古来より語り継がれてきた、諺、戒め、言い伝え──それらは単なる教訓ではない。
人が恐れ、忘れぬように封じた"災厄の記録"である。
「人を呪わば、穴二つ」
「触らぬ神に祟りなし」
「知らぬが仏」
「後ろ指を指される」
「口は禍の門」
軽く口にされる言葉の裏には、血と悔恨と、取り返しのつかぬ因果が沈殿している。
本書『禍言ノ譚』は、言葉に宿る呪性、風習に潜む怪異、そして人の業を描く、諺幻想怪異譚短編集である。
読む者は知るだろう。
──戒めとは、既に起きた惨劇を、繰り返さぬための墓標なのだと。
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目次
穴二つの夜
「──人を呪わば、穴二つ」
幼き日の私は、その言葉の意味を、ただの戒めとして聞き流しておりました。村の古老たちが、焚き火の傍らで低く語るそれは、どこか寓話めいて、現実の重みを帯びていなかったかのです。
しかし今となっては──あれは、警句ではなく、"予告"であったのだと理解しております。
私の住む山間の村には、古くから一つの禁忌が伝わっておりました。それは、「裏山の杉林に、夜半、一人で入るべからず」というもの。
理由を問えば、大人たちは口を噤み、やがて決まって同じ言葉を落としました。
「あそこには、呪いを返すものが棲む」
私は、学問を納めて都より戻った身。迷信や言い伝えの類を、理に適わぬものとして退ける癖が染み付いておりました。
──その驕りが、全ての始まりであったのです。
その年の晩秋、私にはどうしても赦せぬ男がおりました。名を庄司と申します。村の利権を握り、弱き者から田畑を巻き上げ、あまつさえ私の亡き父の土地までも不正に奪い取った張本人。訴え出る証は消され、訴状は退けられ、正しき道は閉ざされました。
やがて私の胸中に芽生えたものは、義憤ではなく、昏い執念でした。
──あの男を破滅させたい。
その折、私は古い文献庫の奥で、一冊の和綴じ本を見つけます。虫に喰われ、墨も褪せかけたそれは、村の禁忌を記した記録でした。
頁の末尾に、こう記されていたのです。
「恨みを地に託すとき、杉林の中央に穴を掘り、名を書きし紙を埋めよ。されど──穴は必ず二つ掘るべし」
私は嗤いました。
二つ?儀式めいた形式に過ぎぬ、と。
──私は、一つしか掘らなかったのです。
夜半。月は雲に隠れ、杉は風もなく軋み、林はまるで呼吸するかのように湿り気を帯びておりました。
私は庄司の名を書いた紙を、掘った穴へと沈め、土を戻しました。
そのときです。背後で、土を掻く音がしたのは。
振り返っても誰もいない。しかし確かに、もう一つの穴が、私の知らぬ間に口を開けておりました。
ぞっとしたものの、私は己を叱咤し、林を後にしました。
──三日後。
庄司が死にました。
屋敷の庭で、地面に首まで埋まった状態で発見されたのです。顔は土に歪み、目は見開き、まるで何かに引きずり込まれたようであったと申します。
村人たちは口々に囁きました。
「因果応報だ」
「呪いが返ったのだ」
私は、戦慄と──そして、ほのかな愉悦を覚えました。
だが、その夜からです。
私の屋敷の庭に、もう一つの穴が現れ始めたのは。
最初は獣の掘り跡かと思いました。しかし穴は日ごとに深く、円く、そして──人一人が収まるほどの大きさへと変わっていったのです。
埋めても、翌朝には再び開く。
ある晩、私は意を決し、穴の底を覗き込みました。
そこには──紙がありました。
掘り返すと、湿った土に包まれた一枚の紙。震える手で開けば、墨で記されていたのは──"私の名"。
その瞬間、背後で囁きがしました。
「穴は、二つと申したろう」
振り向いたとき、そこには誰もおりません。ただ杉の匂いと、湿った土の気配だけが満ちておりました。
それからというもの、私は夜毎夢を見ます。
暗い林。
二つの穴。
一つには庄司。
もう一つには──私。
夢の中で、土が少しずつ、私の口へと流れ込んでくるのです。息が詰まり、叫ぼうとするたび、あの声が響きます。
「人を呪わば、穴二つ」
「恨みは、必ず並び立つ」
今、私は庭を前に筆を執とっております。穴はすでに、胸の高さまで掘り下がりました。
自ら掘った覚えはございません。けれど毎朝、確実に深くなっているのです。
理解いたしました。
呪いとは、刃。振るった瞬間、すでに己をも斬っている。
これより私は、あの穴へ入ります。抗う術は、もはや残されておりません。
最後に──この記を読む方へ。
もし恨みを地へ託そうとする夜が来たなら、どうか思い出してください。
穴は、二つ。
一つは相手のために。
そしてもう一つは──あなた自身のために、用意されるのです。