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序章
ソナタは途方に暮れていた。自室への戻り方がまったくわからなくなってしまったからだ。
きょろきょろとあたりを見回しても、眼前に広がるのはクリーム色の無機質な廊下ばかり。掲示も案内も何もなく、永遠に続くかと思われる通路の消失点は、ただの黒ずんだ丸でしかない。
きゅうっと、下腹の奥が引き絞られるような心地がした。手にじっとりと嫌な汗が滲んでいる。ソナタは唇を引き結び、きっと廊下のさきを見据えた。
とにかく、この廊下を抜けないことにはどうしようもない。抜けたさきが階段でも倉庫でもなんでもいい。とにかくここから出なければ。
四方の壁がじりじりと近づいてくるような錯覚に襲われつつ、ソナタは歩きだした。
ここ、コロニーでは、全員が基本的に個人主義である。
一日中ぶっ続けに眠っていても、揚げ物だけを苦しくなるほど食べても、誰もなにも言わない。たとえコロニー内で迷子になっている者がいても、誰も助けない。そもそもコロニーは果てしなく広く、誰もソナタがいないことに気づきすらしないのかもしれない。
コロニーはその中央階に広大なサッカースタジアムを備えた建築物で、その他の施設も不必要なまでの面積を持っている。しかし、外から見るとそれがどれだけの大きさなのか、それはソナタには分からない。もう久しくコロニーの外には出ていなかった。
ソナタがコロニーに『転移』されたのは一か月前のことだった。あれは彼の今までの25年間の常識では、まるで不可解な現象だった。
ソナタは『転移』される直前に、彼女を抱きしめていた。ベッドによりかかり、手のひらサイズの小さな観葉植物を両手で包んで愛でる彼女を、しっかりと抱いていた。夕食を終えて、テレビではバラエティ番組が放送されていた。なにもかも平和で、平凡で、幸せな週末だった。そのはずだった。
ソナタはふいに、ふっと、かるく浮きあがるような感覚に包まれた。
あれ、なんだろう、気のせいかな。
そう思うのとほとんど同時に、強烈な光が目を刺した。
それは眩しさを通り越して鋭い痛みをソナタにもたらし、ソナタは思わずきつく目を閉じた。そして、瞼のベール越しにも痛みを届ける光がようやく止み、ふたたび目を開けたときには、彼女はもう隣にはいなかった。
「ソラちゃん?」
ソナタは思わず彼女を呼んだ。そして、自室ではありえないほどに反響する自分の声に驚き、あたりを見渡した。そこでようやく、混乱が彼の頭をがつんと殴った。
そこたはとても広いスタジアムだった。足元には人工芝が敷かれ、両端にゴールがある。白く聳えたった、巨大なサッカーゴールだった。頭上はコンクリートが剥き出しになった天井で、強い光を放つ照明がいくつも取り付けられていた。
スタジアムの中には、ソナタの他に大勢の男がいた。全員が男で、女は1人もいなかった。といってもそれはこの直後に知らされたことで、そのときにはまだ、驚きと混乱に満ちた周りの顔を見渡したソナタに、やたらと男ばかりだな、という印象を与えただけだったのだが。
ソナタは首を回して周囲を確認しながら、不思議と冷静な自分を薄々感知しはじめていた。混乱は一度彼を襲ってから、奇妙な静けさをもたらして通りすぎていったようだった。
他の男たちもそれは同じだったようで、遅かれ早かれ、全員が少しずつ、ゆっくりと落ち着いていった。ざわざわと響いていた戸惑いの波が引き、最後にはくっきりと沈黙が落ちた。
スタジアムが静まりかえると、待ち構えていたように天井の一部に四角い穴が開き、そこから巨大なパネルが降下してきた。なにもかも巨大だ、とソナタは静まった頭でぼんやりと思った。
黒一色のパネルは降下しきるとがちりとロック音を立てて静止し、男たちが見上げる中、白いゴシック体の文字を表示した。それでソナタは次のことを知った。
ここはコロニーという建物であること。今いる場所は中央階のサッカースタジアムで、自分たちはこれからここで毎日サッカーをするのだということ。
ここにいるのは、日本国内のすべての都道府県から集められた男性たちであるということ。審査に次ぐ審査の末、自分たちが選ばれたこと。
ここにいる限り、衣食住の心配はいらないこと。
コロニーの外に出てはいけないこと。
これらのことを説明すると、文字は消え、パネルはゆっくりと上昇していった。
壁の穴にパネルが消えて、その穴もふたたび元のようになくなったのを見届けると、スタジアム内に次々と溜息が湧き上がった。
ソナタを含め、その場にいる全員がふぅっと息を吐いていた。彼らの頭にあるのは奇妙な納得感だった。
そうか。選ばれたのなら、仕方がないな。
ソナタは最早混乱のかけらもない澄みきった頭で、もう一度周りの顔ぶれを眺めた。
あかるい色の髪をみじかく刈りこんだ、目つきの悪い男がいた。
深い紺の上着を羽織った、理知的な顔立ちの男がいた。
肩まで伸びた髪を垂らし、ひかえめに周りをうかがう男がいた。
子犬のような丸い目をした、ジャージ姿の男がいた。
白に近い金に髪を染めた、顔も身体つきも端正な男がいた。
ロングコートを着込んだ男が、唇にピアスを開けた男が、ボクサーのような屈強な男が、様々な男がいた。年寄りも、中年も、青年も、少年もいた。彼らは皆一様に、気の抜けた表情でお互いを眺めあっていた。