公開中
あのひと
駅前のロータリーは、雨が降るたびに昔の匂いを思い出させた。アスファルトに滲んだ排気ガスと、コンビニの揚げ物の油、それから湿った制服の布地の匂い。高校生だった頃、私は毎週金曜の夕方、この場所で彼を待っていた。十五分遅れて来るのが常で、走って現れた彼は決まって「ごめん」と笑った。謝っているくせに、どこか嬉しそうだった。私はその笑顔を見るのが好きだった。だから待つ時間も、嫌いではなかった。三十二歳になった私は、その駅前に立っていた。改札の電子音は昔より軽くなり、駅ビルは建て替えられ、パン屋はドラッグストアに変わっていた。それでも、雨の日の匂いだけは変わらない。スマートフォンが震えた。『久しぶり。着いた?』表示された名前を見て、喉の奥が静かに詰まる。――――|篠崎《しのさき》|悠人《ゆうと》。高校時代、三年間付き合っていた人。大学進学を機に離れ、就職してからはほとんど連絡も取らなくなった。最後に会ったのは、もう十年近く前になる。『今着いた』短く返す。送信した瞬間、なぜ会う約束をしてしまったのだろうと思った。先月、同級生の結婚式で偶然彼の名前を聞いた。「悠人も今こっちに戻ってるよ」と誰かが言った。その夜、酔った勢いでメッセージを送ったのは私だった。『久しぶり。元気?』たったそれだけ。そこから数往復して、気づけば「今度会おう」という流れになっていた。本当は、会いたかった。ずっと。だけど、会いたかったのは“今の彼”だったのかと聞かれると、自信がなかった。「……|真尋《まひろ》?」声がした。振り返る。そこには、記憶より少しだけ背中の丸くなった彼がいた。コートの肩に雨粒を乗せ、昔より短い髪で、昔より静かな目をしている。「あ、久しぶり」私は笑った。ちゃんと笑えたと思う。彼も笑い返した。でも、その笑顔は私の知っているものと微妙に違っていた。居酒屋は混んでいて、私たちは奥の狭い席に通された。「何飲む?」座席に座りながら悠人がいう。私は「ビールで」と、ぎこちなく返す。「おっさんくさいな」「そっちこそ」そんな軽口を交わしながら、私はずっと違和感を抱いていた。悠人は優しかった。昔よりずっと穏やかで、話し方も落ち着いていた。仕事の話をして、親の介護の話をして、最近腰が痛いなんて笑った。知らない人みたいだった。いや、知らない人なのだ。十年も経てば当然だ。それなのに私は、どこかで高校時代の彼を探していた。くだらないことで笑って、カラオケで音程を外して、将来なんて何も決まっていないくせに「なんとかなる」と言い切っていた、あの頃の彼。「真尋は結婚しなかったんだ」「うん」「意外だな」「そう?」「もっと早く誰かと結婚するタイプかと思ってた」そう言った彼の声に、昔みたいな熱がなかった。昔の彼なら、そんな話をすると少し不機嫌そうな顔をした。他の男の影を勝手に想像して、拗ねていた。私は、そんな面倒くさいところまで好きだった。「悠人は?」「去年、離婚した」「あ……ごめん」「いや。別に」彼はジョッキを傾けた。泡が少し口元に残る。昔はそんな飲み方しなかったな、と思う。何を見ても、「昔は」が先に来る。私はずっと比較している。今の彼を、過去の彼と。店を出る頃には、雨は止んでいた。濡れた道路にネオンが滲み、夜風は少し冷たい。「送るよ」「近いから大丈夫」「そっか」駅まで並んで歩く。沈黙は不思議と苦ではなかった。でも、埋まらないものが確かにあった。改札の前で、彼が立ち止まる。「会えてよかった」彼が言った。「……うん」「真尋、変わってないな」私は少し笑った。「変わったよ、さすがに」「いや、なんていうか」彼は言葉を探すように視線を泳がせた。「笑う時の顔が、高校の頃と同じだった」その瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。たぶん彼も、探していたのだ。今の私の中に、昔の私を。そしてきっと、少しだけ見つけてしまった。「ねえ」気づけば、私は口を開いていた。「私たち、多分さ」「うん?」「会いたかったの、“今の私達”じゃないと思う」彼は黙った。否定しなかった。「もう一回会いたかったのは、あの頃の——」言い切る前に、喉が震えた。高校二年の冬、雪の日に手を繋いだ彼。受験帰りに缶コーヒーを半分こした彼。未来を信じていた彼。そして、その隣にいた私。「……あの時の、私たちなんだと思う」悠人はしばらく何も言わなかった。やがて、小さく笑った。「そうかもな」その笑い方だけ、一瞬だけ昔に戻った気がした。だから余計に苦しかった。もう戻れないと分かってしまうから。電車がホームに滑り込む音がする。「じゃあ」「うん。また」“また”が本当に来ないことを、たぶんお互い分かっていた。彼は改札を抜けた。私はその背中を見送った。呼び止めなかった。もしここで「やり直そう」と言われても、きっと違うと思ったから。私が好きだった彼は、今の彼の中にはもういない。同じ顔をしていても、同じ声でも、時間は人を別人に変えてしまう。そして私もまた、彼の知る“あの頃の私”ではない。ホームへ向かう階段を上りながら、私はふと思った。人はたぶん、誰かに会いたいのではない。その人といた頃の、自分に会いたいのだ。無防備で、未熟で、何も失っていなかった頃の。電車が来る。扉が開く。乗り込む直前、スマートフォンが震えた。『今日はありがとう』短いメッセージ。私は少し迷ってから、返信した。『こちらこそ。元気でね』送信して、画面を閉じる。それで終わった。たぶん本当に、終わったのだと思う。だけど不思議と、涙は出なかった。失恋に似ていた。ただ相手を失う失恋ではなく、“時間”に置いていかれる失恋だった。電車の窓に映る自分の顔は、もう高校生ではない。当たり前だ。それでも私は、少しだけ安心していた。もう一度会いたかった“あの人”には会えなかった。けれど、その代わりに知れたことがある。思い出は、戻る場所ではない。遠くから、ときどき振り返るための灯りなのだ。雨上がりの街が、窓の向こうを静かに流れていった。