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目次
第1話:十センチの境界線
イーストン魔法学校。選ばれしエリートが集うこの学び舎において、アドラ寮の一室は、今まさに「嵐」に見舞われようとしていた。
「よっしゃあああああ! 今日からここが俺様の城だわな! 薔薇色の学園生活、モテ期到来、カモン女子ィ!!」
扉を蹴破らんばかりの勢いで現れたのは、燃えるような赤髪を逆立てた少年、ドット・バレット。
しかし、彼の絶叫は、部屋の先客と目が合った瞬間に霧散した。
「……うるさい。万死に値するわよ、脳内ガキ」
部屋の中央。冷え切った冬の月のような瞳が、ドットを射抜く。
黒を基調とした制服を隙なく着こなし、右目の下にはアネモネの花を模した、独特な形状のアザ。
少女――アネモネ・ロストは、不快そうに眉を寄せ、手元の魔導書をパタンと閉じた。
「……は? え、待て、女子!? しかもめちゃくちゃクールで可愛いじゃねえか! 神様サンキュー! ついに俺の時代が――」
「……別に、あんたのためにここにいるわけじゃない。手違いか定員の関係か知らないけれど、今日から同室。……それと」
アネモネはツカツカとドットに歩み寄ると、ぐい、と顎を上げて彼を見上げた。……正確には、見下ろそうと背伸びをした。
「私の身長は169センチ。あんたより高いんだから、生意気な口は叩かないことね」
実際には、ドットの視界にある彼女の頭頂部は、彼の鼻先あたりに位置している。
誰が見ても明らかな、あまりにも拙く、そして健気な嘘。
アネモネ・ロスト。その「毒」の魔法ゆえに、実の親からも「不吉」と見捨てられ、独りで生きるために作り上げた、精一杯の虚勢の|城壁《プライド》だった。
普通なら鼻で笑われるか、即座に論破される場面。
けれど、ドット・バレットという男は、普通ではなかった。
「……へぇ! 169センチか! すげえな、モデル並みじゃねえか! さすが俺のルームメイトだわな、最高にクールだぜ!」
ドットは疑うどころか、太陽のような笑顔で親指を立てた。
アネモネは絶句する。これほどまでの「全肯定」を、彼女は16年の人生で一度も受けたことがなかった。
「……脳内ガキどころか、脳内お花畑ね、あんた。……死ねばいいのに」
慌てて顔を背ける。
頬が熱い。毒系魔法使いの彼女が、生まれて初めて「中和できない熱」に当てられた瞬間だった。
「ひでえ! 出会って三秒で死刑宣告!? ……お、そうだ、俺はドット・バレット! お前の名前は?」
「……アネモネ。アネモネ・ロストよ」
彼女が名乗った瞬間、部屋の空気が微かに震えた。
彼女の指先から、無意識に「毒の茨」の先端が顔を覗かせる。近づく者を拒絶する、彼女の防衛本能。
しかし、ドットはその棘を恐れる様子もなく、ずい、と距離を詰めた。
「アネモネか! いい名前じゃねえか! よろしくな、相棒!」
「……っ、近寄らないで。私の魔法、何だか知ってるの? 触れたらただじゃ――」
「知るかよそんなん! お前が俺のダチで、最高にクールな169センチだってこと以外、知る必要ねえだろ!」
ドットの屈託のない笑顔。その「悪意」の欠片もない輝きに、アネモネの魔法はピクリとも反応しない。
毒を吐くことすら許されない、圧倒的な光。
(……なんなのよ、この生き物。調子狂うわ……)
アネモネは、心臓の鼓動がいつもより少しだけ速いことに気づかない振りをしながら、再び椅子に座り直した。
窓の外では、夕陽がアドラ寮を赤く染めている。
「太陽」のような少年と、「月」のように静かな少女。
正反対の二人が綴る、物語。
その幕は、たった十センチの嘘と、それを包み込む全肯定の光によって、今、静かに上がったのだった。
「あ、そうだアネモネ。腹減ってねえか? 隣の部屋のマッシュって奴が、シュークリーム余ってるってよ」
「……別に。万死に値するわよ」
「わはは! 素直じゃねえな! 行くぞ!」
ドットに腕を引かれ、アネモネは初めて「居場所」という名の光の中へ、一歩を踏み出した。
🔚
第2話:目覚めの毒と、太陽の眩しさ
##翌朝、午前六時。
アドラ寮の窓から差し込む朝日は、無情にもアネモネ・ロストの睡眠を打ち切った。
「……ふわぁ。……最悪。同じ部屋に、あんな騒がしいのがいるなんて」
アネモネはベッドから身を起こし、隣のベッドで大の字になって爆睡している赤髪の少年――ドット・バレットを冷ややかに見下ろした。
昨夜、彼はマッシュという男から貰ったシュークリームを「お前の分だ!」と無理やり押し付けてきた。……別に、美味しかったけれど。万死に値するわ。
「……起きなさいよ、脳内ガキ。……別に、ずっと寝ててもいいけれど」
返事はない。ドットは「モテ期……」と、およそ魔法学校の生徒とは思えない締まりのない寝言を漏らしている。
アネモネの眉間に、深い皺が寄った。
「……死ねばいいのに」
彼女はそっと指先をドットの額に向けた。
固有魔法『アネモネ・ヴェノム』。
彼女が放ったのは、殺傷能力のない、ごく微量の「腹痛」を引き起こす毒。彼女なりの、極めて攻撃的なモーニングコールだ。
「――っッッ痛エエエエ!! 腹、腹が捻れるぅぅ!!」
跳ね起きたドットが、布団の上でのた打ち回る。
アネモネは無表情に、鏡の前で身だしなみを整え始めた。
「おはよう。六時よ、169センチの私より遅く起きるなんて、いい度胸ね」
「アネモネ……お前……! 挨拶代わりに毒盛るのやめろって……痛っ、あ、あれ? 治った?」
数秒後、ドットの腹痛は嘘のように消え去った。
これが彼女の「制御」だ。嫌がらせ程度の痛みから、四時間の猶予付きの致命毒まで、彼女の意思一つで決まる。
「……別に。あんたが起きないから、細胞を少し刺激しただけ。……感謝しなさい」
「感謝できるかよ! ……でも、まあ、お前の顔見たら痛みも吹っ飛んだわな! 今日も最高にクールだぜ、アネモネ!」
ドットは腹をさすりながら、ケロリとした顔で笑いかける。
アネモネの手が止まった。
普通なら「気味が悪い」「何をするんだ」と拒絶されるはずの魔法。それを、彼は「おはよう」と同じ熱量で受け入れている。
「……脳内お花畑も、ここまで来ると病気ね」
彼女は動揺を隠すように、脱ぎ捨てられていた厚底の靴を履いた。
これで、彼女は再び「169センチ」の虚勢を纏う。
二人が食堂へ向かうと、そこには既にマッシュとフィンが座っていた。
「あ、おはよう。ドットくん、アネモネさん」
「おはよう。……アネモネさん、今日も高いね。プロテイン、何飲んでるの?」
マッシュが真顔でシュークリームを差し出しながら尋ねる。
アネモネは一瞬、言葉に詰まった。
「……別に。……ただの成長期よ」
「ふーん。僕もそれくらい大きくなりたいな。壁を壊すときに便利そうだし」
「マッシュくん、身長で壁を壊すのはおかしいよ……」
フィンのツッコミをBGMに、アネモネはドットの隣に座った。
周囲の視線が刺さる。「あの毒使いのアネモネが、なぜドットと?」という好奇と畏怖の混じった目。
アネモネは俯き、自分のアザを隠すように髪を弄った。
――その時。
ドットが、テーブルをガツンと叩いた。
「おい、そこらへんの連中! 俺様の連れをジロジロ見てんじゃねえぞ! 見惚れるのは勝手だが、アネモネは俺とマッシュのダチなんだわな! 文句あんのか!」
ドットの威嚇。
それは、アネモネが最も恐れていた「特別視」を、強引に「守るべきもの」へと塗り替える咆哮だった。
「……余計なことしないで。万死に値するわ」
「へへっ、いいんだよ。お前は俺の後ろで、ふんぞり返ってりゃいいの!」
ドットはアネモネの皿に勝手にサラダを盛り付ける。
アネモネは、毒を吐くことすら忘れて、その横顔を盗み見た。
(太陽……。本当に、この男は……)
彼女の心に巣食う「孤独」という名の猛毒が、ドット・バレットというあまりにも眩しい光によって、少しずつ、けれど確実に中和されていく。
しかし、そんな二人の様子を、遠くから冷ややかな目で見つめる影があった。
「毒」を「不吉」と断じる、この世界の歪んだ正義が、彼女を放っておくはずもなかった。
🔚
第3話:毒の茨と、烈火の加護
イーストン魔法学校の外郭、演習場。
本日の授業は「魔力による拘束と無力化」の実技演習だった。
「……最悪。外の空気、乾燥してて肌に悪そう」
アネモネは、169センチ(自称)の視点から周囲を見下ろし、ぶっきらぼうに呟いた。
隣ではドットが「おらぁ! 見ろアネモネ! 俺の魔力、今日も絶好調だわな!」と、無意味に火花を散らしている。
その時、クスクスという嫌な笑い声が聞こえた。
他寮の男子生徒数人が、アネモネの右目の下の「花のアザ」を指さして囁き合っている。
「おい、見ろよ。あれが『ロスト家』の生き残りだろ? 触れるだけで内臓を腐らせるっていう……」
「うわ、不吉だな。あんな毒使い、同じ学校にいてほしくないよな。空気まで腐りそうだ」
アネモネの背筋が、一瞬で凍りついた。
慣れているはずだった。幼少期から、実の親にすら「気味が悪い」と遠ざけられてきた言葉たち。
彼女は無意識に、一歩、ドットから距離を置いた。
(……別に。いつものこと。……私が近くにいたら、この脳内ガキまで汚れてしまう)
アネモネは冷めた瞳で地面を見つめ、自身の魔法『アネモネ・ヴェノム』の触手を指先に凝縮させた。
相手を黙らせる程度の毒を放とうとした、その瞬間。
「――おい。今、なんて言った?」
低く、地這うような声。
アネモネが驚いて顔を上げると、そこには、いつものお調子者な顔を捨て、鬼のような形相に変貌したドットが立っていた。
「ひっ、バレット……! 何だよ、事実だろ! その女の魔法は――」
「事実だぁ? ……ああ、事実だな。アネモネの魔法は、お前らみたいなクソの腐った『悪意』にだけ反応する、最高に高潔な魔法だわな!」
ドットの全身から、爆発的な炎が噴き出した。
演習場の気温が、一気に数度跳ね上がる。
「謝れ。今すぐ、アネモネに謝れ。さもねえと、その薄汚え口ごと焼き尽くしてやるぞコラァ!!」
「ど、ドット! やめなよ、減点されちゃうよ!」
慌ててフィンが止めに入るが、ドットの怒りは収まらない。
アネモネは、呆然とその背中を見つめていた。
自分を「汚い」と言った者たちに対し、自分以上に怒り、自分を「高潔」だと叫ぶ男。
「……別に。……いいわよ、ドット。万死に値する奴らなんて、放っておけばいい」
「良くねえよ! 俺が良くねえんだわ! アネモネ、お前は……お前は、俺が認めた世界一クールな相棒なんだよ!」
ドットが振り返り、アネモネの肩を掴んだ。
彼の熱い掌が、アネモネの制服越しに伝わる。
アネモネの毒は、彼には一切、一ミリも作用しない。
「……っ、脳内ガキのくせに、偉そうに……」
アネモネは涙目になりながらも、フイッと顔を背けた。
けれど、その手は静かに、ドットの制服の袖をギュッと握りしめていた。
「……四時間」
「あ? 何がだ?」
「……四時間以内に謝ったら、許してあげなくもないわ。……あんたが、そう言うなら」
アネモネは、自慢の毒の茨を「攻撃」ではなく、ドットを守る「盾」のように周囲に展開した。
毒と炎。
不吉と忌み嫌われた力が、太陽のような光と混ざり合い、美しく演習場を彩った。
遠くでマッシュがシュークリームを頬張りながら、「二人の結婚式、ケーキの代わりに火薬と毒薬を混ぜたら爆発するかな」と、物騒な祝福を呟いていた。
🔚
第4話:不和雷同な心臓と、四時間の猶予
演習場での一件以来、アネモネ・ロストの心臓は、どうにも「万死に値する」ほど調子が悪い。
ドットが自分を「高潔」だと言い切ったあの瞬間から、彼の顔を見るたびに、胸の奥が毒に冒されたように熱くなるのだ。
「……別に。ただの体調不良よ。……そう、きっと風邪の類ね」
寮の部屋。アネモネは169センチ(自称)の矜持を保つため、背筋をピンと伸ばして鏡に向かっていた。
そこへ、当の「熱の源」が鼻歌まじりに帰ってくる。
「おーいアネモネ! マッシュの野郎からシュークリームの新作……『毒消しミント味』とかいう怪しいの貰ったぞ! 一緒に食おうぜ!」
「……っ! 勝手に入ってこないでって言ってるでしょ、脳内ガキ!」
反射的に放った毒の茨が、ドットの足元を掠める。
だが、ドットは「おっと危ねえ!」と笑いながら、当たり前のように彼女のパーソナルスペースへと踏み込んできた。
「なんだよ、まだ怒ってんのか? 昨日の連中なら、マッシュが『間違えて』壁ごと埋めてたから安心しろよ」
「……誰がそんな心配してるのよ。私は、あんたが……あんたが、あんまりにも無防備だから……」
アネモネの声が小さくなる。
ドットはアネモネの隣にドカリと座ると、箱からシュークリームを取り出した。
「ほら、食え。お前、昨日からあんま食ってねえだろ。……お前が倒れたら、俺様の『全肯定』の対象がいなくなって困るんだわな」
「……っ」
不意打ちの言葉に、アネモネの顔が林檎のように赤く染まる。
彼女は震える手でシュークリームを受け取ると、小さな口で齧り付いた。ミントの清涼感が広がるが、顔の熱は引くどころか増していく。
「……四時間」
「あ? またそれか。何が四時間なんだよ」
「……四時間以内に、あんたがその……『脳内ガキ』な発言をやめなかったら、本当に致命毒を盛るわよって意味よ」
それは、彼女なりの照れ隠しであり、甘えだった。
本当は「四時間」なんていらない。今すぐ、彼に「好き」と言ってほしい。……いや、そんな恥ずかしいこと、万死に値する。
「あはは!百年経ってもやめねえぞ!お前を褒めるのは俺様のライフワークだからな!」
「……死ね。本当に死ねばいいのに、あんたなんて」
アネモネは涙目になりながら、ドットの肩にこつんと頭を預けた。
169センチを自称する彼女が、自分より少しだけ背の高い彼の肩に収まる、矛盾した幸福。
その時、ガチャリと扉が開いた。
「二人とも、合同結婚式のパンフレット持ってきたわよぉ!」
「レモンさん、流石に気が早すぎるよ……。あ、ごめん、お邪魔だった?」
暴走するレモンと、苦労性のフィン。その後ろでマッシュが「シュークリーム、もう一個いる?」とマイペースに佇んでいる。
「……っ!! 万死に値するわよ、全員!!」
アネモネは立ち上がり、顔から火が出るほどの勢いで部屋を飛び出した。
その後を、「待てよアネモネー! まだ食い終わってねえだろ!」とドットが追いかけていく。
騒がしい廊下。
アネモネは走りながら、微かに微笑んでいた。
孤独だった少女の傍には、今、太陽のような光と、それを囲む賑やかな仲間たちがいる。
――けれど、幸せな時間は長くは続かない。
次なる「悪意」の足音が、静かに学園の門を叩こうとしていた。
🔚
第5話:『ロスト』の再来と、剥がれた嘘
イーストン校の廊下に、カツカツと不快な靴音が響く。
アネモネはその音を聞いた瞬間、全身の血が逆流するような戦慄を覚えた。
「……あら。あんなに気味が悪い『毒虫』だったのに、随分と立派な制服を着せてもらえたのね。アネモネ」
声をかけてきたのは、豪華な毛皮を纏った中年女性。アネモネの親族であり、幼少期に彼女を「不吉」として納屋に閉じ込めた張本人だった。
「……何しに、来たの。万死に値するわよ、貴方」
アネモネの声が震える。右目の下のアザが、ドクドクと脈打つ。
女性は蔑むような笑みを浮かべ、アネモネを足元からじっくりと眺めた。
「相変わらず、無意味に背筋を伸ばして。……滑稽だわ。本当は自分を誰も愛してくれない、小さくて惨めな子供だとバレるのが怖いのね? だからそんな底の厚い靴を履いて、嘘をついて……」
「やめて……」
「毒で人を遠ざけ、嘘で自分を大きく見せる。名前の通り、貴方は誰からも『見捨てられた(ロスト)』存在なのよ」
アネモネの膝がガクリと折れそうになる。
169cm。その数字は、彼女が自分を保つための唯一の武装。
それが剥がされようとしたその時、廊下の角から猛烈な勢いで「炎」が飛んできた。
「――おい。誰の許可得て、俺様の相棒に講釈垂れてんだよ。あぁ!?」
ドット・バレット。
彼はアネモネの前に割って入ると、親族の女性を睨みつけた。
「あんた、さっきから聞いてりゃ失礼すぎるだろ! アネモネが『毒』だぁ? 『見捨てられた』だぁ? ……笑わせんな。こいつは今、俺が全力で囲い込んでる『俺の特別』なんだわな!」
「何ですって……? こんな不吉な娘と関わるなんて、貴方も頭が――」
「ああ、お花畑だわな! だがな、アネモネの靴が厚かろうが、嘘ついてようが、そんなの関係ねえんだよ!」
ドットは振り返り、震えるアネモネの手を無理やり、けれど優しく握った。
「10センチ分、不安だったんだろ? だったらよ、残りの人生で俺が10メートル分、お前のことを『最高だ』って言い続けて埋めてやるよ!」
「……ドット……」
女性が毒づきながら去っていく中、アネモネはその場にへたり込んだ。
脱げた靴。露わになった、159cmの本当の自分。
「……嘘、ついてたの。私は、あんたよりずっと小さくて、弱くて……」
「知ってるっつーの! 出会った瞬間にわかってたわ!」
「……え?」
ドットは地面に座り込み、彼女と目線を合わせた。
「お前が一生懸命背伸びしてるのが、最高に健気で可愛かったから合わせてただけだ。……159センチのアネモネ。……最高にクールじゃねえか。俺が守るのに、ちょうどいいサイズだわな」
アネモネの目から、初めて「毒」ではない、温かな涙が溢れ出した。
「見捨てられた花」は、太陽の熱によって、ようやく本当の姿で咲き始めたのだ。
「……四時間。……じゃなくて、一生。万死に値するくらい、後悔させてあげるわよ。私を、選んだこと」
「おう! 望むところだわな!」
🔚
第6話:確信犯と、甘い毒の副作用
アドラ寮の朝。
かつてのような「攻撃的な腹痛」ではなく、最近のアネモネがドットを起こす方法は、少しだけ変化していた。
「……起きなさいよ。……別に、ずっと寝顔を見ていたいわけじゃないけれど」
アネモネはドットの頬を、片手でぺちぺちと叩く。
かつての底上げ靴を履かなくなった彼女の視界は、ドットを見上げる位置にある。その事実が、今の彼女には酷く心地よかった。
「んぅ……お、アネモネ……。おはよ……今日も159センチ、最高に可愛いわな……」
「……万死に値するわよ(赤面)」
そんな二人の「甘い毒」が充満した部屋に、無遠慮な足音が近づいてくる。
「あ、おはよう。今日も朝からイチャイチャしてるね。シュークリーム食べる?」
壁……ではなく、ドアから普通に入ってきたマッシュが、平然と言い放つ。
その後ろでは、フィンが顔を真っ青にしながらツッコミを待機させていた。
「マッシュくん! 『イチャイチャ』とか直球で言っちゃダメだよ! アネモネさんの顔が毒の色みたいに真っ赤だよ!」
「……っ! 別に、そんなんじゃないわよ! こいつが、脳内ガキのくせに、変な寝言を言うから……!」
アネモネは慌てて距離を取るが、寝ぼけたドットが彼女の手首を掴んで引き寄せる。
「いいじゃねえかフィン! 俺とアネモネは、運命のルームメイトなんだわな! なあ、アネモネ!」
「……死ね。今すぐ死んで」
言葉とは裏腹に、アネモネの指先から出たのは、微かにイチゴの香りがする「精神安定の胞子」だった。殺意ゼロ、むしろ愛情100%の副作用。
「これ……もう付き合ってるよね? 告白とかいう段階、飛ばしてるよね?」
フィンの魂の叫びが空虚に響く。
しかし、そんな平和な光景をぶち壊すように、廊下に冷徹な空気が流れた。
「アドラ寮の1年生か。騒がしいな」
現れたのは、3本線のアザを持つ神覚者、レイン・エイムズだった。
彼の鋭い視線が、アネモネに向けられる。
「アネモネ・ロスト。お前の『毒』、先日の演習で見せてもらった。……『悪意にのみ反応する魔法』、それは極めて稀有な資質だ」
「……レイン、先輩……」
アネモネの体が強張る。エリート中のエリートである神覚者が、自分のような「不吉な毒」に何の用があるのか。
すかさず、ドットがアネモネを背中に隠し、レインを睨みつけた。
「おい、神覚者サマがアネモネに何の用だ? こいつを魔法局の道具にしようってんなら、俺様が黙ってねえぞ!」
「……黙れ、赤髪。俺は、彼女の『意志』を聞きに来ただけだ」
レインは一羽のウサギを撫でながら、アネモネを真っ直ぐに見つめた。
「お前の毒は、使い方次第で多くの命を救う。……だが、それには強力な『盾』が必要だ。この騒がしい男が、その盾になれるかどうか……試させてもらうぞ」
神覚者からの事実上の挑戦状。
アネモネはドットの制服の裾をぎゅっと握る。
第7話:神覚者の審判と、折れない盾
アドラ寮の廊下。レイン・エイムズの放つ重圧に、フィンの喉がヒクリと鳴った。
だが、ドット・バレットだけは退かない。アネモネを背中に隠したまま、一歩も引かずにレインを睨みつける。
「試すだぁ? 上等だわな! 神覚者だろうがウサギ好きだろうが、アネモネに指一本触れさせねえぞ!」
「……威勢だけはいいな。だが、言葉より重いのが魔法の世界だ」
レインが杖を軽く振ると、無数の剣が空中に現れた。パルチザン――その鋭利な刃先が、ドットではなく、敢えて背後のアネモネへと向けられる。
「っ……!」
アネモネは身を硬くした。彼女の『毒』は悪意に反応する。だが、目の前の男にあるのは純粋な「義務」と「選別」。彼女の防衛本能である毒の茨は、対象が「無機質な強者」である場合、その鋭さを失ってしまう。
「アネモネ、動くなっ!」
ドットが叫ぶ。レインの剣が、容赦なく放たれた。
ドットは自身の身を盾にするように飛び込み、爆破魔法で迎撃を試みるが、格上の神覚者の魔法は一筋縄ではいかない。剣の一振りがドットの肩を掠め、鮮血が舞った。
「ドット……! もういいわ、私が出る! あんたが傷つく必要なんて――」
「黙ってろっつーの! 『万死に値する』んだろ、俺が傷つくのは!」
ドットは肩を抑えながら、不敵に笑った。その瞳には、恐怖ではなく、狂気すら孕んだ執着が宿っている。
「お前はよ、その毒でいつか誰かを救うんだろ? だったら、お前の手が汚れる前に、俺が全部ぶっ壊してやるよ。俺は『全肯定』の男だ。お前の前を塞ぐモンは、神覚者だろうが運命だろうが、俺様が焼き尽くすんだわな!」
ドットの魔力が膨れ上がる。感情に呼応して、彼の額に浮き出る紋章――。
それを見たレインは、僅かに目を細め、召喚していた剣を消した。
「……フン。暑苦しい男だ」
「……あ? 逃げんのかコラ!」
「試験は終了だ。アネモネ・ロスト。お前の毒は、この『壊れた盾』があれば暴走することはないだろう。……精々、その盾が錆びないよう磨いておくんだな」
レインは翻すと、何食わぬ顔で去っていく。
静まり返る廊下。ドットは「勝ったぞ!」と言わんばかりに鼻を鳴らしたが、すぐに膝から崩れ落ちた。
「ドット!!」
アネモネが駆け寄り、彼を抱き止める。
彼女の手から、治癒を促す微弱な毒が溢れ出した。
「馬鹿ね……本当に脳内ガキ。死んだらどうするのよ。万死に値するわ、本当に……」
「へへ……。泣くなよアネモネ。159センチのくせに、俺よりデカい涙流してんじゃねえよ……」
アネモネの瞳からこぼれた涙が、ドットの頬に落ちる。
神覚者にさえ認めさせた、あまりにも無謀で熱い絆。
だが、ドットは気づいていなかった。アネモネの毒が、彼の傷を癒すと同時に、彼女の心に「絶対にこの男を離さない」という、誰よりも深い執着の毒を回してしまったことに。
「……ドット。もう、四時間なんて猶予はやめるわ」
「え?」
「一生、あんたを私の毒で縛ってあげる。……覚悟しなさいよ」
アドラ寮の片隅で、少女は密かに決意する。
それは、恋よりも重く、呪いよりも甘い、彼女なりの愛の宣誓だった
🔚