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守りの神
その国の滅亡は、意外なほど静かに始まった。
雷鳴もなく、鬨の声もない。
ただ城下を覆う朝靄が、いつもより少しだけ重かった。
侍女の名は小夜(さよ)といった。
齢は二十に届くか届かぬかで、鏡に映る自分の顔を見ても、
そこにあるのが若さなのか疲労なのか、判然としない年頃であった。
彼女は主君の姫に仕える身であり、毎朝、白粉を溶き、
黒髪を梳き、何事もなかったかのように一日を始める役目を負っていた。
だがその朝、城の奥に据えられた奇怪な装置。
人々が「御神影」と呼ぶ巨大な鉄の躯体が、低く唸り声を上げた。
赤子の泣き声にも似たその振動は、畳の下から小夜の足裏へ伝わり、
彼女の胸に、理由の知れぬ不安を植えつけた。
御神影は、先代の御代に異国の技師が献上したものだという。
鉄と硝子で組み上げられ、武者の姿を模し、災厄の折には動き出すと噂された。
誰も実際に動くところを見た者はいない。
ただ、動かぬからこそ人々は信じ、信じるがゆえに畏れた。
小夜は畏れていた。それが災厄を防ぐためのものか、
それとも災厄そのものなのか、わからぬからである。
姫はまだ眠っていた。
障子越しの呼吸は規則正しく、滅亡の予兆など夢にも見ていない様子であった。
小夜はその寝顔を見下ろしながら、ふと幼い日のことを思い出した。
父は城下の鍛冶で、鉄屑にまみれながら働いていた。
鉄は人を守る、と父は言った。
しかし鉄はまた人を殺す、とも。
正午近く、城に急使が駆け込んだ。
敵国の軍勢が国境を越え、既に三里のところまで迫っているという。
家臣たちは色を失い、廊下を走り、声を荒げた。
だが姫は静かであった。
ただ一言、「御神影を」と命じただけである。
そのとき、地が震えた。
御神影が、初めて立ち上がったのである。
鉄の関節が軋み、古い神仏のごとくゆっくりと腕を上げる。
その姿は壮麗であると同時に、ひどく滑稽でもあった。
小夜は思った。
あれは守り神ではない。人が作った、人に似せた、空虚な影だと。
御神影は城門を出て、敵軍の方角へ歩み始めた。
人々は歓声を上げ、涙を流し、これで国は救われると信じた。
信じるほか、なす術がなかったのである。
しかし、夕刻になっても戦の報は届かなかった。
代わりに届いたのは、御神影が暴走し、
城下を踏み潰しているという知らせであった。
鉄の巨躯は敵味方の区別なく動く。
家屋を砕き、人を払いのけ、ただ前へ前へと進んでいるという。
小夜は城の櫓から、その光景を見た。
夕焼けの中、炎と煙の向こうで、
御神影はまるで意思を持つかのように腕を振るっていた。
否、意思などない。ただ止まれぬだけなのだ、と小夜は悟った。
姫はその夜、短刀を取った。
国の終わりを悟った者の、静かな決意であった。
小夜は止めなかった。止める言葉を、持たなかった。
夜半、城は落ちた。
敵兵がなだれ込み、火が放たれ、悲鳴が重なった。
小夜は姫の亡骸を背に負い、密かに城を抜け出した。
外には、御神影が倒れていた。
膝を折り、首を垂れ、まるで祈る姿にも見えた。
鉄は冷たかった。
触れても、もはや何も動かない。
夜明け、小夜は振り返らずに歩き出した。
国は滅び、主も失い、侍女である意味も消えた。
ただ一つ、胸に残ったのは、あの鉄の影であった。
人が信じ、託し、そして裏切られた影。
人は、滅亡の責を神や鉄に押しつける。
しかし本当は、信じた己の弱さを見まいとしているだけではないか。
小夜はそう思いながら、名もなき道を進んでいった。
朝日は、何事もなかったかのように昇っていた。