公開中
【曲パロ】ヘヴンリーユー
※LonePi様の「ヘヴンリーユー」の二次創作です。
確かにその人を好きだったことがあると、そこからなかなか離れられないものだと私は思います。
「ハッピーバースデー」
娘にとっては、それは近いはずなのにずっと遠い言葉だった。目の前にはホールケーキが鎮座している。ホイップクリームが塗りたくられ、イチゴが、それに挟まれたベリーが蝋燭の光に当てられている。華やかな光景を娘は目に焼き付ける。傍には娘の大好物である林檎も飾られていた。これからカットするようで、今はインテリア扱いだ。
久しぶりだった。こんなにも、テーブルの上の料理が輝いて見えたのは。
「おかあさん」
娘はたどたどしく呟いた。損なわぬように、踏み抜かぬように、丁寧に次の言葉を選り抜く。
「これ、全部、食べていいの」
「構わないわ。だってあなたのために用意したんだもの、当然でしょう?」
どうやら爆発はしなかったらしい。眼前の母は薄く笑みを浮かべ、相変わらず機微を悟れない瞳で娘を見つめる。
こんなこと初めてだった。去年までは間が悪く、まさしく修羅の場であったり、大きな地雷を踏み抜いてしまったりと、ご馳走などもらえる環境ではなかった。娘はホールケーキに向き直った。ガラス越しでもなく、食品サンプルでもない、正真正銘甘い甘いケーキ。
「りんご、食べたい」
だからこそ、娘は先に丸い果実に手を伸ばした。不安だった。母の口と行動が矛盾するのは、娘にとっては日常茶飯事だ。上げて下がるのは勘弁だった。
「あたしが切る」
「だめ」
母の手を煩わせぬよう、と果物ナイフに手を伸ばしたのが裏目に出たようだ。強い声で静止され、取り落としたナイフがしゃりと大きな音を奏でる。
「子供一人じゃうまく切れないでしょう。だから、おかあさんが切るからね、邪魔しないでね」
「ごめんなさい」
謝るのは早々に、しょぼくれるのも数秒に。「かなしい」を消し去ってにこりと笑った娘を見て、母も剥がれた表情を再利用した。
「それでいいのよ」
その一言を耳に入れれば、娘の肩の力は緩む。何事もなかったかのように誕生日パーティーを再開させた。
「ああ、そうだった。まだろうそくを吹き消してないわ」
さあ、と催促されて、娘はゆっくりとゆらめく炎を吹き消す。料理が暗闇に溶け込んでしばらくしてから、安っぽい暖色の照明が辺りを包んだ。
「おたんじょうび、おめでとう」
うん、と「うれしい」を上半身で表現するのを見届けて、母は林檎を切り分ける。結果として娘に差し出された林檎は黄色く染まっていた。蜂蜜がこれでもかとかけられていた。
「ケーキも切るからね」
娘は蜂蜜が嫌いだった。林檎の本来の味を、熟れた色をいつも損なう。
娘は林檎を齧った。しゃくり、という歯応えと蜂蜜の粘り気が混ざっている。なんともいえない食感だった。
「蜂蜜りんご、今日も美味しいね」
母はそんなこともつゆ知らず、ケーキを切り分けている。それから、ぺろりと彼女は口の端についた蜂蜜を舐めとった。まじまじと眺めたホールケーキは四号。
「あなたが蜂蜜りんごが好きなのは、私のおかげだね。おかあさんの、おかあさんがよく作ってくれてたんだから、遺伝だね」
「そうだね」
母は娘の手柄を、趣味嗜好を、自分のおかげだと誇る癖があった。例えば賞をもらっただとか、授業参観で上手くやれただとか、今着ているリボンがいくつもついた服だとか。
耳にタコが出来るくらいに聞いた話にしっかりと相槌を打ち、娘は訂正した。そうだよ、あなたのせい。あなたの本意で、あたしは簡単に毀されて堕ちる。
でもあたしが蜂蜜りんごを嫌いなのは、全てがあの人のせいじゃない。強制されたから嫌っている、なんてことはない。これは紛れもないあたしの意志だ。
それを娘は嫌いな食べ物ごと飲み込んだ。メインすら食べていないのに、胸やけがした。毒林檎を飲み込んだ白雪姫もこんな感覚だったのだろうか。母親に虐げられた白雪姫。
娘の自覚ではあいにく、飛び抜けて顔が美しいわけでも、心が清いわけでもないのだった。未だにハッピーなエンディングの兆しは見えない。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
先ほどまでのささやかなときめきは霧散している。受け取りたくないけれども、受け取らないなんて選択を母が取らせるわけがない。
とびきりの「たのしい」顔を見せつけつつ、娘は皿を手に取った。このまま上手くやれば、今日くらいは平和に過ごせる、そんなポジティブがネガティブをゴミ箱に投げつけたからだった。従いたくなる思いを今日も打ちつけて、娘は今日もパーフェクトコミュケーションを目指す。
震える指は床に落とすこともなく、無事に定位置へとケーキを運んだ。母はやさしい顔を浮かべた。よそゆきの顔だった。
ああ、今日はとびきり機嫌が良いんだろう。今までで最もハッピーなバースデーだ。しかしどうしてこうも、皿とフォークを支える両手が重いのだろう。
そんなことを考えながらも、娘はケーキに上からフォークを突き刺した。美しかった片鱗が残され、スポンジの欠片がぼろぼろと崩れ落ちた。そのまま口に放り込む。母と二人だけで初めて食べるホールケーキは、砂鉄を噛むようで、不快さは鮮明に記録される。
「ハッピーバースデー、トゥーユー」
唐突に母が口遊む。まだ三人暮らしだった日、初めて聴いた歌。
「ハッピーバースデー、トゥーユー」
娘はゆらめく火の幻影を見た。
「ハッピーバースデーディア」
今よりも幼くうつくしい姿があった。
「可愛い娘」
そう言われても、娘は嬉しくなんてならないのだ。育てられた蟲毒が心を這うのみだ。それは今の娘には到底築けない、「うれしい」とは根本的に違う、不快ではない感情なのだ。もっと尊くて、ずっと前に薄れてしまったものなのだ。
声が記憶から呼び起こされて重なった。幸せだった頃の、お母さん、それから。
「何、考えてるの」
母が娘の頬に手を伸ばした。白魚のような手からは想像できないほどの強い力で、娘の顔との距離を縮めた。伸びた爪が食い込む。娘は泣かない。怒らない。見せるのはポップな「かなしい」のみ。
どうして、どこかに行ってしまったのだろう。大好きなお父さんお母さんに迎えに来てもらうまで、迷子センターでもない場所で娘は愚直に待っている。
「ねえ、いま、余計なこと考えたでしょ?おかあさんがせっかく、お歌歌ってあげたのに、ねえ」
ごめんなさいが娘の口を突いて出る前に、母は唇を抑えて、首ごと抱きしめた。挽回する機会すらまた、全部奪った。
何がしたいのか、相変わらずわからない瞳で嘲るように笑った。
「もうおかあさんお祝いする気なくなっちゃった。ごめんね」
最悪だった年と待遇だけを比べれば、まさしく天国のような誕生日だった。
だのに掛け替えのない過去を産んだあなたへと、ありがとうなんて今年も言えない。言いたくない。真に感情を発露できるのは、夜が明けて露と涙が混ざれるその時までお預けだった。
それでも、娘は自分に言ってみる。目を瞑って、言霊が叶えてくれることを願った。
ハッピーバースデー、あたし。
---
女にとっては、それは近いはずなのにずっと遠い存在だった。目の前にはホールケーキが鎮座している。ホイップクリームが塗りたくられ、イチゴが、それに挟まれたベリーが蝋燭の光に当てられて無機質に輝く。傍には少女の大好物だった林檎も飾られていた。食べる気はない。
久しぶりだった。こんなにも、テーブルの上が賑やかになったのは。
今日は新月ということもあって、カーテンを閉めなくともあたりは薄暗い。蝋燭の灯のみが頼りにして、女は席に着いた。
「ケーキ、食べたい」
女は少女の目を見て、かすれた声で告げた。問いかけというよりはただの一人言だった。物言わぬ少女の円い大きな瞳は瞬きすらしない。ただ、女よりもどこか遠くを見つめるような眼で、ただそこに在る。
あどけない笑顔で写っている少女は、隣にいたはずの大人の姿が極力見えないように、黒く塗装された木材で囲われている。色鮮やかな写真。
最初に作られたポスターの文字はとうに色褪せた。それでもまだ貼っていた。
『20XX年 こどもをさがしています』
今日で七年だった。これをもって少女と母は打ち切られたのだった。少女はもうどこにも居ないことに無理やり気付かされたのだった。これを狙っていたのかは知らないが、今日は少女の誕生日だった。
灯を吹き消し、照明をつけることもせず淡々と女はケーキを飲み込む。一人分の咀嚼音がやけに反響する。クリームが舌に纏わりつくので、安っぽいりんごジュースで引き剥がした。減っていくホールケーキは五号。
やがて、女の動きが緩やかになる。一かけらのケーキ、赤い光をもたらす上部の蝋燭を頼りに、女がそのまま向かった先は小さな部屋だった。
少女と二人で使っていた寝室で、少女の残滓を手にする。もう寝室で寝ることは無くなっていたので、匂いや家具のレイアウトは当時のままだ。
ポスター。遺影。ポスター。アルバム。ポスター。それらを一つひとつ辿るたびに、どんどん少女は大人びていく。血を引く片割れに、あいつに似ていく。
だから女は、少女に幼くいて欲しかった。濃く女の特徴を残していたからだった。
「今年で、さいごよ。これ以上、おかあさんあなたのこと祝ってあげられない」
そうして、持ってきたケーキを置いた。イヤホンは片耳だけ娘の前に、録音を流す。三人分の歌声が流れ出す。撮ったは良いものの、聞いたことがなかった音声を、枯れた声の代わりとして捧げる。
『ハッピーバースデー、トゥーユー』
音質が悪い。
『ハッピーバースデー、トゥーユー』
十数年前なのだから当たり前だ。
『ハッピーバースデー、ディア』
随分と楽しそうなのが厭わしい。
『り』
そうして、三人が少女の名前を認めようとした。一人の個として祝った。次の録音を再生するボタンを押して、忌々しい音声を打ち消した。
『ハッピーバースデー、トゥーユー』
両耳から、可愛らしい声がする。
『ハッピーバースデー、トゥーユー』
不快で耳障りで、未熟な可愛い声。
『ハッピーバースデー、ディア』
女の両耳がじくじくと痛む。イヤホンをつけていない、左耳も。
『あたし』
ぞわりと悪寒が走る。イヤホンを床に叩きつける。ゴミ箱に打ちつけて、打ちつけて、細かくパーツに分かたれるまで、毀さなければならないという強迫が女を覆い隠した。
撒いたたくさんの少女たちも、位置が崩れてぐしゃぐしゃになっている。かろうじてその中心に女は膝をつき、幻聴が去ったのに安堵する。
「あ」
湧出するのはどうにもできないモノローグ。もう少女には必要ないのであろう、一人の女の回顧。しかし、女の激情を抑えるには不可欠なものなのだろう。例え仕様もない動機だったとしても、無情だと少女から思われたとしても、女は少女を確かに必要としていた。
それなのに、少女は置いてどこか遠くに逝った。甲高く醜い嗚咽によって保たれていた安定は崩れ去って、遂げられなかった復讐未満の感情は、七年で全く快方に向かっていない。最悪の結末。
耳鳴りが女を罵る。溶けていく正気度で気が狂う。かといって取り返しがつくわけでもない。廃れる未来が目に見えているからこそ、女はこの場から動けやしない。離れたいのに、離れられる気がしない。目を瞑って、切り分けたケーキを口にした。願った。
なら、どうか、せめて、あの子が天国なんてところじゃなくて、真綿のようなぬるい地獄にいますように。きっと、そのうち、会いにいけるだろう。
ハッピーヘヴンリーバースデー、可愛い私の、あのこ。