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盲点
魅檻レイ
雨の匂いが、煙草より先に部屋へ入ってきた。午前二時、雑居ビル三階。探偵は窓を少し開けたまま、火を消しかけた煙草を指で挟んでいた。依頼は、三日前から続いている。
「誰かに見られてる気がするんです」
依頼人の女はそう言ったあと、少し笑った。怯えているのか、自分の話を確かめているのか分からない顔だった。机の上には、写真が並んでいる。
駅、帰宅路、マンション前。
そのすべての端に、同じ男が写っている。
黒髪、白いカーディガン。
笑っていないのに、優しそうに見える目。
探偵はその写真を見た瞬間から、違和感に気づいていた。
「……やり方が綺麗すぎる」
誰かに見られている気配を、残しすぎている。
隠す気がない、むしろ見つけさせている。
ドアベルが鳴った、鍵は閉めていたはずだった。
振り返ると、男が立っていた。
白い傘を閉じて、雨の雫を床に落としながら困ったように笑う。
「こんばんは」
探偵は引き出しに手を伸ばす、スタンガンを求めて。だが男は、そこを見ていなかった。最初から、探偵の目を見ている。
「依頼の件で来ました、そんなに警戒しないで」
「お前がストーカーだろ」
男は一瞬だけ黙って、それから小さく首を傾げた。
「違います」
「映ってた」
「映るようにしていたので」
探偵はその言葉に、妙な既視感を覚えた。それは、この依頼そのものにもあった。最初から、誰かに辿り着かせるための線が引かれている。
「あなた、最初から気づいてましたよね」
その一言で、空気が少し変わった。
探偵は、煙草を灰皿に押し付ける。
「……何の話だ」
「僕のことも、依頼人のことも」
窓の外で、雨が強くなる。
探偵は、机の上の写真を一枚だけ指で弾いた。
「全部、わざとだろ」
「半分は」
男は、否定しない。その曖昧さが、一番嫌だった。
「あなたに気づいてほしかった」
男は、そう言う。探偵は、鼻で笑う。
「気づいてたよ。最初から」
一瞬、男の目が止まる。
「……じゃあ」
男の声が、少しだけ低くなる。
「見てたんですか、僕のこと」
探偵は、答えない。けれど、その沈黙は肯定だった。最初から、どちらも知っていた。見ている側と、見られている側。その境界だけが、曖昧だった。男が一歩近づくその動きに、探偵は反応しない。代わりに、静かに言った。
「依頼人は帰したのか」
「ええ」
「謝礼も渡した」
男は、当然のことのように言う。
「あなた、他人の事情を放っておけないでしょう?」
その言葉に、探偵の顔が少しだけ変わる。知っている、知りすぎている。
「一年と四ヶ月と十二日前」
「高架下で猫を助けましたよね」
「煙草は七本、最近増えてる」
「三年前に路地で刺されて左肩が雨の日に痛む」
「寝る時、電気つけっぱなし」
探偵は、目を細める。
「……どこまでだ」
「全部」
男は、笑わないまま言う。
「でもあなたも、僕のことを見てましたよね」
沈黙、雨の音だけが続く。探偵はゆっくり立ち上がり、徐々に距離が近づく。どちらが踏み込んだのか、分からない。
「名前」
探偵が言うと、男は少しだけ目を見開く。それから、嬉しそうに笑った。
「知りたいんですか」
「うるせぇ」
男は探偵の手を取り、自分の首元へ導く。脈がある。温度がある。確かに、生きている。
「はじめまして、ずっと見ていました」
窓の外で、朝が来かけている。でも部屋の中は、まだ夜のままだった。探偵は、その名前を一度で覚える。覚えたくなかったのに、忘れられなかった。そして、ようやく分かる。
最初からこれは、ストーカーと探偵の事件じゃなかった。観測していたのは、どちらだったのか。
探偵 × ストーカー