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|中札《なかふだ》の距離 ――重なる影――
2026年8月。|県立青葉高校《けんりつあおばこうこう》弓道部の夏合宿は、山間にある古い道場で行われていた。
標高が高いとはいえ、昼間の熱気は容赦なく体力を奪う。道場の床は、裸足で歩くと|吸《す》いつくような湿り気を帯びていた。
「湊、また手が|控《ひか》えている。もっと大きく引いて」
陽葵の声が、蝉時雨を切り裂いて響く。
湊は、|大三《だいさん》から|引《ひ》き分《わ》けへと至る動作の中で、意識を右腕に集中させた。けれど、陽葵が近くにいると思うだけで、肩の筋肉がわずかに強張る。
陽葵は、次期部長としての自覚からか、この合宿中いつになく厳しかった。彼女の射は相変わらず完璧で、放つ矢のほとんどが的の|中心《ごうしん》を射抜いている。
「……今日はもう、上がって」
夕暮れ時。部員たちが宿泊所へ戻る中、湊は一人、道場に残った。
どうしても納得がいかなかった。自分の射がなぜこうも|姑息《こそく》に小さくなってしまうのか。
夜の道場は、静まり返っている。2026年の今でも、こうした場所には古来の「|武道《ぶどう》の神」が棲んでいるような、厳かな気配が漂っていた。
「……まだやってる」
背後で声がした。振り返ると、道着を脱ぎ、Tシャツに短パンというラフな姿の陽葵が立っていた。
手には二本のスポーツドリンク。彼女はそれを湊に放り投げると、自分も道場の縁に腰を下ろした。
「陽葵。……どうして」
「湊が居残るなんて珍しいね。……見てあげるよ、一本だけ」
湊は、意を決して弓を執った。
夜の静寂。射場の灯りに照らされた的は、闇の中に浮き上がる月のように見えた。
|足踏《あしぶ》み、|胴造《どうづく》り、|弓構《ゆがまえ》。
陽葵の視線が、自分の背中に、腕に、指先に触れている。
――|離《はな》れ。
乾いた弦音が響いたが、矢は的の左側、|掃《は》き矢《や》となって砂を跳ね上げた。
「……あ」
「湊。あのさ」
陽葵が立ち上がり、湊のすぐ後ろに立った。
ふわりと、彼女の髪から夏の夜の匂い――石鹸と、少しの汗が混じった香りがした。
「そんなに私を意識してどうするの」
「っ、意識なんて……」
「嘘。湊の射、私の顔色を窺ってばかり。的に向かってない、私に向かってる」
陽葵の手が、湊の腕に重なった。
熱い。2026年の、この狂おしいほどに暑い夏の夜に、彼女の指先の体温が、湊の脳を直接麻痺させる。
「私、エースなんて呼ばれるの、本当は嫌なんだ」
陽葵が、湊の背中に額を預けるようにして、小さく呟いた。
「みんなは『当てて当たり前』って顔で見る。でも、本当は怖いよ。一射ごとに、自分が削られていくみたいで。……湊だけは、私を『エースの陽葵』じゃなくて、ただの『陽葵』として見てほしいのに」
その言葉は、湊の胸を鋭く射抜いた。
自分は、彼女に引け目を感じるあまり、彼女の孤独に気づこうともしていなかった。
湊は、震える手で陽葵の指を握り返した。
「……ごめん。俺、自分のことばっかりで」
「いいよ。……でも、次の試合、団体戦の最後の一射、湊が外したら私、怒るから」
陽葵は、少しだけ顔を赤らめて手を離した。
二人の影が、道場の板張りに長く重なっている。
12.8メートル。それは射手と中札(順番を待つ場所)の距離。
けれど今、二人の間にあるのは、手を伸ばせば触れられる、けれど「好きだ」という一言がどうしても出せない、もどかしいほどの近さだった。
「陽葵。俺、当てるよ。お前のためにじゃなくて、俺たちのために」
夜の道場に、再び弦音が響く。
今度は、迷いのない、高く澄んだ音だった。