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【前章:晴羽(ハルハ)___記憶されざる始まり①】
それは、まだ世界が地獄に堕ちる遥か前のことだった。
|日理《ひわたり》 |翔羽《しょう》は、人間だった。
疫病の恐怖が過去の遺物となり、世界の七割以上が老いを克服した時代。彼女もまた、長命と不老を享受する者の一人だった。十歳にも満たぬ年齢にして、未来を約束された存在だった。住まうのは極東の先進国家・日本。樺太と千島、さらにはカムチャッカ半島までを領土とするこの国は、非武装ながら、あらゆる超国家と穏やかな友好を築いていた。核兵器の代替となる《絶望》――《X》の培養技術を握るという皮肉な“抑止力”を有しながら。
翔羽はそんな国で、ごく普通に育った。両親に愛され、友と笑い、空を見上げて夢を描いた。彼女は――空を飛ぶことに、強く、憧れていた。
七歳のある日、翔羽は一本の広告動画を目にする。それは「PROJECT:新人類」の募集告知だった。未来を拓く子供たちを選抜し、進化の先端へ導く壮大な国家プロジェクト。だが、両親は強く反対した。「安全が保証されたら、応募してもいいよ」___それが唯一の妥協だった。
それでも、翔羽はあきらめなかった。三年を待った。
そして、十歳の誕生日が訪れた朝、彼女の枕元には一枚の封筒が置かれていた。
それは、「PROJECT:新人類」の正式な招待状だった。
両親の目には、喜びと恐怖が入り混じった涙が浮かんでいた。
「絶対、無事で帰ってきてね」
「ちゃんと、戻ってこいよ」
父は最後に、娘を強く抱きしめた。おそらく、それが彼にとって___最期の抱擁だった。
研究所の入り口に立ったとき、翔羽の背後に、異形の影が現れた。
高さは二メートルを優に超える、Xのような怪物___突如として現れた「それ」に恐れ慄き、両親は叫びを上げて逃げ帰った。翔羽は、握りしめていた招待状を手に、研究所の内部へと駆け込んだ。
彼女を迎えたのは、白衣の青年研究員だった。彼は問うた。
「どんな動物の特徴が欲しい?」
翔羽は、ほんの一瞬、迷い、そしてまっすぐに答えた。
「わたしね、お空を飛ぶのが夢なんだ」
研究員は小さく笑った。そして、翔羽がまだ幼いこと、負担が軽い生物が望ましいことを説明しつつも、用意された鳥類のDNAに目を通した。選ばれたのは、かつて6777年にフランシリア州アルザス郡で発見された幻鳥___紅目鴹皇鳥《こうもくようこうちょう》、別名レッドアイラプトル。
この幻鳥は、始祖鳥の血を引く異形であり、鋭い鉤爪で大型獣を仕留め、毒草を好み、紅い瞳孔を持つ空の支配者だった。
翔羽の身体へと、そのDNAが注入される。
だが、計画は途中で崩れた。
彼女の容体は急変し、恐るべき兆候___《X》の発現が始まったのだ。凶兆に研究室が騒然とする中、一人の日本人研究者がすぐさま《ワクチン》を打ち込み、彼女の暴走を抑えた。意識が戻るころには、彼女の姿は既に人でも鳥でもないものへと変わり果てていた。白い羽。光を弾く瞳。獣とも人とも呼べぬ美しき異形。
「ただいまをもって、日理 翔羽は死んだ。」
研究者は、静かに彼女に語った。
「君の名はハルハ。これからは、そう名乗りなさい。___大丈夫、心配はいらないさ。そう、僕の名は……」
その名は、語られなかった。ただ一つ、彼女の胸の奥に焼きついたのは、彼の目に宿った、兄と同じ光だった。
けれど、安息は一瞬で終わる。
新たなX___今度は酸を操るガイノア融合個体が、研究所を襲ったのだ。研究員たちが溶け落ちていく中、彼___ハルハを救った男は叫んだ。
「君は僕の大事な“研究材料”なんだ。死んでは意味がないだろう? 行け! ハルハ!」
生まれて初めて、“本能”が翔羽___ハルハを支配した。
逃げろ。逃げて、生きろ。
研究所の崩壊の中、天井の裂け目から空へと飛び立つ。
彼女の身体が、大空を裂いた。
新たな種の羽ばたきが、地上の地獄を置き去りにした。
そして、旅が始まった。
飛び、彷徨い、ある島に降り立ったとき、彼女は“同類”に出会う。
鳥人の男___彼の腕には、噛み跡。グールの痕跡。彼女は警戒した。
だが、男は牙を持たぬことを証明し、渡された薬を見せた。
それは、解放のときに彼が受け取ったという、生存者の証。
彼女の懐にも同じ注射器があった。
彼の言葉は、真実だったのかもしれない。
彼女は信じた。
運命を、共にすることを選んだ。
「海を越えれば、獣人類の居住区がある。そこで生きよう」
彼はそう言った。
やがて、彼女は彼の子を孕む。
産み、育て、共に生きる___それが、翔羽の、いや、ハルハの決意だった。
だが、待ち受ける運命は___まだ彼女には、知らされていなかった。