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第6話:削り取られる砂時計
|新《あらた》の病室の机には、日に日に原稿用紙が積み重なっていった。
タイトルはまだない。けれど、そこには新と|永莉《えり》が夢見た景色が、色鮮やかな言葉となって息づいていた。
「……っ、う……」
不意に、右手に力が入らなくなる。ペンが指の間から滑り落ち、カランと虚しい音を立てて床を転がった。
|《るび》新はそれを拾おうとしたが、身体が言うことを聞かない。視界が白く霞み、心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに打ち鳴らされる。
「新さん、無理をしてはいけません」
回診に来た主治医の松本が、床のペンを拾い上げ、サイドテーブルに置いた。その目は、憐れみよりも厳しい現実を物語っていた。
「検査の結果、腫瘍が神経を圧迫し始めています。……新さん、これ以上の執筆は、命を縮めることになります。今日から、痛みを抑えるための鎮静剤の投与量を増やしましょう」
「……それをしたら、僕は眠ってしまうんですよね」
新は、掠れた声で問い返した。
鎮静剤を増やせば、痛みは和らぐ。けれど、意識は混濁し、思考は霧の中に消えていく。それは、物語を書くための「言葉」を失うことを意味していた。
「意識がある時間は、一日のうち数時間も保てなくなるでしょう。ですが、今のあなたの苦痛を考えれば――」
「嫌です」
新は、はっきりと拒絶した。
一年前、永莉を失った時の自分なら、迷わず眠りを選んだだろう。そのまま二度と目が覚めなくてもいいとさえ願ったはずだ。
けれど、今は違う。
「先生……。僕には、どうしても書き上げなきゃいけないものがあるんです。これを書き終えるまでは、僕に『今』をください。……たとえ、どれほど痛くても」
松本医師は、深くため息をつき、静かに部屋を出て行った。
残された静寂の中で、新は自分の左手で、動かなくなった右手を強く握りしめた。
窓の外では、|陽葵《ひまり》が中庭でリハビリをしているのが見える。彼女は、新が書いている物語の続きを、心から楽しみに待っている。
そして何より、この物語を書き進めるほどに、新は永莉を近くに感じていた。
(永莉。君は、こんなに苦しい思いをして、僕を置いていったのか)
通り魔に襲われた瞬間、彼女が何を感じたのか。
恐怖か、痛みか。それとも、僕に会えなくなる悲しみだったのか。
一年前は想像するだけで発狂しそうだったその光景が、今は、同じ「死」の瀬戸際に立つ新にとって、不思議と静かな対話のように感じられた。
「……ごめんね、永莉。僕、君がどれだけ『明日』を欲しがっていたか、全然わかってなかった」
新は震える手で再びペンを握った。
一文字、また一文字。
それは、自分の命という名の砂時計から、砂を一粒ずつ取り出して紙に塗りつけるような作業だった。
夜が更け、病棟が静まり返る中、新は必死に意識を繋ぎ止めていた。
物語の中の『新太』と『永美』は、今、二人が行きたかったあの金木犀の咲く公園にたどり着こうとしている。
「……あと、少し……。あと少しだけ……」
新の目から、一筋の涙がこぼれ、原稿用紙の端を濡らした。
「いつか」なんて来ない。
「今」しかないのだ。
その残酷で美しい真理が、新の指先を、痛みを越えて動かしていた。
🔚