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咲くにはまだ早い
友達がもうすぐ死ぬ。病気で、長くてあと1ヶ月の命らしい。なんの病気かは知らない。常に無表情で淡々としている友達は、そのことを私に伝える時も泣き喚いたりはしなかった。冷静で、静かで、いつもと全く同じように見えた。体調だって悪そうには見えなかったし、タチの悪い冗談なのかもしれないと咄嗟に考えた。まあ結局冗談でもなんでもなかったわけだが。多分、友達が余命について絶望して泣いて叫んで涙を流していたら、私もそうしていたと思う。多分、友達が淡々としていたら、私もそうしていたと思う。というか事実、そうなったわけで。私の心はびっくりするほど落ち着いていて、いやきっと、実感が湧かなかったんだろう。小さい頃からずっと一緒だった友達が急にいなくなるということは、私にとってあまりに非現実的だったのだ。
私の学校はちょうど夏休みに入っていた。「1ヶ月間、たくさん遊ぼうよ。」私の提案に、友達はやはり無表情で頷いた。彼女は何を思っているのだろう。私たちの最後の夏休みが始まった。
「海に行こう。」友達が言った。8月1日のことだった。私は友達の部屋でくつろいでいた。唐突だったが、友達から何かをしようと言うのはあまりなかった…わけでもないが。けれどもたくさん遊ぼうと提案したのは私の方だし、単純に暑いので涼みたいとは思っていたしで、これを拒否する理由はない。いいねと答え、私たちは家を出た。2人で太陽の下を歩いた。汗がひたいにまとわりついていた。蒸し暑い駅のホームで電車が来るのを待った。その間、会話はほとんどなかった。10数分で電車がやってきた。乗った瞬間、涼しい風が私の全身を包み、全身の汗はすぐに引いた。車内は空席が目立ち、私と友達は並んで席に座ることができた。「てか、帰ってくる時には日沈んでない?」友達が言った。「今更すぎ。」私の顔に、自然と微笑みが浮かんだ。電車に揺られながら目を閉じた。20分ほどしてついた駅に降りた。降りてすぐ、潮の匂いが鼻をくすぐった。涙が出そうなほど優しい匂いだった。
しばらく歩くと、深い青色が目に入った。海だった。私は一気に気分が高揚しひゃーと笑顔になったが、友達は「お、海だ。」と呟いただけだった。自然と動く足が早くなった。青い空。青い海。砂浜の上を歩く。動かないと、体が沈んでいきそう。そんな独特な感覚。ザアアと心地よい波音が聞こえる。顔を上げると、友達はすでに靴を脱いで海の中に入っていた。といっても水着を着ているわけでもなんでもないので、ズボンを捲って浅瀬でちゃぷちゃぷするくらいだが。
私も彼女に続いて靴を脱いだ。裸足で砂の上を歩くのは、気持ち良くて気持ち悪くて、なんだか面白かった。海の水は透明で冷たく、体の中の熱がすっとリセットされた気がした。ゆらゆらと揺れている水が光で輝くのが美しかった。気持ちいいねと友達に言った。友達は無言で頷いただけだったが、その口角はいつもより少しだけ上がっていた。
「明日、夏祭りに行こう。」そんなメッセージが友達から届いたのが、8月6日のことだった。そういえば確かに、8月7日にこの地域で夏祭りがあった。私はすぐに「OK」と書かれたスタンプを送った。浴衣は持ってないけど、友達も普段着で来るだろうし、別にいいだろう。
翌日、Tシャツにジーンズで待ち合わせ場所に行った。友達はまだ来ていなかった。彼女はギリギリ遅刻というタイミングでやってくるのが常だ。数分待つと、友達が歩いてきた。私の予想とは裏腹に、友達は綺麗な浴衣を着用していた。薄いピンクに花が描かれている。紫色で、花びらは細い。なんの花かは詳しくないからわからない。「それってなんの花?」聞くと、友達は自身の浴衣をちらりと見て答えた。
「ネリネ。」「なにそれ。」「わかんない。」なんだそれ。しかしながら浴衣にその、ネリネとかいう花が描かれているのはなかなか珍しい。大体はつばきとか朝顔とか桜とかな気がする。そんなことを思いながら、夏祭り会場に向かって歩き出した。
りんご飴。焼きそば。ポテトフライ。わたあめに、ラムネに、金魚すくい、射的。そんなお店が並んでいる。混み具合と屋台の多さに圧倒されていると、いつの間にやら友達はりんご飴を手に持っていた。表面はつるつるで、光が当たるときらりと光る。透き通った赤色とまんまるの見た目はどうにも愛らしい。食べ物というより、ガラス細工みたいだと思った。そんなことを考えているといつの間にやら友達はりんご飴を食べ終えていて、いつの間にやら金魚すくいを始めていた。私もせっかくだしやるかと屋台のおっちゃんにお金を渡し、ポイと入れ物を貰う。苦戦しつつも何とか1匹すくったとき、友達の容器には2匹の赤い金魚と3匹の出目金が泳いでいた。さすがに飼いきれないということで5匹とも返したみたいだった。そのあと、ポテトフライをふたりで分け合って食べて、花火を見て解散した。りんご飴よりもずっとずっと鮮やかで真っ赤な花火が印象的だった。
「流れ星降ってる。」8月12日の夜、友達から電話がかかってきたので出てみれば、いつもより興奮している彼女の声が聞こえてきた。「外見て、たくさん降ってるから。」言われた通りにベランダに出てみれば、きらりと光るものが暗い空に溢れていた。流れ星だった。今まで、こんな量の流れ星は見たことがなくて、願い事をすることすら忘れてそれに見惚れた。友達も同じ空を見ているらしく、電話は切らないまま、沈黙が流れた。「すごい。」数分して、ようやく言葉が出てきた。友達からの返事はなかったけど、無視されたわけではないとわかった。静かに浮かんでいる月と、一瞬だけ輝き消えていく星たちが、すごく、すごく、良いと思った。「願い事はしないの?」ふいに友達がそう言った。たしかに、と答え、さあ何を願おうかと考えた。願い事はすぐに見つかった。声には出さず、心の中で空に伝えた。「何を願ったの?」「秘密。逆に君は?」「言わない。」小さな笑い声がこぼれた。私からなのか、友達からなのかは、分からないけれど。
8月16日のことだった。私は14日からおばあちゃんの家に帰省していた。掃除とかで色々忙しくて、だから、それに気が付かなかった。一段落ついて、冷たい麦茶を飲みながら休んでいた。スマホを確認して、数時間前に友達からメッセージが来ていたことに気づいた。なんだろうと思いながらトーク画面を開いた。「ありがとう」。それだけだった。たった5文字。されど5文字。意味深なそれに、心臓の動きが急速に早くなった。頭の中に波打つ心臓の音が響いていた。何かあった、と送った。たったそれだけの文字を打つのに、指が画面を滑ったりもつれたりして、かなり手間取った。既読はつかなかった。嫌な想像が私の心に黒いシミを作った。それはどんどん、広がっていった。とうとう、夜になっても返信はおろか既読すらつかなかった。早く家に帰りたかった。友達の様子を知りたかった。お母さんがそんな私を見て複雑な表情を浮かべていた。それが何を意味しているのか、私にはわからなかった。
8月17日。家に着いたのは昼の2時だった。私はすぐ隣にある友達の家のインターホンを押した。体感で10分ほど待って、ようやく、ドアが開いた。友達のお母さんが立っていた。疲れた顔をしていた。目元は赤く腫れ、髪の毛は整えられておらずボサボサだった。いつも綺麗だった人が、いつも優しく微笑んでいた人が、こんなになるってことは、私の中の嫌な想像は、確信に変わっていった。「彩織はいますか。」私が聞いたら、目の前の彼女は顔をゆがめ崩れ落ちた。嗚咽が耳に入った。私はぼんやりと突っ立っていることしかできなかった。
数分して、少しの落ち着きを取り戻した友達のお母さんは、私に白くて細長い封筒をくれた。「あの子の遺書なの。」それを聞いて、心臓が一気に地面に沈んだ気がした。私が手に持っている封筒はもはや封筒ではなく、人間の魂のように感じた。汗が吹き出した。私がこれを見て良いのか分からなくて、動くことが出来なかった。「読まなくてもいいって、あの子は言ってたけど…。」私はありがとうございますとだけ答えて家に帰った。ああ、友達の部屋でも見ておけばよかったかな。どこか遠くで考えながら、私の、クーラーの付いていない蒸し暑い部屋に戻った。
さっき貰ったばかりの封筒のふうをきった。手紙を取りだした。こんなにドクドクと心臓を鳴らしながら、けれど読もうと覚悟を決めていたのに、案外あっけないなと思った。手紙の隅っこに淡い花のイラストが描かれていた。夏祭りの時、彼女が着ていた浴衣の柄と同じに見えたので、ネリネなのかもしれない。その手紙にはシワができていた。私がいつの間にか強く握っていたのかもしれなかった。端正な文字が目に入った。
「ありがとう。」
鉛筆で書かれていた。それだけだった。あのメッセージと同じじゃないか。いや、句点があるからちょっと違うのかもしれない。あー。なんだよこれ。なんかちょっと、期待してたのに。なんだよこれ。天井を仰いだ。溢れた涙がおちてこないよう、必死に仰いだ。
ネリネの花言葉は幸せな思い出
開花時期は9ー11月