『記憶と引き換えに、羽の色が変わるなら そうしたいと思うかい?』
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原作元曲「ドラドの悲劇」↓
https://www.youtube.com/watch?v=QoUsw8SZ0og
曲パロ4作目。
原曲を聞かないほうが楽しめるかもしれません。
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目次
一
「素敵な瞳だね」
そう言った彼の瞳を、私はいまだに覚えている。
どこか寂しげで、悲しげで、どこか安心したようで、嬉しそうで、———
———切り裂かれたような傷跡は、もう彼の中に魔力がないことを表していた。
---
その日、おつかいを頼まれていたことをすっかり忘れて、慌てて急いで買いに行っていた。
慌てて急いでいるので、走るのは当然で———
ドン、と誰かにぶつかってしまった。
自分の小柄な体ではバランスを保てず、その場に尻餅をついた。
「……危ないだろ。そんなに道を爆走すんな」
私の脇の下に腕を通し、そう言いながら体を抱き起こしたのは、知らない男の人だった。
「あ……すみません」
やはり急ぐものではない。頭を下げながら、そう思う。
そのうちに、トントン、と肩を叩かれた。顔を上げろ、ということだろうか。
恐る恐る上げると、彼と目が合った。切り裂かれたような傷跡。
自分の顔を、瞳を、じっと見つめている。彼の瞳に、私の黄金色の瞳が映っている。
「あ、の……?」
恋愛経験があるわけではない。あまり見つめられると、ドギマギしてしまう。
しばらく彼は、じっと私を見つめていて、ふっと口を開いた。
「……素敵な瞳だね」
その声と、その瞳と、私はどこかで会ったことがあるような気がした。
---
「またいたのかよ」
ある日、おつかいついでに店の中を物色していると、誰かに話しかけられた。
振り向くと、あのときの男の人だった。最近よく会う。「レオ」という名前らしい。
「またいたのかって、こっちのセリフです。何で私の行く先行く先、あなたがいるのよ?」
私が反抗的に答えると、レオは目を細めて笑った。
目を細めてもなお見える傷跡が痛々しい。思わず視線を逸らしてしまった。
「……どうした?」
目を背けて黙り込んだ私を不審に思ったのか、レオが不思議そうに尋ねてきた。
「いや、……目の傷が痛々しいな、って」
なんとなく誤魔化せなくて、そのまま言ってしまう。
レオが大きく目を見開く。そして、ふっと笑った。
そうかもね、と言った彼の声は、空中に転がって消えていった。
「ところでさぁ」
露骨に話題を変えて、レオが話を切り出した。痛いところをついてしまったようでなんとなく気まずかったので、ありがたかった。
「ここで何してるの?」
ぐるりと店の中を見回しながら、聞いてくる。
「見て回ってるの」
それだけ言うと、「ふーん」という何とも興味のなさそうな反応が返ってきた。
何、自分から聞いておいて。
むっと唇を尖らせていると、「じゃあ俺もう出るわ」と手をひらひらさせながら出口に向かっていく。
すれ違いざまに、|囁《ささや》き声が聞こえた。
元気そうでよかった、と———
二
この世界には魔法がある。
いや、正確には魔力がある。
魔力には「色」があり、その色は瞳に反映され、そしてそれらはそれぞれ人によって違い、一人一色、必ず与えられる。
魔力は魔法を使う源となる。そして、その色はその人の思考・感情・意志・言動の中核となり、それらに大きな影響を与える。
事故や闘争などで、魔力を喪うことがある。その中核を喪うことにはなるが、性格がなくなるわけではない。
しかし、魔法が使えなくなる。そして———
———瞳は色を喪い、あとには切り裂いたような傷跡が残る。
つまり、瞳にそのような傷跡がある人——レオは、もともと魔力を持っていたけど、何らかの原因で喪ってしまった、ということになる。
聞いたことはある。
『どうして、魔力がないの?』
そのとき、彼はじっと私の目を見つめて、それから少しだけ顔を伏せた。
『……わけあって失くしちゃったんだ』
訳あって、がどういうことだったのかまでは教えてくれなかった。きっと、事故か何かなんだろう。そういうことが 無い、わけではない。
でも、魔力がないと魔法が使えない。
料理洗濯から移動まで、ほとんど魔法を使って事を済ます この世界では、きっとやりづらいだろう。
そう言ったら、そんなことないから 気にしなくていいよ、と微笑まれたけれど。
「じゃあ、飛ばすよー? レオ、ちゃんと掴まっててね!」
魔力から長めの杖を作り出し、レオと二人乗りになって座る。
力を込めると、ふっと杖が浮き上がった。空に向かって加速していく。ビュウ、と頬を吹き抜けていく風が心地いい。
「どこに行くんだよ?」
呆れたようにレオが聞いてくる。行き先を告げていなければ、決めてすらいない。当然だろう。
「んー。ちょっと杖に乗って空を回って見たいの!」
レオの方を見ずに答える。
空を飛んで回る時間が何より好きだ。小さくなっていく街並み、人影、頬を吹き抜け髪を撫でつける風、落ちてしまうかもしれないスリル。全部が私をわくわくさせる。
ああ、そう、とテキトーに反応するレオの声が聞こえた。
「ところでさ、」
握っている杖の先端を傾けて、グイインと旋回しながら、話しかける。
「何?」
「レオは、どうやって普段暮らしてるの?」
魔法が使えないのに、とまでは言わなかった。旋回するのをやめ、杖を水平にする。
「……何でそんなこと気にするんだよ?」
魔法が使えないのにどうやって暮らしているの、という意図であることはきっと、気づかれている。
「だって、大変そうだなって……。……手伝えることある?」
恐る恐る答えると、後ろから特大のため息が聞こえてきた。
「お前さぁ、ぶつかって出会って、行き先でよく会うだけの人間に、よくそんなお節介焼けるよな」
今だって一緒に飛ぼうとしてくるし。そう言ってレオは再び特大のため息をつく。
「だって、気になるのは当然でしょ? 魔力がない人なんて、珍しいし、———それに。」
———私たち、どっかで会ったことがある気がするんだよね。
後ろ、レオのいるほうから声はしなかった。息遣いも感じない。
「……レオ?」
何か良くないことを言ってしまっただろうかと名前を呼ぶと、
「え? ……ああ、」
いかにもハッと我に返りましたというような、少し慌てたような反応が返ってきた。
「なんでもねぇよ」
「ほんとに?」
聞き返しながら、杖の先を少し下に向けて、着地姿勢をとる。墜落しないように、スピードを出しすぎないように気をつけながら、地面に立てるように足を伸ばした。
「そろそろ着地するよ」
私がそう言った十数秒後に、私の足が地面についた。バランスを崩さないようにしっかり立ちながら、杖から降りる。
後ろを見ると、レオはとっくに降りていた。慣れているようだ。きっと、———魔力があったときはこうしてよく飛んでいたんだろう。
「なんで俺を乗せようとしたのかよく分からんが、久しぶりで楽しかった。ありがとう。」
ポケットに手を突っ込みながら、レオが礼を言う。
礼を言うときの態度かどうかは置いておいて。
———久しぶり、か。
切り裂かれたような傷跡を見るたびに、言葉の端々を聞くたびに、レオがもともと魔力を持っていた人なんだと思い知らされる。
「……ねえ、レオ」
去ろうとするレオの後ろ姿に、そっと問いかけた。
「あなたの瞳は、何色だったの?」
歩こうとしていた彼の動きが止まった。私のほうを振り返った。じっと私を———というか、私の瞳を見つめる。
なんとなく落ち着かない。初めて会ったときのようだ。
ふ、と彼が曖昧に笑った。答える気がないんだって分かった。
「……お前の、《《黄金色》》の瞳も綺麗だよ。」
三
レオと別れて、宿に帰って、ベッドの中に潜り込みながら ため息をつく。
「どうしよっかなぁ……」
魔力を喪う人なんて、そうそういない。
レオと会うだいたいの人は、レオの瞳に刻まれている傷跡を見て怪訝そうな顔をしていた。
レオは別に平気そうにしていたけど、こちらからしてみれば可哀想だ。
「言った、ほうがいいのかな……」
私は彼に、言っていないことがある。
私が、———人に魔力を与えることができるということだ。
私の持っている魔力の色は、黄金色だ。
黄金色の魔力は 他の色の魔力よりちょっと特別で、人にその魔力を譲渡することができる。
具体的には、『与える』という意思を持って与える人間の体内に自分の血液を両掌一杯分くらい注入することで譲渡が成立する。
そのかわり、私の魔力はなくなってしまうけど。
———レオになら、あげてもいいかな。
---
「あ、いた。レオ〜?」
レオが働いているという店に入って、彼の姿を探す。案外あっさり見つかった。裏口でなんだかぐうたらして座っている。
「何してるの。仕事は?」
ひょいっと顔を出して唇を尖らせてみせると、レオはやっとこちらを向いた。
げっと明らかに眉根を寄せる。
「またお前かよ。……今は休憩中。従業員の休憩時間にケチつけるのはクレーマーのすることだぞ」
「うるさい」
なぜかクレーマー扱いをされ、私も眉根を寄せた。
隣に座る。
「なんだかホームレスみたいだよ」
裏口なので、薄暗い。そこに座り込んでいる人など、はたから見たら|曰《いわ》くつきの不審者にしか見えないだろう。
「サボり魔の次はホームレスかよ。なかなかひでー奴だな」
そう言いながら、レオは自分の目の下を指でトントンと叩いた。
「……もともと《《こう》》だから、問題はない」
傷跡のある目の尻を下げて、にっと笑む。
私は膝を抱え込んでいる自分の腕に目を落とした。
レオが、店の会計しかできる仕事がないのは知っている。だいたいの仕事が魔法を使うなかで、レオは魔力を持っていないからだ。
どれくらい稼ぎがあるのかも分からない。
「とりあえず、は、……暮らしていけてるし」
声に気づいて顔を上げると、レオがこちらを見下ろしていた。
どんな表情をしているか分からない。傷跡のある瞳は、なんとなく不安そうだった。
「……じゃ、そろそろ仕事に戻るわ」
|徐《おもむろ》に腰を上げて、レオの姿は裏口ドアの向こうに消えていった。
「———あえ?」
自分でもびっくりするくらい間抜けた声で、目が覚めた。
目を|擦《こす》って辺りを見回すと、薄暗い通りが目に入ってくる。ドアの近くで、座り込んでいた。
つまり。
レオが戻ったあとも、ここにいたのか。何やってるんだ、自分。
しかも空を見上げると、少し明るめの藍色と、それを染めるように橙の光がほんのり浮いている。
「もう夕暮れじゃん……」
よいしょと体を起こした。ずっと同じ体勢で寝ていたからか、少し体が痛い。
少し伸びをしてから、ドアノブに手をかけた。ギイ、と音が鳴って、店内が映し出される。
品物整理をしている人影が目に入った。それと同時に、人影もこちらを向く。
「……お前、まだいたのかよ」
レオだった。手を止めて、つかつかとこっちに歩み寄ってくる。
「もう黄昏だぞ」
「あー……なんか寝ちゃってて」
一拍おいて、ものすごく呆れたようなため息が聞こえてきた。
「お前どこで寝るんだよ。……つーか、お前の住んでるとこ、門限厳しかったろ」
あ、と声が漏れた。確かに、門限は日没だったような……
しかも、逃すと建物内に入れなくなる。
「今夜、野宿でもすんの?」
「……」
答えられない。本当にどうしよう。瞬間移動ができるような大層な強い魔力を持っているわけじゃないし、もう日は暮れようとしている。高速で走る魔法を使って間に合うとは思えない。
しかも門限を逃した理由が「裏口の通りで寝ていたから」なんて、アホすぎる。
はーあ、と再びものすごく呆れたようなため息が聞こえてきた。
「もうしょうがね。」
「え?」
顔を上げて、レオの方を見た。
「俺の宿貸してやる。それでいいなら、泊まってけ」
「ほんとに!?」
半ば投げやりのようないい加減な口調に、私は心から感謝した。
四
「お邪魔しまーす……意外に綺麗ね」
「開口一番、失礼極まりねぇな」
ドアを開けると、自動的に玄関光が光った。簡素に片付けられている室内が映し出される。
レオの住んでいる宿は、店の二階にあった。店長の計らいで、部屋を一つ与えてもらっているらしい。
真っ先にソファを占拠する。ぎょっとするようなレオの顔が見えた。
「お前、人様の家だぞ」
無視してごろんと横になる。ものすごく呆れたようなため息が聞こえてきた。
お前、ほんと寝るの好きだよな。飯作ってくるからそこらへんで寝て待っとけ。
そう言って、レオは部屋の隅に取り付けられてあるキッチンのほうに向かっていった。
寝て待っとけ、とは言われたが、昼間に散々寝たせいで全くもって寝られない。
(なん、だろうな……)
レオといると、無性に懐かしくなる。どこかで会ったような、そんな気がする。
でも、いくら思い出してみても、記憶の中にレオの姿はどこにもなかった。
「……い、おい」
肩をゆすられ、我に返った。沈んでいた意識が浮上する感覚を覚える。
「え? あー……」
「出来たぞ。早よ食え」
テーブルのほうを見ると、二人分のご飯が並んでいた。慌てて身を起こす。
いただきます、と手を合わせて、頬張った。
「あ、結構美味しい」
「結構って何だよ。失礼な奴だな」
感想言って早々突っ込まれた。
失礼なことを言っている自覚はあるので、何も言わずにおく。
そのあとは黙々食べて、ご|馳走《ちそう》様と手を合わせた。
「……で、どうやって作ってるの?」
暇なので、暇じゃないレオをお喋りに付き合わせる。
話題はあっちこっちに飛びまくり、なぜか、料理はどうやってやっているのか という話になった。
だいたいの人は魔法を使って火を起こして使っている。もっと高度な魔法を使える人は、料理自体を魔法任せにしている人もいる。
キッチンも、魔力を持っている人向けに作られているはずで———
「フツーに、テキトーに火起こして、テキトーにやったら出来る」
フツーにテキトーにの意味が分からない。
「……不便じゃないの?」
レオが作業をしている手を止めた。幽霊かと突っ込みたいほどゆっくりとした動作で、こちらを振り向く。
「……何が言いたいわけ?」
明らかに警戒が見て取れた。一瞬、息を詰める。それから、一気に言ってしまおうと口を開いた。
「私、人に魔力与えられるんだよ。」
ひりつくような空気を感じる。何とか笑顔を浮かべながら、自分の瞳を指差した。
レオは何も言わない。俯いていて、どんな顔をしているのか全く分からない。
「私の、黄金色でしょ。あなたに似合うかなー? なんて、なんちゃって」
冗談めかして、そう言った。
五
辺りはシン、と静まり返っていた。レオの動きは固まっていて、自分の体も|強張《こわば》っていて、まるで時間が止まったかのようだった。
ガチャン、と何か硬質なものが落ちる音がした。ハッと顔を上げる。
レオがゆっくりとこちらを振り向いた。まるでスローモーションでもかかったかのようだった。
「———せろ。」
「え?」
地べたを這うような声だった。泣いているかのように眉根を寄せて、怒っているかのように口元を歪めて。
彼は、私の瞳を見た。
「———今すぐ失せろ。」
---
「どう……しよう……」
レオの住み家がある店の前の路地をうろうろしながら、頭を抱えた。
まさかあそこまで怒るとは思わなかった。見たこともない顔だった。
「……あれ?」
聞き慣れない誰かの声と、ジャリ、と音がして、顔を上げた。
「どうかしたんですかい?」
若干頭頂部の禿げた小太りのおじさんだった。淡く光る街灯に反射して剥き出しの頭皮がよく見えた。自転車に|跨《またが》って、片足を地面についている。ちょうど困っていたので、ほっとした。
パタパタと駆け寄ると、おじさんは「……ありゃ?」と首を傾げた。不思議に思っていると、おじさんは じっと私の顔を見て、口を開いた。
「もしかして、セナさんです?」
「……え?」
———セナ。私の名前だ。
でもどうして、この人がそれを知っているのだろう。この人とは、面識はないはずだ。
「レオさんと会ったんですかい?」
戸惑いながら、でもどう聞くこともできず、頷いた。
自転車に跨ったまま、顎に手を添えて 何か考える素振りをする。少し間があって、おじさんは自転車から降りた。
「はぁ、なんとなく事情は見えました。こんな見た目ですが、私はこの店の店長をしておりましてね、レオさんのことは色々と知っているのです。」
自転車を引きながら、店の出入り口まで歩いていく。慌ててついていった。
「こんなひしゃげたオッサンのところで良ければ、泊めますよ」
なんとか凌げたようだった。
---
それ以来、レオと会うことはなかった。
レオと出くわすこともなくなったし、私のほうからレオに会いに行くこともしなかった。
それでもずっと気になって、今、レオのいる店に行くためにこうして道を歩いている。
魔法を使ったほうが早く着くが、なんとなく使う気になれなかった。
ぶらぶらと歩きながら、空一面に広がる青を見上げていた。
店は いつかのように、そのままあった。
ギイ、とドアノブに手をかけた。
チリンチリンチリン、という鈴の音色とともに、「いらっしゃいませー」と間延びしたような声がする。
聞き覚えがある。———レオだ。
私が声の主を探り当てるのと、彼がこちらを見て目を見開いたのと、ほぼ同時だった。
「レオ、」
切り裂かれたような傷跡の残る瞳をじっと見つめながら、私は彼の名を呼んだ。
幽霊でも見たかのような表情で、レオは手を止めて、目を見開いて、じっと私を見ていた。
「……セナ。お前、」
氷が溶けるような緩慢な動作で、レオは手に持っていた品物を棚に戻す。
「……こっち来い」
そう呟いて、レオは顎で裏口のドアを示す。そのまま向かっていき、私もその背中を追いかけた。
六
「———俺は。」
ギイイ、と音を立てて裏口の閉まるのと同時に、レオは話し始めた。
「自分で魔力を切って捨てた。」
何の情緒も感じない、静かな声。
ドアを通ったときの体勢のまま、レオはこちらも向かず、俯いていた。
私の深いのか浅いのか分からない呼吸音がそっと鼓膜を|掠《かす》めては消える。
「これ以上は聞かなくていい。……とにかく、俺は自分で自分の魔力を捨てた。もう存在しないし、欲しいとも思わない。」
高貴な鉛のように、レオの声は 私の耳を通って胸に沈んでいく。
「魔力など要らない。想像されるのも不快だ」
突き落とすような声色だった。レオが振り返り、裏口のドアに手をかける。
「自分の黄金を誰かに与えようだなんて、考えるな。」
小さな声、でもよく響く音だけを残して、レオはドアの向こうへ消えていった。
---
---
———数年前。
まだ俺が、魔力を持っていた頃の話。
当時、俺は魔術師として働いていた。
まあ、魔術師といっても、大したことはない。新しい魔法や呪文を考え、世の中に役に立つように応用する。いわゆる研究者のようなことをしていた。
そんなに魔力を持っているわけではなかったので、一般に『魔法使い』と言われるような、たくさんの魔力を必要とする職業に就けず、だがそれなりに給料も社会的地位も得られる魔術師になったのだ。
魔術師という仕事は、たいてい仕事場に泊まり込みである。何時間も経過観察しなければならない実験があったり、魔法使いから緊急で依頼が入ったりするからだ。
そして何より、魔術師という人種は基本的に面倒くさがり屋だ。家に帰ることさえ面倒くさがる。
そうはいっても、仕事場である魔術室——研究室のようなもの——は地下にある。さすがに地下の住人になるのは勘弁なので、月に一、二回くらいの頻度で外へ出た。
「さっむ……」
外に出る扉を押し開けた途端、氷を含んだ風が吹き込んできた。
しばらく中に閉じこもっている間に、季節はとっくに真冬になっていたらしい。なんとなく、外に出るたび出るたび、記憶喪失のジジイになっている気がしないでもない。
ぶるり、と体を震わせ、羽織っているコートを手で掴んだ。
行き先はだいたい決まっている。とある店だ。
「へーい、らっしゃい らっしゃーい」
チリンチリンチリン、とドアに取り付けられてある鈴が鳴る。それと同時に、その音色の美しさを打ち消しそうな 相変わらず変な掛け声が飛んできた。
「おー、レオさんじゃーないですか」
声の主は、レジのところにいた。椅子の上にどっさりと座って、やたら大きな新聞を読んでいる。
「お久しぶりですねぇ。最近はどうです? すっかり寒くなって参りましたが」
「そうだな。しばらく外に出ないうちに、すっかり冬になったもんだ」
店の中は暖かい。羽織っていたコートを脱ぎ、腕に掛けた。
「まーた魔術室の中に閉じこもっていたんですかい? そのうち|痴呆《ちほう》な|爺様《じいさま》になってしまいますよ」
「うるさい」
バサバサと読んでいた新聞を畳みながら、彼はよっこらせと立ち上がった。
「今日は何か買うんです? また物色したっきりでさようなら、なんてやめてくださいよ。」
それはどうだろうな、なんてテキトーな相槌を打ちながら、レオは店の中を見回す。
この店は雑貨屋だ。ハンカチなどの小物や香水から、よく分からないぬいぐるみ、ネックレスなどのアクセサリー、変な装飾の施された文房具、そしていつ作られたのか分からない菓子まで置かれている。
雑貨屋というには少し雰囲気が珍妙で、そのせいか客も少なく、いかにも店長が趣味でやっています というようだった。
まあ、そんなところが自分の好みだったりするのだが。
「どうせ趣味でやってんだろ。売り上げ考えるならもうちょっと……まあいいわ。これでも買っとく」
そう言って手に取ったのは、壁掛けフックだ。少しは生活に使えるだろう、と思ってのことだった。
「おお〜、お買い上げありがとうございま〜す」
陽気な声をテキトーに無視して、さっさと会計を済ませて腕に掛けたコートを羽織って外に出た。
チラチラと買った壁掛けフックを眺める。美しい銀色で、綺麗に澄まされていた。
鏡のように反射して、自分の着ている服や周りの景色を映す。
「鏡、か……」
魔法において、鏡は重要な要素だ。魔術室に置いていたら、研究に影響してしまうかもしれない。
もしかしたら、買い物に失敗したかもな。
そんなことを考えながら、レオは手の中のフックを覗き込んだ。
そこには、自分の《《黄金色》》の瞳が映し出されていた。
七
「———あ?」
帰りの道中、妙なものを見つけた。人影があるのだ。場所は川にかかる橋の上。
———これはまずい。ものすごく良くない予感がする。
「おい!」
大声で呼びながら、走り出す。人影が、びくっと肩を震わせてこちらを振り向くのが同時だった。
「何してんだ!」
人影の腕を掴んで、ようやくその姿を見る。
少女だった。背中までの薄茶の髪、驚くほど細い指、腕。鎖骨がはっきりと見える首元。こんなに寒いのに、薄着だった。
ゆっくりと少女がこちらを見上げる。
泣いていたのか目元と鼻元は赤く腫れており———
鴉よりも黒い瞳が、長い前髪から覗いていた。
---
羽織っていたコートを脱ぎ、彼女に着せる。体は驚くほど冷たかった。
ずっと目を伏せて泣いている。長い前髪から覗いていた黒い瞳を思い出し、心が痛んだ。
とりあえず、魔術室のところまで連れて行こう。もう日は暮れていて、辺りは真っ暗だった。
「……お前、名前は?」
他にかける言葉も思い当たらず、そう聞いてみた。
ひゅっと息を止めて数瞬、少女が唇を動かした。
セナ、と言った声は消え入るように小さく、掠れていた。
「ただいま」
少女——セナとともに、魔術室のある館に帰った。自分の部屋に行き、買ってきた壁掛けフックを机に置く。
セナをどこかに泊めなければいけない。まずは、館の主人——レオの上司——に話を取り付けるべきだろう。
「男の部屋でいいなら、そこで待っといて。くれぐれも妙なことはするなよ」
俺がそう声をかけると、セナは何も言わずに頷いた。ベッドに腰掛けて俯き、空中の一点を見つめていた。
「———女の子を飼いたいって?」
「『飼いたい』じゃねぇよ。面倒を見たいっつったんだよ。勝手に話を改悪するんじゃねぇ」
即突っ込むと、目の前の人間はケラケラと声を上げて笑った。目には涙が浮かんでいる。
そんなに面白いのか。若干イライラしてきた。
ゲラゲラと笑いながら自分の部屋の大ぶりなソファの上にどっさりと座り込んでいるのは、レオの上司であり、魔術室を抱えるこの館の主でもあるアランだ。
上司とはいえ、レオとアランは長い付き合いであり、仕事の場面でないときは こうやってタメ口で話している。
「どういう風の吹き回し? 魔法の研究以外は興味ありません、みたいな顔してるのに」
今日の外出だって、二ヶ月ぶりだろ。引きこもり最長記録だよ。
からかうような視線でレオを見て、アランはソファの背で頬杖をついた。
「たまたま会ったんだよ。———」
この先は、言うかどうか 少し|逡巡《しゅんじゅん》した。
「———真っ黒な瞳をしていたんだ。」
言い終わる前に、アランが大きく目を見開く。
その顔から笑みが消え、ふっと真剣な表情になった。
八
黒の瞳。言うまでもなく、黒の魔力を持つ。
魔力は魔法を使う源となると同時に、その色の保持者の性格の中核となり、それに大きな影響を与える。
一人一人、持つ魔力の色は違い、それによって性格も一人一人違う。
それでも、ある一定の規則性というか、傾向はある。
暖色系の色の魔力を持つ人は外向的、寒色系の色の魔力を持つ人は内向的、と言われるのが一つの例だ。
そして、黒系統の色の魔力を持つ人は。
———不幸になる、と言われている。
その黒色が濃ければ濃いほど 不幸を呼ぶ、と。
「黒い瞳……、そういうことね」
アランは、俺がどこに行っていたのか、そしてそこからこの館までの経路を知っている。
黒い瞳、というだけで全てを察したようだった。
「なかなか難儀な子を拾ったんだね」
「ほっとけないだろ」
どさっと、俺もアランの隣に座った。
「まあ、事情は分かった。……確か、レオの隣の向かいの部屋が空いてたろ。そこ使わせればいいよ」
んー、と伸びをしながら、アランはあっさりとセナの滞在の許可を出した。
---
「———セナ?」
コンコン、と部屋の扉を叩く。返事はなかった。
扉に手をかける。ギイイ、と音を立てて開いた。鍵をかけていなかったらしい。
女なのに。部屋の鍵くらいちゃんと閉めろよ。ここは男の|園《その》だぞ。
そんなことを心の中で思いながら、少しだけ開けた扉と壁の隙間から恐る恐る中を見た。
ツン、としたような錆びた鉄の臭いが僅かに鼻腔をかすめる。
「セナ!」
自分が通れるくらい扉を開けて、中に入った。
「おい!」
ベッドに頭を預けて、もたれるように彼女はいた。腕から血が流れている。眠っている。慌てて抱き起こした。だらり、と首が下がる。
手から伝わる温もりに少しだけ安心した。死んではいないみたいだ。
魔力が使われたような気配がする。しかし魔法が使われたような痕跡はなく、魔力が意に制御されて使われたわけではないようだった。
治癒魔法を唱えて、流血する傷口を塞いだ。手拭いで、その腕を拭く。
「……ん……」
もぞ、と腕の中で彼女が動いた。気がついたようだ。
「おい、大丈夫か」
彼女が目を開けた。何も映さぬ漆黒の瞳が、開かれた|瞼《まぶた》の間に見える。
「わた、しは……」
セナが何かを言おうとする。しかし何の言葉も紡がず、彼女は再び目を閉じた。
首元に手を当てると、ドク、ドク、と波打つ脈拍を感じた。まるで呪いのようだった。
そっと抱き上げて、彼女をベッドの上に寝かせた。起きる気配はなかった。
九
「———……」
「……やっぱ、厳しいよな」
アランにセナの状態を聞かれ、俺はそのまま答えた。
「……黒い瞳、で覚悟はしていたけど」
額を押さえて、アランがため息をつく。
「とりあえずさ、魔力を使えないようにできる?」
「封じるのか」
「そう」
血って、なかなか落ちないんだよね。汚されるのは、ちょっと困るし。
てへ、と おちゃめに舌を出すアランに、今度は俺がため息をついた。
「理由、そっちかよ」
「館の管理者として、当然の感情だと思うけど」
その言いながら立ち上がり、部屋の窓から庭を覗く。アランが管理している庭だ。
今は真冬なので、花も葉もない。ただ枝ばかりとなった木が立っているだけだった。
花壇にも何もないが、ちゃんと地面の下で根を張っているだろうか。種はちゃんと越冬できるだろうか。
「……アラン」
俺も立ち上がり、アランと同じように窓の前に立った。
ガラス張りの窓に、自分の顔が映る。———黄金色の瞳。
このガラスに、セナの瞳はどのように映るんだろう。
---
「ここは……?」
「俺行きつけの店。」
セナの具合がいいときを見計らって、アランに言われて俺はセナを外に連れ出した。場所は、例の珍妙な雑貨屋。
珍しく店長がおらず、二人で店内を物色していた。
「……何か気に入ったものでもあるか?」
聞いてはみたが、セナは俯いて首を振るのみだった。
……会話にならない。自分もそんなに喋るのが得意なほうではないので、大変困った。沈黙が痛い。
アランだったら、もっと上手くやれたのかもな。
そんなことを思った矢先、
「いらっしゃ……あれ、レオさんじゃあないですかい!」
相変わらず変な掛け声が飛んできた。店長だ。
「珍しいですね、こんなに次の来訪が早いだなんて。明日は|雹《ひょう》でも降って……ありゃ?」
そこでようやく、セナの存在に気づいたようだった。
「おお、珍しいですね、レオさんが女の子を連れてくるだなんて。明日は槍でも……あ痛っ!」
そして相変わらず失礼な物言いに、俺は何も言わずにその脳天に手刀を落とした。
彼は頭を押さえて、大げさに痛がるような素振りを見せる。
「手が早いですねぇ、そんなんじゃ嫌われちゃ——」
「裏でお話ししようか」
そこまで突っ込んで、背後に置き去りにしていたセナを思い出した。
振り向くと、とても困惑したような顔で立っている。
「あー。すまん、セナ」
慌てて謝ると、セナは困惑したような顔をそのままに首を振った。
「おー、セナさんって言うんですかい? それはそれは綺麗な名前ですねぇ。そうだ、記念すべきレオさんの初彼女ですか——」
再び手刀を入れた。ゴン、と良い音が鳴る。
「何するんですか!」
「当たり前だろ」
言いながら、片手を顔の前で合わせて軽くセナに謝る。
「ま、まあ、とりあえず。何か良いものがありましたら、持っていってくださって構いませんよ。お代は取りません」
二度も手刀を入れられた頭のてっぺんを撫でながら、店長はにこにことセナに話しかけた。
「……セナ?」
しばらくして、呼びかけた。おかしい。反応がない。
突っ立って、ぼうっと空中の一点を見つめている。
これはまずい、と思う前に、セナは胸の辺りを押さえて膝から崩れ落ちた。
「セナ!」
駆け寄って、体を支える。床についた手指が恐ろしいほどまでに青白かった。
ぎゅっと目を瞑る。苦しげに顔が歪む。は、は、と浅く速い呼吸音だけが聞こえてきた。
「大丈夫か、おい」
答える気配はない。そんな余裕も、きっとないのだろう。
ふっ、と目が開かれた。漆黒の瞳から、何筋も涙が流れ落ちる。
「セナ、」
彼女の唇が動いたのが見えた。聞きもらすまいと、口を閉じる。
最初は両端を横に伸ばして。そしてその形のまま縦に伸びて。さらに、少しだけ大きく口を開いて。
最後にまた、唇の両端を横に伸ばした。
き、え、た、い。
彼女はそう呟いた。
十
コンコン、と部屋の扉を叩く。もはや、仕事後にそうするのが日課のようだった。
一拍おいて、返事が何もないのを確認すると、ゆっくりと扉を押して中に入る。
「セナ」
ベッドにこんもりとした小山がある。もぞ、と動いた。
「……菓子あるんだけど、食うか?」
もっとちゃんとした聞き方ができないのがもどかしい。口下手なのが悔やまれた。
ゆっくりと毛布が剥がれて、セナが顔を見せた。よいしょと起き上がる。
「あ、エクレア……」
俺の手の中にある菓子に目を止めて、セナは半身起き上がらせた。どうも、エクレアが好物らしい。幾分かほっとする。
「好きなのか」
セナは何も言わずに頷いた。
渡すと、セナは軽く頭を下げて食べ始める。
「……美味しい」
わずかに口角が上がっている。笑っているのか笑っていないのかよく分からないが、少なくともこんな顔をしているのは初めてだろう。
俺もベッドに腰掛け、セナの隣に座った。
あっという間に彼女の手の中のエクレアが姿を消す。
「……美味しかったか?」
こっそりと聞くと、セナは頷いた。
そっと頭を撫でてやると、彼女はきゃっと飛び退いた。
唇を軽く|窄《つぼ》めて、レオを じとっと見つめる。
泣いていない、笑ってる。
それがどうしようもなく愛おしかった。
---
「———随分とセナちゃんにご執心だね?」
|揶揄《からか》うような声に顔に上げる。アランだった。
どかっと、魔術室にある椅子に座り込んで、実験の経過観察中のレオを見上げている。
「うるせぇ」
「事実じゃないか」
他の人は、昼飯に食べに魔術室から出ている。残っているのはアランと俺だけだった。
ご執心かどうかはともかく、一番セナに関わっているのが俺なのは事実である。
研究以外に興味がなかったり、他に趣味があったりして、セナに特別な関心を寄せる者は少ない。
「……黒い瞳、ねぇ。苦労するだろうね」
ただでさえ生きづらいと言われている色なのに、世間じゃ忌み嫌われるじゃないか。
手を止めた。ハッと息を呑んでしまうような、何とも言えない気分になった。
不幸になる、という話が発展して、黒い瞳を持っている者は嫌われる。場合によっては、親が生まれたばかりの子を殺すこともあるという。
そんな世で、セナがどう過ごしてきたかなんて、想像に|難《かた》くなかった。
良くも悪くも研究第一である者しか集まらないこの館で、セナを差別する者はおそらくいない。
それでも。
毎日のように「消えたい」と呟いて泣き暮れているセナを見ていると、どうしようもない気持ちになった。
「……レオ」
アランの声に、ハッと我に返った。
「妙なこと、考えるなよ」
いつも|飄々《ひょうひょう》としている彼には珍しく、低く真剣な声だった。
十一
アランの言いたいことは、だいたい分かった。
———情に|絆《ほだ》されて、自分の魔力を与えるな。
そう言いたいんだろう。
俺の持っている魔力の色は、黄金色。黄金の魔力は珍しい上に、特殊である。
———他人にそれを譲渡することができるのだ。
与え方はそれほど難しくない。
黄金の魔力を持っている者が、『与える』という意思を持って、与える人間の体内に自分の血液を両掌一杯分くらい注入することで譲渡が成立する。
そして、与えた人間は、もともと持っていた魔力を喪失し、与えられた人間は、それまで持っていた魔力を失い、与えられた黄金の魔力に上書きされる。
また譲渡後———
———魔力を与えられた人間は、それ以前の記憶を喪う。
---
事件が起こったのは、セナがこの館に来てから一ヶ月くらい経ったときだった。
そのとき、俺は仕事を休憩して、魔術室の隣にある休憩室でのんびりと過ごしていた。
「レオ!」
ほぼ怒号に近い大声とともに、バン!と扉が開けられた。思わずビクッと背筋を伸ばす。同僚の一人だった。トム、という名前だ。
「……何。」
ひどく顔は青ざめているようで、|只事《ただごと》じゃないと分かった。
「どうしたんだよ?」
みるみるうちに湧き上がる、強烈に感じる不安を抑えながら、静かに問う。
「……あの子が。あの女の子が、セナちゃんが———」
上手く息ができているのか分からない。
何があったのか。何がどうなっているのか。理解できない。
絶句する、とはこのようなことを指しているのだろう。
場所は館の横の、細い通りだった。
血を流して倒れるセナ。それに付き添う別の同僚。治癒魔法をかけているのだろうか。
背中までの長い髪を乱し、足は有り得ぬ方向に曲がっていて、目は薄く閉じられている。どこからの出血なのか。それすら分からぬほど、辺りには血の海ができている。
走り、近くに寄る。鼻腔を貫くかというほどの錆びた鉄の臭いに、息をこらえた。
「……レオ、トム。」
治癒魔法をかけていた同僚が、俺たちに気づいたようでハッと息を呑んだ。
「セナ、は、」
一つの動きもなく、まるで死んでいるかのようだった。
「……ドン、って音がして、来たらここで倒れているんだ。」
トムが、必死に治癒魔法をかけている彼の代わりに話してくれた。
見ろ、と、トムが上を指差す。
開け放たれた窓があった。部屋の窓。確か、あそこの部屋は———
「飛び降りたんだ、セナちゃんは。」
自分がどんな顔をしているのか、分からなかった。
十二
「ん……?」
くぐもったような声にハッと我に返った。
「セナ……?」
ベッドに寝かせられている彼女の顔をバッと覗き込む。
セナが薄く目を開いた。全てを呑み込んで沈めてしまいそうな、何も映さぬ漆黒の瞳だった。
「私は……?」
動こうとして、顔を歪める。怪我したところが痛むようだった。布団の外に出た彼女の手を、両手でぎゅっと握りしめる。
「私は……生きてるの……」
カタ、と音がした。その方向に目を向けると、アランが部屋に入ってきたところだった。
「セナちゃん……。目、覚めたのか。」
音一つ立てず、アランは俺の隣まで歩く。
セナは、ぼうっとアランの顔を見ていた。その瞳からは、何も感情を感じない。
「一週間、眠っていたんだよ。……レオがどれだけ心配していたか」
哀しそうな、真剣な顔。冗談を言っている、いつものアランとは別人のようだった。
セナは何も言わない。は、とも、ふ、とも判別がつかぬ浅い呼吸をしている。
「……私は。」
真っ黒な瞳から、つう、と一筋だけ涙が|溢《こぼ》れた。
「私は……死んだんじゃなかったの?」
---
「———本気で言っているのか。」
静かな声。それでも隠しきれぬ怒気がひしひしと伝わってくる。
「本気だ。冗談でもなんでもない。」
瞬間、胸元を掴み上げられた。普段とは全然違う、アランの顔を至近距離に臨む。眉根はひどく寄せられ、目は大きく見開かれ、突き刺すような視線でレオの顔を見据えていた。
逸らさず、アランの顔を見据え返す。
「———自分が何を言っているのか、分かっているのか。」
「分かっている。———」
ゆっくりと口を開く。自分を、目の前のアランを、落ち着かせるために。
「魔力を、セナに与える。」
---
「———セナ。」
部屋に入ると、ベッドの上から窓の外をぼんやりと見ているセナの姿があった。微動だにせず、振り向くこともしない。
別れを決めた以上、この名前を呼ぶのも、もう数えるほどしかないだろう。
「セナ。」
もう一度名前を呼んで、ようやく彼女はゆっくりと振り返った。|虚《うつろ》な顔だった。
「———記憶と引き換えに、魔力の色が変わるなら、そうしたいか?」
漆黒の瞳は、ただゆらゆらと揺れているだけだった。
十三
もう夜は更けている。窓の外から入り込む月光だけが、この部屋を照らしていた。
魔力を与えると決めてから、数日が経った。自分は魔力を喪い、もう魔術師として働けなくなるので、引き継ぎの準備と代わりの仕事場探しをしなければならなかったのだ。
目の下まで布団で覆い隠して、死んだように眠っているセナの顔を覗き込む。
月明かりしか頼りになるものがない暗い中でもはっきり分かるほど、目元は赤く腫れていた。あのときから、ずっと泣いている。
そっと髪を撫でた。さらさらしている。髪の一筋一筋が、自分の指の間を通り、くすぐった。
「……セナ。」
起きる気配はない。
音もなく立ち上がった。
袖口から持ち出したのは———
———刃物。
---
気が狂いそうになるほどの感覚に、歯を食いしばった。刃物に付いた血がポタリと落ちて、ズボンに付く。
気づかれないように、静かに。浅く呼吸をしながら、セナの顔を覗きこんだ。
———気づいたような様子はない。死んだように眠っている。
目の下まで覆い隠している布団を、そっと剥いだ。くっきりとした鎖骨が見える。
起きる様子はなかった。そのことに少しだけ安堵する。切った腕から血が垂れないように気をつけながら、刃物を構え直した。
手が震える。切った腕は、急速に痛みを失っていく。
魔力を与えると決めたのは自分、でも彼女を傷つける勇気が出なかった。
死んだように眠っている。このまま目覚めてくれなければよいのに、なんて思った。
ポタリ、と腕から血が垂れた。ハッと我に返った。
彼女の鎖骨あたりに、切っ先を当てた。もう後には引けない。
一気に力を込めた。
切った自分の腕が、再び痛み出した。
切った先から、血が噴き出る。服を、布団を濡らしていく。
彼女が一瞬、目を見開く。声も出さぬ間に、俺は切った自分の腕を血が噴き出ている彼女の鎖骨の下に近づけ、押しつけた。
既に溢れんばかりだったそこから、俺の血が急流のように流れ落ちる。彼女の傷口に吸い込まれていく。
『与える』
トプン、とどこからともなく音が聞こえた。血と血が混ざり合うそこが、ゆらりと黄金の光を帯びる。
彼女の鎖骨の下の、出血が止まった。
反対回りでもするかのように、体外に出ていた彼女の血が傷口の中に呑み込まれていく。
引っ張られるように、俺の血も吸い込まれていく。引力に引かれて、さらに出血は激しくなった。
一際まばゆい、黄金色が光った。
それと同時に、彼女の鎖骨の下の傷口がみるみるうちに塞がっていった。何かの意思を持ったかのように、外に残った血を体内に取り込み、扉を閉めるかのように傷口が閉じていく。
|瘡蓋《かさぶた》を作ったかと思えば、何事もなかったかのように彼女の肌だけが残された。
跡一つさえ、残らなかった。
十四
「レーオさーん。朝ですよー! 休業日だからと怠けなさるなー!」
「ああもう、うるせぇ。休みの日くらい休ませろ」
カンカンカンと玄関の扉を叩かれ、俺は布団の中で眉を|顰《しか》めた。
「レオさんあなた、太りますよ」
失礼極まりないことを言われ、俺は渋々と身を起こす。ガチャっと音がして、誰かが入ってきた。
例のあの雑貨屋の店長だ。
「あーお袋かよ……」
思わずぼやくと、玄関先でぬるり、と彼が顔を上げる。
「ん? 何か言いましたか?」
「何もねぇよ」
薄っぺらい見た目をして、地獄耳だ。
セナに魔力を与えた後、俺はすぐにまとめた荷物を持って館を出た。行き先はすでに話を通して決めていた。
雑貨屋だ。
というか、他に候補になり得る場所が思いつかなかった。この世界の前提ともなる魔力を失った人間を、雇い入れる者などほとんどいないからだ。
セナに魔力を与えると決めて、俺はまず店長のもとに出向いた。そこしか当てが思いつかなかった。
目の前でセナが倒れたこと、セナの瞳の色で察していたのか、多くを語らずとも彼は事情を理解してくれた。
今、俺は店長が提供してくれた宿で、その雑貨屋で働いて暮らしている。
「ああもう、ごろごろと寝ている暇があるなら買い出しに行ってくださいな」
ガサゴソと彼は懐に手を入れ、中から紙とペンを取り出す。そしてさらさらと紙に何かを書き始めた。
本当にお袋みたいだ。
「はい、これがメモですから、買ってきてください」
ビッと無造作に俺の方に紙を差し出し、それじゃあよろしくと彼は部屋から出て行った。
---
「あーめんどくせ。お袋かよ。」
アランのほうがもう少し放っておいてくれていたなと昔を思い返した。アランが管理していた庭の情景が脳裏を横切る。
真冬で、ただ枝ばかりの木が立っている、土だけの花壇がある、それが最後に俺が見た風景だった。
寒さもだいぶ緩み、もうそろそろ春になる。
花はちゃんと咲いてくれるだろうか、葉はちゃんと生い茂るだろうか。
ぼんやりと考えていて、パタパタパタと駆けてくる足音に気づかなかった。
ゆるりと顔を上げたときにはすでに遅く———小柄なものが衝突してきた。ドン、と鈍い衝撃を感じて、後ろによろめく。
小柄なもの——人は、そのままドサっと尻餅をついた。
「……危ないだろ。そんなに道を爆走すんな」
そう言いながらその脇の下に自分の腕を通した。やっとその姿を見る。
少女だった。どこかで見覚えが———。
体を抱き起こすと、すみません、と少女が頭を下げる。
まさか。そう感じて、頭を下げ続ける少女の肩を叩いた。彼女が顔を上げる。
自分がよく知った顔。———黄金色の瞳だった。
こんなに早く会うとは思わなかった。アランから、移り住んだ場所は聞いていたが———。
黄金色の瞳に、自分の顔が映る。
自分の顔、自分の瞳。無機質な色、切り裂かれたような傷跡の残る瞳が———。
濃淡問わず何かが流れ込み、胸の内でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
めまいがする。上手く息ができているのかも分からない。
「あ、の……?」
戸惑ったような声に、ハッと我に返った。
心底不思議そうな顔をしている。自分のことは覚えていないようだった。本当に、記憶を失ったのか。
このまま立ち去るのもよくない、何か言わなければ。
そう思って、口を開いた。
「……素敵な瞳だね」
かつて俺が持っていた色を与えられた目の前の彼女は、笑っていられているのだろうか。
そんなことを考えながら、俺はただ曖昧な笑みを浮かべていた。