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こ
アビス・マーティン
ファントムハイヴ邸・客間
部屋に漂うのは、前回のストックの甘い香りではなく、シエルが用意させた最高級のダージリンの香り。
そして、私たちの間には、チェス盤が置かれている。
「またお会いできて光栄だわ、ファントムハイヴ伯爵。」
「フン。わざわざ出向いてご苦労なことだ、コーラルウェル伯爵。」
シエルは前回よりもさらに冷徹な、だけどどこか私を深く値踏みするような視線を向けてくる。
ふと、シエルの目が、私の胸元でキラリと光る「深い紺色のブローチ」に留まった気がした。お忍びのお買い物で、メイベルとお揃いで買った私のお気に入り。
カラン、とシエルが先手を打つ。
「前回の非礼は水に流そう。だが、今回はまともな『商談』をしに来たんだろうな?」
「ええ、もちろん。我が領地で採れる特産品の流通ルートについて、貴方の意見が聞きたくてね。」
淡々と進む会話。
だけど、シエルの瞳の奥にある、あの傲慢さと聡明さの鎧の裏側が、前回とは少し違う。何かを確信しているような、そんな不敵な光。カツン、と私が駒を進める。
「……ジェーン・ドゥ。」
シエルが紅茶に口をつけながら、わざとらしくその名を呟いた。
「!!」
「ニ年前のあの凄惨な地獄から、たった一人で生身で生き残った怪物。」
「家族に存在を消され、地下に幽閉されていた異形の子。それがお前の正体か。」
「アイリス・コーラルウェル。」
心臓が、ドクンと跳ね上がる。調べられたのだ。私の過去を、私のすべてを。理解されない、人間ではないものを見るような目で見られる。そう思った。
「……そうよ。私は生き残りの怪物。それが何か?」
私はあえて冷たく微笑み、シエルを真っ直ぐに見つめ返した。
だけど、シエルの口元から溢れたのは、侮蔑ではなく、奇妙な同質感を孕んだ笑みだった。
「いや。鼠かと思えば、僕以上にしぶとい奴だと思っただけさ。……お前、僕に『幸せになってほしい』と言ったな。」
「ええ、言ったわ。」
「ふざけるな。僕には守るべきプライドがある。復讐のために全てを捨てて地獄から這い上がってきたんだ。同情など反吐が出る。……だが。」
シエルはそこで言葉を区切り、チェスのキングの駒を、私の目の前にトン、と力強く置いた。
「お前がただの有象無象ではないことは認めてやる。……名無しの怪物。僕に何を望んでいるのか、その商談、受けて立ってやる。」
「、、、フフっ。」
思わず、声を出して笑ってしまった。
やっぱり、この子に魅せられて正解だった。
自分と同じで、だけど決定的に違う、愛おしい高嶺の犬。
この鋭い牙で噛み付かれながら交わす商談なら、退屈な日常をいくらでも忘れさせてくれる。
「ええ、よろしく頼むわ。シエル。」
今度は突き飛ばされることもなく、私たちは静かに、だけど深く、お互いの歪な魂を繋ぎ合わせるように微笑み合った。
(……いや、部屋の外の廊下がマジで地獄なんだけど? 笑顔で『うちのお嬢様に不躾な真似をしたら首を跳ねますわ』ってオーラ出してる侍女頭と、『我が主人に近づく害虫は排除します』ってナイフ弄んでる執事が並んでて、俺生きて帰れる気がしないんだけど。 by.やっぱり荷物持ちで付いてこさせられたいつもの操縦士)