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第13話:クッキーの魔法
秋葉家での生活が始まって一週間。愛菜の頬には少しずつ赤みが差し、叔父の家にいた頃の、消え入りそうな影が薄れ始めていた。
「……佳代さん。私、クッキー、作ってみたいです」
ある日の午後、愛菜がおずおずと切り出した。いつも貰ってばかりではなく、自分もこの温かい家族に何かを返したい。そう思ったのは、愛菜の人生で初めての「前向きな欲求」だった。
「まあ! 素敵じゃない! ちょうどいいわ、真蓮! あんた手伝いなさい!」
「えっ!? 俺、お菓子作りなんて……」
「いいから! 愛菜ちゃんを一人にする気?」
「……っ、わかったよ!」
結局、佳代は「買い出しに行ってくるわね」と気を利かせて外出し、キッチンには愛菜と真蓮の二人きりが残された。
「……真蓮くん、これ、混ぜるの、手伝ってくれる?」
「お、おう。任せろ。俺の怪力を見せてやるよ」
真蓮は袖を捲り上げ、ボウルを受け取った。愛菜が計量したバターと砂糖を、力任せに練っていく。
「あはは、真蓮くん、力入れすぎ。もっと優しく……こうだよ」
愛菜が横から手を添えようとして、二人の指先が触れ合った。
「っ……!」
真蓮がビクッと肩を震わせ、ボウルを落としそうになる。
「ご、ごめん! 驚かせるつもりじゃ……」
「いや、違うんだ! その……お前の手が、あんまり冷たかったから」
真蓮は嘘をついた。本当は、愛菜の指先が驚くほど柔らかくて、自分の熱が彼女に吸い込まれていくような感覚に、心臓が爆発しそうになっただけだ。
オーブンから、甘く香ばしい匂いが漂い始める。
焼き上がりを待つ間、二人はカウンターに並んで座った。
「……私、ずっと怖かった。誰かに触れられるのも、大きな音も。でも、真蓮くんの手は、全然怖くない。……不思議だね」
愛菜は自分の手を見つめながら、ぽつりと呟いた。
その横顔は、夕暮れの光を受けて、真蓮が今まで見たどんな景色よりも綺麗だった。
真蓮は、こみ上げる愛しさを抑えきれず、不器用な手で愛菜の頭をポンと叩いた。
「……当たり前だろ。俺の手は、お前を助けるためにあるんだからな」
「……ありがとう。……えいっ」
愛菜は、意を決したように身を乗り出すと、真蓮の腰に細い腕を回して、ぎゅっとハグをした。
「っ!?!?!?」
真蓮の全身が、鉄板のように硬直した。
愛菜の髪から香る、甘いクッキーの匂い。背中に伝わる、小さな鼓動。
「……あいな……?」
「もうちょっとだけ、このまま。……真蓮くん、あったかいから」
真蓮の顔は、一瞬で茹でダコのようになり、頭から湯気が出そうなほど真っ赤になった。
「……っ、……う、うっせーわ!! 卑怯だぞ、そういうの!!」
そう叫びながらも、真蓮は自分から愛菜を引き剥がそうとはしなかった。
ただ、真っ赤な顔で空を見上げ、固まったまま、彼女の体温を全身で受け止めていた。
キッチンに鳴り響く、オーブンの「チン!」という音。
それは、二人の新しい関係が焼き上がった合図のようだった。
🔚