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目次
又旅浪漫
俺の名前はキヨシ、ネコである。
記憶はまだない
現在は生後12ヶ月くらいだろうか
そう聞くと赤ん坊のようだが
ニンゲン換算すると15から20歳
というところだろう。
そよ風が吹いている。心地良く。
庭先の木々が朝焼けに照らされながら
さらさらと葉を揺らしている
日光は強いが、あのうるさい虫は
もう鳴いていない
半年ほど前、左目を失い流れ着いた先が
この"ヒト"の家だったらしい。
その日以前の事は全く思い出せない。
「ごきげんよう」
庭の地面に寝そべっていると
|煌々《こうこう》とした|菩薩《ぼさつ》のような何かが現れた
こちらに歩いてくる
「誰だ」
尻尾をピンと立てた菩薩は立ち止まる。
「ん、寝ぼけてるの。あなたの顔、
逆光でよく見えないわ。」
ネコは視力が悪いのである。
「その声と薄茶の面積、ヒロシか。」
こいつはメスなのにヒロシと名付けられた
何とも可哀想なメスネコだ。
顔と毛並みはそこそこ良い方だろう。
「掻き回していいかな。私にはミーちゃん
っていうキュートな名前があるんだから」
口は良くないようだ
「俺たち野良なんだから
名前なんていくらでも...それより
朝からどうした。まだ朝だぞ。」
"ヒト"がくれた飯を食った俺は
太陽が完全に昇るまで仕事は休みなのだ。
「あなたこそどうしたの。朝なのにそんな
難しい顔で、固い地面に寝そべって。」
「なんでもないさ。ついでにお前の飯もない。」
「はいはい。ミーちゃん専用のごはん、
もりもり食べに行っちゃうもんね。」
尻尾をピンと立てた菩薩ネコは
登場とは打って変わって
逆光でドス黒く歪んでさえ見える
肛門を見せつけ去って行った。
さっきよりほんの少しだけ、
太陽が地面から離れている。
ネコの会話とは、所詮こんなものである。
又旅浪漫
ニンゲン界も大して変わらず
きっと似たような感じだろう。
|妬み《ねた》、|嫉み《そね》、|僻み《ひが》、
ふとした日常会話の中で
ちらり、じわり、どろり、
他者に掻き立てられた欲望が滲み出る
まあ、ネコである自身がニンゲン界と
比較したところで何の意味も無いが...。
「お魚だよー」
"ヒト"の声だ。
ネコ界と同様ニンゲン界にも様々な
ニンゲンがそれはもう沢山いるのだろうが、
ここにいるニンゲン達は
"ヒト"
と呼ぶようにしている。
細かい事はよく分からないが、
そちらの方が何故かしっくりくるのだ。
「何匹にしようかなあ」
そして恐らくこれはネコ語で
ニボシをあげると言っている。
ネコ界の通貨である"ニボシ"を
無償で提供してやるというのだから驚きだ。
きっと俺の事を雇っているつもりなのだ。
暇な時、鼠取りや害虫駆除くらいなら
この家を守ってやってもいいのかもしれない。
ちなみに俺、というよりネコ界は皆
このニボシを稼ぐ為に日々仕事をこなしている。
ニンゲン界も、きっと似たようなものだろう。
又旅浪漫
朝飯を済ませた俺は
いつものように今日の仕事をこなしていく
お出かけ前のニボシも貰えた
出先の仕入れはこれで済ませるとしよう。
完全に太陽が昇り始め、気温も上がってきた
お昼の町内チャイムまでもう少し時間がある。
まずは太陽の方角にある
大きな山へ向かうことにする。
そこにある崖の洞窟に"仕事の道具"があるのだ。
秋なんて程遠く感じてしまうほど
ニンゲンが作ったドーロは熱く揺らめいていた。
肉球が熱い。ネコは暑がりなのだ。
それに我々の肉球はデリケート、
こんなアチアチでイガイガの地面は
背中を掻く以外に使い道などない。
そんなニンゲンの謎の産物を横目に
上手いこと林や民家の陰を渡り歩く
しばらく歩くと山の麓が見えてくる。
「ひぃ、この熱気は敵わんな。
洞窟の道具は大丈夫だろうか?」
先ほど庭から眺めた時よりも大きいが
歩いてみるとそれほど遠くもない山に着いた。
「一旦木陰で休憩するとしよう」
山に入る前に
|麓《ふもと》にある草むらを鼻で掻き分け進むと
すぐに小綺麗な水源が目に入る。
ここで水分補給と休憩を済ませる
山の水分が喉を通り、腹に到達
体温がすぅっと下がって行くのが分かる。
目の前にはモンシロチョウが飛んでいる
もう子孫は残した後だろうか。
この後はどこに行くのだろうか。
そんな事をぼけっと考えながら
周りの気配に神経を研ぎ澄ませる
特に何の問題も起きていないが
これは入山前の儀式とでもいうべきか、
やっておかなければ後々面倒なのである。
ネコは他の生き物との無駄な遭遇は
どうも避ける傾向にあり、
どのネコも一人が楽だと思っている。
一人、いや一匹か、
いやいやそもそも単位など
ニンゲンが作った物でどちらか
悩んでも仕方のないことだ。
「入るか。」
いつもと変わらない様子を確認し
岩肌の陰にある|獣道《けものみち》から山へ入った。
本当に涼しくなるのか...
去年の記憶がない俺は
比較対象がないにも関わらず
いらぬ心配をしている。
又旅浪漫
"「ネコの侵入を確認。警戒せよ。」"
森はいい。ニンゲンが乗った
|鉄箱《てつばこ》が走り抜けることも無く、
宴のオヤジが酒で騒ぐ事も無い。
"「全員持ち場にて待機、警戒を怠るな」"
|樹冠《じゅかん》からこぼれ落ちた日光は
森の中でも地面の生き物を平等に照らす。
植物が吐き出したばかりの空気は
この上なく、とても澄んでいる。
辺りの緑と茶を存分に眺め、深呼吸した。
"「動いたぞ」"
まあ、うるさい鳥は居るのだが...。
「セミよりうるさいなお前は。」
「セミとは失礼な。
おや、片目のキヨシさん」
「お前達のことは食べない約束だろう
居心地も悪いし誤報だと伝えてくれ」
頭上で騒めく鳥達の視線から
早く解放されたかった俺は
前足でトントン、と地面を指した
「まさかオケラか」
鳥がパタパタと降りてくる。
カサカサと土を掘り起こしている。
「ほら、ちゃんといるだろう」
「凄いぞ...プリプリだ。
ドーロで干からびたやつとは違う。」
鳥は嬉しそうだ。
"「先ほどネコと思われたものは
アナグマで間違いなし。よって問題なし。」"
"「誤報、誤報。誤報で間違いなし。」"
鳥はまたパタパタと羽を動かし
樹冠の切れ目に消えて行った。
いつもの静かな森に戻った。
又旅浪漫
ネコは地面の中が見えずとも
大体どの辺にモグラがいるのか
手に取るように分かるものだが、
あいつら鳥にはそれが出来ないらしい。
多分ニンゲンにも出来ないだろう
いや、分からない。
ニンゲンは凄く頭が良いからである。
以前ヒトに披露してもらったのだが
右手で握ったはずのニボシが
なんと左手から出てくるのである。
あれには驚いた
きっと凄く頭が良くないと
出来ない遊びなのだろう。
頭が良くなれば、ネコにも出来るだろうか。
「今日は早めに着いたな」
セミみたいな鳥の誤報が効いたのか
休憩を挟んだ割に早く到着した。
ここは先ほどの獣道から逸れて
少し進んだところにある
マタタビ畑だ。
又旅浪漫
森の中、樹冠にぽっかり穴が空き、
そこから差し込む日光の形に合わせ
"それ"はワサワサと茂っている。
「こんなに好条件な群生地は珍しい」
そう、このワサワサと茂るマタタビこそ
日々俺がニボシを稼ぐ術となるのだ。
ニンゲン界と同じ"仕事"である。
開花期と同時に葉の先端を白く染め、
花が散る頃今度は可愛らしい実をつける。
気持ち良さそうな日光に照らされ
葉は左右にさらさらとなびき、
果実はぽよんぽよんと上下に揺れている。
今は花こそ咲いていないが
美しい葉と果実はいつ見ても惚れ惚れする。
空気は澄んでいて、明るさも申し分ない
土壌環境も良く春の霜もおりない。
おまけに水も食料もあり
身を隠すのにも持ってこいときた。
こんな空間が、幸福が、
永遠の物にならないかと考えてしまう程だ。
「あっ」
ついつい見惚れてしまい我に返る
今日はこちらの"栽培"が目的ではない。
この群生地を囲うように存在する岩肌の崖、
クジラぐらいの長さはあるだろうか。
丁度クジラの腹のあたりに洞窟がある
それぞれの高さに
いち、に、さん、と飛び出た岩を
ネコの全脚力を使って登って行く。
又旅浪漫
腰を屈め距離を測る
とんっ
一段目でそこそこの高さだ。
更に腰を屈め、尻をふりふりする
ととんっ
2段目となるとネコでも躊躇う高さだ
次は三段目だが、ここはいつも緊張する。
着地と同時に助走をつけなければ
洞窟へは飛び移れないのだ。
普段より入念に肉球を確認し、全身を屈める。
尻を激しくふり
耳は最大限背中の方を向いている
音が消える。
岩を蹴り、宙を舞い、
たたんっ、と乾いた着地の音が耳に入る。
「いける」
確信するとまた音が消え
ざざざっと肉球が地面を捉えた。
又旅浪漫
一体誰が何のために掘った穴なのだろう。
奥は薄暗いが、行き止まりである事が
入り口から見ても分かるほどの奥行きだ。
この洞窟の"地面以外の面"は全て
枝ごと乾燥中のマタタビが刺してある。
完全に乾燥し仕上がったマタタビを
届けるまでが今日の仕事というわけだ。
「いかん、笹袋も在庫が少ないな。」
帰りにリスの道具屋に寄る用事が増えた。
♪〜〜〜♪〜〜〜
馬鹿ほど大きな昼の町内チャイムが鳴る。
全く、ニンゲンの耳は
マダニで埋まってしまっているのでは、と
心配になる大きさなのである。
「昼飯はトカゲで簡単に済ませよう」
樹冠の隙間から覗く太陽はほぼ真上にある
。
又旅浪漫
カサカサ、ペキ、
出口が近づくにつれ日光の明るさが増し
同時に湿度も下がって行くため
辺りの地面は乾燥した音を立てている。
「今日は静かで歩きやすいな。」
ネコ歩きで
前足が踏んだ箇所を後足で踏んで歩く、
を繰り返し俺は獣道の出入口付近にいた。
余計な音やリスクを回避した歩き方だが
意識して歩くと少し疲れる。
リスの道具屋に到着した。
留守じゃなければいいが...。
コイツは森の中でも
気配を消すのが特に上手く、
いつも顔を見るまでは存在を確信出来ない。
「おおい。道具屋のリッサン、いるかい。」
ギイギイイイギイイ
杉の枝や薔薇の|蔓《つる》で防護してある横の
目印である"杉板"を掻き鳴らしてみる。
カサ...カサカサ...
出てきた。こいつが道具屋のリッサンだ。
まあどこの山にでもいる普通のリスである。
だが酷く怯えている。
「そう呼ぶのはキヨシさんしかいないから
出てきましたけど...一体何してるんですか」
「ニンゲンのオッサンからとっているんだ。
悪くないだろう。しかし、
そんなにプルプル震えてお前こそ、」
いかん。
あまりに振動しているもので、危うく
ヒトのように笑ってしまうところだった。
笑い方などよく分からないが、
ほっぺのあたりがワクワクした。
ネコに"笑う"という概念はないのだ。
「え、いや知らないんですか...」
リッサンが続けて言う。
又旅浪漫
「カラスとフクロウの抗争ですよ。
ここ数日の話しなんですが、
麓の廃村にいる野良カラス達と
この森林にいるフクロウ集団が
昼はカラスが、夜はフクロウが、
交互に攻撃をしかけ戦場と化します。」
リッサンは振動している。
そわそわと樹冠を見渡し落ち着きがなく、
客である俺を早く帰らせたいようだ。
「それは恐ろしいな。全然知らんかった。
それより笹袋あるかな。
小ニボシで100回分くらいあればいい。」
早く済ませたそうなのでふっかけてみた。
「ひゃくですか...
そこにある束持って行ってくださいな
もう閉めていいですか。」
リスが振動しながら杉の枝を握る光景が
まだ面白いので更に要求してみる。
「配達まで込みで頼むよ。
獣道のスミレ通りにある岩の...」
「いつもの場所ですね分かりました」
言い切る前に閉められてしまった。
振動しすぎた道具屋は来た時より少しだけ
枝の残骸が増えたように見える。
「小ニボシ一匹で済んで助かるよ。」
面白かったので店の外から礼を言った。
そのうち一枚の笹袋にマタタビを入れ
足早に出口へ向かう事にした。
ここから水源までは近い。
又旅浪漫
小綺麗な水源で水を飲む。
やはり山の水はうまいのである。
入る前は山、入った後は森、不思議である。
一呼吸置き空を見ると、
太陽は見上げるまでもない位置で
激しく日光を照らしている。
セミは鳴いていないとは言え、
もうすぐ果実が実る季節。
日が沈むのも早くなってきただろうか。
先程カラスとフクロウの話を聞いた俺は
手短にトカゲと水を済ませ
足早に草を掻き分ける。
鼻がもぞもぞする。
これからとある建設会社へ向かう。
建設会社とはニンゲンのオッサンが
沢山いる所である。
がちゃがちゃとうるさいが、結構安全だ。
そこにいる白ネコにマタタビを届ける。
「うわっ」
俺はバッタのように飛び上がった。
「ヘビかと思えばキュウリかよ。」
きっと畑のニンゲンが乗る鉄箱から
転げ落ちたやつだろう。
ネコである俺には全く価値が無い物だ。
「急がないと夜は怖いぞ」
キュウリの仕切り直しか
リスの話の恐怖心をなくす為か
はたまた残暑の重い足取りの解消か、
俺は自分用のマタタビをぱくっと齧り
目一杯、鼻呼吸で大きく空気を吸う。
ああ。間違いなく完璧だ。といつも思う。
たまらないのである。
又旅浪漫
俺は走っている。鉄箱よりも速く。
視界は一点集中し、限界まで絞られ
左右の景色は吸い込まれるように流れていく。
「あ、片目のキ」
今のは近所のキジトラだ。
まだ何も知らない若造で
あのような子ネコにマタタビはまだ早い。
とはいっても5ヶ月程、若いだけだが。
自分とお揃い柄の若造は
風のように走り抜ける先輩ネコを
遥か後方できょとん、と眺めている。
太陽はマグロほどの高さにある
日没が近い。
耳は洞窟の時よりも背中の方を向き、
体の重心はシシャモ一匹分下げている。
短い尻尾は真っ直ぐ後方に伸び、
空気抵抗を減らし最高速を維持している。
「見えてきた」
建設会社と、
その手前に大きなドーロが。
夕暮れ時の上空は薄暗くオレンジ色で
カラス達が「来るなら来い。」と言わんばりに
フクロウ達の攻撃に備え一触即発の状態である。
大きな道路に大きな鉄箱が
右から左へ、左から右へ走っている。
口の中に残してあるマタタビを噛み砕き
俺は鼻で大きく息を吸った。
ドーロの幅は獣道十本分
鉄箱はドーロからサバ一匹分浮いている。
回転する黒い輪と輪の間はシャチ程だろう。
いける。このまま突撃だ。
鼻腔にマタタビを充満させ息を止める。
「俺は、ネコ呼んで|零戦《ぜろせん》のキヨシ。」
又旅浪漫
ネコとは、毎日が命懸けなのである。
建設会社に到着した俺は
がちゃがちゃと明日の準備をこなす
ニンゲン達を眺めていた。
この仕事にどれ程の危険が潜んでいるのか
ネコである俺にはよく分かるのだ。
やはり、ネコ界とニンゲン界は似ている。
それにしてもいかん。
先程は高揚しすぎてしまったようだ。
「おうキヨシじゃねえか。」
そう声をかけるヒトはタツオ。
家のヒトとは違うが、
ここにも"ヒト"はいるのだ。
家のヒトほど長くはないかわりに
横幅ががっちりとしている。指までだ。
その指で俺をガシガシと撫でるのだ。
俺はこれが大...嫌いでは無い。
礼に少し甲高く、にゃあと鳴いておくか。
「もう行くんかテメェ」
多分何か冗談めいた暴言を言っているが
なかなかに良い奴なのだ。問題はない。
そうこうしてるうちに呼吸も落ち着き、
先程の鉄箱の出来事に
遅れてひやりとするぐらいには
思考がまとまってきたようだ。
無茶は良くないなと思うものの辞められぬ。
オスネコである以上無茶くらい、とも思う。
毛繕いで身嗜みを整え
白ネコを訪ねるとしよう。
日没に追われているが、これもまた辞められぬ。
ぺろぺろと整えた毛並みに
ほぼ真横からオレンジ色の光が射す。
太陽は地面に着地している。
又旅浪漫
建設会社の横にごちゃごちゃと鉄が置いてあり
じゃりじゃりとして用を足したくなる道を進むと
その先に白ネコの家がある。
流石は建設会社というべきか。
ドラム缶という|鉄筒《てつづつ》をくり抜いた空洞に
断熱材という引っ張り出したくなる綿を
綺麗に詰め込んだもはや立派な家である。
横に倒し四段の山形に重ねてあるのだが
その最上階にひょいっ、と登る。
洞窟の岩に比べれば朝飯前より前である。
トントン、トン
短い尻尾で三度、木製のドアを叩く
この質感、やはり家である。
「どうぞ。キヨシご苦労さん」
木製のドアの一部を鼻で押し
下から上へパカっと持ち上げる。
そこに行儀よくも迫力のある座り方で
鎮座しているのがオスの白ネコ、ギンさんだ。
全身純白の毛に覆われ
長い尻尾の先端は鍵状に折れ曲がっている。
ちょっと怖いが沢山の野良ネコを従え
日々仕事をこなす、|所謂《いわゆる》"デキるネコ"だ。
ちなみに仕事内容は
|紙箱《かみばこ》や布切れを使い格安のネコ家を建設するというもの。
「いつもより遅かったな。
それにまだ心拍数が凄いじゃないか。」
「はい、走り過ぎで死ぬかと思いました」
呆気なく見透かされ正直に返答すると
ギンさんの目が"品物"を見る目に変わった。
「質は問題無しか。今回も良い香りだな。
さっきお前の所のヒトがうちのヒトに
良い香りの物を持って訪ねて来たが、
やはりネコにはこの香りだよな。」
俺の家のヒトも"ニンゲン用のマタタビ"
を栽培している。きっと配達だったのだろう。
ネコは|主人《あるじ》の仕事に近い仕事をする。
何故かは知らないが、そうである。
イエネコ、ソトネコ、ハンネコ、
各自、その時の主人に近い仕事をこなし生きる。
不思議である。
まだマタタビが少し効いている俺が
会話中にも関わらずぽわぽわと
余計な事を考えているとギンさんが言う。
「早く見せてくれないか。」
ギンさんは怖いネコ、すぐに返答だ。
「ああすいません。どうぞ、こちらを」
リッサンお手製の首から下げた"それ"を笹袋ごと渡した。
又旅浪漫
|笹袋《ささぶくろ》というのは言葉通り、笹の葉で作られた袋だ。
複数のマタタビをまとめて持ち運ぶ為に
リッサンに作らせた自信作だ。見栄えも良い。
渡された品物を見たギンさんは言う。
「いつもの包みに、この香りも最高だな。
保存用に助かるんだよこれ。中はどれどれ」
「その袋が一番良いんです。
湿度と酸化から守ってくれます。
それに持ち運びにも優れています。」
俺の話を聞きながらマタタビを取り出すギンさんは
ネコなのにニヤニヤしているように見える。
そういえば何歳なのだろう。|猫又《ねこまた》だろうか。
まさか尻尾の先端が二本に化けて
今から食われるなんて事はないだろうか。
待て待て恐ろしい、
冗談は稀に馬鹿なニンゲンの昔話だけにしてくれ。
いかん、まだ結構マタタビが効いているな。
押し寄せる高揚の波が
意識を明後日の方向へ持って行ってしまう。
「たまらんな、キヨシ」
またハッと我に返る。
いつの間にかギンさんは二粒平らげていた。
三粒目を顎に擦り付け喉をゴロゴロと鳴らし
目は少しとろん、としている。
これはかなりおキマリ大明神である。
|虫癭果《ちゅうえいか》。
通常のマタタビにアブラムシを寄生させ、
果実にコブを付けさせた特上品である。
濃度が高く、脳天まで強烈に突き抜けるはずだが...
「一気に2粒もですか。」
「最初の上がり方が特に良いな。
今回のは一体どのくらい作用するんだ。」
「最初の"上がり方"が落ち着いて以降、
カタツムリが鉄箱に登り切るくらいの間
高揚感が持続し、徐々に落ち着いていきます」
「なんと。完璧...だ...。」
もはや脳天を通り越し、一撃必殺である。
先輩を倒した"気分だけ"味わっておく。
今回も納得のいくモノが作れた。満足だ。
嬉しくて声に出してしまいそうである。
ギンさんは平気な振りをしているが
目は血走り、顔はぽわぽわとしている。
今にもふかふかの断熱材に沈んで行きそうだ。
"ゴゴゴ....ゴゴゴゴオォ..."
最悪である。恐らく外はほぼ真っ暗だ。
距離にすると山三つ分は向こう側だが、
急な雨は毛がごわごわになるので面倒だ。
「夕立だ。護衛の者に送らせようか。
今日はどうもありがとう。」
流石は沢山のネコを従える怖いネコだ。
先ほどのぐでんぐでんが嘘のように姿勢良く座っている。
「いやいやギンさん、護衛なんて、」
「抗争の話は聞いたかな。」
そう言うとサッと立ち上がり
ギンさんの太い声が響き渡る。
「おおいハヅキ、送り頼むわぁ。」
「メスですか。」
「問題ない。過去にカラスを二羽殺している。」
これまた恐ろしい話である。
又旅浪漫
俺はギンさんに
お代は配送料の安い鳥に頼むようにお願いした。
そうすれば獣道のスミレ通りの岩陰に
丁寧に貯蔵してくれるのだ。
ニンゲン界にもネコをモチーフにした配送の会社があるが
それと似たようなものだ。
太陽はすっかり地面に隠れている。
辛うじて薄っすらと、
一箇所だけ紫色に灯る空があるくらいだ。
横には黒ネコのハヅキが歩いている。
確かニンゲンの眼球保護装置にも似たような名の物が...
「あんたキヨシでしょ。
よろしくね、家はこっちでいいかな。」
紫色の箇所以外、辺りは真っ暗だ。
いつフクロウが飛び立ってもおかしくない夜空。
ハヅキは軽い足取りですたすたと歩き
リスのように振動することも無くドーロを進んで行く。
昼と違いひんやりとして肉球が気持ち良い。
「カラスを二羽殺したのは本当かい」
味が気になって仕方がない俺は聞く
ハヅキがにやりと笑っているように見えるが
ギンさん達と仕事をすると
"笑う"が出来るようになるのだろうか。
「あんた面白いね。
ボスにビビらされたんでしょ。
あたしが殺したのは確かに二羽。
でもハトよ。」
「ハトだと。旨くもないだろうあんなもん」
「食べる為に殺したんじゃないわ。」
「なんだ遊びでつい、という感じか。」
黒ネコというのは不思議な魅力がある
メスとなれば尚更なのかも知れない。
月明かりに照らされる黒く美しい毛並みを眺めながら
つい、と言う感じで聞いてしまうのは俺の方だ。
「いいえ、殺意よ。」
毛並みからは想像も出来ない返答だ。
又旅浪漫
ハヅキは淡々と続ける
「黒ネコって、カラスに難癖つけられるじゃない。
いつもの事だし最初は無視してたの。」
「まあ、ネコ界じゃよく見かけるよな。」
「段々腹が立ってきた頃かな
目の前を通るハトまで便乗して
あたしを馬鹿にしたの。黒焦げって。」
「おお、そのハトが死んだ事がよく分かる。」
「でしょう。だからケリケリで腹を裂いて
内臓を全部出してやったのよ。味は下の下。
二羽目は頭を食べてみたわ。こちらも下の下。」
「何と言うか...食欲旺盛でいいと思うよ。」
「あはっ、やっぱあんた面白いよ。」
ハヅキは"笑う"をした。
又旅浪漫
笑うというのはどんな気持ちなのだろう。
笑うとは一体、何なのだろう。
ハヅキを横目に考える。
マタタビは完全に抜けているはずなのに
俺はぽわぽわと纏まらない思考で歩いていた。
杉林の上空ではホーホーとフクロウが鳴いている。
恐怖心や警戒心より笑うについて考えたくなる。
「あんたはどうなのよ」
「どうって、何がだ」
気まずいので何か誤魔化したいが
周りにはドーロと草木しかない。
「何って、殺した事あるのか聞いてるの。生き物を。
その顔じゃ今まで派手にやってきたんでしょう。」
「ああ、無い無い。いやあるか。
でも俺の場合は食料として見てたし
実際全部食べたから殺生ではないよな。」
「案外真面目ね...」
「そうでもない。食べない代わりに、
という契約で色々とやってたりする。」
「へぇ。そういえばあんたの主人って畑の人?」
「まあそんなところだ。」
結局雨は降らず、カラスの悲鳴も聞こえない。
夜になると静けさや涼しさ、
虫の声の少なさに秋を感じる。
月は三日月の形で頼りなく夜道を照らしている。
又旅浪漫
何だかこのハヅキという黒ネコと話すと
調子が狂う感じがする。まあ俺もネコなのだが。
「じゃあ、あんたの主人は
何か野菜作って売ってるんだ。
それであんたはマタタビね。なんかいいね。
いいモノ持ってるってこの辺じゃ有名だし。」
「それはどうも。しかし有名は困るな
ネコは良い物を持ってると狙われる。
特に上、空からな。」
見上げる。空を。
そうだ。気をつけなければならない。
空はとても怖いのである。
空は...
「あんなに良い物を一体どこから
仕入れてるのか気になるけどそれよりも、」
尻尾をくねくねとさせてハヅキが考え込んでいる。
「そんなに沢山ニボシを稼いでどうするの。
リスの道具屋でもアナグマの|干物屋《ひものや》でも、
使いきれない程の沢山のニボシ
もう結構持ってるでしょう。」
「オキナワへ行く。」
急に言い返された言葉に
鈴虫の声だけが聴こえる。
ぽわぽわとしていたら、するりと返答してしまった。
ひと足遅れて夏のいたずらかよ。
「オキナワってキヨシあんた。
ここは灰降る町よ、たまにだけど。
ああ分かったわ、ニンゲンとバカンスね。
なんて羨ましいの、マタタビ吸い込んで
ニボシ片手にビーチで毛繕いってところね。」
あまり喋るつもりは無かったのだが...。
「いや俺だけで行く。|理想郷《りそうきょう》を作るんだ。」
「ああ、怖くなってきたわ。面白い超えて、
あんたの事が怖くなってきたわ。」
もうしばらくすると
俺はここから居なくなるだろう。
それが幸運か不運かなど誰も知らないが
その場を離れ遠くに行かねばならんことくらい
ネコには分かるのだ。
まあ、こいつには幸運と信じて
少しくらい喋ってやってもいいか。
「|特攻平和会館《とっこうへいわかいかん》を知ってるか。」
又旅浪漫
"ネコ呼んで零戦のキヨシ"だなんて別に
他のネコにそう呼ばれたからとかではない。
自分がそうなりたいと、そう|在《あ》れるようにと、
自分で言い始めたというだけのことだ。
|滑稽《こっけい》だろうか。
俺はそうは思わない。
ある日、|九つ葉《ここのつば》の形をした植物を
手入れをしながら"ヒト"が言った。
「俺がこの街のフッドスターだ。」
俺は落雷を食らったかと思うほどに痺れた。
何と言ったのか意味は分からないが
その日から俺はヒトと同じ仕事をしている。
辺りをよく見る。
神経を研ぎ澄ませる。
山に入る。
マタタビの手入れをする。
洞窟で乾燥させる。
懐の深いニンゲンに配達する。
無駄な争いを避ける。
そして二度と同じ下手を打たない。
ネコは馬鹿だ。
馬鹿だが同じ事をこなすうちに
ひとつだけ分かったことがある。
ヒトとは、ネコである。
ネコである自身がヒトに痺れたのだから
ヒトとネコは同じということになる。
それに寝る前はよく食べるし
起きた後は顔や頭を毛繕いして一日が始まる。
違うのは"笑う"くらいだ。
俺も笑う、が分かれば...
又旅浪漫
「特攻平和会館って特攻基地の事よね。
観光地の名前は久しぶりだわ。
あそこの出身だからもちろん知ってるけど...」
「あれに乗って行く。」
"特攻基地"と地元呼びするハヅキは
歩き始めた時のように堂々とした様子は微塵もなく
子鹿のようにあわあわとしている。
リスみたい。
...これは面白い。ヒトに話せたら笑うだろうか。
良いメスである。
ぽてぽてと歩きながら話していた俺達は
今や完全に立ち止まっていた。
あわあわのハヅキは色々と聞きたそうだ。
「いやいや、乗って行くって、動くのあれ。
修繕も操縦も一体誰がするっていうのよ。」
「修繕はニボシを全部出せば問題無いだろう。
操縦というのは何だ。そちらの方が一体何だ。」
「ニボシは後からツッコむとして
操縦っていうのは、そうね鉄箱。
あれに乗る"ニンゲン"が必要よ。」
「"ヒト"か。それなら心配ない、家のヒトがいる。」
「あとはニボシね...
ニボシではあの飛行物体を直すことは」
「それも心配ない。修繕も操縦も、ヒトの手を借りる。
ヒトとネコは"同じ"なのさ。」
鈴虫の大合唱が秋を感じさせる。
「面白い超えて、怖い超えて、
やっぱあんたって面白いね。」
"それはハヅキも同じだろう。"
これはツッコみ、というのだろう。
又旅浪漫
「ここまででいいよ。」
俺が地面を目で指すと、横には排水溝がある。
緊急用であるが、雨が降らない今
家まで安全に一直線で帰れる隠し通路だ。
「今のあんたの顔最高。
今夜みたいな三日月の空に
そんな左目で|魅《み》せられたらやられちゃうわ。
まるで "同じ" カタチね。
...|浪漫《ろまん》があって最高よ。」
「|浪漫《ろまん》か。何か良いな。
それをいうなら
葉っぱの"は"と
三日月の"づき"も
浪漫があって最高だ。」
「あんた爪は無いくせに一撃必殺ね。」
ニンゲン風冗談だろうか。良く分からない。
「俺の手足があとホタテほど長ければ
"|花《はな》ネコ"として俺の横を歩いて欲しかったな。」
これはニンゲン風の冗談だ。
「結構な長さじゃない気持ち悪い。」
ハヅキはふふっ、と笑った。
嬉しいな。
が、すぐに言い返されてしまう。
「あんた手足も尻尾も短いから心配だわ。」
「尻尾は関係ないだろう。
掻いてやりたいがカラスを殺したメスだった。危ない。」
「あはっ、ハトよ。お味は要注意ね。」
「ははっ、俺にはギュウがお似合いさ。
特上だ。」
記憶のある中で、過去一番の夜。
俺は笑った。
又旅浪漫
俺は走っている。鉄箱よりも早く。
水面を紙一重で舞う|零戦《ぜろせん》よりも低く。
ネコのくせして甘酸っぱいひと夏を感じてしまった俺は
鼻腔にマタタビを充満させ、走っている。
ネコは甘味を感じないのだ。
いつか理想郷が作れたら、
そこでハヅキのような黒ネコに出会いたい。
そんな事を考えていると
クジラ三頭分ほど先に排水溝へ月明かりが射す。
出口が近い。
俺は急上昇の体勢に入る。
敵機を発見した零戦の如く。
急停止で明かりが射す穴に狙いを定める。
「今だ。」
どこにでもある排水溝の穴から
片目キヨシの参上である。恐れ慄け。
...格好付けてしまった。おやおや。
「タツオの鉄箱じゃないか。」
庭にはタツオの鉄箱が停まっていた。
それに外まで良い匂いがするのである。
「今夜はヒトもマタタビ|懇親会《こんしんかい》というわけか。」
まったく、まさに最高の夜である。
家の中からはタツオとヒトの笑い声が聞こえる。
俺もお邪魔するとしよう。
「あ、キヨシ帰って来ましたよケーさん。」
そうそう、ヒトはケーさんと言う名だった。
ここには沢山のヒトが来る。
タツオ、ナリオ、リキオ、マサオ、
様々なニンゲンと暮らしているのだろうか。
自分の名が三文字なものだから
ついニンゲンも三文字で覚えてしまった。
あ、珍しいがたまにメスのニンゲンもいる。
名は忘れたが、
ちゅーるという体に悪そうな菓子をくれる。
ニンゲン界で言えばきっと
赤と黄色のパン屋のようなものだ。
隣町にある。
まあそれが旨いので、名など覚えていない。
部屋の中には大きなテーブルが一つ。
それを囲うように椅子が数個ある。
その空間には町内チャイムとは違い、
決して激しすぎない音楽と
シャキシャキと心地よいハサミの音が響いている。
「はい、タツオ。これいっちゃえよ。」
「いやいや無理無理、無理ですよ。」
「はあん。もうおキマリ大明神かよ。」
楽しい夜はまだまだこれからのようだ。
又旅浪漫
ケーさんは
透き通るガラス細工の中で水と煙を踊らせている。
美しい透明の"それ"はたちまち真っ白になった。
一方タツオは
シャキシャキと小気味良い音を立て
|襖《ふすま》の障子よりも薄い紙で|九つ葉《ここのつば》を棒状に仕上げる。
楽しくも静寂に包まれるこの一瞬が好きだ。
言葉は無い。
ガラスと水はポコポコと音を立て、
紙と火種はチリチリと音を立てる。
マタタビのように呼吸を止めるヒト二人。
言葉はない。
お互いが天井に向かって|紫煙《しえん》を吐き出した。
畳二十枚程の空間に
爆煙とも言える巨大なキノコ曇が二つ出現し、
辺りは瞬く間に白く霧懸かる。
町内チャイムとは違う音に、
山の恐怖とも違う濃霧に、
ネコである俺はただ、酔いしれていた。
二人のヒトが息を吐き切り、
いつもの如く毛玉を吐きたそうに咽せると
これまたマタタビのように
「ああ」と何かを感じている。
大体はこの辺から会話が始まるので
いつも俺は耳をピンとしてヒトを楽しむ事としている。
「そういえば、ブランド名は決まったんですか。」
タツオが口を開いた。おキマリ大明神である。
又旅浪漫
部屋の中央のテーブル上に"それ"は鎮座している。
ギンさんのように。
墓のバケツより何倍も大きなその容器には、
山と同じ匂いの土が一杯に入っている。
不思議なのはそこに植えられた植物だ。
丸い容器の中央から茎が始まったかと思えば
横に倒され、地を這うように渦を巻いている。
渦はだんだんと外側へ向かっていき、
何周もしたのち、容器の外周に杭のような物で固定されている。
茎は一番太い箇所でニンジン以上はあるだろうか。
何より美しいのは
茎の渦の始まりから終わりまでの間にある、
空に向かって一斉に咲き誇る緑色の|蕾《つぼみ》だ。
マタタビとは違うが、似た"何か"がある。
「もう名前は決めてある。
これしか無い。っていう、バッチリの。」
ケーさんは悪そうな顔をしている。
「これだけ香りとトビがいい品種だと...
名前ひとつ決めるのも、悩みますねぇ。
それで一体どんな名前を...」
タツオの目は修羅の如く真っ赤だが
顔の表情は仏のような優しさに溢れている。
俺は全足をびろん、と伸ばし
完全なリラックス状態であるが、
耳をピンと張りヒトの会話を聞いている。
「俺はこの品種交配に成功した時、
爆弾を作ってしまったと思ったんだ。
"南から叫びの爆弾"を、と言う意味で
"サウスクリームボム"と一旦は名付けたのさ。」
「いいですね。サウスとスクリーム。
サウスクリーム。語呂が良いです。
でも一旦、と言うのは...。」
大明神のタツオは溢れ出る高揚を
抑えながら話しているように見える。
まるで俺とギンさんの会話のようだ。
「だがすぐに違うと感じた。
こいつは単純な爆弾なんかではなく、
"自ら爆発する為に生き切る者"
だと思い直したんだ。」
「え、自爆ですか。」
ケーさんは続ける。
「零戦のようにな。」
又旅浪漫
「この植物は長い時間、どのくらいだろうな。
地を這うように息を潜めるんだ。
この一瞬の開花の為だけに、とても長い間。」
蕾はトウモロコシのように上を向いている。
「|播種《はしゅ》から開花、収穫まで、
短いようで長いですよね。
こちらは|身体《からだ》を|懸《か》けてる訳ですから。
それに乾燥の過程まで含めるとなれば尚更。」
「そう、それ。
あの搭乗員もきっと同じ事を思っていたはずさ。
その時が来るまでは海面を紙一重で舞い、
覚悟を決めれば天空まで一気に急上昇だ。
その先が"終わり"だと分かっていてもな。」
「こいつも同じだっていうんですか。
それで名前は」
タツオはすぱすぱと煙を吸い込み
また息を止めている。
「たとえその先が終わりでも、
儚い一瞬の為に覚悟して咲き誇るこいつの名は
ゼロファイターだ。」
「ごはぁっ、かっけぇ。ゴホゴボッ」
タツオが毛玉している。
毛ではなく煙しか出てこないが。
「それにあの戦闘機に積んである物が
一トンの爆薬では無くて、
もし、サウスクリームボムだったら...
"戦わずして勝つ"が出来たんじゃないか...
なんて願いも込めてだな。願掛けかな。」
「すいません、咽せてすぎて死ぬかと...
しかしカッコいいと思います。最高です。
今回もすぐ捌けるんじゃないですか。」
ケーさんは粗々しく刻んだ蕾をガラスに詰めながら話す。
「いや、今回は乾燥までじっくり力を入れて
蕾本体を硬質化させた特上品を一気に捌く。」
シャッ。シャッ。と
石製の着火音に続きケーさんは言う。
「引退を賭けた一発勝負さ。」
ネコにもヒトにも心地良いこの空間に
水と、ガラスと、煙が
仲良く弾け踊る音が鳴り続いた。
カチャン。
シャッ。
ぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこ
又旅浪漫
チチチ... チチ...
距離にすると近いが遠くのような気もする。
それになんだこのざらざらは。ちょっと良い。
布のひらひらから日が射し込み
丁度俺の左目を照らしている。
左目はほぼ死んでいるので、眩しくは無い。
外ではスズメが鳴いている。
食欲をそそるだけそそって
ちょろちょろと消えていくうるさい奴等だ。
珍しくヒトの紙箱、
いやヒトの家の中で寝てしまった俺は
荒く打ち込まれた木製の床で起床した。
様々な木が混ぜ込まれたような板で、
まるで森の中の落ち葉模様みたいだ。
「確か昨日は...」
マタタビと九つ葉の酔いがまだ残っているが
水を飲んで日光にあたれば問題ないだろう。
キヨシ用、
いや俺用に少しだけ開けてある全ての扉を通り
するすると出口まで歩いていく。
もちろんこの"ゲンカン"という出入口も
俺用に少しだけ開けてあるのだ。
まったく、気の利くヒトである。
「あっ」
ゲンカンの外に出た俺は少し絶望した。
「水が空っぽだ」
屋根付きで置いてあるお食事ゾーンの皿が
なんとどちらも空っぽである。
飯はまだいいが、
水は水源まで行かねばならんので面倒だ。
ヒトは...
まだ寝ているのだろうか。
無理も無い。俺は先に眠ってしまったが
ヒト達はきっと朝方まで煙を|燻《くゆ》らせていたに違いない。
「我等がゼロファイター。
よぉぉぉ、パンッ。
一本締めだからもう一本な。」
などと言って同じくだりを繰り返していたからである。
眠っていてもぴくぴくと耳が反応してしまう。
ああ、しかし昨晩は
ネコ界もニンゲン界も楽しかった。
毎日がこうであればいいのにと思うものだ。
両方を楽しんでおきながら、贅沢だろうか。
いや、毎日がこうである為に、日々...
「んああ、キヨシ、おはようさん。あっ、」
助かった。
ヒトは寝起きで線のように細い目で
俺に挨拶をすると、皿に水を入れに行った。
きっと飯も持って戻って来るだろう。
甲高く鳴いておこう。
「しかし昨日は賢い話を聞けたな。
やはりネコとニンゲンは比較していて面白い。」
飯を食ったら今日も山へ向かうとしよう。
太陽はサンマほどの位置で
優しく|残緑《ざんりょく》を照らしている。
又旅浪漫
ふう、昨日の朝飯は何だったかな。
水を飲み、日光にあたっている俺は
ぼけっとどうでもいい事を考えていた。
飯は今準備してもらっている。
ネコとは、こんなものである。
「はい、おまちどお。
昨日帰って来るの遅かったからな。」
「なっ...これは」
俺は驚愕した。
いくら俺を雇っているつもりとは言え、
朝からこれはやり過ぎと言えるだろう。
ギュウである。
恐らくだが、
胡麻の油のような物を馴染ませてあるそれは
全ネコが口から手が出る程に食欲をそそるのである。
下にはカリカリが忍ばせてあるのだが、
そんなことよりもこのトッピングだ。
何とも品のあるカツオの削り節ではないか。
パン屋とは逆方向の隣町に
魚が盛んな集落があると聞いたことがある。
そこの削り節に違いない。
粋だ。
信じられん程に粋なニンゲンだ。
今日も俺は敬意を示し、"ヒト"と呼ぶ。
感謝を伝えておくとしよう。
あと害獣駆除の旨も。
「ニャアじゃねぇよ。落ち着いて食えよ。」
これはニンゲン風、ではなく
ニンゲンの暴言風冗談であろう。
俺はヒトのように、
"いただきます"と言っておくことにした。
「ニャアじゃねぇよ。」
ヒトはわしわしと俺を撫でた。
又旅浪漫
「緊急緊急。片目宛に緊急。」
「略すなよ。片目のキヨシだ。」
忙しそうにパタパタと飛んできたのは
伝言用のハトである。
ハヅキに殺された緑っぽく気持ち悪いハトではなく
真っ白で質の良さそうな伝言用ハトである。
朝飯のギュウを堪能して
優雅に朝日を浴びているところだというのに。
一体何だ。
「建設のギンさんから、ギンさんから。
今日中に三十粒。今日中に三十粒。
場所は...確か|麓《ふもと》。確か麓。」
頭の質は良くないようだ。
「確かってなんだよ。まあ行くけど。
時は太陽がクジラ程の時に。と返答頼む。
あ、あと俺から別件で配送を頼みたい。」
「配送ですか。大型ですか。小型ですか。」
「小型だな。スミレ通りにある笹袋を
絶壁の洞窟に保管しておいて欲しい。」
そう言うと俺は小ニボシ三つを取り出した。
「了解了解。お代を...おっと片目さん。」
「キヨシさんだ。」
「木の実で無いのなら割高ですが...
4ニボシ頂きます。4ニボシ頂きます。」
リスのようにはいかないか。
「分かったよ。あと復唱するな。うるさい。」
追加で1ニボシ渡すと
脳の小さいハトは空に消えて行った。
昨日ヒトが"引退"と言っていたが、
俺も引退したらあのハト食ってやろうかな。
そんな事を考えながらまた地面に寝そべった。
朝飯がもう少し腹の方に下がったら、
そうしたら山へ行くとしよう。
日は完全に昇り始めているが、
日光の割にそよ風は心地よく、
ネコジャラシも嬉しそうに揺れている。
「秋かぁ」
俺はもう一度、ゆっくりと右目を瞑った。
又旅浪漫
俺は歩いている。
婆さんのガラガラよりも速く。
二度寝というのは気持ちが良いものである。
多少鳥がうるさかろうが
優雅なさえずりに聞こえてしまう程にだ。
まだ肉球には過酷な、そこそこ熱いドーロを避けて歩いている。
後方では婆さんがガラガラを押している。
あの中には一体何が入っているのか...
ニンゲン界でも解明されていない、
多くの謎が残るガラガラだそうだ。
ネコ界では縁起の良い物として語られる。
ガラガラの周りではイヌも、ネコも、
見たこと無いが多分サルも、
どんな生き物であっても争わない。
これはギンさん周辺の空気と少し似ている。
婆さんはきっと
"引退"が近いニンゲンなのだろう。
皆、余計な波風を立てぬよう
配慮しているように見える。どの生き物も。
草木や山、空や風でさえも。
そんな安全地帯があるのなら、
ずっとそこに居ればいいじゃないか、
と思うのも無理は無いが...
ずっと居る馬鹿など存在しない。
居るとすればそれは...
向上心を忘れたイエネコくらいだろう。
動物は皆、やるべき事があり向かうべき場所があるのだ。
"ヒト達"と同じように。
足を止めて後ろを振り返ると
婆さんは畑の土手に腰を下ろしている。
俺は再び前を向き、
安全地帯である婆さんを離れた。
又旅浪漫
ニンゲンの事を考えているうちに
俺の目の前にはマタタビ畑が広がっていた。
森の中はいつもと変わらず、緑と茶で満たされている。
その中でもマタタビの白は一際目立って見える。
今日は鳥の援護も無しに
一言も喋らずにここまで辿り着いた。
ここは安全地帯とは違い何があるか分からない。
時に戦慄的で、時に平穏的だったりする。
にも関わらず
やはり俺はここが好きなのだ。
「うわぁ、一気に実ってる。」
マタタビに目をやると昨日の倍は果実が実っている。
これは肥料を急がねばならん。
肥料が遅れれば"小物が大漁"という
メダカのように価値のない物になってしまう。
それではいかん。絶対にだ。
ヒトがひたむきに九つ葉と接するように
俺もそうで無くてはならん。
まずはミミズの糞集めから始める事としよう。
用を足す要領で地面を掘れば集められる。
ニンゲンが使うチリトリのような物は
笹袋でも代用可能だが...
鳥に配送を頼んでおいたので洞窟に目をやると
入り口付近には何も置いていないように見える。
「ん、無いぞ。ギンさんのお代も。何でだ。」
リスの笹袋とギンさんのお代。
両方スミレ通りの岩陰に置いてあったはず。
しばらく思考を回転させ目線を落とすと
洞窟の真下に笹袋とニボシがあるではないか。
「また配送ミスかよ。」
ニンゲン界のクロネコ配送会社でも
稀に起こる珍事らしい。
又旅浪漫
と言うのも、以前ヒトが
「びしょ濡れじゃねぇか。」と
配送会社に憤怒していたからである。
とにかく雨ではなくて良かった、
危うくニボシが駄目になるところだった。
一瞬、泥棒ネズミか空賊トンビの仕業かと思い
全身に変な汗をかいてしまった。
いや、全身と言うのは嘘である。
ネコは舌と肉球でしか発汗しないのである。
丁寧に舐めておこう。
森の静けさや空気の流れ、
日の差し込み具合などから見て
いかにも秋がやってくるといった感じ。
心地良く、自然と毛並みも整うものだ。
秋の訪れる安堵からか、
空賊への勘繰りを仕切り直す為か
はたまた容赦無く訪れる冬への不安の解消か
俺はマタタビを噛み砕き大きく息を吸った。
「ああ」
ニンゲンの言葉を借りるなら
"たまらにゃい"と言うのだろう。
さぁ、農作業のはじまりだ。
又旅浪漫
俺もヒトも、研ぎ澄ますべき志しがある。
そして、向かうべき場所がある。
イエネコ、ソトネコ、ハンネコ、ノラネコ、
どのネコが見ても「贅沢だ」と唸る程の量を
豪快に吸い込んだ俺は音速で農作業をこなしている。
マタタビというのは不思議な植物で
急ぎたい時に噛み砕けば急げるし
休みたい時に嗜めばゆったり出来るのだ。
今は前者というわけだ。
笹袋を爪で"チリトリ"のように改良し、
音速でミミズの糞を集めている。
用を足すより簡単かもしれない。
みるみるうちに溜まっていくそれは
森の牛糞とも言える程に栄養を含んでいる。
溜まれば撒く。マタタビ畑に。
ネズミを殺す要領で、
笹袋を咥えて首を振れば完璧だ。
鮮血のように満遍なく糞が撒ける。
何回繰り返しただろう。
辺りの地面は爪で掻き集めた跡だらけで、
他の動物から見てもここに"何かいる"ことが明らかだ。
もちろんリスクは承知の上だ。
家のヒトと同じように。
俺も今更、ここから移動する事はできない。
決められた場所で咲く以外に道は無いのだ。
いや、そこで咲く事に意味がある
と、信じているのかもしれない。
太陽はクジラ程の位置で
清々しくマタタビを照らしている。
又旅浪漫
昼の町内チャイムからどのくらい経っただろう。
「おい片目、アホアホ。」
清々しい森の樹冠から声がした。
真っ黒のこいつはハヅキ、ではなく
廃村の野良カラスである。
夜に備えフクロウ集団を偵察中だろうか。
「なんだよ、ここに肉は無いぞ。」
「滑稽滑稽、アホアホ。
地面掘り掘り、アホアホ。」
カラスは馬鹿にしている。
とは言っても陸生動物の全てを、だが。
「そんなに喧嘩を売っても追いかけないし、
その末お前らに食われるつもりも無いぞ。」
「滑稽でも味はそれなり。
アホアホでもウマウマ。アホアホ。」
カラスはニンゲンの真似をしている。
「この粘着質な煽り生態は腹が立つな...」
ハヅキの殺意を思い出す。
ハトでも通りかかれば、
俺も腹いせに内臓を掻き出してやるのに。
「俺はハトの内臓とドクダミを主食としている。
そんなに煽って調理したつもりでも、
とても食えたもんじゃ無いと思うが。」
ハヅキの話と俺の知識を織り交ぜたハッタリだ。
「くっさぁ。変なネコ。シッシッ。」
馬鹿で教養のないカラスはニンゲンを真似て
バサバサと樹冠の隙間へ消えて行った。
俺の方が賢い。
無駄な争いは同じ力量でしか起こらない。
気付けばちらほらとひぐらしが鳴き始めている。
黒焦げのカラスに気を取られ遅くなってしまった。
又旅浪漫
「約束は確か夕刻でクジラ程の時だったか。」
俺は獣道の出入り口付近にいた。
喉がカラカラだがここから水源は近い。
水源が近いと言う事は
約束の場所である麓も近いという事になる。
首から下げた笹袋にはマタタビ三十三粒が入っている。
注文は三十だが、あとの三粒は賄賂のような物だ。
俺がギンさんの建設会社を出入りすると
従業員であるネコ達と顔見知りになるので
他所でノラネコと遭遇する事があっても
「ああ、あの。」と、融通が利いたりするのだ。
「べくしょいっ」
ニンゲンっぽいくしゃみをしてしまった。
森の出口が近く、環境の変化に鼻腔が反応した。
まあとにかく、
俺はこの融通を無償で受けることに少し抵抗があるのか、
"自分の力で|罷《まか》り通る融通"であって欲しいのだ。
そうある為に、自ら三十三粒持って行くのだ。
森を出た。ちゃぴちゃぴと水源で喉を潤す。
「うまい。」
マタタビの食欲増進効果だろうか、
ただの水がとてつもなく旨いのである。
「約束の者です。」
「うわびっくりしたなんだよお前本当におい」
俺はヘビかと思えばキュウリだった時より
ずっと高く、バッタのように飛び上がった。
恥ずかしい。目の前にはサバトラのネコ。
俺をゴシゴシと洗ったような見た目のネコだ。
「なんだよ。水しかないぞ。」
貴重な"物"を持っている事を誤魔化したいが、
水源しかないのでそう言った。少し意味不明である。
「いえ、だから約束の者です。
この水源のすぐ向こうまで来てたのですが
なかなか来ないなと待っていると、
ちゃぴちゃぴと聞こえたのでそれで...」
「ああ、なんだギンさんの。」
「はい。」
サバトラのネコは行儀が良さそうだ。
普通はネコがこんなにも情けなく驚けば
多少はおちょくったりしたくなるものだが。
「びっくりするだろ。
約束は麓で、ここは水源だ。
とにかく戻ろう。雨が降るとこの水源は
イノシシでも渡れなくなってしまうからな。」
「あっ、はい。」
サバトラは元気が無い。
尻尾はピンとしているので体調不良や
何かに怯えていると言うわけでは無さそうだ。
ギンさんのところの使いだ。
渡り切ったら話ぐらいは聞いてやろう。
少し遅れて到着した詫びのような意味で。
太陽はクジラよりも少し低い位置にある。
又旅浪漫
俺達は鼻で草を掻き分けて進む。
ネコ二匹が連なり雑に地面を踏むと、
そこはもう立派な獣道になってしまう。
次からはもうここは通れない。
しばらく鼻のもぞもぞを我慢すると開けた土地に出る。
水源にいるよりも鉄箱の走り去る音が近く、
草木は生えているが砂利っぽさもある。
「ここが麓だ。分かるか。」
「はい。」
何の思考もない者に仕事を乱された俺は
無駄な獣道を作られてしまった事もあり
少し苛立ちを隠せずにいた。
「こういう"取引"には普通依頼したやつが来るだろう。
何故白ネコのギンさんではなくサバトラのお前なんだ。」
ちなみにややこしいが色調だけで言えば
サバトラの方が見た目はギンっぽい。
「すいません。まず伝言と異なる旨を...」
年上に見えるが
気まずそうにサバトラは続ける。
「ギンさんが安い鳥に伝言を頼みました。
理由はこの時期、夜は外気が心地よく、
ネコ家の建設が減るからです。
経費削減で伝言料をケチったのでしょう。」
「ああ、それで質の悪いあの鳥が」
「はい。
次に依頼者ではなく私が来た理由ですが」
サバトラはオスのくせに"私"という。
爺さんネコとまでは行かずとも、
そこそこ歳のいったネコである事が伺える。
「ボスのギンさんは建設が減り、
毎日マタタビ三昧で酷く荒れています。
昨夜も従業員の皆にマタタビを大盤振る舞いしたのですが
今朝から酷い二日酔いの状態で...」
「うわ、それは酷いな。
マタタビは精神状態に大きく左右される。
そんな状態で摂取をやめなければ
自暴自棄一直線なのは明確だが。ぷぷ」
目の前にいるのが先輩ではなく
先輩の名前っぽい柄のネコなので
調子に乗っておく。ニンゲン風に。
サバトラは更に続けるが元気がない。
「毎晩マタタビ懇親会となると、
従業員も二日酔いになるわけで...
今朝、二日酔いに寝ぼけた新ネコ従業員が
マタタビと間違えて...」
「間違えて...どうした。何と間違えたんだ。」
「オオアサを|齧《かじ》ってしまいました。」
「なんと。」
オオアサとな。
又旅浪漫
俺は驚いた。
が、バッタように飛び上がりはしない。
獲物を見つけたトカゲのように、
少々ぴくり、としただけだ。
「オオアサってお前。何で間違えるんだよ。
マタタビがあるならそれでいいだろう。」
「それが...新ネコは
"ニンゲンの建設会社"の従業員と仲が良くて
結構お気に入りだったみたいなんですよ。
だからオオアサも慣れてたみたいで。
しかし齧ったオオアサが建設会社のボスの物でした。」
「いや、途中まで面白かったが、
それはニンゲンの昔話か何かか。」
サバトラは目を大きくして返答する。
「そんなわけないでしょう。
我々のボスであるギンさんは今、
ニンゲンのボスにしばかれ中です。」
「えええ、何でギンさんが。
今日ここにお前が来た事は良く分かったが、
そんなもん、粗相でオオアサを齧ったネコを
ニンゲンに突き出せば済む話しじゃないか。」
「それが...」
サバトラはまだ気まずそうだ。
「粗相したのは惚れたメスネコなんです。
私が惚れた...黒くて美しい毛並みの...。」
「黒ネコ...名はハヅキか。」
「ああ、確かその名も持っています。
やはりお知り合いでしたか。
とにかくもう毛並みの美しさは」
♪〜〜〜♪♪〜〜〜〜
夕刻の町内チャイムが鳴る。
ああ、神よ。
今すぐこの上空に雨雲を発達させてくれ。
そして巨大な落雷で俺ごと、
辺り一帯を消し去ってくれ。
消えて、無くなりたいのだ、神よ、頼む。
耳が裂けるほど巨大な町内チャイムは
いつもと違い俺の遠退く意識を優しく慰めた。
アホアホと鳴くカラスも、
オイオイと叫ぶ馬鹿イヌも、
今日だけは許そう。そうしよう。
「ああ、夕日も笑ってらぁ。綺麗だ...。」
完全にセンチメンタルになっていた俺を
現実へ引き戻す声が、隣から聞こえた。
「聞いてますか。キヨシさんでしたっけ。
まあまだ話す事も出来てないんですけど。」
「ん、お前今なんて言った」
聞き間違いで無ければ...
きょとん、としてサバトラが言う。
「ですから、一目惚れしただけで
まだ話す事は一度も...と。」
なんだこいつは。腹が立ってきた。
「はぁん。町内チャイムで何も聞こえねぇよ。」
恥ずかしくも腹が立った俺は
ニンゲンのように暴言風冗談を吐いた。
昨日よりもオレンジ色の空、
町内チャイムはとっくに鳴りやんでいた。
太陽はサンマほどの位置で
オス二匹を切なく照らしている。
又旅浪漫
夕暮れが近い。
結局、サバトラに三十二粒のマタタビを渡し
残った一粒をその場で砕き、二匹で楽しんだ。
ハヅキは良いメスだ。
お互いに切磋琢磨し合おう。
と言う具合にまとまり、仲良くなったのだ。
ギンさんには集金の時にでも
しばかれ話を聞くとしよう。
そしてハヅキがお咎め無しで済むように
あのサバトラと上手く根回ししてやろう。
「その為にはオオアサがあると都合が良いな。」
うにゃうにゃと独り言を呟くうちに
辺りはみるみる暗くなっていく。
たまには日の入り前にゆったりしたいなと思っていた俺は
緊急用の排水溝で一直線に帰る事とした。
にょろんっと、しとやかに排水溝へ入る。
「視界良好、問題無し。」
気分はさながら零戦の操縦士。
顔を屈め、尻を振れば出力全開だ。
おっと、耳も最大限後ろの方だった。
マタタビを噛み砕く。
「神風特別攻撃隊。|靖国《やすくに》で会おう。」
俺は後ろ足で排水溝の底を蹴り上げ
目にも止まらぬ音速で走り出した。
又旅浪漫
「敵機発見。これより急上昇。」
鳥が飛び立つ羽音と同時に
片目キヨシの参上である。
ざざっ、と遅れて着地の音が耳に入る。
昨日は格好付け過ぎてしまったが、
今日はなかなかにスマートだったのでは、と思う。
家は目の前だ。
タツオの鉄箱は無い。
まだ明るいしきっと仕事中だ。
客人の鉄箱も無いと
少し離れた所からでも家のゲンカンがよく見える。
まだ早いので外灯は点っていないが、
その下にヒトが座っていた。茶を飲んでいる。
畑の植木と同じ香りのするその液体は
透き通るように鮮明な緑色をしていて、
水面からはゆらゆらと白い湯気が立っている。
マタタビとは違うが、植物の良い薫りだ。
早く帰り着いた俺はただいまの挨拶をした。
「おおキヨシ、めっちゃ枯葉ついてるよ。」
タツオよりも目が真っ赤っかなヒトは
パタパタとやや強めに、しかし繊細に俺を撫でた。
「ああ気持ちが良い。ああたまらん。
腹はやめろ、ああたまらん。」
喉からごろごろと地鳴りが止まらない。
毛繕いもせず働いた毛並みに
ほぼ真横からオレンジ色の灯りが射す。
太陽は地面に着地している。
又旅浪漫
俺はゲンカン先でマタタビの余韻を嗜んでいる。
太陽は爪程の頭を残し殆ど沈んでいるが
まだ空はしっかりとオレンジ色に染まっている。
山のカラスウリのようだなあ、と眺めていたら
それはすっぽりと山に飲み込まれてしまった。
カラスウリと逆方向の空は紫色で、
これまた涼しげなアサガオのようで美しい。
隣にはヒトがいる。
恐らく家の中から引っ張り出してきたであろう
椅子のようなソファーに座り寛いでいる。
いや、寛いでいるというよりも一体化している。
ふかふかの断熱材に沈んでいくギンさんのようだ。
ネコもヒトも、こんなひと時を嗜むのだ。
「ほぁあ。」
そしてあくびで声も出る。
なんとも心地良さそうな呼吸に釣られ
不思議と俺もあくびが出る。
甲高く"ほぁあ"と鳴いておこう。
「ニャアじゃねぇよ。あ、飯かな。」
通じているのかいないのか分からないが
まあ腹は減っていたし、どちらでも良いだろう。
マタタビの作用が残っていると
食欲増進効果で何を食っても美味いのだ。
「俺も飯食ったら出るから。
水も入れとくから警備よろしくな。」
今晩の飯はなんだろう。
又旅浪漫
ヒトというのは見ていて飽きない。
今は台所でカチャカチャと音を立てていて、
小麦と球根の香りが空間に満ち溢れる。
もじゃもじゃの毛のような物を皿に盛ると
アチチと鳴きながら|光板《ひかりいた》の前に座り
"いただきます"と手を合わせた。
まずは自分の飯を済ませてから俺の番だろう。
これもネコ界のルールに似ている。
野良達はいつも、ボス猫が平らげるのを待っている。
俺は畳の部屋で飯を食べるネコのようなヒトを
まだかまだかと部屋の入り口で待っている。
畳はざらざらとして気持ちが良いが、
つい爪を研いでしまうので入ると怒られるのだ。
ああ待ち遠しい。ああ爪を研ぎたい。
バリバリとしたくなってきたが、床はツルツルだ。
そんなこんなでヒトが"ごちそうさんでした"
と呟いたので耳がぴくりと反応する。
ヒトは「まだだ。煙草タイムだ。」と言い
障子よりも薄い紙をカサカサと巻き、
石製の着火音と共に煙を燻らせた。
九つ葉ではない。
この香りは酔うわけでも無いのに
一体何故吸っているのか理解出来ないが
この後飯なので黙って待つ事にした。
「ふぅ。」
ヒトは火種を潰し終え、満足げな表情だ。
そこまで美味いのなら"ごちそうさま"は
今言うべきではないだろうか。分からんが。
「うし、キヨシも飯食うか。」
ヒトは皿を持ち立ち上がると俺に語りかけた。
「食うに決まってるだろ。」
俺は暴言風冗談のように、攻撃的に鳴いた。
「ニャアじゃねぇよ。」
月は三日月よりも細く
今にも消えそうな光を灯している。
又旅浪漫
カランカラン。
パサパサ。
今晩はカリカリの削り節添えだ。
秋の空気が漂う季節にこのサラッとした飯。
粋だ。
早速俺がカリカリを頬張っていると
ヒトは「じゃあ行ってくるから。」と言う。
ゴソゴソと鉄箱の中に"何か"を隠すと
颯爽と操縦しどこかへ消えて行った。
そういえば先ほど出ると言っていたな。
きっと"懐の深いニンゲン"に配達だろう。
それに「警備よろしく」とかなんとか...
「うっ、静かにしろ。
お前ら静かにしろって。」
俺がゲンカン先で飯を平らげると
植木の茂みから複数の声が聞こえた。
辺りは暗くなって暫く経つが、
まだニンゲンの生活音が耳に入るほどで
そこまで静寂というわけではない。
それでもネズミがいる事はモロ分かりである。
「ネコだって。だから静かにしろって。」
なんと滑稽なのだろう。
まだ気付かれてないと思っているが
あまりネコを舐めるなよ。
俺はネズミに聞こえるように
わざと大きな声で、こう喋ってみる。
「そうそう。これを頼まれたのだった。」
一気にマタタビを噛み砕き尻を反り上げる。
視界を絞り爪を立てると狙いを定めた。
薄暗い茂みの内部にちらりと光る複数の目。
見つけた。
「敵機発見。これより撃墜。」
お食事ゾーンの地面である板を蹴り上げ
皿二枚が勢い良く散乱すると、
それは何かの始まりを告げる鐘のように鳴った。
さぁ、狩り...いや、警備の始まりだ。
又旅浪漫
俺は茂みを走っている。
山間を駆けるタカよりも軽く。
「ひ、ひぃっ」
目の前では複数のネズミが逃げ惑う。
ある者は土に潜り、ある者は木によじ登る。
俺はその内一匹を物置小屋の隅に追い詰めていた。
「待て、俺たちが何をしたって言うんだ。」
ネズミは慌てふためいている。
「知ってるぞ。先日電気の線を齧っただろう。
うちの主人が御立腹で、その依頼という訳だ。」
俺は有りそうで無さそうな適当事を言うと
大きくがぶり、とネズミを咥えた。
これは殺生ではない。
「言い残す事はあるかい。」
「やめ、殺さな」
左右に首を振るとネズミから出た鮮血が
温かくねっとりと、植木を滴り落ちる。
二匹目は土に潜ったがチュウチュウと鳴いている。
探すまでもない。
俺は土をひと払いすると尋ねた。
「お前は何か言い残す事あるかい。」
「ひひ、いひひ、|窮鼠《きゅうそ》猫を噛む。いひ」
気が触れてしまったようだ。
何も無さそうなので頭蓋骨にパリッと穴を開け
手短に済ませてやった。
鼻腔のマタタビに混ざり、
口内には脳の風味が充満した。
残るは三匹目だが...
家の下部にある土台のような部分に潜り込んでしまった。
大体どの家にもある。というかそういう作りなのだろう。
ネコ界の|紙箱《かみばこ》も大体同じ作りだ。
そして音の感じ方的には恐らく
室内まで入り込んだように思える。
困った。
普段の家、母屋とは違い
こちらは同じ敷地内にある"離れ屋"だ。
中には九つ葉が茂っている。
又旅浪漫
困った困った。
九つ葉は日が沈んだあと、
ニンゲンが作り出した光を浴びて成長する。
足りない分の日光を補っているのだろう。
そんなヒトが手塩にかけた九つ葉が
この"離れ屋"に保管されている。
俺の洞窟と似たようなものだ。
電気の線を噛んだのが奴らかどうかはさておき
このままでは嘘から出たまことになってしまうではないか。
九つ葉を照らす電気の線でも噛んでみろ、
きっと主人は御立腹に違いない。
ギンさんのように勘違いされて
俺がしばかれてしまうのではないか。
いや、そもそもヒトはこれを懸念して
俺に警備を依頼していたのかもしれん。
むむ、ならば勘違いでしばかれる事もないか...
「どちらにせよまずい事になったな。」
マタタビが効きすぎて思考は明後日の方向だ。
俺は離れ屋のゲンカン前でお座りしている。
イヌではないが。
ゲンカンの取手をがちゃがちゃとしたり
窓ガラスの隙間を探してみたりしたのだが、
どうにもならずお座りしているのだ。
ヒトの手を借りようにもまだ帰ってこないだろう。
ヒトが無人飲料機で水分を出す時の音は
見えないほど離れていても聞こえるのだ。
鉄箱となれば隣町ほど離れていても聞き分けられる。
なので帰ってこない事は明らかだ。
離れ屋の室内では微かにネズミの音が聞こえる。
呼吸を整えている最中だろう。
辺りには多少の冷気と数匹の鈴虫が鳴く。
月はどこにも無く
夜を照らすものも何も無い。
又旅浪漫
ォォオ——— コォォォ———
鉄箱の黒い輪がドーロを蹴り付ける音だ。
クジラ何頭分かでは言い表せないほど遠いが
限界集落まで僅かに聞こえてくるその音は
間違いなくヒトが乗る鉄箱の音である。
俺は神に祈った。
勘違いでしばかれませんように、と。
ネズミというは警戒心が強く
一度ビビると中々姿を現さない。
一旦母屋に戻り、ヒトの到着を待つとしよう。
ああ、皿がぐちゃぐちゃだった。
段々と鉄箱の音が近づき、
颯爽と操縦したヒトが戻ってきた。
おキマリ大明神である。
暗闇でも隠しきれない陽気なオーラで
「おうキヨシただいま」と言うと
次に皿を見て「いやなんしよん」と言った。
俺は「違います」と目を瞑り
申し訳なさそうに鳴いておく事にした。
「ニャアじゃねぇよ... ま、いっか。」
とりあえずしばかれないようだ。
神よどうもありがとう。
ヒトに九つ葉を与えた事への感謝だ。
今度お地蔵にニボシを置いておこう。
いや、あれは仏か。
またまたマタタビで余計な事を考えていると
ヒトは
「俺は手入れがあるから静かにしとけよ」と言い
ニボシ、カニカマ、削り節を皿に入れた。
何とか離れ屋の事情を伝えようと思っていたが
どうやらしばかれるどころか機嫌が良く
おまけに"カリカリ無しのフルコース"と来た。
それを目の前にした俺は
先程の出来事などどうでも良くなったのだ。
ヒトが気配を消し離れ屋のゲンカンを開ける。
静かにカチャリと音を立てるとキィと音がして
カチッ。とゲンカンが閉まった。
室内では「うわボケネズミてめぇ」と
慌ただしくも静かに怒号が飛んでいる。