初めましてから始まる『物語』
編集者:音猫 このは
引きこもり主人公の「るり」
ある時 とあるサイトを見つけて・・・・
それで投稿をした
題名は『初めまして』
そして
そこから始まるときめくストーリー
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目次
1話 言葉の種
第1話:言葉の種、暗闇に蒔く
中学2年生の秋。るりの世界は、重たい遮光カーテンの隙間から漏れる、わずかな埃のダンスで完結していた。
半年間、学校には行っていない。最初は「お腹が痛い」という小さな嘘だった。それがいつの間にか、朝、制服に着替えようとすると心臓が壊れたドラムのように暴れ出し、玄関のドアノブが100キロもある鉄塊のように感じられるようになった。
「るり、お昼置いておくわね」
母の静かな声がドア越しに聞こえる。返事はしない。できない。ただ、ベッドの中で芋虫のように丸まり、スマートフォンを眺めるだけ。画面の中には、学校のクラスメイトたちが楽しそうに修学旅行の計画を立てるSNSの投稿が流れてくる。そこには、クラスのリーダー的存在であるサイン――本名の「彩音(あやね)」として、太陽のような笑顔でピースサインをする彼女の姿もあった。
「……まぶしいな」
るりは画面を消した。暗転した液晶に映る自分の顔は、幽霊みたいに青白かった。
現実の世界は、あまりに情報量が多く、残酷だ。誰かの視線、誰かの囁き、正解のない会話。それらに向き合うのが怖くて、るりは自分の殻をどんどん厚くしていった。けれど、その殻の中はあまりにも静かで、時々、自分が本当に存在しているのかさえ分からなくなる。
そんなある夜。眠れずにネットの海を漂っていたるりは、一つのサイトに辿り着いた。
『コトノハ・ガーデン』
淡い水色の背景に、柔らかな手書き風のフォント。そこは、自分の想いを一粒の「種」として植え、それを見た誰かがコメントという名の「水」をやることで、言葉の花を咲かせるというコンセプトの掲示板だった。
「ここなら……」
誰も自分の正体を知らない。誰も「なぜ学校に来ないの」なんて聞かない。るりは、震える指でアカウントを作成した。
ハンドルネーム:このは
風に舞う木の葉のように、どこか遠くへ飛んでいきたい。そんな願いを込めた。
そして、真っ白な投稿画面。るりは何分も、何十分も、カーソルが点滅するのを見つめていた。今の自分の正直な気持ち。それを言葉にすることさえ、最初は怖かった。でも、このまま消えてしまうくらいなら、一言だけ、誰かに向かって叫んでみたかった。
タイトル:初めまして!
どこかの誰かさんこんにちは。今日から言葉の「種」を植え付けに来ました「このは」と申します。よろしくお願いします。
私は現実と向き合うのが怖くて引きこもってます。
毎日、自分の部屋から出るのが怖いです。外の音が怖いです。
こんな私だけど、ここで誰かと繋がれたら嬉しいなと思って書きました。
「送信」のボタンを押した瞬間、心臓が跳ねた。
「馬鹿にされるかもしれない」「甘えるなと言われるかもしれない」。るりはすぐにスマートフォンを裏返し、毛布を頭から被った。心臓の音が耳元でうるさく響く。
1分、5分、10分。
恐る恐るスマートフォンを手に取ると、通知ランプが点滅していた。
おびえながら画面を開く。そこには、一通の返信(水)が届いていた。
ピーナッツサイン:
こんにちは!私はピーナッツサイン!
投稿見てびっくりしちゃった。私も、現実世界と向き合うのが怖いんだ……。
外では無理して笑ってるけど、家ではずっと一人で震えてるよ。
「このは」さんの勇気ある言葉に救われました。よろしくね!
るりは目を見開いた。
「ピーナッツサイン」という名前。その明るい響きとは裏腹に、綴られた言葉は自分と同じ、深い孤独の香りがした。
自分と同じように、現実を怖がっている人がいる。
自分と同じように、この静かな夜の中で、誰かの言葉を待っている人がいる。
「……ひとりじゃ、なかった」
部屋の空気は相変わらず冷たかったけれど、胸の奥に、小さな小さな灯火が宿ったような気がした。
この時、るりはまだ知らなかった。
画面の向こうで「ピーナッツサイン」として文字を打っているのが、あの日SNSで眩しい笑顔を見せていたクラスのリーダー、サインであるということを。
そして、この小さな「種」が、やがて二人の運命を大きく変えていくことになるということを。
るりはゆっくりと、返信の文字を打ち込み始めた。
閉ざされた部屋の中で、新しい物語が、今、産声を上げた。
2話 裏と表
「ピーナッツサイン」からの返信を何度も読み返しているうちに、るりはいつの間にか眠りについていた。
翌日、目が覚めたのは午後2時。いつもなら「また無駄な一日が始まった」と絶望する時間だが、今日は違った。枕元に置いたスマートフォンを手に取ると、昨日植えた「種」が、画面の中で優しく揺れているように見えた。
一方、その頃。
るりの通う中学校では、5時間目の休み時間が始まっていた。
「ねえ、サイン! 今度の文化祭、ステージ発表のリーダーやってよ!」
「えー、また私? しょうがないなぁ。みんながそう言うなら、一肌脱いじゃうよ!」
教室の中心で、ひときわ明るい声を響かせているのは、サインだった。
彼女はクラスの太陽だ。成績優秀で、誰にでも平等に接し、常に笑顔を絶やさない。みんな、彼女がいればクラスは安泰だと信じきっている。
けれど。
「……あはは、そうだね。じゃあ、放課後ミーティングしようか」
笑いながら、サインの指先は微かに震えていた。
(怖い。みんなの期待が怖い。もし失敗したら? もし愛想を尽かされたら?)
心の奥で鳴り響く警笛を、彼女はプロの役者のような笑顔で押し殺す。彩音にとって、学校は「完璧なリーダー」という役を演じ続ける舞台だった。
放課後、すべての仕事を終え、すっかり暗くなった道を一人で帰る。
玄関のドアを開け、自分の部屋に入り、鍵をかける。その瞬間、彩音は糸が切れた人形のように床に崩れ落ちた。
「……疲れた」
制服を脱ぐ気力もない。電気もつけない。
暗闇の中で、彼女はただの「サイン」に戻る。
この部屋だけが、現実の恐怖から逃げ込める唯一のシェルターだった。
彩音は震える手でスマートフォンを起動し、ブックマークしてある『コトノハ・ガーデン』を開いた。
そこには、昨日見つけた「このは」という名前の女の子からの返信が届いていた。
このは:
ピーナッツさいんさん、お返事ありがとうございます。
「外では無理して笑ってる」という言葉、胸に刺さりました。
私は笑うことさえできなくなって逃げ出してしまったけれど、さいんさんは毎日頑張っているんですね。
ここでは、無理して笑わなくても大丈夫ですよ。
その文字を読んだ瞬間、サインの目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
学校の誰も知らない。親でさえ気づいていない。
自分が「無理をして笑っている」ということを、会ったこともない、この暗闇のどこかにいる「このは」だけが、真っ先に見抜いてくれた。
ピーナッツサイン:
このはちゃん、ありがとう。
その言葉だけで、今日一日の重荷がすうっと軽くなった気がする。
実は、今日もずっと「いい子」を演じてきたんだ。
誰も私の本当の顔なんて見てない。
でも、ここでこのはちゃんと話している時だけは、仮面を外せる気がするよ。
彩音は、誰にも見せない本当の涙を拭いながら、文字を綴る。
画面の向こう側にいる「このは」が、まさか自分のクラスで欠席し続けている「るり」だとは、夢にも思わずに。
るりもまた、暗い部屋でそのメッセージを受け取っていた。
クラスのリーダーとして君臨する彩音と、孤独な自分。
二人は今、インターネットという透明な糸で、心臓の鼓動を共有し始めていた。
「ピーナッツサインサインさん……優しい人だな」
るりは、久しぶりに自分の部屋のカーテンを少しだけ開けた。
夜空には、サイトの名前と同じように、小さな星が一つだけ、控えめに光っていた。
3話 名前の響き 心の距離
『コトノハ・ガーデン』に植えた二人の「言葉の種」は、驚くほどの速さで芽を出し始めていた。
るりにとって、一日の始まりは太陽が昇る時ではなく、スマートフォンの画面にピーナッツサインからの通知が届く瞬間になった。
このは:
ピーナッツサインさん、おはようございます。
今日は雨の音が静かで、いつもより少しだけ落ち着いて過ごせています。
そっちは、どんな空ですか?
返信は、数時間後の放課後。るりは、その空白の時間にピーナッツサインが「現実」という戦場で戦っていることを想像し、胸を締め付けられるような思いで待っていた。
一方、学校でのサインは、相変わらず「完璧なリーダー」を演じ続けていた。
「サインちゃん、次の体育祭の種目決め、まとめてくれる?」
「もちろん!任せて。みんなが楽しめるように考えるね!」
クラスメイトに向ける笑顔に、曇りひとつない。けれど、机の下で握りしめたスマートフォンが、ポケット越しに熱を持っているのを感じていた。
(このはちゃんは、雨の音が好きって言ってたな……)
サインは、教室の窓を打つ雨粒を見つめた。自分にとっては、湿気で髪が乱れ、憂鬱な気分にさせるだけの雨。でも、画面の向こうの「このは」が「落ち着く」と言っただけで、その雨音が少しだけ優しい音楽のように聞こえてくるから不思議だった。
放課後、図書室の隅で一人になった瞬間に、彼女は「ピーナッツサイン」に戻る。
ピーナッツサイン:
このはちゃん、こっちは土砂降りだよ!
でも、このはちゃんのメッセージを読んだら、雨も悪くないなって思えた。
不思議だね。
あ、そうだ。もしよかったら、これからは敬語なしで話さない?
私たち、きっと似た者同士だと思うから。
自分の部屋でそのメッセージを受け取ったるりは、ベッドの上で小さく跳ねた。
「敬語なし……」
それは、心の壁を一枚取り払うような、勇気のいる提案だった。
るりは、ゆっくりと文字を打ち込む。
このは:
うん、わかった。ピーナッツサイン……ちゃん?
私も、敬語じゃないほうが嬉しい。
なんだか、本当の友達になれたみたいで。
「友達」
その二文字を打ち込む時、るりの指先は熱くなった。学校に行けなくなってから、ずっと遠ざけていた言葉。けれど、今の自分には、画面越しに笑いかけてくれるピーナッツサインこそが、世界で一番信頼できる「友達」だった。
ピーナッツサイン:
やった! 嬉しいな、このはちゃん。
これからたくさん、色んなこと話そうね。
誰にも言えない秘密とか、好きな食べ物とか……
私、本当はピーナッツチョコが止まらないくらい好きなんだ(笑)
るりは、くすっと笑い声を上げた。
部屋の中に自分の笑い声が響いたのは、一体いつぶりだろう。
学校では太陽のように輝くサイン。
部屋の中で怯えながら、ピーナッツチョコを頬張る「ピーナッツサイン」。
そして、外の世界を拒絶しながらも、一歩ずつ言葉を紡ぎ始めた「このは」。
二人の少女は、まだお互いの本当の顔を知らない。
同じ教室に、空席のままの机と、その机を見つめるリーダーがいることにも、まだ気づいていなかった。
けれど、冷たい雨が降るこの日。
二人の間に、小さな、温かな「約束の芽」が確かに膨らみ始めていた。
4話 夜の図書館 消えない不安
「ピーナッツサインちゃんとのやり取りが始まってから、夜が怖くなくなった。」
るりはノートの端に、誰にも見せない小さな日記を書き留めた。これまでは、暗闇が迫ってくると「明日が来なければいい」と泣いていたのに、今は「明日の通知」が待ち遠しい。
一方、学校の放課後。サインは一人、誰もいなくなった教室に残っていた。
日中の「リーダーとしての自分」を使い果たし、バッテリーが切れたような状態だった。
「ふぅ……」
大きなため息をつき、机に突っ伏す。ふと顔を上げると、視線の先には、一脚の**「空席」**があった。
そこは、るりの席だった。
(この席の子……天音るりさん、だっけ。もう半年も来てないんだ)
サインは、その空席に自分を重ねていた。本当は、私もそこに行きたい。何もかも放り出して、誰とも喋らず、ただ部屋に閉じこもっていたい。でも、私にはそれができない。一度でも「優等生のサインちゃん」を辞めてしまったら、居場所がなくなるのが怖かったから。
彼女は震える指でスマートフォンを取り出し、『コトノハ・ガーデン』を開いた。そこには、このは(るり)からの新しい投稿があった。
このは:
ピーナッツサインちゃん。
今日、お母さんが部屋の前に「学校のプリント」を置いていったんだ。
封筒を開けるのが怖くて、そのまま放置しちゃってる。
文字を見るだけで、外の世界に引きずり出されるみたいで。
サインの胸が、ズキンと痛んだ。そのプリントを配ったのは、紛れもなく自分だったからだ。先生に頼まれて、毎週末、るりの家まで届けている。ポストに入れる瞬間の、あの何とも言えない後ろめたさと、届かない想い。
ピーナッツサイン:
わかるよ、その気持ち。
期待されるのも、思い出させられるのも、すごく重たいよね。
でもね、そのプリントを置いた人も、もしかしたら「どうすればいいか分からない」だけなのかも。
無理に開けなくていいよ。今は、私とお喋りしてよう?
るりは、その返信を見て、部屋の隅に転がっている茶封筒をじっと見つめた。
(サインちゃん……ピーナッツサインちゃんは、どうしてこんなに私の気持ちがわかるんだろう)
二人は、お互いの正体に1ミリも気づかないまま、最も深い場所で傷を舐め合っていた。
「ねえ、このはちゃん」
サインは、誰もいない教室でポツリと呟いた。
「いつか、私たちが『本当の自分』で笑える日が来るのかな」
返事は画面の中の文字としてしか返ってこないけれど、今のサインにとっては、クラスメイトの誰よりも、この「このは」という存在が、自分の魂の片割れのように感じられていた。
窓の外では、夕焼けが燃えるように赤く染まっていた。
現実は相変わらず厳しく、怖いままだ。
それでも、ポケットの中にある小さな光が、二人の足元をわずかに照らし始めていた。
5話 見えない糸
第5話:見えない糸、重なる名前
その日、サインは担任の先生から一冊のノートを託されていた。
「佐伯さん、悪いね。天音さんの家にこれを届けてくれないか。授業の板書をまとめたものだ」
「はい、わかりました。任せてください!」
いつものように、一点の曇りもない笑顔で引き受ける。けれど、カバンにノートを仕舞い込んだ瞬間、サインの心には鉛のような重しがのしかかった。
放課後、サインは住宅街の一角にある「天音」と書かれた表札の前に立っていた。
この家の二階、あの閉ざされたカーテンの向こうに、自分と同じように現実を怖がっている女の子がいる。
(天音るりさん……。彼女も、私と同じように夜を怖がっているのかな)
ポストにノートを差し入れ、サインは逃げるようにその場を去った。
本当は、チャイムを鳴らして「大丈夫?」と声をかけたい自分もいる。でも、もし拒絶されたら? 完璧なリーダーである自分が「助けられない」という事実を突きつけられるのが、何よりも怖かった。
一方、二階の自室。
ポストの音が静かに響くのを、るりは息を潜めて聞いていた。
数分後、母が階段を上がってきて、ドアの前にノートを置いた。
「るり、クラスのサインさんが届けてくれたわよ。いつも親切ね」
……サインさん。クラスの太陽、サインのことだ。
るりは、這い出すようにしてドアを開け、そのノートを部屋に引き入れた。
表紙には、丁寧で整った字で「天音るり様へ」と書かれている。中を開くと、カラフルなペンで分かりやすくまとめられた授業の内容。そのあまりの眩しさに、るりは目を逸らしたくなった。
「サインちゃんは、いいな……。あんなに明るくて、みんなに好かれて。私みたいな子のことなんて、可哀想な『欠席者』としか思ってないんだろうな」
るりはノートを床に置き、震える手でスマートフォンを手に取った。今の自分を救ってくれるのは、クラスのリーダーではなく、画面の中の「友達」だけだ。
このは:
ピーナッツサインちゃん。
今日、学校の「完璧な子」が家までノートを届けてくれたんだ。
その子が親切なのはわかってる。でも、そのキラキラした親切が、今の私には刃物みたいに痛いんだ。
私は、その子のようにはなれないから。
数秒後。
駅のホームで電車を待っていたサインのスマートフォンが震えた。
メッセージを読んだ瞬間、サインは喉の奥が熱くなるのを感じた。
ピーナッツサイン:
その「完璧な子」も、もしかしたら必死にキラキラを演じているだけかもしれないよ。
本当は、そのノートを届ける時、手が震えていたかもしれない。
このはちゃんを傷つけたくなくて、でもどうすればいいか分からなくて、泣きたい気持ちだったのかも。
……ごめんね、勝手なこと言って。
でも、少なくとも私は、このはちゃんが「その子」と比較して自分を責めるのは悲しいな。
るりは、画面を見つめたまま固まった。
ピーナッツサインの言葉は、まるでその場を見ていたかのように、るりの凝り固まった心を解きほぐしていく。
(……サインちゃんも、演じている? まさか)
るりは、床に置かれたノートの端を、そっと指でなぞった。
「天音るり」と書かれた自分の名前。
そして、画面の中で優しく寄り添ってくれる「ピーナッツサイン」。
二人の距離は、現実世界ではわずか数メートルの壁を隔てているだけ。
けれど、心の中では、今、誰よりも深く繋がり合おうとしていた。
6話 銀河より遠い向こう側
第6話:一番遠い、銀河の向こう側
るりにとって、同じクラスの「サイン)」という存在は、もはや同じ人間とは思えないほど遠い、銀河の彼方の星のようなものだった。
「……まぶしすぎるよ」
部屋の床に置かれたノートを見つめ、るりは溜息をついた。
サインは、いつもクラスの中心で笑い、誰からも頼られ、淀みなく言葉を紡ぐ。彼女の世界には、きっと「影」なんて一ミリも存在しない。太陽が自ら燃え続けるように、彼女は生まれながらの光なのだ。
それに比べて、自分はどうだろう。
昼間にカーテンを開けることさえ怖くて、暗い部屋でスマートフォンの淡い光に縋り付いている。
自分と彼女の間には、何万光年もの距離がある。るりはそう確信していた。
だからこそ、**「ピーナッツサイン」**という存在が、るりにとって唯一の救いだった。
このは:
ピーナッツサインちゃん。
さっき届いたノート、中身を見たらすごく綺麗だった。
でも、それを見ていると、自分がどんどん惨めになっちゃうんだ。
彼女(サイン)は、あんなに高いところにいて、私を見下ろしているような気がして……。
ピーナッツサインちゃんみたいに、同じ暗闇にいてくれる人がいて本当によかった。
一方、帰りの電車に揺られるサインは、そのメッセージを読んで、自嘲気味に口角を上げた。
(……高いところ? 見下ろしてる?)
違う。本当は、私もそっちに行きたい。
クラスメイトの期待、先生の信頼、親の誇り。それらを全部背負って、足が震えている。
みんなに見せている「サイン」は、張りぼての偶像だ。中身は空っぽで、いつ崩れてもおかしくない。
(天音(あまね)さんはいいな。自分の心に正直に、この「戦場」から降りることができたんだから……)
サインにとっても、不登校の「天音るり」は、ある種「自分には到達できない勇気を持った人」に見えていた。自分は、怖くて逃げることさえできない臆病者だから。
二人は、お互いを「自分とは正反対の、一番遠くにいる存在」だと決めつけていた。
るりは、サインを「完璧すぎて理解できない光」だと。
サインは、るりを「自分にはできない決断をした、遠い影」だと。
ピーナッツサイン:
このはちゃん。
私も、その「完璧な子」の話を聞いていると、なんだか苦しくなるよ。
たぶん、その子も自分自身のことが嫌いなんじゃないかな。
光が強ければ強いほど、その影は濃くなるものだから。
私たちは、暗闇のままでいいんだよ。ここで、ゆっくり休もう。
「……暗闇のままでいい」
るりは、その言葉を何度も心の中で唱えた。
画面の向こうにいるピーナッツサインちゃんは、きっと自分と同じように、人里離れた静かな場所で、ひっそりと生きている優しい人なんだろうな。
いつか、その「暗闇」の中で、二人で手をつなげたらいいのに。
まさか、自分たちが明日も同じ「中学2年生」という枠組みの中で、同じ空気を吸い、同じノートを通じてニアミスしているなんて。
二人の認識は、完璧なまでにすれ違ったまま。
けれど、心の根っこだけは、確実に絡まり合っていく。
7話 雨月の夜
ハロハロ~~
久しぶりに前書き
題名が何言ってるか分からなくなっちゃって来たよ・・・・
で、いきなりだけどサインの苗字決定し居ました!
「雨月サイン」(あめつき さいん)です!
それではスタート!
第7話:雨月(あめつき)の夜に、光を灯す
その日の放課後、空は重たい鉛色に包まれていた。
雨月(あめつき)サインは、誰もいなくなった教室の窓際に立ち、降り始めた雨をじっと見つめていた。
「……雨月、か」
自分の名字を指でなぞる。雨の月。太陽の光を遮る雲が広がり、しとしとと降り注ぐ雨の中で、ひっそりと、誰にも気づかれずに輝く月。
クラスメイトたちの前では、その「雨」を感じさせないほど、ひまわりのような笑顔を作っているけれど。
「サインちゃん、次の学級通信のイラスト、お願いしていい?」
「もちろん!任せて。みんながびっくりするようなの描いちゃうからね!」
そう答えるたび、彼女の心には冷たい雨水が溜まっていく。
「明るいリーダー」という器が、今にも溢れそうだった。
彼女は震える手でスマートフォンを取り出し、世界でたった一人、自分の「雨」を分かち合える相手――このはにメッセージを送った。
ピーナッツサイン:
このはちゃん。
今日は私の名前みたいな、雨の日だよ。
外ではみんな「雨だね、嫌だね」って笑いながら傘を差してる。
でも、私は傘も差さずに、この雨に打たれて消えてしまいたいって、ずっと思ってるんだ。
自室のベッドでそのメッセージを受け取った天音るりは、ハッとして身を起こした。
ピーナッツサインの言葉からは、いつになく深い、底なしの孤独が伝わってきたからだ。
このは:
ピーナッツサインちゃん、大丈夫?
消えないで。もし君が消えちゃったら、私の世界は本当に真っ暗になっちゃう。
傘がなくてもいいよ。私が、画面越しに君の隣で、一緒に濡れるから。
一人じゃないよ。
るりの指先は、自分でも驚くほど熱を持っていた。
学校に行けない自分は、誰の役にも立てない、透明な人間だと思っていた。けれど今、この瞬間、画面の向こうにいる「ピーナッツサイン」という一人の人間が、自分を必要としてくれている。その実感が、るりの心に小さな灯をともした。
ピーナッツサイン:
……ありがとう、このはちゃん。
「一緒に濡れる」なんて言ってくれたの、このはちゃんが初めて。
救われたよ。本当だよ。
雨月サインは、駅のベンチで一人、スマートフォンの画面を胸に抱きしめた。
彼女にとって、学校で呼ばれる「雨月さん」という名前は、期待に応え続けなければならない重い鎖のようなものだった。けれど、このはが呼んでくれる「ピーナッツサイン」という名前は、自分を自由にしてくれる、夜風のような魔法の言葉だった。
二人は、まだお互いの本当の姿を知らない。
**「天音(あまね)」**という、空から降る音色のような名字を持つ少女。
**「雨月(あめつき)」**という、雨に濡れる月のような名字を持つ少女。
空(天)から降る雨が、月を濡らすように、二人の心は分かちがたく混ざり合っていく。
けれど、その距離は依然として「銀河の向こう側」にあると思い込んだまま。
「いつか……会えるのかな」
るりが窓の外の雨空に向かって呟いた言葉は、奇しくも同じ時刻、駅のホームでサインが漏らした溜息と、全く同じ温度をしていた。
8話 夜空リウムへの約束
第8話:夜空リウムへの約束
雨上がりの夜、空気は澄み渡り、天音るりの部屋の窓からは星がいくつか顔をのぞかせていた。
いつもなら「明日が来る」という事実に怯える時間だが、今夜のるりは違った。パソコンの前に座り、高鳴る胸を押さえながら『コトノハ・ガーデン』の特設ページを見つめていた。
画面には、大きなクジラが星の海を泳ぐ美しいイラストとともに、こんな告知が出ていた。
【特別イベント:インターネット夜空リウム開催】
離れた場所にいても、同じ星空を見上げよう。サイト内のプラネタリウム会場で、一夜限りの光のショーを上映します。
「……これ、誘ってみようかな」
るりは震える指で、ピーナッツサインにメッセージを送った。
学校という現実の場所では、誰かを誘うなんて絶対に無理だ。断られるのが怖いし、自分の声が空気に溶けて消えてしまうのが恐ろしいから。でも、文字なら、この場所なら。
このは:
ピーナッツサインちゃん。
今週末の「夜空リウム」、もしよかったら……一緒に見ない?
同じ時間にログインして、チャットしながら見られたら楽しいなって思って。
送信ボタンを押してから、るりは息を止めた。返信が来るまでの数分間が、永遠のように感じられる。
その頃、雨月(あめつき)サインは、塾の自習室で参考書を閉じたところだった。
「完璧なリーダー」としての仮面を脱ぎ捨て、疲れ切った心でスマートフォンを開く。そこにあったのは、このはからの、控えめで、でも温かい誘いだった。
(……このはちゃんと、一緒に星を見る)
サインの目から、じんわりと熱いものが溢れそうになった。
学校の友達とは、いつも「どこに行くか」「何をするか」ばかりを気にしている。でも、このはとの約束は違う。ただ同じ時間に、同じ光を眺める。それだけで、自分の孤独が肯定されるような気がした。
ピーナッツサイン:
もちろん! 誘ってくれてありがとう、このはちゃん。
すっごく嬉しいよ。
約束ね。今週の土曜日、夜の9時。
最高の星空を、二人で独占しちゃおう!
「……約束」
るりは画面越しのその言葉を、大切に宝箱にしまうように心に刻んだ。
引きこもってからというもの、るりのカレンダーは真っ白だった。予定があること、誰かと待つ時間があること。それがこんなにも世界を色鮮やかに変えるなんて、思ってもみなかった。
(土曜日まで、あと三日。頑張って生きよう。この約束のために)
るりは、久しぶりにカレンダーの土曜日の欄に、小さく星のマークを描いた。
その頃、サインもまた、手帳の隅に「このはちゃんと星空」と書き込んでいた。
二人はまだ知らない。
この「夜空リウム」の約束が、後に二人の関係を大きく揺るがす、切ない嵐の予兆になることを。
今はただ、画面越しの小さな約束だけが、二人の暗い部屋を優しく照らしていた。
9話 朝食の奇跡
第9話:朝食の奇跡と、閉ざされた窓
土曜日の朝。
いつもなら、るりが目を覚ますのは昼過ぎだ。重たいカーテンの向こう側で世界が動いているのを感じながら、死んだように眠り続ける。それがここ半年の「日常」だった。
けれど、今日は違った。
枕元のスマートフォンを確認する。画面には『コトノハ・ガーデン』の通知。ピーナッツサインからの**「いよいよ今日だね!楽しみ!」**という短いメッセージ。
それを見た瞬間、るりの心臓がトクンと跳ねた。
(……お腹が、空いたな)
半年間、ずっと部屋の前に置かれたお盆の上の食事を、申し訳程度に口に運ぶだけだった。でも今は、自分の足で一階へ降りて、温かいものを食べたいと思った。今夜、ピーナッツサインと一緒に星を見るために、ちゃんとした自分になりたい。
るりは震える足でベッドを抜け出し、ゆっくりとドアを開けた。
ギィ、と鳴る廊下の音さえ、今は冒険の始まりのように聞こえる。
一階のリビングから、味噌汁の匂いとテレビの音が微かに聞こえてくる。
るりが階段を下りていくと、キッチンにいた母が凍りついたように動きを止めた。
「……るり?」
父も新聞を広げたまま、眼鏡をずらして娘を凝視している。
るりは気まずそうに目を伏せながら、空いている席に座った。
「おはよ。……ご飯、食べていい?」
「あ……ああ! もちろんよ、今すぐ用意するわね!」
母の声が裏返る。慌てて茶碗を出す手がつっかえ、お玉を落としそうになりながらも、母は必死に笑顔を作った。
食卓に出されたのは、炊きたてのご飯と、湯気の立つお味噌汁、それに卵焼き。
るりは一口、お箸で卵焼きを口に運んだ。
「……おいしい」
その一言が、静かなリビングに響いた瞬間だった。
「うっ……ううぅ……」
隣で新聞を持っていた父が、顔を覆って声を殺して泣き始めた。母も、るりの茶碗に御飯をよそいながら、大粒の涙をポロポロと畳にこぼしている。
「よかった……本当によかった……」
二人は何も聞かなかった。「なぜ起きてきたのか」「学校はどうするのか」。そんなことはどうでもよかった。ただ、娘が自ら部屋を出て、一緒にご飯を食べてくれている。その事実だけで、止まっていた家族の時間が、激流のように動き出したのだ。
るりは、泣きじゃくる両親を見て、少しだけ胸が痛んだ。
(ごめんね。でもね、私、約束があるの。今夜、大事な友達と星を見るんだ)
ふと、リビングの窓から差し込む朝陽が目に刺さった。
るりは立ち上がり、歩み寄って窓の鍵をカチリと閉めた。そして、分厚いカーテンもしっかりと引く。
「……ごめん、まだ光は、ちょっと怖いんだ」
そう。外の世界に完全に出る勇気は、まだない。
でも、窓を閉めたのは「拒絶」ではなく「準備」のためだった。
自分たちの安全な暗闇の中で、最高の夜を迎えるための。
「今日、夜の9時に、部屋でパソコン使うから。……邪魔しないでね」
るりの小さなお願いに、両親は何度も何度も、涙を拭いながら頷いた。
リビングの空気は、半年ぶりに温かな、そして確かな「生活」の匂いで満たされていた。
10話 忘れた夜空
第10話、約束の日当日の物語を執筆します。
第10話:暗転する星空、閉ざされた心
朝食を家族と囲んだあの時間は、るりにとって奇跡のような出来事だった。
けれど、半年間ずっと殻に閉じこもっていた心にとって、親の涙を受け止め、会話をし、光の中に身を置くことは、フルマラソンを走るほどのエネルギーを消費するものだった。
「……少しだけ、横になろう」
自室に戻ったるりは、達成感と同時に、泥のような疲労感に襲われた。
時計の針は午前11時。夜の9時までは、まだたっぷり時間がある。
アラームをセットして、るりは吸い込まれるようにベッドに沈んでいった。
その頃、学校の図書室。
雨月(あめつき)サインは、落ち着かない手つきでスマートフォンの画面を確認していた。
(あと10時間……。このはちゃん、楽しみにしてるかな)
サインもまた、緊張していた。学校での「完璧な自分」を維持しながら、夜の約束を心の支えに一日を乗り切る。彼女にとって、今夜の夜空リウムは、現実の苦しさをすべて洗い流してくれる儀式のようなものだった。
夕方になり、夜が訪れる。
サインは早めに帰宅し、部屋の鍵をかけ、パソコンの前に座った。
20時45分。20時55分。
『コトノハ・ガーデン』の特設チャットルームに入室する。
「このはちゃん、もう来てるかな?」
しかし、画面のメンバーリストに「このは」の名前はない。
「きっと準備してるんだよね」
サインは自分に言い聞かせ、ピーナッツチョコの袋を開けた。
……21時。夜空リウムの上映が始まった。
画面いっぱいに広がる、CGとは思えないほど美しい銀河。クジラが星の海を悠々と泳ぎ、クリスタル色の星屑が降り注ぐ。
「……きれい」
サインはチャット欄に文字を打ち込んだ。
ピーナッツサイン:
このはちゃん!始まったよ! すごく綺麗だよ!
返信はない。
21時15分。21時30分。
華やかな音楽が部屋に響く中、サインの心はどんどん冷たくなっていく。
(どうしたんだろう。具合が悪くなったのかな。それとも……私との約束、忘れちゃった?)
「そんなはずない」と思いたい。でも、心のどこかで「自分なんかが誰かと約束をするなんて、おこがましかったんだ」というネガティブな思考が頭をもたげる。
一方、その頃。
るりは、深い、深い眠りの底にいた。
セットしたはずのアラームは、無意識のうちに止めてしまっていた。朝の「頑張り」の反動で、体温が上がり、意識が朦朧としていたのだ。
ふと、るりが目を覚ましたのは、深夜の1時だった。
部屋の中は真っ暗。静まり返っている。
「……あ」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
慌ててパソコンの電源を入れる。青白い光が目に刺さる。
『コトノハ・ガーデン』を開くと、そこにはピーナッツサインからのメッセージが何通も届いていた。
ピーナッツサイン(21:05):
始まったよー!
ピーナッツサイン(21:40):
このはちゃん? 忙しいかな?
ピーナッツサイン(22:10):
……終わっちゃった。また今度、お話ししようね。
「やってしまった」
るりは頭を抱えた。
あんなに楽しみにして、あんなに自分を奮い立たせて、家族にまで宣言したのに。
一番大切な、唯一の友達との約束を、自分は壊してしまった。
「……消えたい」
溢れ出した涙が、キーボードの上にこぼれ落ちる。
謝らなきゃ。でも、なんて言えばいい? 「寝てました」なんて、そんなの、ピーナッツサインちゃんを傷つけるだけじゃないか。
絶望感に飲み込まれたるりは、震える指で、もっとも短く、もっとも冷たい言葉を打ち込んでしまった。
タイトル:ごめんね 休む
しばらく来られません。ごめんなさい。
それが、るりが精一杯振り絞った「拒絶」という名の、自分への罰だった。
11話 止まった時計 聞こえない叫び
第11話:止まった時計と、届かない叫び
「……何やってるんだろう、私」
真っ暗な部屋の中、るりはパソコンのモニターを見つめたまま立ち尽くしていた。
画面に表示されているのは、自分が打ち込んだ**「ごめんね 休む」**という、そっけない、たった一言の投稿。
本当は、もっと言いたいことがあった。「楽しみすぎて空回りして、朝から頑張りすぎて、そのまま倒れるように寝ちゃったんだ」と。でも、学校にすら行けない自分にとって、そんな言い訳はただの甘えにしか思えなかった。
(ピーナッツサインちゃんは、ずっと待っててくれたのに。私は、一番大切な人を傷つけた……)
るりは、そのままパソコンの電源を強制終了させた。
ブツッという音と共に、唯一の「外」への窓が閉ざされる。
翌朝、母が心配して部屋の前に朝食を運んできたが、るりは一歩も部屋から出なかった。
せっかく動いた時計の針が、以前よりも重く、固く止まってしまった。
一方、学校の放課後。
雨月(あめつき)サインは、スマホを見つめたまま、凍りついたように動けずにいた。
このは:ごめんね 休む
その通知を見た瞬間、心臓が握りつぶされるような感覚に陥った。
「休む」という言葉。それは、この『コトノハ・ガーデン』という居場所からも、このはが消えてしまうことを意味していた。
「私のせい……?」
サインの脳裏に、最悪の想像が巡る。
(私が「一緒に見よう」なんて誘ったから、負担になっちゃったのかな。それとも、チャットで何回も話しかけたのが、うるさかった……?)
「サインちゃん、今日の部活どうする?」
「……ごめん。今日は、体調悪いから、先に帰るね」
いつもの「完璧な笑顔」が作れない。サインはうつむいたまま、逃げるように校門を飛び出した。
彼女にとっても、このはとの交流は「生きるための酸素」だった。それが突然、絶たれてしまった。
家に帰り、自分の部屋で一人になると、サインは泣きながら文字を打った。
返信が来ないことはわかっている。でも、伝えずにはいられなかった。
ピーナッツサイン:
このはちゃん。
謝らないで。私は怒ってなんてないよ。
むしろ、このはちゃんを追い詰めちゃったんじゃないかって、怖くてたまらない。
理由なんて言わなくていい。
私はここで、ずっと待ってるから。
いつか、また気が向いたときに、一言だけでいいから声をかけて。
君がいない夜は、すごく、すごく長いよ……。
そのメッセージは、電源の切れたるりのパソコンに、静かに届いていた。
二人の間には、深くて暗い沈黙の川が流れ始める。
現実の世界では、サインが今日も、空席のままの「天音るり」の机を、悲しげな目で見つめている。
そしてるりは、自分の殻の中に閉じこもり、自分の不甲斐なさを責め続けていた。
二人が再び「種」を蒔けるようになるまで、ここから長い「冬」のような時間が始まろうとしていた。
12話 モノクローム
設定が変わってる所がある?
黙れ~~~!
許してぇぇぇぇぇ!
ってことでスタート!
一度は家族と囲んだ食卓も、今は遠い夢のようだった。母がドアの前に置くお盆には、手つかずの食事が冷めて残っている。るりはベッドの中で、ただ天井を見つめていた。
(ピーナッツサインちゃん、きっと怒ってるよね。あんなに楽しみにしてくれてたのに……)
謝りたい。でも、謝るためには、自分が「寝過ごした」というあまりに情けない理由をさらけ出さなければならない。完璧に振る舞おうとして自爆した自分の愚かさを認めるのが、死ぬほど怖かった。
「……消えちゃいたいな」
るりは、暗闇の中で自分の指先を見つめた。
誰とも繋がっていない。誰からも必要とされていない。
そんな感覚が、じわじわと毒のように全身に回っていく。
一方、学校の雨月(あめつき)サインもまた、限界を迎えていた。
「サインちゃん、修学旅行の班決めのまとめ、お願いしていい?」
「……あ、うん。わかった」
いつものように引き受けたものの、鉛筆を握る手が震える。
心ここにあらず、という状態だった。
休み時間になるたび、隠れて『コトノハ・ガーデン』を開く。けれど、このは(るり)のページは「休む」という言葉で止まったまま。
(このはちゃん。どこに行っちゃったの? 私、何か悪いことした……?)
サインは、クラスのみんなに囲まれて笑いながら、心の中では土砂降りの雨に打たれていた。
彼女にとって、このはとの会話は「本当の自分」を呼吸させるための肺だった。その肺が塞がれ、息ができない。
放課後、サインは図書室の窓から校門を見つめた。
そこを通り過ぎていく生徒たちの群れ。その中に、かつてこの教室にいたはずの「天音るり」の姿はない。
(天音さんも、こんな気持ちなのかな。誰にも言えない苦しさを抱えて、一人で部屋にいるのかな……)
ふと、サインは自分のカバンの中にある、るりへの「配布物」の封筒に触れた。
先生から預かった、来週の予定表とプリント。
「……届けに行こう」
声をかける勇気はない。でも、せめて「誰かがあなたのことを忘れていない」という証拠だけでも置いてきたい。
それは、画面越しの「このは」に届けられない想いを、現実の「天音さん」に託すような、切ない八つ当たりに近い感情だった。
その日の夕方。
るりの家のポストに、カタン、と乾いた音が響いた。
二階の部屋でその音を聞いたるりは、ビクリと肩を揺らした。
(また……雨月さんだ)
自分は約束を破り、友達を傷つけ、部屋に引きこもっている最低な人間なのに。
どうして「完璧な彼女」は、あんなに熱心に自分に構うのだろう。
その「正しさ」が、今のるりには何よりも痛かった。
二人は、お互いがどれほどボロボロの状態で、お互いを求め合っているかに、まだ気づいていない。
止まったままの時計の針が、重たい音を立てて、1秒だけ震えた。
13話 封筒の中
ポストに落ちた「カタン」という音。それは、引きこもっているるりにとって、外の世界が自分を呼び戻そうとする鎖の音のように聞こえていた。
「……また、来たんだ」
るりは重い体をひきずり、一階のポストまで降りた。両親が買い物に出かけている隙を狙って。
取り出したのは、いつもの学校の封筒。差出人の欄には、丁寧な字で**「雨月サイン」**と書かれている。
(……雨月さん。どうして、こんなに熱心なの?)
部屋に戻り、るりはその封筒をじっと見つめた。いつもなら開けずに隅に追いやる。けれど、今のるりは「ピーナッツサイン」という心の支えを自ら断ち切り、極限まで孤独だった。誰でもいい、自分の存在を認めてくれる温もりが欲しかった。
震える手で、ハサミを入れる。
中から出てきたのは、時間割のプリントと、小さな一枚のメモ帳だった。
『天音さんへ。
最近、一段と寒くなってきたね。
教室の窓から見える銀杏の木が、すっかり黄色くなったよ。
無理に学校に来てほしいなんて言わない。
でも、天音さんの席が空いているのを見ると、少しだけ胸がチクッとするんだ。
気が向いた時でいいから、この景色、いつか一緒に見られたら嬉しいな。
――雨月サイン』
「……えっ」
るりは言葉を失った。
クラスのリーダーで、完璧で、自分とは住む世界が違うと思っていた雨月さんが、「胸がチクッとする」なんて。自分のような存在を、そんな風に思ってくれているなんて。
そのメッセージの温度は、画面越しに「ピーナッツサイン」がくれた言葉と、驚くほど似ていた。
(……どうして? ピーナッツサインちゃんも、雨月さんも……。みんな、どうして私なんかに優しくするの?)
るりの目から、一粒の涙がメモ帳に落ちた。
自分は約束を破り、逃げ出し、殻に閉じこもっている最低な人間だ。それなのに、外の世界はまだ自分を見捨てていなかった。
「……話したい」
その衝動を抑えられなかった。
でも、雨月さんに電話をする勇気はない。
るりが向かったのは、三日間ずっと電源を切っていたノートパソコンの前だった。
震える指でスイッチを入れる。
ファンの回る小さな音が、静かな部屋に響く。
ブラウザを立ち上げ、ブックマークの『コトノハ・ガーデン』をクリックした。
画面が表示された瞬間、通知の数が「99+」となっているのが見えた。
そのすべてが、ピーナッツサインからのメッセージだった。
ピーナッツサイン:
返信はいらないよ。でも、生きてて。
ピーナッツサイン:
今日ね、綺麗な夕焼けを見たよ。このはちゃんにも見せたかったな。
ピーナッツサイン:
信じて待ってる。絶対、また会えるって。
るりは、声を上げて泣いた。
自分が勝手に「怒っているだろう」「嫌われただろう」と決めつけて、一番大切な人を拒絶していたのは、自分自身の「弱さ」だったのだ。
ピーナッツサインちゃんは、ずっと、ここにいてくれた。
雨月さんも、ポストの前で、ずっと待ってくれていた。
るりは、涙を袖で拭い、三日ぶりにキーボードの上に指を置いた。
打ち込むのは、言い訳でも、長い謝罪でもない。
今の自分が、一番伝えたい、たった一言。
このは:
……ただいま。
エンターキーを押したその瞬間、るりの止まっていた時計が、大きく一歩、動き出した。
14話 お帰り 震える指先
「ただいま」
その四文字を送信した瞬間、るりは全身の力が抜けて椅子に沈み込んだ。心臓の鼓動が耳元でうるさく響く。拒絶されたらどうしよう。三日も無視した自分を、ピーナッツサインちゃんは許してくれるだろうか。
一分、二分。
画面を凝視するるりの目に、信じられない光景が映った。
通知欄が爆発したように光ったのだ。
ピーナッツサイン:
おかえり!!!!!!!!
ずっと、ずっと待ってたよ!!
よかった……本当によかった、このはちゃんが生きててくれて。
画面越しに、相手の叫び声が聞こえてくるようだった。ピーナッツサインからのメッセージは、それだけでは止まらなかった。
ピーナッツサイン:
謝らないでね。理由も聞かない。
ただ、またここでこのはちゃんの文字を見られただけで、私は今日、世界で一番幸せな人間だよ。
るりは、こらえきれずに嗚咽を漏らした。
自分を責めて、自分を呪って、勝手に「もう終わりだ」と幕を引こうとしていたのは、自分だけだった。ピーナッツサインは、暗闇の向こう側で、ずっと手を伸ばし続けてくれていたのだ。
一方、放課後の塾の自習室。
雨月サインは、机の下でスマートフォンを握りしめ、必死に涙をこらえていた。
周りの生徒たちがカリカリとペンを走らせる音の中で、彼女だけが、魂が震えるような歓喜に浸っていた。
(このはちゃん……。戻ってきてくれた。私の言葉、届いてたんだ)
サインにとって、この数日間は地獄のようだった。学校では相変わらず「完璧なリーダー」を演じ、誰にでも笑顔を振りまきながら、心の中では土砂降りの雨に打たれ、溺れそうになっていた。このはという「止まり木」を失った自分がいかに脆いか、痛いほど思い知らされたのだ。
サインは、震える指で返信を打つ。
ピーナッツサイン:
あのね、このはちゃん。
実は私、この数日間、学校でも家でもずっと泣きそうだったんだ。
でも、このはちゃんが「ただいま」って言ってくれたから、明日もまた「いい子」のフリをして頑張れそう。
救ってくれて、ありがとう。
るりは、そのメッセージを何度も何度も読み返した。
(救った……? 私が、ピーナッツサインちゃんを……?)
学校に行けず、家族を泣かせ、約束さえ守れなかった自分。
そんな自分が、誰かの支えになれている。その事実は、どんな薬よりも深く、るりの傷ついた心に浸透していった。
「……私も。私も、救われたよ」
るりは、三日ぶりに部屋の明かりをつけた。
蛍光灯の光が少しだけ眩しかったけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
ふと、机の隅に置かれた雨月サインからのメモが目に入る。
「天音さんの席が空いているのを見ると、少しだけ胸がチクッとするんだ」
ピーナッツサインと、雨月サイン。
画面の中の親友と、現実世界のクラスメイト。
二人の「サイン」が、今、るりの中で重なり合うことはまだない。
けれど、二人がくれた「温かさ」は、確実にるりの凍てついた心を溶かし始めていた。
「……明日も、パソコン開こう」
るりは、久しぶりに深い、安らかな眠りにつくことができた。
仲直りへの第一歩。それは、失いかけた絆をより強く結び直すための、大切な「雨」の時間だったのだ。
15話 静かなキッチン
翌朝、まだ太陽が昇りきらない蒼い時間。
天音家のキッチンに、小さな、けれど確かな包丁の音が響いていました。トントン、とリズムを刻むその音の主は、るりでした。
ゆうべ、ピーナッツサインと交わした「おかえり」と「ただいま」。その温もりが冷めないうちに、るりはどうしても動きたかったのです。自分を待ってくれている人がいる。その実感が、鉛のように重かった体を突き動かしました。
「……よし」
不格好ながらも焼き上がった卵焼きと、炊飯器から漂うお米の匂い。
るりは丁寧に、三人分の朝食を食卓に並べました。
しばらくして、二階から両親が下りてきました。階段を下りる足音が止まり、リビングのドアが開きます。
「……えっ?」
母が絶句し、父が目を丸くして立ち尽くしました。
そこには、エプロンをつけたまま椅子に座り、少し照れくさそうに俯いているるりの姿があったからです。
「るり……これ、あなたが?」
父が震える声で尋ねます。
「……うん。作った。……食べて」
るりは蚊の鳴くような声で答えました。そして、両親が食卓につこうとした瞬間、るりは鋭く、けれど切実な声で付け加えました。
「あ……でも、窓は開けないでね。」
リビングの大きな掃き出し窓。そこから差し込む朝の光は、今のるりにとって、まだ自分の「弱さ」を暴き立てる鋭い刃のように感じられました。薄暗い部屋の中で、自分を守ってくれるカーテンの影。その「安全地帯」を壊さないでほしい。それが、精一杯外へ歩み寄ろうとしているるりの、切実な条件でした。
「わかった、開けないわ。絶対に開けない。……ありがとう、るり。いただきます」
母は涙をこらえながら、るりが作った少し焦げた卵焼きを口に運びました。
「おいしい……本当においしいわ」
父もまた、何度も頷きながらご飯を頬張ります。
窓を閉め切り、電灯の光だけで囲む食卓。世間から見れば奇妙な光景かもしれません。けれど、天音家にとっては、これ以上ないほど温かく、希望に満ちた朝食でした。
るりは、二人が食べる姿をじっと見つめながら、心の中でピーナッツサインに報告していました。
(ピーナッツサインちゃん。私、今日、ご飯を作ったよ。窓は閉めたままだし、学校にはまだ行けないけど……。でも、一歩だけ、進めた気がするんだ)
現実の世界で、るりを気にかける雨月サイン。
ネットの世界で、るりを支え続けるピーナッツサイン。
二人の「サイン」が送ってくれた光が、るりを暗闇から少しずつ、けれど確実に引きずり出そうとしていました。
「……ごちそうさま。美味しかったよ、るり」
父の優しい声に、るりは小さく「……お粗末様」と答えました。
その声は、昨日までの消え入りそうな響きではなく、しっかりと「ここにある」という存在感を放っていました。
16話 2度目の約束
朝食を家族と囲めた喜びを胸に、るりは自分の部屋へ戻りました。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋。でも、今のるりの心には、以前のような重苦しい闇はありませんでした。
パソコンを立ち上げると、すぐに『コトノハ・ガーデン』の画面を開きます。そこには、ピーナッツサインからの新しい投稿がありました。
ピーナッツサイン:
このはちゃん!
さっき運営からお知らせが出てたよ。
12月のメインイベント……**「クリスマス・イルミネーション会」**が開催されるんだって!
るりは、その文字を目で追いました。
前回の「夜空リウム」での失敗が、チクリと胸を刺します。楽しみすぎて空回りして、結局行けなかったあの夜。謝ることもできずに逃げ出してしまった、苦い記憶。
このは:
クリスマス会……。
ピーナッツサインちゃん、私、また約束していいのかな。
前みたいに、またダメにしちゃうかもしれないのが、すごく怖くて。
震える指で打ち込んだ本音。るりにとって「約束」は、今や希望であると同時に、自分を壊しかねない恐怖の対象でもありました。
一方、放課後の教室。
雨月(あめつき)サインは、冬の気配が混じり始めた冷たい廊下で、スマホを見つめていました。このはの弱気な言葉に、彼女はギュッと胸を締め付けられます。
(このはちゃん……。大丈夫だよ。私が、何度でも手を引くから)
サインは、周りの目を盗んで素早く返信を打ちました。
ピーナッツサイン:
怖いよね。わかるよ。
でもね、今度は「絶対に遅れないように頑張る」っていう約束じゃなくて、
「もしダメになっても、何度でもやり直す」っていう約束にしない?
もし当日、このはちゃんが眠っちゃっても、行けなくなっちゃっても、私は怒らない。
私は会場で、このはちゃんの「言葉の種」が届くのを、いつまでだって待ってるよ。
「何度でも、やり直す……」
るりはその言葉を、口の中でそっと呟きました。
完璧じゃなくていい。失敗しても見捨てられない。その「許し」が、るりの心をどれほど軽くしたことか。
このは:
ありがとう、ピーナッツサインちゃん。
……うん。私、もう一度だけ、約束したい。
今年のクリスマスは、君と一緒にイルミネーションを見たいな。
ピーナッツサイン:
やったぁ! 約束だよ!
今度はインターネットの中の街が、全部クリスタルの光で埋め尽くされるんだって。
二人で、一番綺麗な場所を見つけようね!
二人は、画面越しに小指を絡めるように、新しい約束を交わしました。
12月25日。聖なる夜。
その頃、現実世界の雨月サインは、ふと教室の端にある、天音るりの空席を見つめました。
(天音さん。今年のクリスマス、あなたは何をして過ごすのかな)
自分が「ピーナッツサイン」として約束を交わした相手が、まさにその席の主であるとは露ほども思わず、サインは窓の外に広がる冬の空を仰ぎました。
一方、るりもまた、引き出しから一足早いクリスマスカードを取り出しました。
それは、いつか「ピーナッツサイン」に、そして自分を気にかけてくれる「雨月さん」に、本当の言葉で感謝を伝えるための、準備の始まりでした。
17話 カレンダーの印 冬の足音
クリスマス会の約束を交わした夜、天音るりは机の引き出しの奥から、ずっと放り出していたカレンダーを取り出しました。
真っ白な12月のページ。そこには、学校の行事予定も、友達との約束も、何ひとつ書き込まれていませんでした。るりは震える手でマジックを持ち、25日の欄に小さく、でも力強く、赤いペンで**「イルミネーション会」**と書き込みました。
「……できた」
その一文字が、部屋の空気を変えたような気がしました。
半年間、ただ「やり過ごす」だけだった毎日。それが、特定の日に向けて「積み重ねる」毎日に変わったのです。
一方、学校の放課後。雨月(あめつき)サインは、生徒会室でクリスマスの装飾プランを練っていました。
「サインちゃん、このツリーの飾り、もっと派手なほうがいいかな?」
「うーん、そうだね! でも、あんまりチカチカしすぎると疲れちゃう子もいるかもしれないから、温かいオレンジ色の光をメインにしようよ」
周りの意見をまとめ、常に最適な答えを出す。それが「雨月サイン」の役割。
けれど、彼女の心の中は、生徒会室の喧騒よりもずっと静かな場所――『コトノハ・ガーデン』の広場にありました。
(学校のイルミネーションも大事だけど……。私の本当のクリスマスは、あの画面の向こうにあるんだ)
サインは、ポケットの中でスマートフォンに触れました。このは(るり)と約束した、あの聖なる夜。自分を偽らなくていい、ただの「一人の女の子」として笑い合える時間。
その夜、二人はまたサイトで言葉を交わしました。
このは:
ピーナッツサインちゃん。
今日、カレンダーに約束を書き込んだよ。
学校に行っていた頃は、予定があるのが当たり前だったけど、
今は、この一日のために生きているみたい。
ピーナッツサイン:
私もだよ、このはちゃん!
実はね、当日着ていくアバターの服を、もう選んじゃった(笑)
真っ白なコートに、赤いマフラー。
このはちゃんは、どんな格好で来るのかな?
るりは、画面を見て思わず頬を緩めました。
アバターの着せ替え。そんな些細なことが、今のるりには世界を救う大きなミッションのように感じられます。
「……マフラー、何色にしよう」
るりは、クローゼットの奥に押し込んでいた、自分の「リアルな服」を眺めました。
そこには、かつて学校へ行っていた頃の、少し古びた自分の姿がありました。
ネットの世界での準備。それは、少しずつ現実の自分を肯定していく作業でもありました。
二人の少女は、お互いに「冬の寒さ」を感じながらも、心の中には温かい暖炉の火を灯していました。
25日まで、あと20日。
一歩ずつ、一歩ずつ、二人は運命の夜へと歩みを進めていきます。
18話 仮想世界の放課後
第18話:仮想世界の放課後
クリスマス会までのカウントダウンが始まる中、二人の距離を一気に縮めたのは、意外にも「ゲーム」の話題でした。
きっかけは、ピーナッツサインがポツリと漏らした一言。
ピーナッツサイン:
最近、学校の休み時間がすごく長く感じるんだ。
みんなが楽しそうに話してる輪の外で、こっそりスマホのパズルゲームばっかりしちゃう。
自室でそのメッセージを読んだるりは、驚いて目を見開きました。
クラスの太陽であるはずの「雨月サイン」が、そんな孤独を感じているなんて夢にも思っていません。でも、画面の向こうのピーナッツサインは、紛れもなく自分と同じ「はぐれ者」の匂いがしました。
このは:
パズルゲーム? もしかして、あの『ジュエル・バースト』?
私もそれ、部屋に引きこもってからずっとやってるよ。
今、ステージ500くらいなんだけど……。
ピーナッツサイン:
ええっ! 500!? すごい!!
私なんてまだ200だよ……。
ね、ねえ! もしよかったら、今から一緒に協力プレイしない?
フレンド申請送るから!
るりは慌ててアプリを立ち上げました。
数秒後、画面に「ピーナッツチョコさんからフレンド申請が届きました」という通知。
るりのキャラクター名は、本名の欠片もない「konoha」。
二人の共同作業が始まりました。
画面上でお互いのアイコンが並び、協力してブロックを壊していく。
「そこ!」「ありがとう!」「今のコンボすごかったね!」
リアルタイムで交わされるチャットの応酬に、るりの部屋はかつてないほどの熱気に包まれました。
ピーナッツサイン:
ぷはー! クリア!
このはちゃん、教えるの上手すぎだよ。
まるで隣に座って、一緒にコントローラー握ってるみたいだった。
「隣に、座って……」
るりは、その言葉を反芻しました。
現実の自分は、部屋のベッドの上で膝を抱えている。
でも、このデジタルな世界では、自分は誰かのヒーローになれる。誰かの隣で、笑い合える存在になれる。
一方、雨月サインもまた、自分の部屋でベッドに転がりながら、上気した顔でスマホを見つめていました。
(学校の友達とやるゲームは、いつも「負けちゃいけない」って緊張するけど……。このはちゃんとだと、失敗しても笑えるんだ)
学校での「雨月サイン」は、いつだって勝者でなければなりませんでした。
でも、ピーナッツサインとしてこのはと遊ぶ時間は、ただの「負けず嫌いな女の子」に戻れる唯一の解放区でした。
ピーナッツサイン:
ねぇ、このはちゃん。
25日のクリスマス会が終わったら……。
今度はもっと大きな、オープンワールドのゲームも一緒にやらない?
広い世界を、二人でずっと冒険してみたいんだ。
このは:
うん。冒険、したい。
二人なら、どこまでだって行ける気がするよ。
ゲームという共通の言語を手に入れた二人は、もう「遠い銀河の住人」ではありませんでした。
同じ画面を見つめ、同じ敵に立ち向かう、最強の「相棒」になりつつあったのです。
窓の外では、冷たい夜風が吹き荒れていました。
けれど、二人の端末の熱は、どんな暖房よりも温かく、彼女たちの心を溶かしていきました。
19話 消えたアイコン
第19話:消えたアイコンと、幼い無邪気
ゲームを通じて「相棒」になった二人にとって、スマートフォンの画面に並ぶお互いのアイコンは、暗い夜を照らす唯一の灯台でした。
しかし、その幸福な時間は、あまりにも唐突に、身勝手な形で断ち切られます。
土曜日の午後。雨月(あめつき)サインがリビングにスマートフォンを置いたまま、ほんの数分席を外した時のことでした。
「ねーちゃん、スマホ貸して!おもしろい動画見せて!」
部屋に飛び込んできたのは、自由奔放な妹、雨月てりやきでした。
「あ、ロックかかってない!ラッキー!」
てりやきは、姉が大切に開いていたゲーム画面を適当にいじり始めました。
「なにこれ、地味なパズル。あ、この『フレンド』ってやつ邪魔。消しちゃおーっと!」
子供特有の残酷な無邪気さで、てりやきは「フレンド解除」のボタンを連打しました。
さらに、姉が内緒で使っていた『コトノハ・ガーデン』のアプリまでも、
「画面がいっぱいだから、これいらなーい!」
と、長押ししてゴミ箱へ放り込んでしまったのです。
数分後、戻ってきたサインは、スマートフォンの画面を見て血の気が引きました。
「……え? アプリが、消えてる……?」
慌てて再インストールし、ログインを試みます。しかし、焦れば焦るほどパスワードを打ち間違え、ようやく入れたパズルゲームの画面には――。
【フレンドはいません】
「……嘘でしょ? このはちゃん!? てりやき!! あんた何したの!?」
「えー? だって変なアイコンがいっぱいあったから、お掃除してあげたんだよ。ねーちゃん、怒りすぎー!」
一方、自室でログインを待っていたるりは、目を疑う通知を受け取っていました。
『konoha:ピーナッツチョコさんからフレンドを解除されました』
「……えっ?」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねました。
何度も画面を更新します。でも、さっきまで隣にいたはずのピーナッツチョコ(サイン)のアイコンは、どこにもありません。
(……なんで? 私、何か悪いことした……?)
数日前、自分が約束を破って「休む」と言った時のことがフラッシュバックします。
(やっぱり、あの時のことを本当は怒ってたの? それとも、私みたいな引きこもりと遊ぶのが、急に嫌になっちゃった……?)
るりは震える手で『コトノハ・ガーデン』を開きました。しかし、そこにはもっと残酷な現実が待っていました。
【このユーザーは退会したか、存在しません】
(※アプリ削除により一時的に連携が切れた表示)
「…………あ」
るりの手から、スマートフォンが滑り落ちました。
昨日まで「冒険しようね」と笑い合っていた言葉が、一瞬にして嘘のように消えてしまった。
自分を認めてくれた唯一の「光」が、何の予兆もなく自分を切り捨てた。
「……やっぱり、私なんて、最初から一人だったんだ」
窓を閉め切り、カーテンを引いた暗闇の中で、るりは再び膝を抱えました。
一方、サインはリビングで泣き叫んでいました。
「てりやき! あれは、私の命より大事な友達だったんだよ!!」
妹のてりやきは、姉の豹変ぶりに驚いて泣き出し、家の中はパニックに。
クリスマスまであと数日。
最高の夜を迎えるはずだった二人の間に、あまりにも不条理な絶望の溝が刻まれてしまいました。
20話 届かない叫び 凍り付く画面
「てりやき! なんで勝手に消したのよ!!」
雨月(あめつき)サインの叫び声が、夕暮れの雨月家に響き渡りました。泣きじゃくる妹のてりやきを母がなだめる中、サインは自室に駆け込み、震える手でスマートフォンの再設定を繰り返していました。
ようやく『コトノハ・ガーデン』にログインできたものの、画面に映し出されたのは、あまりに冷酷な現実でした。
このは:
ごめんなさい。もう二度と、約束なんてしません。
さようなら。
「……うそ……っ」
サインは慌てて「違うの!」「妹が勝手に消しちゃったの!」と文字を打ち込みました。しかし、送信ボタンを押した瞬間に表示されたのは、無情なシステムメッセージでした。
【このユーザーにはメッセージを送れません(ブロックされています)】
「そんな……待ってよ、このはちゃん! お願い、信じて!!」
サインは何度も何度も画面を叩きました。けれど、一度拒絶された電波の道は、どんなに叫んでも繋がりません。完璧なリーダーとして学校で振る舞うサインにとって、唯一「本当の自分」をさらけ出せた場所。その聖域が、幼い妹のいたずらという、あまりにくだらない理由で崩壊してしまったのです。
一方、天音るりは、部屋の隅で膝を抱えて震えていました。
「……期待、した私がバカだった」
フレンド解除の通知を見た瞬間、るりの心の中で何かが音を立てて壊れました。
せっかく勇気を出して、朝食を作り、家族と笑い、クリスマスを楽しみにしていたのに。
結局、自分のような「壊れた人間」は、誰からも最後まで愛されることはない。
(ピーナッツサインちゃんも、結局は私を『重い』って思ったんだ。だからあんなに、跡形もなく私を消したんだ……)
るりは、暗闇の中で自分を責め続けました。
現実の世界で、雨月サインが自分の家のポストに届けてくれたメモのことも、今はただの「同情」にしか思えません。
「……全部、いらない」
るりはスマートフォンの電源を切り、布団の中に潜り込みました。
翌朝、母がドアをノックして「るり、朝ごはんよ」と声をかけましたが、るりは答えませんでした。せっかく開いた心の窓が、以前よりもずっと分厚い鉄の扉で閉ざされてしまったのです。
クリスマスまで、あとわずか。
お互いに相手を想い、絶望のどん底にいる二人。
この誤解を解く術は、もう、現実の世界で「奇跡」が起きるのを待つしかありませんでした。
一方、泣き疲れたサインは、赤く腫れた目で窓の外を見つめていました。
(どうすればいい? どこにいるの、このはちゃん……。私、あなたを失いたくない……!)
二人の運命は、今、冷たい冬の風に吹かれて、バラバラに引き裂かれようとしていました。
21話 封筒に託した 最後の 「サイン」
第21話:封筒に託した、最後の「サイン」
『コトノハ・ガーデン』をブロックされ、ゲームのフレンドも消された。
雨月サインにとって、それは自分の半身をもぎ取られたような痛みでした。
(このままじゃ終われない。でも、ネットではもう連絡がつかない……)
サインは自分の部屋で、真っ暗な画面を見つめて立ち尽くしていました。妹のてりやきが「ねーちゃん、ごめんね……」とドア越しに泣いていましたが、今のサインにはそれに応える余裕すらありません。
ふと、机の隅に置かれた**「クラスの連絡網」**が目に留まりました。
「……天音さん」
ネットの親友「このは」を失った喪失感が、現実で不登校を続けている「天音るり」への想いと重なります。もし、このはちゃんが天音さんと同じように、部屋で一人で泣いているとしたら。もし、私のせいで彼女がもっと深い闇に落ちてしまったとしたら。
「……じっとしてられない」
サインはペンを取り、便箋に向かいました。
それは「学級委員」としての報告書ではありませんでした。一人の、傷ついた少女としての叫びでした。
一方、天音るりは、三日間一歩も部屋から出ず、食事もほとんど喉を通りませんでした。
(もう、誰も信じない。期待なんてしない……)
そう決めたはずなのに、心のどこかで「ピーナッツサイン」の優しい声を求めている自分がいて、それが何より苦しかったのです。
その時、一階のポストに**「ガタン!」**と、いつもより激しい音が響きました。
「……また、雨月さん?」
るりは無視しようとしました。でも、その音は一度では終わりませんでした。
ガタン、ガタン、ガタン!
まるで「気づいて!」「開けて!」と叫んでいるような、必死な音。
るりはたまらず部屋を飛び出し、玄関へ向かいました。
ポストから溢れんばかりに差し込まれていたのは、いつもの茶封筒ではなく、真っ赤な封筒でした。
震える手でそれを取り出し、中身を確認します。
そこには、乱れた字でこう書かれていました。
『天音さんへ。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。
私の不注意で、大切な、命より大事な約束を壊してしまったかもしれない。
もし、あなたが今、誰かに裏切られたと思って泣いているなら、それは違うの。
私は、あなたを絶対に離さない。
明後日のクリスマス。私は、あの場所で待ってる。
たとえあなたが来なくても、私は朝までそこにいるから。
――雨月サイン』
「……えっ?」
るりは目を見開きました。
「約束」「裏切られた」「あの場所」。
雨月サインが書いていることは、クラスメイトの天音るりに向けた言葉としては、あまりにも不自然で、あまりにも「ピーナッツサイン」の状況と一致しすぎていました。
(まさか……そんなはずない。雨月さんが、ピーナッツサインちゃんなの……?)
るりの心臓が、早鐘のように打ち鳴らされます。
完璧なリーダーの雨月さんと、泣き虫な自分を受け入れてくれたピーナッツサイン。
二つの影が、るりの中でゆっくりと重なり始めました。
「……確かめなきゃ」
るりは、久しぶりに窓のカーテンを数センチだけ開けました。
外は冷たい雪が降り始めていました。
運命のクリスマスまで、あと24時間。
22話 赤い封筒
「……まさか。そんなこと、あるはずない」
天音るりは、雨月サインから届いた赤い封筒を胸に抱きしめたまま、自室の床に座り込んでいた。
封筒に書かれていた「約束を壊してしまった」「裏切られたと思っているなら違う」という必死な言葉。それは、数日前に自分がピーナッツサイン(ネット上の親友)に抱いた絶望と、あまりにも残酷なほどに重なっていた。
(でも、雨月さんはクラスの太陽みたいな人で、私とは正反対で……。あんなに明るい人が、夜中に私とパズルゲームをして、泣き言を言い合う「ピーナッツサイン」ちゃんだなんて……)
るりは、信じたい気持ちと、それを否定する冷静な自分が頭の中で激しくぶつかり合っていた。もし、本当に雨月さんがピーナッツサインなのだとしたら。あの完璧に見える彼女も、自分と同じように「誰にも言えない孤独」を抱えて、画面の向こうで震えていたことになる。
「……確かめるのが、怖い」
るりは、そっとスマートフォンの電源を入れた。
まだ『コトノハ・ガーデン』のブロックは解除していない。一度深く傷ついた心は、そう簡単に「ごめん」の一言で元通りにはならないのだ。
一方、その頃。雨月サインは、冷たい夜風に吹かれながら、自分の部屋のベランダに立っていた。
赤い封筒を投函したものの、返事がある保証なんてどこにもない。クラスメイトとしての「天音るり」に、ネット上の「このは」への謝罪を託すという、あまりにも無茶で、支離滅裂な行動。
(私、バカなことしちゃったかな。天音さん、あんな手紙もらっても困るよね……)
サインは自分の頭を抱えた。
本当は、今すぐ天音さんの家に行って、インターホンを押して、「あなたが『このは』ちゃんなの?」と叫びたかった。でも、もし違っていたら? もし、彼女の平穏をさらに乱すことになってしまったら?
「……でも、あの夜、一緒に星を見ようって約束した時の温度は、本物だった」
サインは、凍える指先を見つめた。
妹のてりやきが消してしまったデータ。失われたフレンド。でも、心に刻まれた記憶までは消せない。
「明後日のクリスマス……。私は、あの場所(インターネットの広場)に行く。もし、もし天音さんがあの赤い手紙を読んで、何かを感じてくれたなら……」
二人は、同じ冬の夜空を見上げていた。
一人は、閉ざされたカーテンの隙間から。
一人は、吹きさらしのベランダから。
「……ま、そんなことないよね。雨月さんが、あのピーナッツサインちゃんだなんて。私の考えすぎだよね」
るりは、自分に言い聞かせるように小さく呟いて、赤い封筒を引き出しの奥に隠した。
けれど、その指先は、まだ微かに熱を持ったまま震えていた。
23話 救世主 のの 現れる
赤い封筒を出してから一夜明け、雨月サインは放心状態でリビングのソファに沈んでいました。
「このはちゃん……ごめんね。本当にごめんね……」
何度も繰り返される姉の呟きと、真っ赤に腫れた目を見て、ひとりの少年が静かに立ち上がりました。
サインのもう一人の弟、雨月(あめつき)ののです。
彼は末っ子のてりやきとは対照的に、いつも穏やかで、家族の誰よりもサインの繊細な変化に気づいていました。そして何より、彼は学校でも有名な「パソコンの天才」でした。
「ねえ、ねーちゃん。そんなに泣かないでよ」
ののが、サインの膝にポンと手を置きました。
「のの……。ごめんね、暗い顔して。でも、もうダメなの。てりやきが消しちゃって、大事な友達との繋がりが全部なくなっちゃったの……」
サインがポツリポツリと、ゲームのフレンド解除とアプリ削除の経緯を話すと、ののは少しだけ眼鏡の奥の目を光らせました。
「……てりやきがやったのは『アプリの削除』と『フレンド解除』だよね? でもさ、運営のサーバーにはログが残ってるはずだよ」
「えっ……?」
「アプリを消しても、アカウント自体が生きてるなら、キャッシュデータやIDを辿れば復元できる可能性がある。ねーちゃん、そのスマホ貸して」
ののは手際よく自分のノートパソコンを取り出すと、サインのスマートフォンをケーブルで繋ぎました。画面には、素人には理解できない複雑なコードが次々と流れていきます。
「……ふむふむ。てりやきが適当に連打した時に、完全にデータ抹消まではいってないね。よし、僕が作った復旧ツールを走らせてみる。時間はかかるけど、もしかしたら……消されたフレンドデータも戻せるかもしれないよ」
「のの……! 本当に!? ありがとう、本当にありがとう……!」
サインは、希望の光が見えたことに涙を流してののに抱きつきました。
「ちょ、苦しいよ。まだ『かも』だからね。でも、ねーちゃんのために頑張るよ。いつも僕に優しくしてくれるお礼さ」
ののは照れくさそうに笑いながら、キーボードを叩き始めました。
一方、その頃。
天音るりは、部屋でずっと赤い封筒を見つめていました。
(雨月さんの手紙……。『命より大事な約束』って、どういう意味なんだろう)
るりは、一度は「そんなことないよね」と否定したものの、どうしても気になって仕方がありませんでした。もし、本当に雨月さんがピーナッツサインなら、自分も何かしなければならない。
「……でも、まだ怖い。もし確認して、人違いだったら? もし、雨月さんに私が『このは』だってバレて、幻滅されたら……」
るりは、スマートフォンを手に取ったり置いたりして、悶々とした時間を過ごしていました。
現実世界では、ののが懸命にデータの海を泳ぎ。
精神世界では、るりが恐怖の海を泳いでいる。
二人の少女の運命は、まだ完全には重なりません。
「……ま、私のデータなんて、そう簡単に戻るわけないよね」
るりは、自嘲気味にそう呟いて画面を閉じました。
けれど、その数キロ先で、ののが**「……見つけた!」**と小さな声を上げたことを、彼女はまだ知りませんでした。
24話 データの海
「ねーちゃん、これ見て!」
雨月(あめつき)ののが、青白い光を放つモニターを指さしました。そこには、複雑な英数字の羅列が滝のように流れています。
「え、これ何……? 全然わかんないけど……」
サインはおそるおそる画面を覗き込みました。
「これはサーバーとの通信ログだよ。てりやきがアプリを消したとき、スマホの中のデータは消えちゃったけど、相手の『このは』っていうアカウントと最後に通信した記録が、キャッシュとして微かに残ってたんだ。僕が作った復旧プログラムで、そのパズルゲームのIDを強制的に引っ張り出したよ」
ののの指が、ピアノを弾くように軽やかにキーボードを叩きます。
「……よし、再構築完了。ねーちゃん、スマホ見て」
サインが震える手でスマートフォンを手に取ると、再インストールしたゲーム画面が自動的に切り替わりました。
真っ白だったフレンドリストに、ポン、とひとつのアイコンが灯ります。
【フレンド:konoha(オンライン中)】
「……あ、あった……! このはちゃんだ!!」
サインは思わず叫び、ののに抱きつきました。
「のの! 凄すぎるよ! 本当にありがとう! 魔法使いみたい!!」
「へへ、よせやい。ねーちゃんがいつも僕のわがまま聞いてくれるからさ。……でも、気をつけてね。相手は一度『解除』されたと思ってる。相当傷ついてるはずだから」
ののの冷静な指摘に、サインはハッと表情を引き締めました。
(そうだ……。このはちゃんは、私が自分を捨てたと思ってる。一刻も早く、誤解を解かなきゃ……!)
一方、その頃。天音るりは、部屋でぼんやりとパズルゲームの画面を開いていました。
消えてしまった「ピーナッツチョコ」のアイコン。それを眺めるのが、もはや自傷行為のような日課になっていたのです。
(……やっぱり、いないよね。消えちゃったよね)
るりが画面を閉じようとした、その瞬間でした。
ピコン、と聞き慣れた通知音が部屋に響きました。
『ピーナッツチョコさんからメッセージが届きました』
「…………えっ!?」
るりは心臓が止まるかと思いました。見間違いじゃない。
消えたはずの、自分を捨てたはずの相手から、メッセージが届いたのです。
ピーナッツチョコ:
このはちゃん!! 届いてる!?
ごめんね、本当にごめんね! 私が解除したんじゃないの!
妹が勝手にスマホを触っちゃって、アプリもデータも全部消えちゃったの。
さっき、弟が頑張ってデータを直してくれたんだよ。
私は、一秒もこのはちゃんを忘れたことなんてないから!
信じて……お願い!
「……妹……弟……?」
るりは、昨日届いた雨月サインからの赤い封筒を思い出しました。
そこにも「不注意で約束を壊した」「裏切られたと思っているなら違う」と書いてあった。
そして、今届いたこのメッセージ。
(……雨月さんには、やんちゃな妹さんと、優しい弟さんがいる。……このはちゃんのメッセージにも、同じことが書いてある)
パズルのピースが、カチリと音を立ててはまっていく感覚。
るりは、全身に鳥肌が立つのを感じました。
(……まさか。本当に……? 私が一番憧れてる雨月サインさんが、私のたった一人の親友、ピーナッツサインちゃんなの……?)
るりは、返信を打とうとして指が止まりました。
もし、ここで「私は天音るりだよ」と言ってしまったら?
あんなに眩しい場所にいる彼女が、こんな暗い部屋でうじうじしている私を見て、どう思うだろう。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。きっと、偶然が重なっただけ」
るりは自分に言い聞かせるように呟き、返信を打つのをやめて、スマートフォンを布団の中に隠しました。
けれど、その瞳には、久しぶりに小さな、けれど確かな光が宿っていました。
25話 伝わった奇跡
ファンレター励みになる~~!!
何?弟くん・・・え!?ファンレター来てた!?
ふぅぅ↑やった!やった!いえいいえい!
弟「うっるさ・・・ってことでスタート」
このは「ふぅぅ↑ふぅぅ↑イエーーーーイ!!!」
「……届いた! 既読がついたよ!」
雨月サインは、自室のベッドで声を上げました。
弟のののが復旧してくれたフレンドリスト。そこにある「konoha」のアイコンに既読がついた瞬間、サインの心臓はドラムのように激しく打ち鳴らされました。
返信を待つ数分間が、まるで数時間のように感じられます。
やがて、画面がピカリと光りました。
このは:
……そうなの?
妹さんが勝手に消しちゃったの?
私、てっきり嫌われちゃったのかと思って、すごく怖かった。
「……よかったぁ!!」
サインは安堵のあまり、そのままベッドに突っ伏して泣き出しました。
拒絶されていなかった。まだ、繋がりは切れていなかった。
ピーナッツチョコ:
ごめんね、本当にごめんね!
嫌うわけないよ! このはちゃんは私の大事な、世界で一番の友達だもん。
弟がパソコン得意で本当に助かったよ。
25日のクリスマス、一緒に行ける……かな?
一方、そのメッセージを読んだ天音るりは、複雑な表情で画面を見つめていました。
(妹さんが消して、弟さんが直した……?)
昨日届いた、クラスメイトの雨月サインからの「赤い封筒」。そこにも同じようなことが書いてあった気がします。一瞬、心臓が跳ね上がり、冷や汗が背中を伝いました。
(まさか……雨月さんが……?)
そう考えかけた瞬間、るりは激しく首を振りました。
(……いやいや! ないない! 絶対にないってば!)
るりは自分の頬を両手で叩きました。
雨月サインといえば、学年一の人気者で、いつも女子に囲まれていて、生徒会でも活躍している「完璧超人」です。
そんなキラキラした人が、夜中にパズルゲームの攻略法をネットで検索したり、自分みたいな不登校児とチャットで愚痴を言い合ったりするはずがありません。
(きっと、世の中にはよくある話なんだよ。やんちゃな下の子がいて、パソコンに詳しい兄弟がいるなんて。……そうだよ、偶然。ただの偶然!)
るりは、自分の中にある淡い期待を必死にかき消しました。
だって、もし万が一、億が一、ピーナッツサインが雨月さんだったとしたら。自分みたいな「暗い人間」が正体だと知られた瞬間、彼女はきっとガッカリして、今度こそ本当に逃げ出してしまうに違いないから。
このは:
うん。……わかった。信じるね。
クリスマス、楽しみにしてる。
今度は絶対に、寝過ごしたりしないから。
るりは、震える指でそう打ち込みました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。雨月さんが私の親友だなんて。私の考えすぎ、考えすぎ!」
るりはそう自分に言い聞かせ、赤い封筒を机の引き出しの一番奥、目に見えない場所へ押し込みました。
現実の「雨月さん」と、ネットの「ピーナッツさん」。
二つの線が重なりそうで重ならないまま、物語は運命のクリスマスへと加速していきます。
26話 重ならない
第26話:重ならない平行線
「……ふぅ。私、何をバカなこと考えてたんだろ」
天音るりは、机の引き出しの奥に押し込んだ赤い封筒を、もはや「見なかったこと」にした。
(雨月サインさん。あの人は、学校の光。
ピーナッツサインちゃん。この子は、私の夜を照らす月。
……全然、違う。声も、雰囲気も、きっと似ても似似つかないはずだよ)
るりは、自嘲気味に笑った。
雨月サインがくれた手紙にあった「約束」という言葉も、きっと「学級委員としての責任感」から出た、学校行事か何かの話に違いない。自分のような不登校児を気にかける、彼女なりの「正しい親切」なのだ。
(あんな完璧な人が、夜中にスマホでパズルゲームをしたり、弟にデータを直してもらったりするなんて、あるわけない。……そうだよ、世の中には似たような境遇の兄弟なんて、山ほどいるんだから)
るりは、自分の中の「疑念」を完全にゴミ箱に捨てた。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。あんなキラキラした雨月さんが、私の親友なわけないもん」
一方、その頃。
雨月サインもまた、自分の部屋で「のの」に直してもらったスマートフォンを抱きしめていた。
(よかった……このはちゃんと、また繋がれた。
天音さんに出した手紙は、結局返事がないけれど……。
でも、いいんだ。天音さんは天音さん。このはちゃんは、このはちゃん)
サインにとっても、現実のクラスメイトである「天音るり」と、ネットの親友「このは」は、対極に位置する存在だった。
大人しくて、いつも寂しそうな背中をしていた天音さん。
明るくて、パズルゲームが強くて、自分を「相棒」と呼んでくれるこのはちゃん。
(二人が同じ人だなんて、そんなこと、あるはずないよね。
天音さんは、きっと私のことなんて『お節介な学級委員』としか思ってないだろうし……)
サインは、窓の外に広がる夜景を見つめた。
学校での自分。ネットでの自分。
二つの居場所で、それぞれ大切にしたい「誰か」がいる。
それがまさか、同一人物であるとは夢にも思わずに。
「……よし! クリスマス会のアバター、最高に可愛いのにしなきゃ!」
サインは、ワクワクしながらショップの服を選び始めた。
るりもまた、暗い部屋の中で「マフラーの色」を悩み始めた。
二人は、同じ夜空の下で、同じイベントを楽しみにしながら。
けれど、心の距離は「学校のヒーロー」と「部屋の引きこもり」という、遠く隔たった平行線のまま。
運命のクリスマスまで、あと3日。
二人の少女は、お互いの正体に1ミリも気づかぬまま、聖なる夜へと歩んでいく。
27話 3日前の静けさ
第27話:三日前の静寂、それぞれの準備
クリスマスまであと三日。
街中が浮き足立つような喧騒に包まれる中、天音るりの部屋だけは、時が止まったように静かでした。
るりは、机の上に広げたノートに、びっしりと「当日やることリスト」を書き込んでいました。
19:00 お風呂に入る(リフレッシュ!)
20:00 夕食を食べる(お母さんと相談して、部屋で)
21:00 パソコンの動作確認。ログイン。
22:00 約束の時間。
「……よし。今度は絶対に失敗しない」
るりは、ギュッとペンを握りしめました。
前回の失態は、楽しみすぎて知恵熱を出して寝込んでしまったこと。今回は体調管理も万全にするつもりです。
ふと、クローゼットの鏡に映る自分を見ました。
髪は少し伸び、肌は白く透けています。学校に行っていた頃の自分とは、もう別人のようです。
(雨月サインさん……あの人は、今頃きっと、クラスの友達とクリスマスパーティーの計画でも立ててるんだろうな。キラキラした場所で、みんなに囲まれて……)
るりは、昨日届いた赤い封筒の存在を、心の隅っこに追いやるようにして首を振りました。
「……ま、私には関係ないよね。雨月さんみたいなリア充な人と、ネットで夜な夜なパズルをしてるピーナッツサインちゃんが、同じ人なわけないもん」
一方、その頃。
雨月サインは、生徒会室で山積みの書類と格闘していました。
「サインちゃん、顔色悪いよ? 大丈夫?」
「あ、うん! ちょっと寝不足なだけ。大丈夫、これくらいすぐ終わらせちゃうから!」
サインは無理やり笑顔を作りました。
実際、彼女の頭の中は生徒会の仕事どころではありませんでした。弟のののに直してもらったスマートフォン。そこにある「このは」との繋がりを、一秒たりとも離したくなかったのです。
(このはちゃん……今度は絶対に、あんな悲しい思いをさせないから。クリスマス、最高の思い出にしようね)
サインは、放課後の誰もいない廊下で、こっそりスマホを取り出しました。
ログインした『コトノハ・ガーデン』。
そこには、このはが新しく着替えたアバターの姿がありました。
ピンク色の、ふわふわしたマフラーを巻いた女の子。
「……可愛い。このはちゃん、こういうのが好きなんだ」
サインは、自分のキャラクターにもお揃いの青いマフラーを選びました。
(……もし、天音さんが学校に来てくれたら、こういう可愛い小物をプレゼントしたりできるのかな。……あ、でもダメだ。天音さんはきっと、私みたいな『お節介な委員長』に構われるのは、迷惑だと思ってるだろうし)
サインは、寂しそうに笑ってスマホをポケットにしまいました。
二人の少女は、同じ「クリスマス」という目標に向かって、必死に走っていました。
一人は、部屋の中で。
一人は、学校の中で。
「……ま、そんな奇跡みたいなこと、あるはずないよね。あの不登校の天音さんが、私の大親友の『このは』ちゃんだなんて。正反対すぎて、笑っちゃうよ」
サインは自分に言い聞かせるように呟いて、冷え切った冬の校庭を後にしました。
正体に1ミリも気づかないまま、二人の距離は、運命の夜に向けて確実に、残酷に縮まっていくのです。
28話 イブの夜
第28話:イブの夜、高鳴る鼓動
クリスマス・イブ。
街はイルミネーションの輝きと、楽しげな音楽に包まれていました。
しかし、天音るりの部屋は、いつも通り静まり返っています。
るりはベッドの上で、カレンダーの「25日」という赤い文字をじっと見つめていました。
「……明日だ。明日、やっと会える」
数日前、妹のてりやきちゃんにデータを消され、絶望のどん底に落とされたあの夜。弟のののくんが救ってくれた奇跡。それを乗り越えて、絆は以前よりもずっと深まった気がしていました。
(ピーナッツサインちゃん……。明日、どんな話をしよう。プレゼントのアバター用アイテム、喜んでくれるかな)
ふと、るりは机の引き出しの奥にある、雨月サインからの赤い封筒のことを思い出しました。結局、一度も読み返していません。
「……ま、あんなキラキラした雨月さんと、私の親友のピーナッツサインちゃんが同じ人なんて、あるはずないよね。だって、住む世界が違いすぎるもん」
るりは自分に言い聞かせるように呟くと、明日のために早めに電気を消しました。
一方、その頃。
雨月サインは、自室で弟のののと向き合っていました。
「ねーちゃん、明日の準備はバッチリ?」
「うん! のの、本当にありがとう。ののがデータを直してくれなかったら、私、今頃一生後悔してたと思う」
サインは、大切にスマートフォンを握りしめました。
明日の夜、インターネットの広場で「このは」と待ち合わせをしている。それは、生徒会の仕事よりも、学校の成績よりも、サインにとってはるかに重要な「命の約束」でした。
「……でもさ、ねーちゃん。その『このは』って子、案外近くにいたりしてね?」
ののが冗談めかして言うと、サインは苦笑いしながら首を振りました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよ。こんなに気が合う子が、もしクラスにいたら私、絶対気づいてるもん。それに、私の周りの子たちはみんな、私に『完璧な委員長』を求めてくるしね……」
サインは、少しだけ寂しそうな目をして窓の外を見つめました。
雪が、静かに降り始めていました。
二人は、お互いの正体に1ミリも気づかないまま。
「あんなキラキラした子が」「あんな暗い子が」――。
お互いを「正反対の存在」だと決めつけたまま、運命の25日を迎えようとしています。
「……明日、絶対に行くからね。このはちゃん」
「……明日こそ、ちゃんと会おうね。ピーナッツサインちゃん」
二人の少女の願いが、雪の夜空に溶けていきました。
29話 聖夜の朝 静かな決意
12月25日。
ついに、約束の朝がやってきました。
天音るりは、アラームが鳴る前に目を覚ましました。カーテンの隙間から差し込む光は、いつもより少しだけ白く、冷たく澄んでいます。
「……今日だ」
るりはベッドから起き上がり、真っ先に鏡の前へ向かいました。
不登校になってから、自分の顔をまじまじと見ることは避けてきました。でも今日は、画面越しに会う親友のために、少しでも「ちゃんとした自分」でいたかったのです。
ボサボサだった髪を丁寧に梳かし、母が買ってきてくれたお気に入りの洗顔料で顔を洗う。それだけで、心が少しずつ戦場に向かう兵士のように引き締まっていくのを感じました。
(ピーナッツサインちゃん……。君が妹さんのいたずらや、データの消失を乗り越えて、私を待っていてくれたこと。それに応えるために、私は今日、最高の私でログインするね)
ふと、昨夜の雪が積もった庭を見つめます。
真っ白な世界。
そこには、クラスの人気者である雨月サインの影も、あの赤い封筒の焦燥感もありません。
「……ま、あんなにキラキラした世界にいる雨月さんが、私のこの小さな部屋の親友なわけないよね。住む世界が、月とスッポンだもん」
るりは、自分に言い聞かせるように呟いて、ふふっと小さく笑いました。
一方、その頃。
雨月サインは、朝から生徒会の最終打ち合わせで学校にいました。
「サインちゃん、メリークリスマス! 今日のパーティー、楽しみだね!」
「うん、みんなで盛り上がろうね!」
サインはいつものように、完璧な笑顔で応えました。
けれど、彼女の意識は、ポケットの中にあるスマートフォンの感触に集中していました。
(パーティーは19時まで。そこから急いで帰れば、22時の約束には余裕で間に合う。……のの、てりやき、今日は邪魔しないでね)
サインは、校庭の隅に積もった雪を眺めながら、ふとクラスメイトの天音るりのことを思い出しました。
(天音さん……。あの赤い封筒、読んでくれたかな。学校のクリスマスには来ないだろうけど、せめてお家で、誰かと温かく過ごせていればいいな……)
サインにとって、天音るりは「守ってあげたい、放っておけないクラスメイト」。
そして、このはは「自分を支えてくれる、魂の双子」。
その二人が重なることなど、今のサインの想像力の範疇を遥かに超えていました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。あんなに消え入りそうな天音さんが、ネットであんなに元気な『このは』ちゃんだなんて。ありえない、ありえない!」
サインは、自分の突飛な想像を打ち消すように首を振り、生徒会室へと戻っていきました。
運命の時計の針は、着実に22時へと向かっています。
正体に1ミリも気づかないまま、二人はそれぞれの戦場を駆け抜け、約束の「仮想世界」へと向かいます。
30話 22時のカウントダウン
第30話:22時のカウントダウン
太陽が沈み、街の明かりがクリスマスの色に染まる頃、天音るりは夕食を早めに済ませて自室に籠もりました。
机の上には、お気に入りのココア。
パソコンのモニターは、青白い光で彼女の顔を照らしています。
「あと一時間……。今度は、知恵熱も出してない。準備万端だよ」
るりはマウスを握り、自分のアバターを確認しました。ピンクのマフラーに、雪の結晶のイヤリング。昨日まで「自分なんて」と俯いていた少女が、この瞬間のために精一杯の「可愛い」を詰め込んだ姿です。
ふと、机の端に置かれた雨月サインからの赤い封筒が視界に入りました。
(雨月さんは今頃、学校のパーティーで主役をやってるんだろうな。ケーキを切り分けて、みんなに囲まれて笑って……。そんな光り輝く場所が、あの人の『日常』なんだ)
るりは自嘲気味に口角を上げました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。あんなキラキラした雨月さんが、今からパソコンの前で私を待ってるなんて。住む世界が違いすぎて、笑っちゃうよ」
るりは、その封筒をパタンと裏返し、画面に集中しました。
一方その頃、雨月サインは、学校のクリスマス会を途中で抜け出し、全力で自転車を漕いでいました。
「間に合う……! 絶対に間に合わせるんだから!」
冷たい風に頬を赤くしながら、サインは家へと急ぎます。
パーティーでは「サインちゃん、もう帰っちゃうの?」と残念がられましたが、今の彼女にとって、クラスメイトとの付き合いよりも大切な「命の約束」が、自宅のモニターの向こう側にありました。
家に着くやいなや、リビングでテレビを見ている妹のてりやきと弟のののを横目に、階段を駆け上がります。
「ねーちゃん、おかえり! 準備できてるよ!」
ののの声に「ありがとう!」とだけ返し、自室のドアを閉めました。
サインはコートを脱ぎ捨て、パソコンの電源を入れます。
画面に映る自分のアバターは、このはとお揃いの青いマフラーを巻いています。
(このはちゃん……待ってて。今、行くからね)
サインは、ふと学校の教室で空席だった天音るりの机を思い出しました。
(天音さんは今、どうしてるかな。一人で寂しくしてないかな……。……ううん、天音さんはきっと、私のことなんて忘れて静かに過ごしてるよね。私みたいな『お節介な委員長』が、ネットで彼女の親友をやってるなんて……)
サインは、自分の突飛な考えを打ち消すように、ブンブンと首を振りました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。あんなに消え入りそうな天音さんが、私の大好きな『このは』ちゃんだなんて。ありえない、ありえない!」
サインは、深呼吸をしてログインボタンにカーソルを合わせました。
21時59分。
二人の少女は、お互いの正体に1ミリも気づかないまま。
けれど、同じ鼓動を刻みながら、光り輝く仮想の広場へと足を踏み入れます。
31話 聖夜の再会 光の広場
22時ちょうど。
パソコンの画面がパッと切り替わり、雪の降りしきる『コトノハ・ガーデン』の中央広場が映し出されました。そこには、色とりどりのアバターたちが集まり、クリスマスの音楽が賑やかに流れています。
「……いた」
天音るりは、マウスを握る手にグッと力を込めました。
広場の大きなツリーの下。そこには、青いマフラーを巻いたピーナッツチョコのアバターが、キョロキョロと辺りを見渡しながら立っていました。
るりは震える指でキーボードを叩きます。
このは:
ピーナッツサインちゃん……!
その文字が頭上に浮かんだ瞬間、青いマフラーのアバターが大きく飛び跳ねました。
ピーナッツチョコ:
このはちゃん!! よかった……!
本当に来てくれたんだね。待ってたよ!
今度はちゃんと会えたね!!
画面越しに、二人のキャラクターが駆け寄り、見つめ合います。
るりは、自分の部屋の冷たい空気さえ忘れるほど、胸が熱くなるのを感じました。
「……よかった。本当に、私を待っててくれたんだ」
一方、自室でモニターに張り付いていた雨月サインも、溢れそうになる涙を必死にこらえていました。
学校のパーティーでは、何百人に囲まれていても感じられなかった「満たされた気持ち」。それが、このたった一人の「このは」という存在によって、心の隙間を埋めていくのです。
ピーナッツチョコ:
このはちゃん、マフラーすごく似合ってるよ!
ピンク色、優しいこのはちゃんにぴったりだね。
このは:
ありがとう。ピーナッツサインちゃんの青いマフラーも、
爽やかで、なんだか……
いつもみんなを引っ張ってくれる、かっこいい誰かさんみたい。
「……えっ?」
サインは、その言葉に一瞬ドキリとしました。
(かっこいい誰かさん……? まさか、私の正体に……?)
けれど、次の瞬間には自分で自分を笑い飛ばしました。
(……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。このはちゃんは私の学校での姿なんて知らないし、あの不登校の天音るりさんが、こんなに素直に私を褒めてくれるわけないもん。……あはは、自意識過剰すぎ!)
サインは「ありがとう!」と照れたエモーションを返しました。
同じ頃、るりも自分の発言に赤面していました。
(……あ、今の言い方だと、まるで雨月サインさんを連想してるみたいで変だったかな。……でも、大丈夫だよね。雨月さんは今頃、本物のパーティーの主役をしてるはずなんだし。……こんなところで、私みたいな引きこもりとチャットしてるわけないもん)
るりは、机の隅にある赤い封筒をチラリと見て、すぐに目を逸らしました。
「……ま、そんな奇跡みたいなこと、あるはずないよね。あんなに太陽みたいな雨月さんが、私の隣にいるこの子なわけないもん」
二人は、お互いの正体に1ミリも気づかないまま。
けれど、運命の糸に手繰り寄せられるように、聖なる夜の冒険へと繰り出します。
ピーナッツチョコ:
ねぇ、このはちゃん。
ツリーのてっぺんまで、一緒に登ってみない?
二人で、一番高いところから景色を見ようよ!
このは:
うん! 行こう!
二人のアバターは、手をつなぐエモーションを出しながら、光り輝くツリーの階段を駆け上がっていきました。
32話 夢に描く「いつか」の約束
光り輝く巨大なツリーの階段を一段ずつ登り、二人のアバターはついに最上階の展望デッキへと辿り着きました。
眼下に広がるのは、無数のプレイヤーたちが放つ色とりどりの光と、雪に覆われた仮想世界の街並み。
天音るりは、画面越しの絶景に小さく息を呑みました。
隣には、青いマフラーをなびかせたピーナッツチョコ。
このは:
すごいきれい……。
こんな景色、生まれて初めて見たかも。
ピーナッツチョコ:
うん、最高だね!
このはちゃんと一緒に見られて、私、本当に幸せだよ。
チャット欄に流れる温かい言葉。るりは、ふと現実の自分の部屋を見渡しました。
消えたテレビ、飲みかけのココア、そして閉ざされたカーテン。
もし、この温もりが画面の中だけじゃなく、外の世界にもあったなら。
るりは、祈るような気持ちでキーボードを叩きました。
このは:
ねぇ、ピーナッツサインちゃん。
……いつか、現実でできたらな。
きらめくツリーの近くで待ち合わせして、
本当の雪を見ながら、こうして隣に座るの。
画面の中のピーナッツチョコが、一瞬動きを止めました。
自室でモニターを見つめていた雨月サインは、その言葉に胸を突かれました。学校で「完璧な委員長」として振る舞い、誰にでも優しい笑顔を振りまいている自分。でも、心から隣にいたいと思える相手は、今ここにいる「このは」だけ。
ピーナッツチョコ:
……いいなあ、それ。
そしたら私、コンビニかどこかで、
あったかいホットチョコレートの飲み物を買って……
誰もいない静かな場所で、二人っきりでおしゃべりしたいな。
このは:
ホットチョコレート……。
誰もいないところで、二人で……。
……憧れる。そんなの、夢みたい。
るりは、その光景を想像して、頬が熱くなるのを感じました。
誰にも邪魔されない、自分たちだけの時間。学校の喧騒も、不登校の引け目も、委員長としての重圧もない、ただの女の子同士の冬の夜。
(……もし、ピーナッツサインちゃんが本当に隣にいたら。私は、ちゃんと笑えるのかな)
るりは、ふとクラスの人気者、雨月サインの顔を思い出しました。
彼女なら、きっと豪華なレストランや、友達いっぱいのパーティーが似合うはず。ホットチョコレートを二人きりで啜るなんて「地味な幸せ」は、彼女の世界には存在しないに違いない。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。あんなに華やかな雨月さんが、私と二人きりでホットチョコを飲むなんて。住む世界が、太陽と深海魚だもん」
るりは自嘲気味に呟き、画面の中の親友を見つめました。
一方、サインもまた、教室の隅で俯いていた天音るりの姿を思い出していました。
(天音さん……。もし天音さんと一緒にツリーを見られたら、私は何を話すだろう。……ううん、天音さんはきっと、私みたいな『うるさい委員長』と一緒にいるより、一人で静かにしていたいよね)
サインは、寂しそうに微笑んでキーボードを叩きました。
ピーナッツチョコ:
夢じゃないよ、いつかきっと叶えようね!
私、その日のために、一番おいしいホットチョコのお店、探しとくから!
このは:
うん、約束だよ。
二人の少女は、お互いの正体に1ミリも気づかないまま。
けれど、同じ「ホットチョコレート」の温もりを夢見て、クリスマスの夜を深く、静かに共有していくのでした。
33話 夜空の終わり 解けない魔法
第33話:聖夜の終わり、解けない魔法
ツリーの最上階で、二人のアバターは寄り添ったまま、仮想世界の空に打ち上がる花火を眺めていました。赤、青、金色の光が、デジタルの雪を鮮やかに染め上げていきます。
このは:
綺麗……。
ずっと、この時間が続けばいいのに。
天音るりは、キーボードを叩きながら、心の底からそう願っていました。現実の部屋は相変わらず静かで、微かに暖房の音が聞こえるだけ。でも、モニターの向こう側には、自分を必要としてくれる温かい場所がある。
ピーナッツチョコ:
本当だね。
でも、この時間が終わっても、私たちは繋がってるよ。
明日も、明後日も、パズルの続きしようね!
雨月サインは、モニター越しに微笑みました。学校では「みんなのリーダー」として気を張っている彼女にとって、この「このは」との静かな時間は、魂の休息そのものでした。
ふと、時計の針が24時を回りました。クリスマスが終わろうとしています。
ピーナッツチョコ:
あ、もうこんな時間!
そろそろログアウトしなきゃ。明日も早いんだ。
このはちゃん、今日は最高のクリスマスをありがとう!
このは:
私の方こそ、ありがとう。
おやすみなさい、ピーナッツサインちゃん。
画面の中で、二人のキャラクターが手を振り合います。
やがて、青いマフラーのアバターがふっと消え、続いてるりもログアウトのボタンを押しました。
光が消え、暗い部屋に戻った瞬間。
るりは、急激な寂しさに襲われました。
「……終わっちゃった」
机の上に置かれた、冷めきったココアのカップ。
そして、その横にある雨月サインからの赤い封筒。
るりは、その封筒を指先でなぞりました。
「ホットチョコレートを飲みながら、二人でおしゃべり……」
ピーナッツサインが言った理想のシチュエーション。それは、クラスの人気者である雨月サインのイメージとは、あまりにもかけ離れていました。
(雨月さんなら、きっともっと豪華な、賑やかなパーティーを好むはず。私みたいな地味な子と、ひっそりおしゃべりするなんて、彼女の辞書にはないんだろうな……)
るりは、ふぅとため息をつきました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。あんなに太陽みたいな雨月さんが、私のたった一人の理解者だなんて。住む世界が、光と影だもん」
るりは、自分に言い聞かせるように呟いて、電気を消しました。
一方、その頃。
雨月サインもまた、暗い部屋でベッドに横たわり、天井を見つめていました。
(このはちゃん。いつか現実で会えたら、本当にホットチョコを差し出したいな。……でも、私の周りの子たちは、私に『お洒落なカフェの新作ラテ』とかを期待するんだろうな)
サインは、苦笑いして寝返りを打ちました。
ふと、不登校のクラスメイト、天音るりのことが頭をよぎります。
(天音さん、手紙読んでくれたかな。……ううん、天音さんはきっと、私みたいな『目立ちたがり屋の委員長』が、静かに過ごしたい自分の邪魔をしてるって思ってるよね。……そんな彼女が、ネットであんなに饒舌に夢を語る『このは』ちゃんなわけないか)
サインは、自分の想像の滑稽さに、小さく吹き出しました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。あんなに消え入りそうな天音さんが、私の大好きな『このは』ちゃんだなんて。ありえない、ありえない!」
二人は、お互いの正体に1ミリも気づかないまま。
けれど、同じ「ホットチョコレート」の温もりを夢見ながら、深い眠りへと落ちていきました。
クリスマスの魔法が解けた翌朝から、また「現実」という名の長い冬が始まります。
34話 画面に届くもの
クリスマスが過ぎ、冬休みも中盤。天音るりは、相変わらず部屋のカーテンを閉め切ったまま、画面の中の「ピーナッツチョコ」と過ごしていました。
しかし、最近の**ピーナッツチョコ(サイン)**は、以前よりも「外の世界」の話をたくさんしてくれるようになっていました。
ピーナッツチョコ:
今日ね、駅前の広場で大きな氷の彫刻を作ってたんだよ!
朝日の光が当たって、ダイヤモンドみたいにキラキラしてて……。
このはちゃんにも、あの輝きを見せてあげたかったな。
るりは、キーボードを打つ手を止め、その言葉を頭の中で映像にしました。
暗い部屋にいる自分。でも、ピーナッツサインの言葉を通じて、外の冷たい空気や、眩しい光が流れ込んでくるような気がしたのです。
このは:
氷の彫刻……。綺麗なんだろうな。
私は、もうずっと「本物の光」なんて見てない気がする。
ピーナッツチョコ:
大丈夫、私がたくさん届けるから!
あ、そうそう。さっきコンビニでね、新しい期間限定のホットチョコを見つけたの。
マシュマロが浮いてて、すごく甘くて幸せな匂いがしたよ。
サインは、生徒会や部活で忙しく走り回る日常の合間に、ふと見つけた「小さな幸せ」を、すべて「このは」に伝えようとしていました。
(天音さん……クラスの彼女は、今もあの暗い部屋にいるのかな。……せめて、このはちゃんには、外の世界が怖くないってこと、伝わるといいな)
サインは、不登校のクラスメイト、天音るりの寂しそうな横顔を思い出しながら、必死に「外の楽しさ」をタイピングしていました。
このは:
ピーナッツサインちゃんが話すと、
外の世界が、なんだか魔法の国みたいに聞こえるね。
ピーナッツチョコ:
えへへ、そうでしょ?
いつか、このはちゃんと一緒にその魔法を見に行けたら最高だなって。
あ、でも無理はしなくていいんだよ! ここでこうしてるだけでも、私は楽しいから。
るりは、画面を見つめて小さく呟きました。
「……外、か」
ほんの少しだけ、窓の隙間から外を覗いてみたい。そんな小さな芽が、るりの心に生まれ始めていました。
でも、次の瞬間。るりは首を振って、その想いを打ち消しました。
(……雨月サインさんみたいなキラキラした人は、今頃、本当の友達と本物の氷の彫刻を見て、本物のお洒落な新作カフェラテを飲んで笑ってるんだろうな。……私みたいに、画面に張り付いてるだけの人間とは、住む世界が違うんだ)
るりは、引き出しの奥にある「赤い封筒」のことさえ、もはや遠い世界の出来事のように感じていました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。あんなに太陽みたいな雨月さんが、私のために一生懸命、外の話を届けてくれるこの子なわけないもん」
るりは、自分に言い聞かせるように呟いて、再びパズルゲームの画面に没頭しました。
二人の正体は、まだ深い雪の下。
35話 冷たい窓辺 温かい描写
冬休みも後半に入り、街は新年を迎える準備で慌ただしくなっていました。
天音るりは、部屋のベッドに座り、**ピーナッツチョコ(サイン)**からのメッセージを読み返していました。
最近のピーナッツサインは、まるで自分の目で見ている景色をそのまま切り取って届けてくれるかのように、外の世界を語ってくれます。
ピーナッツチョコ:
今日ね、公園の池に薄い氷が張ってたんだ!
太陽の光が反射して、プリズムみたいに虹色の道ができててね。
踏んだら『パキッ』って、すごく綺麗な音がしたよ。
るりは、無意識に自分の指先を見つめました。
キーボードを叩く音しか響かないこの部屋。でも、ピーナッツサインの言葉を読んでいる間だけは、冷たい空気の匂いや、氷が割れる感触まで伝わってくるような気がするのです。
このは:
氷の虹……。見てみたいな。
ピーナッツサインちゃんの話を聞いてると、
外の世界が、少しだけ怖くない場所に見えてくるよ。
画面の向こうで、雨月サインは生徒会室の窓辺でスマホを握りしめていました。
冬休みなのに、新学期の行事準備で登校している彼女。ふと、誰もいない教室の、天音るりの席を見つめました。
(天音さん……。もし、君が今この光を見たら、なんて言うかな。
……ううん。天音さんはきっと、私みたいな『騒がしい委員長』が外に連れ出そうとするのを、一番嫌がるよね)
サインは自嘲気味に笑い、再びキーボードを叩きます。
ピーナッツチョコ:
いつか、このはちゃんが『行きたい』って思った時でいいんだよ。
その時は、私がお気に入りのホットチョコ、魔法の水筒に入れて持っていくからね!
このは:
魔法の水筒……。ふふっ、楽しみ。
るりは、ほんの数センチだけ、遮光カーテンを開けてみました。
隙間から差し込む冬の光。それは、思っていたよりもずっと眩しくて、少しだけ温かいものでした。
るりは、カーテンの隙間をそっと閉じました。
その胸の奥では、凍りついていた何かが、ほんの少しずつ……本当に少しずつですが、溶け始めていたのです。
「外の世界」への興味。
それが「学校」という場所に繋がるのでしょうか・・・・
36話 放課後のチャイム 届かない共鳴
第36話:放課後のチャイム、届かない共鳴
冬休みが明け、三学期が始まりました。
雨月サインは、学校という「現実」の激流に飲み込まれていました。
「サインちゃん、始業式の挨拶、最高だったよ!」
「次の球技大会の企画、任せてもいいかな?」
クラスメイトや先生たちに囲まれ、サインはいつものように完璧な「委員長」を演じていました。けれど、ふとした瞬間に視線が向くのは、教室の隅にある天音るりの空席です。
(天音さん……。今日も、来てないんだね。
冬休みに私が出した手紙、迷惑だったかな。それとも、もう捨てちゃったかな……)
サインは放課後、誰もいない教室で一人、窓の外を眺めていました。
夕日に染まる校庭。部活動の掛け声。冷たい空気の中に混じる、冬特有の切ない匂い。
サインはスマホを取り出し、『コトノハ・ガーデン』を開きました。
ピーナッツチョコ:
今日ね、学校の屋上から富士山が見えたよ!
雪を被って真っ白で、なんだか大きなソフトクリームみたいだった。
放課後のチャイムの音と一緒に見ると、少しだけ寂しくて、でも優しい気持ちになれるんだ。
画面の向こう、部屋の隅で膝を抱えていた天音るりは、そのメッセージを何度も読み返していました。
このは:
放課後のチャイム……。
最後に聞いたの、いつだろう。
ピーナッツサインちゃんの言葉を読んでると、
耳の奥で、その音が聞こえてくる気がするよ。
るりは、そっと自分の耳を塞ぎました。
学校という場所は、自分を拒絶している場所だと思っていました。でも、ピーナッツサインが語る学校の風景は、なぜか色彩豊かで、少しだけ懐かしくて、温かい。
このは:
ピーナッツサインちゃんは、学校が好きなの?
ピーナッツチョコ:
……うーん、好きっていうか。
誰かのために頑張る場所、かな。
でも、たまに疲れちゃうこともあるよ。
そんな時、こうしてこのはちゃんとおしゃべりできるのが、私の『本当の居場所』なんだ。
るりは、胸が締め付けられるのを感じました。
(ピーナッツサインちゃんも、外の世界で戦ってるんだ。……私と同じように、どこかで無理をしてるのかもしれない)
画面の中の親友に「ありがとう」と返信しました。
38話 予鈴の音 遠い空の呼応
三学期が本格的に始まり、学校は日常の喧騒を取り戻していました。
雨月サインは、休み時間のたびに賑やかな輪の中心にいましたが、その心はどこか別の場所にありました。
(天音さん……。今日も、お休みなんだね)
サインは、自分の机から三つ斜め後ろにある、誰もいない机を見つめました。窓から差し込む冬の光が、その無機質な机の表面を白く照らしています。
「サインちゃん、どうしたの? ぼーっとして」
「あはは、ごめん! ちょっと昨日パズルゲームやりすぎちゃって」
サインはいつもの明るい声で誤魔化しましたが、胸の奥では早く『コトノハ・ガーデン』を開きたくて仕方がありませんでした。
放課後、サインは図書室の隅で息を潜めるようにスマホを開きました。
ピーナッツチョコ:
今日ね、休み時間に予鈴が鳴ったとき、窓の外に一羽だけ白い鳥が飛んでいくのが見えたよ。
なんだか、自由でいいなぁって思っちゃった。
学校っていう箱の中にいると、たまにその外側がすごく遠く感じるんだ。
画面の向こう。天音るりは、部屋のベッドでそのメッセージを読み、自分の境遇と重ね合わせていました。
このは:
自由な鳥……。
私は、逆にその『箱』の中が怖くてたまらないよ。
でも、ピーナッツサインちゃんの話を聞いてると、
その箱の中にも、綺麗な瞬間があるんだなって思う。
るりは、そっと自分の制服が掛かっているハンガーを見上げました。
ホコリを被りかけたその制服。でも、ピーナッツサインが見ている景色の中に、自分も身を置いてみたい。そんな、言葉にできない衝動が胸の奥で小さく波打ち始めていました。
(……もし、学校に行ったら。ピーナッツサインちゃんが見ているあの『白い鳥』を、私も見られるのかな)
その時、ふと雨月サインのことが頭をよぎりました。
彼女はきっと、毎日その鳥を見ているはず。でも、それは彼女が「完璧な委員長」として輝いているから見える景色で、自分のような逃げ出した人間が見えるものとは違うはずだ。
(……雨月さんは、太陽の下で堂々と歩ける人だもん。
私みたいに、影に隠れて、ネットの親友に励まされないと生きていけない人とは、根本的に作りが違うんだよ)
るりは、ギュッと毛布を抱きしめました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。あんなにキラキラした雨月さんが、私の隣で一緒にパズルを楽しんでくれる、この『ピーナッツ』ちゃんなわけないもん。住む世界が、高嶺の花と雑草だもん」
るりは、自分に言い聞かせるように呟いて、スマホの画面を消しました。
けれど、消えた画面に映った自分の瞳には、少しだけ「外」への憧れの色が混じっていました。
同じこと繰り返してるのは気にしないでください(圧)
39話 夕暮れのチャイム 重なる残響
三学期が始まり、放課後の校舎には部活動の活気ある声が響いていました。
雨月サインは、生徒会室で窓の外を眺めていました。オレンジ色に染まる校庭、影が長く伸びる防球ネット。
(この景色、このはちゃんに見せてあげたいな……)
サインは周囲に誰もいないことを確認して、そっとスマホを取り出しました。
ピーナッツチョコ:
今日ね、放課後のチャイムが鳴った瞬間に、空が燃えるみたいなオレンジ色になったんだ。
誰もいない教室の窓から見ると、なんだか世界に自分一人だけになったみたいで、少しだけ寂しくて、でもすごく綺麗な時間だったよ。
画面の向こう。天音るりは、部屋のベッドで膝を抱えながら、そのメッセージをなぞっていました。
彼女の部屋からは夕日は見えません。でも、ピーナッツサインの言葉を通じて、網膜の裏に鮮やかなオレンジ色が広がっていくのを感じました。
このは:
オレンジ色の世界……。
私の部屋はいつも薄暗いけど、ピーナッツサインちゃんの話を聞いてると、
そのオレンジ色の光が、私の手元まで届いてる気がするよ。
学校の放課後って、そんなに綺麗なんだね。
るりは、ふと自分の学習机を見つめました。
そこには、埃を被った教科書と、あの雨月サインからの「赤い封筒」が並んでいます。
(雨月さんは今、そのオレンジ色の光の中で、たくさんの友達と笑っているんだろうな。……学級委員長として、みんなをまとめて、輝いてるんだろうな)
るりの脳裏には、夕日に照らされてさらに眩しく輝く雨月サインの姿が浮かびました。
(……でも、ピーナッツサインちゃんが言ってた『世界に一人だけになったみたいで寂しい』なんて感情、雨月さんには無縁だよね。あんなに人気者なんだから)
るりは、自分の中の「雨月さん像」をさらに強固なものにしました。
キラキラして、完璧で、孤独とは無縁な太陽のような存在。
(……だから、ピーナッツサインちゃんが雨月さんだなんて、絶対にありえない)
るりは、確信を持って自分に言い聞かせました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。あんなに太陽みたいな雨月さんが、私の隣で一緒に夕日を惜しんでくれる、この『ピーナッツ』ちゃんなわけないもん。住む世界が、ステージの上と観客席だもん」
るりは、自分に言い聞かせるように呟いて、スマホを胸に抱きしめました。
けれど、心の中の「外の世界」への扉は、少しずつ、音も立てずに開き始めていました。
40話 図書室の静寂 ページをめくる音
三学期の冷たい風が校舎を吹き抜ける中、雨月サインは放課後の図書室にいました。
いつもなら生徒会室で仲間に囲まれている彼女が、一人で選んだ「逃げ場所」。そこは、かつて天音るりが好んで座っていた、窓際の隅の席でした。
(天音さん……。ここから見えるケヤキの木、葉っぱが全部落ちちゃったよ。
冬の空って、こんなに高くて、少しだけ怖いんだね)
サインは、借りるあてのない本のページをめくりながら、指先でスマホを操作しました。
ピーナッツチョコ:
今日ね、学校の古い図書室にいるんだ。
誰もいない書棚の間を歩くと、紙の古い匂いがしてね。
窓から差し込む光に、小さな埃がキラキラ舞ってて、まるで星屑みたいだった。
画面の向こう。天音るりは、ベッドの上でそのメッセージを読み、ハッと息を呑みました。
図書室。そこは、るりが学校で唯一、息ができた場所。
このは:
図書室……。
私も、そこなら知ってる気がする。
紙の匂い、落ち着くよね。
ピーナッツサインちゃんの言葉を読んでると、
閉め切った私の部屋にも、その『星屑の光』が差し込んできたみたい。
るりは、そっと自分の学習机に積まれた、読みかけの小説に触れました。
外の世界は怖い。学校はもっと怖い。でも、ピーナッツサインが語る図書室は、まるでおとぎ話のワンシーンのように静かで、優しくて。
(……もし、私があの図書室に戻ったら。
ピーナッツサインちゃんが言ってた、あの星屑の光を、私も掴めるのかな)
ふと、るりの脳裏に、図書室のカウンターでテキパキと働く雨月サインの姿が浮かびました。
彼女は図書委員ではありませんが、以前、手伝いで入っていたのを見たことがあります。
(雨月さんは、あんな静かな場所でも『華』がある。
本を探している生徒に笑顔で話しかけて、みんなに感謝されて……。
あんなに誰からも必要とされている人が、一人で寂しく星屑を見てるわけがないよね)
るりは、自分の中の「雨月サイン像」を、さらに遠い、手の届かない場所へと押し上げました。
(……だから、ピーナッツサインちゃんが雨月さんだなんて、絶対にありえない。
あんなに太陽みたいな雨月さんが、私の隣で一緒に静寂を愛してくれる、この『ピーナッツ』ちゃんなわけないもん。
住む世界が、物語の主人公と、名もない端役だもん)
るりは、自分に言い聞かせるように呟いて、スマホをぎゅっと握りしめました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね」
けれど、るりの心の中の「外の世界」への境界線は、すでに透明になり始めていました。
運命の足音は、静かに、けれど確実に近づいています。
(* ̄▽ ̄)フフフッ♪
同じこと繰り返さないと文字数が1000超えないのよ
41話 凍てつく水槽 静かな反射
二月。一年で最も寒い季節がやってきました。
雨月サインは、誰もいない中庭の隅にある古びた観賞魚の水槽の前に立っていました。
(天音さん……。ここの金魚、冬の間は水底でじっとしてるんだね。
冷たい水の中で、春を待ってるみたい。……まるで、今の君みたいだね)
サインは、凍った水面に映る自分の「完璧な委員長」の顔を、自嘲気味に見つめました。
そして、かじかむ指でスマホを操作します。
ピーナッツチョコ:
今日ね、中庭の隅っこにある水槽を見たよ。
水面が薄く凍ってて、底の方で金魚が静かに息をしてた。
誰も見ていない場所で、ただ一生懸命に生きている姿が、
なんだか……すごく愛おしくて、応援したくなっちゃったんだ。
画面の向こう。天音るりは、ベッドの中でそのメッセージを読み、心臓がトクンと跳ねるのを感じました。
中庭の水槽。それは、るりが学校で一番好きだった、誰にも教えたくない「隠れ家」でした。
このは:
その水槽……私も知ってる気がする。
金魚たち、冷たくないのかな。
でも、ピーナッツサインちゃんの言葉を読んでると、
凍った水面の下にも、優しい温度があるんだなって思えるよ。
るりは、そっと自分の胸に手を当てました。
不登校の自分。暗い部屋の底で、じっと息を潜めている自分。
でも、ピーナッツサインは、そんな自分のような存在を「愛おしい」と言ってくれた。
(……もし、私があの水槽の前に戻ったら。
ピーナッツサインちゃんが言ってた、あの『優しい温度』を感じられるのかな)
その時、ふと雨月サインのことが頭をよぎりました。
彼女はきっと、中庭を通りかかる時も、たくさんの後輩や友達に囲まれて笑っているはず。
そんな賑やかな光の中にいる人が、一人で水槽の底を見つめて、金魚の孤独に寄り添うなんて。
(雨月さんは、みんなを引っ張るリーダーだもん。
あんなに太陽の下で胸を張って歩ける人が、暗い水底の冷たさを知ってるわけがないよね)
るりは、自分の中の「雨月サイン像」を、さらに遠く、別次元の存在へと作り変えました。
(……だから、ピーナッツサインちゃんが雨月さんだなんて、絶対にありえない。
あんなにキラキラした雨月さんが、私の隣で一緒に静かに春を待ってくれる、この『ピーナッツ』ちゃんなわけないもん。
住む世界が、広い海を泳ぐイルカと、水槽の隅の金魚だもん)
るりは、自分に言い聞かせるように呟いて、スマホをぎゅっと抱きしめました。
42話 午後の理科室 陽だまりの塵
二月中旬。テスト期間に入り、放課後の校舎はいつも以上に静まり返っていました。
雨月サインは、誰もいない特別棟の理科室に忍び込み、窓際の実験机に腰掛けていました。
(天音さん……。ここの窓、午後の光が一番長く留まるんだ。
試験管立てが影を伸ばして、理科室全体がセピア色の写真みたいに見えるよ)
サインは、冷えた指先に息を吹きかけながら、スマホを操作しました。
ピーナッツチョコ:
今日ね、午後の光がたっぷり差し込む理科室にいたんだ。
誰もいない部屋で、使い込まれた木の机の匂いがして。
光の柱の中に、金色の塵がゆっくり踊ってて、なんだか時間が止まったみたいだった。
世界がこんなに静かで、優しい場所だってこと、このはちゃんにも知ってほしいな。
画面の向こう。天音るりは、部屋のベッドでそのメッセージを読み、懐かしさに胸が締め付けられました。
理科室。そこは、授業中にこっそり窓の外を眺めて、自分の居場所を探していた場所。
このは:
時間が止まった理科室……。
ピーナッツサインちゃんの話を聞いてると、
怖いと思ってた学校が、宝石箱みたいに見えてくる。
私も……その『光の柱』の中に、立ってみたい。
るりは、無意識にクローゼットに手を伸ばしました。
奥に仕舞い込まれた、少しシワの寄った制服。
ピーナッツサインが見ている世界を、自分もこの目で見たい。その想いが、恐怖を少しずつ上回り始めていました。
(……もし、私があの理科室に戻ったら。
ピーナッツサインちゃんが言ってた、あの『止まった時間』を、私も抱きしめられるのかな)
その時、ふと雨月サインのことが頭をよぎりました。
彼女はきっと、理科の実験でも班の中心になって、白衣をなびかせてテキパキと指示を出しているはず。
あんなにエネルギッシュな人が、一人で静かに塵のダンスを見つめているなんて。
(雨月さんは、未来に向かって全力で走ってる人だもん。
あんなに太陽の光を全身に浴びて輝いている人が、古びた教室の片隅にある静寂を愛しているわけがないよね)
るりは、自分の中の「雨月サイン像」を、さらに遠い、手の届かない理想郷へと押し上げました。
(……だから、ピーナッツサインちゃんが雨月さんだなんて、絶対にありえない。
あんなにキラキラした雨月さんが、私の隣で一緒に時が止まるのを待ってくれる、この『ピーナッツ』ちゃんなわけないもん。
住む世界が、輝く銀河と、暗い星の欠片だもん)
るりは、自分に言い聞かせるように呟いて、スマホをぎゅっと抱きしめました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね」
けれど、るりの心の中の「外の世界」への扉は、すでに半開きになっていました。
43話 階段の踊り場 重なるモノクローム
第43話:階段の踊り場、重なるモノクローム
二月も終わりに近づき、放課後の校舎には受験を控えた先輩たちの緊張感と、春を待つ静寂が同居していました。
雨月サインは、北校舎の隅にある、誰も使わない古い階段の踊り場に座り込んでいました。
(天音さん……。ここの窓からは、テニスコートの向こうに沈む夕日が一番よく見えるんだよ。
誰も来ない、自分だけの特等席。……ねえ、君もこういう場所、好きかな)
サインは、冷えたコンクリートの感触を背中に感じながら、スマホの画面をタップしました。
ピーナッツチョコ:
今日ね、校舎の隅っこにある古い階段にいたんだ。
踊り場の小さな窓から、オレンジ色の世界が四角く切り取られててね。
遠くで部活の笛の音が聞こえるけど、ここだけは別の世界みたい。
このはちゃん、もし一緒にここに座れたら、ずっとおしゃべりしてたいな。
画面の向こう。天音るりは、部屋のベッドでそのメッセージを読み、震える手でシーツを握りしめました。
北校舎の踊り場。そこは、るりが最後に学校へ行った日、一人で泣いていた場所。
このは:
オレンジ色の窓……。
ピーナッツサインちゃんの話を聞いてると、
悲しい思い出しかない場所が、なんだか塗り替えられていくみたい。
私も……その『四角い空』を、もう一度見てみたい。
るりは、ゆっくりとベッドから降りました。
埃を被った学習机。その上に置かれた、雨月サインからの「赤い封筒」。
ピーナッツサインが語る「外の世界」は、いつの間にか、るりにとっての「希望」に変わっていました。
(……もし、私があの階段に行ったら。
ピーナッツサインちゃんが言ってた、あの『別の世界』に、私も入れるのかな)
その時、ふと雨月サインのことが頭をよぎりました。
彼女は今、きっと生徒会室で会議をして、後輩たちに頼りにされて、眩しい蛍光灯の下で笑っているはず。
あんなに皆の中心にいる人が、わざわざ冷たくて暗い階段の隅に座るなんて。
(雨月さんは、どこにいてもスポットライトを浴びる人だもん。
あんなに太陽のような笑顔で世界を照らしている人が、一人ぼっちで沈む夕日を眺めているわけがないよね)
るりは、自分の中の「雨月サイン像」を、さらに高く、神聖な場所へと祭り上げました。
(……だから、ピーナッツサインちゃんが雨月さんだなんて、絶対にありえない。
あんなにキラキラした雨月さんが、私の隣で一緒に影の中にいてくれる、この『ピーナッツ』ちゃんなわけないもん。
住む世界が、輝く星座と、夜の底だもん)
るりは、自分に言い聞かせるようにしました。
けれど、るりの心の中の「外の世界」への足音は、もう止めることができませんでした。
44話 深夜の独白 一歩前の静寂
第44話:深夜の独白、一歩前の静寂
三月が間近に迫った、静まり返った夜。
天音るりは、部屋の明かりを消したまま、スマートフォンの画面だけを見つめていました。
明日から、学校は学年末に向けた短縮授業が始まります。
ピーナッツサインが今まで届けてくれた、宝石のような「学校の欠片」たち。氷の虹、図書室の星屑、金魚の鼓動、理科室の光、そして踊り場の四角い空。
このは:
ピーナッツサインちゃん。
……私ね、明日、勇気を出して外に出てみようと思う。
君が教えてくれたあの景色、本当にあるのか、確かめてみたくて。
画面の向こう、雨月サインはベッドから飛び起きるほどの衝撃を受けていました。
心臓が激しく脈打ち、指先が震えます。
ピーナッツチョコ:
本当に!?
……ううん、無理はしないで。でも、もし、もし行けそうなら……。
大丈夫。君が見る景色は、私が話したよりもずっと、優しいはずだから。
私、ずっと……ずっと応援してるからね。
サインは、スマートフォンの画面を胸に押し当てました。
(天音さん……。もし、明日学校に来てくれたら。
私はどうすればいい? 委員長として声をかけるべき?
……ううん、まずは遠くから見守ろう。彼女が、このはちゃんが……あ、違う。
天音さんは天音さん。このはちゃんはこのはちゃん)
サインは、自分の中に生まれた奇妙な「期待」を慌てて打ち消しました。
(……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。
あんなに内気な天音さんが、私のこの熱いメッセージに応えてくれる『このはちゃん』だなんて。
そんな奇跡、現実には起きないよ)
一方、るりはクローゼットから制服を取り出し、丁寧にブラシをかけていました。
その横には、ずっと開けられなかった雨月サインからの「赤い封筒」。
(雨月さん……。明日の朝、あなたが登校する頃、私はまだ家で震えてるかもしれない。
あなたはきっと、校門でみんなと挨拶して、眩しい光の中に消えていくんだろうな。
私みたいな、影の中に逃げ込む人間とは、やっぱり違うんだ)
るりは、制服の袖をぎゅっと握りしめました。
(……だから、ピーナッツサインちゃんが雨月さんだなんて、絶対にありえない。
あんなに太陽みたいな雨月さんが、私のこのボロボロの心を知っているわけがないもん。
住む世界が、真っ白なキャンバスと、塗りつぶされた黒だもん)
るりは、自分に言い聞かせるように呟いて、深く息を吐きました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね」
けれど、るりの指先は、しっかりと制服のボタンに触れていました。
ついにやってくる、決意の朝。
45話 トーストの香りと 校門の向こう側
三月の柔らかな朝日が、厚いカーテンの隙間から差し込みました。
天音るりは、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ましました。
いつもなら昼過ぎまで暗い部屋で丸まっている彼女が、今日は違いました。ゆっくりと、でも確実にクローゼットから制服を取り出し、袖を通します。鏡に映る自分は、少し顔色が悪いけれど、その瞳には確かに小さな光が宿っていました。
「……よし」
るりは部屋のドアを開け、数ヶ月ぶりに朝のリビングルームへと足を踏み入れました。
「るり!? ……おはよう、早いじゃない」
台所にいた母親が、驚きで固まった手を止めました。るりは少し照れくさそうに、でもはっきりと答えました。
「おはよう、お母さん。……お腹、空いた」
食卓に並んだのは、こんがり焼けたトーストと、温かいスープ。
家族と一緒に囲む朝食の風景。テレビから流れるニュースの音。
ピーナッツサインが教えてくれた「外の世界」の音が、すぐそこまで来ている。
(ピーナッツサインちゃん……。私、今、リビングで朝ごはんを食べてるよ。
君が言ってた『焼きたてのパンの匂い』、本当に幸せな気持ちになるね)
るりは一口ずつ、噛みしめるように食べました。
その時、ふと脳裏に雨月サインの姿が浮かびました。
彼女なら、きっと毎朝こうやって、家族と笑いながら賑やかに朝食を食べているんだろうな。
太陽のような彼女には、こんな当たり前の景色が一番似合う。
(……だから、ピーナッツサインちゃんが雨月さんだなんて、絶対にありえない。
あんなに眩しい場所が似合う雨月さんが、私のこの『必死な一歩』を、画面の向こうで震えながら待ってくれているはずがないもん)
るりは、自分に言い聞かせるように呟いて、最後の一口を飲み込みました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね」
一方、学校の校門前。
雨月サインは、生徒会メンバーと並んで「挨拶運動」をしていました。
けれど、彼女の視線は何度も何度も、通学路の曲がり角へと向いてしまいます。
(……来ないかな。……ううん、来なくていい。
天音さんが自分のペースで、一歩踏み出してくれれば、それで……)
サインは、自分の胸の鼓動がうるさいほど高鳴っているのを感じていました。
もし、もしも今日、天音るりが現れたら。
それは「このはちゃん」が勇気を出してくれた証拠なのかもしれない。
(……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。
あんなに内気な天音さんが、私のこの『外の世界の話』に背中を押されて、今日ここに来るなんて。
そんな奇跡、起きるわけないよ……)
サインがそう自分に言い聞かせ、諦めて校舎へ入ろうとした、その時でした。
通学路の向こうから、俯き加減に、でもしっかりと地面を踏みしめて歩いてくる、一人の少女の姿が見えました。
風に揺れる、見覚えのある短い髪。
少しサイズの大きくなった制服。
「……天音、さん?」
サインの声が、春の空気に溶け出しました。
るりは顔を上げ、眩しそうに目を細めて校門を見つめました。
二人の視線が、数ヶ月の時を超えて、まっすぐに交わりました。
正体はまだ、霧の中。
けれど、運命の歯車は、ガチリと音を立てて噛み合いました。
46話 喧騒のグラデーション 重なる足音
校門をくぐった瞬間、天音るりを襲ったのは、懐かしくも恐ろしい「日常の音」でした。
生徒たちの笑い声、上履きが床を叩く音、遠くから聞こえる吹奏楽部のチューニング。
「……はぁ、はぁ……」
るりは、下駄箱の前で立ち止まり、激しく波打つ鼓動を抑えようと胸に手を当てました。数ヶ月ぶりの学校。視界に入るものすべてが尖って見えて、逃げ出したくなる。
でも、その時。脳裏にピーナッツチョコの言葉が響きました。
『大丈夫。君が見る景色は、私が話したよりもずっと、優しいはずだから』
(……信じるよ。ピーナッツサインちゃんが言ってたこと)
るりはゆっくりと顔を上げました。すると、視線の先に、クラスメイトたちに囲まれて歩いてくる雨月サインの姿が見えました。
「あ、サインちゃん! 今日の放課後、会議だよね?」
「うん、資料はまとめてあるから大丈夫だよ!」
サインはいつものように、完璧な笑顔で周囲に応えていました。
その光景を見て、るりはふっと自嘲気味に息を漏らしました。
(……やっぱり。雨月さんは、あんなにたくさんの人に必要とされてるんだ。
私が一歩踏み出したことなんて、彼女の広い世界の中では、砂粒みたいな出来事なんだろうな)
るりは、壁際を歩くようにして、足早に自分の教室へと向かいました。
一方、雨月サインは、会話の合間に何度も後ろを振り返っていました。
(……今、天音さんの背中が見えた気がする。
本当に出てきてくれたんだ。……このはちゃんが言ってたこと、本当だったんだ)
サインの胸は、期待と不安で張り裂けそうでした。
もし、天音るりが「このは」なら。
私は、画面越しに彼女を励まし、彼女の心を救っていたことになる。
でも、そんな奇跡みたいなこと、本当にあるのだろうか?
(……ううん。天音さんはきっと、私の手紙を読んで、自分の意志で来たんだよね。
ネットの親友が私だなんて、そんな都合のいい話、あるわけない)
サインは、自分の想像の甘さを振り払うように、強く拳を握りしめました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。
あんなに繊細な天音さんが、私のこの『お節介な委員長』の正体を知ってて、ここに来るなんて。
そんなの、神様でも仕組まないよ……」
サインは、自分に言い聞かせるように呟いて、教室のドアを開けました。
そこには、窓際の席で小さく丸まって、じっと外を眺めている天音るりの姿がありました。
窓から差し込む春の光。
それは、ピーナッツサインが語っていた「理科室の光」と同じ、優しい金色をしていました。
るりは、隣に誰かが立った気配を感じて、ビクッと肩を揺らしました。
「……天音さん。おはよう」
聞き覚えのある、太陽のような声。
るりが恐る恐る顔を上げると、そこには、少しだけ瞳を潤ませた雨月サインが立っていました。
「……おは、よう……雨月さん」
二人の距離、わずか数十センチ。
でも、正体までの距離は、あとほんの少しだけ、埋まらないままでした。
47話 午後の静寂 答え合わせの予感
第47話:午後の静寂、答え合わせの予感
三時間目の授業中、天音るりは窓の外を眺めていました。
久しぶりの教室は、思っていたよりも騒がしくて、でもピーナッツサインが教えてくれた「光の粒子」が確かに舞っていました。
(……本当に、あったんだ。この景色。
ピーナッツサインちゃんが言ってた、時間の止まったような理科室や、図書室の匂い……。
全部、嘘じゃなかった)
るりは、隣の列の前方に座る雨月サインの後ろ姿をじっと見つめました。
サインは背筋をピンと伸ばし、先生の言葉に頷きながらノートを取っています。クラスの誰からも頼られる、完璧な委員長。
(雨月さんは、この景色を「当たり前」として生きてる人だ。
私みたいに、一つ一つの光に怯えたり、感動したりするような、
心の隙間だらけな人間とは、やっぱり違うんだよね)
るりは、自分のポケットの中で震えるスマートフォンをそっと触りました。
休み時間になったら、ピーナッツサインちゃんに「学校に来れたよ」って報告しなきゃ。
休み時間のチャイムが鳴ると、案の定、サインの周りには人だかりができました。
「サインちゃん、放課後の打ち合わせどうする?」
「あ、ごめん! 今日はちょっと……大事な用事があるんだ」
サインは明るく断りながら、チラリと後ろを振り返りました。
そこには、今にも消えてしまいそうなほど小さく席に座っている天音るりの姿。
(天音さん……。本当に来たんだね。
君が「このはちゃん」だとしたら、私は今すぐ駆け寄って抱きしめたい。
でも、もし違ったら? 私のただの自意識過剰だったら……?)
サインは廊下に出ると、震える手でスマホを取り出しました。
ピーナッツチョコ:
このはちゃん! 今日、どうかな……?
もし、もし学校に行けてたら、
放課後、あの「北校舎の階段の踊り場」で待っててもいいかな?
君に、どうしても渡したいものがあるんだ。
送信ボタンを押す指が震えます。
もし、天音るりがスマホを取り出したら。
もし、彼女がこのメッセージを読んで、あの場所に来てくれたら。
(……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね。
あんなに太陽みたいな私が、彼女の唯一の理解者だなんて。
そんな都合のいい物語、現実には起きないよ……)
サインは、自分に言い聞かせるように呟いて、屋上へと続く階段を駆け上がりました。
その頃、教室でるりのスマホが小さく震えました。
画面に映し出されたピーナッツサインからのメッセージ。
「北校舎の階段の踊り場……」
るりは、目を見開きました。そこは、自分にとって一番辛い思い出がある場所で、でも、ピーナッツサインが「オレンジ色の世界」と呼んで塗り替えてくれた場所。
(……行かなきゃ。
ピーナッツサインちゃんが、そこにいるかもしれない。
私を、待っててくれるかもしれない)
るりは、机の中の「赤い封筒」を強く握りしめました。
雨月サインから貰った手紙。そして、ピーナッツサインからの誘い。
(……雨月さんは今頃、生徒会の仲間と笑ってるはず。
私みたいな暗い階段が似合う子を、待ってるはずがない。
だから、会いに行こう。私の、たった一人の親友に)
るりは、震える足で立ち上がりました。
49話 解かれた封筒 重なる独白
第49話:解かれた封筒、重なる独白
放課後の北校舎、オレンジ色の光が差し込む踊り場。
天音るりの手には、ずっと開けられずにいた雨月サインからの赤い封筒がありました。
「……開けても、いい?」
るりの震える問いに、サインは涙を拭いながら、少し照れくさそうに頷きました。
封を切ると、中からは丁寧に折られた便箋が出てきました。そこには、学校での「完璧な委員長」としての文字よりも、どこか急いで、でも一文字一文字に熱がこもった、サインの本音が綴られていました。
『天音さんへ。
本当は、直接言わなきゃいけないんだよね。
私は、みんなの前で笑っている自分が嫌いじゃない。
でも、本当の自分を誰にも見せられない夜は、すごく怖くなるんだ。
天音さんが学校に来られなくなったあの日、私は何もできなかった。
委員長としてじゃなく、一人の人間として、君の隣にいたかった。
だから、私は決めたんだ。
君がどんなに遠くに行っても、私は絶対に君を離さない。
私が君を見つけるから。……待ってて。』
読み終えたるりの目から、再び大粒の涙が溢れ出しました。
それは、ネットの海で「ピーナッツチョコ」がかけてくれた言葉と、一寸の狂いもなく重なっていたからです。
「……雨月さん。私、ずっと『住む世界が違う』って思ってた」
るりは、便箋を胸に抱きしめました。
「雨月さんは太陽で、私は影。そんな漫画みたいなこと、現実にあるわけないって。
でも……私を見つけてくれたのは、本当に雨月さんだったんだね」
サインは、るりの細い肩にそっと手を置きました。
その掌は、驚くほど温かくて、少しだけ震えていました。
「……私の方こそ。このはちゃんが、あんなに優しくて、芯の強い女の子だって知ってたのに。
現実の天音さんが苦しんでる時、何も気づけなくて……。
ごめんね。でも、やっと……やっと本当の君に会えた」
サインは、カバンの中から水筒を取り出しました。
それは、あのクリスマスの夜に約束した「魔法の道具」。
「……はい。約束してた、ホットチョコレート」
サインが蓋を開けると、踊り場の冷たい空気の中に、甘くて濃厚な香りが広がりました。
るりは、差し出されたカップを両手で受け取りました。
一口飲むと、喉の奥から全身へ、じんわりと温かさが染み渡っていきます。
「……甘い。……おいしいね、雨月さん」
「うん。……最高だね、天音さん」
二人は、四角く切り取られた夕日を眺めながら、肩を並べて座りました。
そこにはもう、委員長と不登校の生徒という境界線はありませんでした。
ただ、同じホットチョコを分け合い、同じ景色を愛でる、二人の少女がいるだけ。
(……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないと思ってたけど)
るりは、隣にいるサインの温もりを感じながら、心の中で微笑みました。
(……奇跡って、本当に起きるんだね)
物語はいよいよ、明日。
「日常」という名の新しい光の中へ。
50話 パズルのピース 繋がる日常
四月の柔らかな風が、桜の花びらを教室の窓際へと運び込みます。
天音るりは、新学期の喧騒の中にいました。以前なら耳を塞ぎたくなるような椅子の引く音や話し声も、今はどこか心地よいBGMのように聞こえます。
「るりちゃん、おはよう! 今日の小テストの範囲、ここだよね?」
「あ、うん。……おはよう。そこ、昨日ピーナッツサイン……あ、雨月さんに聞いたから大丈夫」
るりは隣の席を振り返り、少し照れくさそうに笑いました。
そこには、クラスメイトに囲まれながらも、時折るりと視線を合わせる雨月サインの姿がありました。
放課後。二人はいつもの「北校舎の踊り場」にいました。
でも、以前と違うのは、二人の手にはスマートフォンではなく、一冊のノートがあることです。
「ねえ、天音さん。ここのステージ、どうしてもあと一歩でクリアできないんだけど……」
「あ、そこはね。右から三番目のピースを先に動かすのがコツだよ。……ほら」
二人の指先が重なり、画面の中でパズルが弾けます。
『STAGE CLEAR!』の文字が、夕日に照らされてキラキラと輝きました。
「……すごいやっぱり天音さんは、私の最高の相棒だね」
サインは満足げに笑い、窓の外を眺めました。
そこには、かつてるりが「怖い」と思っていた、広くて眩しい世界が広がっています。
「雨月さん……。私、ずっと『漫画みたいなこと、あるはずない』って思ってた」
るりは、窓枠に肘をついて呟きました。
「完璧な委員長が、実はネットの親友で。不登校の私を、ずっと見守っててくれて。
そんな都合のいい奇跡、現実には起きないって。……住む世界が、白と黒だもん」
サインは、るりの手をそっと握りました。
「……私もだよ。私みたいな弱虫な太陽が、君みたいな繊細な月に救われるなんて、
そんなの、物語の中だけの話だと思ってた。
でもね、天音さん。世界は、私たちが思っているよりもずっと、優しく繋がってるんだよ」
るりは、握られた手の温もりを確かめるように、握り返しました。
「……うん。……そうだね」
ふと、るりのスマートフォンが震えました。
通知画面には、一つのメッセージ。
ピーナッツチョコ:
明日の放課後、屋上で新しいパズル、一緒にやろうね!
るりは顔を上げ、目の前にいる「ピーナッツサイン」であり「雨月サイン」である少女を見つめました。サインはいたずらっぽくウインクをして、スマホをポケットにしまいました。
「……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないと思ってたけど」
るりは、満面の笑みで答えました。
「……起きたんだね、奇跡」
オレンジ色の光に包まれた二人の影は、一つになって長く伸びていきました。
それは、もう誰にも引き裂くことのできない、完璧に組み合わさったパズルのピース。
新しい季節、新しい日常。
二人の物語は、ここからまた、新しく始まっていくのです。
エピローグ 奇跡
それから数ヶ月。
季節は巡り、校庭の桜は青々とした葉を茂らせ、初夏の風が吹き抜ける季節になっていました。
天音るりの部屋は、以前とは少しだけ様子が変わっています。
完全に閉め切られていた遮光カーテンは半分開けられ、窓辺には雨月サインと一緒に選んだ小さな観葉植物が置かれています。
るりは、机の上に広げたノートにペンを走らせていました。それは学校の宿題ではなく、二人で攻略を進めている新しいパズルゲームの「連携パターン」のメモです。
(……雨月さん、今日の放課後『屋上のフェンス越しに見る入道雲が、ソフトクリームみたいだよ』って言ってたな)
るりはふっと口角を上げました。かつては画面越しにしか見ることのできなかった「外の世界の断片」が、今は自分の隣で語られ、共有されている。
その時、スマートフォンの通知が鳴りました。
ピーナッツチョコ:
るりちゃん! 今日の塾の帰り、コンビニで『新作のピーナッツチョコ』見つけたよ!
パッケージがキラキラしてて、なんだか私たちの「あの踊り場」の色みたい。
明日の休み時間、二人で半分こしよ?
るりは、迷わずに返信を打ち込みます。
このは:
うん、楽しみ。
私は、冷たい麦茶を魔法の水筒に入れて持っていくね。
一方、塾の自習室でスマホを片手に頬を緩ませていた雨月サインは、周囲の視線に気づいて慌てて背筋を伸ばしました。
「完璧な委員長」としての顔は健在ですが、今の彼女には、誰にも言えない秘密の「逃げ場所」ではなく、堂々と胸を張って帰れる「本当の居場所」があります。
(天音さん……。君が笑ってくれるだけで、私の世界はこんなにカラフルになるんだね)
サインは、筆箱に忍ばせている「あの赤い封筒」の切れ端に触れました。
あの日、勇気を出して出した手紙。
あの日、勇気を出して踏み出してくれた一歩。
二人の間にあるのは、もうネットの匿名性という壁でも、学校のヒエラルキーという壁でもありません。
ただの、お菓子が大好きな、パズルが得意な、少しだけ寂しがり屋な二人の少女の友情。
(……ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないと思ってたけど)
ふとした拍子に、二人は同じ言葉を心の中で呟きます。
そして、その後に続く言葉も、きっと同じ。
(……起きてよかったな。こんな、素敵な奇跡)
明日の予鈴が鳴る頃。
二人はまた、教室の片隅で、誰にも邪魔されない「二人の世界」を重ね合わせるのでしょう。
世界は今日も、パズルのピースのように、優しく、複雑に、美しく組み合わさっています。
完結
作者の後書き
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、**「住む世界が違う」**という、私たちが日常でつい引いてしまう心の境界線をテーマに描いてきました。
クラスの太陽のような存在である雨月サインと、自室の影に隠れていた天音るり。一見、交わるはずのない二人が、ネットという「顔の見えない居場所」で魂の双子のように共鳴し、やがて現実の光の中で手を取り合う……。
執筆中、特に大切にしたのは、るりが何度も呟く**「ま、そんな漫画みたいなこと、あるはずないよね」**という言葉です。
私たちは、現実をどこかで「冷たくて味気ないもの」と決めつけてしまいがちです。でも、勇気を出して一歩踏み出した先で、誰かが差し伸べてくれた手の温かさに気づいたとき、その瞬間こそがどんなフィクションよりも「漫画みたいに劇的」で、美しいものになるのではないか。そんな願いを込めて、全50話+エピローグを綴りました。
るりがリビングで朝食を食べる小さな一歩や、サインが完璧な委員長の仮面の下で震えていた孤独。それらが重なり合って一つのパズルが完成したとき、作者である私も、彼女たちと一緒に深い安堵感に包まれました。
彼女たちの物語はここで一区切りですが、二人の「パズル」はこれからも続いていきます。現実の世界も、捨てたもんじゃない。そう思っていただける瞬間が、読んでくださった皆様の日常にも訪れることを願っています。
改めて、天音るりと雨月サインの物語を見守ってくださり、心から感謝申し上げます。
また別の「奇跡」の物語でお会いしましょう!
音猫 このは