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目次
第1話:さよなら、愛した傲慢な神様
神界の月は、残酷なほどに美しい銀色をしていた。
王族の神の息子、カルミアの宮殿。その寝室には、甘く気怠い香香と、一人の男の傲慢な吐息が満ちている。
「……シレネ。またそんな顔をしているのか」
月光を浴びて輝く白髪をかき上げ、カルミアが面倒そうに口を開いた。雪のような肌に、整いすぎた顔立ち。彼は「絶世」の名にふさわしい美男子だが、その瞳に宿るのは、婚約者であるシレネへの敬意ではなく、退屈な色だった。
彼の首元には、昨晩まで別の天女と戯れていたであろう紅い痕が、隠しもせずに残っている。
「浮気は神の嗜みだと言っただろう。私の愛を独占しようなど、王族の娘としてあまりに度狭いとは思わないか?」
カルミアは、シレネが自分を愛してやまないことを知っている。どんなに裏切っても、健気に後ろを付いてくる「物言わぬ可愛い人形」だと信じ切っているのだ。
しかし、今日のシレネは違った。
153センチの華奢な体を、パステルピンクの|袍《パオ》に包んだ彼女は、震える手で一つの「小瓶」を握りしめていた。
「……カルミア様。最後に、私のお淹れしたお茶を飲んでくださいますか?」
シレネの声は、風に舞う花びらのように儚い。
カルミアは鼻で笑い、彼女の手にあるカップを奪い取った。
「ふん、健気なことだ。これさえ飲めば、また昨日のように笑うのだな?」
彼は疑いもしなかった。
その茶の中に、神界の禁忌とされる『銀色の薬』――飲ませた相手の記憶を消し去る忘却の毒が混ざっていることなど。
カルミアは喉を鳴らして、一気にそれを飲み干した。
「……っ、なんだ、この味は。銀の味がする……」
カップが床に落ち、高い音を立てて砕け散る。
カルミアの意識が濁り、膝が崩れた。彼は狼狽し、床に這いつくばりながら、初めて自分を見下ろすシレネの瞳を見た。
そこに、かつての熱烈な愛はなかった。
あるのは、凍てつくような淡紅色の静寂。
「シレネ……お前、私に何を……」
「愛を『再定義』するために必要な、空白の時間です」
シレネは跪くカルミアの頬を、そっと、そして冷ややかに撫でた。
「あなたは私を無視し、心を殺し続けた。だから、次はあなたが『私という存在を忘れる』絶望を味わいなさい。次に私を思い出した時、あなたは私の足元に跪くことさえ許されない地獄にいるでしょう」
「待て……行くな、シレネ! 私を……一週間に……っ」
カルミアの言葉は続かなかった。薬の力が彼の脳から「シレネ」という名前と、彼女との愛憎の記憶を強制的に剥ぎ取っていく。
意識を失う寸前、彼が見たのは、窓から飛び立つシレネの背中だった。
彼女は振り返ることなく、生まれ育った実家の王宮へと翼を広げる。
カルミアが次に目覚める時、彼は「シレネを知らない男」になっている。
そしてシレネが戻る時、彼女は「尽くす女」ではなく、彼を支配する「女王」として君臨するのだ。
神界に、静かな夜が訪れる。
これから二ヶ月続く、嵐の前の静けさが始まった。
🔚
第2話:女王の帰還と、最強の指南役
カルミアの宮殿を後にしたシレネが降り立ったのは、神界の統治を司る王族の本宮――彼女の実家である。
深夜の帰還にもかかわらず、門の前には厳格な父神と、慈愛に満ちた母神が、今か今かと娘を待ち構えていた。
「シレネ! よくぞ戻った。あのような不誠実な男の元など、二度と行かなくてよい!」
「ああ、可哀想に。あんなに痩せて……。今日からはこの家で、誰にも邪魔されずに過ごしましょうね」
両親の言葉は温かい。しかし、今のシレネの心には、その温かささえもどこか遠く感じられた。彼女の胸にあるのは、カルミアへの未練を焼き切った後に残った、冷たく鋭い「決意」だけだ。
「お父様、お母様。ご心配をおかけしました。ですが、私はもう、ただ守られるだけの娘ではありません」
淡紅色の瞳に宿る意志の強さに、両親は言葉を失う。かつての天真爛漫なシレネは、裏切りという名の炎に焼かれ、冷徹な美しさを放つ宝石へと鍛え上げられていた。
---
翌日。シレネの元を訪れたのは、神界の貴族であり、カルミアとシレネの幼馴染であるモントブレチア……ではなく、その「妻」であった。
彼女は神界でも有名な、夫を完璧に尻に敷く「最強の女神」だ。
「いい? シレネさん。男を教育するのに一番大事なのは、慈悲ではなく『空白』よ」
豪華な庭園で茶を啜りながら、モントブレチアの妻は不敵に笑う。
「あんな浮気王子、記憶を消したくらいじゃ足りないわ。記憶が戻った瞬間、自分が『何を失っていたのか』を骨の髄まで理解させなきゃ。そのために、この二ヶ月、あなたは徹底的に自分を磨き、彼という存在を頭から追い出しなさい」
シレネは静かに頷いた。
「……はい。あの方が私を探し、狂いそうになるその日まで。私は一歩も、ここから出ません」
「いいわね。それと、これからは変な執着や不適切な発言には『物理』で返すことも覚えなさい。あ、これ、
夫を躾けるための秘伝のリストよ」
差し出された巻物には、『一週間無視のルール』『実家帰省の有効活用』、そして『急所への衝撃による意識改革』といった恐ろしい項目が並んでいた。
---
一方その頃、カルミアの宮殿。
二ヶ月の眠りから覚めたカルミアは、鏡に映る絶世の美男子――自分自身を見て、首を傾げていた。
「……私は、何か忘れているような気がする」
記憶を消された彼は、自分が「シレネ」という婚約者を蔑ろにしていたことも、彼女に薬を飲まされたことも、何一つ覚えていない。
しかし、胸の奥には、正体不明の空虚な穴が開いていた。
「カルミア様、本日も天女たちが夜会のお誘いに……」
「断れ。……なぜか知らんが、今は誰の顔も見たくない」
傲慢な王子は、理由も分からぬまま、以前のような浮気心さえ失っていた。ただ、自分が何を求めているのかも分からず、苛立ちだけが募っていく。
シレネのいない、真っ白な二ヶ月。
この時間が、彼の「独占欲」を無意識下で限界まで肥大させていくことを、今のカルミアはまだ知らない。
そして、運命の夕食会まで――あと一ヶ月。
🔚
第3話:再会の晩餐、決壊する記憶
シレネが実家へ戻ってから、ちょうど二ヶ月。
神界の王族が主催する「平和の夕食会」は、数百人の高位神が集まる絢爛豪華な宴となっていた。
会場に足を踏み入れたカルミアは、どこか不機嫌だった。
記憶を失ってからの二ヶ月、彼は何を見ても心が動かなかった。多くの女神が彼に微笑みかけたが、そのすべてが「砂を噛むように退屈」だったのだ。
「……おいカルミア、そんな辛気臭い面してんなよ。今日は最高の酒が揃ってるぜ」
幼馴染のモントブレチアが呆れたように声をかける。その隣には、彼を完璧に手懐けている「最強の妻」が、意味深な笑みを浮かべて立っていた。
「モントブレチアか。……酒などどうでもいい。それより、なぜか胸が騒ぐんだ。この会場に、何かが足りないような――」
その時、会場の空気が一変した。
大きな扉が開き、王女シレネが入場したのだ。
カルミアの目が釘付けになる。
パステルピンクのドレスを纏った彼女は、以前の「自分を追いかけてくる健気な少女」ではなかった。凛とした背筋、近寄りがたいほどに冷徹で美しい微笑。
「……シレネ?」
カルミアの口から、無意識にその名前が零れた。記憶はないはずなのに、その名前を呼んだ瞬間、心臓が痛いほど脈打つ。
シレネはカルミアの横を通り過ぎようとして――一瞬だけ、足を止めた。
彼女が纏うのは、淡いピンクの花「シレネ」の香り。
その香りが、カルミアの脳内で「引き金」となった。
『――さようなら、愛した傲慢な神様』
シレネの最後の中別の声が、耳の奥で爆音のように響く。
次の瞬間、ダムが決壊するように、失われていた二ヶ月分……いや、数百年にわたる彼女との記憶が、カルミアの脳内に濁流となって流れ込んだ。
自分が彼女をどれほど蔑ろにしていたか。
彼女の愛を「当たり前」だと思い込み、他の女たちと笑っていたこと。
そして、絶望した彼女が、自分に銀色の薬を飲ませた瞬間の、あの凍りつくような瞳。
「あ……が、はっ……!!」
カルミアの手から、最高級のワインが入ったグラスが滑り落ちた。
パリンッ!!
静まり返った会場に、ガラスが砕ける鋭い音が響き渡る。
「カルミア様!?」
「おい、どうしたカルミア!」
周囲の神々が慌てて駆け寄るが、カルミアには何も聞こえない。
彼は真っ青な顔で、小刻みに震えながら、冷ややかな視線を送るシレネを凝視した。
「シレネ……私は、私は……何を……っ」
彼は狂ったようにシレネへ歩み寄り、その手を取ろうとした。
以前の彼なら、強引に抱き寄せて「許せ」と傲慢に命じていただろう。だが、今の彼は違う。記憶と共に戻ってきたのは、「彼女を完全に失ったかもしれない」という、死よりも恐ろしい喪失感だった。
「触れないで」
シレネの声が、会場の喧騒を切り裂くように響いた。
彼女は優雅な仕草でカルミアの手を払いのけ、扇で口元を隠しながら見下ろした。
「ようやく思い出されたのかしら。私を無視し続け、裏切り続けた、滑稽なご自分を」
「違う、シレネ! 私は……! すまない、頼む、一度だけ話を――!」
絶世の美男子が、大衆の前でなりふり構わず縋り付く。その無様な姿に、招待客たちは息を呑んだ。しかし、シレネの瞳に慈悲はない。
「よろしいでしょう。ルールを教えます、カルミア様」
彼女は冷たく言い放った。
「今日から一週間、私に触れることはもちろん、声をかけることも、私の視界に入ることも禁じます。いわゆる、『一週間無視』です」
「な……っ!? 一週間も君に会えないなんて、そんなの死ぬのと変わらない!」
「あら、私が耐えた数百年に比べれば、ほんの一瞬です。……もし一秒でもこのルールを破れば、今度はあなたの記憶だけでなく、私の記憶から『カルミア』という存在そのものを完全に消去します。いいですね?」
シレネは最後に、軽蔑すら混じった美しい微笑を浮かべると、背を向けて歩き出した。
残されたカルミアは、砕けたガラスの上に膝をつき、絶望に顔を歪める。
ここから、彼にとって「死より辛い一週間」という名の、再定義の時間が始まった。
🔚
第4話:地獄の一週間と、忠犬への変貌
神界の一日は長い。ましてや、最愛の、そして自身が傷つけ抜いた婚約者から「無視」を宣告されたカルミアにとって、その時間は永遠に等しかった。
「シレネ……シレネ、どこだ……。頼む、一目でいい。私の名前を呼んでくれ……っ!」
夕食会の翌日。カルミアはシレネの実家、王宮の堅牢な門の前にいた。かつての傲慢な王子としてのプライドは、砕けたワイングラスと共に捨て去った。彼は雨が降ろうと風が吹こうと、ただ門の前で跪き、シレネの影を追い求めた。
だが、ルールは絶対だ。
『視界に入ることも禁じます』
シレネが庭園を散歩する気配がしても、彼は必死で目を伏せなければならない。見れば「永遠の別れ」が待っているからだ。
「おい、カルミア。お前、いつまでそこで土下座してんだ? 見苦しいぞ」
呆れた声をかけたのは、モントブレチアだった。彼はシレネに頼まれ、様子を見に来たのだ。かつて女遊びを共に……正確にはカルミアの不実に呆れていた兄貴分は、今の親友の姿を見て、本気で引いていた。
「モントブレチアか……。シレネは……彼女は、私のことを何か言っていなかったか?」
「ああ、『まだ生きてるなら、そのままそこに置いといて』だってよ。お前、本当に終わったな」
「……っ、そんな冷たい言葉ですら、今の私には救いだ。彼女が私の生死を気にかけてくれた……!」
「お前、脳みそまで『再定義』されちまったのか?」
モントブレチアは、隣に立つ自分の妻――シレネの師匠――と顔を見合わせた。最強の女神である彼女は、満足げに頷いている。
「いいわね。男って、一度底なしの孤独に突き落とされないと、自分がどれだけ恵まれてたか理解できないのよ。ねえ、あなた?」
「……はい、その通りです(震え声)」
---
一週間が経とうとする頃。カルミアの精神状態は限界に達していた。
記憶を失っていた二ヶ月間の自分への怒り、そしてシレネへの狂おしいほどの執着。かつての「浮気心」など、もはや微塵も残っていない。今の彼にとって、世界は「シレネ」と「それ以外(ゴミ)」の二つに分けられていた。
そして、ついに一週間の期限が明ける。
門がゆっくりと開き、淡紅色のドレスを纏ったシレネが姿を現した。一週間、一睡もせず待ち続けたカルミアは、ふらつきながら彼女の足元に縋り付いた。
「シレネ……! ああ、シレネ……会いたかった……! 私が悪かった、何でもする、君の奴隷にでも犬にでもなる! だから、もう無視しないでくれ……っ!」
174cmの長身を折り曲げ、153cmの彼女の靴に額を擦り付ける勢いで泣きつくカルミア。
シレネは無表情に彼を見下ろし、冷たい声をかけた。
「……随分と聞き分けがよくなりましたね、カルミア様。ですが、これはまだ始まりに過ぎません」
「ああ、何でも言ってくれ! 君の命令なら、神界を焼き尽くすことだって――」
「そんな物騒なことは求めていません。……ただ、これからは私の許可なく他の女性と目を合わせないこと。そして、私が『変だ』と思った発言をしたら、相応の罰を受けていただきます。よろしいですね?」
「喜んで……!!」
カルミアの瞳には、以前のような余裕は一切ない。そこにあるのは、シレネという光を失うことを何よりも恐れる、狂信的なまでの純愛。
こうして、二人の「再定義された愛」の生活が、本格的に幕を開けた。
🔚
第5話:鉄壁の忠犬と、容赦なき女王の教育
シレネの宣言した「一週間無視」の刑が明けてから、カルミアの変貌ぶりは神界中の噂の的となっていた。
かつて「夜の帳(とばり)よりも多くの女を侍らせる」と豪語していた傲慢な王子は、今やシレネの影を踏むことさえ恐れるほど、彼女に心酔しきっていたのである。
「シレネ、今日の朝食の紅茶は私が淹れたんだ。……あ、熱すぎたかな? 君の指を火傷させてしまったら、私は自分の両手を切り落としてお詫びしなきゃならない……っ!」
「……。うるさいですから、座りなさい。あと、そんな理由で欠損しないで。片付けが面倒です」
「はいっ! 喜んで座らせていただくよ!」
174cmの長身をこれでもかと小さく丸め、カルミアはシレネの隣に陣取る。かつての彼なら、他の女と食事をしながらシレネを待たせていた。だが今は、彼女の視線が自分から数秒外れるだけで、捨てられた子犬のような顔をして震え出す始末だ。
そんなある日の午後。
二人は、モントブレチア夫妻から招待された茶会へと出向いていた。
「よう、カルミア。……お前、本当にその、なんだ。……元気そうだな」
親友のモントブレチアが、引きつった笑みで迎える。彼の視線の先では、カルミアがシレネの椅子を引くだけでなく、彼女のドレスの裾に埃がついていないか、地面に膝をついて必死に確認していた。
「元気に見えるか、モントブレチア? 私は今、幸せすぎて心臓が破裂しそうなんだ。シレネが私を『見て』くれている。これ以上の栄誉がこの世にあるか?」
「お前、本当に調教……いや、『再定義』されたんだな……」
茶会が進む中、カルミアはシレネに尋ねた。
「ねぇシレネ、今夜は提案があるんだ。……これからは君のそばから片時も離れたくない。どうすれば君のそばにいられるだろう?」
カルミアの瞳は本気だった。かつての「自由」を求めた男は、今やシレネのそばにいることだけを望むようになっていた。
シレネは平然と紅茶を一口啜り、カルミアを見下ろした。
「カルミア様。そんなことを考えていないで、早く立ってください。次は『一週間無視』の追加がよろしいですか?」
その言葉は、どんな魔法よりも効いた。
「っ……!! た、立ちましたっ! 立っておりますシレネ! 痛みなんて、君の無視に比べれば……っ、最高の愛の刺激です……っ!」
ガタガタと震える足で無理やり立ち上がり、涙目で微笑むカルミア。
その姿に、モントブレチアは確信した。
(……この男、もう一生、シレネの足元から逃げられねぇわ)
神界の月光の下、再定義された愛は、いよいよ逃げ場のない「溺愛神話」へと突入していく
🔚
第6話:鉄壁の拒絶と、歪んだ忠誠心
シレネとカルミアが共に過ごすようになって数週間。神界の社交場では、一つの「賭け」が行われていた。
『あの稀代の浮気者、カルミア王子がいつ元の性分に戻るか』というものだ。
そんなある日、シレネとカルミアは神界の庭園で行われた大規模な園遊会に出席していた。カルミアは相変わらずシレネの傍を片時も離れず、まるで忠実な従者のようだった。
「シレネ、喉は渇いていないかい? 陽の光が強すぎるなら、私が盾になろう。さあ、私の影に入って」
「……。影に入ったら前が見えません。大人しく隣にいてください」
「はい、喜んで!」
その様子を見て、カルミアのかつての友人が声をかけてきた。
「あら、カルミア様。お久しぶりですこと。最近はちっともお姿を見せてくださらないから、寂しくて死んでしまいそうでしたわ」
しかし、カルミアの態度は以前とはまるで違った。かつての遊び相手には目もくれず、ただシレネのことだけを気遣っている。
「申し訳ないが、今はシレネとの時間を大切にしたい。他の方と話す時間は持ち合わせていないんだ」
その冷たい返事に、かつての友人は驚き、顔色を変えて立ち去った。シレネはそんなカルミアの様子を静かに見ていた。
「随分と変わられましたね」
シレネの言葉に、カルミアは恐縮した様子で答えた。
「シレネ以外の存在に興味を持つことなど、今の私には考えられない。どうか、私の忠誠を疑わないでほしい」
その必死な様子に、シレネは小さなため息をついた。
「分かっています。そんなに怯えなくても、ちゃんと見ていますよ」
シレネが少しだけ微笑むと、カルミアは安堵した表情になり、シレネの肩に顔を埋めた。
「ああ……っ、シレネの優しさを感じる……! 私には君さえいればいい。他は何もいらないんだ」
その光景を少し離れた場所で見ていたモントブレチアが、呆れたような顔で呟いた。
「まったく、見事な変わりようだな」
彼の妻がシレネの耳元で囁いた。
「でも、あまり締め付けすぎると、彼、そのうち息苦しくなっちゃうかもよ?」
「……。大丈夫です。彼がどこへも行かないように、私が傍にいますから」
シレネの瞳に、静かな決意の色が宿った。
🔚
第7話:過剰な献身と、容赦なき「教育」の鉄槌
カルミアの更生は、周囲の予想を遥かに超え、もはや「信仰」に近い領域に達していた。
かつての傲慢な王子はどこへやら、今の彼はシレネが朝目覚めてから夜眠るまで、すべての世話を自分で焼かなければ気が済まない。
彼はシレネのわずかな仕草も見逃さず、常に先回りして世話を焼く。
「シレネ、今日の靴は私が選びました。この色合いがあなたの瞳の色に合うかと。……ああ、あなたの足元を飾ることができるなんて、この上ない喜びです」
174cmの長身を折り曲げ、床に跪いてシレネの足元に靴を差し出すカルミア。その顔には、かつての尊大さはなく、ただひたすらな献身が浮かんでいる。シレネはため息をつきながらも、差し出された靴に足を入れる。
「……。カルミア様、その熱意、他のことに向けられてはいかがですか」
シレネの冷ややかな言葉にも、カルミアは動じない。
「あなたの存在こそが、私の世界の全てです。あなたのために尽くすこと以外に、価値などありません」
その時、夕食会の相談に来ていたモントブレチアが通りかかった。
「よお、シレネ、カルミ……。相変わらずだな、お前たち」
モントブレチアは、カルミアの変わり果てた姿に苦笑いを浮かべる。
「モントブレチア。何か用事ですか」
「ああ、夕食会の件でな。……しかし、カルミア。少しは落ち着いたらどうだ。シレネだって、そこまで世話を焼かれるのは大変だろう」
モントブレチアの言葉に、カルミアは真剣な表情で答える。
「これは私の愛の形です。シレネに尽くすことが、私の存在意義なのです」
シレネは静かに立ち上がり、カルミアとモントブレチアを見据える。
「カルミア様。あなたの献身は理解できますが、それは私の負担にもなっています。他のことにも目を向け、自立する時間を持つことも『教育』の一環です」
「自立……? あなたから離れるということですか!? それは耐えられません!」
カルミアは顔色を変え、必死にシレネに訴えかける。
「そうではありません。あなた自身の時間を持つということです。……例えば、たまには男友達と飲みに行くなど、どうでしょう?」
シレネの提案を聞いた瞬間、カルミアの体に電流が走った。彼は恐怖で顔面を蒼白にさせ、絶叫する。
「な……男友達と……!? それはつまり、シレネ以外の存在に興味を持てということですか!? いやです! 私はシレネだけを見ていればいいんです! 他の男など不要です!」
その場に凍り付くモントブレチアを尻目に、カルミアはシレネに縋り付く。
「シレネ! どうか、私を見捨てないでください! 男友達など作りません! ずっとシレネの傍にいます!」
シレネは冷静に、カルミアの頭を撫でた。
「いい子ですね。ですが、『教育』は続きますよ。まずは来週、モントブレチア様と飲みに行ってください」
カルミアは悲鳴のような声を上げた。
「いやああああっ!!」
こうして、シレネによる「自立」という名の新たな「教育」が、幕を開けたのだった。
🔚
第8話:恐怖の「男子会」と、鉄壁すぎる拒絶
シレネから下された次なる命令――それは「モントブレチアと飲みに行くこと」だった。
普通の男ならば喜ぶような誘いだが、今のカルミアにとっては、死刑宣告にも等しい苦行である。
神界の繁華街にある、落ち着いた雰囲気の酒場。モントブレチアは、向かいの席でガタガタと震え、酒を一口も飲もうとしない親友を眺めて溜息をついた。
「おいカルミア。いい加減にしろ。シレネ公認の外出だろうが。少しは楽しめよ」
「……無理だ。無理に決まっている。モントブレチア、お前は分かっていない。この酒場の空気、酒の匂い……すべてが私に『不実』の記憶を思い出させる。吐き気がするんだ」
カルミアは、まるで猛毒の沼に突き落とされたかのような顔で、グラスを睨みつけていた。
「いいかい、もしこの店に、昔の私のような軽薄な男がいたらどうする? あるいは、不意に天女が相席を求めてきたら? 酔った勢いで私がシレネ以外の顔を見てしまったら……! ああ、考えただけで『一週間無視』の幻覚が見える……ッ!」
「重症だな、おい」
その時、運悪く(あるいはモントブレチアの妻の仕込みか)、華やかな身なりの女神たちが二人組で近づいてきた。
「あら、素敵な殿方。お隣、よろしいかしら?」
モントブレチアが返事をする暇もなかった。
カルミアは弾かれたように立ち上がると、凄まじい殺気を放ちながら女神たちを指差した。
「近寄るな! 穢らわしい! 私はシレネという唯一無二の光に飼われている身だ。お前たちの不純な視線が私に触れるだけで、シレネに申し訳が立たない! 失せろ、さもなくば今すぐここで自害して謝罪するぞ!」
「ひ、ひぃぃっ!?」
女神たちは、かつての「甘い誘惑の王子」の欠片もない狂気に怯え、脱兎のごとく逃げ出した。
「……おい、流石にやりすぎだろ。自害ってなんだよ」
「モントブレチア、もう限界だ。シレネが待っている。シレネの淹れた、あの苦くて冷たい茶が飲みたいんだ。私は帰るぞ!」
結局、わずか十分でカルミアは店を飛び出した。
---
深夜の宮殿。
読書をしていたシレネのもとに、カルミアが泣きながら飛び込んできた。
「シレネ! シレネぇ!! 帰ったよ! 外の世界は恐ろしい誘惑に満ちていたけれど、私は指一本触れさせなかった! 褒めてくれ、いや、むしろ疑って叱ってくれ!」
174cmの巨体が、153cmのシレネの膝に顔を埋めて咽び泣く。
シレネは本を閉じ、呆れたように彼の頭を撫でた。
「……随分と早いお帰りですね。モントブレチア様を置いてきぼりにしたのですか?」
「あんな男はどうでもいい! それよりシレネ、お願いだ。外で汚れた私の瞳を、君の姿で浄化させてくれ……」
あまりの執着ぶりに、シレネはつい失笑してしまった。
かつて自分が泣いて縋っていた頃とは、正反対の光景。
「……仕方ありませんね。今夜は特別に、私の隣で眠ることを許します。ただし、変なことを口にしたら――分かっていますね?」
「ああ! 蹴るなり踏むなり、好きにしてくれ! 君に触れられるなら、それが痛みでも私は幸せだ!」
シレネはそっと、彼が一番恐怖する言葉を囁いた。
「あら、痛みよりも『二週間の無視』の方が、あなたには効くかしら?」
カルミアの背筋に、かつてない戦慄が走った。
「二週間……! それは死……神としての終わりだ……! 絶対に、絶対に大人しくしているよ、シレネ……!」
再定義された愛の形は、もはや「教育」を超え、逃げ場のない「信仰」へと昇華されようとしていた。
第9話:王族の審判と、冷や汗の家庭訪問
その日は、カルミアにとって「一週間無視」に匹敵する試練の日となった。
シレネの両親――すなわち神界を統治する厳格な国王と王妃による、抜き打ちの「家庭訪問」である。
「シレネをあんなに泣かせた不実な男だ。更生したという報告は受けているが、この目で確かめるまでは許さんぞ」
玉座に座る時と同じ威圧感を放ちながら、シレネの父神が宮殿の広間に足を踏み入れる。母神もまた、氷のような視線でカルミアを射抜いた。
かつてのカルミアなら、不遜な笑みを浮かべて「義父上、そう固いことを言わずに」と肩を叩いただろう。だが、今の彼は違う。
「……お、お待ちしておりました。義父上、義母上」
カルミアは借りてきた猫のように背筋を伸ばし、額を床に擦り付けんばかりの勢いで跪いていた。その姿は、王子というよりは「主人の帰りを待つ忠犬」そのものである。
「ほう。随分と殊勝な態度だが……シレネ、本当にこの男で大丈夫なのか? 今からでも縁談を白紙に戻し、もっと誠実な神を紹介してもよいのだぞ」
父神の言葉に、カルミアの心臓が跳ね上がった。
「そ、それだけは! それだけはご勘弁を! 私からシレネを奪うのは、宇宙から光を奪うのと同じです! 私は彼女なしでは、ただの動く泥人形にすぎないのです!」
あまりの必死さに、両親は毒気を抜かれたように顔を見合わせた。
シレネは平然と茶を啜りながら、淡々と言い放つ。
「お父様、お母様。心配は無用です。この方は今、私の『教育』の最中ですから。もし少しでも変な真似をすれば、次は記憶だけでなく存在ごと消去すると約束させています」
「そ、その通りです! 私はシレネに管理されることを、この上ない誇りに思っております!」
カルミアの「異常な従順さ」を目の当たりにし、王妃がようやく口を開いた。
「……シレネ。あなたは随分と、彼を『再定義』したようね。でも、カルミア様。誠実さというのは、言葉ではなく行動で示すものよ。例えば、もしあなたが他の者に心を移すような兆しが見えたら……」
「その時は、この場で私の神核を砕いてシレネの庭の肥料にしてください!!」
迷いのないカルミアの絶叫に、ついに父神が苦笑した。
「……ふん。肥料か。娘を思う気持ちだけは、本物のようだな」
---
両親が帰り、ようやく静寂が戻った夜。
緊張の糸が切れたカルミアは、シレネの足元に崩れ落ちた。
「シレネ……怖かった。君の家族に否定されたら、私はどこへ行けばいいのかと……」
「お疲れ様でした、カルミア様。及第点です。……でも、少し調子に乗りすぎましたね」
シレネがふとした拍子に、カルミアが緊張のあまり口走った「君の鎖で私を繋いで」という不適切な執着発言を思い出し、無言で彼の横腹に鋭い一撃を入れた。
「――ッ!? がはっ……!」
床にうずくまるカルミア。ちょうどそこへ、忘れ物を届けに来たモントブレチアが顔を出す。
「おい、またやってんのか……。シレネ、今のは流石に急所……男の、その……『大事なところ』に近いぞ。青ざめるわ」
「潰れていなければ大丈夫です。……死んでなければ」
シレネの冷徹な返しに、モントブレチアは自分の股間を抑えるようにして後退りした。
「いや、神はそう簡単に死なねぇけどよ……生身の男だったら、今ので魂ごと別の世界に転生してるぞ」
うずくまったまま、カルミアは涙を流して微笑んだ。
「……いいんだ、モントブレチア。これが……これがシレネの、私への『関心』なんだ……」
神界の夜は更けていく。
再定義された愛は、今日も痛みと執着を糧に、より深く、より歪に強固なものへと変わっていくのだった。
🔚
第10話:暴走する献身、あるいは神界消滅の危機
それは、神界に珍しく冷たい雨が降った翌朝のことだった。
いつもならカルミアが目覚める前に完璧な身支度を整えているシレネが、珍しくベッドから起きてこない。
「シレネ?……シレネ、どうしたんだい? まさか、私への新しい『無視』の刑……ではないよね?」
恐る恐る寝室を覗いたカルミアが見たのは、頬をパステルピンクよりも濃い熱で染め、荒い息をつくシレネの姿だった。
「……カルミア様。少し、頭が重いのです。……風邪を、引いたのかしら……」
その瞬間、カルミアの顔から血の気が引いた。絶世の美男子の顔が、恐怖で劇画のように歪む。
「か、風邪!? 神の王女である君が、病に!?……ああ、なんてことだ! 私が昨日、君に傘を差し出すのが0.5秒遅れたせいだ! 私は万死に値する、今すぐこの場で腹を切って――」
「……うるさいです。いいから、大人しく寝かせてください……」
シレネの力ない拒絶を受け、カルミアのスイッチが「暴走」へと切り替わった。
---
一時間後。神界の市場は大パニックに陥っていた。
狂乱した様子のカルミア王子が、あらゆる万能薬、栄養剤、さらには「体に良い」と言われる伝説の霊草を、権力と金に物を言わせて根こそぎ買い占めていたからだ。
「この店の薬草をすべて包め! 足りない? ならば隣の国からでも、冥界からでも奪ってこい! シレネの熱が一度上がるごとに、私の寿命を百年削っても構わん、早くしろ!!」
そこへ、騒ぎを聞きつけたモントブレチアが駆けつける。
「おいカルミア! お前、薬草屋の親父を締め上げて何してんだ! シレネはただの風邪だろ、一晩寝りゃ治る神の風邪だ!」
「黙れモントブレチア! 君に彼女の尊さが分かってたまるか! もし……もし万が一、このまま彼女が目を覚まさなかったら、私はこの世界ごと自爆して彼女の供をするんだ!」
「思考が過激派すぎるんだよ! お前、シレネに『迷惑かけるな』って言われてただろ!」
その言葉に、カルミアはピタリと動きを止めた。
「……シレネが、嫌がる……?」
---
夕暮れ時。カルミアは山のような薬草を抱え、這うようにしてシレネの寝室に戻った。
だが、シレネを驚かせないよう、彼は忍び足でベッドサイドに跪き、震える手で彼女の額に冷たいタオルを乗せる。
「……シレネ、戻ったよ。……嫌いにならないでくれ、君のために、最高の薬を……」
シレネがゆっくりと目を開ける。熱が少し引いたのか、その瞳にはいつもの冷徹な理性が戻っていた。
しかし、目の前でボロボロになりながら、自分の看病に命をかけている男を見て、わずかに毒気を抜かれる。
「……買い占めなんて、したのですか?」
「……っ。……はい」
「お馬鹿さんですね。……そんなことより、冷たいタオルよりも、あなたの手が一番冷えていて気持ちいいです」
シレネがカルミアの大きな手を引き、自分の頬に当てさせる。
その瞬間、カルミアの目から大粒の涙が溢れ出した。
「ああ……あああ……シレネ……! 君はなんて慈悲深いんだ……。私のような愚か者に、触れることを許してくれるなんて……」
シレネはため息をつきながら、空いた方の手で彼の白髪を乱暴に、しかし優しく撫でた。
「……治ったら、今回の騒動のお仕置きをしますから。覚悟しておきなさい」
「……っ! はい! 喜んで!!」
泣きながら歓喜の声を上げるカルミア。
翌日、完治したシレネから放たれた強烈な「急所への一蹴」により、カルミアは再び悶絶することになるのだが、彼はそれを「最高のご褒美」として受け入れるのであった。
🔚
第11話:死を呼ぶ「自由時間」と、跪く執着愛
シレネの風邪もすっかり快癒し、宮殿には(カルミアの過剰な騒がしさを除けば)平穏な日常が戻っていた。
ある日の午後。読書を楽しむシレネの隣で、カルミアは彼女の足元に座り込み、ドレスの裾にアイロンのシワ一つないか検品するという、極めて生産性の低い「愛の奉仕」に勤しんでいた。
「……カルミア様」
「はい、シレネ! 何かな? 喉が渇いたかい? それとも、肩が凝ったかな? 私の骨を砕いて枕にしてもいいんだよ!」
「……いえ、そうではなくて。あなた、最近ずっと私の部屋に引きこもっているでしょう。たまには外でモントブレチア様たちと、羽を伸ばしてきてもいいのですよ」
シレネとしては、単なる親心、あるいは少し静かな時間が欲しいという本音からの提案だった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、カルミアの動きが完全に止まった。
「……今、なんて言ったんだい?」
カルミアの顔から、みるみるうちに色が失われていく。絶世の美男子の顔が、絶望に打ちひしがれた悲劇の主人公のように青ざめた。
「外で……遊んでこい? 私に、君のいない場所へ行けというのか? ……ああ、そうか。分かったよ、シレネ」
「……何が分かったのですか?」
「これは、『一週間無視』の進化系、あるいは『終身無視』の宣告なんだね! 私がうっとうしいから、体良く追い出そうとしているんだ! 私が他の女を視界に入れた瞬間、君は私との婚約を白紙に戻して、私の記憶を消し、宇宙の果てに追放する計画なんだろう!?」
「……深読みしすぎです。ただ、お酒でも飲んできたらと言っただけです」
カルミアはガタガタと震えながら、シレネの膝に縋り付いた。
「酒!? 冗談じゃない! 酒場の空気には、他の女の香りが混ざっている! もし酔った勢いで、私の瞳に天女の影が映ったらどうするんだ! 想像しただけで内臓が裏返りそうだ! 私は自分の『かつての浮気性』を欠片も信用していないんだよ!」
「……そこまで自分を嫌わなくても」
「私は君に飼われている時だけ、まともな神でいられるんだ。外に出るなど、鎖のない猛獣を街に放つのと同じだ。……頼むシレネ、私を外に出さないでくれ。もし遊びに行けと言うなら、今すぐ私の両足を君のベッドの脚に溶接してくれ!」
あまりの極端な発言に、シレネは本を閉じ、溜息をついた。
「……そこまで言うなら、勝手にしなさい」
「ああ……慈悲深いシレネ……! 私を閉じ込めてくれるんだね……!」
そこへ、ちょうど遊びに来たモントブレチアが顔を出した。
「よお、カルミア。シレネから聞いたぜ。今日はお前、俺と飲みに行く許可が出たんだろ? さっさと行くぞ」
モントブレチアの手がカルミアの肩に触れようとした瞬間――。
「触るな不潔な! この悪魔の化身め! お前は私をシレネから引き離し、破滅の道へと誘う刺客だな!? 帰れ! 私は今、シレネから『一生外出禁止』という最高の刑を言い渡されているところなんだ!」
「いや、そんなこと一言も言ってないが……おい、シレネ。こいつ、もう手遅れだぞ」
モントブレチアが呆れてシレネを見ると、彼女は無言でカルミアの背中を――ドンッ!! と、景気よく蹴り飛ばした。
「――ッ!? がはっ……!」
「うるさいです。私の静かな読書時間を邪魔した罪です。……一時間、庭の草むしりでもしてきなさい。もちろん、天女が来たら即座に土に埋めるのですよ」
「……は、はい! シレネの命令なら、土に還る勢いで草をむしってきます!!」
腰をさすりながら、嬉々として庭へ飛び出していくカルミア。
モントブレチアは、2026年の神界の空を見上げて呟いた。
「……アイツ、蹴られてあんなに嬉しそうにする奴だったっけか……?」
再定義された愛は、もはや「痛み」すらも「甘い報酬」へと書き換えられていた。
🔚
第12話:暴走する生誕祭、あるいは「私」という贈り物
その日は、シレネが王女として生を受けてから数百回目となる、大切な誕生日であった。
宮殿は朝からパステルピンクの花々で飾られ、王族の両親からも豪華な宝飾品が届けられていた。しかし、シレネが最も警戒していたのは、隣にいる「再定義済み」の婚約者の動向であった。
「シレネ……ついにこの日が来たね。君がこの世界に光をもたらした記念すべき日が」
カルミアは朝から異常なほど落ち着き払っていた。かつての彼なら、派手なパーティーを開いて女たちを侍らせ、その中心でシレネを放っておいただろう。だが今の彼は、神聖な儀式を執り行う司祭のような、静かな狂気を瞳に宿している。
「……カルミア様。プレゼントなら、もう十分頂いています。この部屋を埋め尽くすほどの『シレネの花』だけでお腹いっぱいです」
「いや、シレネ。形ある宝石や花など、君の尊さの前では塵も同然だ。だから、私は考え抜いた。君が一番欲しがっている、そして私が一番捧げたいものを」
カルミアは恭しく跪くと、大きな銀のリボンを取り出した。そして、あろうことかそれを自分の首に、蝶結びにして巻きつけたのである。
「……何をしているのですか、あなたは」
「プレゼントは、『私』だ。今日から永遠に、私は君だけの所有物、君だけの奴隷、君だけの装飾品だ。箱詰めにしてどこへでも連れて行ってくれ。必要ない時は地下室に閉じ込めてくれても構わない!」
174cmの絶世の美男子が、リボンを首に巻いて縋る姿は、あまりにもシュールで、そしてあまりにも重かった。
そこへ、祝い品を持ったモントブレチアが通りかかる。
「よおシレネ、誕生日おめで……。……おい。なんだその、首にリボン巻いたデカいゴミは」
「ゴミとは失礼な! 私は今、シレネへの最高級の献上品になっているんだ! 触るな、指紋がついたら価値が下がる!」
モントブレチアは引きつった顔でシレネを見た。
「シレネ……お前、こいつどうにかしろよ。誕生日だろ? もっとこう、美味しいもん食うとかよ……」
「……そうですね。お腹が空きました」
シレネは無表情に立ち上がると、リボンを解こうとせず、そのままリボンの端を掴んで、カルミアを犬の散歩のように引きずり始めた。
「――ッ!? シレネ!? 引きずられる感覚……君に支配されている重力……ああ、最高だ! もっと強く引っ張ってくれ!」
「……。モントブレチア様、夕食の準備を手伝ってください。この『贈り物』は、庭の木にでも繋いでおきますから」
「いや、流石にそれは人道的……いや神道的にどうなんだ……」
モントブレチアが青ざめる中、シレネはふとした拍子に、カルミアが「他の誰かにこの姿を見せたい」と独占欲を煽るような余計なことを口走った瞬間、迷いなく彼の急所を蹴り上げた。
「――ッだ!(即レス)」
「ぎ、はっ……!? あ、ああ……誕生日おめでとう、シレネ……。君の足の感触が、最高の祝辞だよ……」
悶絶して転がるカルミア。それを見たモントブレチアは、空を仰いだ。
「おいシレネ、今のは確実に……。いや、もう言うまい。神なら死なねぇもんな」
「ええ。死んでなければ、明日の教育にも差し支えありませんから」
パステルピンクの夕闇の中、シレネの誕生日は、執着と痛みと、そして少しばかりの「真実の愛」に包まれて更けていくのであった。
🔚
第13話:氷点下の拒絶、あるいはゴミを見るような目
神界の園遊会。そこにはかつてカルミアが「つまみ食い」をしていた、華やかな女神や天女たちが大勢集まっていた。
彼女たちにとって、今の「シレネ一筋になったカルミア」は、あまりにも信じがたい、あるいは「何かの間違い」にしか見えていなかった。
「カルミア様、そんな暗い顔をなさって。昔のように、私と一緒に月の雫の酒でも飲みに行きませんか?」
一人の派手な天女が、カルミアの腕に媚びるように触れようとした。
かつての彼なら、その美しい指先を愛おしげに取り、甘い言葉で囁き返しただろう。だが。
「――汚い」
カルミアの声は、周囲の空気を瞬時に凍りつかせるほど低く、冷酷だった。
彼は天女が触れようとした袖を、まるで猛毒の粘液でもついたかのように、嫌悪感も露わに振り払った。
「その不潔な手で、シレネが触れる予定の私の衣に触るな。……失せろ。今の私の目に、君のような塵を映す余裕はない。視神経が汚れる」
「な、なんですって……!? あんまりだわ、昔はあんなに優しくしてくれたのに!」
「昔? ああ、私が『脳に欠陥があった時期』のことか。思い出させるな、吐き気がする」
カルミアの瞳には、かつての遊び相手に対する情など一欠片もなかった。あるのは、自分を汚した過去への自己嫌悪と、シレネへの狂信的な忠誠心だけだ。
その光景を少し離れた場所で見ていたシレネは、扇で口元を隠し、冷ややかに呟いた。
「……あら。あの方、以前は『君の瞳は僕だけの宝石だ』なんて彼女に言っていたはずですけれど」
背後にいたモントブレチアが、あまりの温度差に身震いする。
「おいシレネ、カルミアの奴……あいつ、さっき天女を『可燃ゴミ』を見るような目で見てたぞ。極端すぎるだろ」
「いいえ。あれくらいでなければ、『再定義』が甘かったということです」
シレネが歩み寄ると、カルミアは即座にその場に膝をつき、彼女のドレスの裾に顔を寄せた。
「シレネ! 見ていたかい? 私は完璧に拒絶したよ! 今すぐ、今の私の視界を君の姿だけで上書きしてくれ。あんなゴミを見たせいで、心が汚染されてしまったんだ!」
「……。騒がしいですよ、カルミア様。それに、公衆の面前で這いつくばるのも程々にしてください」
「君が命じるなら、私はこのまま地面に溶けてもいい! ……あ、でも、そうしたら君を抱きしめられなくなるから、やっぱり形は保っておくよ!」
シレネは、あまりの執着ぶりに呆れながらも、ふとした瞬間に彼が「今の天女、少しだけ昔の君に似てたかな」という、極めて地雷な発言を(無意識の比較として)口走った瞬間。
――ガッ!!(即レス・物理)
「――ッ!? が、は……っ!!」
迷いのないシレネのヒールが、カルミアの急所を、正確に、そして深く捉えた。
悶絶してエビのように丸まるカルミア。それを見たモントブレチアは、もはや青ざめるのを通り越して達観した。
「おいシレネ……今のは確実に『逝った』音だぞ。お前、いつかこいつの世継ぎ機能、物理的に破壊するんじゃないか?」
「……潰れていなければ、神の再生能力で明日には元通りです。それより、あの失礼な口を叩き直す方が優先です」
「……あ、ああ……シレネ……。君の怒りの重み……これが、私への……愛……なんだね……っ」
涙を流し、激痛の中で恍惚とした表情を浮かべるカルミア。
神界の社交場は、再定義された「歪な愛」の光景に、言葉を失うのであった。
🔚
第14話:絶望の実家帰省、あるいは主(あるじ)なき忠犬の末路
その宣告は、カルミアにとって「神界消滅」よりも恐ろしい響きを持っていた。
「カルミア様。母の体調が少し優れないようなので、私は今日から一週間、実家に帰らせていただきます。……もちろん、あなたは『お留守番』です」
シレネが淡々と荷造りを進める横で、カルミアの顔面は瞬時に土気色へと変わった。
「留守……番? シレネ、冗談だろう? 君がいない家で、私はどうやって酸素を取り込めばいいんだ? 私の肺は、君が吐き出した空気でしか機能しないように『再定義』されているんだよ!」
「……。相変わらず気持ちの悪いことを言いますね。とにかく、実家の結界はあなたを拒絶するように設定し直しました。一歩でも敷居を跨げば、あなたは神罰で炭になります。いいですね?」
シレネはパステルピンクの旅装を整え、文字通り「塵一つ残さず」宮殿から去って行った。
---
三日後。シレネのいない宮殿を訪れたモントブレチアは、広間の隅で「何か」が丸まっているのを見つけた。
「……おい、カルミア。生きてるか?」
そこにいたのは、絶世の美男子の面影を失い、ボロ布のように項垂れるカルミアだった。彼はシレネが座っていた椅子を抱きしめ、うつろな目で壁の一点を見つめている。
「モントブレチアか……。見てくれ、この空気を。シレネの粒子が、あと数時間で完全に枯渇してしまう……。私はもう、自分の名前すら思い出せなくなりそうだ……」
「ただの三日だろ! それに、お前が自堕落に過ごさないか見張れってシレネに頼まれてんだよ。ほら、飯でも食え」
「飯? シレネの|毒気《愛情》が含まれていない毒物など、私の喉を通るわけがないだろう……」
カルミアはガタガタと震えながら、シレネが脱ぎ捨てた古い手袋を宝物のように撫で回している。その執着ぶりは、もはや「重い」という言葉では足りない。
「……これ、シレネが見たら即座に蹴り飛ばされる案件だぞ」
そこへ、モントブレチアの妻――最強の女神が優雅に現れた。
「あら、いいじゃない。この『飢餓感』こそが、再会した時の喜びを最大化するスパイスよ。……でも、カルミア様。シレネさんは実家で、『昔、彼女を慕っていた幼馴染の男神』と親しげに茶を飲んでいるらしいわよ?」
「――ッ!!!」
その瞬間、カルミアの瞳にドス黒い炎が灯った。廃人のようだった体に、狂気的なまでの魔力が漲る。
「……男神? シレネの隣に、私以外のオスが……? 炭になっても構わない。今すぐその男を、神界の奈落に叩き落としてくる」
「おい待て! 行ったら『永久追放』だぞ!」
モントブレチアが必死に止める中、カルミアは這い上がるような執念で立ち上がった。
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「……いいか、モントブレチア。私はシレネに無視されるのが一番怖いが……シレネの隣に『かつての私のようなゴミ』が並ぶのは、それ以上に我慢ならないんだ……っ!」
一方、実家で優雅に茶を飲んでいたシレネは、宮殿の方角から凄まじい「執着のプレッシャー」を感じ取り、小さく溜息をついた。
「……あら。あの方、もう限界かしら」
シレネの口元に、少しだけ楽しげな、冷徹な微笑が浮かぶ。
再定義された愛の鎖は、離れれば離れるほど、より強くカルミアの心臓を締め付けていくのであった。
🔚
第15話:結界への特攻、あるいは灰になっても愛したい
シレネの実家、王族の宮殿。その門前には、神界最強クラスの「拒絶結界」が張り巡らされていた。本来、招かれざる者が触れれば瞬時に炭と化す絶望の障壁である。
だが、その結界の前に、一人の男が立っていた。
ボロボロの衣を纏い、目の下を隈で黒く染めたカルミアである。
「……シレネ。そこにいるんだろう? 君がいない世界は、私にとってはこの結界の中よりも熱く、苦しい地獄なんだ……」
カルミアは震える手を伸ばし、パチパチと火花を散らす結界に触れた。
「あ……ああ、熱い。指先が焼ける。だが、君に無視されている心の痛みに比べれば……こんなもの、春の陽だまりのようなものだ!」
バリバリッ!!
凄まじい衝撃波が走り、カルミアの肩から煙が上がる。常軌を逸した光景に、門番の神々が腰を抜かした。
「狂ったか、カルミア王子! 死ぬぞ!」
「死んでも構わない! 灰になれば、風に乗ってシレネの髪に触れられるかもしれないからな!!」
---
その頃、宮殿の奥座敷で「幼馴染の男神」と茶を飲んでいたシレネは、外の騒ぎを耳にして眉をひそめた。
「シレネ様、外が騒がしいようですが……」
「……お気になさらず。ただの『しつけの悪い大型犬』が、鎖を引きちぎろうとしているだけです」
シレネは平然と茶を啜るが、結界から伝わる「カルミアの狂気的な魔力」が日に日に……いや、秒単位で増大しているのを感じていた。彼は本当に、自分の身を焼いてでも、彼女の視界に入ろうとしている。
「……仕方ありませんね」
シレネが立ち上がり、門の前へ向かう。そこには、服の半分が焼け焦げ、膝をつきながらも執念で門をこじ開けようとするカルミアの姿があった。
「そこまでになさい、カルミア様。……醜いですよ」
結界越しに響く冷徹な声。
カルミアはその声を聞いた瞬間、雷に打たれたように顔を上げた。
「シレネ……! ああ、シレネ! 私の女神、私の主! 見てくれ、私は君の言いつけを守って、一歩も敷居を跨いでいないよ! ……ただ、指が三本ほど炭になったけれど、それも君への忠誠の証だ!」
シレネは結界を解き、門の外へ一歩踏み出した。そして、這いつくばる彼の顎を、ヒールの先でクイッと持ち上げる。
「……誰が、炭になっていいと言いましたか? あなたの体は私の所有物です。勝手に傷つけるのは、私の財産を損なう罪ですよ」
「――っ! ああ……そうだ、その通りだシレネ……! 私は君の物だ、傷つける権利さえ私にはないんだね……!」
歓喜に震えるカルミア。だが、シレネの目は笑っていない。
「罰として、もう少し反省を促そうと思いましたが……。今のあなたの姿が、あまりに痛々しいので、今すぐ宮殿に連れ帰って手当てをして差し上げます。……感謝なさい」
「感謝する! 骨の髄まで感謝するよ、シレネ! 君の手で手当てされるなら、どんな痛みも乗り越えられる!」
傍らで見ていたモントブレチアが、引きつった声で呟いた。
「……おい、あいつ。焼け焦げた腕より、シレネに連れ帰ってもらえることに感動してねぇか?」
「それが、彼の『再定義』された忠誠心なのよ。……さて、手当ての準備をしましょうか」
最強の女神(モントブレチアの妻)が、楽しげに救急箱(神界製)を準備し始めた。
神界の夕暮れ。
引きずられるようにして連行されるカルミアの背中には、痛みなど微塵も感じさせない、狂おしいほどの安堵感が漂っていた。
🔚
第16話:慈悲という名の支配、あるいは極上の傷跡
焼け焦げた衣を纏い、満身創痍で宮殿へと連れ戻されたカルミア。
本来、王族の神がこれほどの傷を負えば大騒動だが、シレネは冷静だった。彼女はカルミアを自室の椅子に座らせ、自らの手で救急箱を開く。
「……じっとしていてください。動くと、包帯をきつく巻いて血を止めますよ」
「ああ……っ、シレネ。君が、君の手が私に触れている……! この火傷は、君を求めた証。一生消えない傷跡になって残ればいいのに」
174cmの巨体を小さく折り曲げ、153cmのシレネにされるがままのカルミア。その瞳には、痛みに対する苦痛など微塵もなく、ただ恍惚とした甘えの色だけが宿っていた。
「……馬鹿なことを。神の再生能力があれば、明日には跡形もなく消えます。……ですが、あなたのその『歪んだ独占欲』は、簡単には消えそうにありませんね」
シレネは薬を塗る指先に、ほんの少しだけ力を込める。
「――っ、く……ああ、いい。もっと、強く……」
そこへ、モントブレチアが心配そうに顔を出した。
「よお、カルミア。……お前、本当に無茶しやがって。シレネ、こいつの治療が終わったら、少し外の空気でも吸わせてやれよ。また廃人になっちまうぞ」
「……。外、ですか?」
シレネの淡紅色の瞳が、スッと細くなる。
「ええ、そうですね。カルミア様。手当てが終わったら、気分転換に街までお買い物に付き合っていただきます。……もちろん、私の荷物持ちとして」
「買い物……! 君とのデートだね! 喜んで、この命が尽きるまで荷物を背負い続けよう!」
---
数時間後。神界の賑やかな市場。
包帯を巻いた姿のまま、両手に溢れんばかりの紙袋を抱えたカルミアと、その前を優雅に歩くシレネの姿があった。
かつての「遊び人王子」を知る者たちは、今の彼の姿を見て目を疑った。
「おい、あれカルミア様じゃないか? あんなに荷物を持たされて……」
「隣のシレネ様、あんなに冷たい目をして。昔はもっと、彼に縋り付いていたのに」
その時、一人の生意気な若手神が、シレネの美しさに目を奪われ、不遜にも声をかけてきた。
「おや、麗しい女神様。そんなに重そうな荷物を持った『召使い』ではなく、私と楽しくお茶でもいかがですか?」
その瞬間、市場の気温が氷点下まで急降下した。
カルミアが、抱えていた荷物を音もなく地面に置き、一歩前に出る。その瞳は、もはや神のそれではなく、獲物を屠る直前の獣の輝きだった。
「……貴様。今、私のシレネに何と言った?」
「ひ、ひぃっ!? カルミア様!? い、いえ、私はただ……」
「私のシレネを誘惑しようとしたその不潔な舌、今すぐここで抜き取って、彼女の通る道の絨毯にしてやろうか」
「やめなさい、カルミア様」
シレネの凛とした声が響く。カルミアは一瞬で殺気を消し、シレネに向き直った。
「シレネ……! だが、こいつは君を不浄な場所へ誘おうとしたんだ! 万死に値する!」
シレネは若手神を一瞥もせず、カルミアの顎を扇で軽く叩いた。
「私の許可なく、勝手に殺生をしてはいけません。……それに、この方は私を誘ったのではありません。『あなたの教育が足りないこと』を教えてくれただけです」
「教……育……?」
「ええ。あなたがもっと『私の所有物』であることを周囲に知らしめていれば、こんな失礼な輩は現れません。……帰ったら、追加の|教育《メニュー》を考え直しましょう」
「――っ!! 追加の……!! ああ、シレネ……君の言う通りだ! 私はまだまだ、君の物としての自覚が足りなかったんだね……!」
歓喜に震え、再び荷物を抱え直すカルミア。
その背後で、モントブレチアが青ざめて呟いた。
「……おいシレネ、今のは完全に火に油を注いだぞ。あいつ、今夜は一晩中お前の靴でも磨き続ける気だぞ……」
再定義された愛は、いよいよ逃げ場のない「幸福な呪い」へと昇華されていく。
🔚
第17話:究極の我慢、あるいは試される狂信
その日、シレネはモントブレチアの妻である「最強の女神」の元を訪れていた。
宮殿のテラスで、二人の女神は優雅に茶を啜りながら、庭でカルミアとモントブレチアが(一方的にカルミアが精神修養を語る形で)話しているのを眺めていた。
「いい? シレネさん。男の執着を『誠実さ』として定着させるには、たまに極限の『お預け』が必要なのよ」
「お預け、ですか?」
「そう。欲望をコントロールさせてこそ、真の支配。名付けて……『二十四時間接触禁止命令』よ」
---
その夜。宮殿の寝室の前で、シレネはカルミアに冷徹な宣告を下した。
「カルミア様。明日のこの時間まで、私に指一本触れることを禁じます。もちろん、同じ部屋で眠ることも、私の服の裾を掴んで歩くことも、すべて禁止です」
「な……っ!? 二十四時間……!? シレネ、それは太陽が昇らないまま冬を越せと言うのか!?」
「ルールを破れば、即座に『一ヶ月無視』に移行します。……よろしいですね?」
「――っ! ……く、承知した。君の命令は絶対だ……!」
カルミアは震える拳を握りしめ、シレネの部屋の扉の前で、まるで門番のように背筋を伸ばして立ち尽くした。
---
翌朝。宮殿を訪れたモントブレチアは、廊下で奇妙なものを見た。
カルミアが、シレネの数歩後ろを、一ミリの誤差もなく追従している。だが、その顔は汗にまみれ、瞳は充血し、全身が小刻みに震えていた。
「おい、カルミア。大丈夫か? 幽霊みたいな顔してるぞ」
「話しかけるな、モントブレチア……。今、私はシレネとの距離を『三メートル』に保つことに、全神経を集中させているんだ……。触れたい……彼女の影にすら触れたい……だが、触れれば私は彼女の記憶から消される……っ!」
「……そこまで自分を追い詰めんなよ」
昼食の時間。シレネがパステルピンクのケーキを口に運ぶ。
いつもなら、カルミアが「あーん」をせがんだり、口角についたクリームを拭おうとしたりするはずだが、今の彼はテーブルの端で、自分の手を縛るかのように固く組んでいた。
「……カルミア様、とても美味しそうですよ。一口いかがですか?」
「ぐ……っ!そ、その誘惑は卑怯だシレネ……!君の差し出したスプーンに食らいつきたい、だが、それは君の手に触れてしまう可能性がある……!私は……私は耐えるぞ!」
シレネは、あまりの必死さに少しだけ愉快になり、わざと彼の近くを通って、ふわりと花の香りを漂わせた。
「あら、失礼。……あと六時間ですね」
「あああああ……!シレネ!君の香りが……脳を直接焼いていく……!!」
夕方。限界を迎えたカルミアは、ついに庭の噴水に飛び込み、冷水で自分を鎮め始めた。
「……おいシレネ、流石にかわいそうだろ。あいつ、水の中で『シレネ、シレネ』って呪文みたいに唱えてるぞ」
モントブレチアが青ざめる中、シレネは時計の針をじっと見つめていた。
---
そして、運命の二十四時間が経過した。
「……時間です、カルミア様」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間。
水浸しのカルミアが、弾かれたようにシレネの足元に滑り込み、彼女の膝に顔を埋めた。
「シレネ……!!シレネ、シレネ、シレネ!!ああ、この体温、この感触……!二十四年、いや、二十四世紀にも感じたよ……!もう二度と、私に『触れるな』なんて言わないでくれ……っ!」
「よく耐えました。今夜は、膝枕くらいなら許してあげます」
「……っ!!痛み……そして、膝枕……。ああ、これこそが、私の再定義された『天国』だ……」
神界の主従関係……もとい愛の形は、もはや誰も立ち入れない深淵へと到達していた。
🔚
第18話:王の不信と、仕組まれた再婚談
シレネの父である国王の不信感は、未だに完全には拭い去れていなかった。
「カルミアの更生は本物か? 恐怖で従順になっているだけで、いつかまた我が娘を裏切るのではないか?」
そう考えた国王は、カルミアの忠誠心を試すための「最悪の罠」を仕掛けることにした。
「シレネ。お前に、隣国の第一王子との見合いを命じる」
突然の宣言に、その場にいた一同が凍りつく。特にカルミアは、一瞬で顔から血の気が失せ、膝から崩れ落ちそうになった。
「義父上……! それはどういうことですか!? シレネには私が……!」
「黙れ。不実な前科のあるお前に、これ以上の猶予はない。相手は若く、誠実で、浮いた話一つない非の打ち所のない神だ。一週間後、この王宮で顔合わせを行う」
カルミアは、シレネの足首に縋り付き、なりふり構わず懇願した。
「シレネ! 行かないでくれ、私を見捨てないでくれ! 私が、私が悪かった! もっと蹴っていい、もっと無視していい! だから、他の男の顔なんて見ないでくれ……っ!」
シレネは無表情に彼を見下ろし、冷たく言い放つ。
「父の命令は絶対です。……それに、あなたが本当に私にふさわしい男かどうか、私も見極める必要があるかもしれませんね」
「――っ!!」
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お見合い当日。
王宮の広間には、光り輝くような美男子神――隣国の王子が、シレネの前に座っていた。
カルミアは、シレネの「荷物持ち」という名目で、壁際に立たされることを許された。だが、彼の瞳はもはや正気ではない。
「シレネ様、お噂はかねがね。今日お会いできて、この上ない光栄です」
隣国の王子がシレネの手に触れ、優雅に口づけをしようとしたその時。
「その手を離せ!!」
ドス黒い殺気が広間を支配した。カルミアが、荷物を投げ捨てて二人の間に割って入る。その瞳は、獲物を屠る直前の死神のようだった。
「私のシレネに、その汚らわしい唇を近づけるな。……国王陛下、申し訳ありませんが、我慢の限界です。たとえ神罰で炭になろうとも、彼女を他の男に渡すくらいなら、私は今ここでこの国を、そして私自身を焼き尽くす!!」
「ほう……。国を焼き尽くす、か」
王は満足げに、あるいは呆れたように口角を上げた。
「カルミア、合格だ。お前が絶望の淵で、プライドも地位も投げ打って娘を守ろうとするかを見たかった。……見合いの話は嘘だ。この王子は、私の配下の変装だよ」
「……え?」
カルミアが呆然と立ち尽くす中、シレネが彼の背後に回り、いつものように――ドンッ!! と、鋭い一撃を脇腹に叩き込んだ。
「――ッ!? が、はっ……!」
「……醜いですよ、カルミア様。父のテストにまんまと嵌まって、あんなにみっともなく取り乱して。……帰ったら、追加の『精神修養』が必要です」
床にうずくまりながら、カルミアは安堵の涙を流して微笑んだ。
「ああ……ああ……。良かった……。シレネ、君が……君が私だけのものなら、どんな罰でも受けるよ……っ」
モントブレチアが壁の影から顔を出し、青ざめながら呟いた。
「……おい、陛下も大概だな。あんな極限状態のカルミアを煽るなんて、一歩間違えたら神界が滅んでたぞ」
🔚
第19話:慈悲の猛毒、あるいは崩壊する情緒
父王による「偽お見合いテスト」を乗り越え、精神的にボロボロになりながらもシレネへの忠誠を新たにしたカルミア。そんな彼に、シレネは朝のティータイムで思いがけない言葉をかけた。
「カルミア様。昨日は……少し、可愛そうなことをしましたね」
「シレネ……? い、いや、あれは私が未熟だったからで、君のせいじゃ……」
「いいえ。ですから今日は一日、私の『教育者』としての顔はお休みします。……今日だけは、私があなたを思い切り甘やかしてあげます。何でも、好きなことを言いなさい」
その瞬間、カルミアの思考は停止した。
いつもは氷のように冷たく、たまに鋭い蹴りを飛ばしてくる愛しい|主《あるじ》が、砂糖菓子のように甘い微笑みを浮かべている。
「あ……甘やかす……? シレネが、私を……?」
---
お言葉に甘えたカルミアのリクエストは、あまりにささやかで、それでいて重いものだった。
「……膝枕で、頭を撫でてほしい。一時間……いや、一生」
宮殿のバルコニー。シレネはパステルピンクのスカートを広げ、その上にカルミアの白銀の頭を乗せた。
「よしよし。あなたは、私の言うことをよく聞く、良い子ですね」
シレネの細い指が、カルミアの髪を梳く。いつもなら「早く立ちなさい」と蹴られるはずの場所で、柔らかな温もりに包まれる。
「……っ、う……ああ……」
絶世の美男子、カルミアの目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「どうしました? 痛いところでもありましたか?」
「違うんだ、シレネ……! 幸せすぎて、魂が身体から溶け出していきそうなんだ! 怖い……君が優しすぎると、いつかこの夢が覚めて、また君が私を忘れて消えてしまうんじゃないかと……っ!」
カルミアはシレネの細い腰を抱きしめ、子供のように声を上げて泣き始めた。かつての余裕たっぷりの王子はどこにもいない。シレネの「たまの優しさ」は、彼にとってどんな罰よりも情緒をかき乱す猛毒だった。
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夕暮れ時。様子を見に来たモントブレチアは、椅子に座ったシレネの膝で、顔をぐちゃぐちゃにして眠りこけているカルミアを見て、そっと後退りした。
「おい、シレネ。あいつ、情緒不安定が極まってないか? さっき庭で会った時、『シレネが優しすぎて死ぬから遺言を書いてくれ』って頼まれたぞ」
「あら、そんなに。……でも、たまにはこうして『逃げ場』を与えておかないと、本当に心が壊れてしまいますから。……再定義には、アメとムチが必要なのですよ」
シレネは眠るカルミアの頬を、今度は冷たく、指先でピンと弾いた。
「――ッ!?」
弾かれた衝撃で飛び起きるカルミア。
「……甘やかす時間は終わりです。夕食の準備を手伝いなさい。一分でも遅れたら、明日は『一週間無視』ですよ」
「は、はいっ! すぐに! 喜んで!!」
涙を拭い、光の速さで台所へ向かうカルミア。
モントブレチアは呆れてシレネを見た。
「……お前、あいつを完全に手のひらで転がしてるな」
「ええ。……でも、あの泣き顔。少しだけ、可愛いと思ってしまったのは内緒ですよ」
🔚
第20話:糾弾の銀鎖、あるいは女王の宣戦布告
それは、カルミアがシレネのために庭のバラを剪定していた、穏やかな午後のことだった。
突如として、神界の法を司る『神界浮気調査委員会』の執行官たちが、宮殿を包囲したのである。
「カルミア王子! 貴殿には数百年にわたる『不誠実による神界風|紀紊乱《びんらん》』および『神族女性への精神的加害』の容疑がかかっている。強制連行し、再教育施設にて数千年の禁固刑に処す!」
執行官たちが放った「罪人を縛る銀の鎖」が、カルミアの体に巻き付く。かつての彼なら鼻で笑って逃げ出しただろう。だが、今の彼は違う。
「……連れて行くがいい。確かに私は罪を犯した。シレネを悲しませた報いを受けるのは当然だ」
抵抗もせず、自責の念に沈む瞳で連行されるカルミア。彼は、自分が罰を受けることでシレネの怒りが静まるなら、それすらも「救い」だと考えていた。
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一時間後。シレネが外出から戻ると、そこには荒らされた庭と、困り果てたモントブレチアがいた。
「シレネ! 大変だ、カルミアが委員会に連れて行かれた! あいつ、反論もしないで『私を裁いてくれ』なんて顔してやがったんだ!」
シレネの淡紅色の瞳が、かつてないほど冷たく、鋭く光った。
「……誰の許可を得て、私の『所有物』を勝手に連れ去ったのですか?」
「え、あ、いや、委員会の連中が……」
「モントブレチア様。私の『教育』は、神界の法よりも優先されます。……取り戻しに行きますよ」
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神界審判所。高圧的な審判官たちが、鎖に繋がれたカルミアを糾弾していた。
「これほどの余罪! もはや死罪に等しい! 今すぐ記憶を消去し、下界へ追放すべきだ!」
「……ああ、勝手にしてくれ。シレネに捨てられた私に、もはや価値など――」
その時。審判所の巨大な扉が、凄まじい衝撃と共に吹き飛んだ。
「――そこまでになさい、無能な役人の方々」
パステルピンクのドレスの裾を翻し、シレネが堂々と中央へ歩み寄る。その背後には、青ざめながらも「最強の嫁」に背中を押されたモントブレチアが控えていた。
「シ、シレネ王女!? これは委員会の正当な手続きで――」
「手続き? 笑わせないでください。この男が犯した不実の罪、その最大の被害者は私です。そして、その罰として私は彼を『再定義』し、私の管理下に置くと決めました」
シレネは壇上に登り、鎖に繋がれたカルミアの顎を扇でクイッと持ち上げた。
「……カルミア様。勝手に裁かれて、悲劇の主人公を気取っているのですか? あなたを裁いていいのは、世界中で私だけです。私の許可なく、他人に罰を与えられるなど……一ヶ月の無視よりも重い罪だと知りなさい」
「――ッ!!」
カルミアの瞳に光が戻る。恐怖、そして圧倒的な歓喜。
「シレネ……! ああ、そうだ……私は君だけの囚人だ! 他の誰にも、私を縛る権利なんてないんだね……っ!」
「審判官の皆様。この男は、私の『教育』によって更生中です。もし異議があるなら、私の実家――国王陛下と直接お話しいただけますか?」
王女の威光と、背後に渦巻く「|教育《物理》」の気配に、審判官たちは一歩も動けなくなった。
「帰りますよ、カルミア様。……勝手について行ったお仕置きは、帰ってからたっぷりして差し上げます」
「はいっ! 喜んで! 全身全霊で受け止めます、シレネ!!」
鎖を引きちぎらんばかりの勢いで立ち上がるカルミア。
モントブレチアは、この神界の空を仰いで呟いた。
「……あいつ、助けに来てくれた王女を見て、惚れ直すどころか『もっと支配してくれ』って顔してやがるぞ……」
🔚
第21話:最後の試練、あるいは真実の愛の再定義
審判所から「奪還」された夜。宮殿のバルコニーは、銀色の月光に照らされ、静謐な空気に包まれていた。シレネは手すりに寄りかかり、足元に膝をついて頭を垂れるカルミアを静かに見下ろした。
「カルミア様。あなたは今日、自分の意志で裁かれようとしました。……なぜですか?」
「……シレネ。私は、自分が許せなかったんだ。君を傷つけた過去を背負ったまま、君の隣で『幸せ』を感じる資格が、今の私にあるのかと……」
カルミアの震える声。かつての傲慢な王子は、もはや影も形もない。しかし、シレネが求めているのは、過剰な自責の念に囚われた抜け殻ではない。
「資格など、私が最初から与えています。……ですが、あなたがまだ自分の『野心』を捨てきれていないのなら、話は別です」
「野心……?」
「ええ。かつてのあなたは、多くの女を侍らせ、神界の頂点で謳歌したいという、身勝手な野心を持っていました。今のあなたの胸にあるものは、本当に『愛』なのですか? それとも、私を独占したいという新たな『|野心《独占欲》』に過ぎないのですか?」
シレネの問いは鋭く、カルミアの魂の最深部を突き刺した。
カルミアは顔を上げ、潤んだ、しかし揺るぎない瞳でシレネを見つめた。
「……そうだ。これは『野心』だ、シレネ。かつて、世界を欲した私の醜い心は、今や君という唯一の存在を独占したいという、ただ一つの『野心』に塗りつぶされた。他の誰にも君を見せたくない。君の吐息一つ、視線一つ、私だけのものにしたい……! これを愛と呼ばないのなら、私は一生、野心家で構わない!」
剥き出しの独占欲。それは、かつての「浮気」という不実な野心が、一点に集中し、結晶化した姿だった。
シレネはふっと、この数ヶ月で初めて、冷徹ではない、柔らかな微笑を浮かべた。
彼女はカルミアの頬に手を添え、囁く。
「……合格です。ようやく、自分の中の|毒《独占欲》を認めましたね」
「シレネ……?」
「あなたのその『野心』、私がすべて受け止めましょう。……その代わり、一生かけて、私の『所有物』として、その野心を私だけに捧げ続けなさい」
その瞬間、カルミアの心の中で何かが弾けた。
「――っ!! あああ、ああ……っ! シレネ!!」
彼は子供のように声を上げて泣き、シレネの腰に顔を埋めた。以前の「恐怖による甘え」ではなく、魂が一つに繋がったことへの歓喜の涙だった。
そこに、またしても空気を読まない(心配しすぎな)モントブレチアが顔を出す。
「おいシレネ、今度は何だ? カルミアがまた『愛の咆哮』を上げてるぞ……。お、おい、お前ら、なんか雰囲気が変わったな?」
「モントブレチア様。……『再定義』が、終わりました」
シレネの言葉に、モントブレチアは目を見開いた。
「終わった? じゃあ、もう蹴ったり無視したりしねぇのか?」
「いいえ。……教育と罰は、これからも続きます。それが私たちの『愛の形』ですから」
シレネはそう言って、甘えるカルミアの耳を少し強く引っ張った。
「――っ! ああ、痛い……! でも、最高だ、シレネ!!」
神界に、新しくも歪な、そして誰よりも強固な「溺愛神話」が完成した瞬間であった。
🔚
第22話:再定義の祝祭、あるいは逃げ場なき誓約
神界中央神殿。かつてカルミアが数多の天女と浮名を流したその場所で、今、シレネとカルミアの「再婚約式」が執り行われようとしていた。
神界中の王族、貴族が集まり、固唾を呑んで中央の二人を見つめている。以前のカルミアなら、退屈そうにあくびを噛み殺していたであろう儀式。だが、今日の彼は違った。
白銀の礼装に身を包んだカルミアは、一瞬たりとも隣のシレネから視線を外さない。その瞳は、恋する男のそれというよりは、「手に入れた至宝を誰にも盗まれまいとする守銭奴」のそれに近かった。
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「では、誓いの言葉を」
司祭の言葉を受け、カルミアはシレネの前に跪いた。神々の前で膝をつくのは、本来王族としてあり得ない屈辱のはずだが、彼は誇らしげに、そして朗々とした声で言い放った。
「私はここに誓う。シレネ、君こそが私の絶対的な|主《あるじ》だ。私の身体は君の盾となり、私の魂は君を繋ぎ止める鎖となる」
会場がざわめく。あまりに重い、そして一方的な服従の誓いに、列席した神々は顔を見合わせた。だが、カルミアの暴走は止まらない。
「もし私が再び君を悲しませるような不実を働けば、その瞬間に私の神核を砕き、塵となって君の靴の裏を汚すだけの存在にしてくれ。……私は君に独占されることを、そして君を独占することを、永遠の野心として掲げることを誓う!!」
「……全くだ、引くほど重いな」
列席者の最前列で、モントブレチアが青ざめながら呟いた。隣に立つ妻は、「あら、最高に誠実じゃない」と扇で口元を隠して微笑んでいる。
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シレネは、会場のざわめきなど一切気にする様子もなく、跪くカルミアを見下ろした。パステルピンクのヴェール越しに、彼女の淡紅色の瞳が妖しく光る。
「カルミア様。その誓い、確かに聞き届けました」
彼女は優雅に手を差し出し、カルミアの顎をクイッと持ち上げさせた。
「これから先、あなたが私の所有物であることを、一分一秒たりとも忘れないように。……もし忘れたら、分かっていますね?」
「ああ! 記憶を消すなり、無視するなり、急所を蹴り上げるなり、好きにしてくれ! 君に与えられる罰こそが、私が君の心の中に存在している証明だから!」
会場からは拍手よりも先に、深い溜息と「本気か……」という困惑の声が漏れ出した。だが、二人にはそんなことは関係なかった。
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儀式の後、バルコニーで二人きりになった際。
「シレネ、ついに世界に宣言したよ。君は私のものだ。……ああ、今すぐ君を連れて地下室に引きこもりたい」
「……。さっそく変なことを言いますね。蹴られたいのですか?」
シレネがヒールを軽く鳴らすと、カルミアは期待に満ちた(?)表情で身を竦めた。
「……っ! い、いや、それは今夜の楽しみにとっておくよ。……でも、一つだけ。……愛している、シレネ」
「……。教育は、まだ終わっていませんよ」
シレネはそっぽを向いたが、その耳元がパステルピンクに染まっているのを、カルミアは見逃さなかった。
かつて壊れた愛は、全く別の、しかし誰よりも強固な絆として「再定義」された。
二人の「溺愛神話」の本編は、ここで一つの結末を迎える。
【本編・完】