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第1章 終わらないチャイム
パイモン
拓真はいつものように、制服のポケットに手を突っ込みながら校門をくぐった。
朝の光が柔らかく校舎を照らしている。
鳥のさえずりと、遠くで聞こえる同級生たちの笑い声がいつもの日常を彩っていた。
「おはよう、拓真!」
友人の健太が満面の笑みで声をかけてくる。
「おう、おはよう」
拓真も自然と笑顔を返した。クラスメイトたちと過ごすこの日常に、何の不安も恐怖もなかった。
教室に入ると、机の上には今日の時間割とノートが並んでいる。教師の声が廊下の向こうから聞こえ、いつもの時間割通りに授業が始まった。
だが、ふと窓の外に目をやると、時計の針が止まっていることに気づく。
ほんの数秒だったはずなのに、なぜか時間が止まったような奇妙な感覚に襲われる。気のせいかもしれないと、拓真は目を閉じて深呼吸した。
しかし、昼休みが近づくと、校内に「チャイム」が鳴り響き始めた。だがそれはいつもと違い、途切れることなく、途方もなく長く、終わらない音だった。
最初は気にも留めなかったが、次第にその音は耳に重くのしかかり、胸の奥に冷たい違和感を植え付けていった。
誰もその異常なチャイムに反応しない。拓真だけが、その音の中に何か不穏なものを感じ取っていた。
彼は周囲を見回すが、クラスメイトたちは普段通り、笑い合い、談笑している。しかしその笑顔はどこか無表情で、どこか空虚に見えた。
拓真は胸騒ぎを覚えながら、時計の針を見る。すると、時間は確かに動いているようだったが、妙にゆっくりと進んでいるようにも感じられた。
「これは……一体、どういうことなんだ?」
その瞬間、教室のドアが静かに閉まった音がした。
振り向くと、廊下はいつもと変わらぬ様子に見えたが、どこか空気が淀んでいるように感じられた。
拓真は胸のざわめきを押し殺し、机に突っ伏した。終わらないチャイムの音は、彼の心の奥底に小さな恐怖を芽生えさせていた。
時間がゆっくりと流れているのか、あるいは止まっているのか、拓真にはもうよく分からなかった。
ただ、チャイムの音は途切れることなく教室の中に満ち続けている。
誰もその音に反応しない。笑っているはずのクラスメイトたちの表情は、どこか虚ろで、目が合ってもすぐに逸らされてしまう。いつもの賑やかな雰囲気は消え失せ、まるで影のように静かに、冷たく空気が凍りついているようだった。
拓真は無意識のうちに手のひらを握りしめていた。胸の奥に、まるで何かがじわじわと浸透してくるような違和感が広がる。
ふと、廊下の方から小さな声が聞こえた。
「……あのチャイム、止まらないね」
振り向くと、隣の席の美咲がぼんやりと遠くを見つめている。
彼女の瞳には普段の輝きがなく、どこか遠くにいるような、虚ろな光が宿っていた。
「美咲……大丈夫か?」
拓真は声をかけるが、美咲は小さく首を振るだけだった。
その時、教室の窓の外に視線を向けると、空がまるで溶けていくかのようにぼやけて見えた。遠くの校舎の輪郭が揺らぎ、風景がどこか歪み始めている。
「おかしい……こんなはずじゃない」
拓真の心は次第にざわめき、不安と恐怖が入り混じった感情が膨れ上がっていった。
放課後のチャイムが鳴るはずの時間も、チャイムは止まらなかった。時間が引き伸ばされるような、終わらない繰り返しのような感覚に拓真は囚われていく。
その夜、家に帰った拓真は、ふとスマートフォンを手に取り、校内の異変をSNSで調べようとした。だが、同じ学校の生徒たちからは何の書き込みもなく、まるで「終わらないチャイム」の存在が誰にも認識されていないかのようだった。
拓真の不安は膨れ上がる。
「俺だけが、この音に囚われているのか……?」
彼は寝室の窓の外に目をやった。遠くから微かにチャイムの音が聞こえてくる。
どこまでも続く、不気味な鐘の音。
眠れぬ夜、拓真は目を閉じるたびにあの音に包まれていた。
翌朝、拓真はいつもより早く目を覚ました。まだ薄暗い部屋の中で、彼はじっと耳を澄ました。だが、家の中は静まり返っていた。チャイムの音は聞こえない。
「昨日のあれは、ただの夢か……?」
しかし、学校へ向かう途中、校門をくぐった瞬間から、再びあの音が耳に入ってきた。
「カン、カン、カン……」
途切れることのない、無機質で冷たいチャイムの音が校舎の中に鳴り響いている。
拓真は立ち止まった。周囲の生徒たちは普段通りに笑い、話し、急ぎ足で教室へ向かっている。誰もチャイムの異常に気づいていないのだ。
「なんで俺だけ……」
教室に入ると、空気が昨日以上に重く感じられた。窓の外を見ると、曇り空の向こうに校庭の風景がぼんやりと揺れている。風もないのに、木々の影が揺れ動いているように見えた。
授業が始まると、先生の声がどこか遠くでこだましているようだった。まるで声の輪郭が溶けて、時間が歪んでいるように感じられた。
昼休み、拓真は一人で校舎の裏手へと足を向けた。人気のない場所で、あの終わらないチャイムの音が少しでも遠ざかればと思ったからだ。
だが、校舎裏の静けさの中で、チャイムの音はむしろはっきりと強く聞こえた。
「どうして……こんなに近くで」
不意に、風に乗って微かな人の話し声が聞こえた。振り返ると、誰もいない。だが声は続き、まるで遠い過去の教室のざわめきのように、拓真の耳をくすぐった。
「こんなことが本当に起きているのか?」
拓真は背筋が凍るのを感じた。
教室に戻ると、同級生の佐藤がぼそりとつぶやいた。
「昨日から、ずっとこのチャイム、止まらないな……」
拓真は驚き、佐藤の目を見たが、彼の表情もまたどこか遠くを見つめるようで、意味深なものだった。
夕暮れ時、チャイムの音がいつもより少しだけ弱くなった瞬間、教室の時計の針が異様に早く動いた。秒針が異常に速く回り、時刻が狂っていく。
拓真はその異変を見逃さず、目を凝らした。だが、それはすぐに収まり、チャイムの音は再び無情に鳴り続けた。
「時間がおかしい……何かが壊れてるんだ」
そう確信した拓真の心は、静かに、しかし確実に追い詰められていった。
夜になっても、拓真の部屋にはあのチャイムの音が微かに響いていた。
眠ろうとしても、耳の奥であの冷たい鐘の音がこだまし、心がざわついて眠れない。
布団の中で目を閉じると、過去の出来事が頭をよぎる。
友人と笑い合った日々、何気 ない学校の風景――それらがまるで遠い夢のように感じられた。
翌朝、学校に向かう途中、拓真はふと足を止めた。
道沿いの木々の影がいつもより長く、どこか歪んで見えた。風もないのに、葉がざわざわと揺れている。
「気のせいか……」
校舎に入ると、いつもの活気は薄れ、空気は重く、冷たかった。
教室の中ではクラスメイトが黙々と机に向かっている。笑い声は消え、まるで無言の規律に従っているようだった。
拓真は居心地の悪さを感じながら、自分の席に着く。だが、その瞬間、教室の照明が一瞬だけ消え、すぐに点いた。周囲の生徒たちは何も気にしていないようだったが、拓真の心臓は大きく跳ねた。
そしてまた、あの終わらないチャイムが鳴り響く。いつもより一層、冷たく、遠くから響くような音だった。
休み時間に廊下へ出ると、窓の外の風景が妙に揺らいでいた。遠くの体育館がぼんやりと歪み、建物の影が微かに伸び縮みしているように見えた。
拓真は息を呑み、その場に立ち尽くす。周囲の音がすべて遠のき、チャイムの音だけが明瞭に響いていた。
その時、背後から小さな声が聞こえた。
「ねぇ、拓真……君も聞こえるの?」
振り返ると、美咲がそこに立っていた。彼女の瞳はまだ虚ろだったが、かすかに不安が滲んでいる。
「何のことだ?」拓真は問い返す。
「チャイム……ずっと鳴ってるの。止まらないのよね……」
二人は言葉少なに互いを見つめ合った。何か言いたいことがあるようで、しかし口に出せない。
教室に戻ると、佐藤が廊下の壁に寄りかかっていた。彼もまた、いつもの軽やかな様子はなく、疲れ切った表情をしている。
拓真は彼に近づき、声をかけた。
「佐藤、お前も……あのチャイム、気になってるのか?」
佐藤は小さくうなずいた。
「うん、ずっと鳴ってる。止まらない。だけど、誰も話さないんだ。まるで、俺たちだけが違う世界にいるみたいだ」
拓真は胸の中で何かが重く沈んでいくのを感じた。
周囲の誰もが普通の顔をしているけれど、その「普通」が狂っていることに気づいているのは自分たちだけなのかもしれない。
夕方になり、学校を出る頃、チャイムの音はさらに静かに、しかし確実に周囲の空気に染み込んでいた。
拓真は足早に家路を急ぐ。何かが変わり始めている。自分の知らない何かが、確実にこの学園を、そしてこの世界を蝕んでいるのだ。
彼の胸に、終わらないチャイムの重く冷たい響きが、深く刻まれていく。
家に帰っても、拓真の耳にはチャイムの音が鳴り響いていた。部屋の中は静かだが、その静けさが逆に音を際立たせているように感じられた。
ベッドに身を横たえ、目を閉じると、まるでチャイムの音が自分の鼓動と同期しているかのように感じられ、呼吸が浅くなった。
「こんなこと、現実じゃないはずだ」
そう自分に言い聞かせても、心の中のざわめきは消えなかった。
翌朝、拓真はいつもの通学路を歩きながら、周囲の風景に目を配った。だが、道端の花の色がいつもより薄く、空の青さがどこかくすんで見えた。
学校に近づくにつれ、胸の奥に冷たい違和感が広がっていく。
校門をくぐると、チャイムの音が再び無限に鳴り続けていた。
だが、今日はその音が遠くから響いてくるようで、まるで学園のどこかから湧き上がる霧のように、空気全体を覆っているように感じられた。
教室に入ると、クラスメイトたちは誰も目を合わせようとせず、言葉少なにそれぞれの席に着いた。笑い声は消え、重い沈黙が教室を支配していた。
拓真は自分の机に腰を下ろしながら、視線を上げた。窓の外、遠くの校庭がぼんやりと揺れ、まるで時間がゆっくりと溶けているかのように見えた。
教師が授業を始める声も、どこか機械的で遠いものに感じられた。時計の針はいつもより遅く動いているようで、教室の中の時間の感覚が狂い始めていた。
休み時間、廊下に出ると、クラスメイトの姿はまるで人形のように動いていた。言葉は交わさず、ただ機械的に廊下を歩き回っている。
拓真はそんな彼らを見つめながら、次第に自分がこの世界から浮いてしまっているような感覚に襲われた。
「誰も気づいていない……俺だけが、違う場所にいるのか」
心の中の孤独感がじわじわと広がっていく。
放課後、拓真は校舎の隅にある古い倉庫の前に立っていた。何か答えがそこにあるのではないかと思い、恐る恐る扉を押し開ける。
中は埃っぽく、長い間使われていない様子だった。だが、そこに漂う空気はどこか不自然で、拓真の心をさらに重くさせた。
倉庫の奥で、かすかにチャイムの音が反響している。音の源を探しながら歩いていると、突然、背後から冷たい風が吹き抜け、拓真の肌を震わせた。
振り返っても誰もいない。
拓真は息を呑み、目を見開いた。
その瞬間、倉庫の中の時計が激しく震え、秒針が狂ったように回り始めた。チャイムの音も一層大きく、鋭く響いた。
拓真は思わず目を閉じ、耳を塞いだ。
「……お願い、止まってくれ」
しかし、チャイムは止まらない。
拓真の世界は、終わらないチャイムの音に取り込まれ、徐々に崩れ始めていた。
拓真は倉庫の中の異変から戻り、教室の席に座った。体は重く、頭の中は混乱していた。チャイムの音は相変わらず鳴り響き、まるで彼の心を押し潰すように響いていた。
窓の外、夕焼け空が赤く染まり、影が長く伸びていく。だが、その影がまるで動いているかのように見えた。拓真は目を凝らしたが、それは錯覚のようにも感じられた。
「こんなこと、ありえない」
心のどこかでそう叫びたい気持ちを押し込め、拓真はただじっとしていた。
教室の時計の針は、ゆっくりと、しかし確実に進んでいる。しかし、その時の感覚はまるで違った。時間が止まってしまったかのような錯覚が、彼の意識を捕らえた。
「終わらないチャイム……これが何かの始まりなら、いったい何が待っているんだ?」
拓真は静かに目を閉じ、深く息を吐いた。
そのとき、教室のドアがゆっくりと軋む音を立てて開いた。振り返ると、廊下には誰もいなかった。
だが、その空間に漂う空気がいつもと違っていた。冷たく、重く、まるで何かがじっと見つめているような気配がした。
拓真は震える手で鞄を握り締め、立ち上がった。心臓の鼓動が耳に響き、頭の中でチャイムの音がより一層大きく鳴り響く。
その瞬間、彼ははっきりと感じた。
「このままでは、俺は……」
しかし、言葉は続かなかった。代わりに、チャイムの音だけが冷たく、永遠に鳴り響いていた。