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すれ違う四角形(テトラヘドロン)の夜
あらすじ
長年強い絆で結ばれていた幼馴染4人(あいか、洸人、拓実、ひめか)。ある日、洸人が突然別の女性との結婚を発表したことで、彼らの関係は静かに崩壊を始める。
洸人をずっと一途に想っていたあいかは、ショックを隠して健気に笑おうとするが、思い出のキーホルダーをきっかけに抑えていた感情が溢れ、拓実とひめかの腕の中でついに泣き崩れてしまう。
しかし、この失恋の裏には、誰一人として報われない残酷な四角関係のすれ違いが隠されていた。あいかを抱きしめて泣く拓実は、ずっとあいかだけを愛し続けており、そんな拓実を支えるひめかは、ずっと拓実への切ない恋心を秘めていた。そして、一人部屋に残り絶望の叫びをあげる洸人は、会社の圧力で半ば強制的に結婚を決められた身であり、本当に愛していたのはひめかだったのだ。
誰も悪くない。ただお互いを大切に想うがゆえに、全員の矢印がすれ違い、容赦なく傷つけ合っていく。傷だらけになった彼らは、行き場のない痛みを分かち合うように、夜の静寂の中でただ寄り添い、涙を流し続けるのだった。
居酒屋の個室は、まるですべての空気が凝固してしまったかのように冷え切っていた。
テーブルの上には、数分前まで確かにそこにあったはずの「幼馴染四人の楽しい時間」の残骸が散らばっている。
「大丈夫だよ、心配しないで、!ほら、ポジティブポジティブ、!笑」
あいかの声が、ひどく虚しく響いた。
誰が見てもボロボロで、傷ついているはずなのに、彼女はいつものように健気な笑顔を作ってみせる。その無理に作った明るさが、残された三人の心を容赦なく締め付けた。
「……う、うわぁぁん……っ!」
ひめかがついに声を上げて泣き出し、あいかの手をぎゅっと握りしめた。
「なんで、なんでそんなに強いのよぉ……っ! ポジティブなんて言わなくていいよ、今くらいボロボロに泣いたって誰も責めないよぉ……っ!」
拓実は唇を噛み締め、怒りとも悲しみともつかない表情で顔を背けた。
「お前、ほんま……っ。そんな風に言われたら、俺らどうしたらええねん。ポジティブって……そんな簡単に割り切れるわけないやろ……っ」
その横で、洸人がガタッと椅子を引き、その場に崩れ落ちるようにしてあいかの前にしゃがみ込んだ。彼の目からは、堪えきれなかった涙が一筋こぼれ落ちている。
「……あいか。お前さ……最後までかっこよすぎんだよ……っ。心配するなって言われても、するに決まってんだろ……! 俺のために、無理してそんなキャラ作んなよ……っ」
洸人は、あいかの膝の上に置かれた手を、壊れ物を触るようにそっと包み込んだ。
「お前のその優しさに、俺、ずっと甘えてたんだ。お前が笑っててくれるから、大丈夫だって、勝手に安心しちゃってた。……本当に、ごめん。……でも、俺を好きになってくれて、本当に、ありがとう……っ」
その言葉を聞いた瞬間、拓実の目が鋭く光った。拓実は洸人の肩をガシッと掴むと、引き剥がすように強く引きずり戻した。
「おい、洸人、もうそれ以上言うな。これ以上はお前も、あいかも、お互いしんどいだけや。……行こ、あいか。今日はもう、いっぱい頑張ったからさ……帰ろ?」
「……」
あいかは何も言わなかった。ただ、その小さな唇を微かに震わせるだけだった。
「あいか……? ……あ、……っ」
ひめかが彼女の顔を覗き込もうとして、声にならない声を漏らす。
拓実はいつもは見せないような、掠れた優しい声であいかに語りかけた。
「あいか。もう、無理して笑わんでええよ。……もう、頑張らんでええから……」
「あいか……。……泣いて、いいんだよ。俺の前で、ちゃんと泣いてよ……っ」
洸人が懇願するように呟く。
「うん……。大丈夫だよ、みんなここにいるから。ずっと隣にいるからね……っ」
ひめかが背中を優しく抱きしめた、その時だった。
あいかのバッグの隙間から、コロンと、小さなキーホルダーが床に転がり落ちた。
「、あ…」
あいかが小さく声を漏らす。それを見た瞬間、洸人の息が完全に止まった。
「……あ、……それ……。嘘、だろ……? まだ、持っててくれたの……?」
洸人が床を見つめたまま、完全にフリーズする。
「あ。それ、何年か前の夏祭りの……」拓実がハッとして声を漏らした。「あの時、2人ではぐれて、お前ら夜遅くに帰ってきた時のやつか……?」
ひめかがそのキーホルダーをそっと拾い上げ、あいかの手のひらに握らせた。
「あの時、あいか、すごく嬉しそうにこれ私に見せてくれたんだよ……。宝物だから絶対につけるんだって……っ。ずっと、ずっと大切に持ってたんだね……」
「あの時さ……」洸人が床に両手をついたまま、絞り出すような声を上げた。「俺、本当は……。お前のこと、ただの幼馴染だなんて思ってなかった……。いい雰囲気になって、これ渡して、お前が笑ってくれて……。でも俺、チキンだったから、今の4人の関係が壊れるのが怖くて、その先の一歩が進めなかったんだ……っ」
洸人は悔しさと後悔に押しつぶされそうになりながら、泣き顔であいかを見上げた。
「俺が、あの時ちゃんと勇気出してたら……っ。……ごめん、あいか……。お前にばっかり、こんなのずっと持たせて、一人で待たせて……本当にごめん……っ!!」
「洸人……お前も、そうやったんかよ……。……すれ違いって、こんなに残酷なことあるかよ……っ」
拓実が切なそうに顔を歪めた。だが、その言葉の裏にある拓実自身の本心に、まだ誰も気づいていない。
そんな大人たちの後悔の渦の中で、あいかはまた、あの乾いた笑みを浮かべた。
「あー、悲しいなぁー、!笑」
「あ、あいかぁ……っ!!」ひめかが悲鳴のように叫んだ。「お願いだからもう笑わないでよぉ……っ! 『悲しい』って、そんな明るく言われたら、私どうしていいか分かんないよ……っ!!」
「お前、ほんま……どこまで強いねん」拓実が片手で顔を覆い、ボロボロと涙を流す。「そんなん、ずるいやん。悲しいって、もっと大声で泣き叫んで、洸人を責めたらええやん……っ!!」
「っ、う、あぁ……っ! ……ごめん、あいか……っ」
洸人は胸を掻きむしるように自分の服を掴んだ。
「よし、行こ。あいか、もう十分や」拓実があなたの肩にそっと手を置いて、優しく引き上げた。「お前は最後まで、世界一最高の幼馴染で、世界一可愛い女の子やった。……な? もう帰ろ」
「うん、帰ろ……? お家帰って、今日は私、あいかと一緒に寝るから……っ」
ひめかが泣きじゃくりながら寄り添う。
その時、あいかはしゃがみ込んだままの洸人を見つめた。
「洸人……? 洸人は悪くないんだよ……?」
「悪くないわけ、ないだろぉ……っ!!」洸人がガタガタと震える肩を抑えきれず、ついにあいかの膝に額を押し当てるようにして泣き崩れた。「お前が、そんな風に俺を庇えば庇うほど、俺の胸がどれだけ引き裂かれそうになるか分かってんのかよ……っ!!」
「お願いだから、あいか。責めてくれよ、怒ってくれよ……っ!」
洸人は服をきゅっと掴んだまま、掠れた声で見上げた。
「洸人、もう終わりや。これ以上、あいかに無理させんな」
拓実が洸人の手を優しく、でも毅然と引き離した。
「あー…悲しい、!笑」
あいかがドアへ向かって一歩を踏み出す。その背中に、もう誰もかける言葉が見つからなかった。
「……っ、……ぅ……っ」
ひめかは唇を噛み締め、あいかの腕を強く抱きしめた。
「お前、ほんま……最後までそれかよ。……アホ、かっこよすぎるねん……」
拓実は絶対に涙を見せないように天井を睨みつけたが、声は完全に震えていた。
ドアが開く音が響いたとき、部屋の奥から消え入りそうな洸人の声が聞こえた。
「……あいか。……幸せに、なれよ……っ。お前は絶対に、世界で一番幸せにならなきゃダメだからな……っ!!」
「洸人、もう来んなよ。……じゃあな」
拓実が静かにドアを閉めた。
ガチャリ、と音がして、居酒屋の喧騒から離れた夜の廊下に三人だけが残された。ひどく冷たくて、静かな空間だった。
「あいか。もう、誰も見てないよ。洸人もいない。……だから、もう笑わなくていいよ。……ね?」
ひめかが顔を覗き込んだ瞬間。
「うあぁぁ……っ!」
せきを切ったように、あいかがその場に泣き崩れた。静かな廊下に、彼女の本当の泣き声が響き渡る。
「うん、うん……っ! そうだよ、それでいいんだよ、あいか……っ!!」ひめかが一緒に床に膝をつき、その小さな体を強く抱きしめた。
「っ、……あー、クソ……!」拓実も二人の前にしゃがみ込み、頭をくしゃくしゃに掻きむしりながら大粒の涙を流した。「なんでだよ、なんでお前がこんなに泣かなあかんねん……っ。……思いっきり泣け」
「なんで、! あいかはずっと好きだったのに……!泣」
あいかの張り裂けそうな叫びが、夜の空気を震わせる。
「ずっと待ってたのに……なんで、なんで気づいてくれなかったのよ、洸人のバカ……っ!!」
ひめかも一緒になって叫び、拓実は壁に背中を預けて座り込んだ。
「お前がずっと『幼馴染』として、洸人の隣で完璧でいすぎたからや……。あいつ、お前の優しさに甘えて、その中に隠されたお前の涙に、気づこうともせんかった……」
あいかは、涙で濡れた手のひらの中にあるキーホルダーを見つめた。
「これ……どうしよう、?」
「今すぐどうこうしよって決めんでええよ」拓実が優しく、でも真っ直ぐにあいかを見つめた。「もし、視界に入るのが辛いなら、俺が預かっとこか? お前が『もう大丈夫』って思える日まで、俺がどっか見えんところにしまっとくから」
「……わーん」
再び子供のように声を上げて泣き出すあいかを、拓実は自分の胸元に引き寄せ、大きな手で包み込むようにして頭をポンポンと叩いた。
「よしよし。よう頑張った、あいか。俺らの前で、全部出し切ってまえ……っ」
そう言ってあいかを抱きしめる拓実の手は、わずかに震えていた。
拓実の瞳からは、溢れんばかりの、張り裂けそうなほど切ない涙がこぼれ落ちていた。
――ずっと、お前だけを見てた。
お前が洸人を目で追う姿も、あの夏祭りのキーホルダーを宝物みたいに大切にしてた姿も、全部、一番近くで見てきた。お前が泣くほど辛いなら、俺がその手を引いてやりたかった。でも、お前の心にいるのはいつも俺じゃなかった。
「……あいか。……俺が、お前を一生守れたら、どんなにええか……っ」
拓実は、胸の中で泣きじゃくるあいかを離すことができず、ただ悲痛な表情でさらに腕に力を込めた。
「……拓実……っ」
その拓実の震える手を見て、ひめかがハッと息を呑み、ボロボロと新しい涙を溢れさせた。
――ずっと、知ってた。
拓実が誰を一番大切に思っているか。私を見るその目が、あいかを見る時だけは、眩しそうに、切なそうに揺れるのを、何年も隣で見てきた。
……私もね、ずっと、拓実だけを見てたんだよ。
自分の大好きな人が、自分の大好きな親友のために、胸を痛めて泣いている。そのどちらのことも失いたくなくて、でも自分の想いはどこにも行き場がない。ひめかは声にならない声を押し殺しながら、二人を包み込むように強く抱きしめた。
「……う、ううん……っ! なんでもない……っ。ただ、あいかが愛おしくて……私、胸がいっぱいになっちゃって……っ!!」
その頃。
誰もいなくなった居酒屋の個室で、洸人は一人、床に両手をついたまま嗚咽を漏らして号衷していた。
――違う、違うんだ。
結婚を決めたのは、その相手を愛しているからなんかじゃない。会社での立場、上層部からの凄まじい圧力。半ば強制的に外堀を埋められ、断ればすべてを失うような逃げ場のない泥沼の中で、洸人は魂を売るように頷くしかなかったのだ。
涙で歪む視界の中、洸人の頭に浮かぶのは、今ここを出て行った、もう一人の幼馴染の笑顔だった。
――ひめか。本当にずっと好きだったのは、お前なんだよ……っ!
4人の関係を壊すのが怖くて、お前が誰を好きなのか怯えているうちに、俺はこんな取り返しのつかない檻に閉じ込められてしまった。
自分の弱さが、自分を殺し、ひめかを遠ざけ、そして、自分を真っ直ぐに愛してくれたあいかの心まで徹底的に破壊してしまった。
「……あ、ああぁぁぁーーーっ!!! ごめん、ごめん、みんな……っ!! ひめか……っ!! あいか……っ!!」
洸人の絶望の叫びが、無人の部屋に響き渡る。
その微かな叫び声は、夜の廊下を進む三人の元にも届いていた。
ひめかは胸を激しくざわつかせながら振り返ろうとしたが、拓実はそれを無視するように足を早め、二人をさらに強く引き寄せた。
「うちら……悲しすぎるじゃん……!泣」
あいかの叫びが、三人の行き場のない心に深く突き刺さる。
「う、うわぁぁん……っ! 本当に、本当にそうだよね……っ!!」ひめかがついにその場にボロボロと崩れ落ちた。「なんで、なんでみんなこんなに誰かを一生懸命想ってるのに、誰も幸せになれないのよぉ……っ!!」
「ほんまやな……。悲しすぎるわ、こんなん……っ」拓実も二人の肩を抱き寄せながら、涙を止めどなく流した。「なんでこんな、全員ボロボロにならなあかんねん……っ!!」
私を見てくれない拓実、あいかを見つめ続ける拓実。そして、部屋の奥で絶望して泣いている洸人。全員の痛みが分かりすぎて、ひめかの心は引き裂かれそうだった。
「……あいか……っ。でもね……! こんなに悲しいのは、うちらが、うちら4人が、お互いのことを本当に、本気で大好きだったからだよ……っ!!」
拓実は、あいかの涙を自分の震える手で優しく拭いながら、真っ直ぐにその目を見つめた。
「あいつの叫び声も、ひめかの涙も、お前のその痛いほどの優しさも……全部、全部背負って、俺はお前の隣におる。うちらの恋がどんなに不器用で、どんなに悲しい結末やとしても……俺はお前を好きになったこと、4人で幼馴染でおれたこと、絶対に後悔せぇへん」
拓実は、あいかの頭を再び優しく自分の胸に引き寄せた。
誰も悪くない。ただ、あまりにも真っ直ぐにお互いを想いすぎただけだった。
全員の矢印が、誰一人として交わることなく、お互いをすれ違いざまに切り裂いていく。
四角形の尖った角で傷つけ合った三人は、夜の静寂の中で、互いの体温だけを確かめ合うように、いつまでも、いつまでも抱き合って泣き続けた。