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優等生と壊れかけの大人
放課後の教室は、夕陽に染まった静寂のオモチャ箱のようだった。
残された机と椅子が、まるで眠っているかのように整然と並んでいる。
最近はしっかり部活に行っている。
部活終わり、ロッカーに忘れ物をとりに教室の扉をそっと開けた。
何の目的もなく、ただ誰もいないはずの空間に引き寄せられた。
窓際の席。
教卓横の物置とかしている椅子に腰掛けて瀬野先生が、片肘をついてぼんやりと外を見ていた。
「……先生?」
声をかけようとしたが、口は開かなかった。
声に出したいのに、なんとなく出してはいけない気がして。
教卓でもなく、職員室でもない、こんな場所での先生の姿が、あまりにも“先生らしく”なかったから。
先生は何も言わなかった。ただ、夕陽に染まるグラウンドの向こうを、じっと見ていた。
その視線の先に何があるの。それを私は知らない。
けれど、先生のピンとした白いシャツの背中から何かが滲み出ていた。
疲れか、寂しさか、それとも。
「せんせ、何してるの?」
言葉は自然と出た。
先生は夢から覚めたようにはっ、とゆっくりとこちらを振り向く。
目元には、いつもと同じ冷静な光があったけれど、どこか揺れていた。
「なんだ、黒崎か。」
「何してたの?」
「…考え事」
それだけを言って、また目を逸らす。
「授業のこと、ですか?」
「いや。……ちょっと」
間があった。
私はただ黙ってその隣に立った。置き物の隣の空間なんて無いようで、気配をそっと消す。
教室にふたり。時間が止まっているみたいだった。
「なあ、黒崎さん」
名前を呼ばれて、私胸が小さく跳ねた。
先生の声は相変わらず落ち着いていたけれど、どこか遠くの音のように聞こえた。
「人はさ、誰かを救おうとするたびに、自分を見失うんだよ」
それは、ぽつりと零れ落ちた独り言のようだった。
でも、確かに、きっと。私に向けられていた、と思う。
「……ねえ、それって、先生のこと?」
返事はなかった。けれど、沈黙がすべてを肯定していた。
「何それ。……そんなの、ずるいじゃん」
ぽろっと言ってしまったその言葉に、自分でも驚いた。
でも、止まらなかった。
「先生は、いつも冷たくて、正しくて、優しくて、優等生みたいな完璧な大人で、
でも、でも、そうじゃなくって、ダメダメで、でも」
「そうじゃないんだなって、今初めて思った」
湊は、少しだけ口元を緩めた。
それが笑ったのか、苦笑いだったのかは私なんかにはきっと永遠にわからない。
「先生、壊れてどこかへ行っちゃいそう、」
そう言った私の声が震えていた。感情がぐらりと揺れていた。
こんなことを言いたかったんじゃ無い。先生が傷つくって薄々わかってるのに。
だから私も感情なんて大嫌いだ。
「…大丈夫。俺はもう壊れてるよ」
そう言った瀬野先生の言葉は、どこか優しくて、それがかえって胸に痛かった。
ごめんなさい、違う、そういうことじゃなくてね。なんて言えたら良かったのに。
でも私にそんな勇気も言葉も全部全部なかった。
また私は大事にしたかった人を傷つけた。
夕陽が窓から射し込んで、ふたりの影を長く伸ばしていた。
何も変わらない景色の中で、何かが確かに崩れて、そして繋がった気がした。
寝る前の寝室でふと文芸部の部室ノートの返事が浮かんできた。
感情って数学みたいに方程式で解けたらほんとに楽なのかな
→感情を公式に当てはめられ楽だと思うけど、
気持ちは計算じゃなくてただ流れていくものだと思う。
ごめんね、感情は数学みたいに答えがないから余計に難しいね。