周りから「お似合い」と言われ、一度も喧嘩をしたことがない新(あらた)と永莉(えり)。
結婚を控え、未来のノートに子供の名前を書き込んでいた二人を、理不尽な事件が引き裂いた。
絶望し、時を止めた新の前に現れたのは、自分自身の「死」という二度目の試練。
病院で出会った少女・陽葵に、叶わなかった「未来」を語り始める新。
「僕たちの名前は、絶望の場所で光になった」
23歳。最期の瞬間に彼が浮かべた、最高の微笑みの理由とは――。
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目次
第1話:止まった時計と、冷めたコーヒー
ワンルームの部屋は、一年前から時が止まったままだ。
窓から差し込む夕日は、埃の舞うフローリングをオレンジ色に染めているが、そこに温かさは感じられない。
「……あ」
|新《あらた》は、コンビニで買ってきた味のしない弁当を口に運び、ふと止まった。
テーブルの上にある、二つのペアマグカップ。一つには、昨夜淹れたまま放置された、表面の膜が張ったコーヒーが入っている。もう一つは、一年前のあの日から、一度も使われることなく伏せられたままだ。
そのカップには、かつて|永莉《えり》が自分の名前の頭文字を一文字、可愛らしいシールで貼っていた。
『ねえ、新くん。これ、いつか新しい家になったら、もっといいやつに買い替えようね』
脳裏に、弾けるような彼女の声が響く。
二十二歳。大学を卒業したばかりの僕たちは、無限に続く未来を信じて疑わなかった。
将来、二人でどんな家に住むか。
子供ができたら、どんな名前にするか。
そんな、形のない幸せな空想だけで、夜が明けるまで笑い合えたのだ。
新は重い身体を引きずるようにして、机の引き出しを開けた。
そこには、一年前から更新されることのない『未来のノート』が眠っている。
ページをめくれば、永莉の丸っこい文字が躍る。
『男の子なら、新くんの「新」をとって……』
『女の子なら、私の「永」をもらって……』
新は震える指で、その文字をなぞった。
二十三歳になった今、本来なら僕たちは結婚式の準備で忙しくしていたはずだった。
けれど、今の僕にあるのは、彼女がいたはずの、ぽっかりと空いた空間だけだ。
「永莉……」
声に出すと、胸の奥が焼けるように痛む。
あの日、通り魔という理不尽な悪意が、僕の「未来」をすべて奪い去った。
僕だけが生き残ってしまった。
彼女が欲しかったはずの「今日」を、僕はただ、死ぬまでの待ち時間のように浪費していた。
ふと、視界が歪んだ。
涙はもう枯れたと思っていたのに、彼女の筆跡を見るだけで、絶望は鮮度を保ったまま僕を襲う。
「もう、いいよね」
新は呟き、窓の外の暮れなずむ空を見つめた。
彼女のいない世界で、新しく刻まれる時間なんて、僕には必要なかった。
明日が来なければいい。そう願いながら、新は冷え切ったコーヒーを流し込んだ。
この時、彼はまだ知らなかった。
止まっていたはずの彼の時計が、もうすぐ残酷な「終わり」に向けて、再び動き出すことを。
🔚
第2話:空を掴む指先
|新《あらた》がその異変に気づいたのは、|永莉《えり》の一周忌を終えて数日後のことだった。
朝、目が覚めると、鉛を飲み込んだように身体が重い。
それはいつもの精神的な絶望感だと思っていた。けれど、洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、新は思わず手を止めた。
頬は痩せこけ、肌は土気色をしている。二十三歳の若者が持つべき生気は、どこにもなかった。
「……別に、どうなってもいいか」
独り言をこぼし、新は歯ブラシを口に加えた。
今の彼にとって、健康管理など無意味な儀式に過ぎない。永莉がいない世界で、自分の身体を労わる理由が見つからなかった。
ふと、視界の端に何かが映った。
棚の奥に置かれたままの、未開封のサプリメント。
『新くん、すぐ夜更かしするんだから。これ飲んで、ちゃんと長生きしてよね』
小言を言いながら、それを無理やり買わせた永莉の、心配そうな、でも愛おしげな瞳を思い出す。
「長生きなんて、したくないよ……」
その瞬間、激しいめまいが新を襲った。
視界がぐにゃりと歪み、足の力が抜ける。
「あ……」
咄嗟に壁を掴もうとした指先は、|空《くう》を切り、新はその場に崩れ落ちた。
冷たいタイルの感触が頬に伝わる。
意識が遠のく中で、新は不思議な安堵感の中にいた。
(このまま、眠るように終われたら。そうしたら、永莉のところへ行けるかな)
どれくらいの時間が経っただろうか。
静まり返った部屋に、スマートフォンのバイブ音が無機質に響き渡った。
液晶画面には『母さん』の文字。
一年前から、何度も無視し続けてきた着信。けれど、今の新には、それを拒絶する力すら残っていなかった。
「……もしもし」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
『新? アンタ、生きてるの? ずっと連絡もしないで……。お父さんも心配して、明日そっちに行くって言ってるわよ』
「いいよ。来なくて……。大丈夫だから」
『声が変よ。ちゃんと食べてるの? 永莉さんが亡くなって辛いのはわかるけど、アンタまで死んじゃったら……』
母の言葉が、耳の奥で棘のように刺さる。
死んじゃったら、何だというのか。
誰が悲しむのか。
そんなことより、自分はただ、永莉に会いたい。
電話を切った後、新は這うようにしてソファにしがみついた。
けれど、胃のあたりから突き上げてくる鋭い痛みが、彼を放してはくれない。
それは、ただの不摂生によるものだとは到底思えない、どす黒い「死」の予感だった。
新は震える手で、永莉との『未来のノート』を引き寄せた。
ノートの隅には、二人が笑いながら描いた、へたくそな「理想の家」の間取り図がある。
大きな窓、日当たりのいいリビング、子供部屋は二つ。
その図面の上に、一滴、涙が落ちて滲んだ。
「痛い、よ……永莉……」
死にたいと思っていたはずなのに。
身体が発する悲鳴は、彼を恐怖へと引きずり込んでいく。
このまま独りきりで、誰に看取られることもなく消えていく。
それは、彼が望んでいた「再会」とは、どこか決定的に違うような気がした。
新は、重い瞼を閉じた。
次に目を開けた時、そこが天国か、それとも冷たい病室の天井か。
彼はまだ、自分の運命が大きく舵を切ったことに気づいていなかった。
🔚