HQ夢小説です。お相手は北さんです。地雷な方は読むのをお控えくださいますよう、よろしくお願いいたします。
気まぐれ更新です。
続きを読む
閲覧設定
名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
第一話「強豪校」
私の人生は、不運と失敗、それと不幸せで構成されている。いじめられっ子の不登校で、本当の両親はとっくに他界済み。義理のお母さんもいるけど、あのお母さんは、私に全く興味がないみたい。家に帰ってくる頻度も、家に居る時間も、ありえない程少ない人だ。
自分では手の入れようが無い所から、いつも災難が襲ってくる。まるで、心にずっと大雨が降り注いでいるかのようだった。降られて、濡れて、それでも私は、冷たい気持ちを必死に乾かしていた。
いつか、幸せになれると信じていた。今は辛い事ばっかりだけど、この先もずっと生き続けていれば、いつか、幸せは来る。生きていれば、おそらく、必ず。そういう思想を持っていたから、私はどれだけ苦しくても、踏ん張って、もがいて生きてきた。
誰かが変えてくれなくても、自分では変えられなくても、幸せと思える事が、いつか目の前に必ず出てくる。それまで、私はじっと耐えるだけ。そう考えていた。
これは、そんな私が、本当に現実で幸せになるまでのお話。
--- *** ---
ある日の事。私はその時、ぼーっとテレビのニュース番組を眺めていた。
「へー……。事件とか怖いなぁ」
ニュース番組では、どこの県で殺人事件が起きたとか、遠くの国の政治家の話とか、そういった事柄を、淡々と取り上げて、テレビの前の視聴者に伝えていた。しかし、少し怖いとは思いつつも、どこか他人事としてそれらのニュースを受け取っている、自分は確かに存在していた。私がこんな目に合うと思うか。全く思わない。心の内側の奥では、事件も事故も政治も、どこか他人事といったような気分だった。
「なるほどね……」
しかし、次のニュースだけは、そんな気分ではいられないようなものだった。
『さて、次のスポーツ特集です。男子バレーボールの超強豪、兵庫県の稲荷崎高校。今回は、セッターである宮侑選手に取材を――……』
「稲荷崎……高校? あー、近くにあるあの……」
明確には覚えていないが、私はその高校名を、耳に入れた事があった気がした。確か、近くに稲荷崎高校がある事は覚えている。それに、他にも誰かと話をしている時に、この高校名を聞いたような、そんな記憶がある。男子バレーボールについても、小耳には挟んだような。ほぼ忘れかけの薄ぼんやりとした記憶だが、なんだか頭には残っていた。
「どんなプレイなんだろう?」
なんでもない話だが、私は小学生の頃、少しだけ女子バレーボールのクラブに入っていた事がある。楽しかったが、結局その直後に、親が他界してしまったせいで、すぐにやめてしまった。もう簡単にできないとは思うし、そこまでしっかりやりたいとは考えていないけど、バレーボールの話には、興味があった。もちろん、性別が女子ではなく男子の話だったとしてもだ。
どこかで稲荷崎高校の話を聞いたのもあって、私はテレビをじっと確認した。すると、そこには稲荷崎高校の、プレイが切り取られ、映し出されていた。
「……え、すごい……」
そこで見たものに、私は驚愕した。稲荷崎高校のプレイは、想像を絶する程に、素晴らしいものだった。サーブ、レシーブ、ブロック、どれを取っても強い。まさに、超強豪と呼ぶにふさわしい。こんなバレーボールを、私は見た事が無かった。
「……すごい!稲荷崎って、こんなに強いところだったんだ……!」
私は思わず、テレビの前で感動を覚えてしまった。こんなに強いバレーボールプレイを、私は初めて目にした。圧巻だった。
「はぁ、良いの見た……。ん、あれ? えーっと、確か稲荷崎高校って……まさか!」
そしてその瞬間。私はさっきまで思い出せなかった、たった一つの記憶を思い返した。ずっとぼんやり、もやもやとしていた、誰かと話した時の思い出。それがこの瞬間に、はっきりと、くっきりと形になって現れた。
「稲荷崎の、男子バレー部って……。と、隣の家の北さんがいる所じゃん!」
そう、ずっと思い出せなかった、稲荷崎の男子バレーについて、私が会話をした誰か。それは、隣の北さん家の、北信介君だった。君とは言ってしまったものの、彼は高校二年生である私よりも一つ年上で、高校三年生。学校が違うにしても、先輩と言えば先輩だ。
家の前で信介さんと話をした時に、出身校とどんな部活をやっているかを、私が聞いた事があった。その時に、稲荷崎高校の男子バレーボールについて、少し喋ったのだ。思い出せずに引っかかっていた事がやっと見つかり、私は多少すっきりとした気持ちに包まれた。
「あー、隣の家の北さん、ここに居るんだ……!」
次に会って話をする機会があったら、テレビで見た、凄かったと伝えようかな。といった事が思い浮かんだ。今から、少しだけ楽しみだ。
「……あれ、でも」
だが、私はさっきまでのテレビ画面を見て、少し疑問を覚えた。
「北さん、主将になったって言ってたけど、どうしてこの試合に出てないんだろ……。怪我しちゃってたのかな?」
ぶった切りじゃないです。これが正しい終わり方です。力尽きて書けなくなった訳じゃないです。
ボイスCDとかでは北さんは寮に住んでるらしいですが、こちらの北さんは普通に自宅に住んでます。
第二話「褒め言葉」
隣家である北さん一家には、北信介さんという、私よりも一個年上の男の人が居る。私は高校二年生で、彼は高校三年生。高校は全然違うところだけど、信介さんとはたまに、家の前で世間話をする事があった。
信介さんは、稲荷崎高校という学校に通っているそうだ。部活は男子バレーボール部で、主将らしい。私は今まで、その情報自体は知っていた。
だがしかし、稲荷崎高校が全国でもトップクラスの男バレ強豪校である事、世間からかなり注目されている、あの宮ツインズが居る事は、全く知らなかった。昨日のテレビでそれを知って、私は今現在、かなり困惑している。
「まさか、稲荷崎高校があんなに強豪だったなんて……」
平日の夕焼けに照らされる、お買い物からの帰り道。昨日見てしまった稲荷崎のプレイの事を考えながら、私は帰路を淡々と進んでいた。
「次会ったら、北さん……、北さんにあれ凄かったって伝えよう……」
独り言ではあるが、呼び方にいちいち迷ってしまう。隣の家族は、もちろん全員の苗字が北だ。そんな中で北さんと呼ぶのは、いささか違和感を感じてしまう。だから、心の中では、私は彼の事を信介さんと呼んでいる。
でもしかし、信介さんは私よりも年上なので、直接下の名前で呼ぶ、というのは流石に失礼になる。そんな感じで、ちょっとごちゃついた迷いがありながら、私はぼーっと歩き、自宅の前についた。
「うーん、呼び方ってどうすればいいんだろう……」
家に入る前に、立ちながら呼び方について考えていた、その時だった。
「あ、#苗字#さん。こんにちは」
「えっ……、あ! こんにちはー……!」
噂をすればなんとやら、とでも例えるべきだろうか。家の前で佇む私にちょうど声をかけたのは、信介さんだった。この時間帯だし、おそらく部活帰りだろうか。
「お買い物帰りですか?」
「あ、はい……。北さんは部活帰りですか?」
「はい」
「お疲れ様です……」
「ありがとうございます」
普通の会話をしていると、自分が今、無意識に北さんと呼んでしまった事に気が付いた。今さっきまであれほど考えていたのに、実際に本人を目の前にすると、頭が空っぽになってしまった。というより、昨日のテレビを見てから、信介さんに対する印象が、私の中ですっかり変わってしまったのだ。前よりも、全然うまく話せない。
でも、言いたい事は思いついている。試合すごいですね、と言いたい。会話に段落がついて、信介さんが家のドアを開けそうになった時、私は恐る恐ると口を開いた。
「あ……あの!」
「はい?」
脳内で考えたより、声が大きくなってしまった。だが問題はない。
「北さんって、稲荷崎高校の男子バレーボール部、で合ってますか……?」
「そうですけど」
「き、昨日のニュースで、ちょっとだけプレイ見ました……。あの、本当凄かったです!」
その時、私達の関係が、何か変わった気がした。なんでもない、なんの変哲もない、ただの純粋な褒め言葉。単純な事だったが、確かにその瞬間から、私の中で、風が吹き始めた。
「……ありがとうございます」
信介さんは笑顔を作っていた。
「はい! 応援……応援してますね!」
私も、その時笑った。ずっとどこか憂鬱な生活を送っていたせいか、久しぶりに表情筋を動かしたな、と感じた。実際は多分、そんな事はない。
「それじゃあ、これで」
「はい」
少し時間が経ってしまえば、信介さんは家に戻っていった。ここでやっと、私は今日買ったアイスが、溶けかかっている事に気付いた。
「あ、やっちゃった! アイスが溶けちゃうー!」
焦って、ただいまと言いながら自宅の玄関に入り込んだ。そこで私のただいまに反応してくれる人は、今のところ、まだ居ない。
ハイキューの雑談になってしまうのですが、やっとゴミ捨て場の決戦を見ました。映画の方です。配信開始されてすぐ見たんですが、最高でしたね。皆さんも良ければ、ぜひご覧くださいませ。あと、映画とテレビ放送も決定しましたよね。めちゃくちゃ嬉しいです。それも見ます。ハイキューライフが楽しいです。
第三話「変わる」
「なんとか間に合った……」
焦りながら自宅に滑り込んだ後、私は電光石火でアイスを冷凍庫に入れた。幸い、まだギリギリ溶けてはいない状態だったので、べちょべちょな
常温の液体になって食べられない、という事態には防ぐ事ができた。
「はぁ。今は春過ぎなのに、こんなに早く溶け始めちゃうなんて、思わなかった。次からアイスを買った時は、早足で帰ろうっと」
今の日本の時期は、春過ぎの五月。普通の学生だったら、入学式や委員会決めなどの行事もほぼ終わり、そろそろ学校生活にも慣れが来る頃合いだろうか。それとも、二年生より上は、五月病でだらけてしまう頃だろうか。健全に学校に行けていた頃の自分を思い出しながら、想像する。
「……学校かぁ」
ふと、自室のハンガーにひっそりと掛けてある、高校の制服を目に入れる。制服の下にはリュックサックが置いてあって、どちらも控えめに埃を被っている。当たり前だ。もう大分、これらは使っていないのだから。
「本当は、どんな形でも行きたいけど……。でも、いじめられるし。三者面談は、お母さんが来てくれないし……」
黒い気持ちが、心に入り込んでくる感覚が分かる。
そうだ。本当は学校に行きたいし、勉強もしたい。普通の、平凡なりの生活がしたい。でも、誰も助けてくれない。クラスではいじめられるし、学校と面談をしようとしても、まずお母さんが応じてくれない。義理のお母さんには彼氏が居て、その人に会いに行っているから、全然家に帰ってこない。帰って来る頻度は、大体三ヶ月とかに一回。それも、数時間も経たずにまた出ていってしまう。
昔みたいな、普通の子になりたい。それなのに、なれない。昔は血の繋がっているお母さん、お父さんが居た。凄く仲良しな家族だった。それなのに、両親は私が小学四年生の時に、事故でこの世を去った。親戚のお姉さんに引き取られて、友だちがいっぱい居た学校を転校した。でも、お姉さんは私の事を全く気にかけてくれない人だった。転校先では、事故のトラウマから内気な性格になってしまって、クラスメイト達からいじめられた。中学から始まったいじめは、高校生になっても止む事は無かった。そのせいで、私は高校一年生の途中から、不登校になった。
「……私の人生、いつからこんなになっちゃったんだろう……」
一言、そう呟くと、視界が段々と滲んでくる。こんな人生が悔しくて、苦しくて、とにかく悲しい。変えられるものなら、今すぐに変えてしまいたい。でも、誰も私に手を差し伸べてくれない。準備は、もう済んでいるのに。
「やっぱり、自分から変わらなきゃ……かな」
この生活は、すごく辛い。周りみたいになれない、という劣等感が酷く、痛い程に押し寄せてくる。私は、それにやすやすと耐えられる人間じゃないし、耐えていたら壊れてしまう。
せめて、どこか一つを人並みにしたい。そう思った。
--- *** ---
昔、本当のお母さんが、私に教えてくれた事がある。
「いい、#名前#。どれだけ苦しくても、いつか幸せは来るんだよ。その時は、消えたいって思っちゃうかもしれないけど、でも、じっと明日を待つの。そして、明日に向けて準備をするんだよ。そうしていれば、いつか必ず、幸せは訪れるよ」
悲しくても、苦しくても、いつか幸せが遅れてやってくる。自分は、それに向けて準備をしていれば良い。お母さんは、子供の私にそう言った。
昔は、はいとだけ言って、この話を受け流した。日常のワンシーンの中で、世間話みたいなテンションで言われたから。
でも、成長していく度に、お母さんが言ってくれたこの主張は、次第に私の心に染みていくようになった。今の生活が苦しくても、準備をして明日を待ち侘びていれば、いつか幸せが来る。福が来るから。
「……私、お母さんが言ってくれた事、忘れない」
ぽつりと、そうぼやいた。私の本当のお母さんは、どんなに時間が経っても、あの人だけだから。もう少し一緒に居たかった、と寂しくなりつつも、私はソファに沈んでいた腰を上げた。
「まずは、調べる所から始めなきゃね」
今回は北さん出てません、ごめんなさい。夢主ちゃんのバックボーンをお出ししたいだけの回でした。次回からはまた北さんが登場いたします。
第四話「買い物」
「なるほど。やっぱりまずは、中三範囲の復習からかな……」
パソコンのブルーライトが、痛々しく脳と目を刺激してくる。孤独感の主張も相まって、少し薄暗くも思える部屋の中で、私は調べ物をしていた。
「うーん……。勉強の参考書を調べたはいいけど、種類が多すぎて分からないや……」
私は、勉強のための参考書だったりを調べていた。
今まで、なんだかんだで本腰を入れて勉強をした事が無かった。少しずつはやっていたが、そこまで必死に、とはしていなかったのだ。周りに追いついてやるとか、むしろ抜かしてやろうとか、そういう志は、今まで持った事が無い。
でも、私もそろそろ変わりたい。あの稲荷崎のバレーのプレイみたいに、キラキラと輝いてみたい。スポーツと勉強は全く違うが、それでも、努力をして成果を出す、という点では、この二つの分野は、全く同じだと思う。だから、私もあんな風に、必死でキラキラしたい。変わりたい。そう感じた。
「どうしようかな……。とりあえず、復習できるやつから買ってみようかな」
高校一年生の時からほとんど学校に行っていない私は、とりあえず、中学三年生の復習から始めようと思った。近所の書店で買える参考書を調べて、リストにメモする。お買い物以外でほぼ外に出ていない私だが、図書カードもあるし、文房具も揃えたいしなので、今回は書店まで買いに行く事にする。
「よし。早速明日にでも、買いに行こうかな」
ちょっと浮かれ気味になりながら、私はパソコンを閉じて、今日の晩御飯を作りに台所まで歩いた。
--- *** ---
それから翌日。私は予定通り、夕方辺りに書店と文房具店に赴いて、買い物をしていた。
「えーと、数学はこれで、社会は歴史と地理と経済……多いな」
書店では社会と公民に圧倒されたり、文房具店ではニオイ付き消しゴムなんて懐かしい存在にびっくりしたり、外でお買い物をして良かった、と思う事ができた。通販だったら、この気分はおそらく味わえていない。いつかまたここらに来たいな、と思いながら、私はまた夕焼け空の帰路を歩いていた。
「やっぱり、参考書は重いなー……」
もうずっと運動をしていない貧弱者の体には、こんなにずっしりとした本達は、中々に堪える。途中途中で、思わずよろめいたりしながら、私は淡々と、単純作業のように歩き続けた。少し前に怪我した右足の傷が、少しだけ痛みながらだった。
「はぁー、もう疲れたよ……」
なんとか自宅前に辿り着いた時には、私の全身は悲鳴を上げていた。腕も足も、もう休ませてくれと号泣しているようだ。一刻も早く、ソファに座るかベッドに横たわるかをして、体を休めなければ。そう感じた。
同時に、妙なデジャブ感を覚えた。何かが以前と同じ景色だ、と思った。
「――#苗字#さん?」
「……あ、北さん……!」
前と同じ、信介さんに合うような、そんな景色。夕焼けの色も、まるでセッティングをしたかのように、前と全く同じな、綺麗な朱色に染められていた。
第五話「協力要請」
「またお買い物帰りですか?」
「は、はい」
前に会った時とさほど変わっていない、彼の礼儀正しそうな笑顔が眩しい。こんなに綺麗な笑顔、私にはできないなと、見ていて思った。個人的に、自分の笑顔は好きじゃない。どこか歪んだように見えるから。
「……荷物、重そうですね。大丈夫ですか?」
信介さんは人をよく見ている好青年でもあるので、私が今持っている荷物が重そうな事を、すぐに察知してくれた。この観察眼は、一体どのように人生を過ごしていれば得られるのだろうか。ぜひご教授願いたい程だ。
「あぁ、大丈夫です。これくらい――」
これくらい平気です、そう私が言いかけた時だった。私は失念していた。自分が、右足を怪我していた事を。そのせいで、今日は足がよくよろつくのだという事を。
私は前の方へと、盛大に転んだ。顔面が床と密着する前に咄嗟に手をついたので、顔は守られた。しかし、手と足には痛みの感触が伝う。
「いたっ」
思わず、うめきに近い声色が、喉の奥から飛び出てきた。
「#苗字#さん! 大丈夫ですか、怪我は?」
彼の声が聞こえる。大丈夫ですと言い放ってから、なんだか手足に生暖かい感触がして、もしや流血したかと、咄嗟に手足を確認する。どうやら軽い錯覚だったようで、本当に血が流れている訳ではないようだった。ジリジリとした痛みはまだあるが、流血も無い軽傷で済んでいた。
「ちょっと痛いけど、大丈夫ですから」
この後、時間差で血が出るかもなという事も視野に入れつつ、私はそれよりも、紙袋から飛び出して散らばった参考書達を拾おうとしていた。転んだ時に、ドサッと地面に散らばってしまったのだ。ついでに、紙袋も急な参考書達の重さに耐えきれず、中心部分が縦に破けている。これは大変だ。私は体勢を整えてから、早く拾おうとして右手を伸ばした。
「ん? これは?」
その瞬間に、信介さんも手を伸ばしたのが見えた。刹那だったので、どちらも自分の手を引っ込める事はしなかった。参考書の厚い紙の感触よりも先に、しばらく触っていない、男性の手の甲の感触がした。
「ああ、ごめんなさい」
咄嗟に離したのは、私の方だった。
「いえ、こちらこそ……」
さらっとした仕草で、数学の参考書を取る彼。それを見ながら、今さっきに伝わったたった一瞬の感覚を、私は忘れられずにいた。男性の手に触れたのは、思えば父親以来だっただろうか。その父親も、遠い昔に無くしてしまったので、最後に触ったのは、十年くらい前だっただろうか。やっぱり、男性と女性では手のディティールが全く違うのだなと、ドキドキしながらも、少し感心した。
その次に私は、参考書のページを、笑顔でペラペラと捲る信介さんを目に入れた。
「これ、高一の内容ですか。懐かしいなあ」
三年生の信介さんにとっては、こちらがちんぷんかんぷんな数学ですら懐かしい物なのか。三年生というか、この人が凄いんだろうなと思った。
勉強も、何もかもがてんでダメな私に比べて、信介さんは凄い。何でもできて、努力家で優しくて。私の周りに彼が居れば良いんだろうな、と思った。
「……あ、そうだ」
「ん? どうされました?」
いや、待て。今、私の周りに彼が居れば、と私は言った。それはおかしい。だってもう既に、信介さんは周りの人であるはずだ。なぜ、彼が他人みたいな扱いになっているのだろうか。
そうか、協力関係には居ないからか。正しくは、彼が私のやる事に協力してくれれば、だったんだろう。
であれば、協力してもらえるように、今ここでお願いすれば良いんじゃないのだろうか。私はひらめいた。どことなく今まで考えていなかった、言わば灯台下暗し。しかし、答えは至って平凡だった。
「北さん、あの、頼み事があるんですけど」
「はい」
信介さんは、きょとんとした顔で私の目を見た。私も相手の目を見て、いつもより震える唇を、恐る恐ると開いた。
「私に、勉強を教えてくれませんか!」
第六話「厳しい道」
夕暮れ空が、茜色というよりも橙色の輝きを引っ提げて、こちらをじっと見つめている。そよ風が吹いて、彼が持っていた参考書のページが、はらりと浮いていた。
「お願いします。私、どうしてもなんです」
唐突にするべきではないお願いなのは、分かっていた。それほど親密度も高くない、ただの隣人に勉強を教えてくれと頼むなんて、とんでもない行為だという事も知っている。そして、そんなお願いを引き受けてくれる人間は少ないという事も、知っていた。しかし、それらを承知の上で、私は口を開いている。
どこか、予感めいた物があった。ここで一歩踏み出さないといけないと、神様からお告げを受けているような、そんな感覚があった。ここで行けと、何者かから命令を受けているようだった。本能が、そういう司令を受け取った。そうして気付けば、言葉はこぼれていた。
「実は私、不登校なんです。いじめで学校に行けなくて。それで、家にお金が無くてフリースクールとかにも行けないから、今までずっと、ちゃんと勉強できていなかったんです。今、二年生なんですけど、一年生から不登校で、高一どころか、中三の範囲すらできなくて……。でも、そんな自分からもう、変わりたいんです。そのためには、私に勉強を教えてくれる人が必要なんです。親にも先生にも頼れなくて、北さんくらいしか居ないんです。お願いします!」
一気に、それはもう一気に言葉が溢れた。本当はここまで長く話す気じゃ無かったのだが、途中からなんだか、無意識的に漏れてしまったようだ。
そこまで進んで、自分が一方的にお願いや話をしてしまっているなという事に気付いた。信介さんは困惑していないだろうか。それどころか、怒っていないだろうか。恐る恐る、反応に伺いを立てるように、彼の顔を見た。
そこで信介さんは、感心したような表情をしていた。ハッとしているような、見開いた目で、私を見つめていた。
「あ、あの、北さん?」
予想外の反応だったので、逆にこちらが困惑してしまった。なぜこの人は、感心の顔をしているのだろうか。疑問に思った。
「ああ、ごめんなさい。#苗字#さんがそない感じなの、なんかびっくりで」
そない感じ、というのは一体、どんな感じなのだろうか。
「ちゅうか、二年生やったんですね。ずっと一年の子やと思っとりましたよ」
「え。違います、高校二年生ですよ!」
実際よりも年下に見られていた事に、若干むっとしてしまった。私はれっきとした、高校に通っていないだけの、高校二年生だ。
「いや、すみませんね。いっつも子供みたいにわちゃわちゃしとって、てっきり二個くらいは下かと思っとって」
子供みたいにわちゃちゃ、も分からない言葉の一つだった。
「もう、違いますよ」
「すみません。でも、そんな#苗字#さんが、ここまで覚悟決めてるなんて、知りませんでした」
さっきまで緩く微笑んでいた信介さんの顔が、真剣に引き締まる。雰囲気が、この刹那で一変したようだった。
「本当に、#苗字#さんが変わりたいなら、俺は喜んで協力しますよ。厳しい道になるとは思いますけど、それでもって言うなら」
正直、すんなりと協力してくれるとは、想っていなかった。一回は拒否されて、そこからが本番だと思っていた。
しかし、現実は違った。私の目の前に立っているこの人は、たった一回のお願いの言葉と、こちらの事情の話だけで、協力しようと言ってくれているのだ。頼んだ側が思うのもあれな事だが、ここまでスムーズに行くなんて、思っていなかった。まさに拍子抜けだ。
「良いんですか?」
「はい。部活があるんで、部活終わりか休日くらいにしか、直接教えられる時間は無いですけど」
「それは構わないんですけど、でも、こんなただの隣人の家庭教師なんて、迷惑じゃないですか?」
「迷惑なんかじゃないですよ。#苗字#さんが本当に変わりたいなら、なんぼでも協力します」
そう言う彼が、眩しく見えた。それと同時に、この世界にはまだこんなに優しい人が居るんだと、そう思えた。
昔は、周りに優しい人がいっぱい居た。実の両親、学校の先生、クラスメイト、塾や習い事の仲間。皆が穏やかで、その輪の中に生きている私も、もちろん幸せだった。
でも、両親がこの世を去ってから、私の世界は荒み始めた。優しい人は、誰一人として居なくなってしまった。義母はネグレクト、学校ではいじめ。先生もいじめを黙認する始末だ。優しい世界が、沈んで消えていった。
でも、今ここには、久しぶりの優しさを与えてくれる人が居る。温かくて、安心できる優しさ。もうずっと感じる事がなかった、忘れかけていた優しさ。それを、この人はきっと持っているのだろう。
厳しい道でも、全然構わないと思えた。信介さんの隣で変われるのなら、苦労なんて安いものだ。というか、元々これが茨の道だなんて事、痛いくらいに知っている。
それでも、このままじゃダメだと思った。だから私は、変わりに行くのだ。
「どうしますか」
答えは、分かりきっていた。
「……良かったら、これからどうか、よろしくお願いします!」
五話まで続いたので、タグを書くのをやめました。タグ占拠は良くないですからね。
第七話「見守っていて」
「あー、よろしくお願いしますとは言ったけど、一緒に何をすれば良いかな?」
あの後、信介さんは私のお願いを快く受け入れてくれた。彼の懐の広さに感謝しつつ、でも今日はまだ用事があるらしいので、勉強は明日から、という事になった。そして今、私は家に帰ってきて、明日からどうしようと考えているわけだ。
「いきなりお願いしちゃったけど、具体的に何をどう勉強するか、とかは決めてないんだよなあ……」
明日、信介さんと会ったら話し合いたいなと思いつつ、私は、今この瞬間の自分にできる事はなんだろうと、少し考えてみた。
「うーん……。とりあえず、今日買った参考書を読んでみて、どこがどれくらい分からないか、ちょっと確認してみよう」
私は、紙袋が破けて、結局むき出し状態になって参考書達に目をやった。そして、とりあえず一番上にあった、数学の参考書を取った。とりあえずで選んだ、高校一年生用の参考書だった。
大きくて少し持ちづらいページをめくって、いくつかの問題を確認してみる。ランダムに、数式だったり解説を目に入れて、思い出そうとしてみたり、これは少し分かると揚々な気分になったり、あるいは、ほぼ分からないと頭を抱えてみたり。
「うわ、全く分からん……」
今までほぼやっていなかったから、当たり前と言えば当たり前なのだが、ほとんどの問題や方程式は、一切理解できなかった。何がどうなって数式や答えが出てくるのか、理解のりの字も浮かんでこない。自分ってここまで馬鹿だったっけ、と思った。
「どうしよう、全然できなさそう……。大丈夫かな……」
早速、心が折れかけそうな音がした。これらの問いが分かるようになる日は、果たして来るのだろうか。いや、もしかしたら来ないのかもしれない。そう思うと、不安で仕方が無くなる。ちょっとだけ、自信にひびが入っていくようだ。
「はぁ、でもでも! 北さんも協力してくれるし、何より私ならいける! 信じれば、きっといつか大丈夫になるはず!」
だがしかし、私はもう一人じゃない。信介さんが協力してくれる。それに、絶対と言うには頼りないかもしれないが、私ならきっと大丈夫だ。信じて頑張れば、いつか道は開けるし、いつか幸せになれる。今は、そのいつかに向けての準備期間に違いない。そうだと信じていたいのだ。だって、これほお母さんの教えだから。
お母さん、お父さんは、天国からこんな私を見守っていてくれているだろうか。だとしたら、天国の二人に、私は大丈夫だよと伝えられるように、頑張らなきゃいけない。
二人は、天国で元気にしているだろうか。もし本当に天へと登っているなら、神様とか他の人達と、きっと仲良くしているのだろう。そんな姿が想像できる。
お母さんとお父さんに会うのは、数十年後の話だろう。それまで、見守っている二人を、安心させていたい。だから私は、ここで踏ん張らなければいけない。
「よし、頑張るぞー!」
両親に思いを馳せながら、私は元気を出して立ち上がった。なおその時に、床が滑って、後ろに大きく転んだ。
「いだっ!」