唐突に思いついた一話完結型の短編を載せています。不定期連載。
最近は日替わりお題が多め。
続きを読む
閲覧設定
名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
流れ星
お空の上に、一人の天使がおりました。
その天使の背中には、それはそれは美しい羽がございました。
天使が踊った姿は、息を呑むほど優美なものでした。
誰もが見惚れ、羨ましがり、褒め|称《たた》えました。
天使は皆に愛されていました。
天使はいつも笑っていました。
そのたびにその羽は日の光に反射して煌めき、光り輝いておりました。
天使のいるところは、いつだって日の光が暖かく|眩《まばゆ》く照らしていたのです。
その日は、いつもより激しく太陽が照りつけておりました。
天使は、いつものように笑い、踊っておりました。
しかし、その猛烈な日光は天使の美しい羽を焼きつけていきます。
羽は、次第に色|褪《あ》せていきました。
色褪せるごとに、天使は力を失っていきました。
それは、そうでしょう。
———羽は、天使たちの|生命《いのち》の源なのですから。
プス、プス、と音がして、天使は自分の背中を振り向きました。
白い煙が、天使の頬にまとわりつきます。
あの美しかった羽は、煙を出して焦げていくのでした。
ぐらりと体を傾け、天使は倒れそうになりました。
それでも天使は踊り続けます。
青白い腕で、脚で、体で、踊り続けます。
———恐ろしいほどの日光の|下《もと》で、焦げついていく羽を抱えて。
そして、羽は炎を噴いて燃え出しました。
黒い煙が、天使の頬にまとわりつきます。
背中の羽を呑み込んだ炎は、あっという間に天使の体をも呑み込みます。
踊った体勢のまま、天使は|斃《たお》れ伏しました。
炎は天使の羽を焼き尽くし、天使の体を舐め尽くし———
あとには、一粒の光り輝く欠片だけが残されました。
その夜、地の空で、息を呑むほど美しい流れ星が舞ったそうです。
〈後記〉
自分を輝かせていたものに殺されるなんて、皮肉だね。
抱擁
バスに揺られて、うとうとしていた。
隣に座っている彼女の肩にもたれかかって、頭をうずめる。温かい。彼女の髪が頬にかかって、少しくすぐったかった。甘いような、シャンプーの匂いがする。彼女の匂いだ。
バスの中で肩枕は不安定だから、片手でこっそりと彼女の服を握った。
ガタガタ、とバスが十字路を曲がる音と振動を感じた。
ふう、と特別大きい呼吸音が聞こえてくる。
それと同時に、頭を撫でられるような感覚がした。彼女の五指が、自分の髪が揺れるのが、ありありと伝わってくる。
仕方がないねぇ、と呆れ笑いしているのだろう、なんとなく分かった。
カラン、とボタンが点灯する音が聞こえた。
「ほら、そろそろ降りるよ」
彼女が私の頭を|揺《ゆ》り起こした。
「ん……?」
知っている。でも、もう少しだけ。彼女の肩で眠っていたい。もうちょっとだけ、温もりを感じていたい。
ぎゅっと右手を握られた。少し湿っていて、柔らかい手だった。
「ほら、立って」
急かされて、のろのろと席を立った。
「ほんとに、よく寝るねぇ」
バスから降りたあと、彼女はそう笑っていた。
つん、と唇をつぼめて、そっぽを向いてみせる。あはは、と彼女は余計を声を立てて笑っていた。
横目でその笑顔を見る。風に揺られてたなびく前髪。綺麗に形を整えて下がった目尻。細められている瞳。少し紅のさした頬。
花が咲くような、とは このことなのだろう。
バス停から手を繋いで歩いて、駅に着いた。改札に入る。
「じゃあ、ここでバイバイね」
私と彼女は反対方向だから、もうここでお別れだ。
ぎゅっと唇を引き結んで俯く。そのとき、手を引き寄せられた。
その拍子に、思わず彼女に抱きついた。甘いような、シャンプーの匂いがする。彼女の匂いだ。
背中に手を回されて、同じく強く抱きしめられるのが分かった。少し息苦しい。
ドクドクと波打つ拍動を感じる。温かい。泣きそうになるくらい。
彼女の、静かに息する呼吸音が聞こえる。改札前のざわめきが遠ざかっていく。一秒が永遠のように思えた。
そっと髪を撫でられた。バスで寝ていたときみたいだ。
彼女の温もりを感じる。手から、腕から、肩から、背中から。そっと息ついた。
彼女の腕の中にいる。彼女に包まれている。そう思った。
そっと体を離された。たった数秒が、永遠のように感じた。
「またね」
彼女の笑顔に、私は静かに|頷《うなず》いた。
〈後記〉
五感を書くって、難しい。
神の血が流れる少女の苦悩
私は人間と神様の混血だ。
神様も、ただの神様ではなく、恋愛の神様として知られているフレイヤが私の父である。
……うん? フレイヤは女神だって?
まあ、細かいことは気にしてはいけない。
そんな人間と神様の混血である私は、一つの障害というか使命というか、そんなものを背負っている。
それは。
毎日恋愛要素のあるものを摂取しないと、眠ることができないのである!
---
摂取の仕方は、結構なんでもいい。
恋愛漫画や恋愛小説を読むなり、恋愛アニメや恋愛ドラマを見るなり、また二次元に頼らなくてもリアルでイチャイチャしているカップルならぬリア充を傍目で見て堪能するなりすればよい。
ちなみに、恋愛恋愛と連呼しているが、別にBLでもGLでも構わない。
とりあえず、少しでも恋愛要素のあるものを摂取しないと、私は夜に眠ることができなくなってしまう。
どうしてこんな鬼畜としか言いようのないネックを生まれ持ってしまったのだろう。
と、先日、父女神に聞いたところ。
「あなたを私たちがいる世界に連れ戻したいからよ。」
という答えが返ってきた。
ちょっと待て。
それはつまり、私を死なせたいということか?
いや確かに、眠らないと人は死んでしまうけど!
「というわけで、あなたが十五歳になったら迎えに行くわね。」
どういうわけなのかさっぱり分からないが、いやほんとにちょっと待って。
……私、来月に十五歳の誕生日を迎えるんですが!?
---
父女神フレイヤから一方的にそんなことを言われてから、三年が経った。
私は無事成人し、そして今日は大学の入学式の日である。
この三年間、実に様々なことがあった。
チラリと見かけたカップルが、私の視界に入るなり喧嘩を始めてそのまま別れたり、恋愛物の作品を見ればなぜか主人公カップルが破局エンドを迎えたり、挙句の果てにはそれを書いている作者が発狂し、作品が打ち切りになったりさえした。
恋愛要素のれの字もない。とんだ安眠妨害である。
呪いと祝いは紙一重とはよく言ったものだ。巻き込まれた方々が不憫でならない。
そんなこんなで父女神からの嫌がらせ……もといお迎えに耐えつつ入学式を迎えた。いやぁ、長かった。
意気揚々と大学の構内に入って顔を上げると、謎に黒ずくめの男が目に入った。
「……ん?」
髪は黒、服のスーツも黒、立派な革靴も黒色、しかも黒いサングラスもしている、そしておまけには黒いマスクもしていていかにも怪しい。
なるべく視線を合わせないようにしてそそくさと行こうとすると。
「もし、お嬢さん。」
声をかけられた。びくっと肩が震える。
知らない知らないと心の中で呟きながら足早に———。
「お嬢さんですよ、お嬢さん。破局の名人、お嬢さん。」
……ん?
今なんて言った?
破局の、名人?
ぴたっと足を止めた私に、この怪しすぎる男はとんでもないことを抜かしやがった。
「ほら、お嬢さんが見るもの読むもの、ぜーんぶ何故か破局エンドになるじゃないですか」
……なんて?
てか誰だこいつ。
恐る恐る顔を上げると、男は黒いマスクを外してニッコリと微笑んだ。
「私は怪しい者ではありません。———ひとつ提案があるのです。」
いまだに状況の理解が追いついていない私を置き去りにして、男もとい不審者Xは話し続ける。
「どうか、『別れさせ屋』を引き受けてくださいませんか?」
〈後記〉
日替わりお題から作りました。(単語:恋愛要素、安眠妨害、混血)
リクエストがあるか、作者の気まぐれによってはシリーズ化するかもしれません。
うたう、よむ
学校の授業で、詩を作った。
終盤、先生に指名されて一人一人発表することになった。
うちの先生はテキトーなので、その日にちの出席番号の子が当てられる。今日もそうだった。
その子はガタッと席を立って、自作の詩の朗読を始めた。
「ひめさま、ひめさま、おつれください。……」
その瞬間、ぐるんと視界が回る感覚を覚えた。
その子が何か読んでいる。しかし最初のその文以外は聞き取れなかった。
渦を巻く、渦を巻く。視界も、聴覚も、何もかも———。
気がついたら、その授業は終わっていた。
どう終わったのか、覚えていない。
---
まず、朗読した子が休み出した。理由は聞かされなかった。
次に、先生が急遽休職した。同じく理由は聞かされなかった。
そして、朗読した子の周囲の子、仲の良かった子が一人、一人、と休んでいった。
町で見かけることもなかった。
町中で、行方不明の張り紙がなされるようになった。
どこかで、誰かの泣き叫ぶ声がする。
事態は悪化の一途を辿っていった。
一日、一日。
ぽつり、ぽつり、と人が消えていく。
ある日、おつかいに行ったスーパーで、目に隈の濃い主婦を見た。
休んで消えた子の母親だった。
「あの子はどうしているんですか」
母親はゆるく首を振るばかりだった。
「急に、『ひめさま』と言って部屋に閉じこもってしまったの。」
それ以外、彼女は何も言わなかった。
翌日、彼女も消えた。
---
夢を見た。
少女がいた。
長い前髪に隠れて、俯いていて、顔は分からなかった。
美しく煌びやかな着物を着ている。高貴な身分なのだろう。
口元が動いた。
何かを言おうとしている。
何かを話している。
ああ。
あれは。
あれは———
「ひめ、さま」
ふ、とどこかで空気が動いた。
白で塗りつぶされていく。
---
それは、いつの話だったか。
一つの町が合併して消えた。
住民のほとんどが、蒸発して消えたという———。
何かを間違えた。
最近のAIの発達には目を見張るものがある。
一晩寝るだけで何もかも変わってしまっているんじゃないかと思うほどだ。
さて、俺が使っているPCに、こんな機能が追加された。
ユーザーがよく閲覧ジャンルのサイトをAIが分析して、好みそうなサイトをブックマークする、というものだ。
なんの斬新さもない。まるで某超大手動画投稿サイトみたいな機能である。
しかし、俺はこの機能をインストールしてみることにした。
最近のAIがどれくらい正確に俺の好み……というか性癖を把握できるか、興味があったからである。
---
そんなことで、この機能をお迎えしてから、一週間が経った。
気になる結果は───まあ最悪である。
全くもって俺の見たいものに沿っていない。
なぜかいかがわしいサイトばかりを提示してくるのだ。明らかにお子様によくなさそうなサイトだ。
俺はこんなものは見ない。エロいババアなんぞに興味はない。
グロサイトだったこともある。不思議に思って開いてみたら、人の腐乱死体の画像が出てきたのだ。
当然すぐに閉めたが、トラウマになるかと思った。
俺はほっこりふわふわしたやつが好きなんだよ! 腐乱死体なんぞ苦手も嫌いも通り越して恐怖だわ!
とりあえず、絶対に好みではないものばかりを出してくるのだ。
PCの前で腕を組みながら眉を|顰《ひそ》める。
なんなんだこの機能は。
AIはちゃんと仕事をしているのか。触れ込みとはまるで、あべこべではないか。
まあ、ただの興味本位でインストールしたものだからな。
特に利はなさそうだし、さっさとアンインストールするか。
そう思って、ブラウザを閉じようとした。
ん?
バツボタンを押しても、何も反応がない。
何度かクリックして、ようやくカーソルがぐるぐる回り始めた。
ああ、またこれだ。
あべこべなサイトばかり提示してくるだけではない。
この機能をインストールしてから、
───ずっとPCの動作が遅いのだ。
〈後記〉
語り手がインストールした機能はちゃんと《《働いている》》。
ホムンクルス
欧州、某所。
暗黒の森の中に、不気味な要塞があった。
いつ、誰が、どうやって造ったのかはっきりしていない。
木、草、あらゆるものが|茫々《ぼうぼう》と生え、要塞の外壁は朽ち、昼でも薄暗く、そのせいかそこはかとなく異様な雰囲気を放ち、よもや巨大な廃墟と化していた。
いつしか、そこは禁忌の場所として語り継がれるようになった。
---
某日。
そんな要塞の前に、一人の若い男が立っていた。興味本位で来たのである。
なんだ、よくある心霊スポットではないか。何も問題ない、今までもそうだったんだ。
男はそう考えた。何度も、このような場所に足を踏み入れたことがあったのだ。
木、草をかき分け、男は要塞の前に立った。
間近で見ると、なんとまあ朽ち果てた壁なのだろうか。錆びて変色し、まるで腐った食い物のようである。
ぞわり、と背筋が粟立つ。間違いない。ここは《《ホンモノ》》だ。
男は心の臓が高鳴るのを感じた。
外壁、男は扉の前に立つ。押すと、見た目の重々しさに反してさらりと開いた。拍子抜けするほど。
中はさらに薄暗い。ひっそりと日の光が差しているくらいだ。
男は手に持っていたライトをいつでも点灯できるように構えた。
足を踏み入れて入ると、そこは迷路のようであった。
通る道は細く、遊園地の巨大迷路を思い出させた。
入り口から壁伝いに進むと、必ずゴールに辿り着くと聞いたことがあった。迷わぬよう、男は右手で壁に触り、左手でライトに光をつけた。
---
迷路は長く続かなかった。
五分も歩かぬうちに、大きな独房のようなところに出た。ぬらり、と何かがぼんやりと光ってゆらめく。
———あれは、何だ?
電気も通っていないであろうこの廃墟に光るものに、男は好奇心を膨らませた。
背中がひやりと冷たくなり、脈はドラムのように波打つ。
薄い青紫を放ってそこにあったのは、大きな水晶のようなものだった。
どこかの漫画で見た、ファンタジーものに出てくるのが魔導具もこのような形をしていたかもしれない。男はそう感じた。
中は水のような液体で満たされていて、時折泡が立ち|上《のぼ》って水晶の上部に溜まる。
ほう、と男は息を吐いた。左手に持っていたライトを下げた。
ひらり、と一枚の紙が男の隣に舞い、下げたライトに照らされた。まるで、見計らったかのように。
男はそれに気づいた。腰を|屈《かが》め、舞い降りてきた紙を手に取った。
何らかの図のようであった。
見知らぬ言葉、単語、縦に棒線、横に二重線。時折取り消し線、何かの血縁関係でも書き取ったのだろうか。
男は首を傾げた。
ここは要塞、しかしここに住んでいた一族がいたかもしれない。
胸が高鳴った。さもすれば、これはちょっとした大発見である。
じゅじゅ、と焼きつけるような音がした。
男はハッと顔を上げた。
音の先は、あの大きな水晶のようなものだった。
先ほどと打って変わらない、薄い青紫を放ってそこにあった。
しかし、違う。
変わっている。
中央にあるのは、あの《《人のような形をした》》物体は、何なんだ。
---
パキ、と音がした。
ひ、と男が息を呑んで後ずさった。その拍子に男の手から紙が離れ、地面に落ちる。
水晶の上部が音もなく割れ、開いていく。タプン、と中の液体が踊る。
人のような形をした物体———いや、《《ヒト》》が、ゆっくりと水晶の中を動いた。
男の足がもつれた。その場に尻もちをつく。
手が割れた水晶の端を掴んだ。
ゆっくりと、《《それ》》は水晶の中から這い出る。その体は、赤ん坊のようだった。
男は初めて、その顔を見た。
落花生のような頭、異様に間隔の離れている目と目、潰れた鼻、耳まで裂けた口———。
それはゆっくり、ゆっくり、水晶から地面に降りてきた。
きらり、と落ちた紙に稲妻のような光が走る。
それは男のほうに目もくれず、そのまま独房の奥の扉に向かった。
男はこっそりと息を吐いた。
音を立てぬよう注意を払い、男はゆっくり立ち上がった。
赤ん坊のような体には似つかわしくなく、それは奥の扉を押し開けた。
瞬間、目を刺すような光に独房の中は包まれた。男は思わず目を|瞑《つむ》った。
すぐに光は霧散して、男は目を開けた。
───目の前に、|夥《おびただ》しい数の、それ、それ、それ、それ………
---
数世紀前、欧州。
某所で、錬金術師を|生業《なりわい》とする男があった。
ある日、男は用があると言って、家を出奔した。
男は山奥に入った。小屋を建てた。
《《実験をしてみたかったのだ》》。
何度も何度も男は実験を繰り返した。何年も、何十年も……。
そして、ようやく一つ、《《それ》》は出来上がった。
男が小屋に持ち込んだ──薄い青紫を放つ大きな水晶の中に、それは確かに在った。
男は歓喜に浸った。
そして、二つ目のそれ、三つ目のそれ、と作り出していった。時には、それとそれを掛け合わせ、男の手で直接実験することなく それを作り出すこともあった。
累乗で掛けていくがごとく、それらは急激に増えていった。
間もなく男は姿を消した。
残されたのは、大きな水晶と、男が実験の記録を記すのに使った紙、そして———
———ひとつの異様な血縁で結ばれた、|人造人間《ホムンクルス》たちであった。
---
欧州、某所。
暗黒の森の中に、不気味な要塞があった。
いつ、誰が、どうやって造ったのかはっきりしていない。
木、草、あらゆるものが|茫々《ぼうぼう》と生え、要塞の外壁は朽ち、昼でも薄暗く、そのせいかそこはかとなく異様な雰囲気を放ち、よもや巨大な廃墟と化していた。
いつしか、そこは禁忌の場所として語り継がれるようになったという。
かわあそび
針で刺し貫いたような
矮小な点P。
遠隔操作。
脳天に火花が散る。
一直線に走りぬく
白い稲妻の幻覚を見る。
偶然だ。
———それにしては、よくできている。
玻璃の世界で
目覚めると、知らないところにいた。
透明な白。
辺り一面、硝子張り。指一本も動かせず、瞬きひとつもできない。
閉じ込められたようだった。
硝子細工の人形として、自分はただそこにいる。
硝子の外で、喧騒が聞こえる。
ずっと目は開けたままなのに、なぜか目は沁みなかった。
どこかの光に照らされて、目の前の硝子は煌々と反射している。
ふ、と眠気を感じた。
瞼も下がらないのに、ピン、と鮮烈に張っていた意識は溶けていく。
---
目覚めると、外は真っ暗闇だった。
綿に墨汁を垂らし込めたかのような、真っ黒な硝子。
脈拍一つ感じず、横隔膜は動かない。
時が止まったかのようだった。
ドクン、自分を覆っている硝子が波打つ。
一気に漆黒の視界が崩れた。
---
誰かがいた。
硝子の外、自分も、相手も触れられない場所に。
男か、女か。人であること以外何も分からない。
誰、と口を動かそうとした。だが口端少しも動かなかった。
彼が近づいてくる。自分のいる硝子の前で立ち止まった。
唇が動くのが分かった。何か喋っている。でも、ここからでは分からない。
不意に痛みを感じた。
自分を閉じ込めている硝子が体を締め上げてきたんだ。
彼のほうを見た。
泣いている。
何も分からないのに、漆黒に呑まれた影しか見えないのに、それだけは分かった。
苦しくなった。
硝子細工の一部と化した体なのに、ひたすら苦しかった。
どうしたの、何があったの。
ここにいるよ、あなたの目の前にいるよ、見えているの?
硝子の締め上げが止まった。痛みが緩んでいった。
待って、と想う間もなかった。
外にいる彼の姿が崩れ消えていく。
どこかで茜色の線が見えた。
漂う墨汁のなかを掻き分けるように。ゆっくり、ゆっくり、滲んでいく。
視界が溶けていった。
---
目覚めると、辺りは透明な白だった。一面、硝子張り。
最初に目覚めたときと、同じだった。
硝子の外で、喧騒が聞こえる。
ずっと目は開けたままなのに、なぜか目は沁みなかった。
どこかの光に照らされて、目の前の硝子は煌々と反射している。
いつか見た、彼の姿はどこにもない。
低音質な録音のような騒ぎ声、透明な白色の硝子張り。
あらゆる活動を停止した、硝子細工の身体。
何もかも止まった時空に、自分はただ存在している。
〈後記〉
病み小説を書こうとしたら珍妙な小説が出来上がりました。