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引き出しの奥の 僕と母
初めての小説・・!
1. 散らかった部屋と、冷たい数字
その日、直人(なおと)は実家の古い畳の上に座り
途方に暮れていた
一週間前、母が急逝した 心不全だった
あまりにも突然の別れで 涙を流す余裕すらなく 葬儀や手続きの波にのまれて今日に至る
見渡す限りの荷物 母が一人で暮らしていた二DKのアパート
直人が知る「実家」のままで 時が止まったようだった
「…さて、どこから手を付けるか」
直人はため息をつき、押し入れの引き出しを引いた
中から出てきたのは、何十冊もの古い家計簿と、
輪ゴムで束ねられた大量のレシートだった。
直人は東京のIT企業でデータアナリストとして働いている
彼の仕事は、数字を分析して無駄を省き、効率化することだ
そんな彼から見て、母の遺したレシートの山は、あまりにも非効率で、
無意味な紙切れの集まりに見えた。
「何年も前のスーパーのレシートなんて、取っておいてどうするんだよ、母さん…」
手早くゴミ袋に放り込もうとしたその時
一枚のレシートが目に留まった。
宛名は、直人が高校生だった頃の日付 十四年前のものだ
『惣菜:コロッケ(3個入) ¥298』
『レジ担当:斉藤』
その瞬間、直人の脳裏に、すっかり忘れていた記憶の断片がよみがえった
2 298円の記憶
十四年前。直人が高校二年生の秋、父が自己破産を宣告し、そのまま蒸発した
それまで裕福とは言えないまでも、不自由のない暮らしをしていた直人の生活は一変した
家を追われ、この狭いアパートに移り住み
母は昼も夜もパートを掛け持ちして働くようになった
当時、思春期真っ只中だった直人は
急激な貧乏といつも疲れて帰ってくる母の姿を受け入れられなかった
学校では周りの目を気にして、弁当が質素になったことを隠そうと
わざわざ一人で食べた。
ある日の夕食、食卓に並んだのは、スーパーの見切り品である冷めたコロッケだった。
直人は、イライラを抑えきれずに箸を叩きつけた
「またこれ? 友達の家はみんな、
ちゃんとした肉料理とか食べてるよ。なんでうちだけ毎日こんな貧乏くさい飯なんだよ!」
母は、小さく肩をすくめ、ただ「ごめんね、直人」とだけ言って、申し訳なさそうに微笑んだ
その、言い返してこない弱々しい態度が、なおさら直人の苛立ちを煽った。
それ以来、直人は母と口を利かなくなった
大学は奨学金とアルバイトで進学し、就職と同時に東京へ出た
仕送りも断り、盆や正月も「仕事が忙しい」と言い訳して、実家にはほとんど帰らなかった。
「あの頃、俺は本当に最低だったな…」
直人は苦笑し、レシートをゴミ袋に捨てようとした。
しかし、そのレシートの裏面に、かすれたボールペンの文字があることに気づいた。
母の、丸っこくて、少し右上がりの癖のある文字だった。
『直人、今日も塾で遅くなるって。コロッケ、大好物だから喜んでくれるといいな。もっとお肉買えなくてごめんね。明日は大根を煮よう。直人の笑顔が見たい』
直人の指が、ピクリと止まった
3. レシートの裏の「日記」
心臓がドクンと大きく波打った
直人は慌てて、ゴミ袋に入れかけていた他のレシートの束を引っ張り出し
輪ゴムを外した。 一枚一枚、裏を返していく。
そこには、日付と共に、母の短い言葉がびっしりと書き込まれていた。
『〇年5月12日
ノート、消しゴム、シャープペン芯。
直人が「勉強がんばる」って。嬉しい。お母さんもパートがんばるよ』
『〇年9月3日
鮭の切り身(半額)、キャベツ。
直人、最近あまり話してくれない。反抗期かな。背がまた伸びたみたい。
制服の袖、直してあげなきゃ』
『〇年1月15日
風邪薬、ポカリスエット、おかゆの材料。
直人が熱を出した。代わってあげたい。神様、どうかこの子の病気を治してください』
それは、家計簿ですらなかった。
それは、母が誰にも見せるつもりのなかった、直人への「育児日記」であり、「祈り」の
記録だった。
直人の目から、すっと熱いものが頬を伝った。
彼は床に膝をつき、夢中でレシートをめくり続けた。
数字しか書かれていないはずの冷たい紙切れが、母の体温を持って彼に迫ってくるようだった。
4. 最後の「お買い物」
レシートの束は、直人が上京した後の日付へと続いていた。
上京してからは、直人のための買い物は減っていた。しかし、代わりに別の言葉が増えていた。
『〇年4月1日
サバの味噌煮缶、食パン。
今日から直人は社会人。東京の満員電車、大丈夫かな。ご飯、ちゃんと食べてるかな。一人で寂しくないかな』
『〇年12月30日
みかん、お餅、そば。
今年は帰ってこないって。寂しいけれど、仕事が充実しているならそれが一番。体だけは壊さないでね。いつでも待ってるよ』
直人は声を詰まらせた
忙しい、時間がない
そう言って母からの電話をいつも数分で切り上げていた
自分の姿がフラッシュバックする
母は、この狭い部屋で、一人で、ただ自分を思いながらレシートの裏に言葉を紡いでいたのだ
そして、束の最後、一番上にあったレシート。
日付は、一週間前。母が亡くなった、まさにその日の午前中のものだった。
『レトルトカレー、ハンバーグ(冷凍)、高級な牛肉(すき焼き用)』
それは、一人暮らしの高齢女性が買うには、明らかに不自然な内容だった
裏を返すと、そこには今までになく力強い文字で、こう書かれていた。
『直人が、来週の週末、何年ぶりかに帰ってくるって電話をくれた!
すき焼きが食べたいって言ってたから、一番いいお肉を買ったよ。
部屋を綺麗にして、大好きなハンバーグも作って冷凍しておこう。
早く会いたいな。直人、気をつけて帰ってくるんだよ』
「あ……」
直人の口から、言葉にならない掠れた声が漏れた。
思い出した。亡くなる十日前、本当に気まぐれで
仕事の出張のついでに実家に寄ると、電話を入れたのだった
その時の母の、弾むような嬉しそうな声を、直人は適当に聞き流していた。
母は、この牛肉を買って、
直人が帰ってくるのを心から楽しみに待っていて――その日の夜、一人で旅立ったのだ。
5. 遺された温もり
台所の冷蔵庫を開けると、そこには厳重にラップに包まれた、
綺麗な霜降りの牛肉が入っていた。
そして冷凍庫には、手作りのハンバーグが丁寧に並べられていた。
「母さん……ごめん、ごめん、母さん……!」
直人は冷蔵庫の前で崩れ落ち、ついに声を上げて泣いた。
子供のように、声を震わせ、涙で視界をぐしゃぐしゃにしながら、何度も何度も謝った。
冷たい数字の羅列だと思っていたレシートは、
母が命を削って直人に注ぎ続けてくれた、無償の愛の証明書だった。
どれだけ冷たく当たっても、どれだけ突き放しても、
母の愛は一瞬たりとも途切れることはなかった。
夕方になり、窓から茜色の夕日が部屋に差し込んできた。
直人は涙を拭い、散らかったレシートを、一枚も失わないように、
大切に、大切に箱に収めた。
そして、冷蔵庫からすき焼き用の肉を取り出した。
「母さん、いただきます」
一口食べた肉は、涙の味がして、そして、驚くほど温かかった。
直人はもう、一人ではなかった。母の遺した無数の言葉が、
これからの彼の人生を、ずっと後ろから支え続けてくれるのだと、確信していた