アレクサンドロス三世の死後に勃発した帝国の後継者の座を巡る戦争、ディアドコイ戦争を題材にした群像劇をAIに書かせたもの
登場人物ガイド
プトレマイオス(知略の賢者)
アレクサンドロスの幼馴染であり、最も冷静な分析官。大王の理想主義には染まらず、常に「生存」と「保身」を第一に考える。帝国の再統一という幻想を捨て、エジプトという天然の要塞を拠点に、最も長く、最も安定した王朝を築こうとする。
アンティゴノス(隻眼の巨像)
将軍たちの中で最年長。戦場での経験値は他の追随を許さない。アレクサンドロスが築いた「唯一不分割の帝国」に異常なまでの執着を見せ、全ディアドコイを敵に回してでも、自らが全能の王として君臨することを目指す。
セレウコス(不屈の開拓者)
最初は有力な領地を持たない一将軍に過ぎなかった。しかし、バビロンを追われ、裸同然で逃げ出した後、わずかな手勢で再びその地を奪還するほどの不屈の闘志を持つ。後にインダス川から地中海に至る、帝国最大の版図を継承する大器。
リュシマコス(冷徹な獅子)
荒廃したトラキアを統治する。かつて大王の怒りを買い、空腹のライオンと同じ檻に放り込まれながら、素手でその心臓を掴み出して生き残ったという伝説を持つ。寡黙で冷酷、計算高く、勝機が見えるまでは決して動かない。
カッサンドロス(執念の復讐者)
マケドニアの摂政アンティパトロスの息子。アレクサンドロスに対して深い劣等感を抱き、その反動として大王の血筋(母、妻、息子)を根絶やしにすることに執念を燃やす。武力よりも政治工作と暗殺を得意とする、新時代の冷徹な支配者。
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目次
第1章:バビロンの夕暮れ、野獣たちの目覚め
**序文:帝国という名の死体**
紀元前323年、初夏。バビロン。 人類史上最大の版図を築き、神の領域へと足を踏み入れたアレクサンドロス三世が、三十三歳の若さでこの世を去った。 その遺体はまだ温かく、王宮の奥底で黄金の寝台に横たわっているが、帝国の魂は王の鼓動が止まった瞬間に霧散した。
残されたのは、主を失った広大な大地と、血に飢えたマケドニアの将兵、そして王の影を追い続けてきた五人の怪物たちである。彼らはかつて友であり、戦友であった。しかし今、彼らを結びつけていた唯一の鎖である「王」が消えたことで、その絆は鋭利な刃へと姿を変える。
知略のプトレマイオス、剛勇のアンティゴノス、不屈のセレウコス、冷徹なリュシマコス、そして野心のカッサンドロス。 これは、神になろうとした男が遺した「世界」という名の巨大な死体を、誰がどのように切り分け、あるいはその頂に立とうとしたかを描く、二十年にわたる血と計略の群像劇である。
その日、バビロンの空気は、不吉なほどに重く、湿っていた。 ユーフラテス川の流れさえも、偉大なる征服者の最期に恐怖し、その足並みを乱しているかのようだった。王宮を包む沈黙は、悲しみによるものではない。次に誰が口を開き、誰が最初に剣を抜くかを窺う、死の直前のような緊張感であった。
「王の指輪は、誰の手に渡った」
王宮の薄暗い回廊で、若き将軍セレウコスは、隣を歩く男に低く、震えるような声で問いかけた。彼の双眸には、地平線に沈みゆく夕日のような、赤黒く不吉な光が宿っている。傍らに立つプトレマイオスは、いつものように冷静な手つきで、肩に掛けた重厚なマントの襞を整えながら、視線を遠くのジッグラト(聖塔)へと向けた。
「ペルディッカスだ。王は朦朧とする意識の中で、奴に指輪を預けた。だがセレウコス、あれを幸運の証だと思うか? あれは指輪の形をした毒杯だよ。王が今際の際に放った言葉を忘れたか。『最強の者に(トイ・クラティストー)』……。あの呪言が残された以上、あそこにいる全員が、自分がその『最強』であると証明しなければならなくなった」
プトレマイオスの言葉が示す通り、玉座の間の空気はもはや戦場そのものだった。 隻眼の巨漢アンティゴノスは、その圧倒的な威圧感を放つ体躯を揺らし、既に地図上のアジアを自らの掌中に収めるべく、複雑な計算を脳内で走らせていた。その視線は、もはや死んだ王ではなく、生きて動くライバルたちの喉元に向けられている。
一方、北の辺境トラキアを任されたリュシマコスは、大理石の柱の陰で彫像のように動かず、獲物を待つ飢えた狼のような目つきで、周囲の動静を観察していた。彼は知っている。この場での饒舌は死を招き、沈黙こそが次の機を掴むための糧になることを。
そして、この熱狂の渦から数千里離れたマケドニア本国。そこにはカッサンドロスがいた。彼はこのバビロンの場にはいない。しかし、彼の父であり帝国の重鎮であるアンティパトロスを通じて届くその冷酷な野心は、目に見えぬ霧のようにバビロンの城壁を侵食し、王家の血を根絶やしにする機会を虎視眈々と狙っていた。
「最強の者、か」 セレウコスが、乾いた喉を鳴らして自嘲気味に笑った。 「我々は皆、アレクサンドロスという眩しすぎる太陽に焼かれ、その背後に這いつくばる影に過ぎなかった。だが太陽が消えた今、影は実体を得て独り歩きを始める。それがこの世の道理というものだろうな」
「影のままで終わるつもりはない。これからは、我々自身が太陽となるのだ」 プトレマイオスは静かに、しかし鋼のような硬さを持つ口調で断言した。 「私はエジプトへ行く。あそこにはナイルの悠久たる流れと、何者にも邪魔されぬ砂漠の静寂がある。バビロンのこの泥沼のような権力争いに、私の人生を費やすつもりはない。王の遺体は、私がいただく」
それは、帝国の瓦解を告げる決定的な一言であった。 アレクサンドロスの遺体は、まだエンバーミング(防腐処置)さえ済んでいなかったが、彼の最も親しかった友人たちは、既に帝国の地図を鋭利なナイフで切り分け、互いの領土を値踏みし始めていた。
「面白い。実に見ものだ」 回廊の闇から、金属的な低い声が響いた。リュシマコスだ。 「神を継ぐ資格があるのは誰か。言葉ではなく、血の海と死体の山の中で、どちらの剣がより鋭いか決めようではないか。諸君、地獄へようこそ」
バビロンに夜が訪れる。それは単なる一日の終わりではなく、三世紀にわたるヘレニズム世界の狂乱と、未曾有の戦乱時代「ディアドコイ戦争」の幕開けであった。王という名の太陽を失った夜空に、五つの凶星が昇ろうとしていた。
第2章:バビロン会議――血塗られた地図
王の遺体が安置された隣の間では、帝国を無惨に解体しかねない激しい応酬が続いていた。後に「バビロン会議」と呼ばれるこの談判は、秩序の再構築などという高潔なものではなかった。それは剥き出しの欲望を「妥協」と「形式」で包み隠し、誰がより大きな肉片を毟り取るかを決める、血の匂いのする饗宴であった。
円卓の最上席には、王から指輪を預かったペルディッカスが、自らを全軍の最高司令官であり王の代理人であるかのように装って座っている。彼の提案は狡猾を極めていた。王の異母兄である、知的能力に欠けるアリダイオスを「フィリッポス三世」として即位させ、さらにロクサネ王妃の腹にいる未だ見ぬ子を共同統治者とする。そして、自身が「摂政」としてその全権を振るうという、操り人形による統治だ。
「誰が王を継ぐかという些末な議論に時間を浪費してはならん。我々が今なすべきは、この大帝国を蛮族の反乱から守ることだ。我々は結束しなければならぬ」 ペルディッカスが、重厚な声を響かせ、居並ぶ将軍たちを冷徹な視線で威圧する。しかし、その言葉が消えぬうちに、場を白けさせるような乾いた笑い声が響いた。
アンティゴノスである。隻眼の老将は、切り傷の絶えない太い腕をテーブルに叩きつけ、そこに広げられた巨大な羊皮紙の地図を指さした。 「結束だと? 笑わせるな、ペルディッカス。貴公がその玉座の近くで甘い蜜を吸う間、俺たちがどれだけの血を流してこの地図を広げたと思っている。俺たちが知りたいのは、誰がどの領土を支配し、誰から税を徴収し、誰の軍勢を率いる権利を持つか――それだけだ。俺はアジアの長官(サトラップ)として、この肥沃な大地を任せてもらう。小細工をするなら、この剣が黙っていないぞ」
「強欲が過ぎるぞ、アンティゴノス。年長者の特権を盾にするつもりなら、この場にいないアンティパトロス殿はどうなる」 地を這うような冷たい声で応じたのは、リュシマコスだ。彼は椅子に深く腰掛け、鋭いナイフで爪の間の汚れを落とすように、微動だにせず場を観察していた。 「貴公がアジアの富を独占するなら、私は北のトラキアへ行く。あそこには不服従の山岳部族と、骨を凍らせる冬の風しかない。だが、そこはマケドニア本国の喉元を握り、黒海の交易を監視できる地だ。そこを私の独立した領土として承認せよ。さもなくば、私は貴公らの背後をいつでも突ける位置に留まることになる」
会議は数日間に及び、広間には汗と、焦げ付くような殺意が充満していた。 マケドニア本国とギリシアの支配権は、不在の老将アンティパトロスに委ねられたが、その息子カッサンドロスは、父からの書簡を通じて、この会議に冷徹な毒を注ぎ込んでいた。 カッサンドロスは大王を憎んでいた。自分たちを奴隷のように扱い、東方の文化に染まった王への嫌悪だ。彼は「王家という存在そのものが、新たな秩序の邪魔になる」という過激な思想を密かに同志たちへ漏らし、次世代の権力者としての椅子を狙っていた。
議論が完全に膠着し、ペルディッカスの苛立ちが剣の柄に手をかけようとしたその時、それまで沈黙を守っていたプトレマイオスがゆっくりと右手を挙げた。 「私は、エジプトの総督に任じられたい。あそこはナイルの恵みがあるが、一方で砂漠と海に囲まれた孤立した土地だ。帝国の中枢を争い、王座を巡って殺し合う諸君の邪魔にはならんだろう。私はただ、静かに歴史を記録し、ナイルの夕陽を眺めていたいだけなのだよ」
ペルディッカスはプトレマイオスを疑いの目で見据えた。プトレマイオスは大王の幼馴染であり、誰よりもその本質を理解していた男だ。そんな彼が権力の中心から退こうとするのは、あまりに不自然に見えた。しかし、強力なライバルが辺境へ引きこもるという申し出は、ペルディッカスにとって自らの摂政権を安定させる好都合な譲歩に思えた。
「よかろう。プトレマイオス、貴公にエジプトを預ける。ナイルの流れに身を任せ、砂漠の王として余生を送るがいい」
この瞬間、世界地図は正式に、無惨に切り裂かれた。セレウコスは、この時点ではまだ大きな領地を与えられず、ペルディッカス直属の「千人隊長」という、位は高いが実効支配地を持たない地位に封じ込められた。しかし、彼が会議の席で地図を凝視していたその瞳の奥には、冷めやらぬ執念の炎が灯っていた。
会議が終わり、将軍たちがそれぞれの任地へと向かう喧騒の中、プトレマイオスはセレウコスの隣を通り過ぎる際、聞き取れないほどの小声で囁いた。 「地図は決まった。だがセレウコス、支配の正統性は羊皮紙の上には載っていない。それは、あの奥底に眠る『王の体』の中にあるのだ」
セレウコスは足を止め、背筋に走る戦慄を覚えた。 王の遺体は、マケドニアの伝統に従えば、黄金の霊柩車に乗せられ、数年かけてマケドニアのエガイへと運ばれるはずだ。それは帝国の連続性を象徴する聖なる行軍となる。 だが、もしその「神の器」を別の場所へ運び、自らの土地に埋葬する者が現れたら。アレクサンドロスの遺体を持つ者こそが、神の遺志を継ぐ「最強の者」としての最強の免罪符、そして正統性を手に入れるのだ。
「……本気か、プトレマイオス。それは全マケドニア、全ディアドコイを敵に回す行為だぞ。ペルディッカスは貴公を逃がしはしない」
「敵に回して、かつ。それがアレクサンドロスに学んだ唯一の戦法だ。世界を敵に回してこそ、一国の主と言えるだろう? セレウコス、君もこのバビロンで腐るつもりはあるまい。次に会う時は、王座を賭けた戦場かもしれんな。あるいは、私の墓を君が作ることになるか」
プトレマイオスは、夕闇に包まれ始めたバビロンの喧騒を背に、王の遺体が安置された方角をじっと見据えていた。その瞳には、黄金の霊柩車を伴って砂漠を往く、自らの輝かしい葬列がすでに映し出されていた。
第3章:神の奪還、砂塵の追撃
紀元前322年。アレクサンドロス三世の死から一年余りが経過した。 世界を統べる王がいなくなり、人々の嘆きが野心へと変質し始めた頃、一体の「神」が静かなる旅に出ようとしていた。
バビロンの喧騒を離れ、地平線の彼方へと続く埃っぽい街道。黄金と宝石で装飾された、高さ数メートルにも及ぶ壮麗な霊柩車(カタファルク)が、数千の精鋭歩兵と騎兵に守られながら、イシュタル門をゆっくりと潜った。車輪が石畳を噛む鈍い音は、帝国の葬送曲のように響く。
その中には、蜂蜜と香料、そして最高級の蜜蝋で防腐処置を施されたアレクサンドロスの遺体が、厚い金箔を貼った石棺に収められていた。摂政ペルディッカスの公式な命令によれば、行き先はマケドニアの王家の聖地エガイ。しかし、その葬列の行く手には、ナイルから吹き寄せる熱い砂塵が待ち構えていた。
**聖なる葬列の転換――シリアの決断**
シリアの燃えるような陽光の下、黄金の霊柩車は熱気を孕んで輝いていた。 葬列の責任者である将軍アルリダイオス(王と同名の異母兄とは別人)は、馬上で絶えず周囲を警戒していた。彼の任務は、この「帝国の正統性の象徴」を無事にマケドニアへ送り届けることだ。しかし、ダマスカスを越えたあたりで、先行する斥候から、信じがたい報告がもたらされた。
「前方に軍影! 砂漠の端に、エジプト総督プトレマイオスの旗印が見えます!」
アルリダイオスは眉を顰め、喉の渇きを覚えた。プトレマイオスが任地のエジプトを離れ、これほど北まで軍を動かしているなどとは聞いていない。間もなく、砂塵の中から青いマントを翻した一団が現れた。先頭に立つのは、アレクサンドロスの乳兄弟であり、かつての側近護衛官プトレマイオスその人であった。
「プトレマイオス殿、これは何の真似か」 アルリダイオスが馬を寄せ、声を荒らげる。 「王の遺体は本国エガイ、先王フィリッポスの傍らへ帰るのだ。貴公の任地とは方向が百里も違うはずだ。道を空けられよ」
プトレマイオスは、落ち着き払った様子で愛馬の手綱を緩め、黄金の霊柩車をじっと見つめた。その瞳には、哀悼ではなく、冷徹な計算が宿っている。
「エガイか。あそこは今、王を憎む者や、王の死を利用せんとする野心家の巣窟となっている。王の魂が求めているのは、マケドニアの寒空ではない。自らをゼウス・アモンの子と宣言し、自身の神性を確信した地――エジプトの聖なる砂だ」
「戯言を! これは摂政ペルディッカス殿の命だぞ!」
「ペルディッカスは王を自分の権力の道具にしようとしているだけだ。私は友として、アレクサンドロスを『神』として祀る場所へ連れて行く」
プトレマイオスの背後から、数千の青銅の盾が太陽の光を反射させ、一斉に前進を開始した。それは明らかな「略奪」の布陣であった。アルリダイオスの護衛兵たちは、かつての戦友であるエジプト軍を前にして、剣を抜くことを躊躇った。何より、プトレマイオスは莫大な賄賂と、「これこそが王の真の遺志である」という巧みな宣伝工作を事前に兵士たちの間に浸透させていた。
「この遺体は、私が預かる。異論があるなら、バビロンにいる摂政に伝えよ。アレクサンドロスは、今日、私の客となったのだと」
血は流れなかった。プトレマイオスは力ずくの衝突を避けつつ、圧倒的な兵数と政治的威圧感、そして「神を奉る」という大義名分を使い、黄金の霊柩車を強引に南へと転進させた。神の器を載せた車輪は、シリアの荒野を離れ、ガザの砂浜を抜け、ナイルのデルタ地帯へと消えていった。
**摂政の激昂と、セレウコスの冷徹な計算**
この報がバビロンに届いたとき、摂政ペルディッカスは宮殿の広間で獣のような咆哮を上げた。
「プトレマイオス……あの狡賢い狐めが! 私を、そして帝国を公然と辱めたか!」
ペルディッカスにとって、この強奪は単なる窃盗ではなかった。アレクサンドロスの葬儀を主宰することは、後継者としての地位を法的に、そして宗教的に完成させる儀式である。それが奪われたということは、彼の摂政としての威信が根底から崩壊し、帝国の求心力がプトレマイオスのエジプトへと移動することを意味していた。
「直ちに軍を編成せよ! 北のアンティゴノスなど放っておけ! 全軍をもってエジプトへ乗り込み、あの反逆者の首と王の棺を取り戻すのだ!」
周囲にいた将軍たちは、ペルディッカスのあまりの激しさに息を呑んだ。その中に、冷静な眼差しを崩さない千人隊長セレウコスの姿があった。 セレウコスは、荒れ狂うペルディッカスを眺めながら、密かに状況を整理していた。プトレマイオスはこの一年の間、エジプトの肥沃な大地から上がる富を使い、傭兵を募り、ナイルの河畔に堅固な要塞群を築き上げていた。一方、ペルディッカスの軍は長年の遠征で疲弊し、何より指揮官への忠誠心が揺らいでいる。
「……セレウコス、何を考えている」 影から声をかけたのは、ペルディッカスと激しく対立し、アジアを離れようとしていたアンティゴノスであった。彼は、遠征の準備を命じられたセレウコスの横顔を、隻眼でじっと見つめていた。
「ペルディッカスは、王の死体という影を追って、自ら地獄へ向かおうとしています」 セレウコスは、周囲に聞こえない程度の声で答えた。 「アンティゴノス殿、貴公はエジプトへは行かないのでしょう?」
「ああ。俺は自分の領地(アジア)を守る。ペルディッカスがナイルの泥に足を取られている間に、な」 アンティゴノスは不敵な笑みを浮かべた。 「セレウコス、お前も気をつけることだ。沈みゆく船に乗っているのは、勇気ではなく愚行だからな」
セレウコスは答えず、ただ深々と頭を下げた。彼の心には、ペルディッカスへの忠誠など欠片も残っていなかった。彼は、この遠征が帝国の秩序を破壊する終わりの始まりであることを予見していた。
**ナイルへの行軍――帝国崩壊の序曲**
紀元前321年。ペルディッカスは自ら指揮を執り、十万に近い大軍を率いてエジプトへと南下を開始した。 その軍列には、マケドニアの誇る精鋭「銀楯隊(アルギュラスピデス)」や、セレウコス率いる精鋭騎兵隊も含まれていた。しかし、行軍は困難を極めた。砂漠の熱、水不足、そして何より、自分たちが戦おうとしている相手が、かつて共にペルシアを滅ぼした戦友であるという事実が、兵士たちの士気を削いでいた。
「我々はなぜ、エジプトへ向かっているのだ?」 焚き火を囲む兵士たちの間で、不満が囁かれる。 「プトレマイオス様は、王の遺体を大切に祀っているだけではないか。摂政殿は、ただ自分のメンツのために、我らを無駄死にさせるつもりか」
これらの噂は、プトレマイオスが放った間者が組織的に広めていたものであった。プトレマイオスは戦う前に、すでに敵の心を折る工作を完了させていたのである。
時を同じくして、帝国の北と西でも包囲網が完成しつつあった。 トラキアのリュシマコスは、ペルディッカスが南方へ去った隙を見逃さず、黒海沿岸の都市を次々と支配下に収め、自身の基盤を盤石にしていた。 さらに、マケドニア本国のカッサンドロスは、父アンティパトロスを説き伏せ、プトレマイオスやアンティゴノスと結ぶ「反摂政同盟」を正式に締結した。
「アレクサンドロスを殺したのは未知の熱病だが、ペルディッカスを殺すのは、彼自身が抱える過大な自尊心だ」 カッサンドロスは、マケドニアの海岸線から南方を見つめ、冷ややかに呟いた。
**カシウス山の対峙**
ペルディッカスの軍勢がエジプトの国境に近いカシウス山へと到着したとき、目の前にはナイルの広大な流れが、巨大な障壁として立ちはだかった。 対岸には、プトレマイオスが完璧な布陣を敷いて待ち構えている。黄金の輝きを失わないアレクサンドロスの霊廟は、今やメンフィスに安置され、エジプトの民からは新たなファラオの守護神として崇められていた。
ペルディッカスは、ナイルの分流を渡河する強行突破を命じた。 しかし、流れは速く、水深は兵士たちの予想を超えていた。さらに、川底にはプトレマイオスが仕掛けた杭や罠があり、溺死する者が続出した。無惨にも、アレクサンドロスの精鋭たちは、敵の矢ではなく、ナイルの濁流と、川に生息するワニの餌食となっていった。
「進め! 退く者は反逆罪に問う!」 ペルディッカスの怒号が虚しく響く。 その背後で、セレウコスは静かに剣の柄を握りしめた。彼の隣には、同じくペルディッカスの独断専行に愛想を尽かした将軍ピュトンが並んでいた。二人は言葉を交わさずとも、互いの意志を確認し合った。
帝国の屋台骨を支えるべきマケドニア軍が、ナイルの泥濘の中で自滅していく。 この無益な殺戮に終止符を打つのは、もはや敵の剣ではなく、身内の決断しかなかった。
夜の帳が降りる頃、ペルディッカスの天幕へ向かう影があった。 それは、帝国の未来を「一つの国家」として維持しようとした最後の男の、あまりに惨めな終焉への足音であった。