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金木犀の君の匂い
秋の始まりは、いつも突然にやってくる。
十月の夕暮れ。学校からの帰り道、自転車のペダルを漕いでいた高校二年生の|拓海《たくみ》は、ふわりと鼻腔をくすぐる甘い香りにブレーキをかけた。
「あ、今年も咲いたんだな」
近所の古い洋館の生垣から、オレンジ色の小さな花々が顔を覗かせている。金木犀(キンモクセイ)だ。この香りを嗅ぐと、拓海の胸はきゅっと締め付けられる。それは、ある一人の少女の記憶を呼び覚ますからだった。
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一年前の秋。拓海は図書委員の仕事で、放課後の図書室に居残っていた。窓から吹き込む風に乗って、外の金木犀の香りが部屋いっぱいに満ちていた、そんな日のこと。
「あの、すみません」
声をかけてきたのは、同じクラスの|結衣《ゆい》だった。普段は大人しく、クラスでもあまり目立たない彼女が、少し耳を赤くして一冊の古びた詩集を差し出していた。
「これ、貸出の手続きをお願いできますか?」
その瞬間、拓海は驚いた。彼女の手が動くたび、図書室に満ちていたのと同じ、どこか切なくて甘い金木犀の香りがふわりと漂ったのだ。
「結衣さんって、金木犀の匂いがするね」
思わず口から出た言葉に、結衣は目を丸くした。そして、はにかむように笑った。
「あ、わかりますか? 家の庭に大きな木があって、この季節になると、制服にも髪にも匂いが移っちゃうんです。変ですか?」
「ううん、全然。すごく、いい匂いだと思う」
拓海がそう答えると、結衣は「よかった」と嬉しそうに微笑んだ。それが、二人が言葉を交わすようになったきっかけだった。
それからの日々は、拓海にとって特別なものになった。
放課後の図書室で、二人で並んで本を読む時間。結衣がページをめくるたびに、あの甘い香りが優しく揺れる。拓海の中で、金木犀の香りは「秋の匂い」から「結衣の匂い」へと変わっていった。言葉にできない淡い恋心が、香りと一緒に拓海の心に深く染み込んでいった。
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しかし、その季節は長くは続かなかった。
十一月に入り、金木犀の花が地面をオレンジ色に染めて散る頃、結衣は父親の仕事の都合で、急に遠くの街へ引っ越すことになってしまったのだ。
終業式の日の放課後。誰もいない図書室で、結衣は最後にあの詩集を返しにやってきた。
「拓海くん、今までありがとう。私、拓海くんと過ごした秋を、絶対に忘れないよ」
そう言って微笑む結衣の髪からは、もうあの金木犀の香りはしなかった。花が散ってしまったからだ。拓海は、胸の中の想いを伝えることができないまま、ただ「元気でね」と手を振ることしかできなかった。
――それから、丸一年が経った。
拓海は自転車を降り、金木犀の生垣を見つめながら、深く息を吸い込んだ。あの図書室の空気、結衣の少しはにかんだ笑顔が、鮮明に脳裏に蘇る。
(結衣さん、新しい街でも元気にしているのかな……)
届かない問いかけを胸の中で呟き、拓海が再び歩き出そうとした、その時。
後ろから、トントン、と肩を叩かれた。
「――あの、すみません」
懐かしい、少し高めの声。
驚いて拓海が振り返ると、そこには、一年前よりも少し髪が伸びた結衣が立っていた。彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「結衣……さん? なんでここに……」
「お父さんの仕事が、またこっちに戻ることになって……。私、どうしても拓海くんに会いたくて、真っ先にこの帰り道を歩いてきたの」
結衣が一歩、拓海に近づく。
その瞬間、秋の夕風が二人の間を吹き抜けた。
ふわりと、あの頃と全く同じ、甘くて切ないオレンジ色の香りが拓海の鼻先をかすめる。
「やっぱり」
拓海は思わず、声を震わせながら笑顔をこぼした。
「結衣さんは、最高の金木犀の匂いがするね」
結衣は一年前と同じように、少し耳を赤くして、でも今度は逃げないように拓海の目を真っ直ぐ見つめて、嬉しそうに微笑んだ。
「ただいま、拓海くん」
散ってしまっても、季節が巡れば必ずまた咲く花がある。二人の止まっていた秋が、いま心地よい香りと一緒に、ゆっくりと動き出した。