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明日、君がいなくなる前に
駅前の小さな喫茶店には、不思議な噂があった。
雨の日の午後5時に店を訪れると、会いたい人に一度だけ会えるらしい。
ただし、その人が自分のことを覚えているとは限らない。
私はその噂を信じていなかった。
……今日までは。
カラン、コロン。
喫茶店の扉を開けると、どこか懐かしいコーヒーの香りがした。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうにいたのは、白髪交じりの店主だった。
「窓際のお席へどうぞ。今日は、特別なお客様がいらっしゃっていますから」
意味が分からず首をかしげながら、私は窓際の席に向かった。
そこには、ひとりの男の子が座っていた。
黒い髪。少し垂れた目。左の頬にある小さなほくろ。
忘れるはずがなかった。
「…………悠真?」
男の子は顔を上げた。
そして、不思議そうに私を見つめた。
「えっと……俺のこと、知ってるの?」
心臓が嫌な音を立てた。
悠真は三年前に亡くなった。
私を助けるために、交通事故に遭ったのだ。
あの日、私は彼に言った。
『もう二度と、私の前に現れないで』
喧嘩の勢いで口にした、最低な言葉。
それが最後の会話になるなんて、思ってもいなかった。
「………冗談、やめてよ」
震える声で言うと、悠真は困ったように笑った。
「ごめん。人違いじゃないかな」
その笑顔まで、あの日のままだった。
私は彼の向かいに座った。
「ねえ、私のこと本当に覚えてないの……?」
「うん。ごめんね」
「そっ、か……」
泣きそうだった。
会いたかった。
謝りたかった。
あの日の言葉を、取り消したかった。
でも、目の前の彼は私を知らない。
私だけが三年間、あの日に取り残されていた。
「ねえ」
悠真が口を開いた。
「君は、どうしてそんなに悲しそうなの?」
「……好きな人に、ひどいことを言っちゃったから」
「その人は、今どこにいるの?」
「……もう、いないよ」
「そっか」
悠真はテーブルの上のコーヒーカップを見つめた。
「じゃあ、もう伝えられないんだね」
「うん……」
「それは、つらいね」
私はうつむいた。
すると、悠真がポケットから小さな紙切れを取り出した。
「これ、さっき店員さんにもらったんだ」
紙には、こう書かれていた。
『会える時間は、残り5分です』
「……5分?」
「うん。なんだかよくわからないけど」
悠真は笑った。
「君と話せてよかったよ」
その言葉に、私は顔を上げた。
「ねえ、悠真」
「うん?」
「私、あの日……」
言葉が喉につかえた。
ごめんなさい。
大好きだった。
行かないでほしかった。
伝えたいことは、山ほどあった。
……なのに。
「……会えて、嬉しかった」
口から出たのは、それだけだった。
悠真は少し驚いたあと、優しく笑った。
「……俺も」
窓の外で、雨が強くなった。
時計の針が、午後5時59分を指す。
悠真の姿が、少しずつ透けていく。
「待って!」
私は思わず立ち上がった。
「最後にひとつだけ、聞いてもいい?」
「うん」
「もし、もう一度会えたら……私のこと、好きになってくれる?」
悠真はしばらく黙っていた。
それから、少し照れたように笑った。
「それは、無理かもしれない」
「………そっか」
「だってさ」
彼は、消えかけた手で私の頭をそっと撫でた。
「俺、今日会う前から、君のことが好きだった気がするんだ」
次の瞬間、彼の姿は消えていた。
テーブルには、冷めたコーヒーが2つ。
そして、小さな紙切れが1枚。
裏返すと、見覚えのある文字で、こう書かれていた。
『今度は、ちゃんと笑ってね』
私は泣いた。
声を上げて、小さな子どもみたいに泣いた。
それでも、不思議と胸は苦しくなかった。
店を出ると、雨は上がっていた。
空の向こうに、薄い虹がかかっている。
私は携帯を取り出し、三年間、一度も開けなかった悠真とのメッセージ画面を開いた。
最後のメッセージは、事故の前日に届いたものだった。
『明日、話したいことがある』
私はずっと、その続きを知りたかった。
けれど今は、もういいと思えた。
伝えられなかった言葉があっても。
取り戻せない時間があっても。
好きだった気持ちまで、なくなるわけじゃない。
私は画面を閉じ、空を見上げた。
「……ありがとう、悠真」
そのとき、携帯が震えた。
知らない番号から、一通のメッセージが届いていた。
『ちゃんと笑ってる?』
息が止まった。
慌てて画面を見直す。
けれど、送り主の名前は表示されていなかった。
私は空を見上げたまま、涙を拭った。
そして、三年ぶりに笑った。
「うん。ちゃんと笑ってるよ……!」
返信をすると、画面に小さな文字が浮かんだ。
『よかった』
それが、本当の最後だった。
翌日、私はもう一度、あの喫茶店を訪れた。
けれど店は跡形もなく消えていて、そこには古びた空き地があるだけだった。
近くの花屋のおばあさんに尋ねると、彼女は不思議そうな顔をした。
「あそこにはね、昔、小さい喫茶店があったんだよ。でも、三年前に閉店してしまってね」
「………三年前?」
「そう。店主さんが亡くなってしまったから」
私は空き地を見つめた。
風が吹き、足元に1枚の紙切れが転がってきた。
拾い上げると、そこには見覚えのある文字があった。
『明日も、笑っていてね』
私は紙を胸に抱きしめた。
そして、今度こそ前を向いて歩き出した。
だって、明日も生きていくことが、私にできる唯一の返事だから。
結構お気に入りです!