セーラー服は勝負服。
赤いリップはあたしの背伸び。
茉莉花は秘密の手紙。
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目次
春、図書室と君
春の光が、図書室の窓から静かに差し込んでいた。
暖かくて何かを包み込んでくれるような優しい光。
埃が光に浮かび上がって、まるで空気に色がついたみたいに見える。
放課後の図書室はいつも静かで、誰にも邪魔されない時間が流れている。
この世界に1人だけになれる。自分の輪郭を曖昧にしてくれるような。そんな図書室が私は好きだった。
グラウンドから聞こえる野球部の声が遠く聞こえる。
ぼんやりとした私と詩だけの世界。
窓際の席に座りながら、詩集をめくる指先が風の音にかき消される。
図書室はいつも私だけ。図書委員が当番をしっかり守ることはほとんどない。
今日も誰も来ないと思っていた。明日も、その先もずっと。
静かな足音が聞こえた。建て付けの悪いドアが重たい音を立てて開く。
そこに立っていたのは見慣れない男性だった。
白いシャツから覗く身体は心配になる程細身で白い。
まだ春の風は少し冷たいけれど、彼は、春よりも冷たい空気をまとっていた。
誰。
名前も知らない、会ったことが無い人のはずなのに、こんなにも胸が苦しいのは。
なんてことのない存在だったのに。
現れた彼は、まるで風景の中から滲み出たようだった。
どこにも居場所がないのに、そこにいるのが自然な気がした。
湊は無言で本棚の前に立ち、何冊かの本をゆっくりと手に取った。
背表紙をそっと指でなぞるしぐさがやけに静か。
まるでルネサンス期の絵画のように美しくてどこか儚い姿が絵になっている。
まるで、本に触れているんじゃなくて、言葉に触れているみたいだった。
私の視線に気づいたのか、彼がふとこちらを見た。
静かで凛とした目が茉音を捉える。
その一瞬。
彼は、ほんのわずかに片口角をきゅっとあげた。
何かに微笑んだのか、何かを見透かすような意味を持たない表情だったのか。
けど、その微かな変化に、心は不思議と揺れた。
それだけだった。
言葉は交わしていない。名前も知らない。
けれど、何かが残った。
あの、静かな目の奥にある“何か”が。
彼のいる空気だけが、他と違って見えた。
ページの文字が頭に入らないまま、ゆっくりと本を閉じた。
窓の外、桜が風に揺れていた。
まるで、何かが始まることを知っているように。
◉ 黒崎 茉音 / クロサキ マオ
高校2年生。美術部と文芸部に月1、2回出席する幽霊部員。
感情を外に出すのが苦手で大人しくて完璧主義な「いい子」。
黒板の余白
午後の春の風が、教室の窓からそっと入り込んでくる。
カーテンがふわりと舞って、陽の光が斜めに差し込んだ。
|私《茉音》はノートを開きながら、教室の前方、黒板の方を見つめていた。
今日から本格的に始まった数学の授業。
数学担当は新任教師――瀬野湊。
昨日、図書室に来たあの彼だった。
昨日はかけていなかった細縁の黒い眼鏡をかけて、袖口のボタンも閉じられている。
「|瀬野 湊《せの みなと》、数学を担当します。」
瀬野先生は無駄な話はしない。
軽い自己紹介だけで、初日から教科書の内容にすっと入っていく。
先生の声は落ち着いていて、耳に残る音だった。
数式が黒板に並んでいく。
先生の手は迷いがなく、黒板に綺麗な字で数字が連なっている。
「a²+b²=c²」
数式が淡々と続く。
ふとした瞬間、いつもどこか彼の指先に目を奪われていた。
色白で細く、骨張っているのに、どこか儚げで、書くたびに白い粉が指にふわりと絡まって纏わりつく。
一つ一つの動作が静かで美しかった。
黒板に残るのは数式だけじゃない。
その余白に、何かもっと違うものがあるような気がして。
それが何なのか、言葉にはできなかったけれど。
授業が進むにつれ、声に、動きに、視線が吸い込まれていく。
「感情って、数学みたいに、方程式で解けたら楽なのにね」
突然の言葉だった。
問題の合間、チョークを置いた湊が、少し遠くを見るように、小さい声でつぶやいた。
ざわついていた教室でこの言葉が聞こえたのは窓際最前列の私だけなのだろう。
誰も反応しないし気づいてすらいない。
意図的に呟いたわけではなくて、心の本音が溢れたような声だった。
数学の問題と同じように、感情にもひとつの正しい答えがあるなら。
迷わずそこに向かって、一直線に進めたら。
きっと今、こんなに揺れていないのに。
視線を上げるとちょうど黒板に背を向けてぼーっとこちらを向いていた。
その目が、偶然真っ直ぐに私と交わる。
先生の瞳は今日も綺麗で今にも消えそう。
一瞬、心臓が跳ねた。
けれどその目はすぐに逸れ、またチョークを掴む。
まるで、何事もなかったかのように。
それでも、私は瀬野先生の中にある、何か奥深い闇。それを、見た気がしていた。
放課後。
廊下を歩いているとふと、教室と図書室の間にある小さな掲示板が目に入った。
「文芸部員 募集中」
手書きの文字が少し傾いている。
誰が書いたのかも分からない、角がボロボロになっている少し古びたポスター。
そう言えば自分が文芸部だったことをふと思い出してついくすっと笑ってしまう。
美術部は月1、2度顔を出しているけれど、文芸部にはここ数ヶ月行った記憶がない。
どちらも去年のクラスメイトに誘われて何となく入部しただけだからやる気がないのはしょうがない。
その横を通り過ぎようとした時、遠くから、階段を下りてくる誰かの足音が聞こえた。
思わず振り向く。
瀬野先生だった。
手に持っていたファイルを胸に抱えて、ゆっくりと歩いてくる。
どうやら眼鏡と袖口のボタンは授業中だけらしい。
「黒崎さん」
初めて名前を呼ばれた。
それだけで、体温が変わる。
「……数学、好き?」
不意にそう問われて一瞬だけ戸惑った。
そして、首をかしげる。
「得意ではないです。でも、嫌いでは無いかも」
「そう」
先生はそれ以上、何も言わなかった。
でもその顔に、うっすらと笑みが浮かんだ気がした。
まるで、陽だまりの中で、そっと消えていく影みたいに。
そのまま先生は去っていった。
静かに、足音もほとんど残さずに。
◉ 瀬野 湊 / セノ ミナト
教師1年目。数学担当で文芸部の顧問。
名前の温度
放課後の教室は、夕陽に包まれていた。
窓から差し込むオレンジ色の光が、黒板に影を落とし、机や椅子が長く伸びた中ひとりで座っていた。
部活動は終わったのか校内に人気は感じない。
課題だった数学のプリントをめくる手が、わずかに震える。
授業のノートを見返しても、教科書を何度読んでも、どうしてもわからない問題があった。
「……聞くしかない」
自分にそう言い聞かせるように呟いて立ち上がる。胸の奥が妙にざわざわしていた。
職員室へ向かう廊下。
夕方の校舎は静かで、足音がやけに大きく響く。
瀬野先生は文芸部の顧問らしい。一応所属はしているから気まぐれで予定表はもらうが今日活動しているのかすらわからない。まだ学校に残っているのか、どこにいるのかはさっぱり分からない。
職員室、2年棟、体育館、一通り見に行ったが全く姿は見えなかった。
もしかして、と思ってそっと文芸部の部室を覗くと誰もいない静かな部室の奥に先生はいた。
上ボタン2つと袖口が開けられた白いワイシャツ。
シャープペンを指に挟んで、何かを読み込んでいる横顔。
静かで、無駄のないその姿に一瞬時が止まったように、言葉を飲み込んだ。
やっぱりやめようか。
その考えが浮かびかけたとき
「黒崎さん?」
知らないはずの私の名前を先生が知っている。
それは、不意に心臓が一気に跳ね上がる合図だった。
呼び止めたわけでもないのに、なぜかこちらに気づいていた。
どうして。いや、それよりも、なんで、
「え……」
不意に名前を呼ばれるのは、どうしてこんなにも息が詰まるのだろう。
瀬野先生は、気怠そうに椅子を静かに回してこちらを向く。
「何かあった?」
淡々とした声。でも、どこか、柔らかさがあった。
冷たくはない。けれど、あたたかすぎるわけでもない。
言葉の端に少しだけ混ざる温度。それが、心に優しく滲んだ。
「あの、授業のここ……」
プリントを差し出す手がわずかに震える。
瀬野先生はそれを受け取り、目を通した。
「ここの考え方だけど、」
必要な情報だけを必要な順で必要なだけくれる。
雑談も変な優しさも全くない、淡々としていて的確で分かりやすい解説だった。
けれどその中に、無機質なものはなかった。
「なるほど、、ありがとうございます」
「黒崎さん、授業真剣に聞いてくれてるよね」
予想していなかった言葉が、ふいに投げかけられる。
「えっ、あ、はい……」
戸惑いながら顔を上げると、先生はほんの一瞬だけ、笑った。
本当に一瞬で、それはまるで春の風のようだった。
吹いたかどうかもわからないほどの、淡い表情。
私の中で何かがすっと、溶けた気がした。
まだ名前しか知らない。
でも、心がその名前に少しずつ、寄っていく音が聞こえた。
「文芸部員なんでしょ?
いつでも待ってるよ 」
悪戯っぽく言うそんな表情は私の心を苦しくさせる。
「タイミングが合えば行きたいと思ってます」
「ありがとうございます、失礼しました」
部室を出るとき胸の奥をそっと押さえた。
さっき聞いた自分の名前。その響きが、まだ耳の奥に残っていた。
自分の名前なのに自分のものではないような。
同じ名前なのに全く違う新しい宝物のような。不思議で暖かい感覚だった。
名前を呼ばれただけなのに。
まだ出会って数日しか経っていないのに。
そう思いながら、夕陽が差す廊下を静かに歩き出した。
明日は温度が上がりそう。
心の音
夕方の校舎には、無音がよく似合う。
チャイムが終わってしばらくたった頃、廊下に響くのは、時折すれ違う生徒の話し声と、外から吹き込む風の気配だけだった。
数日前、先生にああ言われた手前なんとなく久々に美術部に顔を出した。
復帰に文芸部はまだハードルが高かった。
数人しかいない上に、大半がスマホをいじったり友達と談笑していた。
かなり前に途中になっていた作品のキャンバスに少しだけ色を重ねてみると心が空になる。
遅くなった帰り道。
昇降口の方へ回ろうと階段を下りたとき、廊下の向こうから見慣れた姿が歩いてくるのが見えた。
細身で綺麗なシルエット。
相変わらず真っ白で皺一つないシャツの袖を少し捲って、静かに歩いている。
、、瀬野先生だ。
咄嗟に足が止まった。別に悪いことをしているわけじゃないのに、心臓が跳ねる。
自分のものじゃないように急に暴れる心音は心の中まで見透かしているようだった。
声をかけようか、それともこのまま通り過ぎようかと迷っていると、ふと歩みが緩んだ。
そして、ほんの一瞬。
小さく咳き込む音が、静かな廊下に響いた。
私は反射的に顔を上げた。
咳は短くて軽い一度だけ。でもそれは、どこか深いところの古い痛みに触れるような音だった。
先生はそのまま何事もなかったかのように姿勢を正し、また歩き出す。
ぼんやりと廊下の窓から中庭を綺麗な横顔で何かを見つめる。焦点は定まっていないらしい。
そして、廊下の途中でふいに振り向き、私の存在に気づいた。
「ああ、黒崎さん」
「……あ、」
言葉が、喉の奥にひっかかる。
自分が何を話したいのかは分からないのに、何かが私から溢れ出て言葉をぶつけてしまいそうだった。
先生は、ほんのわずかに微笑んだ。
けれどその笑みは、出会った図書室の日より数倍もどこかぎこちなくて、
ほんのすこしだけ哀しさを含んでいるように見えた。
「今日、部活行ったんだ」
「……はい、ちょっとだけ」
「そっか」
「…お疲れ様」
それきり、彼はなにも言わなかった。
でもそのまま歩き去る背中を見送っていると、不意にまた、咳がひとつ。ふたつ。
風邪ではない。
朝の占いよりも怪しい予言よりも不確かで、不思議に自信のある直感だった。
声にも出せない、どこか遠くのものに触れたようなざわつきが、心の奥で音を立てた。
それから私は気づけば、先生の姿を目で追うようになっていた。
黒板の前に立つ姿、チョークを持つ手、何気ない授業の合間に見せるぼんやりとしていて音のない仕草。
今まで気にならなかった細かいことまでもが、目に入ってくる。
そして心音を暴れさせる。
授業中にふと目が合う瞬間もあった。
そのたびに茉音は、なぜか自分の鼓動の音ばかりがやけにうるさく聴こえる。
先生と廊下ですれ違うと、自然と姿勢を正してしまう。
目が合ったら、軽く会釈だけ。だけど、それだけでもう心臓がうるさい。
それでも。
あの咳のことだけは、ずっと引っかかっていた。
「瀬野先生、最近ちょっと顔色悪い気がするんだけど、大丈夫なのかな」
美術室で一緒になった藤原さんが、ふとそんなことを言った。
「……え?」
「ほら、数学の瀬野先生。あの人、顔色とか声とか、なんか淡い感じじゃない?」
「元々そうだったけど、最近なんか、淡すぎて消えちゃいそうなくらいだよね」
淡い、という表現に、茉音は思わず息を呑んだ。
それはきっと、藤原さんなりの言葉なんだろうけど、まるで透明な花びらに触れたような、壊れそうな感触がよみがえった。
藤原さんは学級委員で、入学後からちょくちょく話しかけてくれていたクラスメイト。
クラス替えが3年間ないこの学校で、たまに部活に誘ってくれるのも、予定表を渡してくれるのも全部この人のおかげ。
優しくて誰からも愛されるような藤原さんが美術部を選んだのは当時かなり意外だった。
美術部は自分みたいな居場所のない人間の住処という偏見が中学時代の美術部を見ていて思っていたから。
中高と美術部、高校で文芸部も掛け持ちの私は、どこにも染まれない、染まろうともしない人間だった。
「そう……かな」
言葉を濁した。
まだ何も知らない。
先生が何を抱えているのかも、咳の意味も、表情の奥も、言葉の全ても。
でも、なにかがあると、私の心だけはもう、知ってしまっていたような気がしていた。
音のない哀しみが、ひとつずつ増えていくような。
まだ形にならない気持ちだけが、私の中で小さく脈を打ち、得体の知れない悲しみが滲んだ。
◉ 藤原 りな / フジワラ リナ
高校2年生。茉音と同じクラスで学級委員。美術部と文芸部を掛け持ち中。
おっとりしていて周りに気を遣える。明るくて誰からも愛されるような性格。
感情と関数と公式
「感情って、数学みたいに方程式で解けたら楽なのにね」
その言葉は、最初の数学の授業中、不意なひとことだった。
チョークが止まり、黒板の数式の間にぽつんと置かれたその言葉。
それはまるで、規則的に並べられた公式たちの間に、ぽつんと落ちた水滴みたいだった。
そんな言葉を未だにずっと心にぽつんと残されている。
ノートの上で途中になった数式の答えは、もうどうでもよくなったみたいに浮かんだままだった。
瀬野先生は今日も、いつもと同じ表情で特に気にも留めずに授業を続けていた。
その日、帰り道の空はやけに広くて、くすんだオレンジ色に滲んでいた。
そろそろ暑くなってきて太陽が本格的に輝き出す季節になる。
先生、何かあったのかな
それとも、私が気づいてないだけで、ずっと…
心の中を見えない渦がずっと彷徨っている。
藤原さんに「部活一緒に行こ!!」と声をかけられたけど、私はそっと断って校舎に戻った。
理由は言えなかった。ただ、先生のあの言葉が、今もどこか胸に引っかかったままだった。
職員室は素通りして、いつかのあの日のように文芸部の部室前で立ち止まる。
扉越しに聞こえる静寂。
誰かが何かの書類をめくる音と、ペンを走らせる音が微かに響いているような気がした。
私は静かにドアの窓越しに中を覗いた。
中には相変わらず瀬野先生が1人だけ。
先生は、自分の机に向かって何かを静かに書いていた。
大丈夫。きっと、ただの独り言だったんだ。
そう思ったはずなのに、足が動かなかった。
声も、かけられなかった。
そのまま、踵を返して帰ろうとしたとき。
中から、湊先生の声が聞こえた。
「…感情は、計算できないから厄介だよなぁ」
誰もいない空間に向かって言ったのかもしれない。きっと先生自身に言ったのだろう。
でも、私にはそれがまるで、私に向けられたように感じてしまった。
最終下校時刻ギリギリまで足は動かなかった。
次の日、クラスメイトは談笑しながら部活に向かう中、私は過去1番の速さで、半年ぶり程に文芸部の部室へ行った。
誰もいない部室で奥の机の上にある文芸部共用のノートを開いた。
部員が何人いるのか知らないけれどきっとほとんどが私みたいな人間で、大半が幽霊部員。
匿名で書ける共有のノートは部員のその時の感情が詩のように綴られているノート。
久々に見たけど、あまり動いてなかった。
やっぱり真面目に活動している部員が少ないのだろう。
失恋したので、七夕に願い事書かなかった。
→書かなかった願い事の方が、案外本気だったりするね。
今日の美術の授業、絵の具がうまく混ざらなくて灰色になった。
色って、正直すぎてこわい。思ってない色に近づくと、濁る。
人間もそうなのかな。裏切られませんように。
→濁らないようにって意識しすぎると、透明な色も出せなくなる。
失敗色も案外、混ぜてみたら面白いかもね。
文芸部の部室の窓から、誰もいないグラウンドを見るのが好き。
音がない時間って、どうしてこんなに豊かなんだろう。
→音がないとき、人は自分の音に耳をすますからだと思う。自論。
多種多様な筆跡と毎回丁寧な字で書かれている返事のような何か。
返事はきっと先生の字。
細くて儚くて綺麗なのにどこか何かに追いかけられているような雑さがある。
部員の言葉と先生が紡ぐ言葉を追いかけて、それでもページをめくる。
もう書いてあるページは埋まっていて、次のページには、まだ何も書いてなかった。
ノートの隣に置いてあったボールペンで感情のまま殴り書きをする。
感情って数学みたいに方程式で解けたらほんとに楽なのかな
一行だけ、書いてみた。
そして、しばらくそのままペンを持った手でページを押さえていた。
追いかけて来ていた何かを押さえ付けるように。閉じ込めるように。
翌日、数学の授業の時間。
先生はいつも通りだった。
黒板に数式を書いて、生徒の手が止まるところにだけヒントを置いていく。
「…この問題は、少し遠回りして考えてください」
「パターンにはめずに、自分の言葉で考えてみて」
「計算式の形にとらわれなくていい。答えは一つじゃないから」
その言葉が、授業の中でしか届かないことがあるって、瀬野先生は知っているのかもしれない。
放課後。
黒板に残った数式の余白をぼんやりと見つめながら、一人教室に残っていた。
殴り書きの返事をまだ見に行こうと思えるほど私は強くなかった。
窓の外では風が吹いて、桜の葉がひらひらと舞っている。
私が思っていた以上に時間は残酷で、春の香りはもうどこかへ飛ばされていた。
今日もまた、数学の課題の答えは書けていなかった。
関数も公式も、計算すればきっと正しい答えにたどり着く。
でもこの感情だけは、何をどうやっても解けそうになかった。
きっと関数のように依存している。
私は何かではないと存在できないのだろう。
問題の端に書いてある関数の問いに仲間意識を感じた。
ふと顔を上げた時。
教室の入り口に、湊先生が立っていた。
「…何してんの、ここで」
「藤原さん、もう帰ったみたいだけど茉音さんは?」
「……あ、はい、いま帰ります」
先生はそれ以上なにも言わず、ゆっくりと廊下を歩いていった。
背中だけが見えた。その歩幅は、少しだけ揺れていた。
きっとこの問いの解は瀬野先生なのかも。
放課後の放物線
相変わらず静かな放課後だった。
教室の窓から射し込む夕日が、床に長くオレンジ色の影を落としていた。
教室にはもう誰もいなくて、聞こえるのは時計の針が刻む音と、私と瀬野先生の心臓の音くらいだった。
「先生、これ、ここの式ってどうしてこうなるんですか」
私の声は、思っていた以上に気を抜いたら消えてしまいそうなほど小さかった。
でも、その声に先生はすぐ気づいた。
「ん……ああ、それね」
先生はノートをのぞきこみ、ペンを取り出した。手元のノートに、滑らかな動きで数式を書き始める。
彼の手の動きはいつ見ても無駄がなくて、まるで音のないダンスを見ているようだった。
「この式は、ここを入れ替えて展開していく。だからこうなる。……ほら、ここ」
そう言って、先生は私の手元にそっと指を添える。
手首の脈を測ってるようにそっと静かで自然な動きだった。
紙の上をなぞるその指先のぬくもりが、肌越しに伝わってくる。
心臓、うるさい。
そう思ったけれど、顔には出さないようにぐっと我慢した。
でも、ほんの少しだけ視線が泳いでしまう。
それを察したように、先生は少しだけ口角を上げた。
出会ったあの日のように。
「……ごめん。怖かった?」
「ううん、全然」
慌てて返すと瀬野先生はもう一度片口角を上げる。
でもそれは、他の誰にも見せない、ごく小さで可憐な笑みだった。
気づくとはいつの間にか、放課後の部室で先生と二人きりになることが増えていた。
数学の問題を教えてもらうため、という理由で。
なんてのは建前で、本当はそれ以上に先生と過ごす時間が欲しかったんだと思う。
本音は私も分からない。分かりたくもなかった。
恋でもない愛でもない尊敬でも希望でも夢でもない。名前のない感情の何か。
「ここはこうやって計算するとすぐ解出ると思う」
先生の声は落ち着いていて、どこか遠くの景色を見ているような静けさがあった。
私はその声のトーンに耳を傾けながら、ゆっくりと問題を解いていく。
横でペンを走らせるたびに、自然と先生の動きを目で追ってしまう。
手の動きは無駄がなく、冷静だけど温かみがあった。
「なあ、茉音」
突然、瀬野先生が名前を呼んだ。
呼び捨てで名前を呼ばれるなんて初めてで、驚いて顔を上げると、彼の瞳は少しだけ揺れているように見えた。
自分で名前を呼んだことを驚いているような表情だった。
「、、なに」
「…ありがとう。今日、来てくれて」
言葉は少なかったけど、先生の心が伝わってきた気がした。
何よりも冷たくて優しい、甘酸っぱい気持ち。
優等生と壊れかけの大人
放課後の教室は、夕陽に染まった静寂のオモチャ箱のようだった。
残された机と椅子が、まるで眠っているかのように整然と並んでいる。
最近はしっかり部活に行っている。
部活終わり、ロッカーに忘れ物をとりに教室の扉をそっと開けた。
何の目的もなく、ただ誰もいないはずの空間に引き寄せられた。
窓際の席。
教卓横の物置とかしている椅子に腰掛けて瀬野先生が、片肘をついてぼんやりと外を見ていた。
「……先生?」
声をかけようとしたが、口は開かなかった。
声に出したいのに、なんとなく出してはいけない気がして。
教卓でもなく、職員室でもない、こんな場所での先生の姿が、あまりにも“先生らしく”なかったから。
先生は何も言わなかった。ただ、夕陽に染まるグラウンドの向こうを、じっと見ていた。
その視線の先に何があるの。それを私は知らない。
けれど、先生のピンとした白いシャツの背中から何かが滲み出ていた。
疲れか、寂しさか、それとも。
「せんせ、何してるの?」
言葉は自然と出た。
先生は夢から覚めたようにはっ、とゆっくりとこちらを振り向く。
目元には、いつもと同じ冷静な光があったけれど、どこか揺れていた。
「なんだ、黒崎か。」
「何してたの?」
「…考え事」
それだけを言って、また目を逸らす。
「授業のこと、ですか?」
「いや。……ちょっと」
間があった。
私はただ黙ってその隣に立った。置き物の隣の空間なんて無いようで、気配をそっと消す。
教室にふたり。時間が止まっているみたいだった。
「なあ、黒崎さん」
名前を呼ばれて、私胸が小さく跳ねた。
先生の声は相変わらず落ち着いていたけれど、どこか遠くの音のように聞こえた。
「人はさ、誰かを救おうとするたびに、自分を見失うんだよ」
それは、ぽつりと零れ落ちた独り言のようだった。
でも、確かに、きっと。私に向けられていた、と思う。
「……ねえ、それって、先生のこと?」
返事はなかった。けれど、沈黙がすべてを肯定していた。
「何それ。……そんなの、ずるいじゃん」
ぽろっと言ってしまったその言葉に、自分でも驚いた。
でも、止まらなかった。
「先生は、いつも冷たくて、正しくて、優しくて、優等生みたいな完璧な大人で、
でも、でも、そうじゃなくって、ダメダメで、でも」
「そうじゃないんだなって、今初めて思った」
湊は、少しだけ口元を緩めた。
それが笑ったのか、苦笑いだったのかは私なんかにはきっと永遠にわからない。
「先生、壊れてどこかへ行っちゃいそう、」
そう言った私の声が震えていた。感情がぐらりと揺れていた。
こんなことを言いたかったんじゃ無い。先生が傷つくって薄々わかってるのに。
だから私も感情なんて大嫌いだ。
「…大丈夫。俺はもう壊れてるよ」
そう言った瀬野先生の言葉は、どこか優しくて、それがかえって胸に痛かった。
ごめんなさい、違う、そういうことじゃなくてね。なんて言えたら良かったのに。
でも私にそんな勇気も言葉も全部全部なかった。
また私は大事にしたかった人を傷つけた。
夕陽が窓から射し込んで、ふたりの影を長く伸ばしていた。
何も変わらない景色の中で、何かが確かに崩れて、そして繋がった気がした。
寝る前の寝室でふと文芸部の部室ノートの返事が浮かんできた。
感情って数学みたいに方程式で解けたらほんとに楽なのかな
→感情を公式に当てはめられ楽だと思うけど、
気持ちは計算じゃなくてただ流れていくものだと思う。
ごめんね、感情は数学みたいに答えがないから余計に難しいね。