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目次
イカロス
太陽に近づきすぎた天使は翼を焼かれて墜落死してしまったんですって。
それでも、私は空を見上げる癖はやめられなかった。手を伸ばせば届きそうで、でも届かない。そんな感覚が、私にとってはいつものことになっていた。
帰り道、坂道を下るたびに、足元の石ころや落ち葉に視線が落ちる。上を見上げると、青が広がっている。でも、どこか遠くて、触れられる気はしない。
「また届かないんだろうな」
口に出して言うと、風がさらりと答えた。
教室でも、家でも、世界のすべてが少しずつ重く、ずるずると下に引っ張るように感じられた。けれど、落ちることを知っているからこそ、ほんの一瞬の浮かび上がりに、妙な快感がある。私は笑った。苦く、少し照れくさく。
「これが世の中か」
その言葉を呟きながら、心のどこかで、小さな光を握りしめている自分に気づいた。夕暮れの空は、日が沈むにつれて、赤から紫に変わる。その色を胸に刻む。昇ることも、落ちることも、どちらも終わらない。だからせめて、落ちていく自分の影を、空の色と一緒に見つめていよう。
そう決めると、不思議と肩の力が抜けた。上も下も、もうどうでもよかった。ただ、自分の足で坂を下り、石ころを蹴り、風の音を聞く。それだけで、十分だった。そして私はまた、小さく笑った。苦く、でも確かに、生きている笑みを。
吾嗄
木目の渦に沈み、外灯を眺める夜にだけ、私は意味もなく|泪《め》を閉じる癖がある。
それは、何度も夢に踊らされ、終わりのない舞踏を舞うためだ。
泪を閉じる度に、夜は深くより鮮明になる。
鮮明になった夜は高層雲の着物を着て、私を誘惑する。
床に就いたまま、天井を見つめると、天井は私の視線に照れて波打った。
天井は照れ隠しに波打ったつもりだろう。
残念ながら、私は母体のなかで蠢く胎児のように見えている。
天井は知らずに波打つものだから、私は呆れて視線を外した。
気がつけば死に化粧の落ちた朝が私の躰に絡みついていた。
幾度も抜け出そうとしたが、結局大きな口に吞み込まれた。
朝の胃袋は普段となんら変わりのない私の部屋だったが、何故か私の部屋から、明らかな違和感を感じた。危機感は私の泪を出し抜いて、のうのうと|空《くう》を泳いでいる。
私の泪が逃げるように時計を向いた。
時計は七時三十二分を指し示した。
いつもならば、侍女が朝食を運びに来ているはず。
しかし、障子は締め切ったままになっている。
私が障子を締め切った、昨日のままに。
朝の胃袋の中は、私を拒絶するように静まり返っていた。
胃袋の中は《《誰もいない》》。この空間に在るのは私だけ。
それを冷やかすように、雨音がケタケタと哂った。
何もかも静かに狂い始めた。
わかっていた。私も。部屋も。全て。
ナイフに切り捨てられた鉛筆のカスの如く。
使命感もなく、《《ただ見捨てられた》》という事実だけが、私の心臓を這っている。
泡のように弾け散ることだけが、私の使命だというように。
夢と現実の境界線が混ざった世界で今日も一日を迎える。