編集者:みんな
88星座の擬人化で主に私が担当してる子達の短編を投げます。
話は殆ど繋がっていません。
投稿頻度は🐌以下なので悪しからず。
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目次
大罪
幸せを願うのに,幸せでいる価値がない。
初めから何もなければ誰も…………僕さえも,傷つかずに済んだのに。
あの事件から,1ヶ月が経った。あの時,蛇遣い座によって12星座はほぼ壊滅状態になった。いや,壊滅状態になったのは12星座だけではなかった。公正公平な裁判長の天秤座を継いだ盾座。輝きの眼差し放つ蟹座を見失ったいるか座。皆の活動から覇気を失うと同時に,世界も活気を失った。それだけ,12星座は信頼や人望が厚く,希望の光であった。
蛇遣い座は,そんな皆の希望の光を奪った。自身の鬱憤を晴らす,ただそれだけの理由で。……あまりにも身勝手だ。許されざることだ。止められたからには,本来死んで詫びるのが償いというものだ。だって誰も蛇遣い座が生き続けることを望んでいないから。………だが,それが出来ない。
蛇遣い座は,不死身であるから。
そもそもあの事件は,12星座が半壊しても尚,諦めずに喰らいつく者たちによって解決された。ドス黒い感情に蝕まれ,半ば洗脳されていた蛇使い座は,正気に戻った。そして,殺された星座達は蛇使い座によって蘇生された。失われた希望の光は再び世界に舞い降りた。
あの時,皆の表情が絶望から安堵に変わり,世界に再び活気と覇気が取り戻されたあの瞬間は一生忘れることはないだろう。忘れてはいけない。再びこの世界から活気を失わせてはならない。
あの日のことを再び夢で見た。法廷に立ち,天秤座が判決を下すあの瞬間の夢。判決に納得の行かない者達に囲まれ,罵声や石を浴びたあの日。僕だって,死んで詫びられるならそうしたかった。
さて,先ほどから話す蛇使い座という大罪人とは即ち僕のことだ。今,被服師様の住まう中枢の宮殿でお手伝いとして雇われている。雇われているというより,匿われていると言った方がいい。元々は砂漠で医者をやっていたが,あの世界にはもう僕の居場所はない。見かねたのか気まぐれなのかはわからないけれど,そんな僕を被服師様が手を差し伸べた。
僕のことを許し,以前と同じように親しく友好的に接してくれる星座も中にはいる。が,蛇使い座を許さず,それ以上に死を望む星座も少なくはない。一人で道を歩けば背後から刃物を突き立てられるのもよくあること。時折宮殿外にお使いに行くが,その度に一定数の星座達からは敵意と殺意,そして恐怖の視線を受ける。僕が完全に無害である証明ができない以上は,仕方のないことだ。
ただ,僕も皆と同じ,88の星座のうちの1星座だ。今の僕とみんなの間には巨大な壁が作られている。その壁の中で僕は,独りぼっち。独りになることには何ら思うことはない。当然であることも理解している。……ただ,世界が違えば,今頃僕はみんなから心から愛されたのだろうかと,選択が違えば,僕もみんなと一緒に心から笑うことができたのだろうかと,ささやかな幸せを望んでしまう。許されざる,取り返しのつかないことを仕掛けた僕に幸せが訪れるはずがないことは十分承知しているはずなのに。笑顔で手を握ってくれる蟹座ちゃん。一緒に望む世界を築こうと手を差し伸べてくれる天秤座ちゃん。酷い事をしたのも許して話しかけてくれる子犬座くん。僕さえも救いの対象としてくれる被服師様。他にもいっぱい,僕を許してくれている星座は沢山いる。だが,幸せになりたい,愛されたい,そう心から思うはずなのに,許され愛され幸せになる自分に僕はひどく嫌悪感を抱く。なんて,わがままなんだろう。視線を移すと,戸愚呂を巻いて目を覚さない|相棒《へびざ》が視界に映る。
「僕も,みんなと一緒になれたらなぁ………」
叶うはずのない小さなぼやき声と想いが溢れて出た涙は,星が瞬く美しい夜の世界へ溶けて消えていった。
幸せでいたいのに,幸せでいる価値がない。初めから,何もなければ誰も……
僕さえも,傷つかずに済んだのに。
優しさ……か。今の僕にとっては毒塗りのナイフみたいだ。
守れぬ者
ずっと気づいていた。蛇使い座に巣食うものによって自我を失っているということも,吾輩が愛した蛇使い座は心の奥底に眠っていることも。
愛人。愛している相手,特別に深い関係にある異性,などと呼ばれるものである。吾輩にも,|“それ”《愛人》がいる。名を,蛇使い座。今は男でも女でもないが故に,異性かどうかは定かではない。が,そのことはどうでも良い。吾輩は異性としてどうかということではなく,彼奴そのものが好きなのだ。それ以外には何もない。むしろ,蛇使い座以外に吾輩に必要なものなどない。蛇使い座がいればそれで良いし,蛇使い座が望むものなら何であろうとも手助けする。そうあの時誓った。許婚となった,あの日。
吾輩は幼き頃より病弱であった。何度冬眠のまま起きず永久に眠りかけたことか。その度に看病をしてくれていたのが,お前だったな。迷惑だとは一度も言わず,吾輩の病を診続ける。他の星の民達の病も絶えず診ていた。それが己の夢なのだと語りながら,多くの者達の命を救っていた。その中には当然,吾輩もいる。
よく言っていた言葉がある。
「誰も苦しまない,みんな平等で,みんな幸せ。そんな世界であればいいのになって。」
と。
吾輩はこの世界のことなど,どうでも良かった。蛇使い座が存在している世界ならば,たとえ争いが絶えぬとも,平穏な世界であろうとも。そう言うとお前は可笑しいものを聞いたように笑った。吾輩は何が可笑しいのかわからなかったが,お前がそう楽しそうに笑う姿を見られたことに,少し喜びを感じていた。そうして吾輩が蛇使い座に向ける気持ちを理解していった。
そんな微笑ましき日々は一瞬の出来事に終止符を打たれた。突如として世界中で致死率の極めて高い病が流行した。多くの者が苦しみ死んだ。蛇使い座はその対応に追われた。吾輩も蛇使い座も,死力を尽くして民を救おうとした。だがそれら全てが無に返すように,運び込まれてくる者達は皆立て続けに死んで行った。毎日,毎夜,毎朝,病人が運ばれてきては死ぬ。死んでは火葬し埋葬する。祈り,労り,そして哀しんだ。蛇使い座も吾輩も,段々救いの手を差し伸べきれなくなった。時間も忘れ,無我夢中で看病をして回る日々。ある日ふと,日付を見た。その日はちょうど,蛇使い座が12星座に加わり13星座となるはずの日であった。蛇使い座は名誉あるその式よりも,救い切れるかもわからぬ人々に捧げることを選んだ。
結局,大勢が死んだ。病は瞬く間に広がり,世界中がこの病に侵された。そして,吾輩もまた例外ではなかった。
恐ろしいほどに進行が早く,症状が出ておよそ3日ほどで全身が麻痺したように動かなくなった。蛇使い座は恐らく今まで以上の力で病を治そうと奮闘していた。その姿もとても愛おしかったが,張り詰めた表情をしているのは胸が痛くなった。そして5日ほどで突然身体は羽のように軽くなった。もちろん喜んだ。治ったと思ったのだから。だが,そうではないとすぐに理解した。吾輩の視線の先で,吾輩の身体が横たわっていた。そのそばで,蛇使い座は下を向き蹲っていた。どれだけ声をかけようとも,奴から返事はなかった。そしてそれは奴も然りだった。お互いが,どれだけ声をかけようとも,相手からの返答はなかった。吾輩は己の無力さを痛感した。そして同時に,病弱であった己の身体を心底恨んだ。いつまでもそばにいると約束したはずであったのに。吾輩の意識も遠のいていた。せめて見守りたいという願いすらも神は聞き入れてくれないらしい…………。
吾輩は目を覚ました。痛みはなかった。が,違和感はあった。起き上がるとそこは見慣れた一室だった。吾輩が死ぬその日まで使っていた病室だ。日付はあの日からはしばらく経っていた。確かに吾輩はあの日死んだ。実感したのだ。その後の記憶はないが,確かに死んだ。では,何故?
疑問符を浮かべるや否や,部屋の一角にある扉が開いた。視線を移すと,その動作の主は蛇使い座だった。蛇使い座は起き上がった吾輩の顔を見ると,嬉しそうに駆け寄ってきた。その笑顔を見て,吾輩からも思わず笑顔が溢れた。久々の談笑だった。…………だが,何処か可笑しい。何故吾輩が再び現世へ戻ってきているのか。何故お前は時々冷笑を浮かべているのか。吾輩がその疑問を投げかけるのを遮るように,蛇使い座が言った。
「良かった。蘇生,ちゃんと成功したみたいで。」
蘇生。再び生命を取り戻すこと。人智を超えた行為であるため,この世では本来禁忌であるもの。蛇使い座はが何故その禁忌の名を…?お前は禁忌に手を染めたというのか…?
吾輩は尋ねようとした。だが一文字目を言いかけたところで飲み込んだ。再び蛇使い座とこうして話すことができることが何より嬉しかったからだ。この喜びに水を刺したくなかった。
それからの奴はより一層可笑しかった。不老不死の身体を手に入れ,死者蘇生も可能にし,自らあらゆる病にかかり特効薬を生み出す。……到底常人にはすることのできないことばかり。それを全て誇りに思っていた。自慢げに,吾輩に話してきた。何があっても禁忌に触れることはなかったお前が,一体どうして…。
それ以上に理解し難かったことがある。吾輩が許婚であることを覚えていないということだ。あの日共に笑った時間は全て無に返った。虚しかった。だが,怒りはなかった。たとえ蛇使い座が吾輩を愛人として見ていなくとも,吾輩だけは蛇使い座を思い続ければ良い。お前が幸せなら吾輩はそれで良いとあの日誓った。その幸せにたとえ吾輩がおらずとも,幸せであれば,それで…………。
ある日,蛇使い座は12星座を殲滅すると言い出した。どうやらあの日以来,12星座から軽蔑と好奇の目を向けられているそうだ。名誉ある式に参加しなかった事を怒っているのだろうか。それに対して,蛇使い座は抑えきれぬほどの殺意と憎悪を抱いていた。確かに,状況も知らず身勝手な奴らだとは思うが,何故そこまでの殺意と憎悪を抱くのかは理解できなかった。ここ最近,毒学や12星座の調査に没頭していたことの辻褄が合った。
だが吾輩は無謀だと思った。我々にはあまりにも力不足である。もちろんそう伝えようとした。だが,
「蛇ちゃんがいてくれると心強いな」
久しぶりの笑顔だった。吾輩は,首を縦に振るしかなかった。
結局,この計画は失敗に終わった。奇襲した星座が運悪く4人も集まっており,あえなく返り討ちに遭った。蛇使い座はより一層警戒される対象となった。
だがその歴史を吾輩が塗り替えた。このまま蛇使い座が改心すれば,これからは他の星座達と平和に暮らせると思ったからだ。禁忌に手を染めたこともきっと話せば理解して貰えるだろう。幸せを追求する権利がお前にはある,吾輩はそう信じた。
信じたが,蛇使い座はそれを使って再び12星座への復讐を企てた。もうそこに,吾輩の知る蛇使い座はいなかった。負の感情に蝕まれ,お前が望んでいた世界のことも,吾輩の姿も,何も見えていなかった。だが,吾輩はそれでも,いつか昔のように心優しく人のために尽くすような者に戻ると信じた。吾輩はその日まで,蛇使い座のそばにいると,そう誓った。
ずっと気づいていた。蛇使い座に巣食うものによって自我を失っているということも,吾輩が愛した蛇使い座は心の奥底に眠っていることも。だが吾輩一人では助けられる確信がなかった。蛇遣い座の機嫌を損ねれば,それだけできっとそばにいられなくなる…それがただ途方もなく怖かった。
吾輩は,臆病者だ。
蛇使い座を正気に戻せた後,吾輩は長い眠りについている。いや,実際には吾輩は周りが見えている。身体を動かすことができないだけなのだ。だから,今蛇使い座が孤独に押しつぶされて涙を零しているのも,分かっている。世界が違えば,お前は皆から心から愛されただろうか。選択が違えば,お前も皆と心から笑い合えただろうか。
「僕も,みんなと一緒になれたらなぁ……」
蛇使い座の小さなぼやき声と想いが溢れて出た涙が星が瞬く美しい夜の世界へ溶けて消えていった。
許されざることをしてしまったのは吾輩の責任だ。もっと早く,お前を正気に戻そうと行動していれば,お前も,誰も,傷つくことはなかった。
恋は盲目とは,よく言ったものだ。
遣う者
『不老不死の成り方。』『死者蘇生を可能にする方法。』
私が身体を動かせるようになったのは12星座が発足されてから少し経った時だった。抑え切れないほどの嫉みや恨みを退け,私は目を開いた。近くには冷たくなった1匹の蛇と,様々な医療器具が床に散らばっていた。記憶は曖昧だが,どうやら私はこの蛇を救いたかったらしい。しかし,望み叶わず失った,と言ったところか。
視線を移してみると,ふと乱暴に開かれた一冊の魔導書と何かが書かれた紙切れ,そして羽の付いた筆記具が転がっていた。私はそれを拾い上げ文字に目を通す。
『不老不死の成り方。』『死者蘇生を可能にする方法。』
大きくそう書かれていた。よく見ると,開かれた魔導書……いや,これは禁忌のみを特集した“禁忌書”だ。生半可な気持ちで目を通す代物ではない。
さらに,先ほどの文字…『不老不死の成り方。』と書いてある方には大きく真っ赤な丸印が描かれていることに気がついた。つまり,私の身体は“不老不死”である,ということだろうか。試しに私は机に置いてあったダガーを手に取り自分の心臓に突き刺してみる。……痛みはある。流血もする。が,歯を抜くとすぐに傷口が塞がり血も止まってしまった。なるほど,不老不死ということは俄かには信じ難いが本当らしい。
では次は,『死者蘇生を可能にする方法。』の方だ。恐らく私は,この冷たくなった蛇に何か特別な思いを抱いており,どんな手を使ってでもこの世に呼び戻したかったのだろう。生憎記憶が曖昧でどのような思いだったかまでは思い出すことができないが。
禁忌書の指示通りにいけば,死者蘇生も何ら難しいことはなかった。蛇も時期に目を覚ますだろう。曖昧だった記憶も,時間が経つことに鮮明に思い出せるようになってきた。だが依然としてあの蛇のことはあと少しのところで思い出せない。途方もなく大切であるということだけは確かだ。それさえわかれば十分,自然に振る舞える。そんなことよりも,私の目的は変わらずただ一つ……
私を蔑ろにした12星座を殲滅すること,ただそれだけ。
と意気込んでいたが,生憎一度は敗北した。4星座も固まっていることは予想外だった。…いや,ただの準備不足だ。私が不老不死でなければあえなく全滅していたところだっただろう。が,この通り生きている。問題ない。
そしてさらに,蛇座がこの歴史を塗り替えてくれた。これを使わないわけにはいかない。次こそは,念入りに準備をし,念入りに調査する。そして何より,
念入りに信頼を積んでおく。さすれば,次こそ12星座の首を獲れる。確実に。
私はそのためであればどんなことであろうが遂行する。"12星座を殲滅する",ただ,それだけのために。
【注意】
不老不死になった場合,“自分が一番大切にしている記憶”を失うことになる。それでも本当にこの力を手に入れるのか,それは己の意思次第だ。
『後悔、先に立たず』という言葉を忘れること勿れ。自分の選択を恥じぬよう生きよ。
では,良い人生を。
誓ったあの日
「吾輩はお前の夢の実現のために視力を尽くす。この先もずっと,この命尽きるまで,お前のそばにいる。そして,お前のことは吾輩が守る。約束だ。」
許婚というのは,ほとんどが幼少期から本人同士の意思に限らず両親によって取り決められる婚約のことである。故に,許婚関係にある2人の関係は必ずしも良好というわけではない。どちらか,または両方が別の者を思うが故に破綻になることも少なくない。思いを諦め許婚の関係に従う者もいる。運命を自らの意識沿わず決められることは誰しも喜ばしいことでは本来ない。
吾輩も初めはそうであった。突然母君に告げられ見合いに連れられたが,相手は吾輩よりも遥かに歳の若い娘だった。納得がいかなかった。代々我ら蛇の家系と蛇を扱う家系は許婚の関係を組み,繁栄してきたことは親族から幼き頃よりうんざりするほど聞かされていた。納得はいかないが,従う他ない。娘のことが気に入らなければこちらから婚約を破棄すればいいだけだ。
さて,吾輩と許嫁の娘は結局同居することになった。吾輩は反対したが,両者の親族は皆譲らなかった。娘も苦笑いしていた。その娘はというと,どうやら医者を目指しているらしい。ある面で言えば元より体の弱い吾輩は良い被験体ということか。故に娘が自室から出てくることは殆どない。本を読み漁り,貴重な紙を使って纏め,時々吾輩の身体を見ては何かを呟いている。正直不気味だ。家事は殆ど吾輩が行なっていた。そうしなければ奴は食事を摂ろうとしない。倒れられたらたまった者ではない。認めていない奴の看病など吾輩はしたくなかった。
ある日吾輩は何故そこまでして医者になる必要があるのかと問いた。
「僕,人に尽くして生きていきたいんだ。毎日何処かで誰かが重い病気に苦しんでる。怪我で動けなくなってる……そんな人達を一人でも多く僕が救ってあげたい。そのために医者になるんだ。」
娘は頬を掻きながら,少し照れくさそうに言った。その瞳に曇りはなく,嘘偽りのない,女神のように穏やかな笑みを浮かべていた。吾輩の心がほんの少しだけ揺らいだ。
そこからは早かった。医者に弟子入りをして家に帰らない日も増えた。毎日食事は共にしていただけあり,微々たるものではあるが寂しさを感じた。しかし帰ってくるたびに奴は目を輝かせた。今日もまた大勢を救えた,と。そこには心の底からの喜びと幸せを感じた。それを見ていた吾輩の頬も同じように緩んでいた。一生懸命に努力しそして人のために尽くして喜びを得る。その姿が何とも愛おしい,そう思った。
いつの間にか,吾輩は娘に惚れていた。
暫くして,娘と吾輩は医院を始めた。初めのうちは人こそあまり来なかったものの,娘の確かな実力は瞬く間に知れ渡り,2人では多忙すぎるほどの人が集まった。大変ではあったがやり甲斐はあった。汗水垂らしながらも人のために笑顔で看病をする娘を見れば疲れもないに等しかった。娘と祝言をするにはまだ少しあるが,時期に|夫婦《めおと》となる吾輩はとても誇らしかった。娘のおかげで病弱だった吾輩の持病も良くなっていた。他の医者に頼っていてはきっとこれほど早く良くなることはなかっただろう。
夜の涼しいある日,吾輩と娘は2人で月を見ていた。片付けそびれた風鈴が涼しげな音で鳴く。吾輩達は肩を寄せ合い手を重ねていた。ふと,娘が吾輩の方に寄りかかって言った。
「僕,一人だったら絶対にこんな大勢の人は救えなかったと思うんだ。だから,ありがとう。僕の夢を手伝ってくれて。」
今までに見たことがないほど安堵し,幸せそうな微笑みを浮かべていた。吾輩は胸の高鳴りを感じた。その顔の先は,今吾輩に限定されている。耳まで熱くなる感覚がした。
「あ,照れてる?意外と可愛いところあるじゃん」
今度は悪戯っぽく笑った。先ほどの凛々しい顔とは違い,幼さの含んだ笑み。
吾輩は娘の手をそっと上げ,そして髪を耳にかけてその手の甲に唇を落とした。少し動揺している娘の瞳を見つめ,吾輩は口を開く。
「吾輩はお前の夢の実現のために死力を尽くす。この先もずっと,この命尽きるまで,お前のそばにいる。そして,お前のことは吾輩が守る。約束だ。」
今度は娘の方が耳まで赤くなっていた。全く愛おしい限りだ。
「うん,これからもずっと一緒だよ。」
娘はそう言い吾輩の身体を抱きしめた。小さく細い身体だったが,その背中はとても大きく頼もしいものだった。包み込むように抱きしめ返すと,再び風鈴が涼しげに鳴いた。華燭の典を迎える日が,より一層楽しみになった。
吾輩は永遠にお前のために生きる。お前が幸せならばそれで良い。たとえどんな道を歩もうとも。お前だけ幸せなら,吾輩はそれで良いのだ。
あの時,吾輩が命を落とさなければ,吾輩があの病に侵されなければ,お前は今頃心から笑えていたのか…?皆から心から愛されていたのか…?
お前は,心から幸せになれたのか?
翳
男は笑っていた。まるで僕の回答をとっくに知っているかのように。
蛇座が死んだ。
1ヶ月前から突如として広まった致死率の高すぎる病。僕と蛇座は毎日主にこの病気の患者を診て治療していた。その病が,蛇座に魔の手を伸ばした。もとより体の弱かった彼の進行の早さははっきり言って異常だった。患ってたった5日で,彼の心臓は鼓動に疲れ眠りについた。誰よりも懸命に治療に励んだはずだった。この1ヶ月ほとんど眠っていないけれど,この病を少しでも食い止められるのならと,蛇座の反対を押し切って勤しんできた。それなのに,どうして僕ではなく蛇座が命を落とさなければならなかったんだろう,どうして僕だけが生き残らなければいけないんだろう。それでも,患者を不安にさせないように,心配をかけさせないように,なるべく表情に出さないようにした。けれども患者たちはだんだんと気づき始めていた。噂に聞く腕のいい医者がいると聞いて僕の元へ来ても,どのみち皆等しく冒され続けやがて死ぬ。こんな小娘一人に自らの命を預けるという決断は,そう簡単に下せるのもではない。昔から贔屓にしてくれていた人たちも,だんだん別の医院へ移って行った。
「やっぱり,こんな小さな女の子がこの病気をどうにかできるはずなかったわ」
「街の方の病院へ行こう。そこなら医者ももっと沢山いる。」
「流行病も食い止められない。13星座の式典にも出席しない。とんだ無礼者だ。」
残った患者の口々からも,呆れと嘲弄が漏れた。だんだん僕の周りから,人がいなくなっていった。
「わたしはお前さんを信じているよ。きっといつかこの病魔を食い止めてくれるってね。」
ただ一人だけそう言って笑ってくれたお婆さんがいた。けれどその人も数日後今までの患者と同じように静かに息を引き取った。その人が,僕の最後の患者だった。
結局,医院には僕以外誰もいなくなった。ほんの1ヶ月前まであんなにも人で溢れていたのに。一人でも多くの人を救うために医者になるなんて,とんだ妄言だった。結局この病に冒された人誰一人として救えていなかった。虚言者だと言われても,未熟者と言われても,仕方がないだろうと自嘲した。
あれからいくつの日が経っただろうか。空腹も喉の渇きも気にならなかなっていた。ただ,かつて蛇座がよく戸愚呂を巻いていた受付台に身を伏せていた。何度埋葬を掘り起こして生存を確認しただろう。何度見ても事実が変わることはないのに,期せずして温もりが戻っているかもしれないなんて,ありもしない希望を抱いて。
「随分と廃れましたなァ蛇使い座。」
突然声が聞こえた。声の出所は視界の中にはなかった。伏していた重々しい体を無理矢理起こして辺りを見回した。しかし,どこにも誰もいない。
困惑していると,受付台の影が妖し気に揺れると,ゆっくりと人影を造形した。しかしただの人影ではなかった。4本しかない指の爪は鋭利に伸び切り,長さの違うツノが3本見える。尻尾は鯨や蛇のように太く長く,蝙蝠…いや,小柄のドラゴンほどの大きさの漆黒の翼が揺れる。片目は髪に隠れて見えないが,見える片目からは禍々しい雰囲気を感じる。そして何より,人型の蛇座よりも高い。
一目で見てわかる。こいつは悪魔だ。
「まぁまぁそう身構えずに。」
男はクフフと奇妙に笑いながら,ゆっくりと僕の方に歩み寄った。僕は睨みつけるようにそいつの顔を覗くが,近づくたびにその巨大が強調され,まるで意味のない。そして,あり得ないようなことを口にした。
「ワタクシは,蛇座を蘇らせる方法も,この病魔を食い止める方法も知っている。」
僕は逸らしかけいた目線をすぐさま男に向けた。そして思わず言葉がこぼれた。
「今,なんて……?」
声は震えていた。男はまたクフフと不敵に笑った。
「蛇座を蘇らせる方法も,この病魔を食い止める方法も知っている,と言いました。嘘偽りなく,まったくその言葉の通りのことです。」
僕は息を呑んだ。あれから何度,蛇座の重く閉じて開かない瞼を見つめたことか。蘇らせる方法があのなら一刻も早く知りたい。けれども,それは医師としてその道を外れた禁忌である。蛇座は仮にこの世に再び呼び戻しても,きっと…………。
「ワタクシはアナタの気持ちがよーくわかる。守りたいものも守れず,それを周りに理解されない。さらに蔑まれ避けられついには嘘つき扱い。庶民というのは実に自分勝手で愚かなものだ。自分さえ良ければそれでいいと思っている。」
違う,そんなような人ばかりじゃない,そう言おうと口を開く。
「結局自分が助かればそれでいい。恩など忘れて直近の未来のみを見て選ぶ。その先にことなど誰も真面目に考えてはいない。」
違う,そんなことない,そう言うために唾を飲む。
「その庶民を野放しにする星座…特に12星座さえも愚かだ。何故誰もこの騒動について言及しない。何故誰も解決の目処を立てようとさえしない。」
違う,違う,そんなこと………
「結局自分の周りだけしか見えない者たち……そんな者にアナタは未来の主人を失ったのではないですか?」
何も,言い返せなくなった。この男のいうことが正しいような,そんな気がしてきてしまった。思考がうまく働かない。視界が霞む気さえする。
男は僕の様子をじっと伺うと,懐から一冊の古びた本を取り出した。随分昔の本なのだろう,題名の文字が薄汚れて見えない。表紙の埃とカビだけ見ても,状態がいいものではないことは一目瞭然だった。それなのに,僕は釘で打たれたようにその本から視線を移せなくなった。禍々しい雰囲気が溢れている。手を出してはいけないと全身が警報を出している。しかし,それでも視線を移せない。欲しい,とほんの一瞬思った時,それまで少し黙っていた男が再び口を開いた。
「この本には死者蘇生も,不老不死も可能にする方法が記されています。この2つだけでも得ることができれば,アナタの望むもの,望む未来に大いに近づくことでしょう。」
死者蘇生。不老不死。どちらも医師の世界では最も禁忌とされていることだ。人智を超えすぎた力は返って禍を呼ぶ,何度も肝に銘じたことだ。
それなのに,僕の心の中からは欲しいと思う気持ちが大きくなっていた。手を出したらいけない,2度と後戻りできなくなる,絶対に後悔する,そう思う気持ち以上に,蛇座に会いたいという気持ちの方が強くなってしまっていた。死者蘇生の力があればそれが可能だし,不老不死の力があればあの病の薬の研究が進む。
そう考えると,死者蘇生も不老不死も,悪いものではないのか…?禁忌を犯しても人様のためにならないだろうか…?わからない…僕は一旦,どうしたら……………。
「もしこの本を手に入れたいのであれば,一度ワタクシと契約していただきましょう。なぁに,少し力を得るための力をお貸しするだけです。」
僕は,再び本を見た。この本があれば,また蛇座に会える。
「さぁ,どうしますか?」
男は笑っていた。まるで僕の回答をとっくに知っているかのように。
僕は結局,その悪魔の契約を交わした。その時頬に烙印されたような激しい痛みがあったが,男から本を手渡されると,もう気にならなくなった。
「もし万が一,契約を破棄するようなことがあれば,その時はワタクシがアナタの魂を喰らうことになるでしょう。悪魔との契約に取り消しは存在しない……それだけ,覚えておくことです。」
男はそう言う最後まで,笑っていた。そして,再び影の中へと溶け込むように消えていった。まるで初めから誰も来ていなかったかのように,この部屋は初めから何も変わっていなかったかのように静寂を貫いている。しかし,僕の手は確かにあの男からもらった古びた本を保有していた。とんでもないものに手を出してしまったかもしれない。そんな思いがドッと溢れて血の気が引いていくのはわかった。
しかし,だからこそもう後戻りはできない。恐る恐る本を開くと,ほとんど文字の見えない箇所も少なくないとわかった。さらに言えば,何枚か破られてしまっている。あまりの状態の悪さに少しだけ失望したが,求めるものは幸い文字がなんとか読むことができる。この工程を介すれば,僕の望む未来はすぐそこだ。
なんで,どうしてこの時本を受けってしまったんだろう。どうしてあの男に言いくるめれてしまったんだろう。こんなことになることは安易に想像できたはずだったのに。
人は後悔して初めて,過ちに気づく。
嘘つき・前
小鳥も囀るある日のことだった。本来ならば退屈なほどのどかな木々に覆われた平原地帯でのことだった。“射手座”が死んだあの日から,状況は急速に悪化した。
あれからいくつの日が経っただろうか。オレは,地平線まで果てしなく続く草原を病院の一室の窓から眺めていた。何かを特別探していたわけではない。ただぼうっと,何も考えず,現実から目を背けるように,行き場のない思いから逃れていた。視線を左にずらすと,俯いたまま考え事をしている山羊ちゃん……山羊座が目に映る。義弟を失い,大切な仲間を,友人を失い,彼女の目はかつてないほど焦燥と殺意を孕んでいた。
射手座が殺害されてから,その者による12星座の虐殺が始まった。あの日から数日しか経っていないにも関わらず,残った12星座は片手で数えても指が余る程にまで減ってしまった。この世界に生きるオレでさえ,理解し難い状況なのだから,この世界そのものでさえきっとこの状況を読み込められていないことだろう。未だかつてこの世界を守る最強の12人が,他者によってここまでの数を減らされることはなかったのだから。
山羊ちゃんの落とす視線の先には,ベッドに横たわり,微動だにせず静かに目を閉じる兄貴…カロリの姿がある。オレと兄貴は,虐殺が始動するほんの数日前,何者かに意識を乗っ取られた。そして射手座,および山羊座の殺害を図った。結果的に失敗に終わり正気を取り戻せたものの,その時に義姉を守ろうとする射手座の放った攻撃が直撃した兄貴は昏睡状態になった。医者曰く,目覚めの目処は立っていないらしい。生命力の衰退が急激で,オレはしばらくここを離れられない。
オレも,山羊ちゃんも,正直心は限界の警鐘がけたたましく鳴り響いていることだろう。けれども,どちらも相手には何も話さない。どちらも,助けを求めているはずなのに。
数時間にも及ぶ無の時間を破ったのは山羊ちゃんだった。視線を時計に移したあと,重々しくも椅子から立ち上がった。そして外に繋がる扉へ歩みを進めた。が,その足はすぐに止まった。手首を掴まれたからだ。
掴んだのは,オレだ。
「…なんだい。」
山羊ちゃんは振り向きもせずに問うた。時間を見れば,いつもの見回りの時間であることは明らかだ。12星座が大幅に減っても尚,いや,減ってしまったからこそ,自分がなんとしてでも平穏を守らねばならない,とでも思っているのだろう。そうだとすれば,引き留められては鬱陶しいに決まっている。そうだとわかっていながらも,オレの手は山羊ちゃんの手首を離すことができなかった。
「………行かんといて。」
自分でも驚くほど小さく,掠れた声が出た。
オレはただ,怖かった。兄貴が目を覚まさなくなった後から山羊ちゃんの背中を見るたびに途方もない恐怖に駆られていた。この背中から離れたら,また失ってしまうかもしれない。山羊ちゃんまでも失ったら,オレは本当の意味で1人になる。今までずっと隣には常に兄貴がいた。そんな人生を生きてきたオレにとって,1人がいかに恐ろしく未知であるかなど自分でもわからない。オレの指先は,若干震えていた。
それを感じたのかどうか定かではないが,山羊ちゃんはオレの方を振り返った。その顔は,どこまでも真剣で,固い意志を感じるものだった。
「まったく,何がそんなに心配なんだい?僕は12星座の中でも3強と数えられてる星座だ。そんなこといちいち言わずとも,君が一番よくわかっているだろう?」
山羊ちゃんは少し呆れたように溜息を交えてそう言った。オレはただ俯くように浅く頷いた。山羊ちゃんの言う通りオレは,山羊ちゃんが強いことを知っている。12星座の中でも,3強と呼ばれ一目置かれている存在であることも,現12星座で最も12星座である歴史が長いことも。
だからこそ,だからこそ怖かった。想像したくもない未来を想像して,勝手に不安になっているだけなのだが。
「………それなら,僕がこれからやるべきことも,わかっているだろう?」
空気の流れが変わった。辺りは標高の高い山のように酸素が薄く感じられる。山羊ちゃんの顔が,表情が,そう思わせるほどひたむきだった。オレはその気に押され,手首を掴む手が弛む。
「……いやや…山羊ちゃんまでいなくなってもうたら……オレ……もう,どうしたらええかわからへん……」
いつぶり以来か,弱音を吐いた。
「山羊ちゃんのことは信頼しとるし,強さも頼りにしとる。そう簡単にやられへんことくらい,わかっとる。」
今まで抑えていた感情が雪崩のように押し寄せてくる。
「上手く…言えへんけど……,オレ,山羊ちゃんと離れたない………せやから………っ」
大粒の涙が頬を伝う。今のオレは,なんて情けないのだろう。一緒に行くという選択が安易に取れないことが悔しい。兄貴だったらこんな時,どうするだろうか。
山羊ちゃんはそんなオレを見ながらまた深い溜息をついた。だが,それはいつものようにただ呆れるだけのものではなかった。どこか緊張を含んだ,らしかぬ溜息だ。
「……わかったよ。大丈夫,僕は必ずまたここに戻ってくる。別に大して遠くまで行くってわけでもないからね。だから外であまりぼろぼろと泣かないでくれるかい?」
山羊ちゃんはそう言いながら首に手を当てて肩をすくめる。オレはまだ伝う大粒のしょっぱい涙を拭った。
「それまでしっかりカロリのこと見ておいておくれよ。戻ってきたら死んでました,なんて冗談,通用しないからね。」
オレは,山羊ちゃんを掴んでいた手をそっと離した。彼女の揺るがぬ確固たる意思を前にして,引き留め続けることができなかった。
手を離した代わりに,オレは山羊ちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「ちょ,急になんなんだい…?!」
腕の中で何かギャーギャー言っているが,オレの耳はあまり正確に捉えていない。
大丈夫,山羊ちゃんはきっと,いや必ず,戻ってきてくれる。
オレは半ば強引に自分を安心させると,もがき始めていた山羊ちゃんからゆっくり離れた。離した後も何かぶつぶつと文句を言っていたが,オレの顔を見るなりまた溜息をついてオレに背を向け,目の前にある扉を開ける。
「それじゃあ,行ってくるからね」
山羊ちゃんは振り返らず外へ一歩踏み出した。
「山羊ちゃん」
その声に足を止めた。
「…行ってらっしゃい。待っとるからな。」
そして少しだけオレの方へ振り返ると,
「まったく,さっきかららしくないね。僕を誰だと思っているんだい?」
また呆れ口調で,けれど今まで以上に覚悟が込められた返事だった。再び背を向けると,扉の外に広がる世界へと歩み始めた。
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オレは山羊ちゃんの小さな背中を見つめながら,再び微々たる不安を抱いた。今まで頼もしく勇敢に見えていた山羊ちゃんの背中が,村の少女達と同じような,普通の少女の背中に見えたからだ。その小さな背中に背負われているものがあまりにも大きすぎる。
それなのにオレは,今ただ言霊を信じて待つことしかできない自分への|忸怩《じくじ》たる思いが膨らんでいた。
嘘つき・後
森の木々が揺れ,波打つ海のような音が響く。揺れる葉の隙間から差し込んだ日が点々と地を照らす。地に広がった赤いシミは,乾いてもなお,鮮明に発色している。その中心では,小さな山羊の少女が,安らかに眠っていた。
山羊ちゃんを見送ってから1時間と少しが経った頃,部屋の扉を3回ほど叩く音がした。主治医だ。
「山羊座様は…」
「用があるんやと。」
「…左様でございますか。」
男が兄貴の容態を確認している間,なんとも言えない時間が流れた。オレは依然として窓の外を眺めている。しかし先ほどとちがうのは,途方もない胸騒ぎを落ち着かせるべくしていることだ。
「カロリ様の容態ですが,依然とあまり変わらない様子です。しかし,この後も現状維持が限界かと……。」
男は尻込みし,申し訳なさを醸し出しながら数日前から何度も聞いた台詞を吐いた。
「死んでいないのなら,なんでもええよ。」
現に,何かの奇跡で起きてくれるなんて希望は,とっくにに捨てている。それを察したのか,主治医はどことなく気まずそうな苦い表情を浮かべている。
何を思ったかはわからないが,オレは再び窓の外を見た。主治医が不思議そうな様子で,
「どうかされましたか?」
とオレの向く方を見るが,その先にはなんら変わりのない景色が広がっている。訳がわからなかったのか,顔を顰めた。
オレは,今度は曖昧ながらも自らの意思で窓に近づき,指が絡まりかけながら鍵を外して窓を開けた。突然のことに当然主治医は困惑していたが,そんなことなど気にもしなかった。
病室に心地よいくらいの風が吹き込む。資料や木の葉が数枚程度宙に舞い,髪は風向きに煽られてたなびく。その風に乗って,オレはある臭いに気がついた。普通ならば気づくことのない少量の匂いを,オレ達は嗅ぎ分けることができる。薄々抱いていた途方もない胸騒ぎが,今にもはち切れそうなほどに大きく膨れ上がった。
考えるよりも先にオレの体は窓の縁を飛び越え外に飛び出していた。後ろで主治医が何か叫んでいたが聞きもしない。オレは臭いの根源であろう方向に夢中になって走っていた。呼吸も瞬きも,右足を出すのか左足を出すのかも忘れてしまうほど死に物狂いで走った。根源に近づくほど,その臭いは濃くはっきりとしてきた。その度に不快感とオレの中の恐怖も強まった。丘をすべり,転がりそうになりながらいくつもの木々の隙間を潜り抜けた。
どれほど走った後だろうか,肩で息をしながら木々が揺れ,まるで波打つ海のような音のする森の中を歩いていた。おそらく元々いた医院からはあまり離れてはいない。揺れる葉の隙間から差し込んだ太陽光が地面を所々明るく照らしている。
臭いを辿り歩みを進めていると,突然思わず吐きそうになるほどの不愉快な悪臭に襲われた。確実に臭いの根源に近づいていることを実感した。
咳き込みながらも草木を掻き分けると,不自然に木々が大量に倒され開けてしまっている場所に出た。オレはそこで,歩みを止めた。
不愉快な,血腥い臭い。その正体が分かった。分かってしまった。想像もしたくなかったことが,目の前で起こっていた。
ある一本の木の前に,腹周りが真っ赤に染まった“山羊座”がいた。
腹は内臓ごと抉られ,隠れて見えないはずの木の幹がのぞいている。短い棒状の肉片のようなものが数個転がり,辺りの地面も,散ったか流れたかの血を吸って赤く染まっている。振るっていたであろう武器はすぐ足元の土を抉って斜めに突き刺さっている。
オレは幾分の間,その場に立ち尽くした。
受け入れたくない,受け入れられない状況に脳が処理を拒んでいた。つい先刻まで,非日常的なものとはいえいつものように言葉をかけ合えていた。当然のことで,当たり前の時間だった。全身の毛は逆立ち,心拍数は上がっても血の気が引いていくのが分かった。
「山羊…ちゃん……?」
風でほとんど消えてなくなりそうなほど小さな声で彼女の名を呼ぶ。当然それに反応して彼女が動くことはない。鬱陶しそうな顔をしながらでも,溜息混じりであっても,いつも反応を示してくれていた。そんな愛おしい記憶が沸々と湧いてきてくるのを振り切るべく,おぼつかない足取りで山羊ちゃんの元へ寄る。
「嘘…やんな…?だって,だってついさっき,またちゃんと戻るって………ちょっと出かけるだけやって…………」
山羊ちゃんの前にできている血でできた水溜まりの上に膝をついた。呼吸の音が聞こえない。心臓の鼓動も聞こえない。オレは目と口から,後悔と屈辱が入り混じった醜い感情を汚物として溢れ吐き出した。血みどろになりながら,冷たくなって動かない山羊ちゃんの手を握る。血が通っていないため青白く冷たくなっている。その小さな手には,指が数本見当たらず,あちらこちらに切り傷のような微細な傷もついている。
小刻みに息を吐いては吸うのも忘れる呼吸をしていると,ろくに焦点も合わない。視界が霞む中で,右耳についている耳飾りに合焦する。普段は右に2つ,左に1つ黄色く鮮やかに輝くものと,左には共鳴石と呼ばれる特別な石をつけている。だが今は,右耳についているものの一つが見慣れないものだった。本来であればつけられている共鳴石がなくなってしまっていることよりも,見慣れない耳飾りに釘付けになった。
見慣れない耳飾り。だが,オレはそれが何かよく知っていた。
オレと兄貴が,何かの日に贈ったものだった。
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「はいこれ,オレらからプレゼントや」
なんの前触れもなく兄貴がそう言って山羊ちゃんの手の上に藍色の結晶でできた耳飾りを置く。
「……………はぁ…?」
状況に一瞬脳が理解を拒んだのか,2回ほど瞬きをしたあと呆れ返ったように眉を顰めた。
「ええやろそれ,オレ達とお揃いやねん」
オレも兄貴に便乗して贈り物の補足をする。
オレと兄貴は幼い頃施設で藍色の綺麗な結晶を拾った。手先が器用な兄貴がそれを削ってお揃いの耳飾りを作ってくれた。それが今も,俺たちが兄弟であることを証明するようにお互い常日頃から右耳に付いている。
つまりそれとお揃いの耳飾りを贈ることは一種の求愛だ。もちろん自覚はある。オレ達は山羊ちゃんのことが好きだから。
「いつでもつけてくれてええよ♡」
「なんなら今からつけてくれてもええよ♡」
またいつものように山羊ちゃんを2人で挟む。
「わかったから離れてくれるかい…??暑苦しくてたまったものじゃないんだけど?」
山羊ちゃんは押し付けられた耳飾りを握りしめながら心底不服そうにしていた。普段は垂れ下がった耳が,今少しだけ逆立っているような気がする。
「つけてくれるん?」
「誰が君たちとお揃いのピアスをつけるって言った?つけるわけないだろう」
オレの問いに山羊ちゃんは溜息を交えながら即答した。オレ達が贈った耳飾りは山羊ちゃんの感情のままにポケットに突っ込まれた。
つけないとは言っても,要らないとは言わないところに愛おしさを感じた。兄貴も目を細めて笑っている。きっと同じことを考えているのだろう。
結局それからも山羊ちゃんがオレ達とお揃いをつけているところを見ることはなかった。まぁ殆ど優しさと天邪鬼さを逆手に取って無理矢理受け取らせたようなものだ。結局は捨てられていても仕方ない,という結論に至った。兄貴は時々,
「オレらがあげたやつつけてくれんの?」
と聞いていたが,決まって山羊ちゃんは
「だからつけないって言っているだろう?」
と返してきた。何度聞いても同じ言葉しか返ってこないため次第に兄貴も贈り物の行方を聞かなくなった。そして以降,山羊ちゃんに贈った耳飾りのことは正直忘れてしまっていた。
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山羊ちゃんのつけている藍色の結晶でできた耳飾りを僅かに触れるとそれは5回ほど前後左右に揺れた。差し込んできた光を反射して夜空に浮かぶ小さな星々のような輝きを放つ。オレが今右耳につけているものと,同じ輝き。先ほどまで全身に貼り巡っていた感情は,次第に怒りと悲観に塗り変わった。
「何が,何が3強や……何が12星座や………,山羊ちゃんやって,平穏が保障された中で生きるべき1人の女の子やろ…………」
今更すぎる言葉を吐き捨てながらオレは山羊ちゃんを抱きしめる。今にも形の崩れてしまいそうな彼女の体は,今まで以上に華奢に感じた。戦いには不向きすぎる,小さくて細い体だ。
あの時,何を思おうが思われようが,行ってしまわぬよう手首を掴んで離さなければ良かった。こんな現実に遭うことも,未来を失うこともなかっただろうか。あの時,きっと山羊ちゃんなら大丈夫だと,高を括ったのが過ちだったのだ。何思われてしまってもいい,生きていてくれるならそれでいいと覚悟を決めていれば,もしかしたら……。
オレは山羊ちゃんを童話に出てくるお姫様のように抱き上げた。まだ助かるかもしれない,そんな無駄すぎる期待が捨てきれていなかった。また馬鹿をするオレ達を嫌々でも相手してくれるようになる,きっと,きっと。
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親友が自殺したあの日。大切なものを守れない自分への愚かさを実感したあの時。オレは兄貴と一緒に誓った。
“もう二度と大切な命を自分の前で失わなせない。そのためにもっと強くなって,守るべきものを守るんだ”と。
山羊ちゃんはもう,いない。兄貴ももう目を覚まさない。
それなのに結局何一つ,守れてはいない。
”嘘つき”
今のオレに,最もよく合っている言葉だ。