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揺ら揺れ、百合
子供の頃の私には、いわゆるイマジナリーフレンドが居た。自分にしか見えない、自分だけの友達、そういう存在が居た。
イマジナリーフレンドの出現には、トラウマが関係していると聞く事がある。しかし私には、特別な辛い事など、一つもなかった。学校には友達が居て、いじめなんてなかったし、家族仲も至って良好。虐待があった訳じゃない。それ以外にも、悲しい事なんて存在していなかった。でも、あの子は私の中で、空想上の友達として存在していた。はっきりとした事は忘れたが、今でもその事実だけは、しっかり覚えている。
しかし、彼女の名前は覚えていない。というより、頭の中に霧がかかっている感覚がして、どうにも思い出せないのだ。アから始まる名前で呼んでいたのは、うっすらと覚えているのだが、そこから分からない。何回も呼んだはずの名前なのに、まるで水に溶ける砂糖のように、スッと思い出せなくなっている。まあだが、ずっと名前が呼べないのは不便なので、ここでは便宜上、彼女をアンネと呼ぶ事にする。
五歳だか、六歳くらいの頃だったか、アンネはその時期らへんに、パッと現れた。だが、私が小学校低学年くらいの頃には、またもやパッと姿を消していった。あの子と過ごした数年間は、なんだかあっという間だったのを記憶している。
朝と昼は広い世界で生きる。そして夜は、黒色の空が青く染まるまで、お母さんが私を起こしに来るまで、夢の中でアンネと過ごす。アンネはいつも、私の夢で生きていた。
彼女は、可愛くて優しい、私よりも少し年上くらいの女の子だった、と思う。そう記憶している。アンネの横顔は、まるで海外のハリウッド女優のように、チャーミングで美しい物だった。その有り余るくらい大人びた顔立ちには、長い金髪がよく似合っていた。いや、オレンジ髪だっただろうか。はっきりとは思い出せないが、とにかくアンネは、明るい髪色をしている、笑顔が絶えない可愛らしい女の子だった。私は、アンネを大好きな友達だと思っていた。私達は、二人で色々な夜を過ごしていた。
アンネと過ごした夢の中でも、なぜか一際、覚えている夢がある。特別な事があった訳でもないし、それが最初の夢だった訳でも、最後だった訳でもない。しかし、あの風景だけは、今でもよく覚えているのだ。
アンネと私は、その夜、大きな草原の中に居た。少しくすんだ青で、子供部屋の天井のようなになっていた空。そしてその下には、またもやくすんだ緑色の草原と、私達が二人、立っていた。
「ねぇ、|飛鳥《あすか》。ここ、とっても風が涼しいわね」
笑顔のアンネが、確かそう言っていたと思う。うっすらと、それでいてはっきりと、こう聞き取れた。
彼女は、おそらくフランス人だった。いや、アメリカと言っていただろうか。どこの国なのか、詳細に覚えてはいないのだが、どこかの異国人だと自称していた。そして、アンネは日本語を話せなかった。というより、おそらく話していなかった。
しかし、なぜなのだろう。彼女の言葉を理解できなかった瞬間は無かった。喋られた言葉を、外国語だと受け取った事も無かった。私の耳と脳は、アンネの口から出てくる言葉の一つ一つを、私の母国語、つまり日本語だと解釈し、そうやって言葉を咀嚼していたのだ。夢の中だからできた芸当なのか、はたまた、イマジナリーフレンドだからできた芸当なのか。彼女が消えてしまった今となっては、証明のしようもないが、あの瞬間、私はアンネと、ファンタジー的に言葉を交わしていた、と思う。ちなみにだが、私は外国語なんて全く分からない。英語も苦手科目だ。
「そうだね、涼しい」
アンネの|溌剌《はつらつ》とした言葉に影響されるように、いつもとは少し違う口調で、私は口を開いた。子供の頃の私は、比較的大人しい子で、親の前でもあまり喋らない子だったと思う。しかし、アンネの前だけでは、夢の中だけでは別だった。親にも無い、なんらかの友好や愛情が、この秘密の二人の間だけでは、花の芽のように育っていたのだと思う。
「あ、飛鳥、あれを見てちょうだい! とても素敵な花畑よ。百合の花みたいね!」
そうやって育まれた花は、二人きりの夢路の中で、百合の花畑となって現れた。その花畑は、まさに圧巻、人間共が気圧される勢いと美しさを、存分に含んでいた。私は、この夢を含めた人生の中で、あれ以上に綺麗な畑を見た事が無い。花だけで言えば、高校卒業の時に見た桜の方が美しかったが、花畑部門では、あの百合達が一番だ。
「わ、ほんとだね。綺麗な百合の花畑だ」
私達は、喜んで百合の花畑まで駆けていった。二人で、小さく愛らしい手を繋ぎながら。映画やドラマやミュージックビデオのワンシーンみたいな、ロマンチックな時間、空間が広がっていたと思う。夢という、でたらめな三次元が広がる世界。そこで、私とアンネは、純粋に、純粋に輝いていた。その世界は、ノスタルジー的で儚いけれど、悲しさを纏わなかった。
「綺麗な百合がいっぱいだわ!」
映画のような口調で、アンネは大げさに喜んだ。私は、その笑顔が大好きだった。
「そうだね、とっても綺麗」
アンネの真っ直ぐな笑みに釣られて、私の口角も上がる。そんな時間が、恐ろしく楽しく、そして安心できる物だった。
草原の風は、アンネの明るげな長髪と、花畑の百合を揺らした。揺ら揺ら、揺ら揺ら、揺れろ揺れろ、揺る揺る、揺んでけ、百合と笑顔が、揺ら揺らり。緩やかに揺れろ、揺ら、揺れ、百合。
詩的で、美的で、刹那的。そんな一夜の夢だけを、今もずっと覚えている。他の夢は記憶にないのに、これだけをずっと覚えているのは、百合の花畑が巨大だったからだろうか、それとも、アンネがあまりにも美しかったからだろうか。
それとも、風が涼しかったからだろうか。