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心の音
夕方の校舎には、無音がよく似合う。
チャイムが終わってしばらくたった頃、廊下に響くのは、時折すれ違う生徒の話し声と、外から吹き込む風の気配だけだった。
数日前、先生にああ言われた手前なんとなく久々に美術部に顔を出した。
復帰に文芸部はまだハードルが高かった。
数人しかいない上に、大半がスマホをいじったり友達と談笑していた。
かなり前に途中になっていた作品のキャンバスに少しだけ色を重ねてみると心が空になる。
遅くなった帰り道。
昇降口の方へ回ろうと階段を下りたとき、廊下の向こうから見慣れた姿が歩いてくるのが見えた。
細身で綺麗なシルエット。
相変わらず真っ白で皺一つないシャツの袖を少し捲って、静かに歩いている。
、、瀬野先生だ。
咄嗟に足が止まった。別に悪いことをしているわけじゃないのに、心臓が跳ねる。
自分のものじゃないように急に暴れる心音は心の中まで見透かしているようだった。
声をかけようか、それともこのまま通り過ぎようかと迷っていると、ふと歩みが緩んだ。
そして、ほんの一瞬。
小さく咳き込む音が、静かな廊下に響いた。
私は反射的に顔を上げた。
咳は短くて軽い一度だけ。でもそれは、どこか深いところの古い痛みに触れるような音だった。
先生はそのまま何事もなかったかのように姿勢を正し、また歩き出す。
ぼんやりと廊下の窓から中庭を綺麗な横顔で何かを見つめる。焦点は定まっていないらしい。
そして、廊下の途中でふいに振り向き、私の存在に気づいた。
「ああ、黒崎さん」
「……あ、」
言葉が、喉の奥にひっかかる。
自分が何を話したいのかは分からないのに、何かが私から溢れ出て言葉をぶつけてしまいそうだった。
先生は、ほんのわずかに微笑んだ。
けれどその笑みは、出会った図書室の日より数倍もどこかぎこちなくて、
ほんのすこしだけ哀しさを含んでいるように見えた。
「今日、部活行ったんだ」
「……はい、ちょっとだけ」
「そっか」
「…お疲れ様」
それきり、彼はなにも言わなかった。
でもそのまま歩き去る背中を見送っていると、不意にまた、咳がひとつ。ふたつ。
風邪ではない。
朝の占いよりも怪しい予言よりも不確かで、不思議に自信のある直感だった。
声にも出せない、どこか遠くのものに触れたようなざわつきが、心の奥で音を立てた。
それから私は気づけば、先生の姿を目で追うようになっていた。
黒板の前に立つ姿、チョークを持つ手、何気ない授業の合間に見せるぼんやりとしていて音のない仕草。
今まで気にならなかった細かいことまでもが、目に入ってくる。
そして心音を暴れさせる。
授業中にふと目が合う瞬間もあった。
そのたびに茉音は、なぜか自分の鼓動の音ばかりがやけにうるさく聴こえる。
先生と廊下ですれ違うと、自然と姿勢を正してしまう。
目が合ったら、軽く会釈だけ。だけど、それだけでもう心臓がうるさい。
それでも。
あの咳のことだけは、ずっと引っかかっていた。
「瀬野先生、最近ちょっと顔色悪い気がするんだけど、大丈夫なのかな」
美術室で一緒になった藤原さんが、ふとそんなことを言った。
「……え?」
「ほら、数学の瀬野先生。あの人、顔色とか声とか、なんか淡い感じじゃない?」
「元々そうだったけど、最近なんか、淡すぎて消えちゃいそうなくらいだよね」
淡い、という表現に、茉音は思わず息を呑んだ。
それはきっと、藤原さんなりの言葉なんだろうけど、まるで透明な花びらに触れたような、壊れそうな感触がよみがえった。
藤原さんは学級委員で、入学後からちょくちょく話しかけてくれていたクラスメイト。
クラス替えが3年間ないこの学校で、たまに部活に誘ってくれるのも、予定表を渡してくれるのも全部この人のおかげ。
優しくて誰からも愛されるような藤原さんが美術部を選んだのは当時かなり意外だった。
美術部は自分みたいな居場所のない人間の住処という偏見が中学時代の美術部を見ていて思っていたから。
中高と美術部、高校で文芸部も掛け持ちの私は、どこにも染まれない、染まろうともしない人間だった。
「そう……かな」
言葉を濁した。
まだ何も知らない。
先生が何を抱えているのかも、咳の意味も、表情の奥も、言葉の全ても。
でも、なにかがあると、私の心だけはもう、知ってしまっていたような気がしていた。
音のない哀しみが、ひとつずつ増えていくような。
まだ形にならない気持ちだけが、私の中で小さく脈を打ち、得体の知れない悲しみが滲んだ。
◉ 藤原 りな / フジワラ リナ
高校2年生。茉音と同じクラスで学級委員。美術部と文芸部を掛け持ち中。
おっとりしていて周りに気を遣える。明るくて誰からも愛されるような性格。