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春、図書室と君
春の光が、図書室の窓から静かに差し込んでいた。
暖かくて何かを包み込んでくれるような優しい光。
埃が光に浮かび上がって、まるで空気に色がついたみたいに見える。
放課後の図書室はいつも静かで、誰にも邪魔されない時間が流れている。
この世界に1人だけになれる。自分の輪郭を曖昧にしてくれるような。そんな図書室が私は好きだった。
グラウンドから聞こえる野球部の声が遠く聞こえる。
ぼんやりとした私と詩だけの世界。
窓際の席に座りながら、詩集をめくる指先が風の音にかき消される。
図書室はいつも私だけ。図書委員が当番をしっかり守ることはほとんどない。
今日も誰も来ないと思っていた。明日も、その先もずっと。
静かな足音が聞こえた。建て付けの悪いドアが重たい音を立てて開く。
そこに立っていたのは見慣れない男性だった。
白いシャツから覗く身体は心配になる程細身で白い。
まだ春の風は少し冷たいけれど、彼は、春よりも冷たい空気をまとっていた。
誰。
名前も知らない、会ったことが無い人のはずなのに、こんなにも胸が苦しいのは。
なんてことのない存在だったのに。
現れた彼は、まるで風景の中から滲み出たようだった。
どこにも居場所がないのに、そこにいるのが自然な気がした。
湊は無言で本棚の前に立ち、何冊かの本をゆっくりと手に取った。
背表紙をそっと指でなぞるしぐさがやけに静か。
まるでルネサンス期の絵画のように美しくてどこか儚い姿が絵になっている。
まるで、本に触れているんじゃなくて、言葉に触れているみたいだった。
私の視線に気づいたのか、彼がふとこちらを見た。
静かで凛とした目が茉音を捉える。
その一瞬。
彼は、ほんのわずかに片口角をきゅっとあげた。
何かに微笑んだのか、何かを見透かすような意味を持たない表情だったのか。
けど、その微かな変化に、心は不思議と揺れた。
それだけだった。
言葉は交わしていない。名前も知らない。
けれど、何かが残った。
あの、静かな目の奥にある“何か”が。
彼のいる空気だけが、他と違って見えた。
ページの文字が頭に入らないまま、ゆっくりと本を閉じた。
窓の外、桜が風に揺れていた。
まるで、何かが始まることを知っているように。
◉ 黒崎 茉音 / クロサキ マオ
高校2年生。美術部と文芸部に月1、2回出席する幽霊部員。
感情を外に出すのが苦手で大人しくて完璧主義な「いい子」。