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第11話:名前を呼ぶ場所
救急車のリアドアが開くと、冷たい秋の風が|新《あらた》の頬をなでた。
車椅子に移され、看護師と両親に付き添われて地面に降り立つ。そこは、一年前から僕の時計が止まったままの、何の変哲もない駅前の歩道だった。
「……ここだ」
新の声が震える。
視界に入る街路樹、信号機の音、行き交う人々。一年前、|永莉《えり》が通り魔に襲われ、命を落としたその場所は、驚くほど日常の中に溶け込んでいた。
あの日。
喧嘩をして、背中を向けて歩き出した僕を、彼女はどんな目で見送ったのだろう。
異変に気づき、振り返ったときには、彼女はもう血の海の中に倒れていた。
僕はただ、彼女の名前を叫ぶことしかできなかった。
「新、大丈夫か?」
父が背中に手を置く。新は深く頷き、車椅子の車輪を自分で回した。
アスファルトの上に、小さな花束を置く。
それは、二人が子供の名前に使おうとしていた「|莉《ジャスミン》」を模した、白い可憐な花だった。
「永莉。……会いに来たよ」
新は目を閉じた。
すると、脳裏に一年前の映像ではなく、病室で|陽葵《ひまり》ちゃんが笑っていた顔や、自分の本を読んでいた人々の姿が浮かんだ。
(ああ、そうか……)
新は気づいた。
永莉がこの場所で最後に残したものは、「痛み」や「怨み」ではなかったはずだ。
彼女が最期まで僕に伝えようとしていたのは、きっと「今、あなたと一緒にいられて幸せだった」という、一点の曇りもない愛だった。
「ごめんね、永莉。僕、一年間ずっと、君がいないことを呪って生きてきた。……でも、病気になって、君がどれだけ『今』を大切に思っていたか、やっとわかったんだ」
新は、花束の横に、自分が書き上げた本を一冊置いた。
「僕たちの子どもの名前、本にしたよ。……君が欲しがっていた『明日』は、僕がこの本に込めた。だから……もう、泣かないでいいよね」
その瞬間、風が強く吹き抜け、白い花びらが舞った。
まるで永莉が「ありがとう」と言って、新の髪を撫でたかのように。
新の身体を、激しい発作が襲った。
口から血が溢れ、視界が急激に暗くなる。
「新! しっかりしろ!」
両親の叫び声が遠のいていく。
救急車へ運び込まれる間際、新は最後に空を見上げた。
どんよりとした曇り空の隙間から、一筋の光が差し込んでいた。
(僕は……今を、生きたよ。永莉)
意識が途切れる直前、新の心は、かつてないほどの静寂と安らぎに包まれていた。
🔚