅキは彼の胸の音を、最後の安らぎとして聞きながら、文字通り「死んだように」深い眠りに落ちていった。
火華が歩み寄り、灰となった焔ビトの跡を見つめる。
「相変わらず、情けの欠片もない戦い方ね。……砂利どころか、虚無に還すつもりかしら」
「大隊長、そんなことより……。シヅキの体温が下がってます。早く戻らないと」
トオルはシヅキを横抱きにし、装甲車へと急ぐ。
シヅキの寝顔は、先ほどのサイコパスのような冷酷さは微塵もなく、ただトオルの温もりに依存する、幼い子供のようだった。
🔚
第6話:第8と、再会
第5特殊消防隊と第8特殊消防隊は、合同演習に引き続き、合同調査の名目でとある地下街へと派遣されていた。地下は、焔ビト発生の温床になりやすい。
トオルは、背後霊のようにぴったりとくっついてくるシヅキに溜息をついた。
「いいか、紫月。第8の大隊長、桜備大隊長は無能力者だが、現場経験は俺らより長い。敬意を払って、ちゃんと言うこと聞くんだぞ」
「……桜備。……無能力者。……頑張ってる」
「褒めてるのか貶してるのか分からんが、まあいい。ほら、ちゃんと挨拶」
トオルに促され、シヅキは桜備の方を向いた。
「……第5、平隊員、紫月。……よろしく」
きっかり三語。外向けの「鉄の女」モードだ。
「おう、よろしくな! 第5は能力者が多いが、連携もしっかりしてるって聞く。今日は頼むぞ!」
桜備は快活に笑い、シンラやアーサーと共に、手際よく分担を決めていく。
「それにしても、あのシヅキ隊員、訓練の時も一言も喋らなかったな」
シンラがトオルにこっそり尋ねる。
「……人見知りなんだよ。あれで」
「いや、人見知りのレベルじゃないでしょ……」
シヅキは、そんな彼らのやり取りをトオルの後ろからじっと観察していた。
(……シンラ。……足癖。……善人。……アーサー。……馬鹿。……うるさい)
彼女の『反響定位』が、地下街の複雑な構造と、微かな心音、そして壁の向こうで蠢く「何か」の音を拾い上げる。
「……トオル。……あれ」
シヅキはトオルの腕を引っ張り、人気の少ない方角を指差した。
「おい、紫月、勝手に離れるな。……ん?」
トオルが駆けつけると、そこには意識を失った一般人男性が倒れており、その傍らには、いかにも怪しい男が逃げ去っていく姿があった。
「あれは……伝導者一派!?」
「待てコラァアア!!」
シンラたちが男を追って駆け出す。
「……トオル。……私は、こっち」
シヅキはトオルの腕を強く掴み、倒れている男性を指差した。
「この人、まだ脈がある。……灰病の初期症状だ。伝導者の目的は、焔ビトの発生じゃなくて、灰病の拡大か……?」
トオルは素早く状況を判断する。
「お前はここにいろ。俺はシンラたちを追う!」
「……やだ。……置いて、行くな」
シヅキはトオルの背中に飛び乗った。
「重いって! ほら、降りろ!」
「……トオル。……離れると、死ぬ。……一緒に、行く」
トオルは抵抗しても無駄だと悟り、溜息をついた。背中に感じるシヅキの体温と体重は、もはや彼にとって欠かせない日常の一部だ。
「分かったよ! ほら、しっかり掴まってろ!」
トオルはシヅキを背負ったまま、シンラたちが消えた暗い通路へと駆け出した。
地下街の闇の中、シヅキの紫の瞳だけが、冷徹な光を放っていた。
🔚
第7話:火華と、激突
「……いた。……不快。……ゴミ」
トオルの背中で、シヅキが低く呟く。暗い通路の先、逃げ遅れた伝導者の一味が、数体の焔ビトを盾に立ち塞がった。
「ヒッヒッ……第8だけかと思えば、第5の女王様までお出ましとはなぁ!」
「誰を砂利扱いしているのかしら、不潔な蟲ケラが」
後方から現れたプリンセス火華が、優雅に扇子を広げる。その周囲には、熱を奪い血管を収縮させる『|熱失神《クレマチス》』の炎が美しく舞った。
「シンラ、アーサー! 雑魚はあんた達が片付けなさい。……シヅキ、トオル。あんた達は私と来なさい。逃がしたネズミの首を獲るわよ」
「了解です! ……紫月、降りろ。戦闘だぞ」
トオルが声をかけると、シヅキは名残惜しそうに背中から降りた。だが、その瞳はすでに「鉄の女」を通り越し、獲物を屠る猛禽のそれに変わっている。
「……トオル。……私の、後ろ。……傷、つけさせない」
「お前なぁ、俺は守られる側じゃないって……!」
トオルの抗議を無視し、シヅキは一歩前へ。
伝導者の一人が、懐から蟲を取り出し、無理やり焔ビトを加速させる。巨大化した炎の腕が、トオルを目がけて振り下ろされた。
『焦眉の紫眼・構造解析』
シヅキの視界には、炎の熱源分布と、酸素の密度がグリッド状に展開される。
「……そこ。……爆発。……しろ」
瞬き一つ。
振り下ろされる直前の炎の腕が、内部から紫色の閃光と共に弾け飛んだ。ただの破壊ではない。シヅキは、炎を維持する「酸素の供給路」だけを狙い撃ちし、敵の攻撃そのものを分解したのだ。
「なっ……何が起きた!?」
「よそ見してるんじゃないわよ、砂利共!」
火華の炎が敵の体温を奪い、動きを止める。そこへ、シヅキの精密射撃が追撃として突き刺さる。
姉が動きを封じ、妹が急所を穿つ。第5の「教育係」と「問題児」による、容赦のない連携。
「あ、あいつら……なんてえげつねえ戦い方しやがるんだ……」
少し離れた場所で焔ビトを蹴り飛ばしていたシンラが、戦慄したように呟く。
第8の戦いには「救い」や「鎮魂」の意思がある。だが、今目の前で繰り広げられているのは、徹底的な「排除」だ。特にシヅキの戦い方は、敵の苦痛すら計算に入れているかのように冷徹だった。
戦闘が終わり、伝導者たちは灰となって消える。
静寂が戻った地下通路で、シヅキの膝がガクリと折れた。
「紫月!」
トオルが抱きしめると、彼女の肌は異常な熱を帯びている。脳の酷使によるオーバーヒートだ。
「……ト、オル……。……野菜、食べなかったから。……力、足りない……?」
「そんなわけあるか……。よくやった。十分すぎるくらいだ」
「……トオル。……生きてる? ……傷、ない?」
シヅキは震える手で、トオルの顔を確認する。自分の脳が焼き切れることよりも、トオルの無事の方が、彼女にとっては死活問題だった。
「ああ、ピンピンしてるよ。……おい、寝るなよ、まだ帰り道だぞ」
「……むり。……寝る。……トオル、抱っこ……」
火華が肩をすくめ、二人を見下ろす。
「全く。戦場でもこれなんだから。……トオル、帰り道は私が先導するわ。その泥団子を落とさないように運びなさい」
「……すみません、大隊長」
トオルはシヅキをしっかりと抱え直し、彼女の寝息を耳元で聞きながら、闇の向こうにある地上へと歩き出した。
🔚
第8話:火華の、本音
第5特殊消防隊の医務室。
窓の外には夕焼けが広がり、室内をオレンジ色に染めている。ベッドの上では、激しい戦闘の反動で眠り続けるシヅキが、トオルの手を握ったまま規則正しい寝息を立てていた。
「……また少し、痩せたわね」
部屋に入ってきたプリンセス火華が、いつになく静かな声で呟いた。彼女の手には、シヅキが大好きな高級店のプリンが握られている。
「大隊長。……はい、1.2キロほど。今夜はしっかり食べさせないと」
トオルが椅子から立ち上がろうとするのを、火華は手制止した。
「座ってなさい。あんたが離れたら、この子はまた泡を吹くわ」
火華はベッドの端に腰掛け、シヅキの紫色の髪を愛おしそうに撫でる。その表情は、隊員たちを「砂利」と見下す大隊長の顔ではなく、一人の姉の顔だった。
「トオル。あんた、シヅキがなぜ第1でも第7でもなく、私のところにいるか……本当の理由を知っているかしら?」
「……バーンズ大隊長や紅丸大隊長との縁が深いから、安全な第5に預けられた……と。そう聞いています」
火華は鼻で笑った。
「あの二人がそんな消極的な理由で動くと思う? 違うわ。シヅキのその『眼』……『焦眉の紫眼』はね、世界の真実に近すぎるのよ。構造解析、反響定位……そして何より、焔ビトに対する底なしの殺意。あの子を第1や第7に置けば、戦いの道具として完成されすぎてしまう」
火華はシヅキの眠る顔をじっと見つめる。
「あの子には、狂気が必要だったの。伝導者や焔ビトを『可哀想な犠牲者』としてではなく、『排除すべき不快なゴミ』として切り捨てる狂気がね。そうしないと、あの子の繊細な脳は、他人の絶望を解析しすぎて壊れてしまう……。だから、私が、あの子の『狂気』を肯定してやることにしたのよ」
トオルは言葉を失った。シヅキのサイコパス的な一面は、彼女が自分自身の心を壊さないための「防衛本能」だったのだ。
「……でも、私一人じゃ足りなかった」
火華がトオルを真っ直ぐに見据える。
「あの子を、ただの殺人機械にしないための『錨』……それが、トオル、あんたなのよ。あんたが隣でネギを食えと叱り、急所を蹴られ、無条件で背中を貸す。その『下らない日常』があるからこそ、シヅキは人間でいられるの」
「俺が……錨……」
「ええ。だからあんた、絶対に死ぬんじゃないわよ。あんたが死んだら、この子は本物の『|餓禽《がきん》』になって、世界を焼き尽くす処刑人になってしまうわ」
火華は立ち上がり、プリンをサイドテーブルに置いた。
「……さて。お喋りは終わりよ。起きたらそれを食べさせなさい。ナスが入っていないか疑うでしょうから、あんたが毒味してやりなさいね」
「……了解です。ありがとうございます、大隊長」
トオルがそう呼ぶと、火華は一瞬だけ足を止め、ふいっと顔を背けて部屋を出ていった。
「ふん、この砂利が」
静かになった部屋で、シヅキの指がピクリと動く。
「……ト……オル……」
「ああ、いるぞ。ほら、大隊長がプリン買ってきてくれたぞ」
「……プリン。……トオル、半分こ。……ナス、入ってない?」
「入ってるわけないだろ」
トオルは苦笑しながら、彼女の手を握り直した。
シヅキの紫の瞳がゆっくりと開き、自分を世界に繋ぎ止める「たった一人の錨」を見つめて、安心したように細められた。
🔚
第9話:浅草の、逃亡
「……トオル。……逃げる。……今」
第5特殊消防隊の裏門。シヅキはトオルの腕を引き、夜の闇に紛れて駆け出した。
事の端緒は、火華が持ち出した「特製・野菜たっぷりスムージー」だ。シヅキはそれを一口飲んだ瞬間、音速でトオルの後ろに隠れ、そのまま宿舎を脱走したのである。
「おい、逃げるったってどこに……って、この方向は」
「……浅草。……若。……守ってもらう」
---
数時間後、二人は第7特殊消防隊の管轄、浅草へと足を踏み入れていた。
江戸の風情を残す町並み、酒の匂い、そして喧騒。
「おう、誰かと思えば第5の小娘じゃねぇか」
纏を担いだ紺炉が、二人を見て目を細める。
「……紺炉。……若、いる?」
「若なら、あそこで昼寝……いや、夜寝か」
紺炉が指差した先。火の見櫓の下で、不機嫌そうな顔をして座っている「最強の消防官」がいた。新門紅丸だ。
「……若。……来た」
シヅキはトオルの手を離すと、紅丸の元へてくてくと歩み寄り、そのまま当然のように彼の膝の上に頭を乗せた。
「……あ。おい、紫月! 失礼だろ!」
「……トオル。……うるさい。……若、いいって」
慌てるトオルを他所に、紅丸は片目を開け、膝の上の紫色の頭を「わしわし」と乱暴に、しかし優しく撫でた。
「んだよ……また|あの女《火華》に野菜食わされそうになったのか」
「……うん。……若。……助けて」
「ケッ、相変わらず甘ったれだな。……おい、トオルっつったか。テメェも座れ。紺炉、酒だ」
紅丸は、亡き実兄の上司という以上に、シヅキにとっては「強さ」と「安心」の象徴だった。紅丸の前では、彼女は「鉄の女」を演じる必要さえない。
「……若。……纏。……乗りたい」
「寝ぼけてんのか。……ほらよ」
紅丸はそう言いながら、シヅキの足が冷えないように、自分の布をバサリと彼女に掛けた。
「シヅキ。兄貴の『恩を与え恩を返す』って言葉、忘れてねぇだろうな」
「……忘れてない。……これ。……浅草の、人形焼」
シヅキは懐から、トオルに持たせていた紙袋を差し出した。
「若にお礼。……あと。……昼寝、させて」
「勝手にしろ。……トオル、テメェは俺と飲め。コイツが寝てる間、愚痴ぐらい聞いてやるよ」
紅丸の膝で、シヅキは一瞬で「死んだような」深い眠りに落ちた。
トオルは、紅丸が不器用にシヅキの頭を撫で続けているのを見て、少しだけ胸がチクリとした。だが、それ以上に、浅草の荒々しくも温かい空気が、戦いで張り詰めていたシヅキの心を解かしていることに安堵した。
「……紫月。お前、本当に愛されてるなぁ」
トオルは、紅丸が注いだ酒を口にする。
浅草の夜風は、どこか亡き兄の温もりに似ていた
🔚
第10話:お兄ちゃんと、特権
「……若。……高い。……いい気持ち」
浅草の夜空。シヅキは新門紅丸が操る纏の端に腰掛け、夜風に髪をなびかせていた。紅丸の纏に乗ることを許されているのは、この街でも極わずか。シヅキにとって、これは亡き兄から引き継いだ特別な席だった。
「ケッ、調子に乗るなよ。落ちても拾わねぇぞ」
紅丸は口では突き放すが、その手はシヅキがバランスを崩さないよう、炎の推進力を絶妙にコントロールしている。
「……若。……兄ちゃんも。……ここ、好きだった?」
「ああ。アイツはいつも、ここから街を見下ろして『恩を返さなきゃな』なんて、湿っぽいこと抜かしてやがった」
紅丸の瞳が、一瞬だけ遠くを見つめる。
「シヅキ。テメェのその眼は、壊すためにあるんじゃねぇ。兄貴が守りたかったもんを、見つめるためにあるんだぞ」
「……うん。……若。……分かってる」
シヅキは瞳を閉じ、浅草の街から聞こえる無数の鼓動を、自身の『反響定位』で感じ取った。
一方、地上ではトオルが紺炉と差し向かいで座っていた。
「トオル君。シヅキを、今まで守ってくれてありがとうな」
紺炉が、少しだけ寂しそうな、それでいて優しい笑顔で語りかける。
「……いえ。俺の方が、あいつに生かされてるようなもんですから」
トオルは、空を舞う紫色の残り火を見上げながら答えた。
「シヅキの兄貴が死ぬ間際、俺にこう言ったんだ。『あいつは、一人じゃ息もできない不器用な奴だ。だから、あいつが呼吸を忘れないように、隣でずっと名前を呼んでくれる奴を、見つけてやってくれ』ってな」
紺炉は酒を煽り、トオルの肩を叩いた。
「あの日、消防学校で三日間お前がいなかった時に、あいつが倒れただろう? ありゃあ、兄貴の死に直面した時と同じ状態だったんだ。シヅキにとって、お前はもう『ただの幼馴染』じゃない。生きていくための酸素そのものなんだよ」
トオルは拳を握りしめた。
自分が抱いていた「保護者としての責任」が、実は彼女の命そのものを支えていたのだという重みを、改めて噛み締める。
「……トオル。……ただいま」
紅丸の纏から降りてきたシヅキは、真っ先にトオルの元へ駆け寄り、彼のシャツの裾を「ぎゅっ」と掴んだ。
「……おかえり。楽しかったか?」
「……うん。……でも。……地面、落ち着く。……トオル、いるから」
シヅキはトオルの胸に顔を埋め、深く息を吸い込む。
トオルは、紺炉の言葉を思い出しながら、彼女の背中をいつもより強く抱きしめた。
「紫月。俺はどこにも行かないよ。……お前が呼吸を忘れないように、ずっと隣にいる」
「……トオル。……三語以上。……喋った。……罰。……明日、肉二倍」
「……情緒台無しだよ、お前は!」
紅丸が「カカッ」と愉快そうに笑い、紺炉がそれを見守る。
浅草の夜は更けていき、シヅキはトオルの温もりの中で、この日一番の穏やかな眠りにつこうとしていた。
🔚
第11話:おやつと、最強の肩揉み
「……トオル。……緊張、する?」
第1特殊消防隊の巨大な大聖堂を前に、シヅキはトオルの後ろに隠れながら、その裾を「ぎゅっ」と握りしめた。
「お前が来たいって言ったんだろ。……ほら、バーンズ大隊長がお待ちだぞ」
重厚な扉が開くと、そこには「最強」の二文字を体現したかのような男、レオナルド・バーンズが椅子に深く腰掛けていた。その威圧感に、普通の隊員なら蛇に睨まれた蛙のようになるところだが、シヅキは違った。
「……叔父ちゃん。……おやつ。……持ってきた?」
「はっはっは。相変わらずだな、シヅキ」
バーンズの顔が、一瞬で「親戚の叔父」のそれに和らぐ。彼は机の引き出しから、シヅキが愛してやまない老舗の羊羹を取り出した。
「お前が第5でしっかりやっているか、火華から報告は受けている。……だが、少し痩せたか?」
「……任務。……1kg。……減った」
「そうか。ならば、まずはこれを食え。戦うための燃料だ」
シヅキは羊羹をひったくるように受け取ると、トオルの隣で「もぐもぐ」と幸せそうに頬張った。その様子を、バーンズは目を細めて見守る。
「……叔父ちゃん。……お返し。……肩、貸して」
シヅキが羊羹を飲み込み、バーンズの背後に回った。
「……最強の。……肩揉み。……やる」
「……おい、紫月。バーンズ大隊長に失礼だろ……」
トオルが止めようとするが、バーンズは「構わん。こいつの指圧は、私の『ボルテージ』を上げる修行にもなるからな」と豪快に笑った。
シヅキは小さな手をバーンズの分厚い肩に乗せた。
その瞬間、彼女の瞳が『構造解析』を開始する。
(……ここ。……凝ってる。……ここ、急所。……破壊、する)
「……ふんっ!!」
シヅキが全体重を指先に込め、バーンズの肩の「核」を的確に捉えた。
バキィ! という、肉の軋む音とは思えない衝撃音が室内に響く。
「……ッ!? お、おい、大丈夫ですか!?」
トオルが青ざめる。
「……ふむ。いい刺激だ。……もう少し、右だ、シヅキ」
バーンズは微動だにせず、むしろ心地よさそうに目を閉じている。
シヅキは、バーンズから直接「生き残るための戦い方」を叩き込まれた。
それは、敵の弱点を見抜き、最小の力で最大の結果を出すこと。
彼女の肩揉みは、その教えを忠実に守った「暗殺術」に近い指圧だった。
「……終わり。……叔父ちゃん。……次、トオル」
「えっ、俺!? いや、俺はいいって……」
「……トオル。……いつも、荷物。……重い。……ご褒美」
シヅキは有無を言わさずトオルの背後に回り、バーンズに振るったのと同じ指圧を彼の肩に突き立てた。
「ぎ、ぎゃああああああっ!! 骨が、骨が折れる!!」
「……トオル。……我慢。……愛、込めた」
「愛が重すぎるんだよ!!」
その光景を見て、バーンズは腹を抱えて笑った。
「トオル。シヅキのこれは、お前を『生かそう』とする意志だ。痛みを伴うが、血の巡りは良くなる。……シヅキ、お前も良いパートナーを見つけたな」
「……うん。……トオル。……私の。……心臓」
シヅキは悶絶するトオルの背中に、ぽす、と顔を預けた。
最強の師匠の前で、彼女は「生きる」ことへの強い決意を、その小さな手で示していた。
🔚
第12話:焔ビトの、声
第1特殊消防隊での研修。大聖堂の静寂を切り裂くように、警報が鳴り響いた。
現場は地下の独房。そこには、伝導者一派によって「人為的」に焔ビト化させられた、元消防官の男が拘束されていた。
「……あ、つい……。殺して、くれ……。いや、お前らを、道連れに……!」
男の体から噴き出す炎は、どす黒く濁っている。
「鎮魂」を唱えようとするシスターの前に、シヅキが「てくてく」と歩み出た。
「……トオル。……下がって。……汚い」
「紫月? 待て、まだ鎮魂の準備が……!」
トオルの制止は届かない。シヅキの瞳は、すでに『構造解析』を終えていた。
彼女の視界には、男の絶望や苦しみなど映っていない。ただ、不規則に脈動する「バグ(熱源)」として処理されている。
「……五月蝿い。……醜い。……声、不快」
「なんだと……!? 小娘が、俺の苦しみが分かるかぁ!!」
焔ビトが叫び、鎖を引きちぎってシヅキに襲いかかる。
だが、シヅキは瞬き一つしなかった。
『焦眉の紫眼・解析完了』
「……そこ。……一番、痛い。……焼く」
シヅキの瞳に、薄紫色に輝く猛禽の紋様が浮かび上がる。
彼女の放った精密発火は、核を撃ち抜く前に、焔ビトの「痛覚神経」が集まる箇所をピンポイントで過熱した。
「ギ、アアアアアア!! 熱い! 嫌だ、殺せ! 今すぐ殺せ!!」
「……だめ。……罪。……贖え」
シヅキの表情には、怒りも悲しみもない。ただ、ゴミを処分するような淡々とした「作業」の目。
彼女にとって、意識ある焔ビトは、世界の美しさを損なう「ノイズ」でしかなかった。
「……紫月、もういい! 止めろ!!」
トオルが後ろからシヅキを羽交い締めにし、その視界を遮った。
シヅキの瞳から、ツーッと赤い筋が流れる。血の涙。脳の許容範囲を超えた演算の代償だ。
「……トオル。……離して。……まだ、燃えてる」
「もういいんだ! 鎮魂は終わった! ほら、見ろ!」
トオルが指差した先では、バーンズが自身の炎で焔ビトを完全に灰に帰していた。
シヅキはトオルの胸の中で、ようやく瞳の紋様を消した。
「……トオル。……私。……おかしい?」
「……いや。お前は、お前だ。……でも、そんな顔で笑うな」
トオルは、血の涙を流しながら「やり遂げた」と言わんばかりの無垢な表情を浮かべるシヅキを、震える手で抱きしめた。
彼女の狂気は、トオルという「鎖」がなければ、一瞬で彼女自身を焼き尽くしてしまうほど鋭利だった。
「……トオル。……眠い。……肉、食べさせて」
シヅキはトオルのシャツを真っ赤な涙で汚しながら、そのまま気絶するように眠りについた。
バーンズが重苦しい足音で近づき、二人を見下ろす。
「トオル。……この子の『眼』は、もう後戻りできない場所まで来ている。……お前が、最後までその手を離さないでやってくれ」
「……分かっています。大隊長」
トオルは、自分だけが知るシヅキの温もりと、その裏にある底なしの闇を、一生背負っていく覚悟を新たにした。
🔚
第13話:血の涙と、処刑
第1での研修最終日。地下深く、伝導者一派の「実験場」へと足を踏み入れた第5と第1の精鋭たち。
そこに待ち構えていたのは、捕らえた消防官をなぶり殺し、人為的に焔ビトへ変えて楽しむ、残虐非道な伝導者の幹部だった。
「ひゃはは! 聖陽教の犬どもが、わざわざ餌になりに来たか!」
目の前には、変わり果てた姿で、意識を保ったまま「殺してくれ」と泣き叫ぶ元同僚。
その光景を見た瞬間、シヅキの中で何かが「ぷつり」と音を立てて切れた。
「……トオル。……下がって。……掃除、する」
「紫月! 待て、今の状態でお前が能力を使えば、脳が……!」
トオルの制止を無視し、シヅキが一歩前へ出る。
彼女の瞳が、これまでにないほど禍々しい紫色に輝き、猛禽の紋様がくっきりと浮かび上がった。
「……五月蝿い。……ゴミ。……最も、苦痛な温度で。……消えろ」
『|終焉の紫淵《しゅうえんのしえん》』
シヅキの両目から、ツーッと熱い血の涙が流れ落ちる。
瞬間、実験場全体の空気が「紫色の炎」の檻へと変貌した。それは燃やすための火ではない。対象の分子を直接励起し、細胞の一つ一つを「最も苦痛を感じる温度」で正確に加熱し続ける、処刑の檻だ。
「ぎ、あああああ!? なんだ、これ……熱い、いや、痛い! 体の芯が、沸騰する……!!」
幹部がのたうち回るが、シヅキは瞬き一つしない。
彼女の視界には、敵の神経系が色鮮やかに透けて見えていた。どこを焼けば、人間が一番叫ぶのか。それを「構造解析」が冷酷に導き出している。
「……罪。……重い。……灰に、なるまで。……許さない」
シヅキの表情は、どこまでも無垢で、どこまでも残酷だった。
隣に立つバーンズですら、その「殺意の純度」に一瞬気圧される。
「……シヅキ、もういい! 終わった、もう終わりだ!!」
トオルが無理やりシヅキを後ろから抱きしめ、その視界を自分の手で遮った。
直後、檻は霧散し、後に残ったのは、原型を留めぬほど焼き尽くされた「灰」だけだった。
「……あ。……ト、オル……?」
能力を解除した瞬間、シヅキの鼻と耳からも血が伝う。
脳の血管が限界を超え、彼女の意識は急速に闇へと沈んでいく。
「……トオル。……私。……綺麗に、したよ。……褒めて」
「馬鹿野郎……! 褒めるかよ、こんなボロボロになって……!」
トオルは震える声で叫び、血まみれのシヅキを強く抱きしめた。
シヅキはトオルの胸の音を、遠のく意識の中で必死に拾い上げる。
「……トオル。……寒い。……行かないで。……ずっと、名前、呼んで」
「呼ぶさ! 何回だって呼んでやる! だから、目を開けろ、紫月!!」
トオルの絶叫が地下街に響き渡る中、シヅキは満足げに、そして「死んだように」深い眠りへと落ちていった。
その頬に残った血の涙を、トオルが指先でそっと拭う。
彼女を「怪物」にさせない唯一の鎖として、トオルは自らの運命を、この小さな少女に捧げることを改めて誓った。
🔚
第14話:1kgの代償と、震える手
第1の大聖堂、その一角にある療養室。
シヅキが重い瞼を持ち上げた時、最初に鼓膜に届いたのは、規則正しく刻まれるトオルの「心音」だった。
「……ト、オル……?」
掠れた声で呼ぶと、ベッドの傍らで椅子に座り、シヅキの手を握ったまま眠っていたトオルが弾かれたように顔を上げた。
「! ……紫月! 起きたか、気分はどうだ!?」
「……お腹、空いた。……頭、重い。……トオル、顔、ひどい」
シヅキはたどたどしく手を伸ばし、トオルの目の下の隈を指先でなぞる。
だが、トオルはその手を掴み、これまでにないほど険しい表情で彼女を見つめた。
「……ひどいのはどっちだ。鏡を見てみろ。制服のベルト、穴三つ分も余ってるぞ」
『終焉の紫淵』の代償。シヅキの体は、たった一戦で骨が浮き出るほどに痩せ細っていた。
異常な代謝が、彼女の生命力そのものを燃料にして炎を燃やした証だった。
「……トオル。……怒ってる?」
「怒ってるさ! あんな無茶をして……お前、自分が『怪物』に見えたか? 灰にするまで熱を止めなかったあんな顔、二度と見たくない!」
トオルの声が震えている。それは怒りというより、「彼女が人間でなくなってしまうこと」への恐怖だった。
シヅキは、トオルの握る手が小刻みに震えていることに気づき、静かに視線を落とした。
「……私。……ゴミ、掃除した。……トオル、守りたかった。……それだけ」
「俺を守るために、お前が死んだら意味がないんだよ! ……頼むから、俺を置いていくな。俺を一人にするな」
トオルはシヅキの細くなった肩に額を押し付け、声を殺して泣いた。
シヅキは、初めて見るトオルの脆さに、胸の奥が「キュッ」と締め付けられるのを感じた。
感情の解析は苦手だが、これだけは分かる。彼は、私を愛している。
「……トオル。……ごめん。……約束、する」
「……あ?」
「……二度と。……トオル、泣かせない。……肉、たくさん食べる。……生きてる」
シヅキは震えるトオルの頭を、バーンズから教わった「最強の肩揉み」とは正反対の、羽毛のような優しさで撫でた。
「……トオル。……大好き。……私の、全部」
三語以内のルールが、再び崩れる。
シヅキにとっての『世界』は、やはり目の前のこの男の腕の中にしかない。
その様子を、ドアの隙間から覗いていた火華とバーンズは、静かにその場を後にした。
「……全く。あの砂利共、いつまでやってるのかしら」
「はっはっは。火華、お前の言う通りだ。あの二人がいれば、シヅキが暗闇に落ちることはあるまい」
部屋の中では、シヅキがトオルの腕の中で、安らかな「日常の眠り」へと戻ろうとしていた。
命を削った1kgの代償は、トオルが買ってきた「特盛の肉弁当」で、明日から少しずつ埋めていくつもりだった。
🔚
第15話:二段ベッドの、境界線
第5特殊消防隊の宿舎。ようやく自分の部屋に戻ったシヅキとトオルを、懐かしい木の匂いが出迎えた。
「……トオル。……やっと。……自分、の、匂い」
シヅキは部屋に入るなり、重い制服を脱ぎ散らかして(トオルが反射的に拾う)、二段ベッドの下段――トオルの私物で埋まった場所へ迷わず潜り込んだ。
「おい、紫月。お前の寝床は上の段だろ。いい加減、自分のテリトリーで寝ろ」
「……やだ。……上、遠い。……酸素、薄い」
「……どんな高山だよ。はいはい、どけ」
トオルは呆れながらも、既に布団を占拠しているシヅキの隣に、無理やり体を滑り込ませた。シングルサイズのベッドに二人。肩と肩が密着し、お互いの体温が嫌でも伝わってくる。
「……トオル。……心音。……聞かせて」
シヅキはトオルの胸元に耳を寄せた。ドクン、ドクン、という力強い鼓動。地下街での処刑の記憶、血の涙、脳を焼く熱……それらすべてが、この音を聞いているだけで遠ざかっていく。
「……紫月。お前、さっき火華大隊長に『トオルと混浴してくる』って言って蹴飛ばされてただろ。あれ、本気で言ったのか?」
「……うん。……トオル。……洗うの、上手。……効率、いい」
「効率の問題じゃねえよ。……お前、もう少し自分が年頃の女だって自覚持て。俺だって、いつまで『保護者』でいられるか分かんねえんだぞ」
トオルの声が少しだけ低くなる。
シヅキは顔を上げ、トオルの顎をじっと見つめた。紫色の瞳には、もう猛禽の紋様はない。ただ、深く、淀みのない執着だけが宿っている。
「……トオル。……『保護者』、いらない。……トオル、なら。……なんでも、いい」
「……なんでも、ねえよ」
トオルは溜息をつき、シヅキの細い肩を抱き寄せた。
『終焉の紫淵』を放った後、目に見えて痩せた彼女の体は、抱きしめると折れてしまいそうなほど脆い。
「……トオル。……お願い」
「なんだよ」
「……名前。……ずっと、呼んで。……寝てる間、も。……私が、私、であるように」
シヅキにとって、深い眠りは「個」が消える恐怖と隣り合わせだ。
トオルに名前を呼ばれ続けることだけが、彼女を怪物でも兵器でもない、「紫月」という一人の少女に繋ぎ止める唯一の儀式だった。
「……ああ。呼んでやるよ。紫月。シヅキ」
トオルは彼女の耳元で、何度も、何度も、その名を囁いた。
シヅキは満足げに目を閉じ、トオルのシャツを指先でぎゅっと掴む。
「……トオル。……おやすみ。……大好き。……三語、以上」
「おやすみ。……俺もだ、バカ」
二段ベッドの下段。境界線の消えた暗闇の中で、二人の呼吸は一つに重なり、シヅキは死の淵のような深い眠りではなく、初めて「幸せな夢」へと落ちていった。
🔚
第16話:亡き兄の、幻影
その日は、不気味なほど静かな朝だった。
第5特殊消防隊に届いた一通の目撃情報。それは、浅草の境界付近で「数年前に戦死したはずの第7隊員――シヅキの実兄」に酷似した男が目撃されたというものだった。
「……トオル。……兄ちゃん。……生きてる?」
シヅキの瞳は、期待と恐怖で激しく揺れていた。トオルは彼女の手を強く握る。嫌な予感しかしない。死人は生き返らない。それがこの世界の、残酷な摂理だ。
「罠だ、紫月。……行くのはやめよう。火華大隊長に報告して――」
「……だめ。……私、行く。……確かめる。……トオル、一緒に、来て」
現場は、かつてシヅキの兄が焔ビトとの戦いで命を落とした、古い廃工場。
立ち込める霧の向こうに、人影が一つ。
「……シヅキ、か? 大きくなったな」
その声に、シヅキの心臓が跳ねた。霧の中から現れたのは、あの日失ったはずの兄の姿――だが、その瞳は白く濁り、首元には伝導者一派の「蟲」が這いずった跡があった。
「……兄ちゃん? ……本物?」
「シヅキ、危ない! 下がれ!!」
トオルが叫び、シヅキを後ろへ突き飛ばす。
直後、兄だったモノの手が発火し、トオルの胸元を掠めた。
「ひゃははは! 傑作だろう? 家族の絆をエサに、第5の『処刑人』をおびき出す。……さあ、シヅキ。大好きな兄さんを、今度は自分の手で焼いてごらんよ!」
物陰から現れた伝導者が、嘲笑と共に指示を出す。
シヅキの兄は、遺体を「リサイクル」された、魂のない焔ビトの人形と化していた。
「……あ。……あぁ……」
シヅキの『構造解析』が、無慈悲に真実を暴く。
目の前の熱源は、兄の肉体。だが、心音はない。流れる熱は、外から注入された穢れた炎。
解析すればするほど、彼女の脳は「これは兄ではないゴミだ」と結論づける。だが、その心が、指先の『精密発火』を拒絶した。
「……できない。……ト、オル。……無理。……兄ちゃん、焼けない」
シヅキの瞳から、ポタポタと透明な涙が溢れる。血の涙ではない。ただの、一人の妹としての涙。
「シヅキ、目を開けろ! そいつはもう、お前の兄貴じゃない!!」
トオルが兄の焔ビトを食い止めようと飛び出すが、強化された死体の力に押し込まれ、壁に叩きつけられた。
「……トオル!!」
「ひゃはは! まずは隣の守護者から灰にしてやろうか!」
焔ビトの拳が、倒れたトオルに振り下ろされようとした瞬間。
シヅキの瞳の色が、透明な涙を蒸発させるほどの「濃紫」へと変わった。
脳が焼けるような異音が響く。
彼女の中で、『家族への愛』が、トオルを失う恐怖という『生存本能』に塗り替えられた。
「……私の。……世界。……汚すな」
シヅキが、ゆっくりと立ち上がる。その背後には、かつてないほど巨大な猛禽の幻影が揺らめいていた。
「……兄ちゃん。……ごめん。……恩返し。……私が、終わらせる」
瞳に浮かぶ猛禽の紋様が、血の色に染まる。
シヅキの愛と狂気が、偽りの兄を「救済」ではなく「殲滅」するために解放
🔚