幼馴染が事故で眠ったきりになって、10年が経った。
僕がその手を握ると、コウちゃんは目を覚ました。
僕らは2度と話すことはできないけれど、
あの日、中途半端に終わった夏を、やり直そうぜ。
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目次
はじまりを、ふたりでやり直す。
夏の日だったよね。
虫捕りの帰りにマンション街を、コウちゃんと歩いていた。
不器用なコウちゃんは、3時間近く森で粘っても、小さな蝶々1匹しか捕まえられなかった。僕は虫捕りをよく練習しているので、虫かごの中には今思えば気色悪いほど大量の虫を詰められた。
「ユイトくんはすごいねぇ……!」
「コウちゃんも練習すればできるよ!」
そして、かごを羨ましそうに見るコウちゃんに、僕は言った。
「どれかあげる?」
「いいの⁉」
えーじゃあどれにしよっかなぁ、と僕のかごを嬉しそうに見つめるコウちゃん。
その瞬間。
地面が、大きく横に揺れた。
「うわぁぁっ⁉」
地震だ。
あたま、守んなきゃ。
「コウちゃん!」
コウちゃんは地震でよろけて、マンションの方に行ってしまった。
その時だった――コウちゃんの頭の上に、植木鉢が落ちてきたのは。
ガチャン。
そんな音を立てて、植木鉢は割れた。
コウちゃんは、ふらりとしてから、倒れた。
頭からたくさん血が出ていた。
「コウちゃん……?」
返事はなかった。
びくともしなかった。
気味が悪かった。
「コウちゃん!コウちゃん‼」
どれだけ呼んだって返事が返ってこなくて、“それ”に薄々気づいていたっていうのに必死に呼び続けた。
もう2度と、一緒に虫捕りに行けないかもしれない。
「コウちゃんっ‼」
だんだん、当時は好きだったはずの救急車が近づく音が聞こえた。
---
野球部のボールが当たって気を失った女子がいるとは聞いていたが、やっぱり救急車が来てしまった。
空を裂くようなサイレンを聞いたせいで、僕の前にあの光景が蘇った。呼吸ができなくなる。
昔のことを思い出すと、いつもそう。
あれからサイレンの音はトラウマになった。あの地獄のような光景を思い出すトリガーとなって、今も僕の頭を苦しませてる。
「先生!|唯都《ユイト》が苦しそうで……!」
同じ剣道部員の友達が、先生を呼んでくれた。
先輩が僕の背中をさすって、「大丈夫?」と言ってくれたけれど、あの音が鳴りやまない限り、過呼吸が収まるわけもなかった。
「面、外すね」
そう言って先輩が後ろの紐を解き始めた。さすが中学校から始めていた先輩だけある、小手を外すとすごい速さで面を外してくれた。
呼吸が収まるまで、どのくらい時間を食っただろう。
涙とか鼻水でぐちゃぐちゃになった僕の顔を、別の友達が拭いてくれた。
「どしたん唯都、怖くなったん?」
「ちょっと、昔のトラウマでさ……」
「|澤谷《さわや》、もう今日は帰ったほうがいいんじゃないか?」
顧問の先生がそう言ってくれた。
「はい……そうします」
防具とかを片付けて、通学鞄を持とうとしたら、先生に引き留められた。
「1人で帰れるのか?親御さん呼ばなくていいか?」
「大丈夫です、家近いので」
そして、剣道場を出た。
どうやら部延長のない部はこの時間に下校なようで、同じクラスで友達の|浬《かいり》と会った。
浬はよく見る奴で、僕の顔を見るなり言った。
「やっぱ唯都、さっきのサイレンだろ」
「な……なんで」
「こないだ帰った時も、救急車に妙に敏感だったし」
やっぱ、よく見る奴だ。
「トラウマでさ」
「あぁ」
浬はそう言って黙った。
まずいこと言っちゃったかな……。
そう思っていたけど、しばらく経って言った。
「治療とかって、しないの?」
「……え?」
「いや、そんな辛そうなら始めた方がいいよなって。俺も治療でよくなったと思ってるし」
「でもさ……」
ほんとのところ、僕は何度もそのことを考えたことがあった。
人の命を守るために都市部を走り回る救急車に、ひとつひとつ反応しちゃうくらいだから、日常に支障、なんて軽いものじゃない。
けれど、コウちゃんもずっと頑張ってるから――。
「僕だけが逃げるのは嫌なんだ」
「――そう」
治療=逃げではないと思うけどね、と浬は呟いた。
実は、虫もちょっと苦手になってきてる。
コウちゃんが聞いたら悲しむかな……。
私の小説で剣道部員第2号、登場。
そういやうちの子たちってどういう比率で部活に入ってるんだろう(語彙力)
出会いを、ふたりでやり直す。
|冨谷《とみたに》 |紘矢《こうや》。僕の中では、コウちゃん。
コウちゃんが静かに眠ったまま、昨日で10年経った。
病室で大量の管に囲まれていることには変わりないけれど、頭の包帯はなくなったし、難しい機械も数が減った。
コウちゃんのお母さんは、目を覚ますことを願って、延命治療を10年続けてきた。
僕はそろそろ気づき始めていた。それにはとんでもないお金がかかることを。
だけど、コウちゃんだって、終わりの見えない闇の中で頑張ってるんだ。だから僕も、終わりの見えない世界で頑張らなきゃ――。
浬と別れてから、家にはそうかからない。
歩いてすぐだから大丈夫。
玄関のドアを開ける。
「ただいま」
「あ、唯都。おかえり」
母が迎えてくれた。
「部活、1年生は早上がりなの?」
「いや……ちょっと、学校に救急車が来ちゃって」
それだけで、母は解ってくれた。
「そう……やっぱり治療を始めた方がいいんじゃない?」
「……嫌、かな」
やっぱり、躊躇ってしまう。
「無理はしなくていいのに……」
「大丈夫だよ、まだ」
僕は努めて笑った。
あ、そうそう、吹っ飛んじゃってたけど、と母が言った。
「紘矢くん、目を覚ましそうなんだって」
僕が母と病院についた時には、もう6時半になっていた。雨のにおいがして、遠くで雷が鳴っていた。
「932号室の冨谷 紘矢くんのお見舞いに来ました」
「はい、では入院病棟へご案内いたします」
受付から出てきた看護師さんについていった。8年前からよく見るようになったこの看護師さんは浬のお父さんだ。
「私事になってしまうのですが……最近、浬は学校でどうですか。最近忙しくて、全然話を聞けなくて」
「浬は……特に大変そうなことはないです」
「そうですか」
前、浬の家にゲームしに行った時にはタメ口だったお父さんは、今僕に敬語で話している。それが、なんというか、くすぐったい。
けれど、僕たち親子は、1番懸念すべき事柄をきれいさっぱり忘れてしまっていた。
ここは大病院。入院や問診だけじゃなくて、急患も受け入れている。けたたましくサイレンを鳴らした救急車に運ばれる、急患も。
エレベーターに乗った瞬間、遠くから、それが聞こえてきた。
目の前に、残酷なあの光景が広がる。
本当なら見えている方の光景が、ぐわんと歪む。
植木鉢の割れる音が聞こえる。
立っていられなくなる。
視界のなかの“赤”の割合が、どんどん増えていく。
喉になにか詰まったような感覚がして、息が苦しくなる。
「唯都っ‼」
母が支えてくれたおかげで、かろうじて立っていられた。
上昇する箱の中で座らせてもらい、呼吸を整える。だんだんサイレンは遠くのものになり、やがて聞こえなくなった。
すぐ音が止んだこともあり、回復までは時間がかからなかった。
「……ストレス発作ですね」
浬のお父さんが言った。
「はい……この子、『治療はしない』って頑なに言ってて」
「そうですか……」
寿命の短い会話が聞こえる。
そのうち機械的な声で「9階です」と言いながらエレベーターが止まり、扉が開いた。32番目の病室までは結構歩く。
何度もここを訪れて分かったのは、この病院で1番静かな9階は、寝たきりや植物状態の患者さんの階だってこと。
……いつのまにかコウちゃんが、「植物状態」の側に行ってしまっていたら。
いつもそんな嫌な想像をしてしまう。
けれど今日は違った。コウちゃんは目を覚ます。僕は信じてる。絶対。
病室に入ると、すこし涼しかった。
「コウちゃん……」
僕はそのそばに駆け寄り、来るたびいつもしていたように手を握った。
その瞬間。
ぴくりと手が動いた。
手……。
「起きてるの?」
その顔を、じっと見た。
瞼が動いて、眉や唇も微かに歪んだ。
そして、目が開いた。
「コウちゃん!」
目を覚ましたばかりのコウちゃんは、僕のことをじっと見た。
そして、手を握り返してくれた。
「僕のこと……分かってくれてるの?」
けれど答えは返ってこなかった。
コウちゃんはただ手を握って僕を見つめていた。
あぁ、そうだった。
コウちゃん、喋れなくなっちゃったんだ。
コウちゃんの左脳は、植木鉢に殺された。
あの日、僕の目の前で壊されたんだ。
もし目を覚ましても、もうお喋りできないんだって……。
コウちゃんのお母さんは、そう言って泣いてた。
大きくなったらちゃんと分かった。それが、「コウちゃんが喋れなくなる」だけじゃなくて、「コウちゃんが言葉を理解できなくなる」ってことだって。
言葉を失って、どうやって僕はあの日々を取り返せるだろう。
「なんで……」
僕は繋いだ手に額を当てた。涙がぽろぽろ零れてきた。
暗い空から、次第に雨の音が聞こえ始めて、静かな病室に響いた。
どうしてだろう、これ書いてると無駄に1話が長くなる。
だってこれ2000字オーバー。やばい、飽きられる。
思い出を、ふたりでやり直す。
なんで、今日までコウちゃんに会いに行こうと思えなかったんだろう。
気づくともう雪が降ってて、冬休みが始まっていた。
先月、今までにないほどのひどい発作を起こして、母に説得されてこの間治療を始めた。
カウンセリングを受けたり、服薬治療を始めてみたり。カウンセラーさんと、よくわからない目の運動とかもしてみた。効果があるのかはいまいちわかってないけど。
けれど今日、ふと思った。
リハビリ中のコウちゃんのお見舞い、1度も行けていないじゃないか。
なんで、今まで行こうと思えなかったんだ。
いや……行けなかったのか。
無意識に、あの日を思い出さないように避けていたんだ。
あの光景を、目の前に映さないように。
……ってことは、それに近づけるようになったんだから、治療は意味があったんだな。
母に「お見舞い行きたい」と言うと、半年前のあのことがあったから心配してくれた。
「大丈夫、……きっと」
きっと。
半年ぶりにやってきた大病院は、あの時よりは静かだった。今日は浬のお父さんはお休みで、コウちゃんの担当の看護師さんとお見舞いに行くことになった。
9階まで上って、そして長い長い廊下を歩いた。
機械音しか聞こえなくて怖い……。
わずかな恐怖はしばらく続いた。
病室の前まで来て、震える手でノックした。
「紘矢くん、入りますよ」
「コウちゃん、言葉、分からないんじゃ」
「でも一応言ってあげないと、こっちが落ち着かないんですよね。無断で入ってるような気がして」
そして、看護師さんが引き戸を開けた。
椅子に寄りかかって、こっちを見るコウちゃんがいた。僕の顔を見て、一瞬誰か分からなかったようだけど、しばらくしてやっと僕だと気づいたのか、ちょっと笑って、手を伸ばした。
15歳にしては筋肉も脂肪もない。たどたどしくて、頼りなくて、ぎこちなくて、剣道を始めて半年の僕が親指と人差し指で簡単に折ることができそうなくらい細い腕。
「最近やっと、椅子に座ったままでいられるようになったんですよ」
「そうなんですか……」
10年寝たきり状態だった患者さんは、歩くまでにもかなりかかる。そう、看護師さんが言った。
「まぁ、半年でここまで筋力がつくなんて、もう奇跡みたいなものですけどね。しかも、眠り始めたのがまだ幼児だったころなのに」
僕はコウちゃんのところに行って、手を握った。手の大きさは、僕より1まわりか2まわり小さい。それに、まるで骨にベージュの絵具を塗っただけみたいに細い。
「最近は手のリハビリもやってて、クレヨンで絵を描いたりもしてるんですよ」
そう言って看護師さんが持ってきたスケッチブックには、顔っぽいものと色でかろうじて人間だとわかるもの2つ――そのうち左の人間は、赤い棒を持っている――と、黄色い何かが描かれていた。
「こっちが紘矢くんで、こっちが唯都くんだそうです」
左から順に看護師さんが指差す。
この赤い棒は、と聞く前に、看護師さんは言った。
「それで、真ん中のこれは蝶々なんだそうですよ」
一瞬、背中にひやりとしたものが走った。
虫――。
「じゃあ、この棒って……」
「おそらく、虫取り網の柄か何かだと思います」
昔のことが、ふっと思い出される。
あの日、コウちゃんが捕まえたのは、真っ黄色のモンキチョウだった。
涙が零れていたのに、しばらく気づかなかった。
「え⁉あ、すみませ……⁉」
「いや……大丈夫です」
そう言って、目を拭った。
コウちゃんのことが見れなかった。繋いだ手を、少し強く繋ぎなおした。
この絵の僕らは笑ってた。きっとコウちゃんは楽しかったから、こんな顔で描いたんだ。
ごめんねコウちゃん……僕、もう虫捕りには行けないかもしれない、なんて、言えないし伝えられない。
モンキチョウの黄色が、網膜に貼りついて離れない。