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目次
出逢い
彼が目を覚ましたとき、私はネットで「7月10日に人類は滅亡する」というゴシップ記事と、ゾンビ映画の広告と、陰謀論者のブログを分割画面で同時に見ていた。寝ていた彼のためにライトを消していたので、暗い部屋の中にパソコンの明かりだけが灯り、いかにも不健康そうな見た目だった。
私がマウスのカーソルをカルカルと回している間に、彼は目を覚ました。薄い、ごわごわしたブランケットを身体の上に感じて、彼は目を開けた。華奢な身体を起こし、ブランケットを見て、部屋を見て、私を見た。彼から見ると、私は大きかった。オーバーサイズのパーカーが、私の背中を実際より大きく見せていた。彼は室内の寒さにぶるっと震え、それから幼い声で「だれ…?」と囁いた。声は掠れていた。普通の声を出そうとしたのだが、喉が渇いていてできなかった。その小さな声が私のパーカー越しに背中にぶつかって、私が振り向いた。
私は疲れているような、それでいて目は冴えているような、変な表情をしていた。夜通しパソコンを見続けていたので、目の下に隈ができていた。彼は座ったまま後ずさろうとしたが、後ろに置かれていたゲーム機の空き箱にぶつかった。彼は息を詰め、上目遣いにじっと私を見つめた。私はそんな彼をしばらく眺め、何を言おうか考えていた。数秒の沈黙が落ちた。再び口を開いたのは私の方だった。
「電気つける?つけよっか、暗いもんね」彼の返事を待たず、私は部屋のライトをつけた。ぱちんという音がしたのち、ライトは一度弱い光を発してすぐ消え、また点いたときにはふだんの明るさになっていた。クリーム色の光に満たされた室内を、彼は注意ぶかくぐるりと見渡した。
私の部屋は、ごく普通のアパートの狭い1LDKだった。部屋中に服と袋と箱が散らかっていた。パソコンの中ではゴシップ記事と映画の広告とブログが静止していて、その奥の窓にはカーテンが引かれていた。彼はごくりと唾を飲み込んだ。渇いた喉に唾はほとんど流れなくて、炭酸を飲んだときのような痛みを残した。
私は立ったままそれを見下ろし、「水飲む?」と尋ねた。
「…の、のむ」
彼が掠れた声で返事をしたのを見て、私はグラスに水道水を注いだ。グラスを渡すとき、一瞬彼の手は私の手に触れた。私の手は若く、内側から張って皺ひとつなかったが、かさかさと乾燥していた。爪が中途半端に伸び、剥がれかけたジェルネイルが塗られていた。
彼はグラスを受け取り、そっと飲んだ。水は生温く、ひどいカルキの味がした。けれどもひとまず渇きはおさまった。彼はグラスから口を離し、手で支えたままじっと固まった。私は無言で手を伸ばし、グラスを彼の手から取った。
「さてと」
私は独り言のように呟き、意味もなく天井を見上げ、そして彼を見下ろした。彼も私を見上げた。
ところどころ跳ねて癖のついている私の黒髪が、変な形にカットされていた、それをウルフカットと呼ぶのだと彼は知らなかった。パーカーの胸元から白い鎖骨が覗いていた。彼は知る由もないことだが、私は最低限の下着以外には、パーカーの下に何も着ていなかった。私は首も白く、顔も白く、手も白く、脚も白かった。明るいライトの下では、私はいくらか優しげに見えた。
「あのさ」
私は彼のために屈み、目線を合わせながら言った。それは幾度となく繰り返してきて慣れた動作だった。私の顔が彼に近づき、彼は身をすくめて上半身を引いた。それでも彼の紅梅色の瞳に丸く歪んだ私が映った。
「お腹空いてない?何か食べに行かない?」
私は彼の瞳を覗きこみ、同時に彼の瞳に映る魚眼レンズ越しのように歪な自分を覗きこみながら尋ねた。彼は薄いブランケットを唯一の相棒のように固く握りしめて、おそるおそる頷いた。彼はまだ私という人物を測りかねていた。私は彼に警戒されていて、彼が自分に逆らいたくないと思っていることを分かっていたけれど、それでも愛想のために少しだけ微笑んだ。ずっと真顔だった私の微笑みを見たことで、幼い彼の警戒心はごくわずか、本当に少しだけ、和らいだ。
私は携帯と財布をパーカーのポケットに入れながら、彼に「なんか羽織らないとね。そこらへんの上着、適当に着ていいよ」と言った。そこで彼は初めて、自分がタンクトップに半ズボンという薄着をしていることに気づいた。彼の周りには、私が散らかした上着が何枚か落ちていた。彼はそのうちの一番手前にあった水色のパーカーを手にとった。パーカーからは柔軟剤の匂いと、ある種の温かみのような着慣れた匂いがした。前についているチャックを一番上まで引き上げると、携帯を触っていた私が顔を上げて「いいね」と言った。彼は愛想半分、そしてもう半分は気恥ずかしいような本心から、わずかに口角を持ち上げて微笑んでみせた。
私は彼の手をとり、アパートを出た。鍵を閉めるかちゃんという軽い音と共に、やや冷たい外気が私たちの肌にぶつかった。
視界に広がった風景を見て、彼は少し驚いた。部屋のカーテンが引かれていたのでてっきり夜だと思っていたのが、実際にはまだ太陽の高い昼間だったからだ。コンクリート製の通路越しに、高層ビルや類似のアパート、スーパー、コンビニ、携帯ショップ、カフェ、一軒家が立ち並ぶ住宅街などが見えた。空はどこか気の抜けたような水色で、雲はほとんどなく、眠気を誘うように均一だった。彼の目線から水平な位置の辺りは透けるようなのに、中心に向かうにつれて澱むように濃い青のグラデーションをつくっていた。しかしよく晴れていた。視線を落とすと、ぴかぴかした色とりどりの車が道路を走りすぎていくのが見えた。この風景を目にして彼は、ここが東京であると、もちろん断定したわけではないが、凡そそのような都会だということを悟った。八歳の彼にとってはその程度の認識で精一杯だった。
私は眼下の風景に見惚れる彼の手を軽く引き、「行くよ」と言った。彼はそれで意識が私に引き戻され、黙って従順に歩き出した。
握った私の手が絶妙に温かかった、その体温を彼は知っているような気がしたし、知らないような気もした。私の少し乾燥した、でもしなやかに伸びた大人の手を、彼はそっと横目で見た。それから視線を上げ、私の顔を下から見上げた。私は片方の手をポケットに突っ込んだまま、退屈そうな、それでいて何かに希望を抱いているような、何ともいえない顔をしながら歩いていた。
すれ違う人の何人かは、通りすぎたあとに振り返って、彼と私を見た。黒髪で青みがかった目の私と、柔らかそうな金髪に紅茶の色の目をした彼の取り合わせは目を引いた。けれど彼はその視線に気づかなかったし、私は気づいても気にしなかった。私たちは黙って歩いた。不思議と沈黙は気まずくなかった。
交差点で信号が変わり、私たちは立ち止まった。冷たい風が吹き、パーカーに隠れた短パンから伸びた私の足を直に冷やした。「さむっ」と私は呟き、両足をこすり合わせた。彼はそれを見て、少しためらったあと、思いきって私の身体にぴたりと密着した。密着といっても、ただ半歩横にずれて身体を寄せただけだったが、距離は随分近くなった。私は彼を見下ろし、半分ほど本心から、そして残りは好奇心のようなものから、「やさしーね」と彼に向かって笑いかけた。彼はその言葉にちらりと私を見上げ、すぐに目を逸らしてうつむいた。恥ずかしさと不安と、確かに喜び、そして何か懐かしさのような感情が、彼の胸に渦巻いていた。
ファミレス
私が彼を連れていったのは、近所のファミレスだった。赤茶色のレンガ風の壁と、そこに貼られた「秋の新作パスタ&和栗のアイスクリーム」というポスターを、彼は背中を反らしてしげしげと眺めた。私はそんな彼を見て、「ここ、初めて?」と尋ねた。ハスキーがかった抑揚のない私の声に、わずかに何らかの力が籠った。彼は私を見上げ、「うん」と頷いた。「そう」私は再び力の抜けた声で答え、彼の手を引いて店の中に入った。
店内は、ハンバーグのソースの匂いがして温かかった。平日の昼にしては混んでいて、私は伝票に名前を書いて少し待った。にこやかな笑顔の若い女性店員に案内されたのは、店の真ん中あたりの席だった。
「ラッキーだね」と私が言った。「なんで?」と彼は尋ねた。そして、自分が当たり前のように私の隣に座り、自然に質問を返したことに驚いた。警戒心は随分和らいでいた。
それは私が静かな低めの声で喋っていたからかもしれないし、突然怒鳴ったり暴力を振るったり、怪しいところに連れていったりしなかったからかもしれないし、繋いだ手が温かかったからかもしれなかった。
「暖房が」とメニュー表を手にとりながら私は言った。「暖房が真上にあるでしょ、この席。他のとこよりあったかいじゃん」
彼が天井を見上げると、確かに彼の真上に暖房があった。壁に埋め込まれ、縦長で細い穴が開いている。「たしかに」と彼は答えた。
「注文、何がいい?何でもいいけど」そう言いながら私は、メニュー表を彼にも見えるよう大きく開き、ぺらぺらとめくった。「好きなの頼んでいいよ」という私の声を聞きながら、彼は真剣な表情で表を覗きこんだ。
「ここはハンバーグでー、こっちはステーキ。あとパスタとー、ご飯系もあるね」
私は何にしよっかなーと呟きながら、ページをめくって説明する。最後のページにたどり着くと、彼は小さな声で「ケーキ」と言った。
「ケーキ?いきなり?主食は?」
私にこう尋ねられ、彼は驚いた。好きなのを頼んでいいと言われたから素直に言ったのに、まさかそんな風に問い返されるとは思わなかった。彼はますます小さな声で言った。
「…じゃあ、たらこパスタにする」
彼がたらこパスタと言ったのは、それを食べたかったからではなく、単にそのとき開いていたページの一番上に載っていたからだった。私はそれに気づき、「あ、いやまあ、いいんだよ別に、ケーキでも。パスタでもどっちでもいいけど、どうする?どっちがいい?」と言いながら、彼の顔を覗きこんだ。彼は私の顔を見ずにうつむいたまま、「…ケーキがいい」と答えた。
「ケーキね。どれがいいの?」私は表を見ながら聞いた。彼はチョコレートを選んだ。
「じゃあ私もチョコのパフェにしよ」結局私もチョコレートパフェを選んだ。
ケーキとパフェはほどなく届いた。チョコアイス、チョコクリーム、チョコウエハース、チョコ色に染まったコーンフレークが乗ったパフェを見て、彼は目を輝かせた。私はそれを見て「交換する?」と尋ねる。彼は首を横に振った。
「いい。ケーキ食べたいし…たぶん、パフェ食べきれないから」
「そう」
私は頷くとスプーンを取った。さくりとアイスにスプーンを入れ、持ち上げる。いらないと言いつつ、つやつやと甘い匂いのするアイスに彼は目を奪われる。私は食べづらくなって、そのまま彼の口元にアイスを持っていった。
「あげる」
「あ、いや」
「いいよ。アイスだけでも食べなよ」
私の声に不機嫌はこもっていなかったけれど、有無を言わさないような圧があった。彼はおとなしくスプーンを咥えた。冷たさと、鼻が馬鹿になりそうな甘い匂いが同時に来た。
「おいしい?」
「うん」
全く緊張のない溶けた彼の声が喉を滑って、私の膝あたりに落ちた。私はその声に、あるいは頬が緩んだ彼の顔に目元を綻ばせた。
彼がケーキを、私がパフェを食べる間、私たちは無言だった。彼はものを食べるときは話さないようにと躾けられていた。しかし、それを誰に教わったのかは思い出せなかった。
彼が皿に付着したチョコムースをスプーンで掬い取り、私がパフェの一番下の、チョコ味のパンナコッタを飲み込み終わるまでに、ざっと三十分かかった。私より早く食べ終わった彼は、私が食べるのをじっと見ていた。私の薄い桃色の唇がチョコレート色になっていくのを何となしに眺めていた。
食べ終わると、私はすぐに席を立った。彼も後に続こうとして、それから小さい声で「…トイレ」と言った。
「ああ、いいよ。そこの突き当たりにあるから。行っておいで」
突き当たりに消える彼を見送って、私は財布を取り出した。前に並んでいた老夫婦が、セルフレジに慣れない様子で会計をすませるのを待つ間、私はじっと彼の消えた方を見ていた。私の頭の中では、彼の走る背中が何度も再生されていた。
やっぱり、あの子は。
考えているうちに、老夫婦が「ごめんなさいね」とすまなそうな笑顔を浮かべて去っていったので、私は会計を済ませた。レシートを取ると同時に彼が戻ってくる。
「行こうか」私が言った。