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SENSORY DEVIATION ――感覚偏差――
ゆうき
人は誰しも、偏差を持つ。
同じものを見ても、
同じようには見えない。
同じ音を聞いても、
同じようには聞こえない。
怖いものも。
心地いいものも。
気になるものも。
ひとりひとり、少しずつ違う。
その違いを、
私たちは偏差と呼ぶ。
そして、ごく一部の偏差は――
世界に作用する。
それを、人は異能力と呼んだ。
第一話 嫌じゃない方
卒業試験から戻ってきた酒井は、今日も無傷だった。
試験場の出口には、先に戻った生徒が何人か座り込んでいる。
制服の袖が焦げている者。
足首を冷やしている者。
頬に大きなガーゼを貼っている者。
その間を、酒井は平然と歩いてきた。
スラックス。
シャツ。
少し大きなカーディガン。
四年着ているので、さすがに新品には見えない。
それでもまだ大きい。
「……酒井」
水上教官が呼んだ。
「はい」
「お前、また無傷か」
酒井は自分の身体を見た。
「みたいですね」
「みたいですね、じゃない」
水上は苦虫を噛み潰したような表情をした。
「怪我した方がよかったです?」
「そうは言ってない」
「じゃあいいじゃないですか」
「よくない」
「なんで」
水上は端末を見た。
酒井の方を見もせずに、指さす。
「……第三区域」
「はい」
「なぜ西側を通った」
「東、嫌だったから」
また始まった、と水上は首を振る。
「指定経路は東だ」
「指定じゃないですよ。推奨です」
「お前、そういうところだけ読むよな」
「大事なので」
横から、茶色い縦ロールが揺れた。
「センセ」
榊口蝶華が覗き込んだ。
蝶のチョーカー。
黒いレースの足された制服。
規定の範囲内だと本人は主張しているが、水上はその主張を認めていない。
シークレットブーツの分だけ、酒井より少し背が高い、眉目秀麗な少女。
教官だと訂正する水上を無視して、蝶華は言う。
「西側を選んだの、私です」
「……榊口」
「はい」
「では訊く。お前はなぜ西へ行った」
水上は蝶華に向き直る。
「酒井が東を嫌がったので」
水上が黙った。
「それで?」
「西にしました」
「それだけか?」
「はい」
「お前、卒業試験だぞ」
「知ってます」
はぁー、と水上は深いため息をつく。
「指定された状況への対処能力を見る試験だぞ」
「推奨経路を通る試験ではありません」
「そういう話をしてるんじゃない」
「では、どういう話です?」
水上が額を押さえた。
酒井は蝶華を見る。
「怒られてるよ」
「いいえ、議論よ」
水上が端末を操作した。
苦々しそうな口調で、告げる。
「榊口。評価A」
「ありがとうございます」
蝶華は大仰にお辞儀した。
「状況判断、能力制御ともに問題なし。経路変更についても規定上は――」
一拍。
「……問題なし」
蝶華がにっこり笑った。
「ありがとうございます」
忌々しそうに舌打ちをしながら、水上は蝶華への視線を切る。
「酒井」
「はい」
「お前は評価C」
心底どうでも良さそうに吐き捨てる。
「受かった?」
「63/60だ」
「っっっっし!」
「この点数で喜ぶな」
「卒業できるんですよね?」
「お前を残して何になるという声も多くてな」
「釈放ならそれでいいです」
水上は端末を読み上げた。
「能力使用、確認できず」
「はい」
「対処行動、一部評価不能」
「はーい」
「交戦回数、二」
酒井が首を傾げた。
「二回もしました?」
「記録上はな」
「じゃあしました」
「覚えとけ!」
水上がさらに画面を送る。
眉間の皺が少し深くなった。
「……しかし、必須通過項目は全て達成」
「優秀じゃないですか」
「酒井……」
水上は込み上げてくる怒りに拳をにぎりーー
「なんですか」
「……いや、いい」
「なら呼ばないでくださいよ」
蝶華が笑った。
水上はそちらを見る。
「榊口」
「はい」
「お前は編入してきた頃、もう少し真面目だったと思うがな」
蝶華は心外そうに目を丸くした。
「今も真面目ですけど」
「では、なぜ酒井の『なんか嫌』を採用する。我々の意図も読める人間だと思うが」
蝶華は少し考えた。
「合理的な判断ですよ」
「どこがだ」
「過去の結果を参照しました」
「偶然だろう」
「偶然も重なれば合理です」
水上は黙った。
酒井が感心した。
「おお」
水上がキッと酒井を睨む。
「上手いこと言うなと思って」
蝶華は縦ロールを肩の後ろへ払った。
「事実ですから」
水上が酒井を恨めしそうに見る。
「……お前、あの頃の榊口を返せ」
「自分は何もしてないですよ」
「腐ったりんごめ」
卒業試験は、それで終わった。
*
卒業式の日は、よく晴れた。
酒井はいつものカーディガンを着ていた。
四年前、中等学校三年のときに買ったものだ。
成長を見越して、少し大きめを選んだ。
思ったより大きかった。
そして思ったより成長しなかった。
結果、四年経った今も少し大きい。
「酒井」
蝶華が袖を引いた。
「伸びる」
「四年伸びなかったんだから大丈夫」
「カーディガンの話?」
「他に何があるの」
「……なんでもない」
酒井が口を尖らせてそっぽを向く。
「写真撮るよ」
「やだ」
「なんで」
心底わからないという顔で蝶華は酒井の顔を見る。
「卒業証書持って写真撮る意味が分からない」
「卒業したからでしょ」
「明日撮っても同じじゃん」
「明日は卒業式じゃないじゃん」
「写真に日付出ないよ」
「そういう問題じゃないの!」
酒井は蝶華を見た。
「今日なんか違う?」
蝶華の顔がぱっと明るくなった。
「分かる?」
「いや」
「じゃあ聞かないで」
「なんで」
「分からない人に説明したくない」
苦し紛れの一言で、酒井にはいつも通りに見えた。
茶色い縦ロール。
蝶のチョーカー。
制服のレース。
リボン。
スカート。
シークレットブーツ。
いつも通り、情報量が多い。
「髪?」
「違う」
「チョーカー?」
「違う」
「靴?」
「もういい」
「じゃあいいか」
「少しくらい粘ってよ!」
結局、写真は撮った。
酒井は卒業証書を持った。
蝶華は笑った。
酒井も笑った。
つもりだった。
写真を撮った同級生が画面を見る。
「酒井、もうちょっと笑えばよかったのに」
「笑ってたって」
「どこが?」
「内面」
蝶華が写真を覗き込む。
「ほんとだ。全然分かんない」
「カメラの性能が悪い」
「内面まで写ったら怖いよ」
その後、誰ともなく角帽を取った。
「お前ら投げるなよ!」
水上の声が飛んできた。
蝶華が悪戯っぽく笑う。
「ひゅ〜!」
蝶華が投げた。
わああぁ。
全員がそれに続いた。
「榊口!」
「もう卒業したので」
「卒業式が終わるまでは生徒だ!」
酒井が聞いた。
「いつ終わりですか?」
「帰るまでだ!」
「家に着くまで?」
「遠足かて」
校門の外に出ると、蝶華が立ち止まった。
「酒井」
「なに」
「卒業旅行行こ」
「やだ」
蝶華はちゃっかり取ってあったタッセルを卒業証書に結びつけながら、酒井を見る。
「まだどこ行くか言ってない」
「旅行でしょ」
「うん」
「疲れる」
「卒業旅行だよ?」
「卒業したのに疲れることするの?」
蝶華はしばらく考えた。
「……するから?」
「説明になってない」
「いいから来てよ」
蝶華は酒井の袖をつまんで渾身の上目遣いを繰り出す。
「うえーっ」
「ひどっ」
蝶華は少し考えてから付け足した。
「水上教官も来るよ」
「なんで?」
後ろから声がした。
「俺もそう思ってる」
二人が振り返った。
水上がいた。
「教官、来るんですか?」
「能力者だけでまとまって遠出させるよりはマシだそうだ」
「引率じゃん」
「安全管理だ」
蝶華が訊いた。
「集合時間決めます?」
「決める」
「点呼は?」
「する」
「引率ですね」
「違う」
酒井は少し考えた。
「じゃあ行こうかな」
蝶華が目を丸くした。
「来るの?」
「うん」
「なんで急に?」
「何かあっても教官のせいにできる」
「帰れ」
水上がビシッと外を指差す。
「もう校門の外ですよ」
「そういう意味じゃない!」
蝶華が笑いながら酒井の袖を引いた。
「伸びるって」
「旅行、来るんだね」
「たぶん」
「やった」
「まだたぶん」
「もう人数入れとく」
「聞いてる?」
水上は深いため息をついた。
*
旅行先のホテルは十一階まであった。
ロビーで酒井が上を見た。
「高いね」
「都会じゃ普通だよ」
蝶華が言った。
「都会マウント?」
「これでマウント取られたと思う方が田舎者だよ」
「左遷されてきたくせに」
蝶華が酒井を見た。
「今それ言う?」
「ごめん」
「早いな」
「やったなと思った」
「言う前に思って」
「次から」
「ったく」
ブツクサ言いながら蝶華は参加者を見回す。
「全員いるー?」
「いるー」
「いるー」
「いるときー」
「いればー」
うっせえと毒づきながらチェックインを済ませ、荷物を置く。
*
しばらく観光して夕方、皆で十一階へ上がることになった。
エレベーターホールまで来たところで、同級生の一人が立ち止まった。
「あ、そうだ」
「なに?」
「ここのエレベーター、調子悪いって」
「え?」
「さっきホテルの人が話してた。点検呼ぶとか」
蝶華がエレベーターを見る。
「じゃあ階段にしよ」
酒井も見た。
「十一階?」
「仕方ないじゃん」
「自主一般負荷じゃん」
「それが効くのはあんただけよ」
「ちぇ」
皆が非常階段へ向かった。
酒井もついていく。
一歩、二歩、三歩進んで。
やがて止まった。
自身の感覚を疑うように振り返る。
その先にはエレベーター。
蝶華が気づいた。
「酒井?」
「エレベーターで行く」
「え?」
「十一階でしょ」
「うん」
「だるい」
蝶華が酒井とエレベーターを見比べる。
「……珍しーね」
「何が」
「神回避(笑)の酒井が」
「その呼び方やめて」
酒井は渋い顔をした。
「危ないって分かってる方行くんだ」
「階段で十一階の方が危険だよ」
「何に」
「膝」
あいてててーと腰をさするふりをする。
「ついに神頼み能力までなくなった?」
「最初からない」
蝶華はまだ酒井を見ていた。
「……まあ、いっか。上でね」
「うん」
皆が階段へ消えていく。
酒井は一人、エレベーターのボタンを押した。
どうして乗ろうと思ったのか。
考えなかった。
十一階まで階段で行くのが面倒だった。
それで十分だった。
チン。
扉が開いて、
その中には少年がいた。
隣には中年の男。
親子だろうか。
少年は階数表示をじっと見上げている。
酒井は訝しげに二人を見ながら乗り込んだ。
男が操作板の前を陣取っていて、ボタンが押せない。
「十一階お願いします」
特に反応もなく男がボタンを押した。
「どうも……」
一挙手一投足に疑問が生じるが、それを封じるように扉が閉まった。
二。
三。
四。
五。
回数表示が進んでいく。
その時、酒井の視界の端で少年が膝を曲げた。
膝を曲げて、当然の帰結として
ぴょん。
と跳ねる。
酒井の胃が浮いた。
「うわ」
手すりを掴む。
エレベーターがエラー音を立てて止まった。
少年を見る。
「ちょっとー」
返事はない。
少年は階数表示を見ている。
また膝を曲げた。
全身に鳥肌が立つような浮遊感に襲われ、
ぴょん。
今度は床に押さえつけられるような強烈な圧迫感が足に、手に伝わる。
「……え?」
舌を噛むんじゃないかという衝撃の中、酒井は少年の視線の先を辿る。
二。
五。
ぴょん
二。
五。
数字が行き来している。
「……あ」
少年が膝を曲げようとして、
酒井は咄嗟に抱き留めた。
「待って」
少年が身をよじった。
「ちょ、待って待って」
また跳ぼうとする筋肉の動きを必死な腕の中で感じる。
妙にスローモーションに見える視界の中で、男がこちらを見た。
「すみません」
その声は震え、ひどく焦っていた。
酒井に怒っているわけではない。
少年を叱るでもない。
ただ、焦っている。
「この子――」
酒井が声をかけようとした刹那、男が鞄を開いた。
小さな容器を取り出す。
「え?」
震える手で容器の蓋を開け、扉に液体をかける。
じゅっ。
鼻につく匂いがして、金属が泡立った。
「ちょっと、何して――」
男は、変形した扉を、道具を差し込み全身を使ってこじ開ける。
酒井は、溶けていく金属を見た。
――違う。
そう思った。
能力じゃない。
理由は分からない。
でも、違う。
扉に隙間ができた。
男が少年を引き寄せる。
「行くぞ」
開いたドアの外は、どこかの階の境目だった。
男と少年は下の階へぴょんと飛び降りる。
「待って!」
酒井も続く。
廊下の向こうからバタバタと足音がした。
階段組だ。
先頭に水上がいる。
酒井はほっと息をつきかけ、走り出す。
「水上教官!」
ちょうどその時、親子は水上たちとすれ違った。
酒井は少年を指す。
「確認されていない能力者です!」
水上の表情も変わる。
酒井の指差す方を振り向き、
「どっちだ」
と怒鳴る。
「子どもの方!ジャンプするとエレベーターが動きます!」
「本人の意思は?」
「分かりません!」
水上は少年を見る。
次に、溶けた扉。
「……この損傷もか。物質変化系――」
「それは違います!」
水上が振り返る。
「なぜ!」
「それは、親父さんがやって、ああもう! 違うからです!」
「説明しろ!」
「腐食剤です!」
「なぜ分かる!」
「分かりません!」
「こんな時まで!」
「違うから違うんです!」
「それは説明じゃない!」
そこへ蝶華が追いついた。
「ちょっと、何――」
埒が明かないといった様子で、水上が親子を追い始める。
「どういう状況!?」
わからないまま、蝶華たちも続く。
酒井も走った。
前を行く男を見る。
少年の手を握っている。
強く。
けれど、乱暴には見えなかった。
さっきもそうだった。
少年が跳んでも、怒鳴らなかった。
エレベーターが暴走しても驚かなかった。
ただ、酒井が止めたことに焦っていた。
この人は危険だ。
そう思う。
同時に。
この人は、あの子を守っている。
そうも思った。
どちらも、妙に確かだった。
「酒井!」
蝶華の声がした。
酒井は息が切れることも厭わず走った。
*
必死の追跡虚しく、親子には逃げられた。
沈んだ表情の一向に水上が告げた言葉は意外だった。
「続けるんですか?」
酒井が聞くと、水上は電話を片手に、
「お前らまで帰ってどうする」
と面倒くさそうに追い払う仕草をした。
夕食には豪華な刺身が出た。
酒井はしばらく刺身を見ていた。
「食べないの?」
蝶華がジュースで口を潤わせながら訊く。
「食べる」
「さっきからずーっと見てるけど」
「今から食べるって」
「エレベーター酔い?」
「落ちたからね」
「神回避(笑)なのに」
うるせーと言いながら、刺身盛りに箸を伸ばす。
これは何の魚だろう。
とりあえず、白い。
特に疑問なく、酒井はそれを頬張った。
口の中のものがなくなるまで、二人とも少し黙る。
「……酒井」
「ん?」
「腐食剤、なんで分かったの?」
「分かんない」
「匂い?」
「知らない」
「見たことある?」
「ない」
「じゃあなんで?」
酒井は刺身をまた一切れ食べた。
「違ったから」
蝶華も一切れ食べる。
「そっか」
「納得した?」
「してない」
「だよね」
「でもまあ……酒井だし」
「それ悪口?」
「半分」
「もう半分は?」
「保留」
水上が電話をしながら横を通った。
酒井が声をかける。
「教官、お刺身なくなるよ」
水上は酒井を見た。
何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わず、電話の向こうに意識を戻したようだ。
蝶華が笑った。
*
帰りの電車にて。
蝶華は窓際。酒井はその隣だった。
電車が動き出してしばらくして、蝶華が言った。
「ねえ、酒井」
「んー」
「なんでエレベーター乗ったの?」
「十一階まで階段だるかったから」
「それは聞いた」
「じゃあ何」
蝶華は窓に頬杖をついた。
「危ないって聞いてたじゃん」
「うん」
「酒井なのに」
「酒井だけど」
「神回避(笑)の」
「まだ言う?」
「だって」
蝶華は少し笑っていた。
でも、目は笑っていなかった。
「酒井、嫌な方には行かないじゃん」
「普通そうじゃない?」
「そうなんだけど」
「じゃあいいじゃん」
「でも、あのときは行った」
酒井は黙った。
電車が揺れる。
「階段だるかったんだって」
「それだけ?」
「……」
蝶華は待った。
酒井は窓の外を見る。
そういえば。
どうしてだろう。
エレベーターが危ないとは聞いていた。
いつもの自分ならたぶん、階段へ行っただろう。
十一階だろうが。
膝がどうだろうが。
でも、嫌とならなかったのだ。
「……なんか」
「うん」
「乗らないといけないと思った」
蝶華の表情が変わった。
ほんの少しだけ、酒井の疑問もほどける。
「誰かに言われた?」
「ううん」
「何か見えた?」
「見えてない」
「危険を感じた?」
「むしろ危険って聞いてた」
「だよね」
答え合わせをするように、蝶華は酒井に質問する。
「じゃあ、なんで?」
酒井は考えた。
考えてみたけれど、やっぱり同じところへ戻ってきた。
「乗らないといけないと思ったから」
蝶華はしばらく黙っていた。
それから、
「……そっか」
と言った。
それだけだった。
酒井が横を見る。
「訊かないの?」
「何を?」
「理由」
「もう聞いたじゃん」
「説明になってないって言わない?」
蝶華は少し考えた。
「言っても出てこないでしょ」
「うん」
「じゃあいい」
「合理的だね」
「でしょ」
また二人で窓の外を見る。
しばらくして、蝶華が小さく言った。
「……あの子」
「ん?」
「酒井が乗ってなかったら、どうなってたんだろうね」
酒井は答えなかった。
少年が跳ぶ。
エレベーターが落ちる。
父親が扉を溶かす。
強く握られた手。
危険な人?子どもを守っている人?
いいや、どちらも同じ人だった。
「……知らない」
今の酒井には、それしか分からなかった。
電車は走る。
「酒井」
「なに」
「卒業旅行、楽しかったね」
「どこが?」
「お刺身おいしかった」
「それはそう」
「じゃあ楽しかったじゃん」
「旅行じゃなくて刺身がね」
「また行こう」
「やだ」
「なんで?」
不貞腐れたように蝶華は言う。
「蝶華といると、なんかあるもん」
「次はエレベーターないところにする」
「それなら考える」
「二階建て旅館とか?」
「階段あるじゃん」
「もう家にいなよ」
「それがいい」
蝶華が笑った。
酒井も緊張の紐がほどけたように笑った。
窓の外を、知らない町が流れていく。
蝶華はもう、何も訊かなかった。
あとがき/SD用語メモ
左遷
能力統制上の問題などを理由に、別の教育機関へ移されることを指す俗称。正式名称ではない。
蝶華は中等学校三年時にこれを経験している。何をしたかは、またいずれ。
一般負荷
運動、疲労、緊張など、日常生活でも起こりうる負荷をかけた状態で能力統制を行う訓練。
持久走も立派な一般負荷です。嫌ですね。