名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
1話 オープニング
嗅覚に頼ってばかりいると、見落とすものがあるかもしれない。
そう考えてからのケイトの瞳孔は開きっぱなしだ。
目が乾く。ときどき立ち止まっては、まばたきをくり返す。涙がにじみ出てきた。
小型ライトを持っていないほうの手で雑に涙をぬぐい、ケイトはまた歩く。
ここはもう、ケイトが知っている場所ではない。ふだんは生徒が入れないところに、きっと侵入してしまっている。
それはつまり、隠し場所にはうってつけだ。
ケイトの歩みは止まらない。
「……」
無だったケイトの心に、ふと、疑問がわく。
──いま、何時だ?
歩みを止める時間が惜しいが、確認はしておきたい。窓の外を見るだけでは限界がある。
いったん立ち止まる。しまいっぱなしだったスマホを手に取る。画面をつける。
一時十五分。まだ余裕はある。けれど、タイムリミットは確実に近づいている。
ユニーク魔法で増やしたケイトたちからの合図はまだ来ない。先に見つけるのはオリジナルのケイトか、分身体のケイトたちか。
望みを叶えられるのなら、どちらでもいい。
ケイトはスマホをしまう。
また歩く。
しんと静まっている廊下を。空いている部屋の中を。隠し扉があるかもしれない角を。ひたすらに。
無心で、ひたすらに、くまなく探し続ける。
一時三十分。エースはまだ見つからない。
2話 デュースの告白
「実は、僕たち……お付き合い、してるんだ」
「いや、もうみんな気づいてるわ」
ポテトをつまんでいたエースの返答に、デュースは驚く。
まったく予想していなかったデュースとは反対に、「そうだろうな」とジャックは冷静だった。
重ねて驚いたデュースは、見開かれた目のまま、真横を見る。
「な!? ジャックは知ってたのか!? こいつらに気づかれてたことを!」
「だって二人とも、距離が近かったからね」
代わりに答えたのは、口に入れていたハンバーガーを飲み込んだエペルだ。
「ほら、いまだってジャッククン、デュースクンのすぐ隣にいる」
デュースは慌てながら言う。
「これは、僕たちが付き合ってることを、お前たちに明かすために」
「うん。今日だけじゃないよね。だから、気づくなと言われるほうが難しい……かな」
「そーそー。ベタベタくっついちゃってさあ。オレらだって最初はただの部活のノリかなーって思ったぜ? それか罰ゲーム」
エースに想いを疑われたジャックは吠える。
「罰じゃねえよ!」
「本気にすんな! いまは思ってねえよ! はーっ、これだから一途すぎるやつは。もっと余裕を持ったほうがいいんじゃねーの?」
呆れたようにエースは言い放った。広げた紙ナプキンの上でポテトの容器をひっくり返して、底に溜まっていたポテトをすべて出した。
短いものばかり残ったポテトの群れに、先に手を突っ込んだのはジャックだった。
真正面から堂々と奪われたエースはジャックをにらむ。
「あっ、テメー!」
「ふん。お前こそ、余裕を持って周りを見ろ」
小競り合いを始めそうな雰囲気の中。
「付き合っていることに気づかれていたことをすでに知っていた、ということは」
割り込んだのはセベクの声だ。
あと一口というところまで小さくなったハンバーガーを片手でつまみながら、セベクは続けて言う。
「いわゆる、その……」
しかし、声はすぐに途絶えた。
しびれを切らしたジャックは急かす。
「なんだ。はっきり言え」
「ぐ……! その、だな……!」
「セベク、体調が悪いのか? 顔が赤いぞ」
「デュースクンは黙ってて」
セベクが何を言いたいのか、エースは察してしまった。
見守ること、数秒。セベクは意を決する。
「いわゆる『牽制』というやつか!?」
「声がでけぇ!!」
ジャックは耳を伏せながら叫んだ。
「もう、二人とも。大声を出さないで」
静観していたオルトは注意しながら、二人にジュースを差し出した。遠回しに、黙って、と言っている。
「ここは、お店の中なんだからね。迷惑行為、ダメ、絶対」
──そうだ。ここは、いつも集まっていた、あの場所じゃない。
──誰でも入れる、ただの飲食店だ。
顔がわずかに固まったエースに、友人たちは気づかない。他の客たちに注がれる視線に目を向けて、気まずそうに頭を下げていた。
いち早く気を取り直したエペルは、視線を友人たちに戻す。残り一口のハンバーガーをパクリと食べたセベクに問いかける。
「ええと、ケンセイって、あの牽制、だよね。勝手なことをさせないって意味の」
差し出されたジュースを飲もうとしていたセベクが、ぎくりと止まる。声量を落として、しかし顔はまだほんのり赤らめたまま「そうだ」と答えた。
「僕もシルバーも、他の従者たちも、よくやっていることだ。若様のそばに常に付き従い、危険人物を近づけさせない」
「ああ、だから『牽制』」
「え? どういうことだ?」
理解したエペルたちをよそに、デュースだけがまだ理解していない。
オルトが答える。
「ジャック・ハウルさんは、デュース・スペードさんにずっとくっついて、危険な人を近づけさせないようにしている、ということだよ」
「んん……?」
「つーまーりー」
エースはからかいの表情を貼り付けながら、デュースに言う。
「ジャックはお前がめちゃくちゃ好きだから、誰にも取られないように、ずーっと、一緒に、いるんだよ」
ポカンと口を開けるデュース。首からつむじに向かって、じわじわと赤くなっていく。
いつのまにか、ジャックの顔も赤い。
うぶな二人を見て、逆にセベクは照れから抜け出したようだ。顔色が元に戻っている。
「僕はどうかしていたようだ。若様への敬愛を、お前たちの恋愛と同一視していたとは」
つまり、マレウスを敬う自分の心を、ただの恋愛と同じ扱いをしてしまったことに、恥じていただけなのだと言いたいようだ。
エースは小さな怒りを覚える。
友人同士の恋愛を感じて、純粋に照れていたことを、よほど認めたくないらしい。
セベクをつつきたくなった。
「いや、お前はただ単に、よその恋愛にあてられただけだろ」
セベクは反論する。
「違う!! 若様と関係ないことに心を乱されるなど、ましてや、て、照れるなど、ありえん!!」
「ああ、悪い悪い。ピュアピュアセベクくんには刺激が強すぎたかなー?」
「貴様あ!! そこになおれ!!」
「えー? どう『なおれ』って? オレもうイスに座ってんだけど? まさか地べたに座れ、なんて言わねえよなあ? 店ん中でそんなことしたら、すげー迷惑だってわかんねえの?」
「わ、わかるに決まってるだろう!?」
見かねたエペルが仲裁する。
「セベククン、あきらめようよ。エースクンに口げんかで勝てるわけない、かな」
「しかしだな……!」
なおも言い募ろうとするセベクから目を離したエペルは、セベクを止めてもらおうと、残りの三人を見る。
「デュースクンたちも、セベククンたちを……」
止めて、と言いかけた口は、それ以上動かなかった。
デュースが目を輝かせながら、ジャックの手を取っているところを、見てしまったからだ。
「すまなかった、ジャック! お前の真心に気づけなくて!」
「いや、それは、別に」
「僕もお前が大好きだ! 危険なことがあったら言ってくれ! 必ず守る! これからも一緒にいよう!」
「わかった。わかったから……!」
一方的な口げんかを続けているコンビと、一方的な告白を続けているカップル。
エペルは遠い目をする。
「こいつらめんどぐせ」
そして二組の声量は大きかった。
「規定値を超える音量を確認。ただちに退店することを推奨します」
オルトの警告を受けた五人。そのうちの四人の声がピタリと止まる。
ようやく過ちに気づけたようだ。
顔をしかめている客たちの視線をまばらに受けながら、五人は急いで残りをたいらげていく。
もともと残りが少なかったおかげで、食べきるのに十秒もかからなかった。だが一人ずつ会計を済ませていたせいで、トータルでは遅い退店となった。
近くの広場に移動する一同。オルトはエペルを除く四人をしかる。
「もう! 騒いだらダメって言ったのに!」
「だって、なあ……」
エースは続きを言いかけて、やめた。
この先を言いたくなくなったからだ。
なのにデュースが続きを言う。
「オンボロ寮にいたときのクセで、つい声が出てしまうんだ」
オンボロ寮は閉鎖されていて、もう誰も入れない。集まれない。
家主たちがいないからだ。
全員、口をつぐむ。
──こうなるから、言いたくなかったのに。
重くなった空気を払うかのように、エースは明るい声を出す。
「やめやめ、しめっぽいのは! こんなんじゃあ、あいつらに笑われちまうぞ!」
エペルは苦しそうに、けれど笑う。
「そう、かな。……うん。そうだね」
ジャックとオルトとセベクが続く。
「あいつら、いい性格してるからな。笑うどころか、煽ってきそうだ」
「うん! きっと元気でやってるよ!」
「特にあの人間! あちらの世界でも、若様の素晴らしさを伝えているに違いない!!」
「それはない」
エースはつい突っ込んだ。
暗い顔をしていたデュースは、前向きな友人たちの姿を見て、次第に明るくなっていく。
「監督生とグリムがいなくなっても、僕たちの絆は消えない、ということだな!」
くさいセリフだなと、エースは思う。
そして、そうであってほしいとも思う。
監督生は異世界に帰っていった。
相棒を失ったグリムはどこかに旅立っていった。
エースたちは変わらず学園に在籍している。
まるで最初から監督生とグリムがいなかったかのように、世界は回り続けている。
それでも、彼らがいた事実は消えていない。確かにエースたちの中に根付いている。
デュースがジャックに近寄る。ジャックは当然、受け入れる。
やわらかい笑顔で、二人は見つめ合っている。
監督生とグリムを思い出しているのだろう。そして、自分たちが同じ地に存在していることに、感謝しているのだろう。
エースの心の孤独に気づかずに。
──お前らはいいよな。そばにいられて。
──オレはもう、監督生に会えないのに。
──どうしてオレは、監督生に恋をしてしまったんだ。
デュースとジャックの距離が近いのは、ただの部活のノリで、罰ゲームであってほしかった。付き合っていることに、気づきたくなかった。
嫉妬で、おかしくなってしまいそうだ。
それでもエースは二人を祝福する。
もう叶わない自分の恋心を、ひた隠しにしながら。
3話 エースが見た夢
デュースとジャックの交際が明かされた日の夜。エースは夢を見た。
監督生がまだオンボロ寮にいた頃。
エースが監督生に恋をした日を、再現したものだった。
---
あれは休日の朝だった。オンボロ寮に遊びに行き、談話室の扉を開いた、あの光景。
朝日が差す窓に背を向けて、監督生は筆を持ちながらキャンバスに向かい、絵を描いていた。
音を立てて扉を開けたのに、監督生はエースを見ない。気づいていないのか、無視をしているのか。エースには判断がつかない。
エースは監督生に近づき、絵を覗く。
ピンク色が占めている絵は、色だけを見れば、フラミンゴ当番が着る服を思い出させる。けれど、りんかくは服の形をしていない。花弁のように見えた。
エースは問いかける。
──なあ。なに描いてんだ?
監督生は描きかけの絵からエースへ視線をうつして、答える。
──桜だよ。僕の故郷の花なんだ。
エースの予想通り、絵の正体は花弁だった。
監督生はイスから立つ。パレットと筆をしまい、イスの座面に置く。絵画用の分厚いエプロンのヒモに手をかけている。監督生自身の手で、エプロンが剥がされていく。
そこでようやくエースは、監督生が着けていたエプロンの異様さに気がついた。
剥がされたエプロンには、生地のほつれも傷みも見当たらない。だからまだ新品のはずだ。
なのにもう、ピンク色の絵の具の汚れが無数にあった。
他の色の汚れは、一つも無い。
ピンク色の花の絵を描くためだけにしか使われていないエプロンを、監督生は着ていたのだ。
監督生は、いったいどれほど、一色だけの絵を描いていったのか。
故郷の花のかけらをひたすら描くほどの、狂気じみた郷愁に駆られているのか。
故郷も家族も、この世界にあるエースには想像できない。
イスの座面に置いていた筆とパレットを、監督生は再び持つ。たたんだエプロンの上に乗せる。背後の窓際へ歩いて、壁に寄せられたテーブルの上に、道具一式を置いている。
何となくエースは監督生を観察していた。
だから、まともに見てしまった。
白い朝日でりんかくを縁取られる、監督生の顔。
異世界を一途に想う、憂いをふくんだ表情。
伏せられた瞳は、窓越しの日光を浴びて、輝いている。
監督生が窓際から離れるまでの、一瞬。瞳がエースに向けられた。
きらめく瞳の奥は、真っ黒だった。
監督生は困ったように笑う。
──待たせたかな?
あの黒い瞳は、いつもの優しさをはらんだ黒に戻っていた。
エースはハッとして、答える。
──いいや、ぜんぜん待ってねえよ。
いつもなら、からかいの言葉の一つはかけていたのに、頭が働かなかった。
監督生は談話室から出ていった。来客用の飲み物を用意するために。
一人、残されたエースは、胸をおさえる。
心臓がうるさい。体が熱い。花への狂愛をはらんだ黒が、目に焼きついて離れない。
──これは、恋だ。
──だってずっと、あの一瞬を忘れられない。
直感は正しかった。
あの日以来、エースは監督生に心を奪われたままだ。
泣いて嫌がるエースたちを置いて、異世界に帰っていっても、監督生はエースの心を奪ったままだ。
エースは願う。
心も、監督生も、返してほしいと。
願いは叶えられなかった。
──だからオレはこんなにも、苦しくて悲しいのに。
──なんでデュースは、平気でいるんだ?
── 監督生が帰るとき、オレたちと一緒に泣いてたよな?
──ジャックとの恋を叶えたからか?
──だから、監督生がいなくなっても、笑えているのか?
デュースに向けているようで、実際はエース自身に向けている問いかけは、もう無意味だ。
デュースの口から、交際を明かされてしまったせいで、見ないふりは、もうできないから。
---
「……だからいまさら、こんなクソな夢を見たってのか?」
夢から覚めたエースは起き抜けに、掛け布団の中でうらみごとをつぶやいた。
けれど本当にデュースをうらむつもりは無い。
むしろ祝福したいのだ。ともに困難を乗り越えてきた、大事な友人の幸せを、嫉妬で汚したくない。
二度寝をするにはびみょうな時間。エースはそっとベッドから出る。デュースのベッドを見る。朝練に行っているのか、ベッドは空だった。
他のルームメイトがまだ寝ているのをいいことに、エースは無意識につめていた息を大げさに吐く。
のそのそと身じたくを整えて、部屋から出る。廊下を歩く。洗面室に入り、広い共用洗面台の前に着く。
顔を洗っても、頭がスッキリしない。どことなく、のどの奥がムズムズする。
「風邪か? でも寒気はしねえし……」
鏡を見ても、顔色はさほど悪くない。はっきりしない体調不良。でも授業に出なくてもいい理由にはなる。ここで顔にスートを描かずに部屋に戻っても、ズル休みにはならないはずだ。
なのにエースは洗面台の前に突っ立ったままだ。
しばらくぼんやりしていると、やがてリドルがやってきた。
「おはよう。今朝は早いんだね」
エースはリドルを見る。寮長室には簡易洗面台があるおかげか、彼の化粧はすでに済んでいた。
「あー……おはよーございます」
「まだ眠いようだね。あとの寮生の邪魔にならないよう、早く顔を洗って、化粧を済ませるべきだ」
「もう顔は洗いました」
「なら化粧をおしよ」
「はーい」
ようやく化粧道具を取り出したエースを確認してから、リドルは洗面室から出ていこうとする。
部屋の出入り口をくぐる前に、リドルは言う。
「朝練に遅れた寮生がいたのかと思ったけど、そうではないようだね」
「デュースなら、もう行ったみたいですよ」
リドルの足が止まった。振り返り、エースを見る。ほほ笑みながら、言う。
「デュースに限った話ではないだろう。本当に君たちは仲がよろしいんだね」
かけられた言葉が、いまは重い。
「そこまでじゃありませんって」
「強がりはおよしよ」
そう言い残し、今度こそリドルは出ていった。
一見すると元気なエースの様子を、リドルに認知されてしまった。いま休むと、ズル休みだと思われかねない。
自主休講をあきらめたエースは化粧を始める。慣れた作業だ。仕上げのスートを描くまでにかかった時間は数分程度。
仕上がった顔を見る。いつものエースそのものだ。
何も考えずに作業に没頭していたおかげで、のどの違和感はだいぶ薄れている。このまま無くなってしまえばいい。
「うし、行くか」
教室に行くにはまだ早いが、たまには一番乗りを目指す。担任のクルーウェルからの評価が上がるかもしれない。
エースは洗面室から出ていった。
4話 発症
誰もいない教室。
ひまつぶしにスマホを触っているうちに、人が増えていく。
どんどん席が埋まっていく。エースが座っている席の隣は空けられたままだ。
あと五分で授業が始まる。空けられた席に、デュースが座ってきた。
「おはよう、エース」
「お……はよ」
デュースの顔を見た瞬間、忘れていた違和感が、よみがえってくる。
「どうしたんだ? のどが詰まったのか?」
デュースの言う通り、本当にのどが詰まったような気がした。
思わずエースはのどを触る。
「なんか、変な感じがする」
「大丈夫なのか?」
「おう」
答えてから、いっそ体調不良をいいわけにして、席を立てばよかったと後悔する。
本当は具合が悪いのだと訂正しても、いまさらだ。余計に気をつかわれそうで、嫌になる。とりあえず「気のせいだったわ」と続けた。
「ならいいが……」
そう言ったデュースは、納得がいっていない様子だった。
会話もそこそこに、授業が始まった。
のどの違和感を消したいエース。クルーウェルの声を聞いて、授業に専念する。けれど違和感は増すばかり。
監督生の夢を見て、デュースと顔を合わせてから、どうにもおかしい。
──オレはそこまでデュースに嫉妬してんのかよ。
隣にデュースがいる限り、不調は続くのだとエースは気づいた。
とうとう寒気がしだした。遅れて頭痛もやってくる。聴覚もおかしい。クルーウェルの声が遠い。
呼吸も荒くなっていく。黒板を見るために上げていた顔は、いつのまにか下がっていて、机を凝視していた。
「おい。どうしたんだ」
ついにデュースに気づかれた。
返事をしようにも、出てくるのは息だけだった。
ペンを持つ手が震えはじめる。誰が見ても、りっぱな体調不良者だ。
教壇にいるクルーウェルに向かって、デュースは「先生!」と手を挙げた。
呼ばれたクルーウェルはデュースを見る。
「どうした、スペード」
「エースの様子がおかしいです。保健室に連れていっていいですか?」
返事を待つ間も惜しいようで、デュースはエースの腕をつかんだ。もしクルーウェルが止めても、連れていく気満々だ。
その気遣いが、いまはエースを拒絶させる。つかまれた腕を引き、弱々しく反抗して、顔を上げる。
特に定めるつもりがなかった目線の先には、クルーウェルがいた。
教壇の前から動かないまま、デュースに何かを言っている彼は、いつものコートを羽織っている。
白黒のそれは、監督生を思い出させた。
白い朝日を浴びて輝き、けれど奥はドス黒い、あの瞳が……。
「ぐ……っ」
デュースに腕をつかまれたまま、エースは吐いた。
クラスメイトの突然の嘔吐に、クラス中がどよめく。
さらに予想外のことが起こった。
吐かれた物は、悪臭を放つ汚物ではなかった。
黒い、花弁だった。
エースが真っ黒な花弁を、次々と吐いている。
それを間近で見てしまったデュースの動揺は大きい。
「なんだ、これ……」
デュースがおそるおそる、花弁に触れようとした、瞬間。
「触るな!!」
クルーウェルの怒号が教室中にビリビリと響いた。
デュースの手が止まる。クルーウェルはエースのもとへ駆け寄りながら、未だどよめく周囲に向かって叫ぶ。
「トラッポラから離れろ、仔犬ども! その花に絶対に触れるな!」
着いた途端、クルーウェルはデュースを引き剥がす。続いてエースを抱き寄せる。魔法の障壁で、すべての花弁を小さく囲う。
障壁のドームの中に閉じ込められた花弁は、同じく中に放たれた火の魔法で、ちりも残らず焼き消えた。
すっかり離れた生徒たちを確認してから、クルーウェルは改めてエースをイスに座らせる。スマホを出して、養護教諭に連絡を取っている。
もうろうとした意識の中にいるエースは、教室の様子が見えていない。
自身の口から吐かれた花弁の色と、形が、目に焼きついたままだ。
──あれは、桜だ。
──監督生が愛していた、あの花だ。
ピンク色のはずなのに、黒色だった花は、エースが恋した監督生そのもののようだった。
予備動作もなく、エースは再び花弁を吐く。
クルーウェルは通話をしながら、花弁を焼き消していく。
クラスメイトたちはヒソヒソとささやきながら、エースを遠まきに眺めている。
デュースは何もできず、立ち尽くすのみ。
のどをひきつらせながらも、エースの心に思い浮かぶのは、監督生の最後の姿。
エースたちとの別れを惜しみながらも、異世界に帰れる喜びが隠しきれていない、監督生の笑顔だった。
5話 ケイトは行動する
花吐き病とは、花を吐く病気である。
片想いをしている者に発症し、衰弱死するまで花を吐き続ける。
治す方法は二つ。
一つ目は、片想いの対象者と両想いになること。
二つ目は、片想いをしている他者に花を触れさせ、感染させること。
どちらかが成功した瞬間に、発症者は白銀の百合を吐き、完治する。
薬を使えば、感染を抑えたり、病の進行を遅らせたりすることは可能だが、完治させる薬はまだ開発されていない。
治さない限り、致死率は百パーセントの恐ろしい病気である。
ケイトがスマホで調べ、信ぴょう性の高い話を抜粋しただけだと、この程度だった。他は、主観まみれのうわさ話のみ。読み返す価値はない。
情報をまとめた文章は、あらかじめスマホのメモアプリに打っておいた。その画面をタブレットに向けながら、ケイトは問いかける。
「イデアくんはどう思う?」
教室の中。放課後になった瞬間、隣の席を陣取っていたケイトにタブレットをわしづかまれて、イデアは逃げられない。おとなしく答える。
「どうも何も……拙者の専門外ですので」
「じゃあこの情報はウソじゃないって調べられる?」
「いや、調べるまでもないですわ。二次創作では使ってはいけないガイドラインがほぼ全作品に定められているほど、この病気は、こちらの界隈では危険なことで有名なものですぞ。情報は正しい」
「専門外じゃなかったの」
「医者ではありませんので、これ以上は知らない。もういい?」
「待って」
ここで離したら、後悔してしまう。
かかげていたスマホをポケットに入れる。タブレットを両手でつかみ直し、真剣な眼差しをそそぐ。
「うちの寮生が花吐き病にかかったのは知ってるよね?」
「まあ……学園中がその話題で持ちきりだったし」
一年生が授業中に突然、難病を発症させた話だ。
目撃していた生徒たちは、めったにない瞬間を、良くも悪くも、誰かに共有したくてたまらなかった。エースがどこかの病院に隔離されて、もう感染の危険はないと教師たちから言われているのに、目撃者たちの口は止まらなかった。
発症から、ケイトたちの耳に届いた時間は、たったの一時間弱。
そこから三週間は経った。新しいもの好きの生徒たちの興奮は、だいぶ冷めている。いまはもう、ときどき話題に出る程度だ。
反対に、ケイトたちの熱は決して冷めない。
三週間、ケイトはエースに会える方法をずっと探していた。だがケイトは探偵ではないので、当然、エースの顔すら見ていない。
──イデアくんを利用しよう。
ケイトは最終手段に出たのだ。
ここでイデアを逃がしてはならない。
「オルトちゃんって、エースちゃんと仲良しだよね」
「……」
「エースちゃんが死んじゃったら、オルトちゃんも悲しむと思うんだ」
「何が言いたいの」
「……ごめん。オルトちゃんを人質扱いして」
沈黙。やぶったのはイデアだった。
「別にいい。もしオルトが死んじゃうかもってなったら、僕も手段なんて選ばないし。お互い様」
「……あのね、本当はオルトちゃんとか関係なくて、ただオレが、イデアくんにお願いしたい」
言葉を区切ったケイトは、周りを見る。クラスメイトは全員、いなくなっていた。
改めて、タブレットを見る。額が画面にくっつきそうなところまで、タブレットを引き寄せる。
息をのむイデアの声が聞こえた。
ケイトは願う。
「エースちゃんを助けたい。力をかして」
イデアはあわてたような声で答える。
「い、いいよ。エース氏はオルトの大事な友達ですからな。拙者も大事にしますぞ」
了承をもらったケイトはタブレットを離す。脱力して、そばの机にもたれかかる。
「よかっ……たあ〜〜! 断られたら、どうしようかと……!」
「ええ……そんなシリアスにならんでもろて」
「あはは。けーくんらしくなかったね」
「いいんじゃないの、別に」
タブレットは浮遊を再開する。教室の出入り口に向かって、移動を始める。
「じゃ、行こうか」
6話 ケイトは対話する
起きあがったケイトはタブレットについていき、問いかける。
「どこに行くの?」
「誰もいないところ。作戦会議は第三者がいないところでやるもんでしょ」
ケイトは歩きながら、足がもつれない程度に、またあたりをぐるりと見回す。がらんとした教室内には、ケイトたち以外、誰もいない。
「ここじゃダメなの?」
「この近くの監視カメラを確認したら、聞き耳を立ててるやつがいたから、ここはダメ」
「僕のことだな」
「うわあ!」
ちょうど教室を出たケイトは、いきなり声をかけられて、驚く。声の主を見る。
マレウスだった。
「マレウスくん? どうしてここに」
「廊下を歩いていたら、覚えのある声が聞こえてきてな。そのまま内容も聞いたところだ」
イデアはため息をつく。
「ふつうに白状してて草。少しは反省してもろて」
「盗み聞きを詫びよう。ダイヤモンド。シュラウド」
「出ましたわ、謎の上から目線」
「ていうか、盗み聞きの自覚、あったんだね〜」
ごまかすように、ケイトは笑った。
だがマレウスはごまかされない。とうとつに切り出す。
「花吐き病のことだが」
息をのむケイトとイデア。構わずマレウスは続ける。
「感染源を知っているか?」
「感染源」
おうむ返しをしたケイトはキョトンとしている。
ケイトに代わり、イデアがはっきりと答える。
「明らかにはされておりませんな」
「ヒトの間ではそうだろう。だが、妖精は知っている」
「あっ」
妖精、というキーワードを出されて、ケイトは思い出した。
確証のないうわさ話だと切り捨てた情報の中に、あったものだ。
「妖精の呪い!」
マレウスはうなずく。
「そうだ。正確には呪いではなく、祝福だが」
イデアは嫌悪感を隠さずに言う。
「人が死ぬのが、祝福? 妖精は残酷なのがセオリーとはいえ、あんまりではござらんか?」
「ヒトすべてが対象ではない。妖精にも好みがある。恋のために死ねる者に、よくかけられる祝福だ」
「エース氏が、恋のために死ねると?」
「どうやらトラッポラは利己主義に見せかけて、根は利他主義のようだ。むしろそうでなくては、仲間たちのためだけに、あそこまで動けないはずだ」
「まあ、それは拙者も存じておりますが」
「そして妖精は、利己主義な恋ではなく、利他主義な恋を好む。叶えさせたいから、命をかけさせる」
「一方的すぎ。理解不能」
イデアは吐き捨てた。
ケイトもそう思っていた。タチの悪いうわさだと嫌悪して、だからその情報をイデアに見せなかったのだ。
こうしてマレウスに言われるまで忘れてしまうほどに、記憶のすみに追いやっていた、残酷で一方的な感染源の情報。
だが妖精族の頂点に立つ予定のマレウスが太鼓判を押した話だ。信ぴょう性は限りなく高い。
一人で納得するケイトは、すっかり無言になっていた。また代わりにイデアが口を開く。
「つまりエース氏は、どこかでその祝福とやらを妖精にかけられたってことだよね。それさ、どの妖精がやったかわかりませんかね? そいつに祝福をやめさせてもらえませんかね?」
マレウスは首を振る。
「無駄だ。トラッポラにかけられた祝福の魔力を追おうにも、無数にいる妖精の似たような魔力の、たった一つを特定するなど、いくら僕でも不可能だ」
イデアがつかみかけた解決の糸口は、あっけなく切られた。
二人の会話をじっと聞いていたケイトは、あわててマレウスに問いかける。
「じゃあさ、エースちゃんの魔力は探れないかな? そしたらエースちゃんに会えるよね!?」
「……会ってどうする?」
「治す!!」
「ほう……」
感心したようにマレウスは相づちを打った。けれど冷たい目をしている。
「つまりお前は、妖精の祝福など、自分の手にかかればいくらでも解けると。ごうまんなものだな。おろか者には、この僕が告げてやろう。お前は絶対に、トラッポラにかけられた祝福を解けない」
「え……そんなつもりじゃ……」
どうやらマレウスを怒らせたらしい。窓の外の雲がかげっていく。
タブレットがマレウスの前にずいと出る。
「そんで、マレウス氏は何が言いたかったので? 盗み聞きしたあげく、拙者たちをあきらめさせるために、わざわざこんな無駄話を?」
「無駄ではない」
マレウスはタブレット越しのイデアではなく、ケイトを見ている。
「プラスにマイナスをぶつければ、ゼロになる。同様に、利他主義な恋には、利己主義な恋をぶつければいい」
ケイトの顔が凍りつく。
「ダイヤモンドに任せれば、すべてうまくいくだろう」
イデアは疑問を口にする。
「はあ? 解けないとか言っておきながら、すべてうまくいくとか、意味不明なんですが?」
マレウスは愉快そうに目を細めながら、タブレットに視線を向ける。
「ふふ。さて、シュラウドに意味を説いたところで、僕に何の利があると?」
「や、もういいです」
「そうか」
マレウスは消えた。転移魔法だ。かげっていた雲は晴れていた。
とたんに静まる廊下。口火を切ったのはイデアだ。
「ケイト氏。マレウス氏が変なのは、いつものことですぞ。気に病む必要はないかと……」
ケイトは返事をしない。黙ったまま、うつむいている。
どうしたものかとイデアは頭を悩ませる。心の中でうなること、数秒。
ケイトの顔がガバリと、勢いよく上がった。
イデアが驚く間もなく、ケイトは自身の頬を、両手で挟むように、バチンと張った。
「よしっ!!」
ケイトは決意したのだ。
「作戦会議しよう! イデアくん!」
勢いにのまれるまま、イデアは「はいっ」と答えた。
ケイトは続けて言う。
「誰もいないところに案内してくれるんだよね。行こう」
「わ、わかった」
タブレットが移動を始める。ケイトはあとについていく。
7話 作戦会議・1
着いた場所は、せまい資料室だった。施錠された扉は、イデアが難なく解錠した。
ややほこりっぽくて、人の気配はまったくない。ないしょ話にはうってつけだ。
荷物が乗っていない机の上に、ケイトは行儀悪く腰かける。浮遊を続けているタブレットに向かって、言う。
「作戦なんだけどさ、実はもうイデアくんにやってもらうことは決まってるんだよね」
「ほほう。ノープランではないと」
「うん。イデアくんにしか、できないこと」
「情報収集ですかな。エース氏が入院している病院でしたら、秒で特定できますわ」
イデアはさっそく専門の機関に検索をかけようとする。だがケイトに止められる。
「いやいや。そんなことしなくていいよ」
イデアの手が止まる。
「は? じゃあ拙者は何をすれば……」
「学園内を探ってほしい」
「はあ。そのくらいなら、それこそ秒で探れますが、何を探れと。てか、なんのために」
「探るのはエースちゃん。理由は、エースちゃんに会うため」
この言葉だけで、イデアはピンときてしまった。
ありえないとは思いつつも、口は止まらない。
「まさか、エース氏は……この学園のどこかに、閉じ込められていると!?」
ケイトはうなずく。イデアは悲鳴をあげる。
「入院してるのでは!?」
「病院にいようと学園にいようと、どうせ死ぬ。だったら好きな子がいた場所に、最期までいたいらしいよ」
「ということは、エース氏の恋のお相手は、学園の関係者……。いやいや! そもそもそれ、どこ情報!? 拙者ですら知りませんでしたが!?」
「そりゃそうだよ。これ、トップシークレットだからね」
「トップシークレット!?」
「うん。生徒でこれ知ってるの、オレとリドルくんだけじゃないかな。あ、いまイデアくんもシークレット仲間になったね」
「ちょっと待って。情報が渋滞してきた」
イデアは深く息をはく。吸い込んで、問いかける。
「詳しく聞いても?」
了承したケイトは詳細を話していく。
---
花吐き病にかかったエースが、どこかの病院に隔離された。
そう聞かされて、すぐにケイトは見舞いの要求をした。だが担任の教師に止められた。
片想いでも、両想いでも、恋すらしていなくても、等しく全生徒がエースに会うことを許されなかった。誤申告で、感染される恐れがある。
だから会わせられないと言われても、ケイトはあきらめなかった。ケイトに限らず、リドルやトレイに、エースと親しい一年生たちもだ。
彼らはエースの捜索を独自におこなっていった。しかし空振りの連続。
周りを意気消沈させないように、ケイトは常に明るく振る舞っていたが、ただ疲れるだけだった。
捜索を開始してから五日後の夜。
思わぬ方向から、ケイトに進展が訪れた。
──手をかしてほしい。ケイトのユニーク魔法が必要なんだ。
ケイトの自室に入ってきたリドルに、そう願われた。
──いいけど、なんで?
ケイトは理由を聞いた。
リドルはケイトの目をしっかりと見て、答える。
──昨日、ボクはエースに会った。
そう告白されたときの衝撃を、ケイトはいまも忘れられない。
8話 作戦会議・2
「クルーウェル先生に頼まれたんだって。エースちゃんの片想いの相手を聞いてほしいから、エースちゃんのもとに連れていきたいってさ。エースちゃんの居場所を誰にも言わない条件つきだったけど、もちろんリドルくんは飛びついた」
「それで、病院に連れていかれるかと思いきや、学園から出なかったと」
「うん。先生が職員室で、実はエースちゃんは学園内にいるって、明かされたんだって」
「それはリドル氏も、たいそう喜んだのでは?」
自分だけでも、いつでも見舞いに行けると言われたようなものだ。
リドルの喜びは、ケイトの喜び。なのにケイトの顔は暗い。
「だけど、そううまくはいかなかったんだ」
---
クルーウェルに連れられて、職員室からスタートした、エースにつながる道。当然、リドルは道を覚えようとした。
なのに、覚えられなかったらしい。
ケイトは問いかける。
──リドルくんなら、一発で覚えられるじゃん。どうして……。
リドルは理由を話した。
右に曲がり、左に曲がり、坂を上り、階段を下り、校舎を出て、また別の校舎に入り、右へ、左へ、上へ、下へ……。
ねじ曲げられた空間は、リドルの認識をでたらめにさせた。
気がつけば、エースが閉じ込められている部屋の扉の前に立っていた。道中、どう移動していたか、まったく思い出せなかった。
──最初は認識阻害魔法をかけられたのだと思ったよ。でも魔力は感じられなかった。アレは何だったんだ。いまもわからない……。
顔をやや伏せて、指を額に当てるリドル。数秒後。指を下ろして、顔を上げる。
──でも、これだけはわかった。先生方は、徹底してボクたちを自由に、エースに会わせたくないのだとね。
そうリドルは結論づけた。
---
黙って聞き続けていたイデアは言う。
「ま、そうでしょうな。エース氏を治すためには、まず恋の相手を知らないといけない。でもエース氏は非協力的。だったら生徒の、それもふだんから親しくしてる寮長なら、白状すると思ったと。だとしても、そうそう会わせられないよね。下手したらリドル氏が感染するかもですからな」
「たぶん先生も迷ったと思うよ。優等生として信用できるリドルくんだけ会わせて、さらに自分も相席することで、手を打ったって感じ」
暗い表情から一転して、ケイトはおどける。
「そんな心配、しなくていいのにね! 片想い中の子しか感染しないなら、恋人がいるリドルくんには無意味だし!」
「はっ?」
リドルには恋人がいる。またもや驚きの新情報だ。
イデアはリドルの恋人の正体を聞こうとして、やめた。リドルの好みなど、どうでもいい。
なのでケイトが笑いながら「お相手が誰か、気になる?」と問いかけてきても、イデアは「全然」と答えられた。ケイトのくちびるがつまらなさそうに尖る。
巻き起こりそうな嵐を回避できたとイデアは安心する。心に余裕ができたおかげか、ふと気づく。
「エース氏が実は学園内にいるというトップシークレットを、教師に口止めされてたリドル氏が、どうしてケイト氏にバラしたので? 優等生が形無しですぞ」
一言余計だったので、とりあえずケイトは尖らせたくちびるを引っ込めて、タブレットを軽くにらんだ。悲鳴が聞こえたような気がした。
話が進まないので、ケイトはさっさと答える。
「オレのユニーク魔法めあてだよ」
---
道中を覚えられなくても、リドルはエースに会えた。
発症から四日。スートの化粧をしていない顔は青白く、少しやせたように見える。そこまではまだ予想内の姿。
予想外だったのは、いまにも身投げをするのではないか、と思えるほどの、はかなさをともなっていたことだ。部屋に窓はなかったため、本当に身投げなどできないが。
嘔吐に次ぐ嘔吐は、身だけではなく、心もひどく弱らせる。そう頭では理解していたつもりだったが、見通しは甘かった。
リドルの動揺を見透かしたのか、エースはリドルに心を開かない。結果、リドルはエースの想い人の正体を聞き出せなかった。
説得もむなしく、リドルは何の成果も得られず、帰っていく。お払い箱となったリドルを、クルーウェルはもう連れていかなかった。
エースにつながる道は、一方的に閉ざされた。
その道を、リドルはこじ開けたい。
形だけでも説得はできたのだ。あとは自主的に通い続けて、想い人の正体を聞き出せれば、あわよくば病気を治せるかもしれない。
しかし一人では限界がある。仲間に助けを求めたいが、教師との約束をやぶって、複数人に声をかけるわけにはいかない。優等生を義務付けられたリドルには難題だった。
リドルは悩んだ。約束をやぶるか、無視して助けを求めるか。悩みに悩み抜いて……一人にだけ声をかけよう、と自身を許した。
すると再び壁にぶち当たった。
リドル一人から、誰かを入れて二人になったところで、どう事態が進展するのか。人海戦術と呼ぶには、まだまだ人手が足りない。
──だったらその一人が、複数人になればよろしい。
リドルらしい、力技である。
秘密の共有者に選ばれたのはケイトだった。
---
ケイトは首をすくめる。
「その力技は失敗したけどね」
9話 作戦会議・3
誰もいない夜の学園。一人のリドルと、複数人のケイト。十分な人数で道をしらみつぶしに探しても、徒労に終わった。
ケイトの人数を増やせば増やすほど、魔力の消費は激しく、長時間の捜索は見込めない。しかもリドルは道の特徴を何ひとつ覚えていなかった。整合性をとりつつ道をしぼっていくやり方をのぞめない以上、効率は悪い。無駄に時間を費やす一方だった。
だがリドルはあきらめなかった。人海戦術を続けていても、これ以上の進展は見込めないだろうと、ケイトと解散したあとも、リドルは一人で捜索を続けている。
もちろんケイトもあきらめていない。手持ちぶさたになったときも、常に意識を捜索に向けていたおかげか、ある日、ケイトは急にポンとひらめいた。
道探しのコツをネットで調べようと、スマホを触っていたときだった。
目の前にあるのは、自身の手の中に収まっている、小型の機械。
---
「リドルくんが道を覚えられなかったの、最初は魔法をかけられたんだと思ったみたいなんだよね。でもそれは違ってた。ならさ……」
「あ。理解しましたわ」
イデアはケイトの言葉をさえぎった。
続けてイデアは早口で言う。
「魔法じゃなければ、機械で邪魔されたんじゃないかってことね。おけ把握。だから拙者が一枚噛んでるのではないかと」
ケイトは驚いた。わたわたと、あせりながら誤解を解く。
「違うよ! イデアくんを疑ってなんかない!」
「ええ……でもさっきのって、そういうことでは?」
「話は最後まで聞いて!」
ケイトの剣幕に、イデアは反射で「ごめん」と謝った。
ケイトは息をはいてから、続きを言う。
「えーと、リドルくんが道を覚えてないのは、機械のせいだって予想したのは合ってるよ。で、その機械を設置したのは、イデアくん以外の誰かなんじゃないかと思ってる」
「ちょっと待って。いま調べていい?」
「いいよ。むしろお願い」
浮遊していたタブレットが、ケイトが座っている机の横のスペースに着地する。沈黙して、数秒後。
「お待たせ」
タブレットが浮遊を再開した。ケイトの真正面に移動する。
「前の寮長が残してった防犯システムだね。人の脳波に干渉して、認識を狂わせるタイプ。リドル氏はこれにやられたみたい」
ケイトは引く。
「え、大丈夫なの、それ」
「試運転して、数値的に問題がなかったやつだから、おそらくは。でも脳に関わってるから、絶対に安全とは言いきれないよ」
ケイトは大声をあげて、あせる。
「やばいじゃん! リドルくん、まだ道探ししてるのに! あれからどんくらい経ってる!? 二週間経ってる! なんなら超えてる!」
「まあ拙者はリドル氏がどうなろうと、どうでもいいですが」
「けーくんがよくないの!」
「そんなに興奮せんでもろて。危険だとも言ってないんで」
「う……それなら……」
「ま、こーいうのって、受けるのは一度きりなのが前提なんで、少なくとも短期間に何度も受けていいやつじゃないのは確定的に明らか」
「危険じゃん! 絶対に危険なやつじゃん! あー! だから先生、一度しかリドルくんを連れてかなかったんだ!」
ケイトは大げさに頭をかかえる。うつむき、うめくように言う。
「これはマジで、一日でも早く、エースちゃんに会わなくちゃ」
「あの、ずっと聞きたかったことがあるんだけど」
ケイトはのろのろと顔を上げて、「……なに?」と答えた。
イデアは続きを言う。
「マレウス氏がすでに聞いてたことだけど、僕からも聞かせて。ケイト氏はエース氏に会って、何がしたいの?」
「エースちゃんを治す」
「はあ」
マレウスに問いかけられたときと、まったく同じ回答だった。
マレウスが相手だったから大きく出てしまったのだと思っていたが、関係なかったようだ。
気が抜けたまま、イデアは忠告する。
「ヒーロー気取りはやめなよ。ロクなことにならないから」
「オレはヒーローになんてなれないよ」
頭をかかえていた両手を、ケイトはひざの上に乗せる。取り乱していた様子は、もう見当たらない。
「治ると断言したのはさすがに言い過ぎちゃったけどさ、リドルくんよりは勝算はありそうなんだよね。説得ならけーくんのほうが上手いもん」
「説得が成功して、エース氏の想い人の正体が聞けて、その先は? プランがおありで?」
ケイトは指折り確認を始める。
「まず、けーくんがその子に……『その子』っていうのは、エースちゃんの想い人のことね。その子とお話します。次に、その子にエースちゃんのプレゼンをします。エースちゃんはとっても良い子なので、その子はエースちゃんを悪く思いません。最後に、勢いに乗らせます。あとはアドリブでなんとかなるっしょ!」
「それはもうほぼノープランでは? 陽キャこわ……」
ケイトは笑いながら首をかしげる。
「そうかな? これが一番いいと思うんだけど」
「……まあ、それが一番、人道的ではありますな」
ケイトは机に座りながら、身を乗り出す。
「イデアくんもそう思うよね! 賛成してくれるよね!?」
「あっはい」
「でもこの計画って、そもそもエースちゃんに会わないと、始まらないよねえ!?」
ケイトは勢いよく、タブレットを両手でガッとわしづかむ。イデアは「ひいっ」と悲鳴をあげた。
ケイトの熱い眼差しが、タブレットの画面から離れない。
「そこでイデアくんの出番ってわけ!」
長い前座が、やっと終わった。
ケイトはイデアに本題を切り出す。
「イデアくん! エースちゃんにつながる道をめちゃくちゃにしてる機械を探して、止めて! オレがエースちゃんに、会うために!!」
10話 作戦開始
イデアは監視カメラで廊下を確認する。誰もいない。ケイトに退室をうながす。
タブレットを持ったまま、ケイトは資料室を出た。
ケイトの手から離れたタブレットが、扉を施錠する。
「はい。これで我々がここで密会した証拠はなくなりました」
「ここ、電子ロックだったんだね」
「ん」
限られた人物しか入れない空間。セキュリティを一任されているイデアなら入りたい放題だし、入室のログも操作し放題だ。
タブレットの画面がケイトに向く。
「じゃ、今夜の零時、あの場所で」
防犯システムが作動している区域の校舎内のことだ。場所はすでにケイトに知らせてある。
「あそこだよね。わかった」
ケイトは真剣な表情でうなずく。
タブレットはケイトに背面を見せて、去っていった。イグニハイド寮に帰るために。
ケイトもいったん、ハーツラビュル寮に帰った。
二人そろって夕飯を食べ損ねたが、駄菓子で腹をふくらませられるイデアは問題ないだろう。
ケイトも空腹など、まったく気にならなかった。むしろ緊張で胃が縮こまっていた。
あと数時間で、作戦決行だ。
---
資料室でケイトとイデアが意見をすり合わせ、考えた作戦は以下の通り。
作戦開始の零時前に、ケイト一人で、校舎内で待機する。
零時ちょうどに、イデアが学園内すべての電気とネットワークを遮断。すると電化製品も通信も、前寮長が残した防犯システムも完全停止される。
機械の邪魔が入らないうちに、ケイトのユニーク魔法で人海戦術。とにかく、しらみつぶしに、エースが閉じ込められている部屋を探す。
そして部屋を見つけ、扉を開いてエースに会えば、作戦成功だ。
---
確実性のない、だいたんで地道な作戦。
もっと時間をかければ、もっと成功率の高い別の作戦を立てられるのに、ケイトは良しとしなかった。
エースにかけられた祝福と、機械に侵されているであろうリドルの脳。時間が経つほど悪化する一方のはずだ。二人の身の危険を考えて、作戦はとにかく早く、それこそ今夜中におこないたかったのだ。
隠密行動をとるケイトはともかく、電気とネットワークの遮断については、イデアのしわざだとバレてしまうはず。せめて大々的にはバレないように、学園内すべてではなく、防犯システムのみをこっそり無力化させればいいと、ケイトは提案した。
しかしイデアは却下する。
──前寮長のだけいじくったら、それこそエース氏めあてだって、クルーウェルにすぐバレるよ。今日の宿直、あいつだし。ケイト氏、捕まるね。エース氏に会えないまま。
ハッとするケイト。イデアは続けて言う。
──こういうときは、むしろ学園ごとやったほうが、ケイト氏には都合がいい。
大々的に学園中を遮断して、すぐにバレる者は、宿直のクルーウェルと、夜ふかし中の生徒たち。そしてバレる対象物は、学園内の『すべて』だ。対象物が多すぎて、防犯システムのためだけだとは気づかれない。木を隠すなら森の中である。
クルーウェルが教師たちを起こして援軍を得ようとするだろうが、それでも大勢の生徒は眠ったまま。少数のヘイトをイデアが買っている間は、誰もケイトの不在など気にしない。もちろん、エースのことも。
あとが怖くなるが、大々的にバレたほうが、捜索しやすくなるのだ。
──電線がトラブったから〜とか、害悪ハッカーと戦ってるから〜とか、ソシャゲのガチャの結果が悪いからリセットしたくて〜とか、とにかくいいわけしまくるし、時間稼ぎは任せてクレメンス。でも時間が経てば経つほどヘイトの数は増えてくし、拙者の立場がめっちゃ悪くなるから、夜明けまでが限界だと思って。
イデアはケイトに、そう忠告した。
夜明けまでの時間稼ぎも引き受けてくれたイデアに、ケイトは深く感謝した。
11話 作戦決行・1
二十三時五十五分。決行時間の五分前だ。
ケイトはすでに校舎内に潜入していた。あたりは暗いが、窓の外のすぐそばにある街灯のおかげで、わずかな光はあった。
充電たっぷりのスマホ。電源は入れてあるが、あと五分で、通話もネットも使えなくなる。
防犯システムが作動している区域の校舎内にいるせいで、頭がぼんやりとしている。なのに心臓はやけにうるさい。
心臓をバクバクと鳴らしながら、あと四分になったとき。
マナーモード中のスマホが震えた。
ケイトの肩が大きく跳ねる。思わぬ邪魔が入り、いらだつ。
「なんだよ、こんなときに……!」
急いで画面を確認する。
イデアからの着信だった。
何か不備が起こったのだろうか。いらだちが一瞬で消えた。代わりに湧いてくる不安のまま、通話ボタンをタップする。
「もしもし?」
「もしもし。僕だけど。着いてるよね?」
「うん。こっちはちゃんと着いてるよ。どうしたの? 何かあった?」
「や……こっちが確認、したかっただけ。いちおう、いちおうね、ケイト氏、監視カメラに写ってるんだけど、その、本人の口から聞いとこうかなって」
「なあんだ……」
ケイトはこわばっていた肩の力を抜いた。
緊張がほどけていく。
あちらに何もなくてよかった安心もある。だがイデアの声を聞いただけでも、きっと心強くいられた。
まるで彼が、そばにいてくれているようで……。
「ケイト氏? 急に黙って、どうしたでござる? ……緊張してる? 陽キャも緊張って概念があるんですなあ。新発見ですぞ」
「イデアくん」
「えっなになに? ちょっと待って! バカにしたつもりはないで候!」
「ありがとうね」
「……どうしたの、いきなり」
「協力してくれたことのお礼、言ってなかったから」
「いいってば、このくらい」
「それでも、言いたかったんだよ。だって……だって、イデアくん、損してるもん」
「損て」
「オルトちゃんの大事な友達のためとはいえ、こんなこと」
「あー。これからヘイトを買いまくること? このまま部屋に立てこもるし、対面しなきゃ平気っすわ。ネットの掲示板に行ってみ? 煽り煽られは日常茶飯事ですし、ここの言い争いなんて微粒子レベルでかわいいもんですしおすし。つーかぶっちゃけ、もう慣れましたわ」
「慣れてるからって、されていいことにはならないよ」
「はあ」
「ごめんね、イデアくん」
「……」
「君を利用して、ごめん……」
作戦開始まで、あと一分を切った。
あと一分で、監視カメラ越しのケイトの姿が、イデアに届かなくなる。スマホ越しのイデアの声が、ケイトに届かなくなる。二人のつながりは、夜明けまで切れる。
最後のあがきみたいな、イデアの声。
「そんなに言うなら、あとでお礼、してよ」
「なに? なんでも言って。オレにできることなら、なんでもする」
「じゃあ……ひとつだけ」
イデアの言葉に、ケイトは黙る。
なのにイデアも黙る。
沈黙が、ひどく長い。
最後の一分がケイトには惜しいのに、イデアはもったいぶって、なかなか続きを言わない。
まるで、何もかも終わったあとでも、変わらずケイトに会えるのだと信じているように。
あと十秒。ついにイデアは願う。
「全部、終わったら……僕の部屋で、僕といっしょに、ゲーム、してください」
ぶつり。
あたりが完全な暗闇におおわれる。
通話とともに、窓の外の街灯も消えたようだ。
防犯システムも作動できなくなったようだ。正常に働き始めた脳は、ぼやけていた頭をスッキリさせる。
作戦開始だ。
ケイトはスマホをしまう。ペンを取り出して、ユニーク魔法を唱える。
複数人に増えたケイトたちに、オリジナルのケイトは電池式の小型のライトを全員に持たせた。
魔力節約のため、光魔法は使わないほうがいいとイデアが提案して、オルトが持ってきてくれた物だ。
オリジナルをふくむケイトたちは、嗅覚を獣人並みに上げる魔法を、いっせいに自身にかける。エースが吐き続けているであろう花の匂いを嗅ぎ当てるためだ。
ケイトたちは言葉もなく、散り散りになり、手分けしてエースの捜索を始める。
花の匂いを逃がさないよう、探す。
探す。
探す。
無心で、ひたすらに、くまなく探し続ける。
……やがて一人のケイトから反応があった。それはオリジナルのケイトに届いた。
花の匂いがひときわ濃い扉を見つけたのだ。
オリジナルのケイトは、分身体のケイトのもとへ急ぐ。近づくにつれて、花の匂いが濃くなってくる。
数分後。難なく着いた。分身体のケイトが待機している。
オリジナルのケイトは扉の前に立つ。匂いの元はこの扉の向こう側にあるのだと確信する。あまりにも、匂いが濃すぎるのだ。
むせそうになったので、オリジナルのケイトは嗅覚上昇の魔法を解く。ずいぶん息がしやすくなった。
改めて、扉を見る。
──この先に、エースちゃんがいる。
これでケイトたちの役割は果たされた。
オリジナルのケイトは、改めてユニーク魔法を唱える。また生み出す魔法ではない。数分後にケイトたちが消える自動魔法だ。
遠隔で魔法を唱えられたケイトたちは、あらかじめ指定されていた校舎裏に向かって、いっせいに移動を始めた。自分たちが消える前にライトを一箇所に集めておいて、あとでオルトに回収してもらうためだ。
こうして、この場にいるのは、ケイト一人。
──やっと、エースちゃんに会えるんだ。
おそるおそる、ケイトは扉に向かって、声をかける。
「……エースちゃん?」
返事はなかった。
ケイトは小刻みに震えている手を上げて、扉をノックする。
コンコン。
12話 作戦決行・2
サイドテーブルの上に置かれている白い器。中に溜まっている黒い花は半日ほど放置されて、匂いが充満している。苦しい室内。窓もなく、まるで独房である。
さすがに鉄格子ではない、ふつうの扉。その扉から音がした気がして、エースは目を覚ました。
真っ暗だ。天井の電気が消えている。消した覚えはない。クルーウェルが消していったか、停電か……。
いまだけだろうが、幸いにも吐き気はおさまっている。しかし、のどと頭の痛みは引いていない。全身はずっと気だるい。
また音が聞こえた。
エースはベッドに横たわったまま、ズキズキと痛む頭を動かして、音がした方向に顔を向ける。
数秒後。ノックの音がした。
エースの予想通り、誰かが訪ねてきたようだ。
返事をしようとして、エースは違和感に気づく。
ここに来るのは、学園から呼ばれた医者と、担任のクルーウェルだけだ。まれに他の者もクルーウェルに呼ばれて来るが、基本的にはこの二人だけ。
彼らはノックをして、エースの返事を待たずに入室する。なのに扉の向こう側にいる者は、扉を開こうとしない。
医者とクルーウェル以外の者は無断で入れないように、扉には施錠魔法がかけられている。命に関わる難病をうつしてしまわないために、魔法はとても強力なものだ。解錠対象者に登録されていない生体は、エースの許可なしでは、決して入れない。
またノックしている。
つまり入れないのだ。間違いなく彼らではない。
このまま放置すれば、何度もノックされそうだ。
「……誰だ?」
とりあえず正体を聞いた。
やや間を置いて、扉の向こう側から一言。
「けーくんだよ」
ケイトの声だった。
突然のケイトの来訪に、エースはさほど驚かなかった。
クルーウェルに連れられたリドルが訪ねてきたときから予想していたことだ。リドルに近しい者が、いつか独断で訪ねてくるのではないかと。
ケイトはそばにいてほしい人だ。けれど、招き入れてはならない。
「帰ってください」
扉の向こう側で、息をのむ音。
「なぜ……?」
「寮長はともかく、ケイト先輩はうつるからっすよ。あんたも片想い中なんだろ」
「……うん」
「ほらな。だから……」
「片想い仲間だから、ホントは気づいてたんだ。エースちゃんが好きになった子」
一転して黙るエースに、ケイトは続けて言う。
「監督生ちゃんでしょ?」
問いかけているようで、実際は確信している声色だった。
ケイトは続ける。
「オレがエースちゃんの片想い相手に気づいちゃったのと同じで、エースちゃんもオレの片想い相手のこと、気づいてるよね」
その通りだ。
「イデア先輩ですよね」
ケイトは明るい声で「当たり!」と認めた。
そして声を落とす。
「言えない気持ち、わかるよ。相手はもういないんだもの。言ったって、周りを困らせるだけだし、何よりまだ求めてる自分が嫌になる。絶対に手に入らないことを突きつけられてさ、嫌で、嫌で、しょうがなくなって……もういっそ、このまま死んじゃえばいいんだって……」
本音を言い当てられたエースは黙ったまま、ケイトの言葉に聞き入っている。
途切れていたケイトの声が再開する。
「オレ、イデアくんが好き。でも結ばれちゃダメなんだ。だってオレたち、立場が違いすぎるもん。目の前にいるのに、交わるのを許されなくて、だからってあきらめられなくて、でも決定的な『何か』もなくて、悲しくて、つらくて、こんな恋なんかしなければ、とか考えて……ときどき、死にたくなる」
また訪れた沈黙の中、エースはケイトに心を開きかけていた。
病気にかかってから、この瞬間まで、エースの理解者はいなかった。皆、口をそろえて、想い人を教えるよう、迫ってばかりだったのだ。命がかかっているのだから当然の対応なのだが、寄りそってくれない者ばかりの環境は、エースを意固地にさせていた。
またケイトの声が聞こえる。
「好きな人と結ばれないなんて、オレたち、いっしょだね」
かたくななエースの心が、いま、ほどかれようとしている。
「オレ、監督生が好き」
「……うん」
「アイツがオレのこと、ぜんぜん想ってなくても」
「うん」
「もう二度と会えなくても! 好きなんです……!」
正式に白状したエースは、いまにも泣きそうだ。
「先輩……オレ……どうしたらいいのかな……」
「まずはみんなに明かそうよ。監督生ちゃんに恋してるってさ。そんで、みんなでいっしょに考えていこう。知恵を出し合っていけば、もしかしたら新しい治療法が見つかるかもよ」
「そんなの、無理じゃん。医者でも無理だったのにさあ!」
「そうかもしれない。なら、そのときは……ずっとそばにいる。最期のときを、看取らせてほしい」
ついにエースの瞳から、涙が一粒、こぼれていった。
あとはもう流れるがままだ。
掛け布団ごと胸元を強く握り、すすり泣く。目尻から次々とこぼれていく涙で、枕が濡れていく。
涙声で、エースは願う。
「オレを……ひとりにしないで……」
「……ひとりになんて、させない」
最後の、ノックの音がする。
「扉を開けてほしい。お前に会いたい」
ついにエースは覚悟を決めた。
節々が痛む体を、ベッドから無理やり起こす。揺らぎそうになる頭を止めて、深い呼吸をくり返す。涙を乱暴にぬぐう。掛け布団をめくり、裸足のまま、両足を床につけた。
あたりは変わらず真っ暗で、何も見えない。けれどテーブルとベッドのみの部屋だ。障害物にぶつからずに、扉の前に行けるはずだ。
全身に力を込めて、立ち上がる。
あとは歩くだけなのに、うまくできない。
手足が冷たい。めまいもしてくる。
「先輩」
それでもエースは歩みを止めない。
自分で扉を開けて、ケイトを迎えたかった。
「いま、開けに行きます」
ふだんの歩幅なら五歩しかない距離を、一分以上の時間をかけて、ようやくエースは扉の前に着いた。
手さぐりでドアノブを握る。エースの生体情報に反応した施錠魔法が、一時的に解かれた。
内開きの扉を、エースは引く。
ケイトを迎えるために。
扉の隙間から光があわく差し込む。もう少し開けば、手が伸びてきた。
大きな手が、細くなったエースの腕をつかむ。
黒い手袋におおわれたそれは、どう見てもケイトではない。
「え」
エースが驚いている間に、ケイトではない侵入者が扉に手をかけ、大きく開けた。勢いで倒れそうになったエースを引っぱり、長い両腕で抱きしめる。
侵入者の胸に顔を埋められたエースの視界には、侵入者の制服のベストがあった。
ディアソムニア寮の、緑色。
痛む体を忘れて、エースは顔を上げた。ケイトを偽った、侵入者の顔を見るために。
「……招かれよう。トラッポラ」
侵入者の正体は、ケイトの声をした、マレウスだった。
13話 ずっと、会いたかった
驚いているエースを見下ろしながら、マレウスは真顔で「おっと。声を戻さねば」とケイトの声で言った。ミスマッチな声は、ますますエースを混乱させた。
マレウスのそばで浮いていた魔法の光球は、ひとりでに部屋のすみへ移動して、落ち着いた。
真っ暗だった室内が、あわく照らされる。
「トラッポラ……。ずっと、会いたかった」
声を戻したマレウスは、片腕だけエースから離した。もう片方の腕と、ギラギラと輝く両目はエースを離さないまま、後ろ手でドアノブを触る。扉を閉める。扉の内側にかけられていた施錠魔法が、マレウスにかき換えられる。
これで扉の施錠の主導権は、マレウスに渡された。
逃げられなくなったエースを、マレウスは横に抱き上げる。
「ひっ」
遅くも身の危険を感じたエースは懸命にもがく。だが力の差は歴然。ベッドに逆戻りされた。
ベッドのふちに腰かけたマレウスのひざの上に、エースは乗せられる。離れようとしても、マレウスの両腕にからめ取られてしまう。
マレウスは真顔のまま注意する。
「おとなしくしろ。落としはしないが、万が一があるだろう」
だまして侵入してきたどころか、拘束もしてきたマレウスに、エースは怒る。
「なん、なんだ、あんたっ」
「話がある」
「オレにはない!」
「おとなしくしないのなら、単刀直入に言ってやろう」
エースは後頭部を、マレウスの片手に丸ごとつかまれる。頭皮に触れられて、頭痛が増す。
固定されたエースの額に、マレウスの額がくっついた。
このままあごの角度を変えればキスしてしまいそうな、近すぎる距離。エースは下手に動けなくなった。
ぶつかる視線の中、マレウスは言う。
「お前の恋は叶わない」
再確認させられて、エースの心は傷つく。けれど悟られないよう、エースは気丈に振る舞う。
「そんなの、知ってんだよ……!」
「他に治る方法はまだある。……感染させればいい」
片想いをしている他者に花を触れさせ、感染させれば、治る。
このくらいなら、マレウスに言われずとも知っている。一度だけ、問診のついでに医者に言われたことだ。そして、絶対にやってはいけないことでもあると、釘を刺されている。
エースはあえぎながら言う。
「誰かに、押しつけろ、って……? そりゃ、オレ、このままじゃ、死ぬ、けど……んなこと、したら、やべえ、だろ」
「では、死ぬしかなくなる」
「わかってん、だよ!」
息が荒くなっていくにつれて、吐き気がよみがえってくる。
のど元までせり上がり、エースは無意識にマレウスの胸元を押した。顔は離れた。けれど首から下はまだマレウスから離れない。
全力で拒まれたマレウスは、それでもエースに寄りそい続ける。嫌がるエースを後ろから抱えながら、前かがみになり、エースごと顔を床に向けた。
エースはもう吐きそうだ。器を寄せたいのに、器はエースの手の範囲内にない。このままでは床に直接ぶちまけてしまう。
マレウスに失態をさらしたくなくて、エースは我慢する。いずれは来てしまう時を、先延ばしにするために。
エースのあがきを、マレウスは見逃さない。マレウスの指が、エースののどを、すりすりとさする。
嘔吐をうながされ、エースは耐えられない。床に向かって吐いた。
黒い花弁が唾液とともに落ちていく。マレウスの指はしつこく、エースののどをさすり続ける。次から次へと、花があふれて止まらない。バクバクと鳴っているエースの心臓は、背後にくっついているマレウスにきっと伝わっている。
流れ作業のような地獄の時間が過ぎていく。
あらかた吐き終わり、エースは完全に脱力した。うつろな目で、黒い花まみれになった床を見つめている。背後にいるマレウスも、エースの肩越しに花を見つめている。
「落ち着いたか?」
答える気力もなく、エースは無視した。
構わずマレウスは続ける。
「このままでは、お前は死ぬ。生きたいとは思わないのか」
「……」
「恋が叶うか、感染させるか。その二つしか方法はないと、ヒトの間では言われているが……」
鼓膜に息を吹き込むように、マレウスはエースの耳元でささやく。
「朗報だ。抜け道がある。それをやれば、お前は生きられる」
エースの目が、ほんの少しだけ輝いた。
うつむいていた頭を動かして、すぐ近くにあるマレウスの目を見る。
もったいぶらずに、マレウスはすぐに明かす。
「心変わりすればいい。お前を想っている者を、お前が好きになれば、両想いになれる」
言われてみれば、確かにそうだ。理屈は通っている。しかし、誰がエースを想っているのか、そもそも存在しているのか、エースは知らない。
まさかマレウスは、エースを想う者を知っているとでもいうのか。
だとしても、エースは知る気がなかった。
「……こんなに、なるほど、あいつが……好きなのに……他の、誰かを、好きになんて……なれねえ……すよ……」
監督生を思い出すエース。おさまっていた吐き気が、またよみがえる。
ごぽり。
少量の新しい花が、エースの口内にとどまっている。
もうあと数秒で、これが洪水のように出てきてしまう。
エースが口内にある花を床に吐き出そうとする、寸前。
「僕を好きになれ。トラッポラ」
マレウスに口づけられた。
14話 感染
「んぐっ!?」
驚きのあまり、エースの目が限界まで開いた。
くちびるを割り開かされ、長い舌が入ってくる。口内をまんべんなく暴かれていく。
「う、うう!」
また後頭部をつかまれて、くちびるが離れない。マレウスの胸元を手で強く押しても、もう離れてはくれなかった。
抵抗している間に体をずらされて、正面に強く抱き込まれた。
「んうぅう……!」
胸と胸が合わさる。エースの熱い体温と、マレウスの冷たい体温が、服越しに混ざっていく。二人の心臓の音はちっとも合っていなくて、調和がとれていない。
マレウスの服を引っ張っても、びくともしなかった。
──もう、ダメだ。
エースは抵抗をあきらめた。目を閉じる。両腕がぱたりと落ちる。マレウスに全身を預ける。
「う……うー……」
大粒の涙をこぼすと、わき腹をさすられ、あやされた。やさしい腕とは反対に、長い舌はエースの舌に巻きつき、激しくしごいていく。
どくどく。心臓の音。
ぐちゃぐちゃ。口内を暴かれる音。
すりすり。わき腹を指でなでられる音。
あらゆる音がエースを犯していく中、エースは監督生を忘れていた。
不調が治っていく。マレウスに向けていた嫌悪感が、頭痛や吐き気とともに失われていく。
時間の流れがすっかりわからなくなった頃に、くちびるは解放された。離れる間際に、ちゅう、とくちびるを甘く吸われた。
閉じていた目を開ける。まばたきを何度もくり返して、溜まっていた涙を落としていく。明瞭になってきた視界。真っ先にうつったものは、口から覗くマレウスの舌先だった。
すっかり見慣れた黒い花弁が、二股の舌先にくっついている。
マレウスはそれを舌先に乗せたまま、口内にしまった。エースに見せつけるように、ゆっくりと。
マレウスはゴクリと、花弁を飲み込んだ。
「……あ!」
エースは思わず声をあげた。
──片想いをしている他者が、発症者が吐いた花に触れると感染する。
──皮膚どころか、粘膜で触れられた。
──もしマレウス先輩が、誰かに片想いしていたら……。
おさまっていた吐き気が急によみがえる。マレウスの腕の中で、エースは吐いた。
二人の間に落ちていった花弁は、黒い桜ではなかった。
白銀の百合だった。
──発症者が白銀の百合を吐いた瞬間に、発症者は完治する。
白銀の花弁を一回吐いたきり、吐き気がピタリと止まった。
──これで、治ったんだ。
──助かった。
──死ななくて済んだ。
と、喜べたのは一瞬だった。
──マレウス先輩が感染したから、治ったんだ。
──ということは、今度はマレウス先輩が……。
ぼたぼたぼた。
白銀の百合の花弁の次に落ちてきたのは、赤い桜の花弁だった。
ハートのスートのように真っ赤な花弁は、マレウスの口から吐き出されている。
数回、吐いただけで、花はいったんおさまった。
したたらせていた自身の唾液をていねいにぬぐったマレウスは、苦しそうに、エースに笑いかける。
「治したぞ……」
エースはあせる。
「あんた、何してんだ! 早く治さねえと……! 誰だ!? 誰が好きなんですか!?」
怒鳴ってから、エースは痛感した。クルーウェルやリドルたちも、こんな気持ちでいたのかと。大事な人を死なせたくないあまり、想い人を聞き出したがるのは当然だったのだと。そんな彼らを、拒んでしまったのだと。
エースは悔いてしまう。しかし後悔しているひまはない。とにかくマレウスの想い人を聞き出そうと必死だった。
つかみかかる勢いのエースの両手を、逆にマレウスがそれぞれつかんだ。
そのままマレウスは、エースをベッドに押し倒す。前触れもなくベッドに沈められたエースは「うっ」とうめいた。
二人の間にあった白銀と赤の花弁は、マレウスの魔法で、床に弾き飛ばされる。邪魔だと言わんばかりに。
エースの顔の真横のシーツに、エースの両手をグッとぬい付けたマレウスが、一言。
「お前だ」
とうとつだった。
何を言われたのか、エースは理解できない。
「オレが……なに……?」
「僕はトラッポラが好きだ」
とうとつな告白だった。
エースは言葉もなく、混乱におちいる。
マレウスは苦しそうに続ける。
「僕を治したいのなら、僕を好きになれ。……好きに、ならないと……この僕を、見殺しにして、しまうぞ……。……はは。茨の谷の、国民、たちが……黙って、いない、な……?」
またマレウスは花を吐く。エースの胸が、赤い花弁で色づいていく。大量の花に触れているのに、エースは正常だ。完治した者は、もう花吐き病にはかからないらしい。
花を浴びながら、エースはいまの状況を把握していく。
マレウスはわざと感染されたのだ。
エースを脅して、手に入れるために。
──こいつ、自分の命をかけやがった!
青ざめたエースは悲鳴のような声を出す。
「狂ってる……!」
「この恋が叶うのなら……いくらでも狂おう」
口内に残っていた花弁も吐き出し終えたマレウスは、エースの額にくちびるを寄せる。汗で濡れた生え際のラインを、さりさりと舐めていく。
求愛を受けながら、エースは絶望していた。
──こんなの、受け入れるしかないじゃん。
マレウスの恋心を跳ね除けられない理由は、茨の谷が怖いからではない。
エースにとって、マレウスは大事な人だ。良い意味で監督生に関わっていたからだ。
マレウスは監督生に『ツノ太郎』と呼ばれるほど、監督生に良く思われていた。エースとは別次元の仲の良さだった。
つまり監督生の、大事な人の一人でもある。
だから彼を死なせてはならない。
──オレの恋心を死なせてでも。
額を舐めていたマレウスの顔が横に下りていく。エースの耳介をくちびるでやわく挟み、声を吹き込む。
「疲れただろう。眠るといい」
鼓膜に直接、魔法をささやかれるエース。子守唄のような魔法は、エースの意識を徐々に沈めさせていく。
「や……だ……」
絶望とともに、エースは夢の世界に旅立った。
---
マレウスはエースの両手を解放する。眠っているエースはもう抵抗せずに、無防備な姿をさらしていた。
改めてエースの格好を見下ろす。ルームウェアは、汗や花で汚れきっていた。
マレウスはエースの服を脱がせていく。下着も、すべて。
15話 作戦決行・3
監督生。異世界のヒトの子。
大事な友人だった。
別れは悲しかった。
だが永遠の別れの前に、彼は大きなものをマレウスに残してくれた。
──この『黒き異分子』って、僕のことだったりして。
彼はそう言っていた。
意味がわかれば、あとは芋づる式だった。
──ヒトの子よ、感謝するぞ。
──何気ない言葉だっただろうが、あの言葉がなければ、僕は『お告げ』を理解できないままだった。
──だから。
「本当に……感謝しているんだ」
マレウスの頬に、ひと筋の涙がつたっていく。したたり落ちた涙は、ちょうど口づけていたエースの腹に当たり、へそのくぼみに溜まった。
雑念が入ってしまった。いまはエースをかわいがりたい。
しばらくマレウスは監督生を忘れて、エースの裸体に痕をつけていく。
どのくらいの時が経ったのか、あやふやになってきた頃。
一つの気配が近づいてきていることに、マレウスは気づいた。
それは扉の向こう側で止まった。
マレウスは注意を払う。やがて気配は二つに増えて、すぐに一つに減った。
扉の向こう側にいる気配は離れない。
「……エースちゃん?」
聞こえてきたのはケイトの声だった。
マレウスはすぐに返事をせずに、様子を見る。
やや間を置いて、コンコン、とノック音が聞こえた。
どうやら帰らないようだ。
ならばマレウスがやることは一つだけ。
マレウスはエースから離れないまま、施錠の魔法を解く。
「入室を許そう。ダイヤモンド」
16話 ケイトの望み
招かれても、ケイトはすぐに扉を開かなかった。マレウスの部屋と間違えたのだと思ったからだ。
だがここはディアソムニア寮ではなく、校舎だ。深夜に生徒がいる場所ではない。
ノックをした直後の姿勢のまま、ケイトは扉越しに問いかける。
「あの……マレウスくん……だよね?」
「ああ」
「なんでここにいるの? もう夜、ていうか深夜だけど」
「トラッポラに会うためだ。いまは僕の目の前にいる」
大きくあげそうになった声をこらえて、ケイトは小声で言う。
「やっぱり、そこにエースちゃんが……」
「いる」
「……先、越されちゃった」
「そうだ。お前は遅かった。……いや、当然だな。急ぐ僕に追いつくなど、お前には不可能なのだから」
やけに意味深な言い方だ。
嫌な予感がしたケイトは、続けて言う。
「エースちゃん、さっきから返事してくれないけど、寝ちゃってるのかな」
「僕が眠らせた」
「へー……子守唄でもうたってあげたの」
「ふふ……いずれはそれで寝入ってほしいものだ」
これ以上の腹の探り合いは無駄だと、ケイトは判断した。本題に入る。
「エースちゃんに何をした?」
「お前が望んでいたことをした」
ケイトはドアノブをつかみ、勢いよく押した。
花の匂いがひどく濃い。
うすぼんやりとした室内。強い光がなくても見えた光景に、ケイトは目を見開く。
「……は?」
掛け布団と服一式が跳ね除けられたベッドの上にいるのは、エースとマレウス。あお向けに眠っているエースの上に、マレウスがまたがっている。エースを見つめながら、エースの髪をかき分けるように撫でている。
エースは全裸なのに、マレウスは服を着込んだまま。どう見ても後輩の危機だ。だというのにケイトの目を惹いたのは、床に散らばる無数の花弁だった。
持っていたままの小型ライトが、床の花弁に向く。唾液でてらてらと輝く花弁が、ケイトの目を離さない。
扉がひとりでに閉まる音をよそに、ケイトはふらふらと近寄る。だがすぐに見えない壁に弾かれた。マレウスが張った魔法の障壁だ。
体勢をくずすほどではなかったものの、握力を瞬時に弱らせるほどの勢いはあった。
小型ライトがケイトの手から抜けて、ガシャンと落ちる。筒状のそれは転がっていき、テーブルの下に隠れた。
勢いを削がれたケイトは、ようやく部屋の全体に注意を向けた。
ベッドの下の床には赤と黒の花弁の海。平たい海の中に、白銀の花弁が小舟のようにポツンとある。ベッドの上にはエースとマレウス。エースの周囲には赤い花弁が、エースの裸体には赤い痕が、無数に散らばっている。
まるで事後のような様相だった。
自ら近寄っていたのも忘れて、ケイトは後ずさる。マレウスはケイトに視線をうつして、おかしそうに言う。
「僕を忘れさせないために、証を刻んでいるだけだ。つながってはいない。いまは……な」
いずれはつながると言っているようなものだ。
ケイトはまったく安心できない。警告する。
「強姦未遂も立派な犯罪だよ」
「……犯罪?」
不思議そうにマレウスはおうむ返しをした。ケイトがうなずけば、すぐに声を殺して笑う。
「犯罪。そうか。人間はこれを犯罪と言うのか」
「トーゼンじゃん」
「ならばお前も犯罪者だな」
ケイトはこわばる。
マレウスは冷たく笑ったまま、エースの上から退いた。除けていた掛け布団を魔法で浮かせ、隠すようにエースにかぶせた。
マレウスはベッドのふちに腰かける。床の花弁を踏む。棒立ちになっているケイトを見上げて、語り始める。
「お前には世話になったからな。説明を受ける義務をやろう」
「……」
「去年の占星術の授業で、僕は当時のクラスメイトに告げられた」
「……」
「恋を叶えるお告げだ。ダイヤモンドのクラスはなかったか?」
ケイトは思い出した。
二年生の頃に行われた、恋を叶える占星術。めったにない出会いのチャンスをつかめそうな気配に、当時のケイトのクラスメイトたちは食いついた。真剣に授業に取り組んでいた彼らの様子がおもしろかったし、ふだんは不真面目な彼らを真剣にさせたベテラン教師の手腕に感心したし、何よりケイトも楽しんだ。よく覚えている。なので去年の、恋の占星術の授業はそちらもあったのかと問いかけられれば、とまどいつつも「……あった」と答えられた。
ケイトがちゃんと質問に答えたからか、マレウスは満足気に続ける。
「お告げの内容は抽象的でほとんど理解できなかったが、まったく困らなかった。当時の僕は恋とは無縁だったし、告げてきたクラスメイト──実践パートナーがミスをした可能性もあったからな。……だが、トラッポラと出会ってからは、あのお告げを無視できなくなった」
「えっ」
黙って聞いていたケイトは反応した。気づいたままに言う。
「エースちゃんのこと……好きに……?」
「なった」
「おお……」
ほんの少しだけ、ケイトはときめいた。周囲の状況を思い出して、ときめきはすぐに霧散した。
口を挟まれても気にせずに、マレウスは続ける。
「いまはお告げの内容を理解している。恋を叶えるため、僕はお告げの通りに行動した。おかげで、こうしてトラッポラを……」
突然、マレウスは前かがみになった。
マレウスの口から、赤い花弁が吐き出されていく。床を彩る赤の面積がまた増える。
花を吐く祝福に、すっかり敏感になっていたケイトが叫ぶ。
「感染したの!?」
少し吐いただけで落ち着いたマレウスは「ああ……」とやや力なく答えた。
吐き出し終えたばかりの花弁を見てから、マレウスは言う。
「言ったはずだ。『お前が望んでいたことをした』と」
ケイトがこの部屋に突撃するきっかけになった言葉を、いまさらケイトは実感する。本当に、マレウスは感染したのだ。
ケイトは頭をかきむしる。少し髪型がくずれた。
「どんなお告げをもらったら、こんなことしようって思えるんだよ。いや、それより、なんでこの部屋がわかって……聞くまでもないか。マレウスくんなら、好きな子の魔力くらい探れるだろうし。ああ……だとしてもさ、放課後で会ったとき、なんで言ってくれなかったんだよ。そしたら……」
「そしたら便乗して、感染するのは僕じゃなくて……? それこそ、お前の望み通りになるだろう」
図星を突かれたケイトはこれ以上、抗議できなかった。
反対に、マレウスは続けて言う。
「勘違いしているようだから訂正するが、最初からトラッポラの魔力を探れたわけではない。なぜか僕は機械と相性が悪いようで、機械に邪魔されて、探れなかったんだ」
ケイトはハッとする。
「それは……イデアくんが……」
「シュラウドに機械を止めてくれと、お前が願ったおかげで、僕もトラッポラのもとに行けた」
──オレが動いたから、マレウスくんも動けるようになってしまったんだ!
マレウスはケイトが校舎内を捜索している間に、エースと接触していたようだ。
そして狙い通り、感染できた。
「ダイヤモンドよ。お前は僕の期待通りの働きをしてくれた。お前に任せたおかげで、すべてうまくいったぞ」
ケイトは低い声で言う。
「オレを利用したんだ」
「……そうなるな」
マレウスは眠っているエースを見る。
「僕はずっとトラッポラを見ていた。そしてお前もだ。『太陽』のダイヤモンド」
マレウスの視線がケイトにうつる。
「お前のマネができるほど、お前も見ていた」
「オレも……?」
「ああ。片想い仲間で、共犯者だからな」
ついにマレウスは、ケイトにとどめを刺す。
「僕が先にここにいなければ、お前はトラッポラの花に触れて、感染したのをいいことに、シュラウドに付け込んでいたはずだ」
完璧に言い当てられて、今度こそケイトは全身の血の気が引いた。
目の前にいるのは、目的を果たした男の姿。
ケイトがなろうとしていた姿。
---
エースが花吐き病にかかった。
──両想いになれば、治る病気?
最初は純粋に心配して、どんな病気なのか調べた。
──これ、使えそう。
エースに会えない時が経つにつれて、欲が出てしまった。
──イデアくんを利用しよう。
あくまでも最終手段なのだと言い聞かせれば、もう止まらなかった。
──リドルくんに確認してもらったんだから、ネットに載ってた病気の情報は合ってるはず。
──これをスマホのメモに打って、イデアくんに見せて、印象づけさせて。
──そして、エースちゃんに会って。
──事故を装って、花に触って、病気をうつしてもらって。
──イデアくんを脅すんだ!
──オレを好きにならないと、オレを見殺しにしちゃうよって!!
17話 罪と罪悪感
「オレ……なんてことを……!」
マレウスと同類だ。利己主義な恋をした、犯罪者だ。
自覚した罪悪感に押しつぶされて、ケイトはくずおれた。ひざをついてしまうと、もう立ち上がれない。
目の前が真っ暗になりそうで、けれど現実はうすぼんやりと、床が見えている。視界の端にうつっている無数の花弁が、いまは恐ろしい。
身を震わせていると、「ダイヤモンド」とマレウスのかたい声が降ってきた。
おとなしくケイトは続きを聞く。
「正直に答えてくれ。トラッポラの想い人の正体は?」
その問いかけに、ケイトはマレウスの足元を見ながら即答する。
「監督生ちゃん」
答えた瞬間、張りつめていたマレウスの空気がやわらいだ。
「さすが、僕が認めた共犯者だ。もし当たっていなかったら、今夜の記憶を消すところだったぞ」
マレウスは立ち上がる。マレウスとケイトを隔てていた障壁を解く。四つん這いになっているケイトに近づき、ひざまずいた。
ケイトの肩に手を置いて、マレウスは言う。
「共犯関係はここで終わりだ。今夜の出来事をどう使うかは、ダイヤモンドに任せよう。武運を祈る」
突然、あたりが真っ暗になった。肩に置かれていた手の感触も消えている。
ケイトは顔を上げて、ひざ立ちになる。急いでスマホを起動して、ライトをつける。
マレウスがいない。エースがいたベッドも消えている。そもそも部屋が変わっている。
限られた光の中で、周囲を観察する。
少し冷静になれば、すっかり見慣れた空間だと気づけた。
ここはケイトの自室だ。
マレウスが消えたのではなく、ケイトが転移魔法をかけられたのだ。
──エースちゃん、置いてっちゃった。
それでよかったのかもしれない。ケイトはヒーローではないのだから。
ぺたんと床に座ったケイトはスマホの画面を見る。バッテリーはまだ満タンに近い。通話アプリを起動して、イデアの番号にかける。……つながらない。赤いボタンをタップして、通話画面を閉じた。
スマホの時刻はちょうど四時。念のために壁かけ時計も確認すると、同じ時刻だった。
窓がある部屋なのに暗いのだから当然だが、まだ夜明けではない。イデアにとっては、まだ作戦実行中だ。
おそらくいまも、長時間の停電とネットワーク遮断を起こした罪で、たくさんのヘイトを向けられている。
ケイトのわがままに応えたせいで。
「伝えないと……」
作戦はもう終わったのだと。
無事にエースに会えたのだと。
作戦は成功したのだと。
エースはマレウスが治したのだと。
そして、自分が企んでいた、本当の望みを。
今夜の出来事を黙ったままでは、きっとケイトは罪悪感で、イデアのそばにいられなくなる。
マレウスはエースのそばにいられるのに、自分は彼のそばにいられないなど、不公平だ。……否。ケイトが抱える恋は、他人と比べるものではない。自分からあきらめた恋心を抱えたまま、生きていたくないだけだ。
「イデアくんに伝えないと……!」
これからもイデアと会うためにも、罪の告白をしなくてはならない!
ケイトは勢いよく立ち上がる。自室を出て、寮生の光魔法ですでに照らされていた廊下を走る。鏡舎の先の、イグニハイド寮をめざして。
行っても無駄かもしれない。イグニハイド寮の門は、たぶん被害者たちがいるから開けられないだろう。
それでもケイトは走った。
すべてはイデアに会うために。
いっしょにゲームをしよう、というイデアとの約束を、近い未来で果たすために。
18話 イデアはどこへ・1
鏡舎までは走り続けるつもりでいたが、止める人物が現れた。
「ケイト! 待て!」
寮生共有のキッチンから出てきたばかりのトレイだった。
ケイトは無視しようとしたが、あせっている様子だったので、しぶしぶと止まった。顔をややしかめながら言う。
「なんだよ。急いでるんだけど」
「冷蔵庫が全部止まった! このままじゃ中の食材が全部ダメになる! お前も冷却魔法で保たせてくれ!」
そう言いきったトレイはケイトの腕をつかみ、キッチン内に連れて行こうとする。
停電で最も恐ろしいのは、冷蔵庫の中身である。それは理解できるのだが、ケイトにも外せない用事がある。
ケイトは抵抗する。
「ちょっと待って! オレ、行きたいとこがあって……!」
だがトレイの力はケイトよりずっと強い。ケイトはあえなく連行されていった。
ひんぱんに茶会を開くハーツラビュル寮には、大型冷蔵庫が複数ある。それら全ての前には、すでに起きていた生徒が陣取っていた。全員、冷蔵庫の扉を開いて、中に魔法を送っていた。
リドルの姿はない。
ケイトはトレイに問いかける。
「リドルくんは?」
一つの冷蔵庫の前に移動したトレイは振り返り、答える。
「こんなところ、あいつに見られたら、絶対に怒るだろ。どうせ朝起きられたらバレるが、長引かせたいんだよ」
女王の怒りは苛烈なのだ。ケイトも身に染みている。怒りを先送りにしたがるのは、トランプ兵なら当然だ。
機械に侵されているであろうリドルの様子をついでに見ておきたかったが、起きていないのなら仕方がない。
冷蔵庫に魔法を送っているトレイは、まだ魔法の詠唱すらしないケイトに向かって、催促する。
「お前、そろそろ仕事してくれ。デュースだってこの停電騒ぎをなんとかしようと、一人でイグニハイド寮まで行ってるんだぞ」
そのイグニハイド寮に、ケイトも行きたいのだ。
ここで振り切るよりも、同意のもとで行ったほうが、めんどうにならなさそうだ。そう判断したケイトは提案する。
「けーくんもそっち行ってくるよ。こんな深夜に一年生の子が一人っきりで出かけてるなんて、心配じゃない?」
「それは、そうだが」
もうすぐ朝になるし、まったく知らない場所ではないのだから、ケイトも行かなくていいだろう。その判断をトレイにさせる前に、ケイトは素早く口を挟む。
「もう人数的に冷蔵庫は大丈夫っぽいじゃん! 人員はかたよらせず、まんべんなくが鉄則だよ!」
トレイは並んだ冷蔵庫を見やり、決断する。
「わかったよ。行ってこい」
「了解!」
これで心置きなくイグニハイド寮に行ける。
遅れた分を取り戻そうと、ケイトはキッチンから走って出ていった。
19話 イデアはどこへ・2
道中は誰かが残していった光魔法のおかげで、深夜にも関わらず、明るかった。ケイトはスマホのライトを付けずに、目的地に到着できた。
ケイトの予想通り、イグニハイド寮の門は封鎖されていた。いらだちながらスマホを何度も見ている生徒たちが、ちらほらといる。中には自寮生もいた。ネット中毒には気をつけよう、とケイトはこっそり自戒の念を込めた。
どこかに裏口はないかと、門前の周辺をウロウロしていたら、なじみ深い一年生たちを見つけた。
デュース、ジャック、エペルだ。
情報収集のために、ケイトは三人に近づく。
「やほやほー」
ケイトに気づいたデュースが「ダイヤモンド先輩、こんばんは!」と、続けてジャックとエペルも口をそろえて「こんばんは」とあいさつした。
ケイトも「こんばんはー」とあいさつを返してから、改めて三人を見る。
「一人で行っちゃったデュースちゃんの様子を見に来たんだけど……みんなもここに来てたんだね」
デュースとジャックとエペルが順番に答える。
「はい。オルトが心配で来ました」
「いま充電できねえのに、あいつのバッテリーが切れてたらヤベェんで」
「僕たち、別にわざわざ集まったわけじゃないんですけど……みんな考えることは同じみたいで……」
ケイトは笑う。
「みんなオルトちゃんが好きなんだねえ」
三人は照れくさそうにしている。
そう。三人だけだ。
あと一人、足りない。
「セベクちゃんは?」
ケイトに問いかけられた三人のうち、エペルが答える。
「セベククンはマレウスサンを探してるみたいで……」
「あの人もいなくなるなんて、どうしたんだろうな」
そう続いたジャックの言葉に、ケイトはこっそり冷や汗をかく。マレウスはいま、エースを犯している最中だ。マレウスをかばう気はないが、エースの沽券に関わっている。絶対に言えない。
あと、聞き逃せない言葉があった。
ジャックが言った『あの人もいなくなる』とは。
「マレウスくん『も』いなくなった。ってことは、もしかしてイデアくんも行方不明中?」
ケイトの問いかけに、デュースは答える。
「はい。イグニハイドの寮生が寮長室をこじ開けたそうですが、そこはもぬけの空だったらしいです」
ケイトは驚く。作戦開始からずっと自室に閉じこもっていると思っていたのに。
「どこに逃げたんだか」
ジャックが忌々しげに言ったとおり、おそらくイデアは逃げたのだ。その判断は正しい。こうして自室を突破されたのだから。
ケイトは思わず「やば……」とつぶやいた。
停電だろうとネットワーク遮断があろうと、変わらず最強レベルのセキュリティが施されているであろうイグニハイドの寮長室の扉まで突破されている。
ケイトが予想していた以上に、周囲は熱心に、イデアを追いつめようとしている。
---
主犯だと疑われたうえに、自室を追い出されたようなものだ。主犯なのは本当だが、作戦がなければそもそもやらなかったことだ。
イデアにとってはただ分が悪いだけの、夜明けまでというタイムリミットなど──ケイトとの約束など、もうやぶってしまえばいい。
なのに停電とネットワーク遮断はまだ続いている。作戦はまだ遂行し続けてくれている。
──イデアくん。どうして、ここまでしてくれるの?
イデアはどこに逃げたのだろう。作戦は成功したのだと、早く伝えたい。なのにイデアの行方はわからない。
どうすればイデアに会えるのか。ケイトは思考に沈んでいく。
---
急に神妙な面持ちで黙り込んだケイトを、三人は見る。
「ケイトサン?」
「あー……うん……」
エペルに呼ばれても、ケイトは生返事しかしない。
デュースはケイトを心配し始める。逆にエペルはいぶかしみ、さらに呼びかける。
「ケイトサン! なにボーッとしてるんですか!」
「あっ、えーと」
こうも声をはられると、さすがに無視はできない。ケイトは白状する。
「実はけーくん、昨日の放課後にオルトちゃんにバッタリ会ったんだよね」
ウソは言っていない。作戦に必要な小型ライトをオルトが用意して、ケイトに持ってきてくれたのだから、会っている。
ジャックがケイトに近づく。ケイトに嫌がられない範囲内で、すん、と鼻を鳴らす。
「……確かにオイルの匂いがするな」
「……ハグしたからね!」
これもウソではない。作戦成功を願って、オルトはケイトにハグをプレゼントしてくれた。
その際に、オルトに自慢されたのを覚えている。
──兄さんね、僕に新しい潤滑オイルをさしてくれたんだ! 動きやすくって最高だよ!
そのオイルの匂いが、ハグしたときに服についたらしい。
ケイトは思わずつぶやく。
「オルトちゃん、元気そうだったけど、いまも大丈夫かな……」
「ケイトサンもオルトクンを心配してくれてるんですね」
ジャックの証言もあり、エペルは納得したようだ。いまはケイトに笑顔を見せている。
ケイトは心の中でホッとした。怪しまれながらだと、イデアを探しづらくなる。
今度はデュースがケイトに声をかける。
「オルトならシュラウド先輩を見捨てません! きっと一緒に逃げて、シュラウド先輩をサポートしてます!」
「それだと共犯になるじゃねーか」
ジャックが口を挟んだ。ぶっきらぼうな言い方だったが、耳は心配そうにしおれている。オルトがこの騒動に関わっているかもしれないことに、思うことがあるのだろう。「イデアサンもいるなら、バッテリーが切れる心配はない、かな」とエペルがフォローしても、ケイトの良心はチクチクと痛んだままだ。
20話 イデアはどこへ・3
もう三人から得られる情報はないだろう。そろそろここから離れようかとケイトが判断しかけた時。
ジャックがピンと耳を立てた。ぐるりと首を動かして、ある一点を見つめている。
ケイトたちにとっては突然の行動だった。つられてジャックが見ている方向に目をやる。
門と鏡舎をつなぐ大階段があった。門前にいるケイトたちからだと、大階段の最上部しか見えない。
デュースが問いかける。
「どうしたんだ? ジャック」
「さっきまで俺たちの近くにいたフロイド先輩が、急に走って階段を下りていった」
エペルとデュースが首をかしげる。顔を見合わせて、交互に言う。
「一人で、ここに?」
「リーチ先輩もシュラウド先輩に会いに来たのか?」
「……そうかも。主犯を叩けばこの騒ぎも解決するし。あの先輩なら、困ったときも力づくでやる、かな」
「あの人にも『困る』って感情があるんだな……」
「それにしちゃ困ってる様子じゃなかったがな」
そう言ったのは、実際に見たであろうジャックだった。
新情報の予感がしたケイトは「どんな様子だったの?」と問いかけた。
ジャックは不思議そうに答える。
「怒ってました。なんか、『よくも金魚ちゃん──』続きは聞き取れなかったんですけど、そう言ってて……なんでそこでリドル先輩が出てきたのかわからねえ」
金魚ちゃん、という単語が聞こえて、ケイトはジャックを凝視する。
「それ……ホント?」
ジャックはジロリとケイトを見る。
「ウソついてどうするんすか」
とっさにケイトはへらりと笑って「ごめんごめん」と謝った。けれど内心は動揺していた。
---
イデアが起こした騒動と、リドルの名を言ったフロイド。その二つが結びつくことなど、簡単に想像できる。
脳を機械に侵されて苦しんでいるリドルを、おそらくフロイドが気づいた。機械といえばイデアだ。イデアをどうにかすれば、リドルが治る。そう判断したら、とにかくイデアを探すはずだ。
恋人を害されたことに、怒りながら。
そして探している最中に、急に駆け出した。ということは、明確な目標が見つかったからだ。
その目標物が、イデアだったとしたら……。
---
最悪な結末を思い描いたケイトは走り出そうとして、理性で止めた。ここで急に走り出したら怪しまれる。
なのでケイトは笑顔で三人に手を振る。
「デュースちゃんたちの様子も見れたし、先に帰ってるよ。じゃあね!」
ウソだ。ケイトはまだハーツラビュル寮には帰らない。
三人の返事をまばらに聞いて、ケイトは歩いてその場を離れる。三人の視界から外れた途端、笑顔を引っ込める。やっと走れる!
ケイトは大階段を駆け下りていく。その最中に、嗅覚上昇の魔法を自身にかける。ジャックの言葉を信じるのなら、大階段に付いた最新の匂いが、フロイドの匂いだ。
大階段を下りきったあとも、付いたばかりの匂いは途切れない。それは鏡舎ではなく、霧がただよっている湖周辺まで続いている。
ケイトは霧の中を突っ込んでいく。最初からひどく霧が濃い。暗闇も相まって、視界がほとんどきかない。濃霧のせいで、匂いはもううすまり始めている。匂いを逃がさないために、走るのをやめた。駆け出しそうになる足を必死に止めて、匂いに集中して、小走りで追っていく。
---
やがて霧がうすい場所に出られた。夜明けが近いのか、周囲は明るくなってきている。
すっかりイグニハイド寮から離れた、静かな場所。波風が立っていない湖のすぐそばにある、霧で囲まれた空間の中央に、フロイドはいた。
彼の周辺の岩場は濡れていて、てかてかしている。霧の水分にしては色が濃い。フロイドがマジカルペンを持っているから、水魔法を使ったのだろう。
そして、フロイドがにらみつけているのは。
「イデアくん!!」
うずくまっているオルトに覆いかぶさっている、生身のイデアだった。
21話 疑わしきは追え・1
イグニハイド寮前にある、鏡舎に続く鏡の前。エペルは顔をくちゃくちゃにしかめていた。
「帰りたぐね……」
エペルはヴィルに無断で、深夜に抜け出したのだ。しかもほぼ徹夜なので、外出というよりは外泊だ。
無断外泊に加えて、美の敵である夜ふかしの罪。遅かれ早かれ、叱責は必ずやってくる。ならば早く済ませたほうがいい。なのにエペルの足は動かない。
「帰りたぐねぇ……」
意味のないつぶやきをもう一度繰り返して、棒立ちになってしまうほどに、エペルは帰寮をしぶっていた。
デュースはエペルの気持ちがよくわかる。心の底から同意する。
「怖いよな……帰りたくないよな……わかるぞ」
寮長の怒りは、寮生の恐怖。例外のジャックだけが、エペルの背中を押す。
「あとは俺らに任せて、とりあえずお前は帰っとけ。正直に話しとけば、ヴィル先輩だってめちゃくちゃに叱ったりしねえよ」
エペルが立ち尽くすこと、数秒。
「……うん」
ついにエペルは決意した。
デュースとジャックに体を向けて、言う。
「うだうだしてゴメン。僕、帰るよ。また学園で、ね」
「ああ! またな!」
「いちおう仮眠はとっとけよ。一時間だけでも効果はあるからな」
「うん。おやすみ。デュースクン、ジャッククン」
エペルは鏡の中に入っていった。
残された二人は鏡の前から離れていく。
大階段の前に戻った。周囲に誰もいないことを確認してから、ジャックはデュースに言う。
「これからのことだが」
「ああ」
「ケイト先輩のあとを追うぞ」
デュースはキョトンとする。問いかける。
「ダイヤモンド先輩ならうちの寮に帰ったが。うちに来るのか?」
「違え。……あー」
言いにくそうに、ジャックは続ける。
「あの人、なんか……きな臭えんだよ」
デュースはジャックをにらみ、吠える。
「先輩がオルトをさらったって言いてえのか!?」
「それがわかんねえから、あとを追うって言ってんだ!」
あっけなく勢いを削がれたデュースは「どういうことだ?」と素直に問いかけた。
ジャックは答える。
「あの人、いっつもマジカメやってんだろ。明らかにネットから離れられねえ人だ」
「そうだな。いつもスマホを触ってるぞ」
「そんな人が、元凶のイグニハイド寮に来てなかった」
「さっき来てただろ」
「……すぐにここに来た俺たちとずっと会ってなかったから、すぐには来てないだろ」
「ああ! 確かに」
「じゃあ、俺たちと会うまで、どこにいた?」
「それは、うちの寮に……あ」
──そういえば、ダイヤモンド先輩は、どこにいたんだ?
改めてデュースは停電とネットワーク遮断が起こった時を思い出す。
---
その時、デュースは寝ていた。いきなりルームメイトに揺すり起こされた。
いわく、ネットがつながらない。ベッドサイドライトが点かない。いつもは誰にも迷惑をかけないタイプの夜ふかし常習者だったが、さすがに今回は寮全体に被害が出ていそうだったため、起こしたそうだ。
他の部屋の夜ふかし常習者たちの手もあって、情報はまたたく間に寮全体に共有されていった。つまり、ほぼ全員、起こされたのだ。
そこにケイトはいただろうか。
「うちの寮には……いなかった……」
だからトレイは常に忙しそうだった。
それを見かねたから、デュースはトレイの許可をもらい、単身でイグニハイド寮に向かったのだ。もちろん、オルトが心配なのもあった。
イグニハイド寮に着いて、デュースはすぐに大階段を上がった。その先でジャックとエペルに会った。門は閉じていた。イデアに会えなかったから、三人でオルトを探した。鏡の前には常に誰かが見張っているから、イグニハイド寮からは脱出できないはず。なので三人もイグニハイド寮に留まり、寮の周辺を探した。途中でセベクにも会ったが、『若様がどこに行かれたか知らないか!?』と叫んできて、知らないと伝えれば、あとは一言か二言ほど言葉を交わして、別れた。気を取り直して、そのあとも寮の周辺を、行ける範囲まで探していった。気分転換にふたたび大階段を上がって門前に戻れば、イデアは寮長室にいないことが発覚していた。
その間、デュースたちは一度も、ケイトを見かけてすらいない。
---
「どこに……いたんだ?」
思わずデュースはつぶやいた。
ジャックは言う。
「いまは、あの先にいる」
ジャックの視線の先を、デュースも見る。
寮の周辺の中でも、ひときわ濃い霧が立ち込めている。教師や先輩たちの許可もなく入るのは危険だと判断して、オルトを探しているときでも入らなかったところだ。
ジャックはうなる。
「ケイト先輩の匂いが、あの先に続いてんだ。あっちの鏡じゃなくてな。先に帰るってのはウソだったんだよ」
「そんな……じゃあ、先輩がオルトを……」
「まだ決まってねえし、これだけで犯人扱いなんざ、あんまりだ。だから……確かめてえんだよ!」
ジャックはユニーク魔法をとなえる。巨大な白狼の姿に変わる。デュースの横で四本足をたたむ。
「乗れ! お前も行くだろ!」
問いかけではなく、確信だった。
ジャックのつがいは、信頼している先輩に裏切られたかもしれないショックを、いつまでも引きずる男ではないのだ。
ジャックの期待通り、デュースは力強くうなずいた。
オルトの安否を心配しつつも、二人は心のどこかでずっと、今回の騒動を楽観的に見ていた。きっとエペルもだ。
ただのイデアのやらかしだろうと。全寮を巻き込んだ割には、どうせ大したことない理由だろうと。不甲斐ない兄に、オルトは仕方なく巻き込まれてあげただけだろうと。
けれど、無関係だと思われていたケイトも関わっているかもしれないのなら、話は変わってくる。
抜け目のないケイト相手だと、事態がどう転ぶか未知数なのだ。良い意味でも、悪い意味でも。
もし悪い意味なら、目も当てられない事態になる恐れがあった。
二人の心は同じだ。
この濃霧の先を進むと決めた。教師や先輩たちの許可など、いらない。
オルトの無事を、早くこの目で確認したい。
「超特急で頼む!!」
デュースはジャックの背中に乗る。ふわふわした長毛を遠慮なく両手でわしづかむ。
背中に伝わるぬくもりに向かって、ジャックは立ち上がりながら忠告する。
「振り落とされんなよ!」
「当然だ! こちとらマジホイで鍛えられてんだ!」
「よし、行くぞ!」
ジャックはデュースを乗せて、駆け出した。
22話 疑わしきは追え・2
白狼の姿になれば、嗅覚の性能は、いつもの獣人の姿よりも格段に上がる。濃霧の中をほぼ全速力で走りながらでも、ケイトの匂いを的確に追えた。
走りに特化した四本足は、人が走るよりもはるかに早い時間で、ジャックが異変を感じ取れる位置まで移動できた。
まだまだ深い霧の中。ケイトの姿は見えていない。なのにジャックはデュースを振り落とさない程度に、ゆるやかに止まった。
ジャックに乗ったまま、デュースは問いかける。
「どうしたんだ?」
ジャックは鼻をすんすんと鳴らしてから、答える。
「匂いが混ざってきた。これは……オルトのオイルか?」
「マジか!?」
「さっきケイト先輩から嗅いだばかりのオイルと同じやつだ。オルトとハグした時についたって話が本当なら、オルトのだ。しかも新しい」
「じゃあオルトはこの近くにいるんだな!」
「そうなんだが……匂いの数が多い」
「多い?」
「ケイト先輩と、オルトと、イデア先輩の三つだと自然なんだが……四つ、あるんだよ」
「四つも」
「ケイト先輩とオルトので、二つだ。つまり、あと二つある。状況的に一つはイデア先輩のだと思うが……もう一つは誰のだ?」
「ジャックにもわからないのか」
「……どこかで嗅いだことがあっても、全部覚えてるわけじゃねえからな」
ややふてくされたようなジャックの声色。
デュースは毛をつかんでいた手を離す。
「そう落ち込むな! お前はよくやってるぞ!」
元気づけさせようと笑顔で、ジャックの背中で腹ばいになり、ジャックの頭を両手でわしわしとなでた。
恋人というよりは犬扱いだ。ジャックは低くうなる。
「おい、やめろ……あ?」
ジャックはまた鼻を鳴らす。耳を立てて、くりくりと動かしながら、言う。
「水の匂いもしてきた」
デュースはジャックをなでていた手を止めて、腹ばいのまま言う。
「湖ならすぐそこにあるからな」
「いや、湖からじゃねえ。これは……」
せわしなく動いていたジャックの耳が、ある方向に向いた。
「あっちからイデア先輩の声が──」
した、とジャックが言い切る前に。
突風が二人を襲った。
熱を帯びた風は、ジャックの体をわずかによろけさせた。ジャックより遥かに軽いデュースの体は、あっけなく吹き飛ばされた。
「デュース!!」
ジャックは瞬発力を発揮する。デュースが地面にぶつかる前に、大きな口でデュースをくわえた。
デュースを囲うように巨体を丸めて、まだ続く突風からかばう。
ジャックにくわえられながら、デュースは叫ぶ。
「ジャック!! 俺をかばうな! こんなのフェアじゃねえ!」
口が不自由なジャックは何も言い返せない。ぐっと黙って、こらえている。
ジャックの体のりんかくから漏れ入っている風が、だんだん弱まってきているのを、デュースは感じる。
「おい! そろそろ離せ! もう大丈夫だろ!」
ジャックもそう判断して、そっとデュースを解放する。先ほどのデュースの文句に反論する。
「『かばうな』だあ!? うるせえ! つがいを守って何が悪い!」
「俺だって守りたかった!」
「適材適所ってもんがあんだろが! てめえの体じゃあ耐えられねえ! ぶっ飛ばされて、しまいだ!」
「ぐ……っ!」
言い負かされたデュースは、歯を食いしばる。どこにも振るえない拳を、ただほどいた。
「ありがとう……。感謝は、してる」
「……」
「でも! 受け身はとってたからな!」
「わかってるよ……」
デュースは強い。自分の身は自分で守れることくらい、ジャックもわかっている。だが、理屈ではないのだ。つがいを守りたいと思う気持ちは。
デュースはそこがいまいち理解できていない。いまも警戒しながらとはいえ、ジャックの体のかげから出ようとしている。
しかしジャックも過保護ではない。初出のとき以上の突風はもうないだろうと判断すれば、デュースの自由にさせる。
いまも風が吹いている方向を、デュースとジャックは見る。
いったい何が起こったのか。
「……」
「……」
風が熱かったから、炎があがったという予想はしていた。
けれど、美醜の程度までは予想できていなかった。
二人の目が、しばし釘付けになる。
風で霧が晴らされた、その先にあったものに。
それは夜明けの太陽だった。
23話 夜明けの太陽
ケイトに気づいたフロイドが、ケイトを見やる。無表情で、瞳孔はずいぶんと開いている。
「……あ? ハナダイくんじゃん。なんでこんなとこにいんの?」
「それは……」
ケイトの脳内を占めているのは、フロイドの問いかけにどう答えるかよりも、イデアとオルトの安否だった。
改めて二人の容態を遠目で確認する。
気を失っているのだろう。イデアはオルトに覆いかぶさった姿勢のまま、動かない。オルトもまったく動かずにいる。スリープモードに入っているだけだと思いたい。
顔を伏せているイデアもオルトも、二人の周囲の地面も濡れていない。水魔法を浴びていないようだ。代わりにそこ以外の一帯はびしょ濡れで、水の匂いに酔いそうだった。
やっとケイトは自身にかけていた嗅覚上昇の魔法を思い出す。ペンを握り、魔法を解いて、濃い匂いから脱出した。
何も答えないどころか、勝手に魔法を解除しだしたケイトを、フロイドは気に食わなかったようだ。
イデアとオルトに向けていた体をケイトに向けて、フロイドは低い声で問いつめる。
「なあ、何してんの? オレのこと、無視してる?」
「してない……」
「じゃあ答えろ。なんで、ここに、いんの?」
考えるひまはなかった。ケイトは思うままに言う。
「イデアくんとオルトちゃんを助けに来た」
「……ふーん」
適当な返事なのに、フロイドは青筋を立てた真顔のままだ。
イデアとオルトから離れていくフロイド。とりあえず二人がすぐ害される恐れはなくなったらしい。
代わりに近づかれたのはケイトだった。フロイドのターゲットが変わったのだ。
「助けに来たってことはさあ……オレの邪魔をするってことだよなあ……?」
フロイドはペンを構える。ふくれた魔力が、生み出した水に込められていく。圧縮された水は、人間の鼻でも感じとれるほどの匂いを放っている。強力な水圧で、ケイトを攻撃するつもりだ。
──まずいな。
ケイトもとりあえずペンを構えたが、スマートな対処法が思いつかない。
水魔法がケイトに向かって放たれた。
まずは防壁をはろうと、詠唱を始めた瞬間だった。
イデアがハッと顔を上げた。
強い怒りが込められたフロイドの魔力を感じ取って、目を覚ましたのだろう。
水魔法がケイトに迫る中。起きたばかりのイデアの目と、ケイトの目が合う。
スローモーションのように、イデアの口が開かれる。
「ケイト!!」
タブレット越しではない、生身の声。
攻撃を受けたらそのまま怪我をしてしまう、生身の姿。
もしここで自分がやられたら、この攻撃が、今度はイデアに向けられてしまう。
その思考に至ったケイトは。
なりふり構っていられなかった。
防御魔法から、瞬時に攻撃魔法に切り替える。
フロイドを攻撃するためではない。
圧倒的な実力差を見せつけるためだ。
ケイトたちを中心に囲うように、爆炎が巻き起こった。
膨大な熱に触れただけで、フロイドの水魔法はすべて一瞬で蒸発した。残された水蒸気も、熱を帯びた突風に巻き込まれていった。
イデアたちを吹き飛ばさないように、彼らがいる中央部の風は抑えたが、爆炎の外周はきっと悲惨なことになっている。ケイトには関係ない。
そう。ケイトは周囲の状況など、まったく気にしていなかった。
すべてはイデアを害させないため。
恋しい者しか考えていない、利己主義な暴君。
風で髪が激しくなびいているケイトの背後を彩る爆炎は、スマートさのかけらもない、苛烈なもの。
女王の怒りが苛烈ならば。
前女王の怒りも苛烈なのだ。
そしてイデアとフロイドは見た。
澄んだオレンジ色の──まるで夜明けの太陽のような色の光が、あたりを支配している様を。
たったいま、この一帯の夜が明けた。
「夜明けの太陽光を確認。再起動します」
オルトの声がした。
イデアにかばわれていたオルトが、ふわりと浮く。目を閉じたままイデアから離れて、空に向かって両手を広げた。
手のひらの関節部の隙間から蒼い光が漏れて、空に昇っていく。もやのような光は収束を始め、ビー玉サイズの光球になり、バシュン、と高速で放たれた。
光球が目指した先は、イグニハイド寮。寮の外壁をすり抜けて、寮内に残していたメインシステムにぶつかった。
光球を受けて、駆動を再開するメインシステム。電気が、ネットワークが、復旧していく。
夜間モードにしていなかったフロイドのスマホが、通知を受けて震える。
フロイドは「あ」とだけ言って、スマホを取り出す。画面を見て、つぶやく。
「つながった」
ペンをしまうフロイドからは、もう敵意が感じられなかった。
ケイトはオルトを見つめたまま、炎魔法を解除する。ペンをしまう。風に巻き上げられた髪は、すっかりボサボサになっていた。
地面に着地したオルトの目が開かれる。イデアを見る。
「おはよう、兄さん! 電気とネットワークはつなげたよ!」
イデアはあたふたと言う。
「あ、ありがと、オルト。でも、えーと」
「兄さん?」
「実はまだ、夜明けじゃなくて……」
ざり、と音がした。
イデアとオルトは音がしたほうを見る。
ケイトだった。
爆炎ですっかり乾いた地面の上を、ケイトは、ざり、ざり、と歩いている。二人に近づいていく。
ケイトの目の前にオルトは移動する。
「おはよう、ケイト・ダイヤモンドさん! 作戦はどうなったの?」
ケイトがオルトを見ながら何かを言う前に、イデアは二人の間に割り込む。
ケイトの目がイデアに向けられる。イデアはケイトと目が合わせられない。目をそらしながら、あわあわと手をあげて、早口で弁明していく。
「ケイト氏。あの、これは、拙者の余計な気づかいと言いますか、ほんとはオルトに内蔵された時計だけでもよかったんだけど、もしかしたら、もしかしたら壊れる可能性もなきにしもあらずで、そしたらタイムリミットが来ても電気もネットも復旧させられないし、いや、部屋に閉じこもってればオルトに遠隔操作してもらわなくてもいいし、そもそも部屋に予備バッテリーがあるんだから、内蔵バッテリー節約のためにオルトをスリープさせなくていいんだけど、やっぱいつかは部屋から脱出しなくちゃで、メインシステムは部屋にがっつり固定してて持ち運びなんてできないし、でも拙者たちはそこから離れなくちゃいけないし、まあ離れるのは想定内ですし、ちゃんと対策もしてましてな、拙者たちが離れてもオルトがいなくちゃメインシステムは動かせないようにしたし、スリープ中のオルトを軽く運べるように反重力物質で浮かせるようにしたし、拙者の体臭もオルトの関節の潤滑オイルも作戦前にあらかじめ変えといて、すでに拙者たちの匂いを知ってる獣人や人魚相手でも匂いで追えないようにしましたし、そのうえ光学迷彩マントで姿も消して寮から脱出なんてお茶の子さいさいでしたわ、まあゴーストみたいに通り抜けられるわけではないんで、鏡をくぐったら波紋で一発でバレるから鏡舎には行けなかったわけでして、それでも霧の中で隠れてやり過ごせば、オルトの内蔵時計だけで再起動はできますし、そう思って安心して待ってたら、なんかヤクザがやってきたし、めちゃくちゃ怒ってたし、もう拙者、オルトを抱えてバリアをはるので精一杯で、こ、怖くて、いつのまにか気絶しちゃってて、でもあのままやり過ごせてたら、けっきょく時計だけでオルトは起きられたんだし……や、やっぱり、余計だったよね。時計が壊れてもいいように、夜明けの強い光を浴びるだけでも、オルトが起きて、電気とネットを復旧させられるように、なんて」
「イデアくん」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい夜明けまでという約束をやぶってごめんなさい」
「イデアくん」
「は……はい……」
とうとう観念したイデアは、おそるおそるケイトと目を合わせる。
ケイトは怒っていなかった。
ただ、イデアを見つめている。
「イデアくん」
「……ケイト氏?」
「イデアくん。イデアくん。イデアくん……!」
ケイトはイデアの話を聞いていなかった。
何も耳に入らず、ただひたすらに、イデアの存在を感じていた。
「作戦……成功したよ……」
「え……」
「エースちゃんに……会えたよ……!」
「……本当に、会えたんだ。エース氏に……」
意識のないエースに会えただけなのに。
花吐き病を治したのはマレウスなのに。
まだ罪の告白はしていないのに。
まだ許されたわけではないのに。
またイデアの声を聞けて。
またイデアに会えて。
「よかった」
こうして、やわらかく笑って、作戦成功をいっしょに喜んでくれただけで。
やっとケイトは、心の底から安心できた。
「うわあああああああああああん!!」
ケイトは大声をあげて、泣いた。
涙とともにあふれる恋しさのままに、イデアに抱きついた。
イデアの肩に顔を埋めて泣き続けるケイト。イデアはどうしたらいいのかわからない。わからないけれど、とにかく泣き止ませたかった。
弁明の際に中途半端にあげていた腕で、おそるおそる、ケイトを抱きしめる。
二つのやわらかい影が重なる。霧はすっかり晴れていた。あらわになった湖面から、オレンジ色の光が覗こうとしている。
現実の夜も明けそうだ。
24話 一件落着
オルトは自分たちに近づいてくる存在に気づいた。
白狼の姿で駆けているジャックと、ジャックの背中に乗っているデュースだ。
「オルト!」
「オルトー!」
「ジャック・ハウルさん! デュース・スペードさん!」
オルトはケイトとイデアを置いて、二人に向かって飛ぶ。
中間地点で、三人は合流した。
ジャックはオルトに問いかける。
「何があったんだ!?」
オルトはにこりと笑いながら白状する。
「ごめんね! 停電とネットワーク遮断を起こしたのは僕たちなんだ!」
ジャックから降りたデュースは確認する。
「えーと、それはオルトと、シュラウド先輩と……?」
「ケイト・ダイヤモンドさん!」
「マジか……!」
ケイトも今回の騒動の共犯者だったことをオルトに明かされて、デュースはショックを受けた。
これだけで動揺されてしまったオルトは、さらに明かそうか迷う。ケイトはエースに会うために、今回の騒動を起こしたことを。
高速で迷った結果、オルトからは明かさないことにした。騒動を起こした責任を取る際に、ケイト自ら、明かしてくれるだろう。
まだケイトのことで動揺したままのデュースは、勢いで問いかける。
「じゃあ、さらわれてないってことでいいのか!?」
オルトは問い返す。
「さらわれた? 誰が、誰に?」
「オルトが、ダイヤモンド先輩に」
「ええ!? 違うよ! ケイト・ダイヤモンドさんはそんなことしないよ!」
オルトはあわてて首を振った。その全力の否定を、ジャックは素直にうなずけない。
あの突風を放ってきた炎は、魔力の出どころを見るに、間違いなくケイトが起こしたものだ。
ケイトはそれを、ジャックたちに食らわせた。ケイトにとってはかわいい後輩のはずの、ジャックたちに。
目的のためなら周りを害しても構わないと考えなければ、できないことだ。たとえ無意識だったとしても。
やはりケイトは危険な先輩だ。オルト誘拐の疑いが晴れても、気を許せない。
「……はあ」
それでもジャックは、ケイトの魔法の巻きぞえを、つがいのデュースに食らわせたことに文句を言わない。
サバナクロー寮は弱肉強食がモットー。よその戦闘の巻きぞえ程度で、文句を言うほうがおかしい。むしろそれでつがいを守れないほうが悪いのだ。
一方デュースは、突風に吹き飛ばされたことは覚えていても、ケイトに害されたという発想には至らなかった。
「ダイヤモンド先輩もこの騒動を起こしてたのは、少しショックだが、僕たちは……オルトが無事だったんなら、もうそれでいいんだ。エペルたちも、そう思ってくれるはずだ」
そのデュースの言葉に、ジャックはうなずく。遠くにいるケイトとイデアを見る。
二人は抱きしめ合ったままだ。ケイトがすすり泣きながらイデアに何かを言っているようだが、小声なので、ジャックにも聞き取れない。イデアが何度もうなずいているから、受け入れられない話ではないのだろう。
「俺たちに被害がなきゃ、あの人たちはあの人たちで、勝手にやってくれって感じだな」
ジャックはもう遠くの二人に興味がない。ユニーク魔法を解いて、獣人の姿に戻った。
反対に、デュースは遠くの二人に興味津々だった。顔を赤らめて、気まずそうに言う。
「知らなかったな。まさかダイヤモンド先輩とシュラウド先輩が、つ、付き合って、いたなんて」
ジャックとオルトは反論する。
「はあ? くっついてるだけでか? 飛躍しすぎじゃねえのか」
「兄さんとケイト・ダイヤモンドさんは付き合ってないよ!」
「え!? あんなに長くハグしてるのに!?」
異常だと言わんばかりのデュースに、ジャックは呆れる。
「だから、それだけじゃあ、付き合ってるなんて──」
まだ言っている途中のジャックに、デュースは爆弾を落とす。
「ジャックが僕にいっぱいハグしてくるのは、付き合ってるからだろ?」
「……」
「あと、よく舐めてくるのも──」
「やめろ!!」
二人きりならともかく、いまはオルトがいるのだ。赤裸々に語られてはたまらない。
オルトがフォローする。
「大丈夫だよ! ヒューマノイドとして、そういう知識はインプットされてるから!」
「それはそれでいたたまれねえよ……!」
無邪気なオルトも見ていられなくなり、たまらずジャックは顔を背ける。
その視線の先に偶然あった光景に、ジャックは羞恥を忘れて、目を瞬かせる。
ひとけがない場所のはずなのに、人が走っていた。ジャックたちから離れていく後ろ姿は、髪型を見るに、おそらくフロイドだ。足取りがやけに軽い。機嫌が良いらしい。
ジャックはハッとする。
──あの匂い……あいつのだったか!
ケイトのあとを追っている最中。四つあった匂いのうちの一つの正体は、フロイドだったようだ。
あらぬ方に目をやったかと思えば、また突然顔をしかめだしたジャックの奇行に、デュースとオルトは不思議がる。
25話 フロイドの動機
朝。いつもより遅い時間に、リドルは目を覚ました。
ベッドの中にいるリドルの上で、何かがもそもそと動いている。慣れたリドルはそれが何なのかをすぐに察した。
たぶんフロイドだ。
「ばあ」
リドルのすぐ正面で、掛け布団の中から顔を出したのは、やはりフロイドだった。フロイドでなければ燃やしている。
ほぼ毎朝、フロイドはこうしてベッドの中に潜り込んで、リドルを起こしにくる。すっかり目覚まし時計の代わりになったフロイドに、リドルは寝ぼけまなこであいさつをする。
「おはよう」
「おはよ〜」
機嫌よくあいさつをしたフロイドは、顔を伏せて、リドルの胸に甘えた。
リドルは小さく笑いながら、いつものように、形だけしかる。
「こら。また忍び込んできたのかい」
「んふふ。窓の鍵、開けといてるくせに」
「閉めてやってもいいんだよ」
「いいよ〜。そんときゃ何度でも窓、叩いちゃうから」
「およし」
くすくすと笑い合う。リドルの首にリップ音を鳴らしてから、フロイドは言う。
「ハナダイくんとケンカしちゃった」
リドルはパチクリとまばたきをする。すぐ近くにあるフロイドの目を見る。
「それはまた……命知らずなことをしたね」
「丸焼きにされるかと思った〜。あは」
「どうしてケンカしたんだい。答えによっては……おわかりだね?」
リドルから少し不穏な空気がただよう。まだベッドの中でリドルに甘えたいフロイドは、機嫌を悪くさせないよう、すぐに答える。
「金魚ちゃんとお話し中だったのに、電話、切れちゃったじゃん」
零時直前に、スマホで通話していたときの事だ。
リドルは疑問のままに言う。
「……あれは君から切ったんじゃなかったのかい」
「金魚ちゃんからかけてくれたんだよ? オレから切るわけない」
恥ずかしいことを言われた気がするが、リドルは突っかからない。
フロイドは続けて言う。
「いきなりつながらなくなるなんてさあ、ホタルイカ先輩のしわざに決まってんじゃん」
「そうとは限らないけれど」
「限るし。ここいらのネットって、ホタルイカ先輩が仕切ってんでしょ? 障害が起こったって、あの先輩ならすぐ直せるはずなのにさあ……待っても待っても直らないってことは、もう、あいつが犯人だよねえ」
短絡的な思考に、リドルは呆れる。続きを催促する。
「……それで、実際はどうだったんだい」
「犯人っぽかったから、シメた。その途中でハナダイくんがやってきてさ、『助けに来た』なんて言うからさあ……」
「なるほど、わかったよ。逆にシメ返されたわけだ」
リドルは得意げに言った。
フロイドは不思議そうに言う。
「つーかさあ、金魚ちゃん、全然苦しくなさそうじゃね? 電話してきたときは死にそうだったのに」
「あれは……」
リドルは思い出す。深夜に、突然目を覚ましてしまったときだ。
---
脳がガンガン揺さぶられているかのような気持ち悪さが、急にリドルを襲った。
何の前触れもなく起こった頭痛。一人ではどうにもできず、とにかく助けを求めようと、枕元にあったスマホを手探りで取った。
誰に助けてもらおうか。
痛む頭で思い描いたのは、一番頼りになるはずの副寮長のトレイではなく、恋人のフロイドの姿だった。
効率など考えられず、リドルはフロイドに電話をかけた。
深夜にも関わらず、フロイドは出てくれた。
助けてほしいと言いたくても、口から出てくるのは、ぜいぜいとあえぐ息づかいだけ。
異常を感じ取ったフロイドのあせったような声が聞こえて、ようやくリドルは言葉を出す。
──このまま、声を聞かせてくれ。
リドルが求めたのは、物理的な介助ではなく、フロイドの声だった。
電話越しのフロイドの声を聞くだけで、気持ち悪さが激減したのだ。
フロイドの声は、リドルに安心を与えてくれる。乱れていた脳を癒してくれる。
あらかった息づかいが、すうっとおさまった。
──電話の君の声、いつもと違う気がして、好きだな。
最後にそう言えば、通話が切れた。
フロイドから切るなんて珍しいと思いつつも、リドルは特に気にしなかった。健康体に戻ったまま寝て、いまに至る。
---
それら一連の出来事と自身の想いを、リドルはフロイドに打ち明けた。
フロイドは顔を赤らめて、トロンとした目で言う。
「オレの声聞くだけで治っちゃったなんて、すげえ告白じゃ〜〜ん。あーあ。ホタルイカ先輩なんてシメに行かないで、すぐ金魚ちゃんに会いに行けばよかった」
あの電話で治っていたのだとしたら、イデア探しはとんでもなく無駄足だった。
---
零時を数十分ほど過ぎた頃だった。
ネットワークを復旧させるために、フロイドはイデアを探そうとした。
フロイドは全校生徒の匂いを覚えている。だから改めて嗅ぎ直さなくても、イデアと、イデアのそばにいるであろうオルトの匂いをたどれるはずだった。だが匂いを変えられているのか、時間をかけて探しても、彼らの匂いはまったくしなかった。
他の手がかりも見つからなければ、他人頼みだ。何か情報が得られるかもしれないと、門前に戻ったときだった。
大きな収穫があった。
昨日の放課後に、オルトはケイトとハグをしていたという情報が、当人のケイトから聞こえてきたのだ。
オルトが自身についたケイトの匂いを消していなければ、ケイトの匂いを思い出して、それを追うだけで、オルトのもとにたどり着ける。
オルトに会えれば、イデアにも会えて、シメられる。
──よくも金魚ちゃんからの電話を切りやがったな。
フロイドの行動は早かった。急いで大階段を下りて、オルトについたであろうケイトの匂いを追った。ちなみにここで駆けたときの足音をジャックに聞かれていたのを、フロイドは知らない。
結果、ネットワークは復旧された。
直後に届いたアズールからの連絡などどうでもよくなり、フロイドはリドルの目覚ましのためにハーツラビュル寮に向かい、いまに至る。
---
夜通しイデアを探していたため、ほぼ徹夜のフロイドは、リドルに甘えたまま眠ろうとする。
リドルは少しだけ強い口調で、フロイドをしかる。
「こらっ。ボクの目の前で二度寝とは、度胸がおありだね」
「んん〜〜……。だってぜんぜん寝てないんだもん。だいたい金魚ちゃんが深夜に起こさなかったら、オレだってちゃんと寝てたよお?」
「うっ。……それは、確かに」
フロイドはくすくすと笑う。
「冗談だよ。金魚ちゃんが苦しんでるときに連絡されないなんて、そっちのほうがずっとやだ」
「……ボクもだよ」
リドルはフロイドを抱きしめる。フロイドの額に口づけて、小声で言う。
「ボクも、君が一人で夜ふかしするなんて嫌だ。今回はボクが原因だったけど……これからは眠れないことがあったら、ボクが寝かしつけてあげるよ。電話でね」
フロイドはときめく。リドルの胸の中で、きゅうきゅう、と人魚特有の甘え鳴きをする。
だが甘い時間は、フロイドがリドルに背中をバシンと叩かれたことで、終わりをむかえた。
目を白黒させているフロイドに向かって、リドルは言う。
「ほら、起きるんだよ! 授業に遅れてしまう!」
「ええーーっ!? やだやだ今日はサボるぅ! 金魚ちゃんは知らないかもだけど、けっこう大騒ぎだったんだよ!? どーせ授業やってる場合じゃないってえ!」
「学園側から正式な発表がなければ、ちゃんと登校するべきだ! 自主休講など許さないよ!」
わめくフロイドを、リドルは容赦なくベッドから蹴落とした。
26話 片想いと片想い
ケイトたちが起こした騒動から一週間後。
夜のディアソムニア寮内。防音魔法が施された、うす暗い寮長室のベッドの中。エースとマレウスは全裸でもつれあっていた。
二人は互いの裸体を舐めたり、吸ったり、甘く噛んだりと、きわどいところまで痕をつけ合っている。
服では隠せない首から上は、痕がつかない程度に、軽く吸うか舐める程度に落ち着いている。けれどくちびる同士がくっつくときは、その限りではない。
向かい合わせで座ったまま、あらい息でむさぼり合う。エースの舌はマレウスの口内に入れない。入ろうとしても、マレウスの長すぎる舌が邪魔をする。エースの口内を我が物顔で荒らしていく。負けじとエースの舌もマレウスの舌にからみつき、唾液をこすりつけていく。
「んぅ、んん……」
「……っ、はあ……ああ」
少しだけ開いたくちびるの隙間から、マレウスが吐息混じりの声を出す。それを合図に、二人のくちびるが離れた。
マレウスの舌が、ずるり、とエースの口から抜けていく。エースが軽くむせている最中、マレウスはエースの背中をさする。片手間に、ベッドサイドに用意していた銀製の器を引き寄せた。
エースの背中からマレウスの手が離れる。続けてエース自身からも身を離したマレウスは、器の真上で赤い花弁を吐いていく。
青ざめた顔色で眉をしかめつつも目を開けて、器の中に落ちていく花弁を見続けるマレウス。エースも花弁を見ながらマレウスに寄りそい、マレウスの背中をさすっていく。
マレウスを想おうとするだけではダメらしい。病はエースにだまされてくれない。
エースはまだ、マレウスに恋していない。
27話 セベクは知っている・1
校舎内の図書室とは別に、各寮にも、専用の書物庫が備わっている。『書物庫』と仰々しい名称が付けられているが、要は生徒たちが持ち込んだ本が置かれているだけの部屋だ。
生徒の気質によって所属寮が選ばれるので、寮によって書物の傾向が変わっている。というわけではない。男子高校生がほぼ無断で置いていった本の傾向は、人生においてためにならないものが大半を占めている。それを知らなかった頃のセベクは、興味本位で手に取った、下品なタイプの本を軽く読んでしまった。それ以来、セベクにとっては入る価値もない部屋である。
高尚を掲げるディアソムニア寮にふさわしくない部屋なのだから、早くつぶして、もっと有意義な部屋を新たに作ればいいのに。と以前のセベクはそう考えていた。
いまはその考えを訂正してもいい。
──エースのような生徒の気を紛らわせるためにも、必要なのかもしれんな。
その書物庫にエースが入ろうとしなければ、訂正しようとも思わなかった。
マレウスが不在で、なおかつセベクが寮内にいられる間のみ、セベクはこうしてエースの護衛をしている。よってセベクも、二度と入らないつもりでいた書物庫に、足を踏み入れることになった。
まずはセベクが書物庫に入り、瞬時に室内を見渡す。誰もいない。気配もしない。高尚な生徒たちの大半は、この部屋には入り浸らないのだろう。人の目に疲れているエースには、おそらく都合がいい。
異変はなかったので、セベクはエースを室内に入れる。入ったことを確認してから、扉を閉めた。
二人しかいない室内をキョロキョロと見ながら進んでいくエースを、セベクは追う。エースに問いかける。
「何が読みたいんだ?」
エースは歩きながら答える。
「んー……なんか恋愛もんとかがいいな」
「……意外だ。そんなものを読むのか」
「けっこういろいろ読むぜ。さすがに恋愛もんはそこまで読まねえけど、んなこと言ってらんないだろ。早くマレウス先輩のこと、好きになんないとだし」
「そんなものに頼らずとも、僕がいくらでも若様の素晴らしさを語ってやるぞ!」
「いらねー」
「なんだと貴様!!」
第三者がいないので、大声が出し放題である。
ケラケラと笑っているエースは、ずいぶんと元気になった。ルームウェア一択だった服も、いまはハーツラビュル寮の寮服をしっかり着ており、ハートのメイクもバッチリだ。ディアソムニア寮内では浮いている格好だが、この赤と白のほうがエースらしくて自然だ。
いまもディアソムニア寮内で軟禁されているとは思えないほどに、自然なエースの姿。
エースがここまで復帰できるのに、一週間以上はかかった。その間のエースと学園の様子を、セベクは知っている。……さすがにマレウスと寝ているときの様子までは知らないが。
28話 セベクは知っている・2
ネットゲームをたしなむリリアという例外はいるが、基本的に電化製品には頼らない傾向が強いディアソムニア寮は、停電とネットワーク遮断など脅威ではなかった。
それよりも夜の散歩の日でもないのに、マレウスが失踪したことのほうがおおごとになっていた。
寮生総出でマレウスを探した。自寮内や周辺だけではなく、他寮にも行った。結果、誰一人、見つけられなかった。
夜明けとともに、失踪した本人が自ら姿を現したからだ。
ディアソムニア寮の談話室で、捜索からいったん戻ってきたばかりの寮生たちが集まる中だった。
マレウスの腕の中で、何者かが横抱きにされている。体調不良者でも見つけられたか、とセベクは近寄った。
体調不良者の正体は、どこかの病院で隔離されているはずのエースだった。着替えの最中だったのか、やけに服が乱れている。服越しでもわかるほどに細くなった体で、深く眠っている。
どんなに探しても見つからなかったエースの存在にひどく驚いているセベクと、遅れて気づき驚いている寮生たちをいちべつしてから、マレウスは告げる。
──僕はトラッポラの花吐き病に感染した。
──茨の谷の次期当主が、他人に感染させてはならない。
──つまり僕が生きる方法は、片想いを成就させることのみ。
──なので、想い人のエース・トラッポラを、これから口説く。
そう告げた瞬間、見計らったかのように、マレウスは赤い花弁を吐いた。ちょうど真下にいたエースの腹の上に、ほとんどの花弁が乗った。
マレウスが素早く花弁だけを魔法で焼き消した瞬間、寮生たちはパニックになった。マレウス失踪直後の騒ぎがかわいく見えるほどに。
──おおマレウスや! ついに初恋が実ろうとしとるのか!
続いてリリアも、マレウスの初恋の相手はエースである、という爆弾を落とした。
──よし! 元老院のじじいどもの相手はわしに任せよ! あ、ついでにこのことはクロウリーにも言っておくぞ。
爆弾発言を処理せずに、リリアはさっそく茨の谷に出発する許可をもらうべく、未だパニックの中にあるディアソムニア寮を置いて、クロウリーのもとへ向かった。後処理もクロウリーに丸投げするつもりらしい。
必要事項は伝えたと言わんばかりの様子で、マレウスは談話室をあとにした。あわててセベクとシルバーはついていった。
マレウスが向かった先は寮長室。
エースごと入室しようとするマレウスに、たまらずセベクは声をかける。
──若様! エースをどうなさるおつもりで!
マレウスは振り返り、簡潔に答える。
──ただの共寝だ。
扉は閉められ、防音魔法もかけられた。
廊下に取り残されたセベクとシルバー。まだ混乱の中にいるセベクに、シルバーが声をかける。
──俺は登校して、学園の様子を見てくる。お前はエースのそばにいてやれ。
混乱しつつも、セベクはうなずいた。
シルバーが去り、喧騒がなくなっていく中。自主休講したセベクは一人、扉の前に立ち、見張りをした。
午前十時。ようやく扉が開いた。
一人で出てきたマレウスは、セベクに命ずる。
──セベク。お前を、僕の未来の王配、エース・トラッポラの護衛に任命する。
セベクは反射で答える。
──拝命します。
とっさの判断は正しかった。
結果的に、エースの様子をすぐ近くで見られるようになったからだ。
マレウスが去っていく後ろ姿を見届けてから、セベクはマレウスの自室に一礼してから入る。
未来の王配──エースは、ベッドの中央で三角座りしていた。
真顔の表面に貼りついた涙の跡が痛々しい。
セベクは声をかけるのをためらってしまう。
先にエースがセベクを見て、真顔のまま、問いかける。
──なあ。どうやったら、マレウス先輩のこと、好きになれる?
ためらっていたことも忘れて、セベクは喜んだ。
両想いではないか、と。
29話 セベクは知っている・3
クルーウェルから伝えられた停電とネットワーク遮断騒動に続いて、リリアから伝えられた花吐き病の感染騒動。二つの騒動を半日で味わわされた学園の長、クロウリーは心労が絶えなかったという。
教師たちも後始末に追われた結果、午前の授業はまるまる休みになった。午後から授業は行われたが、公的に欠席となった生徒が複数名いた。
三年B組 ケイト・ダイヤモンド
三年B組 イデア・シュラウド
三年D組 マレウス・ドラコニア
三年E組 リリア・ヴァンルージュ
一年A組 エース・トラッポラ
一年C組 オルト・シュラウド
一年D組 セベク・ジグボルト
以上の七名である。
停電とネットワーク遮断騒動の犯人イデアと、花吐き病の感染騒動の被害者マレウスと加害者エースは当然として、残りの四名も今回の二つの騒動の関係者なのではないか。
そう考えた生徒たちは皆そろって、あからさまに浮き足立っていた。
このままでは授業にならないと判断した教師たちは、翌日、午前の授業の一部をつぶして、二つの騒動の説明会をおこなった。
公的に欠席していた七名中、六名が説明する側として出席していた。
唯一の欠席者は、元花吐き病患者のエースだった。
花吐き病患者のマレウスが、欠席せずに、生徒たちの目の前にいた。
新しい感染源がすぐそこにいるという事実に、大半の生徒たちは混乱という名の新しい騒動を起こしかけた。教師たちが圧倒的な魔力で軒並み沈めていった。第三の騒動は未遂に終わった。
マレウスの出席に問題はない。薬を使えば、感染を抑えたり、病の進行を遅らせたりすることが可能だからだ。
目の前にいるマレウスは服薬済み。感染する恐れはないと説明された生徒たちは、ひとまず納得した。
こうして、ケイト、イデア、マレウス、リリア、オルト、セベクの六名の生徒が、全校生徒の矢面に立たされる中、説明会はようやく始まった。
---
停電とネットワーク遮断騒動の犯人は、イデアだけではなかった。ケイトとオルトもだった。三人とも犯人だとバレる前に自首をしてきたので、反省文提出や一ヶ月間の雑用係、加えて軽い罰をいくらか与えられただけで済んだらしい。
『罰が軽すぎるのではないか』『もっと重くしてもいいだろう』『特に主犯のイデアには重い罰を!』と生徒たちからあげられた不満の声は、ケイトが一身に引き受けた。と言っても、すぐに許された。ケイトが申し訳なさそうに謝るだけで、『お前がそこまで言うなら……』と矛を収めたのだ。口のうまさと人徳のなせる技である。
欠席中のエースふくむ残りの四名は皆、花吐き病の感染騒動の関係者だ。
この騒動の説明をするには、まずエースが実は学園内にいたという説明が必要だった。
生徒全員が、トップシークレットを知ることになった。ここまで来ると、もうシークレットではない。恐怖の感染源が学園内にあったことを隠されていたことに、第四の騒動が起こりかけた。教師たちが沈めた。騒動は未遂に終わった。
鎮圧した勢いに乗って、ケイトは感染中のエースに会って、病を治すために想い人を教えてもらおうとしたことを告白した。そのための停電とネットワーク遮断騒動である。
なぜエースに会うためだけに、あの騒動を起こしたのかは、イデアとオルトが説明した。
イグニハイドの前寮長が残した機械が原因なら、それを残したまま卒業していった前寮長の責任になるのか、使用した教師たちの責任になるのか。説明会で出す議題ではなかったため、保留になった。おそらく機械は処分されて、永遠に保留になるのだろう。
そしてケイトがエースに会う前に、学園内に侵入したマレウスがエースの花吐き病に感染して、エースは完治した。
二つの騒動がここでつながったことに、大半の生徒たちは興奮する。思わぬつながりが明かされて、一気におもしろくなったらしい。
反対に、一部の生徒たちは冷静に、残りの説明を求めた。
なぜマレウスは学園内に無断で侵入したのか。
なぜもう無害になったはずのエースは説明会を欠席しているのか。
それらの理由を、ディアソムニア寮生はすでに知っている。
マレウスは包み隠さず、他寮生にも明かしていった。
エースへの想いを。
その想いを叶えるために、わざと感染されに、学園内に侵入したことも。
リリアの口からも明かされていく。
自分はマレウスの初恋を実らせるために茨の谷に戻り、城内にいた恋愛結婚肯定派を集めて、元老院と戦ってきたのだと。結果、いまは王配候補としてエースの名が連なっているが、いずれは本格的に認めさせると。
セベクの口からも明かされていく。
自分は未来の王配であるエースの護衛に任命されたと。しかしいまは学業優先の身なので、マレウスがエースに保護魔法を何重にもかけていたのを確認してから、今日から登校してきたのだと。しかし保護魔法があっても外部からの悪意までは守りきれないので、マレウスの治療期間中は、ディアソムニア寮生以外の者からの接触を禁止すると。
マレウスも付け加えていく。
エースが欠席しているのは、人間の身での病み上がりに加えて、自分に口説き倒された疲労が一気にやってきて、寝込んでいるからだと。そして自分の治療に専念させるために、エースをディアソムニア寮内に留まらせると。そのためにエースの休学を続行させることは、学園側から正式に許可を得ていると。
三人の話を総括すると、花吐き病に感染したマレウスが、想い人であるエースと結ばれるために、エースをディアソムニア寮内に軟禁しているから、他寮生には会わせられないし、登校もさせられないというわけだ。
30話 セベクは知っている・4
花吐き病の感染騒動の真の被害者はエースで、真の加害者はマレウスだった。
加害者である以上、お咎めなしというわけにはいかない。ケイトたちと同じくマレウスも罰を言い渡されている。けれどマレウスにとっては幼子のお使いのようなものだったので、罰はないに等しかった。
とはいえ、王族でありながら庶民に罰を言い渡された事実が残る。屈辱的だっただろうに、それでも初恋を実らせるために、わざと感染されに行ったマレウスを、生徒たちは憧れ半分、恐怖半分で見ていた。
ざわつきつつも、生徒のほぼ全員は、エースの扱いに納得していた。妖精族とは『そういう生き物』なのだから、と。だから教師たちもエースの休学期間延長を認めたのだ。
教師たちに落ち着くよう求められて、生徒たちは少し静かになった。
完全に静かにはならないまま、説明会は終わるだろう。セベクがそう思っていたときだった。
二年生集団から、ジェイドの手が挙がった。
クロウリーがうながす。
──なんですか、リーチくん。
ジェイドはマレウスに質問をする。
──先ほど、エースくんを『口説き倒した』とおっしゃっていましたが、どのように口説かれたのでしょうか。
低俗な質問だった。
セベクは怒鳴ろうとする。寸前でマレウスに止められた。
ためらわずにマレウスは答える。
──巣に入れて、この身で説いた。
──ベッドの中のトラッポラも、かわいらしかったぞ。
最後の言葉は、良い意味でも悪い意味でも、生徒たちを湧かせた。
あっという間に騒がしくなる生徒たち。教師たちが止めようとしても無駄だった。男子校という色気がない閉鎖空間にとつじょ降って湧いた情熱的な話に、生徒たちは弱かった。
騒ぎはますます大きくなる。
その中で一つの暴動が起こりかけても、ほぼ全員が気にしないほどには。
──ふざけんなああああ!!
一年生集団の中から、セベクは確かにデュースの怒号を聞いた。
一年生たちがパラパラと散っていく中央には、ジャックに取り押さえられたデュースがいた。マレウスを射殺さんばかりににらんでいる。
獣人に引けを取らない馬鹿力を持っているデュースだったが、三年生集団から飛び出してきたトレイにも押さえられれば、あえなく無力化された。
遅れて駆けつけてきたバルガスに身柄を拘束されて、デュースは強制退場されていく。そのあとをジャックは追いかける。トレイは温和な顔を捨てて、遠くにいるジェイドをにらむ。すでにリドルに首を刎ねられていたジェイドはニコニコと笑いながら、トレイを見つめ返している。
たった一人で起こそうとした第五の騒動は、大半の生徒にろくに認知されないまま、未遂で終わった。
昼休みを知らせる鐘が鳴る。
説明会も終了をむかえ、セベクはマレウスとリリアとともに、食堂に向かおうとした。
しかしリリアに止められる。
──今日は友達と食っていけ。交流は大事じゃぞ?
リリアの視線の先を見れば、オルトとエペルが並んで立って、セベクたちを見ていた。オルトは眉を下げている。エペルは眉を上げている。
マレウスとリリアに一礼してから、セベクは正反対の表情を見せている二人のもとへ歩み寄った。どのようなことを言われても毅然とした態度で対応してみせると決意して。
31話 セベクは決意する・1
食堂で始まった、三人の話し合い。
結果から言うと、セベクはエペルたちと対立することはなかった。
事前にルークになだめられていたらしく、エペルは表情に似合わず落ち着いていた。おかげで食事をしつつ、冷静な対話ができたのだ。
──そっちの事情はわかった。でも、許せるもんじゃない、かな。
マレウスに想われているのに、なぜ許す許さないの話になるのか。セベクはエペルに疑問をぶつけた。
エペルはひどく顔をしかめる。
──エースクンはマレウスサンのこと、好きでねんだよね?
おそらく『好きじゃないんだよね?』と問いかけてきている。
だとしたら、ありえない。エースはマレウスが好きなのだ。
そうでなければ、『どうやったらマレウスを好きになれるのか』と、問いかけてくるわけがない。
エースの言葉を、セベクはそのままエペルとオルトに伝えた。
二人は驚き、顔を見合わせた。
オルトが言う。
──『好きになれるのか』って、いまは好きじゃないみたいだね!
ここで初めてセベクは、エースとマレウスは両想いではないことに気づかされた。よく考えれば当然だ。両想いなら、その瞬間にマレウスは治っているのだから。
両想いだと早とちりして喜んでいた自分が恥ずかしい。セベクはいたたまれなくなった。
エペルはつぶやく。
──そうだとしても、好きになりたいとは思ってる……?
好きではないのに、好きになりたい。
自分の残りの人生をささげてでもマレウスを生かしたいと思うほどには、すでに好きになっているはずなのに、どういうことなのか。三人には理解できなかった。
疑問の中、エペルは言う。とりあえずエースは少なくともマレウスを悪く思っていないことを、デュースとジャックに伝えておくと。
情報共有は大事だ。すれ違いによる仲違いは、誰だって避けたい。
さらに話し合った結果、セベクはエースの様子を、エペルはデュースとジャックの様子を、これからも学園で報告し合おうと約束した。ちなみにオルトは罰の雑用があるため、自分からは特に動かずに、経過報告を聞くだけだ。
昼休みが終わる。セベクは二人と別れて、午後の授業も受けた。部活にも勤しみ、シャワー室で汗とほこりを流した。
さっぱりとした体で帰寮してすぐに、エースがいるマレウスの自室に向かう。そこでようやく、エースが発熱でベッドの中から動けなくなっていたことが発覚した。体調不良に保護魔法は関係ない。
セベクに看病の心得はない。適切な処置がわからない。マレウスもリリアもシルバーも、まだ帰寮していない。他の寮生に頼むと、セベクでも把握していない過激派なドラコニアンがエースを害する恐れがある。保護魔法があるとはいえ、避けられるならなるべく避けたい。
エースを助けられるのは、護衛のセベクしかいなかった。
不器用ながらも、セベクはエースに声をかける。
──おい。何か食べられるか。
エースは熱にむしばまれながら、かすれた声で答える。
──水。
セベクはすぐにキッチンに向かい、水差しにたっぷりの水を入れる。コップも用意して、エースのもとに戻った。
コップに水を注いで、エースの身を起こす。コップに口をつけさせ、こぼさないように少しだけコップをかたむける。
一口分の水を口にふくませた瞬間、エースの目がカッと開いた。セベクの手からコップをひったくり、我を忘れたように水を飲んでいく。
あっという間にコップの中の水はからになった。
あまりの勢いに引いているセベクに、エースはコップを突きつける。
──もっとくれ!
いっそ自分で注いでくれと、セベクは水差しを渡した。
エースはコップを放り投げた。水差しの口にくちびるを当てて、そのまま飲み出した。
行儀が悪い、といつものセベクなら怒鳴っていただろう。いまのセベクにはできなかった。あまりにもエースが鬼気迫る勢いだったからだ。
思わずセベクは、まだ飲み続けているエースに問いかける。
──いつから飲んでいないんだ?
飲むことに夢中なエースは答えない。その姿が答えだった。
セベクは急いで部屋を出る。近くにいた寮生に、購買で経口補水液を、予備もふくめて三リットル分は買ってくるように言った。
部屋に戻ると、からっぽの水差しが床に転がっていた。エースはベッドの上で倒れていた。
セベクもすぐにベッドに上がる。マレウスのベッドを荒らしてしまうが、緊急事態だ。
エースの身を起こす。口は半開きで、目を回している。呼吸は荒いが、まだ正常の範囲内だ。
二リットル以上は余裕で入っている大型の水差しの中身は真水。人間がそれを一気に飲み干したのだ。一時的な水中毒を起こして当然だ。
脱水症状が続くよりはマシだろうと勝手に判断したセベクは、改めてエースの体を寝かせる。安心して、ベッドからおりる。まだ弱っているエースに文句を言ってしまう。
──まったく。これだから人間は弱すぎる。
少し落ち着いたエースは、か細い声で答える。
──どうせオレは弱いよ。
──女々しく引きずってるんだからよ。
引きずっているとはどういうことかとセベクが問いかける前に、エースは天蓋ベッドの天井を見ながらつぶやく。
──マレウス先輩を好きになんなきゃなのに。
──まだ、あいつのこと、忘れらんない。
──ずっと、好きなまんまだ……。
それきりエースは何も言わなくなった。
セベクはショックを受けていた。
自身が花吐き病にかかっていた原因の片想いの相手のことを、まだ忘れていないらしい。
その状態でマレウスと両想いになるなど不可能だ。加えてエースに水をあたえなかったという失態。最低限の生活の保障が約束できていなければ、ディアソムニア寮に待ち受けているのはエースの返却だ。
一大事である。
ちょうどリリアが帰寮してきたので、セベクはすぐにひざまずき、エースの待遇の改善を要求した。
エースの身柄を確保できて満足していたリリアは、かんじんのエースの世話を失念していたようだ。あわててエースの様子を見て、回復魔法を簡単にかける。部屋を出て、談話室で寮生を集めて対策を練ろうとする。
あとは育児経験のあるリリアに任せて、セベクはエースの護衛に戻る。まだ熱があるエースはおだやかにまばたきをして、セベクをじっと見つめている。次はどうされるのかと、警戒しているのだろう。
エースを見つめ返しながら、セベクは決意する。
エースを全力で守ろう。
ここでエースを失えば、マレウスは弱ってしまう。もちろんそれが一番の動機だ。
二番目の動機も、セベクの原動力だ。いまもエースの心をむしばむ、想い人とやらの抹消を目指すことも、確かな原動力と化していた。
ちなみにこの『抹消』とは、エースの心から、という意味もあるが、物理的な意味も入っている。
セベクは腰に下げている警棒を触りそうになり、すぐに手を止めた。エースの目の前でやることではない。
32話 セベクは決意する・2
学園でエペルやオルトと情報共有するときが、最近は楽しい。回復していくエースの様子を報告するだけで、二人が安心していく顔が好ましい。
ある日、エペルによると、デュースもだんだん落ち着いてきたと聞く。ジャックに挑発されて殴り合ったと聞いたときは心底あきれたが、そのおかげでどこかふっきれたようだ。いまはセベクを信じて、エースを預けている心持ちらしい。
ディアソムニア寮も変わった。
リリアの指揮のもと、寮生たちが動いたおかげで、一般的な人間の生活が保障されたエースの体調は、みるみるうちに回復していった。やせ細っていた体は、まだ少しだけだが、元に戻ろうとしている。
体が健康になるにつれて、心も回復していった。マレウスと共寝をした翌朝は、いまにも死にそうな顔をセベクに見せていたのに、それが五日経った頃には、ふつうに朝のあいさつを交わせるほどに、正常な顔つきに戻っていた。
一週間を過ぎた今は、こうして書物庫に行きたいとねだり、本棚を物色するほどには、図々しさを取り戻していた。
エースの様子をすぐ近くで見られたからこそ、できたことだ。セベクは誇らしく思う。
「なあなあ。恋愛もんより、いい本あったぜ」
一冊の本を見つけたエースは、セベクに振り返り、言った。ニヤニヤと笑っている。
セベクは嫌な予感がする。しかし決めつけは良くない。まだ開かれていない本の表紙を覗き込む。
「どんなのだ」
「これ」
『初心者にやさしい! トカゲの飼い方』
「若様を侮辱するな!!」
「まだ読んでねえのに!」
怒ったセベクはエースから本を取り上げた。
33話 花食
マレウスのベッドの中。今夜も二人は裸体を重ねていた。
ぐぽ。ぐちゅぐちゅ。じゅぱっ。
「ふっう……ふうぅ……あ……」
横向けに寝転んでいるエースの、吐息混じりの声。マレウスはエースに覆いかぶさり、エースの頭頂部を両手のひらで囲って閉じ込め、耳の穴に舌を入れていた。
二股の舌先で鼓膜ギリギリまで周囲をなぞり、少量の垢が張りついている壁を舌の腹で舐めていく。
じゅぽっ。じゅぽっ。じゅぽっ。
「あ、あ、あ、あ、あ」
ときおり穴の中を細長い舌でピストンされて、あえぎ声がリズムよく出てしまう。規則的すぎて、恥ずかしい。エースは自身の声を抑えようと、口に手を当てる。マレウスに嫌がられた。
ちゅぷ、と音を立ててから、マレウスは舌を引き抜く。エースの顔を覗き込む。
「声を我慢するな」
「やだ」
「聞きたいんだ」
「……もー」
エースは手を口から離す。意識してシーツをつかんで、かぱりと口を開く。これからは声を出すことをマレウスにアピールした。
マレウスは満足そうに笑い、従順なエースの手の甲をなでる。エースから少しだけ身を離して、横向けのエースを反対側にコロンと転がす。あらわになる反対側の耳。穴の中に舌を差していく。
ぐじゅううううう。
「はああっ、ああぁんんん……」
最初から舌をめいっぱいに埋められて、聴覚がおかしくなった。
唾液がたっぷり乗った舌先で鼓膜を直接舐められて、水音がうるさい。五感の一つを奪われているのに、それがやけに気持ちいい。
圧倒的な舌の長さによる、物量攻撃。
──こんなの、マネできないって。
太くて短い舌を持つ人間には、とうていできない舌技だった。
エースは自身にされたことを、マレウスにもやり返してきた。ただで済ませてたまるかとマレウスの体にも痕をつけ続けた。
それがまずかったのかもしれない。
最近のマレウスは、エースが物理的にやり返せないことばかりしてくる。
エースの仕返しを防いで、一方的な愛撫ばかり送りたがる。
なにもできなくなったエースを、本格的に堕とそうとしている。
鼓膜をやぶらないためか、チロチロと、二股の舌先で慎重にくすぐられて。なのに舌の腹はとぐろを巻いて、耳の壁をあらくこすって。舌に浸されていないむき出しの耳介は、爪でカリカリと軽く引っ掻かれて。
「あうっ、あ……あう、くう……う……ふうっ」
──あ、これ、気持ちいい。
──でも、ちょっと嫌だ。
激しかった水音が止んだ。
舌が抜かれていく。唾液で濡れた穴の中に、ふっと息を吹き込まれただけで、エースの体がひくんと跳ねた。
エースはあお向けに押し倒される。マレウスはエースに乗り上がる。
剥き出しの胸が重なる。体重をほとんどかけられてつぶされそうだが、いまのエースはこの重みが好きになってきている。
吸い寄せられるように、エースとマレウスのくちびるが重なった。
どんどん深くなっていく口づけ。
「う、ぶっ」
……深すぎる。
「うえぇ……っ」
いつもより伸びた舌先で、のどの奥を突かれれば、人間のエースはえづく。なのに舌は引っ込めてくれず、むしろ奥へ奥へと進もうとしている。
たまらずエースはマレウスの顔を思いきり引き剥がした。
エースは顔を横に向けて、何度もせきこむ。やがて落ち着き、マレウスの様子をうかがう。
体重をかけてはいないが、マレウスはまだエースの真上にいた。エースの予想通り、ふてくされていた。窓の外で雨が降り始める。
エースは文句を言う。
「あんたがその顔すんの、おかしいよね。オレ被害者なんだけど」
「僕のキスを拒んだ」
「あんなんされたら誰だって拒むわ!」
「……」
「おい雨! 激しくさせんな! だー! ちょっと起きろ! んで聞け!」
二人はベッドの中央に向かい合って座った。
エースは人間の生理現象をマレウスに教えていく。講義が進むにつれて雨足がだんだん弱くなっていくが、完全には止まない。拒まれたことにはまだ納得していないらしい。
講義を手短に受けたマレウスは言う。
「ふむ。難儀なものだ」
「それが人間なの」
「だが僕はもっと奥まで入りた──」
考え込んでいるわけでもないのに、不自然に言葉が止まった。
エースにとっては、もう慣れた瞬間だ。
腰を浮かせたエースは器を引き寄せる。マレウスに渡して、マレウスの背後に移動する。背中に抱きついて、ささやく。
「いいよ。吐いて」
マレウスの口から、ごぽり、と花弁が落ちた。
真っ赤なそれらは少しずつ器に入っていく。わずかにけいれんしているマレウスの腹を、エースは後ろからなで続ける。
落ち着いてきたようだ。
エースはマレウスの肩越しに器の中を覗く。丸い底がまだ半分ほど見えている。この程度の量で済んでいるのは薬のおかげだろう。良質な薬を適切に飲めるマレウスが、今更だがうらやましい。
マレウスに抱きついたまま、エースはつぶやく。
「いいなあ、こんなに少なくて」
マレウスは器を自身のそばに置く。あいた両腕でエースをさらう。前に抱き込み、問いかける。
「トラッポラが吐いた量より少ない、ということか?」
「え? うん。すげー少ない。オレこれの三倍くらいは吐いたよ」
マレウスは笑う。窓の外の小雨が止んでいく。
「ならば僕が吐いた量など、難なく腹に収められるな」
「……はあ?」
まだ肯定していないのに、マレウスは勝手に納得したようだ。
エースを腕の中に閉じ込めたまま、マレウスはエースに口づける。
いつものことだ、とエースは受けいれる。少しも抵抗しなかったことを……すぐに後悔した。
口内に向かって、花を吐かれたのだ。
「うぶぅ!?」
あわててくちびるを離そうとしても、マレウスの片手で後頭部をわしづかまれていて、離せない。決して大量ではないのに、淡々と送られてくる花弁が怖い。
舌をどんなに動かしても、マレウスの唾液でコーティングされた花弁の侵入は止まらない。舌の表面をすべって、あっけなくのどの奥まで到達された。
吐き出せないなら飲み込もうと、のどが勝手に動く。
花弁が一枚、ついに食道に入った。
それをきっかけに、のどは勝手に嚥下反射をくり返す。一枚、また一枚と、食道に侵入を許していく。
送られてくる花弁を、ついにすべて飲み込んだ。
くちびるが解放される。
エースは限界まで目を開いて、新鮮な空気を必死に取り込む。
「はあっ! はあっ! はあっ、げほっ!」
さっそく胃からのぼってきた花の匂いを感じながら、エースはせきこんだ。
マレウスに抱きしめられながら、背中をさすられる。せきこみながら、マレウスにすがりつく。たとえ加害者だろうと、エースは目の前の存在にしかすがりつけない。
マレウスの低い体温を感じつつ、息を落ち着かせていく。ふう、と一つ息をつく。ゆっくりと、ベッドにあお向けに寝かされた。
「トラッポラ」
マレウスはエースの顔の右横に左手をついて、熱を持った目でエースを見下ろしている。右手が伸ばした先は……自身が吐き出した花弁が入っている、器の中。
マレウスは右手でつまんだ一枚の花弁を、エースのくちびるに近づける。
「口を開けろ」
食べろ、と言外に命じた。
王族の目に射抜かれたエースは、おそるおそる口を開いていく。うすく開いたくちびるの隙間を、少し強引に、指でゆっくりとこじ開けられる。舌の腹に花弁を置かれる。花弁越しに指先を、するぅ……と。舌の中心線をなぞられながら、のどの奥まで侵入されていく。
「えああ……っ」
花弁を押し付けられた舌から、苦味が広がる。食用に加工されていない桜はまずかった。
大きな手は深くまで入れず、途中で引き返される。けれど、もう飲み込むしかない場所にまで花弁を置き去りにされれば、食道に入れるしかなかった。
体力を消耗させてまでやっと一枚を食べたというのに、マレウスは労りの言葉もなく、また一枚をエースのくちびるに近づける。
「ほら、まだあるぞ」
あれを、くり返されるのか。それなら自分から食べたほうがマシだ。
そう判断したエースは、マレウスに「自分で食べるから」と差し出された右手を両手でつかんだ。
つままれたままの花弁を自ら口にふくむ。なるべく味わわないように、すばやく飲み込んだ。
マレウスの右手を離す。すぐに差し出されるであろう次の花弁を待っていると、マレウスの顔が下りてきた。
「いま、自ら、食べたな」
「へ……?」
「あとは僕が与えてやろう」
口づけられる。いくつもの新しい花弁が、注がれていく。
「んんーーーー!!」
苦しい。
マレウスから離れたい。
いつのまにか出ていた竜の尻尾に、マレウスごと体を巻きつけられて、離れられない。
唾液と花弁におぼれる時間は続く。
ストックされた器の中身が、今夜中にマレウスから吐き出されるすべてが、なくなるまで。
「ん……ぐ……っ!」
エースは解放されない。
34話 おなかいっぱい
やがてすべての花弁が、エースの腹の中に収められた。
全身をベッドに投げ出しているエースの腹を、マレウスは手のひらでゆるやかになでている。
少しくすぐったくて、ひくつく腹。エースのうつろな目が、マレウスを映した。口を開く。
「もう……おなか……いっぱい……」
「ほんの数週間前までは、あの三倍は入っていたのにか。胃が小さくなったのだな。それなのに、よく食べてくれた。素晴らしいぞ、トラッポラ」
ぼんやりと聞いているエース。マレウスは尻尾の先端でエースの足の付け根を広くなぞる。
「や、いや、そこ……やだ……」
むずがるエースに、マレウスはそっと言う。
「妖精族の恋心が詰まった花だ。これからも僕が吐いた花を摂取し続ければ、いずれは卵が産める体になれる」
「……たまご……?」
「ああ。この病が治り、学園を卒業するまでは、作ってはいけないが」
「……オレ……にんげん……」
マレウスはおかしそうに大口を開けて笑う。
「ははははは! 問題ない! お前は人間ではなくなっていく。ふふっ。ふふふ……あんなに僕の体液と心を喰らっておいて、ずっと人間のままでいられると、まだ思い込んでいたとは!」
──そうなんだ……?
「ところで、トラッポラよ」
笑い声をおさえたマレウスは、エースの足に尻尾をからめる。うすく開いたままのくちびるにキスを贈り、言う。
「一回だけとはいえ、お前自ら、僕の嘔吐物を食べてくれたが……それは特別な感情がないと、できないことだ」
「ぁえ……?」
「お前は僕を好きになってきているんだ」
──そうだっけ?
──そう、なのかな。
──オレは、マレウス先輩が、好き……。
くちびるの隙間に舌を差し込まれる。目を閉じれば、すぐにくちゃくちゃと口内をなぶられた。
舌先でのどの奥をちょんと突かれた。思わず目を開けて、マレウスの目を見る。
笑っている目だった。
人間相手だとおぼれさせてしまうこの奥を、近い未来で、思う存分、味わえるのだと。未来への喜びを見せていた。
「……」
あまりにも一方的すぎる。
このような関係、対等ではない。
マレウスが好きだから、嘔吐物を食べたわけではない。
……だまされるところだった。
けれど、だましてでも手に入れたいという想いは、伝わってしまった。
──こんな一方的なのは嫌だけど。
──やっぱりオレ、こいつを好きになりたい。
体を作り変えられる抵抗感は残っているため、しばらくは無理やりな状況が続くだろう。
しかしその想いだけは受け入れてやろうと考えるほどには、エースはマレウスに心を寄せている。
---
この夜をきっかけに、マレウスの自室から、花弁を一時的に溜めるための器が消えた。
35話 未来の王配
「何? 卵が産める体になったらしい? 良いことではないか! 跡継ぎは必要だ。卒業したら産め!」
「産卵を強要してくるとか、お前変態か?」
「は? なぜそこで変態になる?」
「妖精族にとっちゃフツーのことなの……? どうなってんだよ……引くんだが」
デュースとジャックの恋愛に照れていたピュアボーイとは思えないほど、セベクは堂々としている。逆にこちらがおかしいのかと、エースは少し不安になってくる。
急に失速したエースに、セベクはこれでもかと不満な顔を見せる。
「よくわからんが、先ほどのお前の発言は、相手を変態扱いしたと捉えていいのだな? ならば口をつつしめ! お前は未来の王配なのだぞ!! 発言の一つ一つに気を払え!!」
もっともな指摘である。エースは「ごめんなさい」と素直に反省した。
エースとセベクがいる場所はディアソムニア寮の談話室。授業が終わったあとは常に寮生が行き交い、中には留まる者もいる。加えてここの寮生たちは茨の谷と深い関わりがある。その中で、茨の谷の未来の王配が軽口を叩いた。確かに問題のある行為だった。
あまり重大な話だと捉えてほしくなくて、行為の詳細は省き、公共の場で勉強会のついでのように言ったが、裏目に出たようだ。
次は軽く言わないように気をつけながら、エースはセベクに問いかける。
「そんで、オレが人間じゃなくなってきてるってことはさ……オレの寿命も延ばされたっぽい?」
セベクは大きくうなずく。
「うむ。未来の王配がたったの百年で死なれたら困る。寿命は延ばされて当然だ」
「……じゃあ、護衛のお前との付き合いも、そのぶん長くなんのかね」
「若様が望まれるなら死ぬまで付き合ってやるが……そうでないなら、お前など百年くらいで十分だ」
「護衛は軽口叩いていいのかよ」
「いまのお前に敬意を払うなどまっぴらだ」
テンポの良い言いあいの中で勉強などできるわけがない。消灯時間も迫っていたので、セベクはノートを閉じた。
残りの時間は、本格的にエースと話すために使う。
「何を迷っている?」
セベクにじっと見つめられたエースは目が泳ぐ。
「迷ってるってわけじゃあねえけど……」
「いつ、いかなるときも、気を払えと言ったはずだ。その態度を改めろ」
「わ……わかったよ」
ふうっ、と息をついて、エースはセベクを見る。背筋を伸ばす。
「オレ、マレウス先輩のこと、好きになれるかもしんない」
言い切った瞬間、室内の空気が明らかに変わった。聞き耳を立てている者が大勢いたらしい。皆がエースの動向に注目している。確かにこれは気を払う必要がある、と心のすみでエースは納得した。
意識して、堂々と問いかける。
「でも好きになる決定的なきっかけが見つからないんだ。これは……もっと行動的になってでも見つけるべきか?」
セベクも姿勢を正して、数秒間、考えてから答える。
「無理をしても、いい結果は出ない。一朝一夕の訓練だけでは技術が身につかないのと同じでな」
「長期的に見ろってことか」
「お前が決めて、行動することであれば、若様も許される。それが国民のためにつながるのであれば、なおさらな」
「……」
長期的に見るだけなら、いまのマレウス相手には、悪手だ。
マレウスからの愛撫を一方的に受け続けるだけでは、対等ではいられなくなってしまう。対等ではない存在を、エースは好きになれない。
幸いなのは、行動してもいいのだと、セベクに肯定されたことだ。ただ、どう行動すればいいのか。
もっと食い下がって、手がかりを引きずり出したい。だが衆目を集める中で無理に食い下がると、悪評になりかねない。自身の品格を保ちながらの交渉術がまだ身についていないエースには難しい。
長期的に、無理をしない程度に、マレウスと接する。
護衛のセベクがそう助言したのなら。
「……わかった」
正しいかはわからないが、ここが引き際だと判断したエースは、おとなしく引き下がった。
周囲にただよう張り詰めた空気が耐えられない。まだ時間は残っているが、退室を決めた。
エースは自分の勉強道具を片付けようと、机の上に手を伸ばす。だが道具に手が届く寸前で、セベクの手が道具をさらっていった。
いきなり奪われて驚くエースに構わず、セベクは当然のようにエースの道具を片付ける。終わってから、自分の道具も片付けた。
セベクは二人分の荷物をまとめて持ちながらイスから立つ。エースのそばに控えたまま、動かない。
何となく、エースは察した。
エースも立ち上がる。セベクを見ずに、胸を張って歩き、手ぶらで退室した。
廊下に誰もいないことをさっと確認してから、エースは振り返る。予想通り、セベクが後をついてきていた。
エースと視線があった途端、セベクの眉が吊り上がる。
「振り返るな!! 堂々と歩け!」
「これで合ってるかくらい聞かせろよ!」
「ふん! 付け焼き刃な立ち振る舞い! まったく姿勢がなっていない! 不合格だ!」
「きびし過ぎんだろ!!」
まだまだ王配らしくなかったようだ。
誰もいないことを良いことに、エースは大げさに肩を落とす。セベクをじとりと見る。
「つーかさ、なんなんだよ、いきなり。さっきまでオレを舐めてたじゃねえか」
またしかってくるかと思いきや、セベクは声を荒げない。素直に評価する。
「先ほどの相談での振る舞いは、自分なりに王配であろうとしたのだろう。その意思にそうべく、僕も護衛であろうとした。……それだけだ」
「セベク……」
少しだけの努力が、少しだけ報われた瞬間だった。エースは嬉しくなって、つい軽口を叩いてしまう。
「護衛って荷物持ちもやらせられんの?」
「有事の際に動けるように、基本は持たない」
今回は軽口が通じなかったセベクは、ふん、と笑う。エースに見せつけるように、二人分の荷物を軽く上げる。
「いわゆる『牽制』というやつだ」
そう言ったセベクは、エースがマレウスの自室に入るまで、エースのそばを離れなかった。
---
しかし、ずっと離れない、というわけではない。必要があれば、主人からも離れる。
後日。エースは臨時の護衛のシルバーに伝えられて、初めて知った。セベクは一泊二日の帰郷をしているため、学園にはいないことを。
いきなり突き放されたような気がして、エースはこっそりふてくされた。
36話 再会と暴露・1
護衛とはいえ、シルバーは臨時にすぎない。しかも他寮の上級生だ。セベクのように連れ回すには気が引けた。
遠慮がいらない護衛が朝から出かけているせいで、エースの行動範囲は限られてしまう。その中で長居できる場所は書物庫くらいだ。
読書は嫌いではないが、一日中はさすがに飽きる。展開が遅すぎる恋愛マンガを読む手が止まった。
エースはイスの背にもたれかかり、つぶやく。
「つまんねえ……」
なんでもない日のパーティなら飽きないのに。
赤と白で分けられたバラ園。法律によって変えられていくバラの色。自寮生たちでセッティングした茶器の数々。そこに乗せられていくトレイ特製のスイーツ。特にチェリーパイは絶品で……長く食べていない。まだ見た目は覚えているが、味は忘れてしまった。
このまま色々なことを忘れていくのだろうか。代わりにマレウスのことばかり考えている。
早くマレウスを好きになって、ハーツラビュル寮に帰らなくては……。
長期戦になると覚悟したはずなのに、ついあせってしまう。
コンコン。
「あん?」
とつぜん、出入り口の扉からノック音がした。
エースは思考の海から引き上げられた。開けていたままのマンガを閉じてから、「はーい」と返事をした。
扉が開いていく。
シルバーが気を利かせて、エースのために人払いをしてくれた場所なのに、入ってくる人物など、マレウスかリリアくらいだろう。
そのエースの予想は、まったく当たっていなかった。
マレウスでもリリアでもなければ、ディアソムニア寮生でもなかったのだから。
室内に入ってきて、満面の笑顔を見せている、その者は。
「久しぶり、エースちゃん!!」
「……ケイト先輩?」
もう一ヶ月以上は会っていなかったハーツラビュル寮生の、ケイトだった。
驚いているエースのもとに、ケイトは歩み寄り、声をかける。
「やっと会えたぁ! もうずーっと会ってなかったから心配したよ〜。元気そうでよかった」
「おかげさまで……?」
まだ混乱中のエースの前の席に座るケイト。机越しのエースに向かって、笑う。
「……マレウスくんにひどいことされてない?」
その笑顔に圧を感じた。
押されたエースは反射で答える。
「いや……そこまでは……」
「『そこまで』? ひどくはされてるってこと?」
「いちおう同意のもとだし……」
「え、もしかしてけっこう進んでたり? もうあんなことやこんなことも〜?」
「……」
「マジか」
笑顔から一転して、真顔のケイトにつぶやかれた。
エースはたまらず叫ぶ。
「ちょっと、なに想像してんですか! 本番まではしてないんで!」
「ふーん。つまり本番直前まではやってると」
「ああもう! そうだよ!」
ヤケになり、エースは認めた。
実際に、そのとおりだった。エースはすでに、ありとあらゆる箇所をマレウスに喰われている。肌に痕をつけられるだけのレベルはとうに過ぎ去り、いまは胸の突起物も触られ、一番大事な箇所も口の中にふくまれている。
日々エスカレートしていく行為を、エースはケイトに暴露したようなものだ。
自爆したくせに、ケイトに言い負かされた気がして、逆恨みでしかない反撃を試みる。
「つーか先輩、なんでここにいるんですか!? ここの寮生以外はオレに会っちゃダメなんじゃ!?」
ケイトはニヤリと笑う。
「やだなあ。これは事故だよ。ここの寮で雑用を任されて、終わってさあ帰ろうとしたら迷子になっちゃって、さまよってたら『うっかり』ここに入っちゃって、『たまたま』ここにいた後輩に出くわしちゃっただけだよ」
「うっわ……」
表情も相まって、どう聞いても確信犯である。
それでもエースは疑問をケイトに投げ続ける。
「そうだとしても、誰に雑用を任されたんすか。ここってけっこう排他的って言うか……他の寮生お断りって感じじゃん」
ケイトはさらっと答える。
「ああ。セベクちゃんにだよ」
「あっ、あいつが!?」
「故郷に一泊してくるから、その日の掃除をしてほしいって。でもふだんから掃除してたっぽくて、ほとんどやることなかったけどね」
いくら雑用係とはいえ、三年生をこき使おうとする一年生とは何事か。とエースは思ったが、セベクならやりかねない。
エースは代わりに謝る。
「なんかすんません。あいつ、ホント礼儀知らずで」
ケイトは首を横に振る。
「んーん。たぶんそれ違うよ。だって……」
言葉を区切ったケイトは、情に満ちた顔で笑う。
「ホントに雑用めあてなら、いつもエースちゃんがいるこの場所を、オレに教えるわけないもん」
エースはハッとする。
──あいつ、オレのために、ケイト先輩に会わせてくれたのか。
柄にもなく感動してしまう。顔ににじみ出てしまったようで、ケイトの笑みが深まる。
笑ったままケイトは言う。
「さ! 雑用を全部終わらせてきた今日のけーくんはフリーです! お茶もスイーツもないけど、おしゃべりしようよ!」
エースは喜んでうなずきそうになる首をグッとこらえる。中途半端に固まった笑顔を、無理やり横にそらす。
「まあオレもひましてたんで、いいっすよ!」
「あはは! 素直じゃなーい!」
こうして再会を果たしたエースとケイト。
まず、ケイトが話し始めた。
エースの花吐き病を利用しようとして、マレウスに暴かれた罪を。
イデアと、イデアの家族であるオルトにしか明かしていなかった、罪の告白。
37話 再会と暴露・2
「……そんなことがあったんですね」
騒動自体はセベクから聞いている。
だがまさかケイトがイデアを手に入れるために、騒動を起こしていたとは思わなかった。
セベクから伝えられた情報だけでは足りなかったことを、どんどん知ってしまった。
エースはおそるおそる、ケイトにたずねる。
「イデア先輩とオルトは、許してくれたんですか?」
「……うん」
ケイトは気まずそうに続ける。
「あとはエースちゃんに言うだけだったんだ。……利用して、ごめんね」
一瞬でエースの悪知恵が働く。
「本当っすよ! こーんないたいけな後輩を利用しようだなんてさあ! あーあ! 傷ついちゃったなー! 泣いちゃいそーだなー! これは先輩として何かするべきだよなー! というわけで協力してほしいんですけど」
ケイトは即ノリする。
「いいよ〜。ていうか最初から協力するつもり。でも、どうしたらいい? 実はけーくん、まだそっちの様子は知らないんだよね」
「そっすね。こっちも話さないとフェアじゃないし」
協力の内容を言う前に、今度はエースが話していった。ケイトが知らなかったことを、何もかも。マレウスとの夜事情までバレているのだ。遠慮はいらない。
もちろん、監督生への想いもふくめて、すべてを明かそうとする。
「実は……オレの、好きなやつは……」
「ああそれ、監督生ちゃんでしょ。けーくんもう気づいてるよ」
「なあっ!?」
マレウスだけではなく、ケイトにも気づかれていたとは思わなかった。
あまりにもあっさりと言うものだから、ついエースはムキになって言い返す。
「そ、それを言うならオレだって、ケイト先輩がホントはイデア先輩のことが好きだってこと、気づいてたし!?」
「さっき言ったのを掘り返されてもね〜」
「言われる前から気づいてたんだって!」
「後出しジャンケンって信用されないんだよ」
「あーっ!!」
話とは関係ないじゃれあいが続けば続くほど、無意識に重くなっていたエースの心を、どんどん軽くさせた。
38話 再会と暴露・3
話を聞き終えたケイトは、妖精族の残酷さに、じゃっかん引いている。
「……そっちのほうがすごいことになってるじゃん」
「特に最初。水すら用意されなかったときは死ぬかと思いました」
「そこ!? いやそれも問題あるけど! けーくん、人間やめさせられたほうがもっと問題あると思うな!?」
「それはオレも思いましたけど……マレウス先輩と長くいられるんなら、いいかな」
ストックホルム症候群。という単語がケイトの脳裏にちらついた。イデアの影響で覚えたことだ。
健全な関係とは言えない。だがケイトはエースにそれを突きつけない。間違っている関係だと言い切るには、ケイトは手を汚しすぎた。イデアを手に入れようとした罪は一生残る。
健全ではなくても、エースが決めたことならと、ケイトはひとまず受け入れる。
「エースちゃんがいいなら、いいけどさ……。とりあえず水のは訴えていいんじゃない?」
「証拠がないとなあ。それにあれからすげー時間経ったし、訴えんのもめんどくせーし、もう時効でいいや」
「意外〜。エースちゃんならもっとわめくでしょ」
「わめいてもどうにもなんないでしょ」
「ふぅん……」
気の抜けた相づちを打ってから、ケイトは問いかける。
「マレウスくんをかばってる?」
「……」
「わめいてもどうにもなんなくても、とりあえずわめいて得しようとするでしょ。いつものエースちゃんなら」
「んー……」
「むしろ損するから、わめかないってことでいいよね、これ」
「……そっすね」
しぶしぶと、エースは認めた。続けて言う。
「オレが訴えたせいで、もしマレウス先輩から離されたら、オレが困るんすよ」
「やっと好きになりかけてるのに離されたら、そりゃねえ」
「好きになるための『もうひと押し』が欲しいんだよね」
「うーーん……」
「だからケイト先輩に協力してほしいんですけど」
エースがディアソムニア寮で起こったことを話す前に、ケイトに協力要請していたことが、ここで来たようだ。ケイトはすぐにうなずいた。
エースは要求する。
「ちょっとのろけてみてくださいよ」
話の流れを読んだケイトは、何となくピンとくる。念のために確認する。
「オレがイデアくんを好きになったきっかけを聞いて、マレウスくんを好きになる『もうひと押し』のヒントが欲しいんだね?」
「さっすが先輩! 察しがいい!」
好きになりたいなら、実際に好きになった者に聞くのが一番だ。
エースはそう思ったのだが。
「のろけ、ねえ……。イデアくんを好きになったきっかけ……」
「はい!」
「わかんない」
「……はい?」
妖精族に負けず劣らずの、残酷な返事だった。
少し申しわけなさそうにケイトは言う。
「好きなところはいくらでも言えるよ? 声の低さとか、意外と無邪気に笑う顔とか、好きなことには一直線なところとか、嫌なことはしっかり嫌って言えるところとか、この前いっしょにゲームやったときは、指さばきにますます惚れちゃったし……。でもエースちゃんはそういうのが聞きたいんじゃないんでしょ?」
「そういうのろけは、あんまり」
「なら、わかんないよ。きっかけなんて」
いきなりハシゴを外されたような気がして、エースはついケイトに向かって「……なんでですか」と、うらみごとのような口調で言ってしまった。
ケイトは答える。
「これといったきっかけが、本当にないんだ。なんか知らないけど、関わってくうちにジワジワ好きになってって、ふと、『ああ、好きだなあ』って感じちゃった」
「そんなあいまいな……」
「たぶんオレたち、好きになる瞬間のタイプが、ぜんぜん違うんだと思う。エースちゃんが監督生ちゃんを好きになったきっかけはハッキリしてて、オレがイデアくんを好きになったきっかけはハッキリしてなくて、ええ……と、だから……だから、オレがどんなにのろけても……」
ケイトはひどく言いにくそうに、けれどエースに言い切る。
「オレが何を言っても、エースちゃんがマレウスくんを好きになれるヒントは得られないよ」
エースは盛大にへこんだ。机の上に顔を突っ伏して、動かなくなった。
とどめを刺した本人であるケイトはフォローできない。なぐさめに頭をなでたくても、保護魔法のせいで触れられない。おろおろとエースを見つめるだけだ。
壁かけ時計の鐘が鳴る。ハッとケイトは時計を見る。まだ沈んだままのエースに向かって、手を合わせる。
「ごめん!! もう帰んなくちゃ! 雑用はないけど、長居しすぎると周りに怪しまれちゃうから!」
ケイトは後ろ髪を引かれる思いでエースを置いて、扉に向かう。ドアノブをつかもうとして、一瞬の硬直。弾かれたように振り返る。
どうにかエースを元気づけられないかと思考をフル回転させていたおかげで、ケイトは急に思い出したのだ。
セベクが外泊した理由を。
ケイトは大声で言う。
「セベクちゃんが出かけた理由なんだけど! ご両親のなれ初めを聞きに行くんだって! 好きになったきっかけが聞けるかも!」
言い切って、ケイトはドアノブを回す。扉を開き、廊下に出る前に、続けて言う。
「きっと、大丈夫だよ」
その声は、太陽のように、とても明るい。
「またね、エースちゃん! 次に会うときは学園だね!」
エースの復学を信じている声だった。
ケイトは書物庫から去っていった。
一人になったエースはのそりと顔を上げる。その目はわずかな希望が宿っていた。
──ケイト先輩。
──会いにきてくれてありがとう。
──オレ、あきらめないよ。
「そうだよ……。聞く相手なんて、ケイト先輩だけじゃなくていいもんな」
セベクの帰還が待ち遠しい。しかし帰ってくる前に、エースにはやらねばならないことがある。
読書だ。
「これだけは読んどかねえと」
机の上に放ったらかしにしていた一冊の本を、エースは開く。表紙に書かれてある題名は『初心者にやさしい! トカゲの飼い方』だ。
セベクに見つかったら確実に取り上げられてしまう。いましか読めないのだ。
39話 無邪気な笑顔
トカゲの飼育本を読み切った感想は、やはり人間とは体のつくりがまったく違うな、だった。
その感想は、めでたくマレウス攻略のヒントになった。
トカゲ野郎にも、あるではないか。
明らかに人間とは違うモノが。
「……トラッポラ」
「んー?」
「僕のツノを触って楽しいのか?」
「うん」
二人がベッドの中央に座り、向かい合う中。膝立ちになったエースはマレウスの頭部を胸に抱えたまま、黒光りしているツノにキスをしていた。
想い人からの愛撫を受けているのに、マレウスは困惑中。エースにない箇所──ツノを攻められると、その箇所になぞらえた仕返しができないからだ。
エースにない物──長い舌や尻尾を使って、エースにマネをさせずに、一方的にかわいがることを良しとしていたマレウスにとっては、手痛いカウンターだった。
これではエースを堕とせない。
ツノに落としていたキスは、やがて湿り気を帯び始め、ちろりと出た舌で舐めていく。横に入っている溝の一つをていねいになぞっていく。一つが終わればすぐ上の一つ、また上の一つと、舌先で順番にかわいがっていく。愛撫がツノの先端に近づくたびに、マレウスの頭部を抱えていたエースの胸も、ずり上がっていく。
マレウスはいたずらに、汗が溜まっていたエースの胸元を舐めてみた。エースはぴくりと反応したが、舌は止まらない。むしろエスカレートした。まだ残っている溝を飛び越えて、ツノの先端をぱくりと口にふくんだ。
生暖かい口の中で、熱い舌を押し付けている。まるでアイスを味わうように、ペロペロと舐めている。とがった先端をちゅうちゅうと吸っている。その動きがツノを伝いおりて、マレウスの脳ずいを犯していく。
──こんな、心もとないものなど、知らない!
「く……!」
たまらずマレウスはエースのわきに手を差し入れて、真上に持ち上げた。
体ごと上げられたエースのくちびるが、ちゅぽん、とツノから離れた。エースの唾液が名残惜しげにツノの先端から糸を引き、途切れ、マレウスの髪にぱたりと落ちた。
エースはマレウスの頭上でくすくすと笑う。唾液の糸が乗っている頭をつるりとなでて、微量の唾液を髪に染み込ませた。
からかうように、エースは言う。
「気持ちよかっただろ。でも不安な感じもして、ちょっと嫌だっただろ」
「トラッポラ……」
「オレね、やられっぱなしは嫌いなの。先輩とおんなじだね」
エースはマレウスの額に、ぺちっ、とデコピンをくらわせた。
「これも、お返し、な」
やり返そうにも、エースの額にデコピンなど、マレウスにはできない。
……してやられた。
心のどこかでエースを見くびっていたマレウスは反省する。エースを下ろして、正面から抱きしめる。
「すまなかった」
エースも抱きしめ返して、釘をさす。
「もう無理強いしてくんなよ。……ちゃんと花は食べるからさ」
「ああ……」
吐いた花を自分から食べると約束してくれた。それだけでマレウスは嬉しくなった。
恋しいままに、マレウスはエースの頬にキスをする。額。まぶた。鼻の頭。くちびるの横……。くちびるは、先にエースに奪われた。
エースはマレウスの口内に舌を入れていく。マレウスもすぐに二股の舌先で迎える。しばらく舌先同士で、おだやかなあいさつを交わした。
甘いだけの時間の最中、急に横やりが入った。
いつもの吐き気がやってきたのだ。
胃が勝手にけいれんを始めるだけで、エースは察してくれる。
エースはいったんくちびるを離す。青ざめていくマレウスの背中をさすって、いつもの二言。
「いいよ。吐いて」
いつもと違うことは、自分からくちびるを重ねにいったことだった。
マレウスはエースの口内に、どろりとした花々を送っていく。ためらわずにエースはそれらを飲み込んでいく。
キスをしながら、二人は見つめ合う。
エースの溶けた眼差しが、マレウスはたまらなく好きだ。嘔吐による気持ち悪さを忘れさせてくれる。
花を吐き終わり、エースののどが鳴る。二人のくちびるが離れる。エースはマレウスに向かって口を大きく開き、花を残さず食べたことを証明した。
マレウスはほほ笑む。それだけでエースも嬉しそうに口を閉じて、マレウスの頬にキスをした。
そのままエースはマレウスを押し倒す。マレウスも自ら倒れる。
しばし二人は互いの裸体に痕をつけ合った。まるで二人だけの秘密基地を作っているような、幼子みたいな笑顔を交わしている。
──マレウス先輩の笑顔って、かわいいんだな。
──好き、だなあ。
あきらめないエースがつかみ取った、マレウスの無邪気な笑顔を、エースは噛みしめる。
おだやかなひとときの最中にも、マレウスの吐き気はときおりやってきた。
そのたびにマレウスが吐き、エースが食べていく物は。
ずっと、赤い桜の花弁のままだった。
40話 断捨離・1
エースとセベクは向かい合い、仁王立ちしていた。
いまにも西部劇のワンシーンが始まりそうな雰囲気だが、二人がいる場所は荒野ではなく、書物庫のあいたスペースの中央である。観客はいない。人目の心配もない。
だからこそ先に動き出したのはセベクだった。
すでに持っていたノートを、エースの目の前で高く掲げる。ヤケクソ気味に叫ぶ。
「種族の壁を乗り越えた! 僕の両親の壮絶な恋愛模様を! ジグボルト一族から聞いてきたぞおおおおおお!!」
「聞かせてくださああああああい!!」
人目がないからこそ、エースはプライドを捨てて、全身でひれ伏せたのである。
あのノートこそが、セベクが丸二日かけて、心をすり減らしてでも手に入れた、セベクの両親──人間と妖精族の恋愛模様を集めたものだ。
つまり、サンプルの宝庫である。
──これでマレウス先輩を好きになれるきっかけがわかる!
と、ワクワク気分で着席したエースは、本気でそう思っていた。
だが現実はエースに優しくなかった。
向かいの席に座ったセベクから聞かされていくノートの中身は、現実味のないものばかりだった。いまのエースには必要ない、清純ドラマのような甘酸っぱい恋愛劇をただ聞かされたようなものだった。
両親の恋愛劇を死んだ目で朗読していたセベクの口が止まった。ノートも閉じられた。……終わったらしい。
エースはいちおう拍手を送った。室内にむなしくひびく、手を叩く音。手を止めて、真顔で言う。
「周囲の猛烈な反対を押し切ってからの苦労の連続……お前のご両親はさぞかし大変だったろうな。とりあえずご結婚&セベクふくむお子さんご誕生おめでとうごさいます」
「礼を言う……」
「じゃねーーよ!! 想い合うのが前提の話しかねえ! オレ別に駆け落ちみてえなことしたいんじゃないんだわ! むしろオレ一人で逃げたいんだわ! 苦労とかいらねえ! 楽してこのどん詰まりな状況をどうにかしてえのに! なんっだこのキラキラお綺麗な話のオンパレード!! なーーんにも参考になんねえ! オレも先輩もドログチャなんだよすでによお!!」
「どどどドログチャ!?」
「そこで引っかかってんじゃねえよ! バーーーーカ!」
「なぜ悪口を言われてるんだ!?」
大声で文句を言いつつも、セベクはへこんだ。現実はセベクにも優しくなかった。
セベクは落ち込んだまま、エースにノートを手渡す。
「もうこれ以上は言えん……。あとはメモ書き程度だが、見ておくか?」
「見るわ……」
「……」
「なんか悪い……がんばってくれたのに」
「もういい……」
よほどエースの非難がこたえたらしい。
わざわざ外泊許可証を学園に提出して、一泊二日の帰郷をしてまで家族や親戚連中に話を聞いて、ノートにまとめてきたのに、エースの反応はまったくよろしくないときた。しかも敬愛しているマレウスとの夜事情が、少しだけとはいえ不意打ちで明かされた。心が折れて当然である。
加害者エースが被害者セベクをあわれみながら、ノートを開いた。
殴り書きされた字はいちおう解読できるが、どれもこれも参考にならない愛の言葉で埋められていた。メモ書きすら苦労したことがうかがえる。
どのようなメモだろうと、何が隠れているかわからない。セベクの努力を無駄にさせないためにも、エースは気を張って、一文ずつ黙読していく。
おかげで、一つの単語が目に入った。
「『断捨離』? なんか物捨てるやつだっけ」
エースがつぶやいて、数秒後。セベクは沈んでいた様子から一変して、すっと顔を上げた。
セベクの気配につられて、エースも顔を上げた。
セベクはわずかに身を乗り出して、神妙な顔つきをしている。エースがつぶやいた『断捨離』という単語が、使えるものだと思ったのだろう。
セベクは言う。
「物を捨てるという意味が一般的だが……恋慕の意味もある」
「へえ」
「未練を断ち、恋を捨て、身を離す。母が親戚連中に求められたことだ」
「……」
「若様を治したがっているお前に必要なものではないのか」
「……そーね」
その通りだ。
未練を断ち、恋を捨て、身を離す。
最後の一つはすでにクリアしている。問題は残った二つだ。
エースが監督生を忘れない限り、マレウスは治らない。
それは理解しているのだが、そもそもエースがマレウスを治したいと思うのは、監督生の大事な人だったからだ。そうでなければ、おそらくエースは迷いながらも、いずれはマレウスを見捨てているだろう。茨の谷からうらまれそうだが、自身の心が一番大事だ。……だから見捨てられない。
監督生を想うという前提条件があってこそ、いまの関係があるのだ。
マレウスを治す動機が、マレウスを治せない原因になっている。
監督生への恋心を死なせなくてはならないのに、無意識に拒んでしまうエースは、目の前の机に突っ伏す。あきらめないと決めていても、さすがにこれは。
「詰んだ……」
「なぜそう言う。以前の想い人のことなど、忘れてしまえ」
「ひでえ」
セベクは怒鳴る。
「そいつのほうがひどいだろう! お前が若様からの想いに応えられないほど、お前に想い続けられているというのに! そいつは知らん顔をしている! 許せるものか!!」
セベクはイスを蹴飛ばす勢いで立つ。怒りのままに、突っ伏したままのエースの肩をつかむ。
「想い人は誰だ! 言え!! 血祭りにあげてやる!!」
エースはくぐもった声をあげる。
「無駄だよ」
「無駄ではない!」
「無駄なんだよ」
「無駄ではない!!」
エースは勢いよく顔を上げる。つかまれた手を払い、セベクをにらみつける。
「無駄だっつってんだろ!! もう会えねえんだからさあ!!」
「会えない!? 卒業生か!? それともインターンに行った四年生か!? どちらにせよ、会えないのなら都合がいい! 忘れろ!!」
「忘れられるかよ!! あの! あの黒い、目を──」
エースの声が、不自然に途切れた。
41話 断捨離・2
休日の朝。オンボロ寮の談話室。朝日が差す窓。ピンク色で汚れたエプロン。ピンク色に濡れた筆とパレット。ピンク色だけのキャンバス。桜の絵。監督生が愛した故郷の花。花を愛した、あの瞳。
エースが恋した、あの黒い瞳が。
──思い出せない。
「……あれ?」
──思い出せない。
──思い出せない!
花への狂愛をはらんだ、あのドス黒いはずの瞳が思い出せない!
皆に見せていた、いつもの優しい黒に上書きされている!
---
「あああああああああああ……っ」
とつぜん頭を抱えて苦しみだしたエースの姿に、セベクの反応が遅れた。
座っていたイスをエースが倒して、床にうずくまり始めたところで、ようやくセベクはエースのもとに駆け寄る。エースに覆いかぶさるように、エースの両肩をつかみ、軽く揺さぶる。
「おい、どうした! 何があったか言えるか!?」
「う……うぅう……!」
「エース!!」
エースは体を震わせながら顔を上げる。すっかり青ざめた顔で、セベクをギョロリと見る。
「思い出せない……」
エースを落ち着かせようと、セベクは意識して優しい声で「何を?」と問いかけた。
エースは震え声で答える。
「あの……あの目が……思い出せない」
「目?」
「あの、あの黒い目が、思い出せない」
「お前の、好きなやつの、目か?」
「そうだ。……そうだ! あの目が! 好きだったのに!! 思い出せないんだよ、セベク!」
助けてほしいと眼差しですがるエースに、セベクは満面の笑みを向ける。
「よかったではないか、忘れられて! これで若様からの想いに応えられるぞ!」
エースのどこかが、ぷちんと切れた。
エースはセベクを殴ろうと拳をあげる。だが相手は鍛えられた騎士。拳はセベクに届かず、あえなく床に引き倒される。
取り押さえられてもなおエースは暴れようとする。何かを吠えて、言葉が通じないことは明らかだ。
それでもセベクは、なんとかできないか、とエースに声をかけ続ける。
「落ち着け、エース! どうしたというんだ!」
「監督生!」
「なに!?」
「監督生! 監督生!! 監督生ぃいいいい!!」
なぜここで監督生が出てくるのか。
異世界に帰っていって、もう会えない監督生が……。
セベクは察してしまう。
「お前……! あの人間が好きなのか!?」
エースは答えない。ただただ、監督生を呼んでいる。
これ以上パニックになられると、自身を傷つきかねない。
セベクは決断する。
「許せ」
ユニーク魔法ではない、弱い雷の魔法を、エースに打った。護衛のセベクは、エースにかけられた保護魔法の適用外だ。
エースの全身がけいれんする。やがてけいれんは収まり、全身をひくつかせている。
筋肉が固まって、もう暴れられないエースの体を、セベクは肩に担ぎ上げる。エースを連れて、書物庫をあとにした。
42話 お前のせいだ
夜。マレウスのベッドの中。エースは掛け布団の上に横たわり、いつも通り服を着てマレウスを待っていた。
やがて扉が開く。暗闇の中で目をこらして、扉を見る。予想通り、マレウスが帰ってきた。
扉が閉まり、一夜限りの防音魔法をかけて、マレウスがベッドに近づこうとしているのを確認してから、エースは目をつむった。
マレウスの気配がすぐそばにある。いつもならこの後に、マレウスがベッドの外にエースを連れ出して、立ったまま互いの服を脱がせ合うのだ。
すべての服を床に落として、生まれたままの姿で、またベッドの中に入っていく。ここに閉じ込められてからずっと続いていた、儀式めいたそれらの行動は、もうしない。
「トラッポラ」
ベッドが沈む。マレウスが身を乗り出してきて、いまにも触ってきそうな気配をひしひしと感じる。
エースの髪に、マレウスの指が触れた瞬間。エースは目をカッと開いた。
マレウスの手首をつかみ、思い切り引き寄せる。ベッドの中に連れ込み、押し倒した。
あお向けに転がしたマレウスに馬乗りになったエースの両手は、マレウスの首にかかっている。力を込めれば気道をふさげる位置を独占している。
エースは決めていた。
今夜、マレウスと、死別すると。
殺意に濡れたエースの目に射抜かれて、いまにも殺されそうだというのに、マレウスは無表情だった。困惑も、怒りも、何もない。ただエースを見つめて、口を開く。
「僕を殺したら、騎士たちが黙っていない。特にセベクが真っ先に、お前の首を刎ねに行くぞ」
セベクならやる。迷いなくエースをギロチンにかける。
そう確信していても、エースの殺意は収まらない。
エースは低い声で言う。
「構わねえよ……。オレたち、どうせ死ぬんだ。どんなにあがいても、オレはお前を、好きになれないんだ」
「なぜ、その結論に至った」
いつもは抱きしめてくれる両腕をいまは自身の横に投げ出し、一つの抵抗も見せず、冷静さを保ったままのマレウスが、ひどく憎い。
エースは激情のまま叫ぶ。
「監督生の! あの目を忘れたオレなんて! オレじゃない! あれがオレだったのに!! こんなオレなんて! 好きに! お前をっ!! 好きに、なんて……っ、なれるわけねえだろうがよ!! お前に! お前にぃ!! 毎日毎日! お前にめちゃくちゃにされたせいで!! お前のことばっか考えて! あの目を思い出すひまが! なくなって! わ、わすっ、忘れてしまった……! オレじゃなくなった!! こんなオレに! 生きる価値なんて! おっ、お前さえ! お前さえいなければ!! お前が来なければ! お前が感染しなければ! ぜんぶ! ぜんぶ!! お前のせいだ!!」
「そうだ。すべては僕のせい」
静かな声は、激情の声を止めさせた。
またマレウスは静かに言う。
「茨の谷は強い。次期当主がいなくなっても、多少の混乱はあるだろうが、それでも国民は皆、前を進む」
投げ出されていたマレウスの両腕が上がっていく。エースの伸ばされた腕を、ゆったりとさする。
「お前が望むのなら、このまま殺されよう。そしてお前も、リリアたちに処刑されてこい。黄泉の世界で、また会おう」
ウソをついているようには見えない。いつだってマレウスは素直だった。
素直な言葉は本物だ。その本物の言葉で、殺されたあとも殺人犯のエースを拘束するのだと、マレウスはエースに宣告したのだ。
ただならない執着をぶつけられたエースの背筋が冷たくなる。爆発寸前までふくれていたはずの殺意が急速に萎えていく。マレウスの首にかけていた手がゆるんでいく。
──もうこのまま手を離して、いっそ窓から飛び降りようか。
自殺は殺人以上の大罪だ。マレウスでも追いかけてこられない地獄へ、ひとりで……。
「ひとりになどさせない」
マレウスの手が、エースの手首をゆるやかにつかむ。このまま引き抜けそうなほど弱い力なのに、反抗を許さない、絶対的な力を感じる。
問いかけてくるマレウスの声。
「動機が必要か?」
「あ……?」
「僕を殺したくなる動機を、新たに与えてやる」
マレウスはエースに告白する。
慈愛に満ちたまなざしを注ぎながら。
「異世界のヒトの子を、もとの世界に帰したのは、僕だ」
続く告白。
「花吐き病という名の、妖精の祝福を、お前にかけたのも、僕だ」
さらに続く告白。
「異世界のヒトの子に恋するお前をさらうために、すべて僕が仕組んだ。僕にしか、すがりつけないように」
最後にとどめの言葉を吐く。
「もう、僕しか、考えられないな?」
エースの瞳孔が、限界まで開いた。
「…………」
人間という生き物は。
純粋な殺意に侵されると、殺害対象しか考えられなくなるらしい。
エースはもう、人間ではないけれど。
43話 新しい恋
力がみなぎる。やわらかい肌が、あっけなく指にそってめり込んでいく。エースの力はちっともゆるまない。このあとに待ち受ける処刑など頭にない。管が閉まる感触すらしてこない。気道がしまり、顔中の毛細血管が切れて、徐々に赤くなっていくマレウスの顔しか目に入らない。
エースに首を絞められても、マレウスは抵抗しない。肌に沈んだエースの指を、手袋をはめていない指でなぞり、ほほ笑み、エースの目を見つめている。これからやってくる自身の死を、満足そうに待っている。のちに黄泉の世界にやってくるエースを、迎える準備を始めようとしている。
そろそろ命がついえる時が来た。
いまのエースのように、マレウスの瞳孔も開いていく。
最期の一瞬まで、生きているエースの姿を網膜に焼き付けようとしている。
自身の命をかけて、恋しい者を手に入れようとした男の、瞳。
瞳孔が開ききったその瞳は真っ黒で。
エースの心にやって来た者は。
──『またね、エースちゃん! 次に会うときは学園だね!』
急に空気を与えられたマレウスは顔を横に倒し、激しくせきこむ。頭では死を願っても、体は生にしがみつこうとしている。本当はマレウスも生きたかったのだろう。
マレウスのせきこむ声が室内にひびく中、エースは呆然と自身の両手を見つめる。
「ケイト先輩……?」
マレウス殺害を、ケイトに止められたような気がした。
エースの復学を信じている声で、止めてくれたような気がした。
ここで殺して、処刑されたら、復学できない。エースが無意識にそう思い至れたのは、マレウスしか考えていなかったエースの心の中に、ケイトが会いに来てくれたからだ。
──『きっと、大丈夫だよ』
会って、殺意に侵されたエースの手を止めて、衝動をしずめて、治してくれた。
マレウスを殺す直前で、ケイトはエースを治したのだ。
「ケイト……先輩……」
エースは思い出した。
復学を信じている声で、エースはあきらめない心を手に入れたことを。
マレウスとの和解をあきらめなかったおかげで手に入れた、マレウスの無邪気な笑顔を。
その笑顔は、エースが自覚していなかった、エースの心のやわらかいところに刻まれていた。
花への愛に満ちた、黒い瞳を持つ監督生しかいなかった、やわらかいところ。
──『オレが何を言っても、エースちゃんがマレウスくんを好きになれるヒントは得られないよ』
「ケイト先輩のウソつき……」
こんなにも大きなヒントを、答えを、残してくれたではないか。
──これは、新しい恋だ。
──だってマレウス先輩の笑顔って、すごくかわいくて。
──オレをいっぱい見るために、瞳孔をいっぱいに開いて。
──マレウス先輩の瞳孔の中って真っ黒でさ。
──それがスゲーきれいで。
──キラキラした瞳を一心に向けてきて。
──笑い合った、あの時間が、いまでも大好きだ。
──死んでも忘れられない。
「オレ……マレウスが……好きだ……」
ついにエースは、マレウスへの恋心を自覚した。
監督生にささげていた心がエースのもとに戻ってきて、エースは自分の意思で、心をマレウスにプレゼントした。
44話 両想い
マレウスのせきこむ声に、湿り気が混ざる。口から出てきた物は、白銀の百合の花弁だった。
吐いたばかりの花弁を、マレウスは信じられない思いで見つめる。
──片想いの対象者と両想いになると、発症者は白銀の百合を吐き、完治する。
ついにマレウスは治ったのだ。もう花を吐くことはない。
白銀の花弁を見ながら、マレウスはつぶやく。
「なぜ……」
「そんなの、決まってんじゃん……」
エースの声だ。マレウスは首を動かしてエースを見る。
エースはしゃくりあげていた。涙に濡れた目を、両手でこすっている。
いきなりエースに首を解放されたかと思えば、当人のエースは泣いているのだ。マレウスにとっては意味がわからない光景だ。
混乱しているマレウスを置いて、エースは涙目でキッとにらむ。
「マレウス先輩を好きになったからだよ!! 気づけよ! この鈍感!」
エースは馬乗りになっていた腰を浮かせて、改めてマレウスにまたがる。マレウスの指に自身の指をからめる。そのつないだ手を、マレウスの顔の真横のシーツにそれぞれぬい付けた。
ポカンとしているマレウスを真上から見おろして、エースは涙をこぼしながら言う。
「あんたに祝福をかけられた時で一度目。今日ので二度目。二度も捨てた命だけどっ、これからもあんたに好きなように使われるのはゴメンだ。それでもっ、どうしてもオレの命が欲しいんなら、いまから出す条件をのめ。そしたらオレの意思で、残りの命をっ、あんたにやるって約束してやる」
新しく作られた涙もあふれてくる。古い涙も、新しい涙も、真下にいるマレウスの目のすぐそばに、ぱたぱたと落ちていく。涙が目の中に入っても、マレウスはエースを見つめ続けている。
エースもマレウスから目を離さない。
「マブとして監督生を想い続けるオレを、オレが死んでも受け入れろっ」
──いまはもう、恋しくなくても。
「どんなことがあっても……絶対に! 監督生が好きだったこと、忘れてやらねえからなあ!!」
「……」
マレウスはおそるおそる、エースの手を握り返す。不安気に、けれど心外そうに言う。
「当然だろう……。『忘れろ』だなどと、言ったこともなければ考えたこともない。それもふくめて、丸ごとお前を想っているのだぞ」
マレウスが吐いていた、赤い桜の花弁。桜を愛する監督生を想うエースの象徴。監督生の存在を忘れないエースも、マレウスが好きになったエースなのだ。
「丸呑みしてやりたいほど、僕はトラッポラに恋している」
つながれた手はほどかないまま、マレウスは腹筋だけで起き上がる。マレウスの太ももの上にまたがっているエースの頬にくちびるを寄せる。こぼれ続けている涙を吸って、エースに謝る。
「逃がしてやれなくて、すまない」
「そーだよ!! 謝れ! 謝れよお! ひどいことされたんだ!! もうアンタなしじゃあ生きらんねえんだ!! 責任とれよ! 一生かけてつぐなえよお!」
「ああ。心を尽くして、つぐなおう」
「約束っ、だからなあああああ……!!」
エースは口を大きく開けて、とうとう声をあげて泣いた。
次々とあふれ出てくる涙を、マレウスは一粒ずつ、ていねいに吸っていく。泣き止ませようとはせずに、エースの思うがままに泣かせる。
言葉ではないエースの本音を、こぼしたくないから。
---
やがてエースは泣き止む。しゃくりあげて、マレウスにもたれかかる。マレウスは何度も跳ねているエースの体をなでて、あやしていく。
落ち着いたエースは、水が入ったコップをマレウスに手渡される。無心で飲み干す。からになったコップを魔法で消されて、ベッドに寝かされる。
下敷きにしていた掛け布団を魔法で引き抜いたマレウスは、自身とともにエースにかぶせた。
まだ少し冷たい布団の中。エースをゆるく抱きしめたマレウスは、小声で一言。
「おやすみ」
この一言で、エースは自主的に目をつむった。
「……おやすみ」
ここでマレウスと服を着たまま眠るのは初めてだ。
唄が聴こえる。茨の谷に伝わる子守唄だろうか。聴き慣れない唄。なのに心にしみていく。
怖くて、さみしくて、でもやさしくて、真綿に包まれているようで、こちらも包み返したくなりそうな。
魔法ではない唄は恋と愛がごちゃ混ぜになっていて、明らかに唄い慣れていない、不恰好なものだけど。
──これからいっぱい聴けたらいいな。
──オレもいつか、唄えるようになりたいな。
楽しみができたエースは、おだやかな気持ちで眠っていった。
---
エースの心の、一番やわらかくて無防備なところ。
そこにはマレウスと、まぶたを閉じている監督生がいた。
エースはマレウスとともに、監督生に手を差し出す。二人の手をとった監督生のまぶたが開かれていく。
皆に見せていた、いつもの優しい黒だった。
45話 マレウスが見た夢
オンボロ寮の談話室。まだ監督生がいた頃。
解読に行き詰まっていたマレウスは、監督生に一枚の羊皮紙を渡す。去年の、恋の占星術の内容が記された物だ。
『蒼き冥府に恋する太陽が人々の文明を止めるとき、黒き異分子に恋する紅桜への道は開かれる』
ソファに座っているマレウスは、同じく向かいのソファにいる監督生に問いかける。
──恋の占星術で、僕に告げられた内容だ。ヒトの子は、これが解読できるか?
羊皮紙に記された文を、監督生はじっくりと読んでいる。そのくせ、片手はせわしなく、ひざの上であお向けで寝ているグリムの腹をなでていた。
一分後。監督生は羊皮紙から顔を上げて、何気なく言う。
──この『黒き異分子』って、僕のことだったりして。
わけがわからず、監督生をじっと見るマレウス。
視線を受けた監督生は、少しあせったように顔を下げる。グリムが寝ていることを確認してから、また顔を上げる。続けて言う。
──思いあがってるわけじゃなくて、僕ってエースに好かれてると思うんだよね。
──なんか、視線が熱っぽいというか。
──恋されてるのかも。
──あ。このこと誰にも言わないでよ。エースは気づかれてないと思ってるっぽいから。
──で、ここから先は、僕個人のイメージなんだけど。
──僕にとっての『紅』って、エースのことなんだよね。
──この『紅』桜がエースのことだったら、紅桜に恋されてる『黒き異分子』は僕のことで。
──これ以上はもうわかんないし、合ってるかもわかんないけど。
──こういうふうに当てはめていったら、ツノ太郎ならぜんぶ解読できるんじゃないかな。
まさしく天啓を受けたようだった。
物ではなく、者として見る発想が、マレウスにはなかった。
やはり異世界出身は見解が違う。相談して正解だった。答えに近い意味がわかれば、あとはもう芋づる式で解読できるだろう。城内の保管庫にある、予見の魔道具も使えば、実際にどう行動すればいいのかも、さらに詳しく知れるはず。
エースへの道は開かれる。
これでエースと結ばれる。
満足していると、監督生が目ざとくマレウスを見る。マレウスにとってはありえないことを問いかける。
──僕が邪魔だと思わない?
驚いたマレウスは首を振る。そう思わせるようなことをしたかと問い返す。
監督生は答える。
──恋しい人が、別の人を見てるんだよ。
──その人がいる限り、心がこっちに向けられることはないんだよ。
──ね。邪魔だと思わない?
──エースの心を奪っちゃった、僕が。
見抜かれている。
マレウスが、エースに恋していることを。
どう反応すればいいのかわからずにいると、さらに監督生は笑顔でたたみかけてくる。
──邪魔な僕が、平和的に、永遠に消える方法があるよ。
そう言われて、確かにマレウスは心が揺らいだ。揺らいでしまった。監督生に消えてほしいと、わずかだろうが願ってしまった。
マレウスの返事を待たずに、監督生は答えを明かす。
──僕を、もとの世界に帰せばいい。
──いまのツノ太郎なら、本気で見つけようとしてくれるよね?
---
マレウスは本気を出してしまった。
大事な友人を帰したくなくて、異世界につながる道を見つけたくなくて、捜索の手をわざと抜いていたのに、あの誘惑だけで。手を抜くのをやめてしまった。
結果、異世界への道は開かれた。
マレウスだけの手柄ではないが、間違いなく助力にはなっていた。
帰郷を皆に知らせる前。監督生はマレウスと会った。
──ありがとう、ツノ太郎!
監督生はずいぶんと喜んでいる。ずっと帰郷を願っていたのだから、当然の態度だ。けれどマレウスは不満だった。
エースは恋しい者に置いていかれるというのに、監督生は無視していることが、どうにも気にいらない。
──トラッポラは、どうでもいいのか?
気がつけば、そう問いかけていた。
監督生はマレウスから目をそらして、困ったように言う。
──このままだと、たぶんエースは僕にとらわれたままだと思う。
──前までは、そんなエースを置いていきづらかったけど。
──でもエースと結ばれたがってるやつが、いてくれてさ。
マレウスと目を合わせる監督生。
──ツノ太郎なら、エースを任せてもいいかなって思った。
──なんかまだまだ危うい感じはするけどさ。
──それでも、まあ大丈夫かなって思って。
──エースとなら、いろんな人たちを巻き込んででも、乗り越えていけそうかなって。
──安心した。
監督生は目を細めて、親愛の眼差しをマレウスに注ぐ。
──ツノ太郎。
──エースと、ずっといっしょにいてあげて。
──あいつ、けっこうさみしがりやだからさ。
──僕のマブのエースを、ひとりにさせないであげて。
マレウスが聞いた、監督生の最後の言葉だった。
マブ。友人にすぎない関係。
エースがいないところで、監督生はエースをふった。
無責任にも、自分から直接ふらずに、マレウスにすべてを託して。
---
監督生はオンボロ寮に帰っていった。それきりマレウスは監督生と会っていない。
帰郷の前日。監督生との別れを惜しむ者たちが、こぞってオンボロ寮を訪れていたらしい。
帰郷の当日。学園の関係者ほぼ全員が、監督生を見送るために集まっていたらしい。
どちらの日も、マレウスは行かなかった。
友人の一人として会いに行ったほうがいいのはわかっていたのに、ずっと自室にこもっていた。リリアにうながされても、決して監督生に会いに行かなかった。
恋しい人との永遠の別れの悲しみで押しつぶされそうになっているエースを見てしまうと、監督生に嫉妬の目を向けてしまいそうだったから。
監督生との思い出を、美しいままで終わらせたい。
占星術の解読は、もうすでに終わっていた。
あとは行動あるのみ。
---
監督生。異世界のヒトの子。
マレウスの、かけがえのない友人。
彼は大きなものをマレウスに残してくれた。
絶対に手放したくない、大きなものを。
だから。
──本当に……感謝しているんだ。
---
後日。
ひとりになったエースに、マレウスは祝福を贈った。
46話 和解
カーテンに閉ざされた窓から、朝日が漏れ入っている。
顔を触られている感覚がして、マレウスは目を覚ました。
ゆるく開いた二人の間をぬって、手を伸ばしているエースに、目のすぐ横を触られている。
エースは笑う。
「おはよ。マレウス先輩」
「……おはよう。トラッポラ」
「泣いてたよ。やな夢でも見た?」
どうやら涙をぬぐってくれていたようだ。目の周りはまだ湿っているが、水滴はもう感じられない。
離れようとしたエースの手に、マレウスはすり寄る。
「少しだけ、悲しい夢を見ていた」
「そういうとき、あるよな。まだ悲しい?」
「いや……もう大丈夫だ」
監督生との別れを、乗り越えられたような気がした。だからマレウスは、監督生のことで、もう泣かない。これが最後の涙だ。
エースは機嫌よくほほ笑んでいる。
いましかない、とマレウスは思った。
「『エース』と、呼んでもいいか?」
エースはパチクリと目を瞬かせる。ニンマリと笑う。
「ダメ」
マレウスは思わず「なぜ」と不満の声を出した。
エースは笑いながら答える。
「いまからそんな新婚みたいなことしたくない。オレ、まだ学生気分でいたいんだよね。もっと先輩後輩の関係を楽しんでたいの」
「……学生でなくなればいいのか?」
「卒業はさせろよ、さすがに」
エースが卒業するまで、あと三年強。
いつもなら瞬き以下の短い時間だと思えるのに、いまは長いと思ってしまう。
むすりとしていると、エースは声をあげて笑う。
「あははは! 先輩ってマジでオレのこと好きじゃん!」
エースは笑いながら体を上にずらして、マレウスの頭を胸元に抱き込む。よしよし、と頭をなでている。
「でもな、まだ足りねー」
急に声のトーンを落として、続ける。
「一番に、オレと……いや、一番は国民にゆずってやる。王配のオレもそうするし。二番目に、オレと、将来生む卵を見てくれないと、めちゃくちゃ怒ってやるからな」
わざわざすごんだ声を出したにしては、内容はかわいらしいものだった。ついマレウスは「ふふ」と笑ってしまった。
今度はエースがむすりとした。
47話 次のデートの下準備
学園の敷地の広大さに反して、生徒数は少ない。ひとたび校舎や寮から離れてしまえば、地理にうとい者だと迷子になってしまうほど。それだけ人口密度が低いのだ。つまり、誰の目にも触れない隠れた休憩スポットなどいくらでもある。
監視カメラも人目もない屋外で、なおかつ日当たりのいい場所など、ケイトにはお見通しだ。イデアと親しくなれた今なら、なおさら。
その中の一つを、ケイトはエースに紹介した。
「ここだよ」
「ここ……すか」
エースは肩透かしを食らった。
王族に紹介するには、あまりにも寂れた場所だったからだ。
円形の茶色の地面が剥き出しになっている中央に、さびまみれのガゼボが一つ、ポツンとある。茶色の地面の際は苔がびっしりと生えており、隙間まみれの枯れた木々の根本は薄緑の苔に侵食されていて、閑散としている。いちおう、日当たりはいい。日をさえぎる木がないのだから。そして日当たりがいいぶん、ガゼボの中の陰はかなり暗い。夏場は涼しそうなのが救いか。
エースはつぶやく。
「ホラー?」
ケイトは困ったように笑う。
「ダメだった? 廃墟がないと、マレウスくん、喜んでくれない?」
「いえ……廃墟前提ってわけじゃないですし、こんなに視界がよかったらコソコソ見られなくて済みますし、ていうか映えない場所って誰にも注目されないわけだし……うん。最高! 周りに邪魔されなさそうで、むしろいいかも! ありがとう、先輩!」
困った様から一転して、ケイトはニヤニヤと笑う。
「つまりそれって……どんなとこでも二人きりになれるなら全部最高ってこと? けーくん、のろけられちゃった〜」
ケイトはエースの頭をなでる。エースは受け入れつつも、顔をしかめる。
「はあ? マレウス先輩にばっか、デートするとこ決められんのが嫌なだけですよ!」
「ホントにー?」
「ホントーですっ」
「そういうことにしといてあげる」
ケイトは笑いながら、エースの頭から手を離す。もう片方の手にずっと持っていた物をエースの前に出す。
「じゃ、オレはこれで」
持っていた物──タブレットをケイトが離した瞬間、浮遊したタブレットは弾かれたように、ケイトに画面を向ける。
「ちょっとケイト氏!? 帰っちゃうの!?」
タブレットからイデアのあせり声がした。
ケイトはあっさりと言う。
「うん。パーティの途中だったのに主役を抜け出させちゃったんだから、オレが代わりに盛り上げに行かなくちゃ」
「そんなあ!」
イデアに嘆かれても仕方がないのだ。
マレウスとの新しいデートスポットを、エースがマレウスに提案したがっていたから、案内してあげた。などの言い訳は通用できなさそうなほど、今日のデュースたちはエースを離したがらなかったのだから。
---
一年A組のクラスメイト全員が企画した、生徒なら全員参加可能の、エースくんおかえりなさいパーティ。エースは主役の席である一人用チェアではなく長イスに座り、トレイ特製のチェリーパイをデュースの隣でモリモリと食べていた。味もおしゃべりも楽しんでいたエースに声をかけて、隣にいたデュースには『ちょっとおしゃべりしたいから』とウソをついて、護衛のセベクをまいて、エースを抜け出させた。……しばらくは一年生たちにすねられそうだ。
それでも案内する日は改めなかった。得意の占星術によると、今日が最適だと出たのだ。おそらくパーティを抜け出させた甲斐があるほどの、いい結果が出てくれるのだろう。
せっかくイデアが頼ってきてくれたのだ。彼のコンディションは最高にさせたい。
──今日は、とてもいい日になってくれそう。
楽観的な思考で、ケイトはパーティ会場に戻っていった。
48話 すべての元凶・1
残されたエースとイデア。
機械なのに、途方にくれたような哀愁をただよわせているタブレットに、エースは声をかける。
「とりあえず、座りません?」
「あ……っす」
イデアの返事を聞いてから、エースはガゼボの中に入った。
中はやや広め。すし詰めにすれば、外周のベンチだけでも十五人は座れそうだ。デートするときは二人しか使わないのだから、悠々と使える。結局体をくっつけて、無駄なスペースがいっぱいできるだろうが、きゅうくつでいるよりはずっといい。
一つの区画のベンチにエースは座る。エースのはす向かいで、タブレットが浮遊している。
エースはけげんな面持ちで、タブレット越しのイデアに問いかける。
「なんでビミョーにナナメなんすか」
「あっ、いや、しょ、正面はきついので」
ケイト相手には真正面を陣取るくせに、ずいぶんな内弁慶である。
──ケイト先輩は平気なのに?
と、からかいたくなる欲求がエースの内側で起こったが、自然とすぐにおさまった。未来の王配は、少々気心が知れた先輩相手だろうと、小馬鹿にしないという常識が身に染みつつあった。
自然な様子でエースは問いかける。
「ま、いいや。話って何ですか?」
デートスポットの案内ついでに、エースはイデアにも呼び出されていたのだ。ケイトもイデアも、あくまでもついでの体をつらぬいていたが、おそらくこれが本命だとエースの勘が告げている。
イデアは簡潔に答える。
「話、というよりは、警告」
エースはぴくりと反応する。イデアは続ける。
「まだ決まってないけど……たぶんエース氏、これから誰かに脅される」
たたずまいを直すエース。詳細を迫る。
「どういうこと?」
「最初から話すよ」
どうしてエースが脅されるのか。イデアは理由を話していく。
---
もともとすべてが始まったのは、去年の授業中。当時二年生だったマレウスが、恋の占星術の授業で、実践パートナーからお告げをもらってからだ。
告げられた内容を解読した結果が、花吐き病の感染騒動だった。
言ってしまえば、あの占星術が、すべての元凶である。
---
説明するときのイデアは|饒舌《じょうぜつ》になるのだな、と思いつつ、エースは感慨深く言う。
「そっかあ……。占星術があったから、あんなことされたんだったわ」
「そ」
「騒動起こしたときのマレウス先輩って、ホント迷惑でしたよねー」
「はあ〜〜……ホンそれ。あのときのマレウス氏は強引すぎたよね。エース氏は何も悪くないのに、あんなことして、あれはもう完全に加害者。それでも『妖精族だから』という言い訳がまだ通用できる範囲内だったけど……それは現代だから、通用できたんで」
「……未来では、通用しないって?」
「何十年、何百年、何千年後になるかはわからないけど、文明が続く限り、価値観も変わり続ける。あの騒動が歴史に残ってしまうと、いつかは必ず……断罪の時が来る」
「……」
そうだった。
人間の感覚だと、マレウスは犯罪者だ。
罪を犯していない一人の人間の人生を、丸ごと奪ったのだから。
下手をしたら将来──たとえマレウスが死去した後だろうと、人間との戦争を起こす引き金の一つになりかねない。遠い過去の歴史をほじくり返して、難癖をつける連中は、どの時代にもいるのだから。
こわばった顔つきのエースを見てから、イデアは続きを言う。
「ケイト氏に『これは犯罪だ』と言われたおかげで、さすがのマレウス氏も『本来は受け入れられないもの』だと気づいたんだろうね」
---
過去に起こした花吐き病の感染騒動が原因で、未来で人間との戦争が起きるかもしれない。
それを危惧した茨の谷の妖精族たちは、花吐き病が治ったエースをディアソムニア寮内に閉じ込めてから、S.T.Y.X.に依頼した。
当時の恋の占星術の授業データを、すべて回収しろ、と。
すべての元凶をしめす物的証拠──物証など、隠滅してしまえばいいのだ。口伝だけの黒歴史など、未来の決定的な脅威にはならない。
物証である占星術のデータさえ回収できればよかった。
だが、回収はできなかった。
すでに奪われていたからだ。
49話 すべての元凶・2
凍った空気の中、イデアは続けて説明する。
「例の占星術の授業データだけ、ごっそり抜かれてたんすわ。抜かれた痕跡、調べてみたら、いまの占星術の教師が自分で抜いてたことが発覚。すぐにうちの職員が問い詰めてくれたよ。対人だと頼りになるわ〜〜。拙者には到底むりむりむりむりカタツムリ」
「で?」
「あっすいませんすぐに言います。教師の証言によりますと、そのデータを抜いたあとは誰かに渡したけど、誰に渡したかは、まったく覚えてなかったみたいです」
「覚えてない……?」
「ちな、その証言はウソではないと独自の調査で確認済み。抜いたデータを渡したのは確実でござる」
「うん。そこは信じますよ」
にらまれなくなったイデアはホッと胸を撫でおろす。続きを説明していく。
---
占星術のデータを抜いておいて、それを誰に渡したのかは忘れてしまった教師。
教師に脳障害はない。なのにピンポイントで忘れるなど、都合が良すぎる。
何らかの魔法をかけられたのだろう。そう踏んだS.T.Y.X.職員が、教師にかけられていた魔法の種類も調べた。
記憶消去系の魔法だと判明した。
つまり主犯は教師ではなく、その教師の記憶を消した者。
教師は利用されていただけだったのだ。
とはいえ、学園の授業データの一つを他者に渡したのは事実。不祥事だ。エースが軟禁されている間に、教師は学園から懲戒処分を受けた。
---
エースは思い出した。
パーティの最中に、雑談の一つとして出てきた話題だ。今年に赴任してきたばかりの一人の教師が不祥事を起こして、いまは出勤停止中だと。
エースは疑問を口に出す。
「記憶を消されただけ? 残ってた記憶はいじくられてないの?」
「うん。あくまでも、不都合な記憶を消すだけ」
「じゃあ……データを抜き出して渡したのは、自分の意思で?」
「そう。その点に関しては、そいつは共犯者。何の落ち度もない、完全な被害者のエース氏とは立場がまったく違う。……悪いことしたっていう口実があれば、妖精族は容赦しない。いつか行方不明になったりしてね、その教師」
残酷だが、悪人と定められた者には何をしてもいいという風潮は、妖精族に限らず他種族にもある。SNSが良い例だ。ただ妖精族の仕打ちのレベルが抜きん出ているだけで。
イデアは説明を続ける。
---
占星術のデータを抜いた時期も、記憶を消された時期も特定不可能。つまり、不可能になるほど時間がすでに経っていた証明だった。教師にかけられていた魔力の質はすっかり落ちて、痕跡だけでは主犯の特定も不可能だった。
予算の範囲内で別方向でも調査を続けたが、結果は不発。追跡の材料が圧倒的に足りないとなれば奪還は難しい。調査の精度をもっと高くすれば主犯の特定はできるだろうが、予算オーバーは確実。そもそも依頼されたのは占星術のデータ回収のみだ。主犯のあぶり出しではない。
追加報酬はない依頼に肩入れしてはならない。リスクとリターンの検討を重ねた結果、占星術のデータは回収できないと判断が下された。
回収失敗の結果と経緯を茨の谷に伝え、前報酬のみをもらったS.T.Y.X.は、調査を打ち切った。
イデアはS.T.Y.X.の所長代理だ。もちろんこの調査を受けていたことはすでに知っていた。だが停電とネットワーク遮断騒動の罰で、学園の雑用に専念せざるを得なかったので、詳細を知れたのは調査終了後だった。
失敗で終わらせたことはイデアも納得している。S.T.Y.X.は悪を裁く警察ではないのだから。
---
エースは驚く。
「ぜんぜん解決してないじゃないですか!!」
イデアは気まずそうに言う。
「……それだけじゃ夢見が悪かったから、いますぐ来るかもしれない危険性は、僕がリリア氏に言っておいたよ。それをエース氏にも伝えたくて……ここに、呼び出した」
どうやらイデアがエースを呼び出した理由が、もうすぐ明かされるようだ。
50話 すべての元凶・3
エースのはす向かいから正面に移動したタブレットから、真剣な声が続く。
「本題に入る前に、軽くおさらいしとくよ。去年の恋の占星術の授業データは、茨の谷の黒歴史につながる物で、都合が悪くなる前に丸ごと回収したかった。だからうちに依頼したのに、回収できなかった。なぜなら何者かの手によって、すでに奪われていたから。占星術のデータという黒歴史の物証を、何者かに奪われたまま、いまに至っている。……ここまではいい?」
「はい」
「じゃ、本題に入る。そんな物を奪った動機なんて、一つしかない。……脅迫だよ」
エースはおとなしくうなずく。
「そうですよね。でもそれ、オレは茨の谷から聞いてません」
「……そりゃ言えないよ。もろ脅されるかもしれない子に、もろ言えるやつがいたら見てみたいよ。あ、僕がそうか……」
エースは不思議そうに問いかける。
「脅されるのがオレ個人ってこと? 茨の谷全体じゃなくて?」
「一国に効くのは、あくまで遠い未来の話。いまは痛くもかゆくもないから、すぐ脅すには弱いよ。それより、いま効く対象が、茨の谷の王族にいる」
それがエースだと言いたいようだ。
エースは疑問をぶつける。
「まだ効き目のない物証が、オレに効く理由って、なんですか?」
「簡単に言うと、『嫉妬』」
もったいぶった割には、あっさりと答えられた。
答えは続く。
「まだ一国の弱みにならなくても、エース氏とマレウス氏が結ばれた、決定的な物証にはなる」
「はあ。そっすね」
「……もっとわかりやすく言うと」
まだピンと来ていないエースに、イデアはまた答える。
「アイドルとか、俳優とか、芸者とか。自分とまったく関わったことがない人にガチ恋するやつって、どこにでもいる。身分不相応だろうと、いつかは自分を迎えに来てくれるのだと夢見るやつも、ゴロゴロいる。妄想が過ぎて、自分こそが彼、彼女の伴侶だと言い張る、ヤバすぎるやつもね。それと同じように……身勝手で過激派な『自称マレウス・ドラコニアの伴侶』は、国内にも国外にも山ほどいる」
察したエースの顔が凍りつく。イデアは言いにくそうに、けれど続ける。
「そいつらが、例の占星術の真相を知って、提示された物証で確信して、嫉妬に狂えば……どうなると思う?」
エースは答えない。イデアは続けて言う。
「エース氏って、他国の元人間の庶民でしょ。なのにマレウス氏に見そめられた。一般的なファンなら素直に祝福してくれるけど、一部の過激派は、『どうしてアイツが』って、逆恨みしてくるよ。こっちは自国民なのに。こっちは元から妖精族なのに。こっちも同じ庶民なのに。こっちのほうが身分は上なのに。……例を挙げだすとキリがないから、このへんでやめとく」
エースは口を閉ざしている。イデアは続ける。
「そんな過激派でも、安全なところはある。よそから伝えられたことなんて気にせずに、ただ自分の世界に閉じこもってるタイプなら、『世間ではああ言われてるけど、私が一番だってことは知ってるからね。それはただの偽装結婚でしょ?』という感じ。庶民相手に何の偽装をするんだよってツッコミはなしでオナシャス。やつらはバカなんで」
エースは口をつぐむ。イデアは続ける。
「でも……物証があれば、そのバカげた主張はくつがえされる。『そんな物はウソだ』と主張しても、不安はどんどん募っていく。それだけ強いんだよ、形に残ってるのは。だから博物館があるわけだし」
エースは黙り込む。イデアは続ける。
「奪われた物証を、ネットで丸ごと拡散されれば。データを複製されて、世間にばら撒かれれば。エース氏に嫉妬するやつがどれだけいるのか……そいつらの中に、薔薇の王国出身がいたら、すぐにでも」
「オレの親と兄貴が……」
害されるかもしれないのだ。
51話 すべての元凶・4
エースのつぶやきに、イデアはあせったようにフォローする。
「いまは! たぶん大丈夫! 茨の谷から見張りが何人か、エース氏の実家に向かってくれてたのはS.T.Y.X.が確認してる!」
ためらいつつも、今度は釘をさすイデア。
「わ、わかった? いまのエース氏は、家族をいつでも害せられる『凶器』を、誰かもわからないやつに、常に握られてるってこと。それって、エース氏個人を、いつでも脅せるってことにもなる……」
エースは低い声を出す。
「オレだけ脅して、どうすんの……」
「言うことを聞かせるため、としか言いようがない。何を要求されるかは未知数かな……」
「はあ……めんどくせー」
エースの発言に、イデアは声もなく驚いた。
家族が危ないかもしれないのに、ずいぶんと淡白だ。取り乱せとは言わないが、冷静すぎるのも反応に困る。
とまどいながら、イデアは問いかける。
「エース氏……? あの、僕の言ったこと、わかってる……?」
エースは気だるそうに答える。
「ああ、はい。脅されるかもって話ですよね」
「ちゃんと聞いてますね!? もっと、こう……ないの!? ご家族の命にも関わるかもですぞ!?」
「んん〜」
話を聞けば聞くほど、エースは反応を面倒くさがる。イデアほど家族を神聖視していないのに、それを強要されている気がしたからだ。
エースは思春期の男子高校生らしく、家族はそこまで好きではない。さすがに実際に害されたとなれば、話は別だが。
エースの寿命が延ばされたと家族に伝えた時。驚かれたが、『どうせ年齢的に見送る側になるのは変わらないから』と、すんなりと受け入れてくれたことには、素直に感謝している。むやみに反対してこなかった恩を返したいと思うほどには、嫌いではない。
その思いを伝えるのは、まだ恥ずかしい。エースは家族愛については答えずに、論点をずらす。
「オレが落ち着いてるのがそんなに意外?」
「い、がい、て言うか……!」
ここまで白状だと思わなくて、イデアは震えた。本当に弟の友人なのかと疑ってしまう。
エースは困り顔を隠さずに言う。
「白状者に見えてますかね、やっぱり。そりゃさすがに気づいたときは肝が冷えたけど、でもそれ過ぎれば、あまり心配しなくなったんです。だって……」
区切ってから、エースは笑う。
「マレウス先輩なら、なんとかしてくれるって、信じてるから」
「……」
「茨の谷が知ってるってことはさ、マレウス先輩も知ってんでしょ? なのにあせってる感じ、ぜんぜんオレに見せないんだもん。あの人、けっこうわかりやすいんだぜ。ちょっとでも気まずいことがあったら、ぜーーーーんぶ! 顔に出ちゃうんだから! なのに出ないってことはさ、脳内お花畑ストーカーなんて簡単に退治できるってこと。問題にもならないの! 見張りを行かせてんのも、ただの牽制じゃない? 深い意味なんてないね、絶対」
イデアは言葉を失った。
家族が危ないかもしれない時に、一人だけ何も伝えられず、のけ者にされているエースがふびんで、ケイトに協力してもらってまで呼び出して、言葉を尽くして伝えたというのに。現実はのろけられただけで終わった。
イデアは一気にやる気をなくす。
「はあ〜〜〜〜。もういいですわ。はいはいどうせ余計なお世話でしたよ。お邪魔虫は退散させてもらいます」
ガゼボから出ていこうと動き出すタブレットを、すっかり元気になったエースは逃がさない。ニヤリと笑ったその顔つきに、未来の王配らしさは見当たらない。
「よっと!」
エースは両手で勢いよく、タブレットをガッと挟み込んだ。タブレットから「ぎゃあ! 拙者いつもこんなんばっか!」と悲鳴があがった。
エースはニヤけながら提案する。
「よかったらイデア先輩もパーティに参加しましょうよ」
イデアは即座に拒む。
「いやいやいやいや。冗談きつすぎない? 陽キャの巣窟に行けなんて、拙者に死ねとおっしゃる? やめてください蒸発してしまいます」
エースは不思議そうに言う。
「タブレット越しなら大丈夫じゃね?」
「パ、パーティのキラキラ攻撃はモニター越しでも威力はそのまま。パリピオーラに全身のありとあらゆるところを焼かれるで候」
「ケイト先輩もいるよ」
沈黙。それが答えだった。
エースはたたみかける。
「まあまあ、遠慮なく。参加ついでに、いっしょに怒られてください」
タブレットがあからさまに震える。
「それが目当てですな!?」
「まあまあ、まあまあまあまあ」
「あ、あ、誘拐されちゃうううう!! 助けてオルトおおおーー!」
「オルトもパーティにいますから!」
わめくタブレットを抱えて、エースはガゼボから出た。太陽がまぶしい。ガゼボの中は暗かったのだなと再認識させられる。
周囲に障害物がないことをいいことに、明順応を終わらせる間もなく、エースはパーティ会場に向かって走り出す。主役がパーティを途中で抜け出した罪はどうしたら楽につぐなえるのかを考えながら。
日光を浴びているうちに、思考を放棄した。
晴天の日は、ただ楽しむことに全力でいたい。大好きな彼も、機嫌がいいのだから。
52話 真のすべての元凶・1
──あいつらも行ってしまった。なのになぜ俺はまだ動こうとしない? なぜ俺はパーティに出ようとしない? そもそも、どうして出る気分にならなかったんだ? そりゃ、なんでもない日のパーティじゃないんだから、出席しなくていいが。でも料理だけ提供しておいて、あとは不参加だなんて、ありえないだろ。そこまでこいつを優先させたかったと? 恋人でもないのに? 俺の頭はいったいどうなったんだ。……認識を狂わせるという、あの機械はどうなった? イグニハイドの前寮長に返却? 教師たちが処分? まさかオクタヴィネルが引き取った? それなら俺がこうして、パーティじゃなくてこいつを優先させてしまったなんて、トチ狂ったことができるよな。いや待て。その機械はどこにあるんだ。防犯目的なら、範囲が広くないと意味がない。そんな広範囲のもの、こんな隠すスペースがない外に設置なんて、できない。
──じゃあ俺がこいつと、ここにいるのは、自分の意思で?
「トレイさん」
現実に引き戻されたトレイは、声がしてきた正面を見る。
ジェイドがトレイの足元に片ひざをついて、ベンチに座っているトレイを覗き込んでいる。隣に座っていたのに、いつの間に、正面に。
ニコニコと笑いながら、ジェイドは言う。
「まさか、現実逃避をなさっているのですか? いけませんね。考える方向をお間違えのないように」
片手はうやうやしく、自身の胸にそえられていた。
ガゼボの中の、濃い陰の中にいるジェイドの礼儀正しい仕草は、はたから見たら、まるで宵闇に愛された執事長のようだった。トレイから見たら、まるで深海の人魚の皮をかぶった悪魔のようだった。
ジェイドは問いかける。
「ところで、何をお考えになられて?」
素直に答えなくてはならない、とトレイは判断する。
「お前のことを考えていた」
ジェイドは意外そうに「おや」とつぶやいた。残念そうに言う。
「熱烈な告白はすぐにでもお受けしたいのですが……いまは貴方から、別のお返事をいただきたい」
トレイは無表情をつらぬく。しかし全身にかいている脂汗の匂いで、おそらく動揺を見抜かれている。
この汗は決して、エースとイデアの話を盗み聞きしてしまった罪悪感からではない。
自身の、いわれのない罪の重さに、つぶされそうになっているからだ。
---
ケイトたちがここにやって来た時。ガゼボの中にはトレイとジェイドがすでにいた。
三人がガゼボに近づいてきて、トレイはとっさに認識阻害魔法をかけてしまった。
まだガゼボから離れていたケイトには気づかれなかった。
機械越しで魔力など感じられるわけがなく、イデアにも気づかれなかった。
一年生でまだまだ未熟な魔法士のエースにも気づかれなかった。
ケイトは去ってくれたが、エースとイデアはそのまま去ってくれず、ガゼボの中に入ってきた。
トレイから一メートル程度しか離れていないベンチにエースが腰かけてきたときは、肝が冷えた。ジェイドとの仲を勘ぐられたくないからと、認識阻害魔法をかけたせいで、会話を盗み聞きするはめになった。
そしてトレイは、恐ろしい事実を聞いてしまった。
ケイトたちが来る前に、ジェイドから明かされていた話も事実だったのだと、イデアの口から証明されてしまった。
周りは閑散としていたうえに、エースとイデアがすぐ近くにいたから、普通の声量でも、よく聞こえてしまった。聞こえなかったふりなどジェイドには通用しない。
---
「僕がいるのに、だんまりですか?」
ジェイドは笑ったままだ。
横に引き伸ばされたくちびるで、イデアですら知らなかった話も明かされていたことを、トレイは瞬時に思い出す。
『冗談だろう』とは、もう言えなくなった話を。
---
去年の占星術の教師は定年退職。新しく赴任してきた占星術の教師は、学園長以上の保守派だった。
ジェイドが過去の不祥事をちらつかせただけで、前教師が手がけていた去年の恋の占星術の授業データをすべて抜き出して、あっさり渡してきたのだ。罪悪感からも逃げたかったのか、記憶消去魔法もすんなりと受け入れた。おかげで二年生の魔法なのに、よく効いた。
保守派だからこそ履歴も残さず、ジェイドに根こそぎ渡したものは、いくらS.T.Y.X.でも簡単には回収できない。
最終話 真のすべての元凶・2
「今日はとてもいい日です。星のめぐりは、今回も僕に味方してくださったようですね」
いきなり始まった自分語りになど、興味はない。けれど弱みを握られたトレイにできることは少ない。せいぜい思惑を探るくらいだ。
「何が言いたい」
トレイに反応されたジェイドはますます喜び、答える。
「ケイトさんがエースくんとイデアさんをここに連れてきてくださったおかげで、先ほど僕が申し上げたことが揺るがない事実だと、貴方にノーリスクで証明できました。複製したデータを見せて証明したくても、それを持ち歩くリスクなど考えるだけで恐ろしい。ああ……ずっと冗談扱いされて、悲しかったです。しくしく」
「泣きまねはやめろ」
「うふ。申し訳ありません」
トレイにつれなくされても、ジェイドはちっともくじけない。泣いたかと思えば上品に笑いだし、トレイをからかう。
「トレイさんも受けられた、恋の占星術。毎年やるみたいで、今年もやったのですよ。あれは二人一組でやりますよね。……僕の実践パートナーは、リドルさんでした」
青ざめ始めているトレイの無表情を見ながら、ジェイドは続ける。
「人魚、それも僕の兄弟のフロイドと深くつながっているリドルさんをパートナーに選んで大正解でした。リドルさんはとても優秀で、とてもわかりやすく告げてくださいました。もっとも、告げたご本人は人間だったせいで、特定の人魚にしか通じないスラング……失礼、例えばかりの内容は、どんなに人魚語翻訳を試みても、まったく解読できていないようでしたが。おかげで誰にもバレずに、恋が叶う道を、歩み続けられました」
リドルに告げられた内容の通りに動くのは、ジェイドの性に合わなかった。それでも飽きずに動き続けたおかげで、ジェイドは目当てのデータを手中に収められた。
今度は本命のトレイを手中に収めようと、ジェイドの両手が動く。自身の両ひざの上に投げ出していたトレイの両手を包み込む。
トレイの肩が大きく跳ねる。ジェイドに触れられて、トレイの脂汗の量が増す。
ジェイドは言葉でなだめる。
「どうか落ち着いて。貴方が選択を間違えなければ、貴方のご家族は平和なままでいられます」
言い逃れはできない。
ジェイドは本気だ。
「バレなければいいんですよ」
その通りだ。バレなければいい。
ジェイドが奪ったデータを誰にも明かさない限り、エースとマレウスが結ばれた物証は、過激派の目に届かない。
---
すべての元凶である占星術の内容をマレウスに告げた、マレウスの実践パートナー。
『真のすべての元凶』である者の正体。
「《《トレイさんがあんなことを告げなければ》》、マレウスさんはエースくんと結ばれなかったのに」
『トレイ・クローバー』の名も、どこにもさらされないのだ。
---
強力な後ろ盾があるエースと、一つも後ろ盾がないトレイ。
明らかに狙いやすいのは後者だ。
茨の谷に牽制されて、エースに向けづらくなったヘイトを、トレイにすべてなすりつける過激派は必ず現れる。下手をすれば、いわれのない罪状に尾ひれをたっぷりつけてネットに流して、それだけを見た世間が、トレイがすべての悪だと勘違いする可能性もある。世間が一度貼ったレッテルは、大勢が話題に飽きてもなかなか剥がれないだろう。
──俺はエースと違って、国に全力で守られない。
──茨の谷にも頼れない。妖精族なんて、人魚より信じられない。
──悪意のほとんどは、自分で対応しないといけない。
──だけど、過激な世間になんて、敵うわけがないだろ!
──実家がケーキ屋だなんて、へたに知名度があるから、あっという間に大勢に特定される。
──そいつらに集中攻撃されたら……!
ジェイドにグッと強く手を握られる。
「大丈夫です。ご家族が害されることはありません。バレなければ、ね……?」
トレイは脅されている。
ジェイドに従わなくては、自分も、家族も危ない。
……最初から、答えは一つだけだった。
青ざめつつも無表情だったトレイの顔が、ついにゆがむ。目を閉じて、うなだれる。ジェイドに全面降伏する。
「何を……すればいいんだ……」
色よい返事に、ジェイドはたまらず、ベンチに座ったままのトレイに身を寄せた。体勢的に密着はできないが、いまはすぐ近くにいられるだけで十分だった。これからはもっとくっつけられるよう、がんばるだけ。
──ここから先は、お告げの範囲外。
──予想外なことがたくさん起こりそうです。
ガゼボの中の、暗い陰の中。
ジェイドのうっとりとした声が、トレイの耳元で聞こえる。
「『まず』は……次のホリデーは、珊瑚の海に来てください。僕の巣に連れていって差し上げます」
IF 卵のために
マレエーが和解しないまま、花吐き病の完治薬が開発されて、エースが手遅れになってからマレウスがその薬を飲んで完治した世界線。
ベッドの中で起きた、一方的な奉仕だった。
マレウスは裸体のエースの胸のわきを両手でわしづかむ。あまった親指が、エースの乳頭を押しつぶす。乳頭に接している親指から、魔力を流していく。
実体のない魔力が液体のように、乳口に注がれていく。乳管を通り抜け、複数ある乳腺房の中が、ひとつひとつ、マレウスの魔力で満たされていく。
胸の中が熱い。抵抗したくても、エースの両手は頭上にぬいつけられた状態で、魔法で固定されている。
すでに心が圧迫されていたエースは、熱い魔力を感じて、涙をポロポロとこぼすだけ。
「あ、あ、あつい……」
「魔力に温度はないが……やけどしそうか」
「しないけど……」
「なら問題ないだろう」
「あ……やだ……」
ここで『やけどする』と言えば、やめてくれただろうか。おそらく、やめてくれない。少し冷たくした魔力を続けて注がれるだけだ。
とぷとぷと注がれ続けて、ついにすべての乳腺房が満タンになった。
少しでも動けば、漏れてしまいそうだ。実際はマレウスの親指で栓をされて、漏れないだろうが。
胸が重くて、はあはあと息をついていると、不意にマレウスの親指がぐりぐりと乳頭を揉み始めた。
「はあああっ。で、でちゃうよお」
「止めているから出ないぞ。ほら……」
言って、マレウスは親指をそっと離した。
乳頭はぷくりとふくらんで、いまにも中身を放出してしまいそうだ。
離れた親指が、またそっと乳頭に触れてきた。
「ううっ」
今度は押しつぶさず、側面をすりすりとなでて、放出を催促する。
「あああああっ」
出そうなのに、出ない。放出される寸前が、ずっと続いている。
魔法で透明な栓をされているのだ。
「あっ、ああっ、出したい」
「出したいのか?」
「う、うんっ。出したいっ。出させてよ、ねえっ」
「ははは……かわいらしいな。もっと見せてくれ」
すりすりすり。
「おおっ、おお、おううぅうううう……っ」
「いい子、いい子……」
爆発寸前の乳頭の表面を、しつこくさすられ続ける。
すりすりすりすりすりすり……。
---
「もういいか」
「あ……ふ……」
すっかり真っ赤になった乳頭を、マレウスはふたたび親指で押しつぶす。ひくんと反応したエースを見てから、乳腺房の中に溜めさせた魔力を、親指伝いで自身に戻していく。
ずるるるるるるるるるっ。
「あーーーーーー!」
マレウスの魔力が勢いよく乳管を通り抜け、乳口で弾けていく刺激に、たまらずエースは絶叫した。
たっぷりと詰め込まれ、じらされた分、刺激が、絶叫が、長く続く。
「やあああああっ! あついよおおお! 乳首っ、焼けちゃうううううう! ああ! やだやだやだあああ! とめっ、止めてえ! 吸わないでえ! うわあああああああ!」
放出をあきらめていっそなじもうとしていたマレウスの魔力を、今度は根こそぎ奪われそうで、エースはすっかりパニックになっている。マレウスはエースの乳頭をぐにぐにとつぶしながら、声だけは優しくなぐさめる。
「大丈夫だ。怖くない。ただ、気持ちいいだけだ」
「あああ! あああああ……!」
やがて魔力はすべて吸われた。親指から解放された乳頭は小刻みに震えている。
マレウスの手のひらでわきをつかまれながら、エースはからになった胸を大きく上下させる。恐怖と疲労を見せつけて、全身で休憩をうったえる。
その無言のうったえを、マレウスも無言で退けた。
黒い爪の指が、またエースの胸にしずんでいく。
とぷとぷとぷ、と注がれていく魔力。
「や、や、や、やだ、やすませて……」
言葉でうったえられて、マレウスも言葉を返す。
「ダメだ」
満たされた瞬間、間髪入れずに吸われていく。
「あが、が、ぐうううううう……っ!」
「吸っているほうが反応がいいな」
マレウスはうっそりと笑う。
「だが……注ぐほうも、吸うほうも、どちらも等しく、愛おしい」
三回目が始まる。
「いやだあああああああっ!!」
絶叫しても、続けられる。
四回目も、五回目も、六回目も……。
---
「もう一回」
「やああああああ……」
「もう一回」
「ひいいいいいい……」
「もう一回」
「乳首っ、壊れるっ」
「壊さない。もう一回だ」
「や、もう、たすけて、おねがい」
「まだ。まだだ。もう一回……」
「ウソつきっ。もう、何回も、やってるっ」
「なら、何回もしよう」
「あああ……あああああああ……」
からになったら注がれる。
満たされたら吸われる。
注がれる。
吸われる。
注がれる。
吸われる……。
続ければ続けるほどマレウスの魔力にエースの魔力が混ざって、吸うたびにマレウスの体内に入っていく。混ざった魔力がずいぶんと心地よくて、エースが泣き狂っているのに、マレウスはもっと続けたくなってしまう。
二十回は余裕で超えている奉仕をまたしてあげようと、親指を乳頭に乗せた瞬間、エースから弱々しい声があがる。
「あと……何回……やんの……」
「いくらでも」
「なん、で……」
「それは……」
問いかけられて、やっとマレウスは思い出す。どうしてこのようなことをしているのか。
「それは将来、孵ってくる子どもの授乳ができるように、お前の乳房を作り変えていくためだ」
二人がいるベッドの横には……ベビーバスケットがあった。
上質な布でくるまれた、黒い卵が入っている。
「まだ卵は孵らないが、準備は早いほうがいいだろう?」
マレウスはエースの腹を見る。卵を産んでから二ヶ月は経ったため、いまはぺたんこに戻っている。産卵で衰弱していた間は行為を控えて甘やかしていたが、体型も体力も戻ってきたのなら、次の準備に入るのは当然だ。
心地よく混ざった魔力を乳口に注いでいく。
「あ、あ、あ」
「とはいえ、準備ばかり急かすのもつまらないな。寄り道をするのも大事だと、お前に教えられた。……そうだ。注いだあとは栓をして、乳首を『延々と』くすぐってやろう。じらされたあとに吸われるのは、とても良かったはずだ。がんばったほうびになるし、壊さないことの証明になるし、一石二鳥だ」
まだ人間特有の時間感覚が抜けていないエースには酷だろうが、ほうびを得るためには、多少の苦労は必要だ。
「ともにがんばっていこう。エース」
「マレウス……」
絶望に満ちているエースの頬に、マレウスはそっと口づけた。
魔力が注ぎ終わる。いったん乳頭から親指を離す。暴発する前に、魔法で乳口に透明な栓を施す。
わきからも手を離す。十本の指が自由になる。
まずは親指と人差し指で側面に触れ直して、表面全体をくすぐり始める。
すりすり。
「ひ……」
すりすりすりすり……かりっ。
「ひあっ……ああ……」
爪を軽く立てていく。
かりかり。こりこりこりこり…………。
「ああああぁあああぁあぁああ……」
乳頭が悲鳴をあげているかのように、栓をされた小さな乳口のふちがひくついているところをマレウスは見た。反応は上々。嬉しくなって、さらにねちっこくくすぐり続ける。ずっと。ずっと。ずっと……。
妖精族が定めた蜜月は、人間の感覚だと途方もなく長い。だが寿命を延ばされたエースには関係ない。
ただ、妖精族のマレウスよりも、時間が長く感じるだけだ。