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第1章
第一章:彼女の名はレイン
グレイフォグ。この街には、晴れという概念がない。
高層ビルの輪郭すら霞ませる霧が、毎日、街を包み込んでいる。
空は常に灰色で、太陽が存在するはずの方向だけ、ほんの少しだけ明るい。それが朝か昼かを人々に知らせる唯一の手がかりだった。
街にはルールがある。人間らしい“感情”をあまり表に出してはならない。
怒り、悲しみ、歓喜……過剰な感情表現は“精神不安定”とみなされ、精神衛生局から警告が届く。必要なら矯正もされる。
その中で、誰よりも感情を持たない人間がいた。
レイン・ノヴァ。UGP——都市警備局、特異事件課所属。
年齢は不詳。顔は端正で、髪は銀色に近い灰。表情はいつも無表情というより「空白」に近い。言葉も抑揚がなく、目を見て話さない。
通称、“硝子の刑事”。
彼女のデスクに、警備局のオペレーターからの通知が届いたのは、午後14時23分だった。
画面には簡潔なテキストが表示されている。
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【第七居住区・無認可住宅エリア】
【死亡者発見|自殺・他殺判定:AI不可能】
【調査優先度:高】
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グレイフォグで起きる死のほとんどは、AIが処理する。
脈拍、体温、死因の自動解析、そして映像記録との照合によって、自殺か他殺かが即座に判断される。
だが、この件は違った。
レインは静かに立ち上がった。椅子を引く音すら、まるで機械のように正確だった。
黒いコートを羽織り、拳銃を確認する。だが、レインが武器を使う場面は少ない。彼女が事件を解決するのは、頭脳と冷静さ——そして感情を持たないことだった。
現場に向かう自動車両の中で、レインは目を閉じた。
「第七……あそこは、8年前と同じ場所だ。」
誰にも聞こえないような声で、そうつぶやいた。
彼女がUGPに入局したきっかけとなった、ある“未解決事件”。それが起きたのも、第七居住区だった。
車が停止した。霧の濃度が濃い。
建物の外には警備用ドローンがホバリングし、立入禁止の赤いホログラムラインが引かれていた。彼女はそれを無視して進む。認証は必要ない。彼女の虹彩がスキャンされると、ラインは自動で解除された。
部屋に入る。狭いワンルーム。カーテンは閉じられ、ベッドの上にひとりの男が倒れていた。
左手に、白い紙。
レインはそれを静かに取り上げる。達筆な手書きだった。
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「あなたも、この霧の中にいるの?」
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その言葉を見た瞬間、彼女の瞳が、一瞬だけ揺れた。
それは、誰にも知られてはいけない、“レインの記憶”を呼び起こす言葉だった。
→ 次章「第二章:霧の中の真実」に続く